たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

リズと青い鳥

映画と原作小説のネタバレ全開です。閲覧ご注意ください。

はじめに

私は、山田尚子監督&吉田玲子脚本の大ファンであり、響け!ユーフォニアムの大ファンでもあり、当然「リズと青い鳥」は非常に楽しみにしていたのですが、鑑賞後の感想は、自分でも驚くべき、「虚無感と味気無さ」でした。

私は、常々、ブログやツイッターでは、作品の良いところ、凄いところに注力して書いていますが、今回は例外的に、ネガな感想を書いていますので、そういう感想が嫌いな方は、ご遠慮ください。

ちなみに、私のユーフォ経歴は下記の流れです。

  • TVアニメ 1期/劇場アニメ 1作目
  • TVアニメ 2期/劇場アニメ 2作目
  • 小説 第二楽章
  • 小説 立華高校
  • 小説 ホントの話

リズと青い鳥」を、いつものように劇場で鑑賞し、映像美に息をのみ、みぞれと希美を追いかけて、期待通り原作通りの二人の内面を浮き彫りにして、よしよし、と見終わった時、私は泣いていませんでした。そして何とも言えない「虚無感と味気無さ」を感じていました。これについて、自問自答しなければ、今回のレビューは書けないと思いました。

なので、前半は、その分析に当てました。後半は、いつも通りのキャラ毎の考察&感想です。

2018.5.3追記 2回目鑑賞で本作の評価が変わったというブログはこちらです。

鑑賞後に感じた「虚無感と味気無さ」

見事なロジックの原作小説

私の中のみぞれと希美の物語は、原作小説の第二楽章(とホントの話)で一旦決着した。

そのときのブログがこちら

みぞれと希美の気持ちは、その年代ごとに変化している。

南中でのキラキラした出会い。みぞれが北宇治高校を選んだのも希美を追いかけてなのだろう。1年のとき、北宇治吹部の空気に耐えきれず、何も告げずに仲間を引き連れて退部した希美と、残されて、それがトラウマになる程のみぞれの悲痛。2年で戻ってきた希美と、歓喜するみぞれ。3年でみぞれの才能と環境に嫉妬して打ちのめされる希美。希美が居なくなる不安を抱えて噛み合わない演奏を続けるみぞれ。

そして、みぞれからの大好きのハグでぶつけるみぞれの気持ち。みぞれは希美の全てが好きで、希美はみぞれのオーボエが好きで、という埋まらない溝が明確になり、突き放すのでも無く、好き会うのでも無い関係。

物語の最後、身の丈のあった市立大学に進学する希美と、希美の願いならばと音大に進む決意をし、希美無しの人生を選択出来たみぞれ。

これが、第二楽章のみぞれと希美の物語のあらすじ。

隙のない映像美の映画

これに対し、映画はみぞれと希美の二人を追いかける事に注力し、ノイズとなる他のキャラや要素は極力カット。これは、この物語がみぞれの見えている狭い世界しか描かないから。そして、みぞれと希美の二人の解釈は原作小説を正確に捕らえていて違和感が全くない。

繊細で的確で狙いの明確な表情やカメラワークや効果音や劇伴。穏やかで柔らかな色調の映像。山田監督の丁寧なカットの積み重ねは、もはや人間国宝級だと思う。

冒頭のシーンは、日曜練習の朝、希美の登校を待ち、希美が来たら希美の後を少し離れて付いて歩き、音楽室に入る。そして二人で自由曲「リズと青い鳥」の話をして、たわいの無い時間を過ごす。

みぞれの微熱と、希美の不思議なよそよそしさが、普通の友達じゃない異様な空気が、普通だったら描けない空気が、この映画では事も無げに描かれている。

この映画は、客観的に分からないみぞれの気持ちにメスを入れ、これまた客観的に分からない希美の気持ちにメスを入れ、このぎこちない二人が何を考えているのか?途中で種明かしする作りになっているので、どちらの主観も持たず、第三者として客観視する構造になっている。

二人のどちらにも寄り添いすぎない、客観的な視点がこの作品の特徴だと思う。

途中、みぞれ覚醒と大好きのハグのシーンは、オーディション後の構内に前倒しされたというタイミングの差はあるが、それも映画の尺を考えれば、そうなる事は理屈で分かる。

私にとっては、大好きな原作小説の非の打ち所の無い映像化だった。頭の理解では完璧な映画化のハズだった。

鑑賞後の虚無感について考える

理由は不明だが、先にも書いたが鑑賞後に泣くこともなく、虚無感に浸ってしまった事について、ずっと考えていた。以下、幾つかの仮説を立てて、自分の心に何が起きたのかを考えてみる。

仮説1:知りすぎた物語とキャラ(原作機読者にとって予定調和の物語)

原作小説の第二楽章は、みぞれと希美の物語はその二人の考え方、行動がトリッキーな所もあり、注意深く読まなければ、二人の心に寄り添えない雰囲気だった。行動、台詞や、文章中から、心の中で熟成しながら二人の心をなぞるような読み方をしてた。

要するに、原作小説を読んだときに、みぞれと希美の事を考えに考え抜いたし、それが楽しかった。

映画では、何気なく描かれた数行が、動き、音、匂いを持って描かれていて、それが違和感が全くない。

ここでふと思うのだけど、違和感が無く全く引っかからない映画というのがあったとしたら、面白いだろうか?全てが予定調和の映画である。頭の先から尻尾の先まで物語を知り尽くしている、そんな映画が楽しいだろうか?

