たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

2023年秋期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2023年秋期のアニメ感想総括です。今期の視聴は下記の9本。意外と多かった。

  • 葬送のフリーレン(1クール目)
  • 薬屋のひとりごと(1クール目)
  • 経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。
  • MFゴースト
  • オーバーテイク!
  • 16bitセンセーション ANOTHER LAYER
  • 新しい上司はど天然
  • 呪術廻戦(2期)
  • スパイファミリー(2期)

今期はフリーレンと薬屋の二強でした。この2作品は、2クールものでまだ最終回を迎えていませんが、クールの切れ目で前後編的に分けられる内容なので感想に加えています。

感想・考察

葬送のフリーレン(1クール目)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 敢えて行間を開け、侘しさを感じさせる、俳句のような大人の味わい
    • 時空を超えて交差する記憶と感情の、奥ゆかしさのあるエッセイのような作劇
    • 静と動の両方をキッチリ描ききるアニメーション
  • cons
    • 特になし

原作は少年サンデー連作中の漫画で、原作は山田鐘人、作画はアベツカサ。アニメ制作はマッドハウス。監督はぼざろの斎藤圭一郎。シリーズ構成・全話脚本は鈴木智尋。音楽のEvan Callは「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」なども手掛ける荘厳な作品が得意な印象である。

アニメーションの感触としてはスッキリしたルックで、どちらかと言えばリアル寄りだとは思うが、陰影なども比較的サッパリしており、キャラクターの絵はシンプルな印象を受ける。本作は静かなシーンが多く、止め絵も多用されるが、ここぞというシーンは良く動く。それがアクションだけでなく、なんとなく上着を羽織るとかそういう日常芝居で動かしてくるので侮れない。総じて、静と動のメリハリを付けた作画だと言えよう。最近、アニメーションがリッチか否かとか、リッチならいいってもんじゃないとか書くことが多いが、本作はTVアニメのコストも考慮していい塩梅な仕上げと言えるかもしれない。

美術設定は考証を重ねたものであり、背景画のタッチも心地よい。ロードムービーで移動してゆくため、通過してしまう土地や建物をデザインしても使い回せないし、膨大な量の美術設定が必要になるが、そこに妥協はない。全てのモノがそれらしい意味を持って形を成している。

フリーレン(CV種﨑敦美)はエルフで、千年以上生きている長寿キャラだが、喋りが異常に遅い。私が想像するに、ゾウが長寿で体内時計の進みがゆっくりなのと同様、フリーレンも体内時計がゆっくり進んでいるからとだと解釈している。では、フリーレン以外のキャラが早口かと言えばそうでもない。本作は全体的にゆったりした静かな芝居が多い。もちろん、芝居の速度は絵コンテの時点で計算し尽くされたものであり、シリーズを通して一貫している。

前置きが長くなったが、本作の物語やテーマについて触れてゆこう。

物語としては、これまで人間に興味を持てなかったフリーレンが人間(主にヒンメル)を知ろうとする物語が軸になっている。フリーレンが他人と深く関わらないのは、人間の寿命が短すぎて、すぐに死別してしまうからだろう。

フリーレンは、集落が魔族に襲われ孤児となったところをフランメに拾われた。生き延びる処世術として普段から魔力を外に出さずに不意打ちするスタイルを叩き込まれる。フランメの死後、魔力を封印したまま千年が過ぎ、ヒンメルに仲間として誘われて魔王を討伐した。心を許した人は限りなく少なく、次にヒンメルに拾われるまでの間も孤独に生きていたのだろう。しかしながら、エルフにも家族や愛情は必要であろうし、それなしで生きるというのは、いささかハードボイルドが過ぎる。

ヒンメル達との魔王討伐の旅は、人間なら喜怒哀楽諸々の感情が刺激されてしかるべきであろうが、フリーレンが持つ心のバリアゆえにコンクリートの無表情を崩さない。劇中では、ヒンメルからフリーレンへの異性愛を匂わせていたし、晩年まで独身を貫いていたが、もちろんフリーレンには通じない。そして、月日が経過してヒンメルの葬式で、フリーレンは何故だか涙が溢れてきて「もっと人間を知りたい」という気持ちになった。

おそらくフリーレンはヒンメルのその気持ちに向き合い、なんらかの回答を返すべきだったのだろう。その言葉は「ありがとう」だったかもしれないし、「ごめんなさい」だったかもしれない。意思疎通できなかった後悔が、天国のヒンメルと会話するための旅にフリーレンをいざなう。旅の仲間は、うぶで真面目な魔法使いのフェルン、自信を失くした勇者のシュタルク、あとはチョイ悪オヤジ僧侶のザイン。魔王討伐の旅路の追想となる旅で、フリーレンは過去からのメッセージを拾い集めながら、ヒンメルの気持ちに寄り添いに行く、という感じか。

ある日入手した情報により、記憶の中の当事者の分からなかった感情が理解できたり、行動の意味が変わってしまう事があるが、本作にはこうしたエピソードが多い。フリーレンの場合、適当に選んだ指輪をヒンメルに買ってもらった記憶があり、シュタルクがフェルンに同じ意匠のブレスレットを贈った事実があり、ザインからその意匠の「鏡蓮華」の意味が久遠の愛である事を伝えられ、あのときのヒンメルはプロポーズだった可能性を理解するとか。この辺りの記憶のピタゴラスイッチの仕掛けが凝っている。

またその前提として、本作の作劇はキャラクターに対して奥ゆかしさがある。AさんがBさんを好きだとして、ストレートに好きと言ったらおしまいなのである。好きと言えない状況で別の言葉を使って好きを表現するが、その好きが伝わらなかったりする。その伝わらなさが本作の肝である。それは、SNSで気持ちをぶちまける令和時代とは真逆の奥ゆかしさなのかもしれない。だから、本作に懐かしさを感じるのかもしれない。

本作はあまり白黒はっきりつけず、行間をたっぷり設け、侘しさを味わう作風と考える。もっと言えば、俳句のような味わいである。ただ、こうした作風の作品は近年少なくなっていたと思う。

本作の人気の高さを考えると、この作風は令和時代にもウケていると考えてよいだろう。しかも、若者も見ているということなので、年寄り専用というわけでもない。それは、先のSNS時代のエンタメの反動とも言えるかもしれない。個人的にはこうした作風は大歓迎なので、もっとこうした作品が増えてくれればとも思う。

薬屋のひとりごと(1クール目)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • シリアスな推理物、猫猫⇔壬氏のコメディ、女性中心の時代劇など色んな要素をイイ感じに融合したカラフルさ
  • cons
    • 特になし

大雑把に言えば、世界観は中国風歴史物で、中身は探偵ミステリー。ホームズ役が後宮で働く侍女の猫猫(まおまお)、ワトソン役が壬氏(じんし)と捉えるとキャラ配置が分かりやすい(ワトソン役と言うには、ちょっと無理があるかもしれないが)。後宮と花街という表と裏の女性社会の光と影のドラマがあり事件がある。猫猫は優れた洞察力と薬学知識で事件の謎を紐解く。こう書くと、本作が本格ミステリー物みたいに思われるかもしれないが、猫猫の薬物オタクゆえの奇行や猫猫⇔壬氏とのコメディ要素も多く、気楽なテイストで入って行ける。

日向夏先生のライトノベルがあり、キャラクター原案しのとうこ先生、作画ねこくらげ先生のコミカライズからのアニメ化である。アニメ制作は、TOHO animation STUDIOとOLM。監督、シリーズ構成は「魔法使いの嫁」の長沼範裕。脚本は柿原優子、千葉美鈴、小川ひとみ、彩奈ゆにこの4名体制で、女性っぽさの強みを生かした作風となっている。

主人公の猫猫は後宮の17歳の下級女官のそばかす少女だが、もともと後宮の裏にある花街の薬師で、異様なまでに薬や毒に関心が強く、死なない程度に自ら毒を試して快楽にひたっていたという妙な性癖がある。梨花(りふぁ)妃の事件の謎を解いたことから壬氏に目を付けられ、玉葉(ぎょくよう)妃の侍女の仕事に移動して、壬氏の知恵袋的に活用される。

猫猫の面白さの一つは心の声として本音を喋ってくれるところにある。例えば、身分が低い相手の依頼に断れるはずもないと嫌味を言ったり、後宮内に生えている薬草を見つけては歓喜の声をあげたり、という具合である。もともと身分も低く、分相応に波風立てず目立たぬように振舞うポリシーなので外に出す口数は少ないが、心の中の本音は饒舌である。こういうときは二頭身キャラになったり、内面の可愛さ可笑しさがキッチリ視聴者に伝わる演出になっている。

また、無知ゆえに梨花妃を死なせかけた侍女に、普段は感情を表に出さない猫猫が大声で食ってかかるシーンがあり、その迫力に驚いた。助けられる命を粗末にする事に対する怒りである。この辺りは、CV悠木碧の演技力の幅に唸らされる。

こうした正義感とは別に、憶測で当事者の事情さえも見透かしてしまうため、敢えて未解決事件のままとしてしまう事もあった。憶測でモノを言ってはいけないのである。真実を暴かないことが救いになるという優しさである。

猫猫は基本的に群れたりせず一匹狼であり、そこはハードボイルド要素でもある。自身の出生についても謎である。そばかすも花街時代から女子力をワザと落とすためにやっている事で、そばかすを落とし化粧をすると見違える。養父は元宦官だったりで、どこかの妃の娘である可能性があったりする。

壬氏は後宮を管理する宦官なのだが、美女のようなイケメンで後宮の女子に人気がある。猫猫を知恵袋として使いはじめ、事件の調査に派遣したりする。壬氏が徐々に猫猫がお気に入り(片想い)になってゆく流れだが、猫猫からは毎回つれなくあしらわれる。この、壬氏→猫猫の一方通行のやり取りもまた、コメディとしての見どころとなっている。

事件により猫猫を解雇するか否かで猫猫に(嫌われないために)真摯に向き合おうとするシリアスな芝居と、その後に宴会の席で猫猫と再開したときの嬉しさからくる粘着質な芝居のギャップが可笑しい。

こちらも出生に関しての謎があり、途中で後宮を去った阿多(あーどぅお)妃と容姿が似ている。猫猫の憶測では、阿多妃が自分の子供と皇后の子をすり替え、その後に蜂蜜で亡くなった子供は皇后の子という可能性を示唆していた。ただ、ここは私の妄想だが、容姿が似ているなら阿多妃の息子が壬氏という疑惑が出てもよさそうなものだが……。

後宮も花街も「花園」であり「鳥籠」。因果を背負い、縛られた女性の悲哀があり、行きつく先に事件が起きるというシリアスなドラマが軸にある。そこに猫猫⇔壬氏のラブコメや二頭身キャラのライト感覚をラッピングした作風になっている。女性キャラ不在の劇にならぬためだと思うが、女性脚本家たちによる、重くなり過ぎない明るめで芯のあるシナリオも上手くできている。

最期になってしまったが、アニメーションのルックとしては、少女漫画寄りで分かりやすいキャラクターデザインをしており、作画も綺麗で芝居も丁寧でクオリティは十分以上。衣装は上級王妃は派手で複雑だが下女や男性の服装はシンプルなデザインで、色つかいはややビビット寄りだがキャラの属性などで設計されていて見やすい。背景美術は、後宮の広大な空間や建造物を感じさせたり、季節を丁寧に切り取ったりが上手い。総じて、こうした設定的な設計は良く出来ていたと思う。そして演出面では、推理中や何かヒントに気付くシーンは、その意図が誤解なく通じるように絵コンテや劇伴が作り込まれており、ミステリー物として基本を押さえた丁寧な演出だった点も評価したい。

ただ、事件の因果関係の説明が割と複雑で各話に小事件が散っていたところもあり、全体像が掴み切れずに後で観なおした部分もあった。この辺りは、私が漢語のキャラ名だと暗記が苦手というところもあったと思う。

総じて、推理物とコメディと女性中心の時代劇をイイ感じで融合させつつ、それぞれの要素が粗末になっていないところはお見事。演出も推理物のセオリーを守りつつ、コメディ多めで楽しさも詰め込む。色んな要素が割と素のまま入って美味しい作品だと思う。

経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • ベタ過ぎる王道のラブコメだが、不思議と胸やけはしない(個人の感想)
    • 嫌味のなく月愛(ノア)の可愛さを描く脚本
  • cons
    • アニメーション映像としては非リッチ

略所は「キミゼロ」。原作は長岡マキ子先生によるライトノベルのラブコメ。アニメーション制作はENGI。監督は大庭秀昭で、シリーズ構成は福田裕子が務める。

本作は、陽キャでギャルの月愛(ルナ)と陰キャのオタク男子の龍斗(リュウト)の考え方や価値観の違う二人が、恋人として付き合い始めお互いを大切にし大好きになってゆく過程を描く、ベタ過ぎるほどのラブコメである。

世間的な評価は高くない方だと思うが、個人的には脚本が丁寧で私好みだった。恋愛の綺麗なところをイイ感じでドラマに落とし込んできていると思う。

かく言う私も、低予算アニメという先入観で観ていたため、期待せずに1話を見ていたのだが、ラストのシーンで主人公の月愛の内面の素朴さからくる屈託のない可愛さが描けていてウルっと来てしまった。もしかしたら1話だけのまぐれかもしれないと思いつつ2話を見て、この脚本の丁寧さに確信が持てた。

こう言ってはなんだが、本作はアニメーションとしてはリッチとは言えない。夕方のデートの帰り道で二人以外誰も歩いていないとか、突然スポーツカーが1台だけ走ってくるとか、もう少しなんとかならんかと思うシーンも無くはない。がしかし、これも主題以外はバッサリ割り切るという潔いディレクションに思えた。つまり、このシーンなら二人の会話や気持ちに集中するために、敢えて他にノイズになる要素を描かない。もちろん、コスト面でも有利というのも大きな理由であろう。

とりあえず、本作のあらすじと良かった点について。

龍斗が奥手で女子に慣れていないのは良くある設定であろう。月愛の素直な可愛さは誰もが認めるところではあるが、こと恋愛関係に関しては来る男子を拒まず付き合い、肉体関係含めて男子に尽くし2か月以内に飽きられて捨てられる、というのを繰り返しており、これはこれで問題のあるキャラ設定である。平たく言えば、恋人は大勢いたが恋愛を知らずに生きてきた。

1話の最後で、とりあえず恋人になった龍斗が月愛とのエッチのチャンスを逃した事で、プラトニックな恋愛から始める事になる。実際には龍斗はエッチに未練があったのに、エッチは月愛がエッチしたくなってからでいいと言ってしまう。月愛は紳士的な龍斗の対応に、恋人として大切にされている事を感じ嬉しくなる。この時の月愛が嫌味なく可愛い。

その後のお付き合いも、プレゼントやデートを通じて少しづつ恋愛を育んでゆく。途中で海愛(マリア)が登場して三角関係的な紆余曲折やすれ違いがあるものの、ホンモノの「好き」を確かなものにしてゆく。

物語の途中で月愛は、龍斗がデートで体験する「初めて」を喜びつつも、色々と経験済みな月愛自身の「初めて」を龍斗に提供できない事を悲しみ、お祭りのデート中に泣き出してしまう。私は、この感性は持ち合わせていなかったので驚くと同時に、女子を可愛く描くのが上手い脚本だと感じた。

もっとも、この気持ちについては最終話のラストで親友の笑琉(ニコル)から「月愛にとっての初めての恋」だと告げられて、「私でもリュートにあげられる「初めて」があったんだ」の台詞で〆られる。上出来である。

他で粗さを感じない事もないが、この辺りの月愛の心情の描き方が上手く、ここはシリーズ構成と脚本の福田裕子さんの功績が大きいのではないかと想像する。

ちなみに、全話放送後の原作者の長岡マキ子先生のアニメスタッフに対する謝辞のツイートを下記に引用させていただく。途中に、原作者とシリーズ構成が意気投合という記載もあり、納得しかない。

と、ここまで女子っぽさが描けている脚本の良さを語ってきたが、あくまでベタなラブコメの範疇の作品なので、そこが楽しめない人は全くフックがない作品になってしまうだろう。

小説であれば文章表現や文体で伝えるところを映像に置換してこそのアニメーションであるが、昨今のリッチすぎるTVアニメーションだけがもてはやされる状況というのも、何か違うような気がする。作品のコアとも言える文芸面で輝きを感じた作品であれば、そこをキチンと評価したい。

MFゴースト

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 頭文字D」から継承する熱きレースバトルの楽しさ
    • その上、万人受けするように徹底的に「頭文字D」のネガ要素を潰して改善している
  • cons

言わずと知れた「頭文字D」の世界で繰り広げられる次世代のレースバトル。時代に合わせて設定が色々と今風にアップデートされている。ただ題名が変わっただけの作品じゃなく、従来の頭文字Dのエンタメ作品としての欠点がイチイチ改善されているので、まずはその点について説明する。

頭文字Dは、タイマン峠バトルゆえに、物語が単調でワンパターンになりやすい。また、ライバルキャラも順番に登場するため、群像劇のようなドラマの幅は出しにくいという欠点があった。

そこで、本作ではタイマンの峠バトルから、公道をクローズドコースにしての合法レースに設定が変わった。もともと峠バトルは違法な危険行為なので、これは今風のディレクションであろう。しかも、箱根、小田原の道路をニュルブルクリンクのような全長40kmのクローズドなロングコースとして周回させるというスケールの大きさにロマンがある。私などは神奈川県在住なので、実際にドライブして見覚えがある道路で次々とバトルが繰り広げられるだけでテンションが上がる。そして、ロングコースを複数の特徴あるセクターに分割して周回させることで、バトルの見せ場やポイントを分かりやすくしつつ、緩急をつけ飽きさせない作りになっている。

各車両の位置は個別にドローンが追跡して運営が把握するため、レース中の先行車や後続車との差をリアルタイムに秒単位で観測できる。セコンドブースでは車両情報もモニタリングしながら必要な情報を通話でドライバーにインプットする、という仕組みである。例えば、夏向のハチロクは非力のためダウンヒルでスピードを稼いでも、その後のストレートで追い抜かれる。その辺りの駆け引きも、先行車や後続車と何秒差という表現で分かりやすく工夫している。

キャラクターについても、神フィフティーンと呼ばれる上位ランカーを登場させ、先頭、第2、第3グループと並行してバトルを描くことで群像劇を展開しやすくなっている。頭文字Dはタイマンバトルゆえにドラマ運びは単調になりがちだったが、これで飽きさせず各キャラに無駄なくスポットライトを当てられる。

また、ヒロインである恋の視点を多く描く事も特徴である。恋から見る夏向への恋心はラブコメ的なにぎやかし要素でもあり、MFGエンジェルスとしてバイトする際の恥じらいや同僚との会話など、女性客にも共感しやすい要素を取り入れてきている。

このような改善点は原作漫画時点で綿密に計算されたものだろうが、ことごとくアニメとしてもプラスの追い風になっている。

次にアニメーションとしての出来について。

キャラ作画は丁寧で破綻することがない。この辺りはキャラクターデザインの恩田尚之作画監督の力量が伺えるところである。

もちろん、本作の肝である3DCGで描かれるレースバトルのカッコ良さは健在である。1回のレースでタイヤのグリップを100%使い切るという戦略をアニメーション映像で説得力を持って描けている。スタート直後にタイヤを温めるためにわざとテールスライドしたり、終盤のグリップが無くなってきた相葉のGT-Rの挙動が不安定になるなど、台詞による補足説明はあるが、絵自体でその事を分からせる。また、ときおりボンネット内のエンジンが咆哮するカットとか、サスペンションがストロークして有効に働いているカットとか挿入されるのも良い。こういう地道さが映像の出来の良さに繋がる。レースバトルの映像化については、すでに円熟の域に達していると言えよう。

レース中の芝居だが、クールな夏向(CV内田雄馬)に対しセコンド役の緒方(CV畠中祐)がいい味を出している。緒方は視聴者視点で夏向の凄さに付き合ってゆく事になるので、緒方の驚きや喜び、非力な車両に対するハンデキャップの辛さを生で伝えるための演技力が重要になる。また、ヒロインの恋には実力派声優の佐倉綾音を起用しているが、恋の位置づけ、芝居の多さからすると納得のキャスティングである。

本作の物語は、性能の劣る車両が無双して高価な高性能車に勝ち進んでゆくという、王道中の王道展開である。そして、そのカギとなる夏向の卓越した能力の秘密が徐々にあらわになってゆく流れや、きちんとロジックあるバトルの模様など、ストーリー作りも綿密である。また、謎めいた「グリップウェイトレシオ」のレギュレーションの意味も断片的には夏向の台詞でヒントは提示されてはいるが、まだまだ謎に包まれている。原作漫画は2023年10月時点で既刊18巻だが、アニメ1期は5巻までとストックもまだ多く、物語序盤という感じであるため先が楽しみである。

音楽は、頭文字Dの新劇場版からの続投となる土橋安騎夫ユーロビート主体を踏襲するが、流石に古く今風ではないと思うので、脱ユーロビートしても良かったと思う。

総じて、頭文字Dから継承する熱きレースバトルのドラマ、初心者にも何が起きているか分かりやすい表現力、夏向と恋のラブコメ要素を入れるなど隙がなく、ハッピーでより万人が楽しめるエンタメ作品に仕上がっていたと思う。

オーバーテイク!

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • あおきえい監督によるエモエモ演出な人間ドラマ
    • 軽快な青春ドラマと、重厚で挑戦的な震災テーマの共存
  • cons
    • 重箱の隅なのだが、個人的に一部に作劇優先の強引さを感じてしまったこと

F4レースを舞台に弱小チームの若きレーサー朝雛遥と、偶然関わったフォトグラファ眞賀孝哉の交流を軸に描かれる人間ドラマ。ベースのテイストはコミカルで軽快な芝居だが、肝心なシリアスな部分では右ストレートのようなパンチ力のある重厚な芝居を入れてくる。今期の話題作である。

制作はTROYCA、監督のあおきえいはエモさに定評がある。オリジナルアニメで原作はKADOKAWAとTROYCA。シリーズ構成はアイドリッシュセブンの関根アユミ、スーパーバイザーに高山カツヒコで、脚本も基本2名体制だが一部の話はあおきえいが連名となっている。

まず、本作はアニメーションとしての出来が良い。志村貴子原案のシャープなキャラクターデザインをアニメ映えする形に落とし込み、作画も綺麗。車両やコースは3DCGで描かれるが、グッと車両に回り込んで寄るといった3DCGならではのカメラワークだけでなく、レース中継などで馴染みのある望遠レンズで撮影したような映像やパドックなどの自然でリアリティを感じるシーンなども多く活用されている。つまり、迫力とリアリティの両面から絵作りされており、それが目立ちすぎることなく適切なディレクションで使われているという意味で、かなり好感触である。

一般人にはなじみの薄いF4レースの世界だが、詳細かつ分かりやすく描かれ、F4の現場の雰囲気や緊迫感が伝わってくるような映像の仕上がりはお見事。

さて、本作のドラマについてだが、若手ドライバーの熱き戦いのドラマだけでなく、考哉の震災のトラウマの乗り越えがあり、後者の方がメインになっていると感じた。

東日本大震災津波の直前、ファインダー越しに死の絶望の目をした少女の目を見てしまい、それ以降人物写真が撮れなくなってしまった考哉。その回復の原動力になったのが、試合に負けて悔し泣きしている遥の泣き顔を後ろから撮影できてしまったことをキッカケとなり遥を応援し始める。そして、誰かを応援する事で自分自身も鼓舞され前に進める、というロジックである。

個人的に、この「応援する」ことが自分を救う、というのは良く分かる。以前は、推し活で再現なく課金する気持ちは分らないと思っていたが、最近とあるVtuberにハマって推し活的な応援をしていた。具体的には、配信を見てコメントを書き投げ銭をしたり、X(旧Twitter)をリポスト+いいね+返信する。さらにハマればグッズ購入などにエスカレートしてゆくのであろう。兎にも角にも、相手を部分的にでも支えている実感が推し活の原動力になっていて、応援する側もそれで幸福感に浸れるのだと思う。つまり、考哉は遥を推し活する事で、考哉自信に幸福感を与え、トラウマの傷を癒しゆくのである。見過ごされがちだが、「推し活」が壊れたメンタルを治癒するという観点は、なかなか新しい切り口だと感じた。

個人的に好きなのは6話。レースという舞台では一つ間違えば命を失う事もある。天候が不安定なレース当日、考哉は事故死を恐れてレインタイヤを勧めたが、遥はスリックタイヤでレースで賭けに出る。序盤は晴れ間にも恵まれ好調だったが、天気は突然土砂降りに。冷静さを失いかける遥だったが、考哉の助言が頭をよぎり慎重にペースダウンする。しかし、直後に早月が接触事故を起こし重症を負う。ファインダー越しにコックピットの早月を覗いた考哉には、早月にあの日の少女の目がダブって見えた(幻影が見えた)。考哉は遥の命を救ったが、考哉自身はまた人物写真が撮れなくなった、という流れである。この話は、レースとドラマのスリリングな展開の末に救えるはずの命が救えた安堵感が良かったのだが、最後の最後で早月の事故で考哉のトラウマが再発するというパンチ力もあり、観ている私も相当心揺さぶられた。

本作で一番エモかったのは、やはり9話であろう。疾走した考哉は福島に来ていた。追いかけてきた遥は考哉が人物写真が撮れなくなった本当の原因に知る。考哉は、震災直前に親しくしていた正三(前述の少女の祖父)の余命がない事を知り、病院に面会に来たのだが、そこで正三が持っていたスマホに写る正三と少女と考哉の笑顔の写真を見せられ「これからも一杯撮れ」と告げられる。そして、正三は後日息を引き取る。物語的には、罪を背負い続けていた考哉は、少女の遺族である正三のの言葉と写真の中の笑顔に救われた、という流れである。これは、考哉が再浮上するために必要な、足枷を外す儀式だったと考えてよいだろう。

最終回の12話では、人物写真が撮れなかった考哉が、F4の試合で優勝した遥や故障からの復帰戦で2位を勝ち取った早月たちの笑顔を自然に撮影できた、というところで〆る。

TVシリーズのオリジナルアニメとしては、かなり震災からの復帰という重厚なテーマを扱っており、そのチャレンジング精神には拍手を送りたい。

しかしながら、個人的に感じたネガ意見をいくつかあり、最後にその辺りに触れておく。

1つは、考哉のトラウマが12話で解消する流れの脚本だが、考哉の心に寄り添うよりも、作劇を優先してしまっている感じがしたこと。

1話から遥たちを撮影する事で徐々に復活してきた考哉だが、6話で再び早月の死線を覗いて人物撮影できなくなった。12話で笑顔を撮影できたとしても、そのうちまた誰かの死線を覗いてしまったら考哉はトラウマに悩まされるだろう。一度壊れた心は、壊れる前の健康な状態に戻る事はなく、大切に扱ってゆくしかないのだと思う。その意味で、少しづつ小さな笑顔から撮れてゆくという地味なエンドでも良かったのではないか。

もちろん、遥の優勝は超嬉しい出来事だし、正三の言葉が約束として考哉の背中を後押ししていたことも理解する。 しかし、考哉は以前も一度人物写真が撮れるようになったが、メンタル的にキツい状況に出くわして再び撮れなくなった経緯がある。それを考えると、ふたたび人物写真が撮れたとぐらいで考哉の問題が解決したとは言えない気がする。もちろん、大団円のハッピーエンドありきの作劇で〆たい気持ちは分らなくもないが、その意味で〆方が文芸的に真摯でない気がした。

何故こんな神経質になっているのかと言うと、テーマが震災だから。震災というテーマがあまりに重すぎて、真摯にキャラに寄り添って欲しいという私の願望と、作劇的な後味の良さを天秤にかけて、後者が優先された事が違和感に感じているのだと自己分析している。

この辺りは、あおきえい監督の意向が強いのだろうと考える。もともとコミカル主体でありながら、ドラマ部分は剛速球を投げ込むエモエモの作風が得意な監督だと思う。強いドラマ(≒演出)が得意で作劇優先する傾向があるため、物語(≒脚本)に皺寄せが来ているのではないか、と妄想している。

もう1つは、人死にを見てメンタル病んでいる36歳中年男性に、17歳の男子高校生がそこまで馴れ馴れしく近づけるのか?という部分。

個人的に遥の考哉に対するマインドが掴みにくい。推し活で例えれば、遥が地下アイドル、考哉が熱心なファンという構図であろう。考哉はスポンサーを貢いで小牧モータースの活動に大きく貢献したし、一緒に活動するという仲間でもあった。とはいえ、熱心なファンが疾走したとして、36歳の中年男性の留守宅に侵入したり旅先まで追いかけたりを、17歳の男子高校生がするのだろうか。遥が大人ならまだ話はわかるのだが、17歳の男子高校生の遥にそこまで考哉の人生を背負い込ませなくたくない気がした。

もちろん、互いの信頼関係があれば理不尽でもないのは理解するが、その距離感はエモさ優先のBL風味的な味付けに使われているのではないか、という意地悪な見方もできなくはない。つまらない事を言えば、このケースなら事件に巻き込まれるリスクも考慮して警察に任せるべき案件のように思う。

ちなみに、福島に押しかけて来て考哉と行動を共にした遥は、考哉に偉そうな助言をするでもなく、傍に寄り添って行動していたところについては、非常に良いと感じた。問題を抱えた人間は、ただ信頼できる人が傍にいてくれるだけで救いになると思う。

ネガ意見を2つほど書いたが、これらはキャラの心情や一般的な対処方法よりも、作劇のエモさを優先した部分であろう事は理解するし、実際に私自身もエモさに痺れた。物語には気まぐれという要因もあるから、偶然そうなったという展開なら許せるのだが、作劇優先が鼻に着くと急に冷めてしまのは私の悪い癖である。多くの人は重箱の隅をつつくような話をしているという自覚もある。その意味で文芸以外に非の打ちどころはないが、文芸面で満点は付けられない、というのが私の感想である。

16bitセンセーション ANOTHER LAYER

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 懐古ネタアニメと思いきや、サクセスストーリー、タイムリープ、近未来SF、純愛などごった煮感ある挑戦的な物語
    • クリエイター賛歌という通底するテーマ
  • cons
    • 逆説的になるが、人によっては個々の物語の詰めが甘く、取っ散らかっているだけに感じるかも

原作漫画は同人誌発で商業版の単行本も発行されており、原案はみつみ美里甘露樹、作画は若木民喜となっている。本作はその原作漫画の設定を活用しつつ、原作にはない主人公やタイムリープ設定などを大幅に追加した物語となっている。シリーズ構成にあたる役割だと思われる「アナザーレイヤー・メインストーリー」は若木民喜高橋龍也。脚本は高橋龍也雑破業東出祐一郎森瀬繚大槻涼樹の5名でみなゲームライターとしての経験を持つ。

タイムリープで過去の秋葉原に移動したコノハが当時の黎明期のゲームメーカーでゲーム作り体験してゆく、過去の秋葉原や開発環境やゲーム業界を詳細に描く古のオタク向け歴史アニメかと思いきや、サクセスストーリーや、タイムリープの未来改変、創作についての哲学的なテーマ、近未来SFアクション、時代を超えた純愛などの、ごった煮で進行し、最後の最期で中年?と美少女の恋愛のTRUE ENDで〆るという美少女ゲーム賛歌なシリーズ構成だった。

私もマイコンと呼ばれる時代からのコンピューターに興味を持って関わってきた古のオタクなので、過去のコンピューター周りのあるあるネタで喜んだ。16ビット色の画像作りのノウハウや、フロッピーディスクが出て着るだけで懐かしさがこみ上げる。ただ、1話2話時点ではこの懐古ネタに終始していたので、この調子だと物語が軽薄になり過ぎると感じたが、結果的にそれは杞憂だった。

個人的には8話の1985年の守とエコーの回が、哲学的なテーマを持っていて好きである。これは10話11話のAIが生産性を向上させたとしてもそれだけでは凡作しかならず、情熱があってこそ名作が生まれるという後半の流れに直結している。その意味ではクリエイター賛歌というか、2023年のAI生成物に対する温度感を作劇に上手く取り込んでいたと思う。本作はたまたま美少女ゲームの黎明期から衰退までの歴史を描いていたが、このクリエイター賛歌というテーマはどのようなジャンルのクリエイターにも響くのものであろう。

そして、美少女ゲームと言えば、純愛が報われたり報われなかったりで終わる。その文法にならって本作でも最後は、美少女のコノハとナイスミドルとなった守の年の差カップルの純愛に結論を出す形である。男性キャラが、美少女ゲーム黎明期を体験したナイスミドル世代というのが、高齢視聴者層にミートした設定に思う。

繰り返しになるが、文芸面ではごった煮感が強く、個々のエピソードも駆け足気味ではあったが、通底するクリエイター賛歌としてのテーゼもあり、御膳のお弁当のようにカラフルな物語も楽しめた。とは言え、人によっては個々の物語の詰めが甘く、取っ散らかっていたという感想もあるだろう。

設定については、前半の秋葉原の考証は徹底していた点は執念すら感じた。ゲームのタイトルやパッケージは肝だけにオリジナルを使う徹底ぶりである。しかし、その反動と言ってはなんだが近未来設定の水槽内の奴隷クリエイターの辺りは、どうしても雑な印象になってしまう点は惜しい。アニメーションとしてのビジュアルの出来は平均点といったところ。

声の芝居だが、コノハ(CV古賀葵)の声が作中でもハイテンションでキンキンのアニメ声、アニメ芝居を徹底していたのが印象的である。他のキャラクターはもう少しナチュラル寄りの芝居のため、一人だけ浮いていて違和感すら感じた。正直、この芝居の意図は良くは分からなかったのだが、このクセ強のアイデンティティのおかげで、世界観がどんどん変わって行く流れの中にあってコノハの声と芝居をみるだけで妙な安心感を感じられた。もしかしたら、そうした狙いがあったのかもしれない。

総じて、アクロバティックにいくつかの物語を継ぎ足した構成により、先の展開が読めずに振り回されていたところもあったが、個人的にはこれらの超展開も楽しめた。このごった煮展開の部分で作品の好き嫌いは分れる作品に思う。

新しい上司はど天然

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 緩くて優しくて微笑ましい、癒しのコメディ
    • BL味はあるが、1クールを通して切なさも感じさせる上品な文芸
  • cons
    • 特になし

いちかわ暖先生のX(旧)Twitter発のWeb連載漫画のアニメ化。制作はA1-PICTURE、監督は阿部記之、シリーズ構成は横谷昌宏。

パワハラ被害でメンタルを壊した桃瀬が、転職先の会社で優しくて天然ボケなところもある上司の白崎に癒されてゆく緩いコメディ。その他に、かまちょの青山課長、同じくパワハラ被害で後から転職してきた金城の4人がメインキャラ。全員イケメンでBL味はあるが、あくまで匂わせレベルなので気軽に楽しめる。

とは言え、桃瀬自体はパワハラの傷が完治したとは言えない状況で、ときおり前の会社のパワハラ上司の陰に怯えていたりするところは生々しくもあり、物語やドラマの中盤の推進力になっている。

ギャグは緩めで白崎の天然を見ては桃瀬が癒されていく流れであるが、桃瀬と白崎の繊細な感情のドラマも描かれており、文芸的にも悪くない。

桃瀬はそんな白崎を小馬鹿にすることもなく、白崎は桃瀬を会社の駒としてではなく、一人の人間の成長を促す部下思いの理想の上司の振る舞いであり、会社における理想の人間関係に視聴者は心地よさを感じる。

とくに白崎は前の会社のパワハラ上司から桃瀬を守ったり、男気のある頼もしさもある。その勢いで、桃瀬は白崎のマンションに同居し始める。しかし、桃瀬は白崎に甘えてばかりもおれず、自分で部屋を探さねばという気持ちと、白崎との生活の心地良さの間の葛藤のドラマもある。この気持ちは白崎も同様で、うまく言葉を交わせないもどかしさが切ない。1クールとしてはイイ感じにオチがついて終わりも綺麗だった。

BL味と書いてしまうとアレだが、要は同性愛のエンタメが好みな層、寛容な層、拒絶ぎみな層と色々とあると思うが、明示的にせずに「匂わせ」に留める事でBL味をフックにして広範囲の視聴者層を取り込む潮流なので、明確にBLか否かを議論する気はない。しかし、本作のパワハラ被害者と癒しというテーマにおいては、男女関係や女女関係よりも、より男男関係の方が適切に思うし、設定的に強引だとも思わない。

派手に動く作風ではないとは言え、作画面は安定。ゆっくりめのテンポで芝居を回して癒しのギャグのジャブを撃ちつつ、かけるべきところではストレスを与えて緩急をつける的確な演出。激しさはないが、癒されつつも、ちょっといい感じも味わえる良作だったと思う。