この問いに対して、私の答えは、ケースバイケースという微妙な回答である。

原作小説の映像化であれば、映像自体の驚きや気持ちよさがあって然るべきで、その楽しみは確かにあった。それが超一流シェフである山田尚子監督、吉田玲子脚本というハードルの高さがあり、その期待値を越えなかったのでは無いか、と感じた。

非常に贅沢な事を言っていると自分でも思う。

仮説2:寄り添えなかったキャラの気持ち(敢えて封印されたドラマチックな演出)

本作と同じアニメーション制作会社である京アニのTVアニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という作品がある。私は毎週見て、毎週泣いていた。

変な話だが、泣かせるための映像というのは確かにあると思う。キャラクターの心情に寄り添い、激しい感情を共有し、視聴者の心を揺さぶる。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のシリーズ構成は吉田玲子さん、その5話の演出は山田尚子さんであり、隣国に嫁ぐ姫君の物語であった。私はこの5話でもボロボロと泣いている。

しかし、本作では、そうした感動的なシーンを敢えて排除し、わざとらしいドラマを描かない。その空気ごと切り取り、その空気の先に、ありのままの人間のドラマを感じる演出。これはとてもストイックで、挑戦的で、大人だと思う。

原作小説では、みぞれ覚醒の演奏はもの凄く破壊力があるドラマチックなシーンとして描かれていたが、本作では、そのシーンさえも、余分なものを描かない引き算の、大人な演出だったと思う。

普段なら、大人の演出がカッコいいと思うところだが、今回は何故か、引っかからなかった。

それは、少し前にも書いたが、みぞれと希美の主観に寄らず、二人を客観的に見てきた、本作の視点に依存するものでは無いかと想像している。あくまで、他人の行動を覗いているだけで、気持ちの内面に入り込む演出では無かったと思うし、それが、キャラの心情に寄り添えなかった原因の一つではないかと思う。

仮説3:スケールの小さな箱庭の物語(さざ波の様な揺れ幅の狭い繊細なドラマ)

仮説2に通じるが、作品の普遍的なテーマやメッセージについて深堀して考えてみたり、激しい愛情だったり、突然の死別だったりの激しい感情があれば、静かな演出でも胸をエグると思う。

今回は、思春期の少女達の静かな愛や憎悪を、静かに空気ごと切り取った。

極論してしまえば、微妙な関係の女子高生が、何かに傷ついたり、仲直りしたり、という微妙な話。

しかも、明確な独り立ちが出来た所までは描かず、「物語はハッピーエンドがいい」という言葉通り、改善方向に舳先を向けた所で終わる。

府大会も関西大会も無し。オーディションの選抜競争も無し。

さざ波の様なドラマの終わりをみて、味気なく思ってしまったのかも知れない。

精進料理とフランス料理

本作の映像としての技術・技巧のレベルの高さは言うまでもない事実だと思う。

このテーマにしてこの調理はシェフとしては全く間違っていない。

しかし、研ぎ澄まされた精進料理よりも、より分かりやすい美味しさのラーメンやフランス料理の方が体(精神状態)に合っている、という事はあると思う。

私の場合、たまたま、先に説明した3つの仮説が合致してしまい、素材の味を生かした、精進料理を口にして、たまたま味気ないと感じてしまったのかもしれない。

多分、原作小説を読まずに映画を見たら、様々なフックに引っかかり、色々と考えて、楽しめたのではないかと思う。

ただ、精進料理もずっと食べていると、舌が馴染んできて、美味しく感じるのかも知れない。

いろいろ書いたけど、これが私の心に感じた正解かどうかも分からない。2度目の鑑賞で、また違った発見があるかも知れない。

2回目を観て、感じるところがあれば、またブログを書くと思う。

キャラごとの考察・感想

鎧塚みぞれ

みぞれは、オーボエのエース。ダブルリードパートのパートリーダー

大好きのハグはみぞれから希美への告白である。

原作小説では、みぞれは大好きのハグに当初、かなりの抵抗を感じていたが、映画ではその部分も異なっていた。

また、原作小説では、みぞれのオーボエ覚醒から大好きのハグするまでに、夏季合宿から関西大会2日前まで2週間くらいかかっている。それは、希美が音大に行かない事をどう考えているのか?久美子に問い詰められて現実を直視できずに思考停止してしまい、その後みぞれ覚醒があり、その後もずっと考え続けてやっと行動が出来る、という時間が2週間だという理解である。