呪術廻戦(2期)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 芝居のカッコ良さ(脚本、演出、レイアウト、声の演技などなど)を極めて映像スタイル
    • 苦すぎる、救いのない物語
  • cons
    • キャラや設定が多すぎて覚えきれず、怒涛のアクションで気圧されるので、毎回「呪術疲れ」になる

2期は「懐玉・玉折」「渋谷事変」の2編で、前者が前期譚、後者が1期の続きという構成である。

「懐玉・玉折」は、五条悟と夏油傑の高専時代を描くが、爽やかな青春ドラマということもなく、いつも通りの救いのない苦みと、アクションのカッコ良さを極めてゆく作風である。「渋谷事変」は新宿で五条悟が封印され、呪術師や呪霊のオールスター大乱闘の上、多くの主要キャラが容赦なく死に、日本の首都機能が消失して大混乱に陥るというスケールの大きな物語。テイストは前者と全く同様で、そこに全くブレはない。

アクション中心に語られがちだが、脚本、演出、レイアウト、声の演技も含めて、芝居の良さが光る。例えば、七海の最期のシーンは、渋谷の地下鉄ホームで無数の改造人間と戦う七海だが、七海の脳内では爽やかなマレーシアの海岸で疲れを癒すような映像が流れているが、実際の現場は血の海の地獄である。そして、最後に「虎杖君、後は頼みます」という台詞の直後に真人に殺される。七海(CV津田健次郎)の声も、劇伴も、脳内と現実の交互に入れ替わる映像も、レイアウトもカット割りも、すべたがカッコいい。これはほんの一例だが、こうした物語に救いは無いのにカッコいい芝居が積み重なって出来ているのが、本作の凄みだと思う。

息つく暇もないアクションだが、各キャラの背負っているモノや術の設定などは細かく考え込まれており、設定や因果関係の作り込みが半端ない。とはいえ、キャラや設定が多すぎてストロボ的に登場するので、そのキャラのバックボーンや前回の行動を覚えきれずに、目の前の圧倒的な映像に押し流されてしまう。私は全体の物語がどう流れてゆくなというのを着目するタイプなので、本作のようにジェットコースターに乗せられているような作風だと、深く味わえなくて勿体なく思ってしまう。

視聴後は毎回、ドッと疲れてしまうので、これを「呪術疲れ」と命名したい。

このような作品の情報量が多すぎて把握しきれないというのは悔しくもあるが、今の若年層は楽しめているのだろうか。もしくは、ただ私自身が老けただけ、という事なのかもしれない。

スパイファミリー(2期)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • すでに名探偵コナンのような長寿コンテンツ化した、鉄板の安心感
    • 相変わらず、非の打ちどころがないリッチなアニメーション
  • cons
    • 大人向けのエモいドラマはもう期待できそうにない

実は2期はスタッフィングに変更があった。監督は1期の古橋一浩に、2期から原田孝宏が加わった。シリーズ構成は監督兼任だった古橋一浩から大御所の大河内一楼となり、副シリーズ構成に1期で脚本を担当していた谷村大四郎、久尾歩。谷村は豪華客船編の脚本担当を中心に構成したと思われるし、大河内は劇場版の脚本との繋がりを意識しての配置だったのかもしれない。

毎回繰り返しになるが、アニメーション的なクオリティはリッチで非の打ち所がない。ヨルのアクションシーンなどアニメ絵なのに重さや痛みが伝わってくる生の感覚が味わえる。おそらく、時代設定もあり、生身っぽいアクションで仕立たてるディレクションなのであろう。こういうアクションは原画だけでなく動画も重要だが、この滑らかさは映画並みのクオリティである。

1期当初はシリアスなドラマも行けそうな雰囲気があったが途中からすぐにお子様ウケする路線にドップリ浸かっていた感覚であった。2期は1期の延長線上のライトな感覚で始まりつつ、冷戦時代の社会の厳しさもドラマに組み込みつつ、5話かけて豪華客船のヨルのドラマをメインに添えたり、シリアス要素にテコ入れした手触りがあった。おそらく、劇場版とのブリッジとしての構成なのだろう。などとと言いつつ、最後の37話では大型犬のボンドのコメディでお口直しをして2期を〆るところは、なかなか憎い構成である。

2期はヨルの活躍にスポットが当たっていたと思う。ヨルは豪華客船での亡命者保護の任務の途中、フォージャー家を考えて気持ちが浮ついていた。しかし、任務の途中でふっきれて、家族を守るために任務に徹するという心境の変化があった。これはある意味、与えられたいから与えたいに変化したとも言えるし、フォージャー家に対して「恋」から「愛」にシフトしたとも言える。ヨルにとって家族がより大事なモノになったという事で、そろそろロイドの家族愛も描いてほしいところである。

それはともかく、相変わらず物語的な進展はなく、2期の始めと終わりでキャラの関係性の変化も全くなかった。これは名探偵コナンのような長寿コンテンツ化が狙いなのだろう。もともと、エモいドラマも作れる題材だとは思うが、ここまで来るとそういう展開はなく、個人的には多少残念とも思うが、それは仕方がない事であろう。

おわりに

フリーレンと薬屋は、個人的にはいくつかの共通点があると感じています。

この2作品は、文芸の良さを感じているのですが、なんと言うか因果応報が明確でゴールがある話というよりも、思わせぶりな余白や余韻を楽しむ作風とでもいうか。

フリーレンで言えば、時空を超えたエピソードの交差があったりしますが、それらはたまたま接触しただけで、何かの問題を作為的に解決したりはしない。ドラマもありますが、どちらかと言うと物語性が強い。どちらかと言えば日常寄りの俳句のような味わい。ふと思ったのですが、同じ週刊サンデー連載でもあったあだち充先生の漫画にも近い感覚です。最近のエンタメはエモさに振って、ワビサビを味わう作風は減ってきていたのかと思います。

薬屋で言えば、シリアスの重さを二頭身キャラのコミカルさでかき消してはいますが、探偵ミステリーをベースにした丁寧な推理物の演出(=文法)で作られているため、昔懐かしいハードボイルドな感覚は大切にしていると感じています。これもまた、令和の最近は少なくなってきた感覚です。

つまり、両作品とも昔懐かしのテイストをキッチリと入れつつ、ストレスフルには耐えられない、今時の令和の人にもなじめるようなテイストに仕上がっている事がポイントなのかな、と感じました。

そして、両作品ともコミック原作ではありますが、原作と絵の作者が別人というところ。つまり、文芸は文芸の専門家が書いている、というのがミソだったのかなと想像しています。そして、なぜか日テレ発信というのも一緒。

それから、オーバーテイク!は、出来の良さは認めるものの、個人的には重箱の隅的なところで引っかかりがあって、イマイチ高評価から外ししています。

逆にキミゼロは、世間で評価されてなさに比べて、個人的に高評価にしています。非リッチでもなかなか楽しめた作品だったのですが、評価している人が少ない……。

こうした、世間の評価とのずれが出る作品は、なんだかんだ言って、他の人の評価も読んでみたいと思わせてくれる作品です。

窓ぎわのトットちゃん

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

映画「窓ぎわのトットちゃん」の感想・考察です。

日本人なら誰もが知るタレントの黒柳徹子さんの自伝的小説であり、戦後最大のベストセラーが42年越しに初めて映画化されました。しかも、実写映画ではなく、アニメ映画として。

制作のシンエイ動画さんの仕事は実に真摯で、隅々まで気持ち良く動く丁寧なアニメーションや、柔らかな水彩調でありながら細部まで書き込まれた背景美術、迫力ある音響など、手抜きを一切感じない映像に仕上がっていました。

主軸の自由奔放で元気な女の子の物語だけでなく、戦争がその幸せを奪ってゆくドラマがあるため、軽快さと重厚感の両方が味わえる作りになっており、非常に見応えがありました。

感想・考察

本作のキーワード

最近のマイブームで、あらかじめキーワードをマインドマップで作っておくとブログを書きやすい。本作のキーワードを書き出したものを下記に示す。

私の中の黒柳徹子さん

日本人で黒柳徹子さんを知らない人は少ないだろう。私の記憶では、TBSの「ザ・ベストテン」くらいに遡るが、玉ねぎ頭が印象的な早口おばさん、というのがファーストコンタクトだったかもしれない。とにかく、アクが強い人だと思っていた。

それからもっと年月が経過して、ある日健康ランド?に「窓ぎわのトットちゃん」が置いてあり、それを序盤だけ読んだ。とても、引き込まれる内容で、みずみずしさもあり楽しく読めた。その昔、ベストセラーになっていた事は知っていたが、これは読まれるハズだわ、と思った。(この序盤だけというのがミソで、映画でこんなに戦争描いていたとは思わなかったので驚くと同時に、知らずに観て良かったのかもと思った)

そこから、彼女に興味を持ち、文庫本のエッセイや、岩合光昭さんとの共著であるパンダ本なんかを買って読んだりもした。黒柳徹子さんは、その昔は美人で非常にモテたイケイケ女性だったらしい。アイドルという言葉もない時代だったが、当時その言葉があればまさに、アイドルと呼ばれる存在だった。持ち前の自由奔放で天真爛漫でタレントとして活躍していったのだろうが、芸能界で生き残っているからには、それだけではない芯の強さも持ち合わせているのだろう、と感じさせるエッセイであった。

黒柳徹子さんのパンダ好きは有名である。彼女は映画の通り、裕福な家庭に育ったが、まだ日本人が見た事がないパンダという動物にとても関心を持ち続けていて、アメリカの動物園で初めて見たときはとても感激した、というような事がパンダ本に書いてあったと思う(うろ覚えですみません)。映画でも最後に、一風変わったパンダのシュタイフのぬいぐるみが出てくるが、まぎれもなく彼女が子供の頃に持っていたモノであろう。

劇中で、トットちゃんがスパイになりたい、という台詞があったが、ある意味、本当にスパイをしていてもおかしくないくらい、浮世離れした雰囲気を持つタレントという印象を持っていた。

トットちゃんのキャラクター

劇中のトットちゃんは、自由奔放で天真爛漫。だけど、集中力が無く、多動性なところがあり、妄想癖もある。

実際は聡明な子で、根は思いやりのある優しい子であり、決して他者を否定しない。この辺りはトモエ学園の指導方針とも重なる部分である。

トットちゃんがトモエ学園に来て初見の校長先生にありったけのおしゃべりをして、最後に「私、変な子みたいなの(うろ覚え)」と言うシーンで、トットちゃんが過去に否定された事実があって、それに対する不可解さと悲しさを感じていた事が分る。校長先生はトットちゃんのそのトゲも抜いて、全肯定して受け入れるところがミソである。

もう一つ、トットちゃんは楽しい事が好きで楽しい事ばかり考えて、悲観的には考えない。常にパワフルでポジティブ全開でカラっとしている。そして、腕っぷしも男子に負けないが、非暴力を貫く。

後で触れるが、そのポジティブさは、戦時中の陰鬱な時代の空気と対照的である。ある意味、天敵の関係にあることが本作の肝になっている。

それから、CVを担当した大野りりあなさんの迫力ある演技も、トットちゃんを魅力的に見せてくれることにかなり貢献していたと思う。まさに、当たり役である。

描かれたモノ

はみ出し者のトットちゃんと差別

トットちゃんは、尋常小学校から追い出されたはみ出し者である。

劇中は戦時下だから、規律(=命令)に従う人間を量産を目的とするところは多分にあったのであろう。トットちゃんの個性は、その社会常識の範疇を逸脱し、欠陥品の烙印を押されてしまう。おそらく、当時の人々の多くは、その事に何の疑問も抱かなかったのであろう。

「窓ぎわのトットちゃん」が出版されたのは1981年である。高度経済成長期も終わり、受験戦争が過熱し、TVでは「3年B組金八先生」の第2シーズンが放送されていた。「校内暴力」「登校拒否」などという言葉が使われ始めた時期である。長らく続いた戦後教育も、時代の潮流の変化の中で、教育現場に何らかのしわ寄せがきていたのかもしれない。

そうした子供たちが信じられなくなる時代背景の中、子供たちに押し付けて叱るのではなく、子供たちの目線に降りて子供を救って伸ばすというトモエ学園の先進的な教育方針は、それまでの教育のアンチテーゼであり、相当のインパクトを社会に与えたのだろう。戦後最大のベストセラーになった事実が、この時代にこの物語が欲せられていたことを意味していたと思う。

そこから時代はバブル崩壊を経て、義務教育の現場では1990年代後半から「学級崩壊」という言葉が出始めてくるのは、皮肉めいたものがある。2002年からは、それまでの詰め込み教育からゆとり教育に切り替わり、歌謡曲では「世界に一つだけの花」がヒットした。周囲と違うからと排除される風習は、徐々に個性を尊重する社会通念に置き換わっていった面はあったと思う。

しかし、2023年の現代でもダイバーシティという言葉は使われ、欧米のエンタメやCMでも人種やLGBTQなど、さまざまな差別に対する配慮がなされている。もちろん日本も例外ではない。こう言った差別の問題は、そう簡単には撲滅できるものではなく、時代と共により細かな差別が見えて来て、そう簡単にはなくならないものかもしれない。

その意味で、「他者を否定せず受け入れる」、「みんな一緒」というトモエ学園の寛容な精神は、いつの時代どこの世界でも通用する普遍的なテーマなのかもしれない。

トットちゃんから見えた「戦争」という社会情勢

黒柳徹子さんは戦争反対、平和貢献の人なので、本作が戦争に対するメッセージを持つ事に対して異論はない。

しかし、個人的には本作の主軸は「差別しないこと」の方にあると感じた。「窓ぎわのトットちゃん」の小説というエンタメ作品の中においては、やはりトモエ学園と小林先生への感謝の気持ちが土台であり幹であったと感じた事は記しておきたい。

本作の戦争描写だが、幸せな生活にじわじわと近づいて、楽しみを奪い、笑顔を奪い、悲しみを押し付けてくる。お国のためという正義の押し売りで国民に我慢を強いる。その結果、自由は奪われ、息苦しい生活の中で疲弊し、メンタルは削られてゆく、という描き方だったと思う。

また、同調圧力という意味で、規格外なトモエ学園や、西洋志向の黒柳家に対する風当たりを強くしたのも戦争の影響であろう。この辺りは、マイノリティの迫害とも言うべき差別のテーマにも直結してくる。

しかしながら、トットちゃんは子供なので、戦争の不条理の中にいても戦争を憎むという描写が出てこない。小林先生が人目のない所で大石先生を叱っていて驚いたように、大人の世界という子供に見せない世界があり、その中で子供が生かされている事はなんとなく知っている。だから、戦時下という状況を、戦時下だからという説明で納得して過ごしていたのだろうと思うし、それが当時のトットちゃんのリアルであろう。

下手な反戦映画だと、ここで悲惨な生活や飢え死にしてゆく人々の悲壮感を描いて同情を誘ったりするところ、本作ではそこをトットちゃん視点で淡々と描くことでドライに仕上がっている点を評価したい。個人や組織の悪役を設定する方がエンタメとしては分かりやすいが、むしろそうした明確な悪役がはっきりしない事が戦争の恐怖であると言えよう。その意味で、本作はとてもクレバーな反戦映画だと思う。

突然訪れた、死別の悲しみ

本作のクライマックスは、親友の泰明ちゃんとの死別である。

本作の前半は生きる喜び楽しみに満ちた構成になっている。中盤で登場する縁日のヒヨコの死は、物語転換のフラグである。

そして、突如訪れる泰明ちゃんとの死別。それまで一緒に遊び励まし合ってきた描写があるからこそ、かけがえのない親友の喪失のショックの大きさに打ちひしがれる。教会の葬儀で泰明ちゃんの棺桶に椿の花を添えて、居ても立っても居られずに走りだし、トモエ学園まで来てしまう。追いかけてきた校長先生は「アンクル・トムの小屋」を泣いているトットちゃんに手渡し直すのだが、遺品を受け取る=死を受け入れ遺志を継ぐという儀式に思えた。

本作がズルいというか巧みだと思うのは、このトットちゃんの悲しみに国民の戦争の悲しみを重ねて、悲しみの主語をすり変えてくるところである。

この、トットちゃんが駆け抜ける一連のシーンで、ガスマスクを被った子供の戦争ごっこや、負傷したり遺骨になった帰還兵や、出兵を送り出す行進などのシーンを重ねてくる。それまで意識しなかった、戦争の悲しみや痛みが、大きな悲しみとなって一気に観客の心になだれ込んでくる。このシーンはアニメーションとしての出来もよく、演出としても秀逸である。

「アンクル・トムの小屋」の奴隷社会にあっても尊厳を持って生きるというテーマ。主語がトットちゃんから「国民」に変わる事で、トットちゃんが尊厳を持って生きるという意味から、国民が「戦争」という不条理で見えない大きな力に自尊心を持って抗う意味に変化する。それは、軍歌の演奏を拒んだ父親や、空襲で燃えてしまったトモエ学園を目の前に何度でも立ち上がる気概を見せた小林先生の尊厳にも重なるものだろう。

印象的な「よくかめよ」を軍人に咎めらえるシーン

個人的に強烈に印象に残ったシーンは、雨降る街角でトットちゃんと泰明ちゃんが余りの空腹のためにトモエ学園で教わった「噛めよ、噛めよ、噛めよ」と歌っていたところ、急に軍人に「そんな、いやしい歌を歌うもんじゃない(うろ覚え)」と咎められるシーン。

SNSなどの感想を見ると、実はこの「よくかめよ」という歌は、英語の童謡である「Raw Raw Raw Your Boat」の替え歌らしく、洋楽を口ずさんでいた事が軍人のカンに触った、という解釈もできそうである。

だとしても、いやしい=意地汚いだから、やっぱり「食べる」ことを咎めた台詞にしか思えない。しかも、その軍人は食堂に入って何か食べていた風だった。子供に八つ当たりが強すぎるとも思えたし、その軍人や社会に余裕がないからという描写ととりあえず解釈した。

それにしても、その後、泰明ちゃんが水たまりを踏みしめる音で音楽を奏でてトットちゃんを励ますシーンは本当によく出来ている。嫌味な軍人に対する憎しみではなく、音楽という楽しさで上書きしてゆくことを泰明ちゃんが教えてくれた。これは、トットちゃんのラストシーンにも繋がっているし、本作のテーマそのものと言ってもいいだろう。

車窓から見えたチンドン屋のラストシーン

ラストは疎開先の青森に向かう汽車の中でチンドン屋を見つけるシーンで〆られる。

汽車の中の乗客はみな疲弊しており、まだ赤ちゃんの妹は泣きじゃくり、トットちゃんは仕方なく列車の連結器の所まで妹を抱えて移動してくる。そして、車窓からチンドン屋を見つけて扉を開いてよく見る。妹は泣き止み、トットちゃんはまた汽車の扉を閉める。

誰も居ない林檎畑に、物語冒頭と同じチンドン屋であったことから、幻が見えたという演出に思える。それは、戦争で真っ先に失われた「楽しさ」の象徴であり、その「楽しさ」こそが生きるためにかけがえのない大切な希望である。トットちゃんにそれが見えた事が、未来への希望を示唆し、本作の心地よい余韻になっている。

なにせ、我々観客は、戦後トットちゃんがTVを通して文化や娯楽を大衆に届けてゆく未来を知っているのだから。

おわりに

実は、見終わった直後は、トットちゃんと戦争という二大要素が直結していない感じがして、戦争というテーマがとってつけた感があるな、と思いました。

それは、物語の中でトットちゃんが戦争をどうにかできる立場になく、戦争を状況としてしか受け入れられないため、トットちゃんと戦争の関係性が疎であると感じたからでした。

しかし、ブログで感想・考察を整理してゆくと、多少強引ながら、しっかりと戦争に対して、自尊心を持って流されずに生きようというテーマや、戦後全てを失った後からの復興で、「楽しさ」を原動力にして生きてゆける未来の示唆があり、非常に練られた作品に思いました。

この辺りは、脚本も担当している八鍬新之介監督の丁寧な仕事ぶりが伺えるところだと思いました。

北極百貨店のコンシェルジュさん

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

PVを観て、洒落た絵柄やキレのある動きが気になっていた作品でしたが、ちょっと重めのテーマもありつつ、最後は気持ち良く観終える事ができました。

とにかく、秋乃や動物たちが可愛いいとか、秋乃の新米コンシェルジュ奮闘記としても観れますが、今回は絶滅というテーマについて深掘りした感想・考察を書きました。

感想・考察

原作漫画について

西村ツチカ先生による原作漫画は、1巻が2017年に、2巻が2020年に出版されており、2022年3月には文化庁メディア芸術祭にて「第25回マンガ部門優秀賞」を受賞している。

なんと言っても絵柄が独特でレトロな雰囲気が心地よい。お客様の動物たちは欧米の小説の挿絵に出てくるようなインク画のテイストで描かれており、百貨店の人間もシンプルなシルエットでシュッとして描かれておりカッコ良くて可愛い。建物などの構造物や陳列される商品棚なども細かく描いたり、大胆なレイアウトを多用したり、マンガというよりもイラスト的で見ていて飽きない味わいがある。

また、単行本の先頭にウィリアムモリスの壁紙を思わせる装飾デザインを1ページ入れたり、昔のフランスのイラスト風のポスターの絵を入れたりとなかなかに洒落ている。

私は高野文子先生の漫画を連想した。ちなみに、西村ツチカ先生は男性である。

コミカルでカッコ可愛いルックのアニメーション

本作の最大の武器は、この原作由来のルックにあると言っても過言ではないだろう。

ルックについては細かな説明よりも、とりあえずこのPVをご覧いただいた方が早い。

キャラクターは、人間と動物に大きく分けられ、それぞれに特徴的にデフォルメされる。

人間のキャラクターは、原作漫画の線をさらにシンプルでシュッとしたラインに整えてきた印象である。キレのある動きと相まって、さらにカッコ可愛くなっている。

動物のキャラクターは、アニメーションゆえにインク画タッチとまではいかないが、人間とはちょっと違って、目に憂いを含んだ虚ろな表情を感じたのが印象的だった。

背景画はカラフルで、建造物などにみる精密さと、絵本のようなシンプルさが合わさった感じで、作品のファンタジー感に寄り添ったテイスト。

アニメーションとしての動きもキレキレ。コミカルなシーンが多いから、キレのある動きにがより楽しくさせるし、テンポも気持ち良い。動きの良さは、2Dアニメーションのベテラン職人の丁寧な仕事であろう。板津監督自信もアニメーター出身なので、このあたりは何度見ても飽きないクオリティになっている。

テーマ

「絶滅」と北極百貨店が存在する意味

「絶滅」とは、その生物種が地球上から完全にいなくなること。

生物種とは「生物分類上の基本単位」のこと。ある生物種の始まりは祖先種からの変異で誕生するのだろう。そして、子孫を残して、増やしてゆく事で生物種は存続できる。しかし、外敵や環境に適合できず自然淘汰されて子孫を残せない状況が発生すると、その生物種は絶滅する。

本作で登場する絶滅種について、下記の表に示す。

No.1 絶滅種 備考
1 ワライフクロウ 人間により移入されたフェレットなどに捕食された
2 ウミベミンク 毛皮目的で人間に乱獲された
3 ニホンオオカミ 絶滅は複合要因と思われる
4 バーバリライオン 見世物目的で人間に乱獲された
5 カリブモンクアザラシ 脂肪から油を取るため人間に乱獲された
6 ゴクラクインコ 鑑賞用に人間に乱獲された(飼育も困難だった)
7 ケナガマンモス マンモスの代表、別名ウーリーマンモス
8 オオウミガラス 北極にいたペンギン似の鳥
肉、卵、羽毛、脂肪目的で人間に乱獲された
人間を怖がらず捕獲しやすかった

本作で登場した絶滅種は、人間の乱獲が原因で絶滅に至ったものが多い。そして、北極百貨店の名前は、オーナーのオオウミガラスに因んだネーミングという事に気付く。

人間だけが絶滅の原因ではないが、人間の欲望により絶滅させられた絶滅種の動物たちを、消費主義の人間の欲望の象徴である百貨店でもてなす、というのが北極百貨店のコンセプトである。それは、せめてもの人間の贖罪であり、絶滅種への供養の意味があるのだろう。

物語

絶滅種たちの接客の流れ(おさらい)

今一度、本作の物語の流れについて、絶滅種のお客様ごとに振り返って整理してみよう。

本作は、この流れの通り、起承転結の四部構成に分けられると考えていいだろう。

起は、ワライフクロウの老夫婦とウミベミンクの父娘である。ここでは、危なっかしいながらも秋乃のファインプレイにより適切な商品を販売することで、無事にお客を喜ばせる事ができた。天敵であるフェレットがワライフクロウを喜ばせたい、というのはちょっとした皮肉である。

承は、ニホンオオカミとバーバリライオンのカップルである。ここは、秋乃が「コンシェルジュの辞書にノーは無し」と無理難題に挑んでゆくところであるが、個人で解決できない問題をレストランスタッフや香水コーナーの常連客などの協力プレイでクリアしてゆく。つまり、横の繋がりである。さらにポイントとしては、婚約成立や、カップル成立をアシストしている点で、絶滅種に対して子孫を残す手助けをしているところに意味がある。また、ワライフクロウから始まった絶滅種のお客様がどんどん若くなっているのも、絶滅種の動物たちが若々しさを取り戻してゆくような印象を受ける演出だと思う。

転は、カリブモンクアザラシ(文句アザラシ?)の女性である。彼女はクレーマー客として大暴れして秋乃を困らせ、土下座させようとした。すかさず、先輩の森が毅然とした態度でクレーマー客を追い返して事なきを得たが、秋乃はトキワからお客様のワガママを助長しクレーマー客にしたのは秋乃の手落ちと責められる。実はこのシーン、他者の都合にお構いなく一方的に欲望を振りかざしたという意味で、絶滅種から人間へのしっぺ返しになっている。

ここで、三代目オーナーのエルルが、北極百貨店もそろそろ変わるべき時が来たのかも知れない、と考えていたことに繋がってくる。そして、本作は「絶滅」というキーワードをモチーフに、他者を排除せず、他者と共存し続けてゆくにはどうしたら良いか?という大きなテーマにリーチしてゆく。

決は、ゴクラクインコの母娘と、ウーリーとねこである。

ゴクラクインコの母親は、1コインで百貨店の楽しさを買って帰りたい、と秋乃に無茶なお願いをする。プライスを超えた喜びの提供という難題である。秋乃の出した解答は、バーバリライオンのカップルに北境百貨店の楽しさを存分に伝える動画作成の依頼である。なお、バーバリライオンは、北極百貨店への恩返しの意味がある。つまり、商品を売るのではなく、相手に喜びを提供するというマインドでの変化である。ちなみに、この撮影を秋乃が行ったら秋乃は百貨店店員としては失格(クビ)だろう。この秋乃のマインドが他の動物たちに伝搬してゆく事がポイントである。これは生物種を超えた横の繋がりである。

ねこは彫像家として尊敬するウーリーの氷の彫像を壊してしまう。ウーリーはかなり前に亡くした妻への喪失感を持ち続けていたが、壊れた氷の彫像が妻のお気に入りだったことがさらに不運である。ウーリーは亡くなった妻の思い出さえ、だんだん失われてゆくという悲しみに打ちひしがれる。ここで、パティシエだったねこは謝罪として、ウーリーと妻の形を模したお菓子を彼に贈る。これを受けてウーリーは妻との思い出を鮮やかに蘇らせ、凍てつく心を少しだけ氷解させた。つまり、消えてゆく(=絶滅)の悲しさの中にあっても、思いがあれば心の中に生き続けるという救いである。そして、これは尊敬する師匠と弟子の繋がりでもあり、すなわち過去から未来への繋がりでもある。別の言い方をすれば、受け継がれる事で持続可能な世界(=絶滅せずに済んだ世界)である。

北極百貨店の未来の形

まず、エルルと秋乃のキャラクターの立ち位置を再確認しておく。

エルル(オオウミガラス)は北極百貨店のオーナーであり、絶滅種の象徴である。

人間のエゴが動物たちを絶滅させたのであり、その消費社会というエゴの象徴が百貨店である。北極百貨店は、店員が人間でお客様が絶滅種という逆転の構図で、人間に絶滅種への罪滅ぼしさせる、というのがコンセプトであった。それはエルルの先々代が始めた事であったが、エルル自体は北極百貨店の未来について考える事があった。

それには、おそらく2つのポイントがある。1つは、今回のカリブモンクアザラシのように欲望で人間を傷つけてしまったら、報復合戦の堂々巡りになってしまうという矛盾をはらんでいること。もう1つは、時代を経て人間が欲望のままに乱獲するようなことはなくなり、もう十分に反省して罪滅ぼしをしてきたということ。

そんな中で、エルルは人間の秋乃の存在に注目する。従来のコンシェルジュの仕事は、お客さの本当のニーズを引き出してサービスを提供し商品を売る事にあった。新米の秋乃もそれにならって、お客様に笑顔で帰ってもらうべく奮闘する。しかし、秋乃のがむしゃらな行動はコンシェルジュの仕事の枠を超えて、百貨店の他の店員やお客様も巻き込んで、お客様を笑顔にするためにさらに踏み込んだ行動をしてゆく。

ゴクラクインコの要望に1コインで対応するために、北極百貨店で廃番の香水を提供したバーバリライオンのカップルに、北極百貨店の楽しそうな雰囲気をスマホカメラで撮影してもらう。動物たちの種を超えたギブ(与える)の伝搬が、動物たちを笑顔にしてゆくという好循環を秋乃が構築してゆく。これは、かつての人間や今回のカリブモンクアザラシの一方的なテイク(=強奪)の排除を意味する。

エルルは、秋乃を見て、新しい時代の北極百貨店の未来を感じたのだろう。本来飛べないオオウミガラスも、時代の変化に順応して変わらなければならない自覚を持って、百貨店の上階からジャンプした。それは、人間の罪を赦し、北極百貨店のコンセプト自体も変えてゆく、という決意に感じた。

このような物語の〆方は、全員が善人である前提の甘い話に感じるかもしれない。しかし、物語というのはこうした救いがあってのものであろうし、これは私好みの展開であった。

音楽

とりあえず、PVで聴いた北極百貨店のサウンドロゴが、頭に残って離れない心地よさがあった。音楽はtofubeatsだが、劇伴全体としてみても、変に音だけが主張するということもなく、作品にマッチしていたと思う。

主題歌の「Gift」は、作曲編曲をtofubeats、作詞と歌唱をMyukが担当している。

今回の曲は明るくて楽しい雰囲気だが、Myukさんはもともと渋めのアコギでカッコ良く弾き語りをするシンガーの印象が強い。YouTubeチャンネルにオリジナル曲や、カバー曲の再生リストがあるので、興味を持った方は、是非聴いて欲しい。

おわりに

本作は、まずルックが好きすぎたところから入ったのですが、以外にも「絶滅」と「共存・共生」というテーマを抱えたちょっと良い話であり、そこが気に入りました。多くの人が気持ち良く観終えられる良作だと思います。

是非とも多くの人に観ていただいて、ヒットして欲しい映画だと思いました。

2023年夏期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2023年春期のアニメ感想総括です。今期の視聴は下記の4本。

  • BanG Dream! It’s MyGO!!!!!
  • わたしの幸せな結婚
  • デキる猫は今日も憂鬱
  • 僕とロボコ

視聴アニメ本数が毎期少なくなっているような気がする…。

実は「ゴールデンカムイ」とか「呪術廻戦」などもNETFLIXで観ていたりするが、こちらは過去作品というのもあり、こうした定期のアニメ感想総括からは省きます。

今期はなんだかんだ言って「MyGO!!!!」が話題だったような気がします。

なお、「僕とロボコ」の放送時期は2022年12月~2023年6月なので厳密には春アニメなのですが、NETFLIXが遅れて17話~28話を配信したので、夏アニメにカウントしています。

感想・考察

BanG Dream! It’s MyGO!!!!!

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • こじれ気味の女子の関係性をド直球に描く重めの青春群像ドラマ
    • ライブ映像が肝のアイドル・バンド物の中で、楽曲、脚本、演出の三位一体の融合レベルの高さ
    • ミステリー仕立てで飽きさせないシリーズ構成
  • cons
    • こじれ気味の女子の感情を描くため、こってり度が高く濃い目の味付け

ブシロードの伝家の宝刀「バンドリ」の最新作であるが、バンド同士が仲良しだった過去作品群とは違い、地続きの世界でありながら次世代の「MyGO!!!!!」というバンド結成までをフォーカスして描く。

監督の柿本広大、シリーズ構成の綾名ゆにこ、制作サンジゲンは、はバンドリ2期以降の鉄板の座組だが、今回はシリーズ構成も映像も楽曲も新機軸を入れて攻めている。従来のバンドリから一皮むけて、バンドアニメ、アイドルアニメの1つの到達点になったと言えるかもしれない。

従来のバンドリは、キラキラ、友情、楽しさみたいなのがベースにあって、その中で友好関係や信頼関係があったり、という感じだったと思う。「音楽」って音を楽しむって書くんだよ!みたいな。無論、ハッピーだけでは物語は成立しないので、トラブルが発生したりバンド解散の危機はあるものの、総じてプラス側の範疇で振れていただけであったと思う。しかし、本作の「MyGO!!!!!」は、ギスギスしてメンバー同士が傷つけ合いながら最終的にバンドとして成立するまでの、マイナススタートからゼロ着地の物語である点が新しい。

もともとは、中学時代に結成した「CRYCHIC」が初ライブ後、言い出しっぺの祥子により突然解散。辛すぎた解散だったが新たにバンドをやり直そうとする橙、ミーハーで素人だがバンドで人生をやり直したい愛音、単純に橙が大好きな立希、CRYCHICKをやり直したいそよ、気まぐれで野良猫みたいな楽奈。それぞれの思惑が交錯し、時に本気で相手を傷つけ、それでも必死にもがきながら生きる。

9話で絶望的にバラバラになった後、10話の「詩超絆(うたことば)」で橙の詩と各々の演奏により、それぞれの心の底から湧き出るこのメンツでバンドがしたいという感情が爆発する。そこはもう、台詞のロジックじゃなくて感情の爆発。これを楽曲の歌詞と歌声と演奏の映像に、そのまま物語とドラマを乗っけてくる演出が凄い。最初は橙の独唱からはじまり、楽奈のギター、立希のドラム、愛音のギターが順番に添えられ、最期にそよのベースが加わる。そして、奏者たちはそれぞれの表情で泣きながら演奏する。演奏が楽しくて泣く、演奏が嬉しくて泣く、わけわかんないけど心に刺さっちゃってわめくように泣く。

順番に楽器が演奏に加わってくる流れも10話の流れそのものだし、歌詞は10話までの傷ついてきた経緯と離れたくない気持ちをダイレクトに伝えてくる。これ以上、分断して傷つきたくない橙の心の叫びを、屁理屈で分らせるのではなく、詩と演奏で分らせる。私は脚本のロジックをいつも気にしているのだが、このライブシーンの破壊力の前にはロジックが些末な事のように思えてくる。それくらいインパクトがあった。思うに、脚本だけで「そよが涙しながら演奏に加わる」などと無責任に書けるものではないだろう。楽曲制作や、ライブステージの雰囲気、演奏シーンのレイアウトやカットワーク、そうした要素が全て足並みを揃える必要がある。この辺りのバンドを魅せる総合力の高い演出が本作の凄みであろう。ある意味、遊びが全く無い、ガチガチの作りである。

キャラクター的には主人公の橙のアスペルガー症候群と思われるキャラ付けが攻めていた。直近では、「Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-」も主人公が発達障がいを思わせるキャラ付けであったが、実は成績は優秀だとか、コミカルな作風ゆえにシリアスなキャラ付けはしていなかった。その点、本作の橙はどこから見ても、アスペルガー症候群と思われる行動パターンや仕草で破綻がない。

メンバーは、こいつとは分かり合えない部分を持ちつつも、トータル演奏してゆく仲間としては認めることで合意形成が出来ており、ミーハーな愛音にそよが嫌味を言ったりなどのテンプレ茶番劇みたいのは入るが、それはそれでリアルな距離感にも感じる。キャラクターが重要なソシャゲとの連携もあり、各キャラ毎に明確なキャラ付けが必要という背景もあるのだろう。その意味で、「MyGO!!!!!」のキャラ付けは11話で一度固まったと言っても良いだろう。

文芸面では、ミステリー仕立てというか、いくつかの謎を提示しつつ、少しづつ謎を解決しながら次の謎を提示するというスタイルで、飽きさせないストリー構成になっていた点もバンドリとしては新しい。そして、祥子が総合プロデュースする「Ave Mujica」というライバルらしき仮面バンドの存在を披露して、2期に続く流れである。こちらのバンドも、富豪から没落した祥子の狙いが分らず、集められたメンバーも今を捨て、仮面を付けて役を演じるような世界観重視のクセの強いバンドである。メンバーも知り合いが多いとはいえ、和気あいあいというよりもビジネスライク。「MyGO!!!!!」とは違った意味で、特に祥子にドロドロ、ギスギスしたモノを感じる。橙からの和解を拒否した祥子のメンタルが気になるところである。

総じて、謎を残しつつ視聴者の関心を弾き続けたシリーズ構成、安定したキャラの濃さ、百合味ある女女の関係性、痛々しい心の叫びのような楽曲群と歌唱、フルコーラスの迫力の演奏シーンなどなど見どころが多かった。単純に脚本、楽曲、3DCGレイアウト作画などが、個別に良い仕事をしているだけでなく、これらが密接にリンクしながら協業して最終的なゴールに向かって練り上げられていた、と感じられたところが本作の凄みだったと思う。

わたしの幸せな結婚

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 懐かしささえ感じるベタな恋愛メロドラマで、それが全然ブレないところ
    • リッチな映像と音楽、直球な演出
  • cons
    • 若干、異能(超能力)設定が分かりにくかったように思う

大正時代風の逆境冷遇ヒロインのメロドラマかと思いきや、「異能」と呼ばれる超能力設定により超能力バトル物としても楽しめる、一粒で二度美味しい作りになっている。恋愛メロドラマ部分が肝であり手を抜かないところが本作の美点である。

原作は、顎木あくみ先生によるなろう系小説。制作は「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」「メイドインアビス」のキネマシトラス、監督は久保田雄大。シリーズ構成は脚本と兼ねて佐藤亜美、大西雄仁、豊田百香の3人体制。音楽は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のエバン・コールというのは個人的にポイントが高い。

本作は、制作がキネマシトラスという事もあり、十分以上にリッチで美麗な作画・撮影で安心してみていられる。が、本作の強みはやはり、丁寧かつやや強めで分かりやすい演出にあると感じた。勧善懲悪な作風なので、憎たらしい相手を憎たらしく描くという意味で、本作のディレクションは分かりやすくベタなのが良い。

本作は、主人公の美世の感情の変化を丁寧に描く。美世は斎森家で常に否定され続け味方もおらず自己肯定感ゼロでのスタートである。清霞の元に嫁に出されて、徐々に人間性を取り戻し、一度は清霞とも誤解ですれ違うが最終的に美世が清霞を繋ぎとめるという流れ。声の演技は流石のCV上田麗奈で、当初のか細い声などボリュームを上げなければ聞き取れないような音量で、音響監督もかなり攻めていた。

総じて、絵コンテも作画、声の芝居も真面目にメロドラマを作っており、あまり深く考える必要もなく、ある種の心地よさと安心感を持って観ていた。

デキる猫は今日も憂鬱

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 軽い笑いと、たった一人の親愛な人への思いとの、笑いとしんみりの緩急のバランス
  • cons
    • 特になし

今期のダメ人間甘やかし枠。これまでは、ロリ少女などが社畜男性を甘やかしてきたが、今度は巨大黒猫が社畜OLを甘やかす。

まずもって、基本はコメディで楽しく観られる。小ネタのジャブを打ってくる感じだが、ジャブの応酬という感じではなく、若干パンチが散漫気味ではある。

巨大黒猫の諭吉は、人間よりも大きいくらいのサイズで二足歩行しエプロンを着て家事を完全にこなし買い物にも出かける。そして、子猫の時に拾って世話してくれたお礼に、ダメ主人公の幸来(ふく)のアパートで世話をする。諭吉が家事をこなす前、幸来は社畜OLとして汚部屋で暮らし毎日フラフラの状態だった。諭吉が家を掃除整頓して綺麗にし、きちんとした食事を作り、ちゃんと休ませ(寝かせ)る事で、今では幸来は社内では仕事ができるしっかり者として認定されている。それどころか、周囲の女子は幸来が好きになったりの百合っぽい部分もある。

きちんと生きるためには、身の回りの事をきちんとさえすれば自ずと正されるという話でもあるが、分かっていてもそれが出来ないからこそのファンタジーである。

本作が良いなと思うのは、甘やかし契約関係にある諭吉は拾ってもらったという恩返しから始まるが、諭吉も幸来もお互いに大切な存在という相思相愛的な部分がある事。とは言え、甘やかしすぎず、時に厳しく接し、やれやれと結局世話をするような距離感である。

やはり、主題歌の「憂う門には福来たる」ではないが、普通の幸せさえも遠く感じてしまう息苦しい世の中に対する救済的なテーマがあると思う。たった一人の大切な人に思い思われる事に帰結するというのが、本当に切実である。

最期になってしまったが、アニメーションとしての出来はなかなか綺麗で良い。制作のGoHandsの実力もなかなかだが、幸来の利き手が時々逆になったり、ちょっとしたところが色々と惜しい感じである。通勤電車やオフィスの3DCGも凝った感じも特徴に感じた。

総じて、そこそこ笑えたし、大切な人を大切にしたい気持ちが通底していて、地味に心地よく観れた佳作だったと思う。

僕とロボコ

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 1話3分の超ショートアニメという制約による、ハイテンション、ハイテンポの勢いで笑える不条理ギャグ
    • ロボコの可愛さ(非萌え)
    • 意外としっかりしたドラマ作りがされている脚本(バラつきあり)
  • cons
    • 特になし

1話3分のショートアニメのハイテンションなギャグアニメ。原作は宮崎周平先生による少年ジャンプ連載漫画。

察しの良い人なら大地丙太郎監督で3分のショートアニメと聴いて「信長の忍び」を連想する人も居るだろう。本作の詰め込み度合、ハイテンション感はまさにそれと同じで、ハイテンポなギャグの応酬でかなり笑えた。それから、本作はかなりの部分にジャンプ漫画などのパロディを入れているのだが、元ネタが分らなくてもまったく問題なく楽しめた。シンプルに馬鹿笑いしたい人は一度観ていただきたい。

実は私は、NETFLIXで観たのだが、4話パック×7本=全28話となっており、全部観ても84分である。TV放送でブツ切りで観るよりも配信で連続してみる方が、笑いのツボを持続できる分だけ効果的に笑えるので、おススメである。

本作のキャラ配置だが、基本的に「ドラえもん」のまんまである。猫型ロボットの代わりに、オーダーメイド(メイド型ロボ)が居候するが、まん丸で愛嬌のあるブス顔、膝小僧の出っ張りがリアル、そして最強というキャラ付けが可笑しい。

主人公の凡人、友達のガチゴリラ、モツオ、円などのキャラのテイストはモチーフにしている作品そのものだが、暴力や金持ち自慢と見せかけて実はイイ奴というオチなのが新しい。この辺りは令和テイストの優しさでストレスなく気持ち良く観られる。

コンパクトにまとめながらも脚本の巧みさも感じる話もある。たとえば私が好きな15話のメイコ回。メイコはモツオの家のオーダーメイドだが、周囲のみんなを笑顔にするロボコに憧れがあった。多忙を極めるモツオだが父の嫌がらせで友達と遊べない事を嘆いているところを、ロボコを見習ってモツオの尻をひっぱたいて元気づけるというギャグシーン。メイコは普通のオーダーメイドだから規格内の行動しかできないところ、ロボコのように弾けてご主人様を励ませたというメイコの問題解決(=成長)の物語になっている。3分しかないからこそ、この辺りの情報の交通整理は大変だと思うが、これも過密カット割りで説明しているおかげで成立している。

ビジュアル面の基本は子供向け作品のそれだが、ギャグの元ネタなどに合わせて絵のタッチを劇画調やオカルト風味に変えたりと、芸が細かい。

色々と真面目に悪ふざけしている本作だが、2014年冬には劇場版を公開するとの事。本作の詰め込みは3分のショートアニメだから成立したものだが、劇場版の長尺で脚本やテンポ感はどうするのか? 想像がつかないことだらけだが、これはこれで楽しみにしている。

おわりに

今期はあまりアニメを観ていませんでした。そんな中で、「MyGO!!!!!」は出涸らし感のある女子バンド物というジャンルで、まだまだ視聴者を引っ張る作品の作り方があるのだな、と新しさが感じられました。

「僕とロボコ」は、3分間ショート枠ギャグアニメとして素直に馬鹿笑いできた作品でおススメです。ギャグアニメで素直に馬鹿笑いできる作品は少ないが、こうした詰め込み型ギャグのテンポ感がギャグアニメの1つのスタンダードになってきている感がありました。

最近、アニメ視聴をNETFLIXに依存している部分が多く、作品的に偏りが出ていると個人的には感じています。もう少し、知られざる佳作を見たいという気持ちもあり、秋期アニメは大作が多い時期でもありますが、その辺りのバランスを取れたらいいなと思いました。

アリスとテレスのまぼろし工場

ネタバレ全開に付き、閲覧ご注意ください。

はじめに

岡田磨里監督脚本作品の第二弾。

冬の製鉄所の荘厳ささえ感じさせる侘しくも美しい背景や、垢ぬけていない絶妙なキャラデザや、熱のこもった絵や声の芝居など、現代のアニメーションの出来としては申し分ないと思います。

しかしながら、なぜか他の人の感想にあるような「感動」には至らなかったというか、私は涙腺が弱い方なのに泣けなかったというか、なんかこうドライに鑑賞してしまった、というのが率直な感想です。

いつもの岡田磨里作品だったなぁ、というのはありました。

なぜ、こう私が個人的に感動が抜けてしまったか、については少し考えてみましたが、あまり整理できませんでした。

感想・考察

設定

まぼろし」と「現実」

本作を理解するためには、見伏市の「まぼろし」の設定について整理しておく必要がある。

見伏市は1991年の大事故の発生とともに完全に隔離された「まぼろし」の世界ができる。その「まぼろし」の世界は、季節が流れず人間は年齢をとらないが、中の人間は変わらない日常を毎日繰り返し生活している。「まぼろし」は外部とは完全に遮断されているため、見伏市の外に出る事も、外部からの来訪者もない。

外部と遮断され、変わらない日々を何年も過ごす事になるのだから、普通に考えたら発狂するような話である。しかし、中の人間たちはその変わらない日常を維持し続けようとする。

それから、ときおり発生するヒビ割れ現象と、それを修復する神機狼の存在も説明せねばならない。

この世界は正宗の祖父が考えるには、見伏市の一番いい状態を神様が残しておきたかったから「まぼろし」を作ったというもの。中に閉じ込められた人間の魂はたまったものではないし、、神様は無慈悲である。

そして、中の人間が「まぼろし」の中で生きる希望を見失うと、ヒビ割れが発生し、「現実」の世界が垣間見えたりする。しかし、この世界を維持するために製鉄所の煙から変化した神機狼がそのヒビ割れを修復し、その人間は神機狼によって消滅させられる。つまり、「まぼろし」からのリタイアであるが、残された人間から見れば蒸発という事になる。

基本的に死ぬことはないので葬儀もない。妊婦もお腹の赤ちゃんも年齢を取らないので出産する事もない。生死がないから、狂っているとしか言いようがない。

ここで重要なのは、変化を望む者が消されているのではなく、「まぼろし」に居る事に絶望した者が消されているところである。物語序盤に変化しない事に務めていたが、それ自体がミスリードだった事が途中で分る。

岡田磨里恒例の成長や時間のギャップのモチーフ

岡田磨里作品では、今までも時間のギャップをテーマにしている作品が多い。

さよならの朝に約束の花をかざろう」では、人間よりもはるかに寿命の長いイオルフのマキアが人間に囲まれて生きてゆく事により、少女のまま老けないマキアと、成長し死んでゆく周囲の人間の対比の物語を描いた。

「空の青さを知る人よ」では、慎之介の13年前の無念の気持ちがそのまま実体化した「しんの」が登場し、年を取って変化した(=老いた)慎之介と、まだ少年のしんのの対比のドラマを描いた。

今回のまぼろし工場では、製鉄所の大事故の前で時が止まってしまった正宗たちの居る「まぼろし」自体が、「しんの」と同じように過去に捕らわれて進めなくなってしまった世界を表している。その時の止まってしまった世界に、成長する「五実」が迷い込む事によって、停滞していた正宗たちの心に変化をもたらすドラマという事ができるだろう。

過去作には片方だけが成長し変化してしまう侘しさのようなドラマがあったが、今回は主観が停滞側であることと成長するのが五実の幼少期だけなので、そのような人生の侘しさのニュアンスは弱い。逆に、凍り付いていた気持ちを再び燃やし直すための火種のように五実は扱われていたと思う。

テーマ

痛みを伴う変化≒生きる、というテーマ

本作のテーマは、

  • プラスであれマイナスであれ、変化してゆく事が「生きている」実感となる
  • 変化は痛みも伴うかもしれないが、それを恐れて変化しないのは、死んでいるのに近い

だったのではないかと思う。

ただ、「まぼろし」の世界は人間が暮らすにしては異常な世界である。季節が変わらないのは環境の差と考えられるかもしれないが、人間が年齢を取らないという事を悲観して絶望してしまうのは仕方がないかもしれない。本作は物語ゆえに、それでも主体的に考え変化を恐れずに前進する事を賞賛して描いていたと思う。

他の人のブログを読んでいて、ド直球だった解釈である。

  • 過去の辛い事件から目をそらしてもダメで、過去の痛みに向き合わなければ前に勧めないし、進んで欲しい(過去の辛い事件=3.11、京アニ事件)。

これは、今の時代に扱うテーマとしては、ジャストミートなテーマであろう。

まぼろし」の中で変化する/しないに戸惑う人々

はじめははっきりしない「まぼろし」の設定は劇中で徐々に明かされゆくが、その状況に応じて人々の対応も変化してゆく。

当初は、人々は極力現状維持に務めている。おそらく、ヒビ割れ現象で人間が蒸発する事があり、人々を不安にさせないために、このような指導がされたのではないかと思う。

そして、正宗のクラスメイトの園田の消失を経て、佐上が神様を引き合いに出して何らかのバチがあったたのだという言説を持ち出す。度重なる超常現象に理由付けが必要だったのだろう。

その後、正宗と五実が目撃した真夏の「現実」世界の目撃を経て、「まぼろし」世界が「現実」から切り離された置いてけぼりになった世界である事を正宗の叔父の時宗が説明する。これにより、「まぼろし」内の人間は「現実」に戻る事もなく、ある意味「生きても」いない事を自覚する。

ここまでで、もう何年この1991年の冬を繰り返してきたのか分からない。「現実」の世界で垣間見えた正宗と睦実の風貌から考えると30歳くらいには見えたので、ざっと16年は経過していたのかもしれないし、「現実」と「まぼろし」の1日の進み具合が同じとも限らないので詳しい事は言えない。ただ、いつかは戻れると信じていた拠り所が一気に崩れてしまった。その意味では、もう暴動が起きても不思議じゃないが、やはり現代日本だけあってそこまでの混乱にはならなかった。しかし、仙波のように生きる意味を見失い神機狼に消されてしまった者も多発した。

もともと、佐上は変化をさせずに「まぼろし」をずっと維持させたい考えだった。時宗は、この「まぼろし」の茶番を終わらせる側だったが、変化すると同時に「まぼろし」で生きるための悪あがきを模索しはじめる。溶鉱炉に火を入れ神機狼を呼び出しひび割れを修復する。火事場の馬鹿力と言ってよいだろう。そんな中、正宗と睦実は五実をトンネルを通じて「現実」に返すために、とある作戦を決行する。

ここから先は、映画のクライマックスのアクションシーンとなり、正宗や睦実の友人たちも味方だったり敵だったりと、各々が主体性を持って自分の信じる行動をとる。それこそが、停滞していた世界で生きる活気を取り戻した実感なのだと、スクリーンから伝わってくるような気がした。

この見伏市民たちのマインドの流れは、色んな断面があり、色んな比喩に当てはめる事ができるだろう。

例えば、閉そく感があり突破できない壁を感じている人は、このラストの躍動感溢れる展開に、先が見えなくとも、もがいてこその人生というテーマを感じるかもしれない。

例えば、「まぼろし」の中の人間は死んだ人間なので、死んでも本人が望めば生きる事は叶うのだ、というメッセージを感じるかもしれない。

あるいは、神様が見伏市の一番良い所を残したという仮説だが、良かった過去にすがっていてもダメで、良くなるにしろ悪くなるにしろ人間には変化が必要なのだという教訓を感じたかもしれない。

この辺りは、観る人によって感じ方は変わると思うが、こうした解釈がワンパターンにならない深みを感じさせるところは、本作の美点であろう。

キャラクター

主要人物相関図

ここでは、主要人物の3人の相関図で、互いの関係を整理しておく。

主人公の正宗は、見た目に女子っぽさのある中学二年生の男子。素行不良という感じでもないが、自分確認票は一切提出しなかったところに、反骨精神も持ち合わせている事を伺わせる。

ヒロインの佐上睦実は、不良っぽさもある、掴みどころのない謎の美少女であり、正宗のクラスメイト。妙に正宗に突っかかっている所があり、正宗にパンツを見せて挑発したり、色々と奇怪な行動や言動が多い。

母子家庭だったところ、母親と佐上が再婚した。母親は一切登場しないが、「まぼろし」の前か後かに居なくなっている? 義理の父親の佐上にはかなり辛辣な態度をとっている雰囲気を伺わせていた。本作の肝は、睦実のマインドの捻じれ方にあると思うが、そこにリーチするにはかなりの妄想が必要になる。

さて、もう一人のヒロインの五実だが、彼女は「現実」から迷い込んだ正宗と睦実の一人娘のさきである。5歳の時に迷い込み、現状の見た目から察するに10歳くらいに見えたので、「まぼろし」で約5年間暮らしていたと仮定する。暮らしていたといっても、森の狼に育てられた少女みたいに、言葉を話すこともなく、服装も汚らしく野生児のような雰囲気だった。彼女は「まぼろし」の中で唯一成長する存在であったため、「まぼろし」の崩壊を恐れた佐上が、第五高炉に幽閉されていた。

物語の途中で、この3人は互いを意識して異性として好きになったり嫉妬したりする。しかしながら、彼らは時代を飛び越えての人間関係で、父親⇔娘で好きになったり、母親→娘に嫉妬したりという、アンモラルな要素も持ち合わせているところが岡田磨里風味である。ただ、そこに全面に押し出しているわけではないので、そこまで気持ち悪い感じはない。

菊入正宗

正宗を見ていて、男子が女子を好きになるキッカケと、好きというフラグが経ってしまうタイミングみたいなのを考えていた。

睦実の容姿は女子としては可愛いの範疇に収まるのだろうが、性格がキツイ。キツイがパンツを見せびらかしたりして挑発してきて、睦実から気を引こうとしている部分があった。

そうこうしていて、五実の世話、園田の消失、睦実と五実の同居と色々なイベントが起きて睦実との距離が縮まって行く。向こうから嫌いだという言葉も出てくるし、こちらも釈然としない。だけど、気になってしまう。男子としては、普通の器量の女子なら、身近に一緒に行動するだけで、ちょっと好きになったりするものではなかろうか。

その意味では、五実の世話をしていて、小動物のような自由奔放さを好きになる、というのも分らなくはない。なにせ、「まぼろし」の世界では成長しながら生きる人間が居ない。

睦実に対して好きのフラグが経ってしまってから、「現実」で夫婦となっていてその子供を今預かっているとなると、それはそれでモヤモヤするものだろう。原→新田の公開告白に触発されて、睦実に告白するも「現実」の大人になった睦実と同一人物な訳じゃないと一度は拒否られる。立ち去ろうとする睦実を追いかけて、押し倒して同意の上でキスをする。

恋愛の衝動が「まぼろし」の中で凍り付いていた二人の心を溶かすと同時に、それを目撃した五実の心を傷つける皮肉な展開。

五実を「現実」に戻すのは「現実」の正宗と睦実夫妻の覇気の無さを知ってしまった事もあるが、もともと正宗の父親の昭宗の果たせなかった意思を引き継ぐ意味もある。未来のある五実は「まぼろし」という過去に縛られてはいけない。

普通なら正宗の無茶で大胆な行動を青春と片づけられてしまうところだが、「まぼろし」という閉塞感のある設定があるからこそ、それを乗り越える大きなドラマとなりうる。そういった構造的な上手さもあるな、と感じた。

五実

五実はシンプルである。動物的な本能で自由奔放に行動した事から、「まぼろし」の中での「生きる」をけん引したキャラクターだったと言えるだろう。

睦実からは言葉を与えられなかったが、世話をしてくれた睦実に対する「好き」はあったし、途中から世話をしてくれた正宗に対しても「好き」はあった。睦実はそれを異性に対する「好き」と言っていたが、個人的には異性を意識した「好き」と明言した訳ではないような気がしていた。

正宗と睦実の駐車場での抱擁とキスを見かけてショックを受ける。「好き」であった二人がイチャイチャしている。「仲間外れ」という台詞であったが、動物的な激しいスキンシップに衝撃を覚えた。直感的にこれが愛し合う事だと分ったのかもしれない。そして、正宗と睦実を嫌悪して二人から離れた。

正宗と睦実は狂った「まぼろし」の世界から本来の「現実」に戻す事を画策する。佐上が五実を花嫁衣装にした経緯は忘れてしまったが、花嫁衣装は両親の元から旅立つ衣装である。

いよいよ「現実」に戻る直前に、睦実が「正宗の心は私のモノ」的な発言をし、五実は心底寂しそうな顔をしたので、やはり正宗を異性として「好き」だったのかも知れない。

睦実は、未来の可能性という何でも手に居られらる五実に対して、敢えて心の傷を1つだけ残した。その負の感情も歳月が経てば切ない良い思い出となる、というようなエンディングだったように思う。

五実は正宗と睦実の事を、「まぼろし」に取り残された両親であった事は、大人になって製鉄所跡地に来て確信したのかもしれないし、そこはご想像にお任せというところだろう。

佐上睦実

本作の肝は、佐上睦実のキャラクター造形にあると言っても過言ではないと思う。

不思議な雰囲気をまとった謎多き少女だが、物語が正宗視点な事もあり睦実の内面が事細かに描かれることはなく、正宗同様に睦実の行動に驚かされながら映画を見進めてゆくことになる。

そうは言っても、睦実の存在感というか、本当に居そうな感覚は確かにあった。岡田磨里作品の傾向としてキャラが生っぽい感覚。物語で切り取られない部分も、確かに生きているという感覚。この辺りは声の芝居(CV上田麗奈)の力添えも大きい。

ただ、そうしたリアリティを感じつつも、睦実がなぜ時に攻撃的になったり、なぜ五実に対してペットを育てるような世話の仕方をしたのかのマインドは掴みにくく、最期まで睦実の内面に深く踏み入れられなかった。その意味では、睦実は観客にもガードが固い。そんなわけで、とりあえず、睦実のプロファイリングで頭を整理しつつ、感想・考察を下記進めたい。

まず、睦実の周辺人物についての整理である。

基本的に、睦実は男を毛嫌いしている。離婚した父親、母親の再婚とともに義理の父親となった佐上がロクな人間ではなかったのだろう。母親の男運の無さにも呆れていたのかもしれない。

義理の父親というと義理の娘に対する性的暴力を想像してしまうが、佐上の気弱な性格や、睦実の反抗的なキツイ口調などから察するに、そこまでの事は無かったのだろう。ただ、ダメな男に振り回されてしまう母親に対する憤りのようなモノもあったのかも知れない。

佐上の言いつけで五実の世話をしていた訳だが、クソ野郎とは思いつつも従っていたという事実は、結局頼らなければ生きてゆけないという自覚はあったのだろう。その意味では、屈服であり、鬱屈したものが蓄積していたのかもしれない。記号的にはロングスカートはスケバンやヤンキーであり、別の言い方をすれば、愛に飢えていた。

五実の世話をする際に、人間としてではなくペットを育てるようにしていたのは、五実が人間として成長させないという佐上の指示であったからだと想像する。そのために言葉も与えず、知能は上がらず、野生児のように育っていった。

それから、五実を世話する際に冷たく距離をとっていた事については、情が湧いて「愛してしまうかもしれない」ことを恐れたから、という台詞があった。愛される事を知らない少女は、愛し方も知らなかったのか。それでも、手編みのダボダボのセーターを五実に与えたというのは、五実を思いやる気持ちの現れであり、睦実の変化だったのだろう。五実を虐待する事無く、育ててゆく過程で、睦実の荒んだ内面のケアがされていった側面はあったかもしれない。

睦実が正宗の気を引くためにパンツを見せたり、試すように挑発したりしたのは、異性として意識した事の現れである。異性として正宗を選んだ理由については、やはり現実世界の未来の夫である事を知って意識してしまった可能性は高いと思う。相手の事を知りたいから、五実の世話を手伝わせ、正宗の事を知ろうとした。

とにかく、他者に対して疑り深く、心を開かない。やたらと男を毛嫌いしているように見えた。

正宗には興味を持っていて、パンツを餌におびき寄せたり、五実の世話役を手分けさせたり、共犯者として巻き込みつつ正宗自体を品定めしていた。それもこれも、正宗の事が気になる存在だったからだろうが、正宗が「現実」での夫で、五実が自分たちの娘である事はいつから知っていたのだろう。

五実が正宗に対して心を開いてゆくのを見て、五実が変化して「まぼろし」が壊れないか心配するが、本心では少なからず五実に対する嫉妬もあったのだろう。それにしても、時代をまたがっているとはいえ、将来の夫と未来からきた娘の関係に嫉妬するというのは複雑で凝った設定だが、この辺りも岡田磨里節が冴えるところである。

正宗とのキスのシーンは、正宗の気持ちとほぼ同じだろう。最初は嫌いな所が目立っていた相手だが、一緒に行動するうちに気になりだして、好きになってしまう。そて、その気持ちが大きくなり止められなくなる。

ラストで機関車に乗って「現実」に五実を送り届けるシーン。電車を降りるまでの時間が長い。その後、「正宗の心は私のモノ」的な発言で五実の心に詰め後を残しつつ、ギリギリまで「現実」に戻る五実を見送った。もしかしたら、あの時間は「現実」世界について行こうかという躊躇だったのだろうか。

最終的には、正宗と抱き合って土手を転がり落ちてくるが、睦実がそれを選択した事が生きたいという意思を示していた、と思う。

おわりに

色々と気付くところを書いてきましたが、いざ本作の感想はというと、それがあまり書けませんでした。

物語のロジックは分りますし、変に引っかかる所もありませんでしたが、本作の「まぼろし」の設定と睦実の気持ちに振り回されないようにロデオにしがみ付く気持ちで鑑賞してたらか、非常にドライな感じで見終わりました。つまり、他の感想でちらほら見かける「感動した」という感覚はなかったというのが率直な感想です。

また、鑑賞後も「まぼろし」の中の正宗や睦実は身体的な成長は無いわけで、彼らはどのようなマインドでこれから先どうなるのだろう、という気持ちも後から湧いてきました。

ただ、岡田磨里脚本の色恋のドラマは、不思議と肝が座っているというか、キャラの気持ちを理解しきれなくてもキャラとして違和感を持たずに受け入れられる安心感がありました。ぶっちゃけ人間関係なんて相手を見透かしきった付き合いなんてありませんから、それをリアルに感じられるのだと思います。

結果、いつもの岡田磨里作品だったな、という感覚でした。

君たちはどう生きるか(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

本作についてのいろんな考察ブログなどを読んでいましたが、イマイチもやもやする気持ちがあり、追加のブログ記事を書きました。

それは、簡単に言うと物語のロジックの有無です。別の言い方をすると、物語があるのになんかキツネに摘まれたような感覚に陥るところを気にしていました。結論から言うと、一部の物語のロジックは意図的に省いているように思いました。

それを整理するために、物語を構造的に序破急に分割し、プロセスが描かれるべき「破」のあらすじを整理して、何が描かれていたか、どんな感想を持ったかを細かく分解してゆきました。そして、分解した結果を最後にまとめています。

それと、最近のマイブームなのですが、マインドマップなどの図で表現が分かりやすそうなところは図を入れています。図を描くと時間はかかりますが、自分でも頭の整理ができるのでオススメです。

感想・考察

物語の構造

孤独な主人公の少年は、いくつかの思春期ゆえの問題を抱えていたが、ファンタジー世界での冒険を経て成長し、現実世界に戻ってくる。いわゆる「行きて帰りし物語」の構造である。序破急で言えば、次のようになるだろう。

  • 序=現実世界
  • 破=ファンタジー世界
  • 急=現実世界

アオサギが喋りだしたあたりは、現実世界とファンタジー世界の中間だと思うが、ここでは「破」に含めて考える。

ここで、物語の構造にならって、「序」の眞人の問題点と、「急」の解決状況についてマインドマップで整理する。

「序」での眞人の問題点の提示は、かなり細かく描かれていたと思う。実母ヒサコとの死別に無念と未練があり、継母ナツコへの戸惑いから家族として受け入れる事に戸惑いがあり、裕福な家庭環境や、それが原因での学友との喧嘩への不満があり。そして、最終的に「急」ではそれらの問題をクリアし受け入れる事ができるようになる。継母ナツコを母親として受け入れ、実母ヒサコとの死別を受け入れた。側頭部の傷が象徴する悪意については、罪を背負いつつ生きる事を受け入れた。ここだけを注目するならシンプルな物語と言えるだろう。

一般的な物語なら、「序」から「急」への主人公の少年の試練や成長を「破」でロジカルに描かれる事を期待するし、ここをいかにドラマチックに盛り上げるかが作家としての腕の見せ所であろう。しかし、本作の「破」は、宮﨑駿監督が得意な風刺や思想的な要素をふんだんに取り入れたアニメーションを見せつけられ、物語をロジカルに推進する情報には乏しい。もっと言うなら、本作は物語の頭と尻の側だけ用意して、物語の中身をまじめに作る気がないようにさえ感じる。だから、観客は狐につままれたようになり、「よく分からなかった」という感想が頻発するのではないだろうか。

しかしながら、本作の肝は、この「破」で描かれている事にあると思う。それは、大人視点の宮﨑駿監督の生き方、考え方を反映した情報になっていると思うので、ここを深掘りしないと考察としては意味はないと思う。

「破」の流れ(あらすじ)

膨大な情報量で「破」に描かれている事を「考えるな。感じろ」で拾って整理する事が、本作の理解に重要と考えているため、まずは、「破」の流れ(あらすじ)をフローチャート形式で列挙した。

図の説明だが、角丸長方形内が出来事(=イベント)で、吹き出しコメントがそこで描かれていたテーマについて私の主観で記載した。うろ覚えのため、より重要な出来事が盛れているかもしれないが、悪しからず。

途中、眞人が主に対峙したキャラクター毎に色塗りをしている。順番に水色=キリコ、ピンク色=ヒミ、灰色=ナツコ、紫色=大叔父である。

私は、キャラクター視点で考察するのは得意だが、本作はそれだけでなく設定周りの情報量が多い。そのため、まずは設定周りの気付き・感想を整理した後、キャラクター周りの考察に入って行く。

設定考察

塔の異世界(あるいは、生と死の間)

塔の異世界は、宇宙より飛来した隕石の超高度文明のテクノロジーでできており、それを用いて地球人である大叔父が世界の破綻を防ぐために世界を管理してきた。大叔父≒神と考えてよいだろう。

少し脱線するが、宇宙は11次元でできているという理論がある。人間が認知できる3次元に加えて時間やパラレルワールドや諸々の軸があるらしい。「地球外少年少女」というアニメ作品でも、人類を超越したAIが11次元的思考を用いてパラレルワールドや過去や未来の同時観測を行うという描写があった。本作でも「時の回廊」が眞人の少年時代とヒサコの少女時代と別々の扉で繋がっていた事を考えると、これが11次元的なテクノロジーだったのかもしれない。

過去と未来が同時観測しながら世界を保つという意味では、人間の短い一生を遥に超えた長期スパンでの視野が必要なのではないかと思う。そのスコープの中には親、子、孫と代々引き継がれてゆく生命の繋がり(=新陳代謝)もある。そして、人間が生まれて、生きて、死んでゆく流れがある。この文脈の中で死生観が語られる。

死生観

本作は、母親の死別による眞人の未練、無念との向き合いがテーマになっている関係上、生とについてのモチーフが多く描かれている。

また、塔の異世界では、セキセイインコペリカンを頂点とした食物連鎖が形成されていた。

昔は、現代よりも人間はもっと簡単に死ぬし、死は身近に存在していたと思う。

たとえば、核家族ではなく近所付き合いもあったため身近に老人がいて、不定期に近所で葬式などもあっただろう。なにより、太平洋戦争中なので死の恐怖は身近だったと思われる。本作では、「ワレヲ学ブ者ハ死ス」のお墓だったり、ペリカンの最期を見届けて埋葬したりと、死者に対して敬意を表するモノとなっている。

死にゆく者がいれば、その一方で生まれ来る者もいる。本作では、ワラワラだったり、ナツコのお腹の中の赤ちゃんが生として描かれていた。再び昔の話になるが、赤ちゃんは妊娠しても死産で生まれなかったり、生まれても乳幼児期に亡くなったりするケースが多かった。原因は感染症や栄養不足や事故が多かったためである。この辺りは、浮上するワラワラがペリカンに食べられることが比喩になっていたと思う。ここでも、生と死が隣り合わせになっている。

そして、本作の塔の異世界では、鳥類を頂点にした食物連鎖が描かれており、ワラワラ(=人間)もペリカンに食べられていた。食べられる人間にしてみればたまったものではないが、人間もまた他の生物の命を頂戴して 生きている。自然界においては、食べる食べられるの連鎖の一環にすぎない。だから、食料を乱獲せずに、必要最低限の命を有難く頂く。この辺りは、キリコが深海魚の腹を眞人自身にさばかせて、それを調理して食べたシーンで描いていたのかなと思う。逆に言えば、そうした自然のサイクルを拒否すれば、自然界のバランスが変化して崩壊するのだろう。本作ではセキセイインコが大量に繁殖しており、それを捕食する生物がいないため、まるで人口爆発のような状況が発生し、塔の異世界のバランスは崩れかけていた。

ここで眞人の母親の死別に結びつけると、まずは死が珍しくないという事、そして生と死が隣り合わせな事、個体の死により自然界の循環が成立している事を理解しつつ、死を受け入れるという体験を淡々と描いていたように感じた。

木と石

木と石の対比はいろんな断面があり、実際のところ、人によって考察の解釈はまちまちになるだろう。

個人的には、石は宇宙から飛来した超高度文明のテクノロジー、木は地球文明のローテクや自然エネルギー、という技術の対比の意味合いが強いと感じた。

その他にも思いつく限りのワードで木と石を対比してみた。

項目
特徴 有機 無機物
キャラ 眞人、キリコ 大叔父
具体例 弓矢
キリコのヨット
キリコの住居(廃船)
墓(ワレヲ学ブ者ハ死ス)
積み木(積み石)
産屋
技術 地球文明
ローテクな道具
自然エネルギー
宇宙から飛来した超高度文明
(=魔法)
イメージ 温かい
柔らかい
メカ制御
道具を作れる
自然との循環
生(再生する)
冷たい
固い
電子制御
結晶(=高密度)
割れたら終わり
死(再生しない)
どこから 地球上 宇宙から飛来
(高度な文明)
善悪 悪意あり?

塔の異世界は、石と木の両方が存在していたと思う。

石は、宇宙より飛来した未知の技術でできていて、それ自体が塔の異世界全体になっている。具体的には、大叔父の積み木だとか、ナツコが居た産屋とか、大叔父の居場所に至るまでの台形の光る通路とか。未知の技術なのだが、石≒コンピューターのイメージもあり、産屋近くの通路で侵入者を拒絶するための火花は、電気的なスパークも連想させた。

しかし、おもしろいのは異世界にも海(?)や陸が存在し、セキセイインコペリカンや深海魚やワラワラなどの生物が生息しているところである。これらの一部は地球上の生物を大叔父が持ち込んだ。

その異世界で暮らしていたキリコは、木製のヨットを操り、巨大な木造の廃船の中で暮らしていた。これらの人間が地球文明で作る道具は木でできていた。また、眞人は現実世界で対アオサギ用にDIYで弓矢を作ったが、これも木である。

木と石の対比の重要なシーンとして、例の13個の積み木(積み石)のくだりがある。

最初の積み木のシーンは、大叔父が用意したいくつかの積み木に悪意が混入している事を眞人が発見して積み木を拒否する。木ではなく墓と同じ石だからダメとも言っていた。また、2回目の積み木のシーンは、悪意なきクリーンな積み木を13個用意されたが眞人自体が悪意を持っていると言う理屈で積み木を拒否している。つまり、どんな石(=技術)でも使う人によって悪になるし、そもそも人を悪に染める石(=技術)も存在するということになるかと思う。

少し脱線するが、私は眞人が弓矢を作り出すシーンは、本作で唯一高揚感を持ってワクワクしたシーンである。アオサギを相手にやるか、やられるかの戦いを挑む。闘争本能と言ってもいい。そのために、人類が培ってきた科学と技術を使って武器を作り出す。材料は廃釘だったり、矢羽根はご飯粒の糊で矢尻に固定したり、工夫で用意する。自室で工作途中で試しに射った矢が壁に刺さるシーンなど、力強さとともに気持ち良さがあった(風切りの17番の魔法のおかげはあったが)。また、キリコのヨット操船シーンなどは、風や波の自然エネルギーの物理法則にのっとり自然な動きを再現しているだけでなく、道具が人間の神経と繋がっているかのような一体感の気持ち良さがあった。この辺りは、宮﨑駿監督の趣味趣向のように思う。

さて、木の技術は燃やせば灰となり自然に戻るし、生と死の循環にも通じる。これに対し、石の技術は生成するのも難しく、壊れたら元には戻せない。どちらかと言うと、作品内では木の技術に対して好意的に感じた。別の言い方をすれば、メカ好きのコンピューター嫌いみたいに感じた。ただこれは、シンプルに宮﨑駿監督の趣味性を反映しているような気もする。

産屋の謎、墓の謎

塔の異世界にあったナツコの居た産屋。

産屋は、出産の穢れを忌み、産婦を隔離するための小屋だが、今は病院で出産するので産屋の習慣はなくなった。神道では出産が不浄性を持つと考えられていたらしい。出産時だけでなく、産後もしばらくはこもって生活していたらしい。男子禁制だったとのこと。

本作では円形の石のベッドの上にナツコが白装束で横たわっていた。天上には大きな丸い輪で紙垂(しで)が撒きつけられており、なんらかの力で回転していた。見慣れない形の紙垂だと思ったが、これは伊勢流と呼ばれる実在する紙垂らしい。この辺りに日本の風習と石の超技術による謎の融合が見られる。

ヒミが先導してくれた産屋への道は、分岐のある洞窟を進んで辿り着く。途中で火花がスパークのように発生し、眞人とヒミの侵入を拒絶していた。

まず、1940年当時に産屋があったのはいいとしても、現実世界の人たちは塔の中の産屋はまったくの想定外であろう。なにせ、誰も塔自体近づかないし入れない。なのに、ナツコは一人で塔の産屋に向かったし、ヒミはナツコがここでお産する気であることを知っていた。牧一族の子供は、塔の産屋で生まれる事で何らかの特殊能力で組み込まれるのか、そのために大叔父にコントロールされて妊婦が塔の産屋に招かれているのか、その辺りは不明である。

関連して「ワレヲ学ブ者ハ死ス」の墓の存在にも触れておこう。

あの墓は柵で囲まれ金色の扉で墓地に出入りできるようになっていた。そして、敷地内にはストーンヘンジのような石の積み方で墓跡があり、その中の暗闇の中に何かが潜んでいるようだった。キリコは、墓地で騒がしくしたことで墓の主が出てくる恐れがあったため、お祓いで鎮めて何事もなくその場を収めた。何というか、墓に葬られている存在は死後も意思を持ち続け、いつか暴走してもおかしくないと言う雰囲気を醸し出していた。

塔の産屋の中には、その墓石の積み方と同様の積み方で石が祀られていたと思う。この墓も産屋も同様に石の超技術が使われている事を示していると思う。ここでもまた、生と死(=産屋と墓)の対比になっているのだが、どこまで意味があるかは分からない。

セキセイインコ帝国とペリカン

哺乳類と鳥類は他の爬虫類や魚類などに比べて脳が大きいらしい。鳥類は小脳が発達しており、飛ぶために空間認識力が高いとの事。さらに、鳥類の中でもカラスやインコは脳化指数が高く、犬や猫よりも賢いらしい。

塔の異世界にはセキセイインコペリカンが、大叔父により持ち込まれたと思われるが、異世界という環境に適合しつつ、人間の言葉を使ったり人間を食べたりする独自の進化を遂げた。

その中でも、セキセイインコは大量に繁殖して塔の異世界の中でも人口爆発的な問題を抱えている。帝国として統制されヒエラルキーの頂点に国王がいる。一般市民は目の前の事(=目の前の人間を食べること)しか考えておらず、自身の欲求に正直である。国王は少し思慮深いところがあるのかと思えば、実際には威厳を保つことが目的となってしまっていて、それは国王という席をキープし続けたい(=胡坐をかきたい)気持ちに見えた。セキセイインコの国王は大叔父(=神)と交渉し、神の力を手に入れよとしていたが、積み木で癇癪を起こして積み木を崩し世界を崩壊させた。結局、神をも恐れぬセキセイインコ(≒人間)が滅亡の引き金をひいた形である。

この辺りは、人間社会を強烈に風刺した擬人化だろう。それは、東映漫画映画などで培ってきた作風に通ずるものがある。

ペリカンもまた、塔の異世界での環境変化にともない、仕方なく人間(含むワラワラ)を食べて生きていた。ヒミの火に焼かれて眞人と対話したペリカンは、死に際に眞人に毅然とした態度で対話する。そして、眞人はペリカンの亡骸を埋葬した。

このシーンはおそらく、食物連鎖の上下とは無関係に、どの動物も自身の寿命を全うするために生きているのであり、命の重さに差はないのだという事だろう。皮肉にも、ペリカンが火に殺されたという意味では、ペリカンの死と母親の死は重なるモノである。そのペリカンの死に際の言葉を聞いて埋葬した事実は、ある意味母親の死と疑似的に向き合えたというニュアンスもあったかもしれない。

それにしても、なぜペリカンだったのだろうか。ペリカンで連想するコウノトリは赤ちゃんを運んでくるイメージだが、本作では真逆なのは皮肉か。もしくは、アオサギを使う前提があって、鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属なのでペリカンを選んだのかもしれない、などと妄想した。

死者とワラワラ

眞人が塔の異世界で最初に落とされた海で遠くに浮かんでいた無数の帆船。それに乗っていた影のような人は死者だとキリコは言う。死者は殺生ができず、キリコが捕らえた魚の分け前を頂戴していた。

小さく白くふわふわしたワラワラもまた、キリコが捕らえた魚を食べて天に向かって螺旋状に上昇し、人間として生まれるとの事。

死者と生まれる前の人間が同時に存在するという意味で、この世界を単純に黄泉の国とは言えない。

もしかしたら、死者がなんらかの経緯でワラワラに変化するのかもしれないが、これは妄想でしかない。

キャラクター考察

眞人とアオサギ

私は、アオサギは眞人のダークな部分の写し鏡じゃないかと思う。

そう考える1番の理由は、キリコのところで、二人は「全てのアオサギは嘘つきか?」の同じ質問に真逆の回答をしたから。1つの事象が二面性を持つ事を描いているが、その二面性は眞人の人格にも言える事だろう。

アオサギは、確実に眞人の心の弱みを的確に攻めてきていたと思う。母親の生存をほのめかしたのも、眞人の心にあった疑念や無念の形の現れであろう。母親が寝そべっている姿の幻を見せて溶かしたりしたのは、眞人に対する心理的な攻撃である。このような心の奥底にため込んだ気持ちを発露させるが、結果的にそれが成長につながっている。

眞人はアオサギを脅威と捉えて、DIYで弓矢を作り対抗した。アオサギの羽(風切りの7番)を矢尻に仕込んだ事で矢に魔力が生じてアオサギに的中できた。風切りの羽というのは鳥が飛ぶのに必要な羽で、その羽が抜かれてしまった鳥は飛ぶことができなくなる、という要の羽である。そうした逆転があって眞人はアオサギより優位に立つことができた。この時点で、眞人は自分の弱さに向き合い、乗り越えたように思えた。

また、キリコの棲む廃船でアオサギは眞人と再会して、ナツコ探しや、ヒミ救出の相棒として働く。もともとアオサギは自分の中の嫌なヤツだったので、アオサギとバディを組んでミッションをこなすという事は、自分の嫌いな面も認めて生きる事に他ならない。

つまり、アオサギは自分の弱さ、嫌な部分を認めて生きてゆくという「成長」を促進するキャラクターだったと私は考えている。

ところで、アオサギは最初から眞人を塔に連れ込もうとしていたし、結果的に眞人を大叔父のところに連れて行ったので、やはり大叔父の駒としてコントロールされ動いていたと思われるフシがある。全ては大叔父の手の内にあったという事だろう。

個人的には、眞人がアオサギを倒せたのが「風切りの7番」を拾った偶然であったこと、その後の眞人とアオサギの協調体制がすんなり進み過ぎた事に、拍子抜けしたというか、もう少しロジカルにドラマを描いて欲しい気もした。

眞人と大叔父

大叔父は、塔の異世界を管理するが、それは過去から未来の地球を管理する事を意味していたと思う。大叔父=神である。

もともと大叔父は地球人(外国人?)だったが、宇宙より飛来した隕石に取りつかれたように引き込まれ、世界のバランスの均衡を図る大役を務めた。何が彼をそうさせたかの説明はない。

一人でやり続けていても、いつかは上手くいかなくなる。我々の地球上の世界も、さまざまな仕組みで均衡をとってきたものであろうが、ときどきに決定的な変化点があり、レギュレーションを変更して継続してゆく。まるで、ラーメン屋の秘伝のスープのように。

少し話が脱線するが、許して欲しい。

第二次世界大戦が終了後、ナチスドイツのファシズムが台頭し、カリスマ性のある指導者が登場すると独裁者の暴走が起きやすい事が分った。その後、社会主義と資本主義の2大イデオロギーの冷戦の開始するわけだが、なぜ2大イデオロギー体制だったのか? 

資本主義は個人や企業が財産を所有し、市場競争で利益追求をしてゆくが、資本家に富が集中するという現象が発生していた。これに対するカウンターとして社会主義が登場する。社会主義の説明の前に、その思想のコアにある共産主義について触れておかねばばらない。共産主義は財産を共有し生産物を均等に配分する、平等な社会を理想とする。これに対し社会主義は、全ての資本を国家が管理する。利益の分配を国が管理するか否かが社会主義共産主義の違いである。

もともと、資本主義による資本家への富の集中や貧富の差の問題意識はあったし、利益追求による個人や企業が力を持ちすぎてバランスを世界のバランスを欠くというリスクは持っていた。第二次世界大戦後、資本主義一強にしてしまうとそれはそれで不安である。だから、カウンターとしての社会主義と競わせて、どちらが理想の世界を作るかを試していたかのようにも考えられる。では誰が、というと国家の枠を超えて世界を司る「神」的な存在か。まぁ、陰謀説みたいな話ではあるが。

冷戦時代は、朝鮮半島ベトナムでこの二大イデオロギーの代理戦争が行われた。これらの戦争は本当に必要だったのだろうか?

ご存じの通り、1991年ソビエト連邦の崩壊とともに社会主義は消滅する。競争がないため、生産のクオリティが上がらず資本主義国家との競争に負けてしまうという面もあっただろう。しかし、根本的な問題は、国家が資本を管理するというが、しょせん国家も人間の集まりなので、その一部の人間が権力を握って腐ってしまうと、恐怖の独裁政治になってしまう。そして国家に反逆する者が密告されれば処刑されてしまう。誰もが本音とは異なる殺されないための建前を身に着け、二層の気持ちを持って生活する。普段は建前で生活し、本音は地下活動で。エンタメ作品は検閲があるから、表面上は社会主義万歳と見えるようにしておくが、社会主義に対する痛烈な皮肉を織り交ぜる。分る人には分る、ささやかな抵抗である。社会主義は、国家にも国民にも過大なストレスを与えていたと思う。

陰謀論みたいなのを前提に書いていて恐縮だが、歴史の教科書も国家の都合よい視点で書かれるため、教科書が書いていないところをどう読み取ってゆくか?というのは、大切なことにも思う。多くの人間は目の前の生活に追われ、こうした視点を持たなくても生きてゆけるであろうし、そう仕向けられているのかもしれない。しかし、こうしたマクロな視点を持って世界を観る事に少なからず意義はあるだろう。

ここでは、冷戦時代の二大イデオロギーの話をしたが、世界にはこうした「神」による操作に思われるような事は、近代の歴史でもちょくちょく存在する。大叔父がやっていた仕事は、この「神」のような仕事であったのだろう。この、神のパッチワークもいずれ破綻する時が来る。それは、社会主義が属人的であったために崩壊した事とも通じるのかもしれない。

大叔父は眞人を試し、眞人を後継者にしようとした。2度積み木を勧めていたが2度とも断られている。1回目は、悪意ある積み木が混入していたから。2回目は、眞人自身が「悪」を抱えているから。悪意があると積み木は崩れるから、後継者にはなれないときっぱり断る。大叔父は、途中で眞人が現実社会に未練がある事を理解し半ば諦めていた。それは、ナツコと母子関係を築け、現実社会に戻る意思を見せていたからかもしれない。いずれにせよ、眞人は「神」になるよりも、普通の人間の幸せを掴みたいと願った。

神が世界の均衡を保つべきと考えていた大叔父の意思はここで途切れる。世界はまた、人間がコントロールしない成り行き任せの世界に切り替わった。これが、人類にとって災いなのか否かは分らないが、なるようにしかならない。

もしくは、大叔父自身も人間が「神」を演じることに無理がある事に気づいていたフシはある。眞人の言葉を拡張するなら、どんな石(=技術)であっても、使う人間の悪意をゼロにする事はできないから、石を使ったバランスコントロールなんて誰も出来ないという解釈になるのかもしれない。

ここで、宮崎駿監督の話を出すと、インタビューなどを拝見するに、こうした大局観のある視点で自分たちの住む社会を良くしたい、という意識を持って生きてきたのだろうとは思う。しかし、自分も老人となり、若い人たちがこの意識を持たなければ、何とかなるものも、何ともならなくなる。そうした意識が、本作の大叔父に反映されていた可能性はあると思う。兎にも角にも、そういう視点を持つ事が第一歩である。活動するか否か、どう活動するか、はその次の話であるし、活動自体の是非もあろう。

君たちはどう生きるか」というタイトルから察するに、こういう前振りあって、という気がしないでもない。この辺りは、眞人の成長物語とは別次元のテーマである。

平成時代の「千と千尋」は、これからの時代、少年少女たちが生きるのは大変だろうけど、まぁ頑張ろうや、という感じだった。令和時代の「君たちはどう生きるか」は、こうした大局観をチラ見せしつつも強要する事はない。気にするのもしないのもあなた次第という突き放したテイストになっている。まぁ、この年になって老人の説教みたいになってもなぁ、みたいな感覚だったのかもしれない。

眞人とキリコ

キリコが教えてくれたのは、自立した大人の生き方、働き方だったのかなと思う。子供に大人の背中を見せてゆくスタイルである。本来、これは父親の仕事なのだろう。

農家の子供なら家の手伝いをするのは当然だったが、父親は事業家で裕福な家庭に育っていたので、眞人は労働を知らないのだろう。その意味でも眞人はブルジョアに対するコンプレックスがあったのかもしれない。キリコは眞人を一人前として労働させ、その対価としての食事と寝床を提供した。

また、キリコは眞人に食用の深海魚を直接解体させた。これは、自分が活きるため自分の血肉のために他者の命を頂くという体験である。そして、人間もまた食物連鎖の上位層のペリカンに食べられると言う。平たく言えば、命の尊さを眞人に体験させた。

それから、婆さんたちの人形が眞人のお守りになっていたのも印象深い。眞人は頑なで自分一人で背負ってしまう傾向があると思うが、実は大人が子供を心配して守っていることを描いていたと思う。

兎にも角にも、お坊ちゃまだった眞人に基礎的な生活力(=バイタリティ)を身に着けさせることが、眞人が自立し成長するために必要な最低限のマインドであるからこそ、塔の異世界で最初に対峙するのがキリコであったのだと思う。

眞人とナツコ

眞人の母親は病院火災で死別し家族に女性は居ない。なんとなくだが、眞人は女性に対する免疫が少なかったのではなかろうか。そこに登場する継母であり、美人で色香漂う妖艶な女性がナツコである。

眞人が持つナツコへの葛藤を下記の図に示す。

眞人からしてみたら、実母ヒサコの死別を受け入れていないのだから、ナツコが継母となる=ヒサコの死を認めて受け入れる事になるため、まずそこが辛い。

その上、女性慣れしていないのに目の前に魅力あふれる女性が現れればドキドキすることもあろう。人力タクシーでナツコのお腹ごしに身ごもっている赤ちゃんを触らせたのは、命の実感、義理兄の実感を持ってもらうためだったのであろうが、眞人は女性への照れが出ていた。

一方、ナツコにかかるストレスは過大なモノがあったと思う。ナツコのストレスについて下記の図に示す。

もともと、夫は事業優先で家を不在にしがちである。だから、家の中の事はナツコに負担がかかっていた様に見受けた。ここで気になるのは、牧一族でナツコ以外の人間を見かけないところである。使用人のお婆さん、お爺さんは何にも抱えているのに、ナツコの両親や兄弟は登場しない。その理由は分らないが、文字通り、ナツコが牧一族を支えている形である。

ナツコの抱える問題の1つに、連れ子である眞人の存在がある。務めて気さくに対応しているが、年ごろの気難しさゆえ心を開かず、何を考えているか分らない。本来であれば、父親とのコミュニケーションでガス抜きができていればよいのだが、それもなさそう。学校に行けば側頭部に大けがをして帰宅する。

そうこうしていると、酷いつわりでダウンしてしまい、家の事も回せない。いや、もともと妊婦が家を回す事などできないからこそ、産屋に籠もって俗世を経つという側面もあったのだろう。それでも、見舞いに顔を出した眞人の頭の傷を見て、お姉さんに申し訳ない、という気持ちになってしまう。

分らないのは、ナツコが塔の中(の産屋)に赴いた理由である。ナツコ自身が妊婦としての体調とメンタルを整えるために一時的に産屋に入ったのかと思ったが、どうもこれは違いそうである。というのも、ヒミの台詞では、ナツコは産屋で赤ちゃんを産むつもり、というのがあった。ナツコは現実世界ではなく、このまま塔の中の産屋で出産するつもりだった事になる。

眞人とナツコのわだかまりは、産屋で「ナツコ母さん」と呼び、ナツコがそれを受け入れた事で解消する。

ただし、その直前のやりとりで産屋に姿を表した眞人にナツコはブチ切れて「大っ嫌い!」と拒否する。これは積み重なったストレスが爆発したという事もあるだろうが、妊婦が赤ちゃんを守ろうとする母性本能が強く出た形にも思えた。この態度に眞人も面食らってはじめて「ナツコ母さん」と呼び、双方の和解が成立して、抱擁となった。

眞人にしてみれば、母親と認めた事により息子と母親の関係にシフトして、年上の女性に対する憧れは急速にしぼんでゆく事になるだろう。

ただし、ここでも問題定期に対する解決のロジックが希薄で説得力が薄いと感じてしまう。鬼の形相で怒っていたナツコが、お母さんと呼ばれただけで急に眞人を迎え入れる、というのが唐突に思う。だがしかし、この部分はおそらく意図的なのだろう。

眞人とヒミ

ヒミは若かりし頃の眞人の母親のヒサコであった。

とりあえず、混乱しやすい眞人とヒサコに関するイベントの年号と年齢を下記の表に示す。なお、この年号や年齢は実際には不明な部分が多いが、眞人の年齢は12歳、ヒサコが23歳で眞人を産んだものと仮定する。

西暦 和暦 イベント ヒサコ 眞人
1922年? 大正11年 ヒサコが1ヶ月間神隠しにあう
その間、塔の中でヒミとして過ごす
15歳 -
1930年? 昭和5年 ヒサコが眞人を産む 23歳? -
1937年 昭和12年 君たちはどう生きるか」が出版
ヒサコが眞人に「君たちはどう生きるか」の本を残す
30歳? 7歳?
1942年? 昭和17年 病院火災でヒサコ死亡 35歳? 10歳?
1944年 昭和19年 疎開先に引っ越し(サイパン陥落) - 12歳?

ところで、本作は年号の整合性はあまり重視していないようにも思う。その最たるものは、ヒサコが病院火災で死亡したのは空襲による火災か否かである。東京空襲は1945年だから、ヒサコの病院火災は空襲ではない、という言説がある。しかし、冒頭のカットは明確に空襲警報であったし、空襲自体はオブラートに包みながらも匂わせていた、と感じた。だから、年号の整合性自体は、突き詰める意味は無いのかもしれない。

ラストで元の時間に戻ったときに記憶は消滅してしまうという話だったので、そうなのだろう。眞人に「君たちはどう生きるか」の本を残したのは昭和12年の初版の年である。その年は、ヒミが戻ってきて15年くらい、眞人を産んで7年くらいの頃と思われる。

まず、ヒミは火を使ってこの世に人間として生まれるべきワラワラを捕食するペンギンを焼き払った。このシーンは、食物連鎖の生と死を同時に扱いつつ、ワラワラが全滅しないようにワラワラ自体も犠牲にしながら、命の誕生をコントロールする。ヒミの火は一部に死をもたらすが、一部の生を担保した。つまり、ヒミの火はただ殺すための道具ではない、という事である。

次に、ヒミはセキセイインコに喰われそうになっている眞人を火を通じて救う。妹のナツコが産屋に来ていた事は知っていて、継母のナツコを探していた事から、眞人がナツコの連れ子である事を知る。

成り行きでナツコの産屋に眞人を案内するが、産屋が眞人とヒミの接近を拒むように通路内に火花が走る。もともと、産屋は男子禁制なので眞人が拒否されるのは当然だが、ヒミも拒否されていたのは道案内した時点で同罪だからだろうか。このとき、ヒミは産屋には入らず入り口手前で待機した。

ところで、ヒミが眞人の事を我が子である事に気付いたタイミングは明確にはされていないと思う。産屋で気絶する直前には、ナツコと連れ子を返してと懇願し、火花の怒りを受けて気絶するので、この時点ではまだ知らなかった可能性が高い。最終的に自分の時間に戻るときには息子と理解していたので、この間のどこかに思う。

ヒサコが神隠しに合っていたのが大正11年と仮定すると、この時代は第一次世界大戦も集結し世界中が混沌とし激動のうねりの中にあった。日本は戦勝国ではあったものの、軍縮に伴う戦後恐慌により経済も混乱。そんな状況で大正12年には関東大震災が日本を襲うが、これはヒサコの神隠しの前か後かはハッキリしない。いずれにせよ見通しの効かない時代に、我が子が現実世界を生きるために、勇気をもって行動してくれている(妹を救ってくれた)姿を見て安心したのではないだろうか。

言い忘れていたが、塔の異世界に紛れ込む=現実逃避という面が少なからずあると思う。眞人もナツコもその根拠は十分にあった。ならば、ヒミも現実世界の何かから逃避してしばらく家出していた可能性も十分にある。しかし、ヒミも塔の異世界の崩壊とともに、最終的には現実世界に躊躇なく戻る。それは、現実世界に希望が持てたからと解釈して良いのだろう。つまり、ヒミもまた、眞人との出会いにより救われているのである。

一方、眞人は母親の死に際に合えず、無念や未練が残っていた。そのことについて、下記の図に示す。

ヒミは15歳だったので、眞人から見れば甘えたい母親の距離感よりもはるかに近い、同世代のお姉さんという年齢設定である。その態度や仕草からは、聡明さや快活さが伺える。不思議なことに、ヒミには女の子としての媚びがなく、男子がドキッとしてしまうような、いたいけな美少女感はない。だから、眞人にとってはヒミという女の子を自然な浸透圧で友達として受け入れる事ができる。しかも、洋風な自家製トーストとジャムは母親のぬくもりそのものである。これにより、母親との交流の実績ができるとともに、神格化した母親像を解体し、寄り身近な存在として感じる事ができたのではないかと思う。

また、塔が崩壊して元の時代に戻る別れ際に、戻ってしまえば病院火災で死ぬ運命があると知らされても、眞人を産む幸せがあればいいと断言して戻る。これは、眞人に対する全肯定である。その上、病院火災で死ぬことに無念や未練を抱かないと確約したようなものであり、これが眞人の中の母親を成仏させる。

ここで、ヒミがペリカンを焼くシーンとの関連性が思い出される。一部の命を守るために、一部の命を犠牲にしてきたヒミならではの死生観である。また、それまで病院火災の火は恐ろしいものであったが、ヒミが火を扱っていたことから、それが一方的に恐ろしくて苦しいものではなく、ヒサコ自身が笑って火と同化したイメージを連想させてくれた。

かくして、眞人の母親との別れが完了し、ようやく前に一歩進むことができる。ここに関しては、アオサギやナツコの時と違い、物語のロジックが明確に観客に提示されていたと思う。

再び、物語の展開のロジックについての考察

本作において、物語のガワが「序」と「急」によって問題提示と解決が描かれている事は明解あり、そのプロセスは「破」で描かれている情報を汲み取る必要がある事を、考察の最初に書いた。

さて、一通り「破」の情報を汲み取ってみて、問題点と結論とそのプロセスを整理したものを下記の図に示す。

要約すると、本作の問題提起と解決の間を繋ぐロジックのいくつかは明示的に描かれていない。具体的には、下記2点である。

  • 眞人と継母ナツコの和解のプロセス
  • 眞人とアオサギの対決は「風切りの7番」で偶然勝てた(=ラッキー)
  • 眞人とアオサギの憎悪の関係が、訳もなくすんなり仲間になった

物語の展開をロジカルに描かない事について、私が常々思っている事があるので、ここで触れておきたい。

「成長」を描くためには、それなりのロジックを持って物語を描くのが一般的だと思うが、本作にはそうしたディティールが不足しており不親切だと思う。

たとえば、自転車がスーパーカーと競争して勝つという物語で、なんの説明もなく絵的に自転車がスーパーカーを追い抜くようなものなので、もう少しロジカルに説明して欲しいし、それがプロの仕事であろう。最低限の問題提起と解決が用意されているので物語が無いとは言わないが、途中のロジックが無いので余りにも説得力を持たない。

いやいや、そんなはずはない。映像を見れば台詞無きロジックはきちんと描かれており、それを見抜く目がないだけだ、と主張する人もいるかもしれない。が、私は本作については断じてノーだと思う。意図的にロジックを抜いている複数箇所がある以上、おそらく作為的なモノだと思う。たとえば、観客に考察させて話題や関心を稼ぐというビジネスモデルもあるだろう。ならば、匂わせや誘導というのがあって、100%断言はできないが、そうも取れると描く。本作のロジックが無い部分は、その手がかりすらない。その意味では、究極の考察エンタメと言えなくもない。何せ納得するプロセスに到達するためには、作品内ではなく観客の意識の中から答えをひねり出す必要がある。観客によって十人十色の評価になるのも、そのせいだろう。

もっとも、問題点の解決は必ずロジカルに行われるとは限らない、という主張もある。たとえば、なかなか出来なかった逆上がりがふとしたキッカケでできた、みたいな。これは、ちょっとした気付きがあるか、ないかなので、ここにロジックはない。ただ、本作はこのケースには該当しないだろう。

宮﨑駿監督は、絵コンテで頭から描いてゆくというが、流石に大枠のプロットはある程度決めて創作してゆくだと想像する。だから、問題提起と解決という物語のガワだけあれば、観客の気持ちはとりあえず納得できる、映画として最低限の担保である。しかし、実際に「破」のパートを作る際に、そのロジカルな部分を形成しきれなかったのではないか。塔の異世界に宮﨑駿監督のイマジネーションをつぎ込む事を最優先していたら、ロジックを作る尺が無くなったのかもしれないし、もともと宮﨑駿監督はロジックにはそれほど関心がないのかもしれない。などと、いろいろと勘ぐりたくもなる。

本作に対する好き嫌いは、このあたりのディレクションを許容できるか否かにかかっていると思う。このディレクションは、個人的には許容できなくはないが、ちょっと、あんまりだなとは思う。

おわりに

ちょっと文章量も執筆時間も私にしては長くなりすぎました。

かなり脱線気味に書いたぶぶんもありますが、私が本作に抱いていた違和感みたいなものは、かなり整理して自分では納得できたような気がします。

私は、宮﨑駿監督は好きですが、全肯定というわけではありませんし、気になった部分を言語化できたのは良かったと思います。

それから、個人的には作品に向き合いたいので、宮﨑駿監督語り、ジブリ語りみたいな話は極力少なくしているのですが、いろんな人のブログを読んで、多くの人はそれが書きたいし読みたいのだな、と思いました。

青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

おでかけシスターの映画を観たので、いつも通りの感想・考察を書きました。

映画とは言っても、ルックはTVシリーズのままで74分の比較的短い尺でしたので、OVAと言うべきなのかもしれません。本作もまた他の青ブタシリーズ同様に、地味ながら味わい深い良作だったと思います。

感想・考察

本作の位置づけと概要

原作小説(高校生編)は、下記の順番で出版されている。

No タイトル アニメ 備考
1 青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない 1~3話
2 青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない 4~6話
3 青春ブタ野郎はロジカルウィッチの夢を見ない 7~8話
4 青春ブタ野郎はシスコンアイドルの夢を見ない 9~10話
5 青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない 11~13話
6 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 劇場版ゆめみる(一部13話)
7 青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない 劇場版ゆめみる
8 青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない 劇場版おでかけ
9 青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない 劇場版ランドセル 2023年12月公開予定

青ブタ(高校生編)はハツコイ少女で咲太の問題のクライマックスを迎えて、いったん区切りが付く。おでかけシスターとランドセルガールは、その後に起きる後日談的な位置付けだと考えていいだろう。

本作は、記憶の戻った花楓が主人公であり、テーマは高校受験(=進路問題)である。

かえでから花楓へ

11話から13話の「おるすばん妹」の回は、花楓の記憶が戻り、かえでが喪失する物語だった。かえでの一番の理解者であった咲太の気が動転し、大人祥子が咲太を慰めた。

かえでと花楓が同時には存在することはなく、二人が出会うハズもない。しかし、かえでのノート(=記録)だけは花楓が受け取った。

花楓は思春期症候群のキッカケとなったいじめによるストレスも残っているから、急に中学校に復帰するわけにもいかない。2年前の記憶を失ったところから花楓は人生を継続(再開)する事になる。しかし、花楓にとって2年間のブランクがあり、その間に住居も家族の様子もすっかり変わってしまった。これは、浦島太郎が竜宮城から戻って来たみたいなものだろう。

母親が花楓の思春期症候群のせいでメンタル不調となり父親が面倒をみているため、親子別居になっていた。兄の咲太は気持ち悪いくらいに優しくなり、恋人の麻衣さんは美人なタレントだし、聡明な妹ののどかとも交流があり、みんなが親切にしてくれる。

なお、学力だけはかえでの勉強が引き継がれるというご都合設定はあり、なんとか中学卒業はできそうという状況下で、中学卒業後の進路選択が迫る。

花楓の葛藤

本作では、花楓にとって頑張り屋だったかえでがプレッシャーになっていた。

花楓がかえでの事を意識するのは自然なことだろう。作劇場はまったくの別人格だったが、もう一人の自分(自分の可能性)と考えると他人事ではない。花楓がかえでのノートを預かっていたのは、かえでの分まで生きるというニュアンスを含んでのことだろう。ある意味、かえでのノートが花楓の勇気になっていた。

ノートに書かれたかえでの文字は小学生みたいに稚拙である。その文字で細かく目標を書き込み、ステップアップしながらできる事を増やしてきた。花楓がどこまで知っていたかは分らないが、かえでが頑張り屋である事は十分に伝わる。なにせ、外出恐怖症なのはまったく同じなのだから。

だから花楓は、かえでの願いを受けて峰ヶ原高校に行きたいと願い、行かなければならないと思い込んだ。学力については受験勉強を必死で頑張った。周囲のみんなが勉強を手伝ってくれたおかげもある。これで不合格だとみんなに会わせる顔がない。

しかし、受験の願書提出でも手にあざが広がり、受験当日は昼休みに同じ中学の制服の受験生を見たら耐えられなくなり倒れてしまった。

花楓はかえでの願いに、咲太やみんなの期待に応えきれず裏切ってしまったという自己否定で動けなくなってしまった。

ちなみに、これはかえでが中学校に行きたいのに電柱が邪魔をして前に進めないというシーンと同じで、気持ちはやりたいが心が拒絶してできないパターンである。

花楓の問題点の整理

物語における花楓の問題点を下記に整理した。なお、水色が理想であり、ピンク色が現実である。

花楓のモチベーションの基本は、かえでの分まで生きたいというところにあったのではないかと思う。それを受けての峰ヶ原高校受験だが、学力的な問題は努力でなんとかなったが、本質的にいじめのトラウマを克服する事は努力ではできない。やりたい、けどできない。ここで挫折を味わうことになる。

そして、もう一つの選択肢である通信制高校への進学を選択する事になるが、ここで花楓にいくつかの気持ちの整理が必要になる。そこで、咲太は通信制高校に在学する現役アイドルの広川卯月から現場の声を聞かせる。

花楓の自己肯定感の低さの要因はいくつかある。目標の普通高校に行けなかった負け組というレッテルについては、通信制高校でも生き生きと現役アイドルをしている卯月の存在を見せ、高校で勝ち負けは決まらない事を理解してもらう。そして、いじめ被害者であった過去の自分に対しても、過去の自分があってこその現在であり、過去を否定せずに好きと肯定する。この2つは、今から訪れる高校時代の花楓を肯定するものでもあり、それは大人になった未来の花楓にとっても高校時代の花楓を「好き」と言える予感を示す言葉でもある。

そして、かえでの分まで生きたいという気持ちに対しては、かえでのための人生じゃなく、自尊心を持って花楓の人生を生きればいい事を理解してもらう。これもまた自己肯定感の低さからの脱却である。

作中では、通信制高校に対する説明会やプロモーションビデオでネガなイメージを払拭するための説明にかなりの尺をとっていたと思う。しかし、それらの長々とした説明よりも、卯月の言った「過去の自分も好き(=肯定)」という言葉が花楓の心を塗り替えていったように感じた。

少し深読みになってしまうが、これは直接的にはいじめられていた過去の花楓の肯定であり、さらにはかえでの肯定(=好き)でもあるように思う。入試当日、保健室で感情をぶちまけた花楓は、みんなが好いているのは頑張り屋のかえで、試験で失敗してしまう花楓はかえでのように愛されない(=否定)と考えてしまっていた。つまり、花楓はかえでに嫉妬し自分を蔑んだ。だから、今一度、かえでを肯定して好きになる事が必要なんじゃないか、と感じた。

咲太の動揺

今回の咲太の兄としての対応力、懐の深さには驚かされる。

咲太は注意深く、花楓の進路は花楓の意思を尊重しつつ受験勉強に集中させ、こっそりと通信制高校というバックアッププランも検討し情報収集と準備を進めていた。結果的にバックアッププランに進む事になるが、その際ものどかを通して卯月に現場の説明を依頼する。

いつも余裕で完璧すぎる兄を演じているが、唯一、咲太が驚き焦るシーンがあった。それは、本作のクライマックスとなる入試当日の保健室の花楓の叫びを聞くシーンである。花楓の峰ヶ原高校を第一志望にした理由が、かえでが願い事だったからという事に気付けなかった。その結果、花楓を追い込んでしまった。完全に盲点だったのだろう。

こうなる事が分っていたら、おそらく咲太はかえでのノートを花楓に渡さなかっただろう、という後悔に感じた。

普通の人である、花楓を主人公にしてくれたこと

本作は、青ブタシリーズの中でもトリッキーな思春期症候群を解決するための物語ではなく、誰にでも経験のあろう高校受験というイベントで、飛び道具なしで花楓のドラマを描き切ってくれた事が新しい。

ドラマとしては、花楓が願書を提出するシーン、入試当日の保健室のシーンの盛り上がりの演出の強いシーンもあるが、基本的には花楓の挫折と心のケアを真面目に描いていた事に好感を持てた。地味ながら心にしみる良作だったと思う。

これも青ブタシリーズという枠組みがあってからこそ、地味とも言えるテーマをアニメ化できたモノと思う。通常のオリジナルアニメでこのような企画が通ることはまずないだろう。その意味で、青ブタシリーズという作品と原作者、およびアニメスタッフには感謝しかない。

おわりに

それにしても、原作の鴨志田一先生のキャラ掘り下げの丁寧さには頭が下がります。かえでの問題が一段落して登場した花楓に、こんなドラマを作ってくれるとは。想像の上を超えてました。

アニメーションとしては従来通りの青ブタであり目新しさはなく、物語は地味だとは思いますが、丁寧なドラマ作りの良作だったと思います。