映画では尺の関係もあり、みぞれ覚醒後、すぐに大好きのハグのシーンに繋いだものと思う。

少し意外な感じもしたが、みぞれ覚醒は、リズ(希美)が望むから青い鳥は飛び立つ事が出来るロジックを受け入れていて、この時点で、半分、希美離れが出来ている、希美と対等な立場にある、という事だと理解した。

みぞれは自分の髪をいじるシーンが多用された。何となく落ち着かない時に、いじっている様に感じた。

表情で言えば、後半驚いたときに目を丸くするシーンが多々あったように思う。

また、ラストで大好きのハグをする辺りのシーンでの横顔がずいぶんと丸くて柔らかい感じがした。

みぞれのハッピーアイスクリームのシーンは何気に好きである。

今まで完全に従う立場であったみぞれ。でも最後は、鳥籠である学校から外に出て、アイスクリームをおねだりする、そういった対等の関係への第一歩。

そんなラストに感じた。

傘木希美

希美は、フルートパートで「のぞ先輩」と親しまれていて、多分、フルートのパートリーダー吹奏楽部の会計。

希美は、南中3年で吹奏楽部部長をしているとき、京都府大会銀賞という苦渋を舐め、北宇治1年で先輩のいじめに合い集団退部し、そして、リズと青い鳥の演奏でみぞれのオーボエの才能に打ちのめされるという、負け負けの人生を送ってきた。

原作小説では、希美はこれらの負債を他者に感じさせないように、努めて明るくし、その際に無理やり口角を上げて作り笑いをする、という癖が強調されていたが、映画では、あまり感じられなかった。

みぞれからの大好きのハグに対して「のぞみのオーボエが好き」と言ったのは、希美がみぞれのオーボエに嫉妬し、みぞれという人間を好きにはなれなかったからで、要するに告白を拒否したという事だと思う。

それでも、最後は、みぞれのオーボエに応えられる様にフルートを吹くことを誓った。

本作では、みぞれの視野の範囲でしか描かれないので、希美の心をケアする存在が描かれなかった。みぞれは希美依存からの脱却への一歩を進めたが、希美の傷は誰が癒すのか?いずれにせよ、希美が前に進むには、この傷を自分自身で受け止めて一歩を踏み出すしかない。

ところで、希美は、片足だけ踵を上げたり、つま先を蹴ったりする癖が見受けられた。多分、嘘を付いたり、面倒くさくなった時の仕草なのだと思った。

剣崎梨々花

梨々花には明確な役割が与えられていた。それは外部からみぞれの殻を破る事。

梨々花の特徴は、先輩にも物怖じせずに、砕け過ぎな感じで接する、マイペースキャラ。

原作小説では、梨々花と奏は、いつもふざけた口調で、なかよし川を連想させる名コンビなのだが、反面、二人で1年生達を掌握している雰囲気もあり、なかなかの曲者みたいな雰囲気を出していたが、映画ではそのような雰囲気は微塵も感じさせなかった。

梨々花は、ダブルリードパートの下校時の寄り道に、みぞれを誘うがいつも断られていた。

そうこうしているうちに、一緒にリードを作ってもらえたり、プールに誘ってもらったりと、少しづつみぞれとの距離を縮めてた。

オーディションの結果が発表された日、みぞれと梨々花の二人だけの教室で、スマホのプールの写真を見せながら、ふいにオーディションに落ちた事で、みぞれの前で泣き出す梨々花。いつも、ふわふわした対応とは違う、内面の悲しみをみぞれと共有した瞬間。

みぞれも、言葉で慰めたりしない。ただ二人で、夕方の教室で向き合ってオーボエを吹くシーンで、ジーンときた。

希美のフルートパート内は、いつもかしましく賑やかで、1年生の恋の話で盛り上がり、表面的な付き合いである事を感じさせたが、それとは対照的に、ダブルリードパートの希美と梨々花の繋がりは、静かで確かな感じがした。

みぞれの鎧を破る剣。みぞれの希美以外の人間関係の成立は、希美依存脱却の第一歩。

高坂麗奈黄前久美子

今回は流石にモブキャラだった久美子と麗奈。

印象的だったのは、リズと青い鳥の第三楽章「愛ゆえの決断」を二人で吹いているシーン。

みぞれのリミッターに不満を持っていた麗奈が、みぞれに聞かせるためにこれみよがしに吹いたのか?麗奈と久美子の関係が上手く行っている事を再確認したくて吹いたのか?

真相は不明だが、演奏後の二人の笑顔を見ると、二人の蜜月はまだ続きそうな雰囲気に見えた。

まとめ

今回のブログはネガになってしまうので、とても苦しみながら気を使いながら書きました。

結局、私は映画の何が、アニメの何が好きなのか?という自問自答をしました。

多分、響け!ユーフォニアムという作品が、TVアニメ、原作小説を含め、どこに響いたのか?映画「リズと青い鳥」が何故、響かなかったのか?

膝を打つような納得の回答は、導き出せませんでしたが、この映画が、今までに無い、特別な映画という事は、SNSの反応などを眺めていても感じます。

山田尚子監督の次回作は、もう少し底抜けな映画としての楽しさが味わえる作品になる事を期待しつつ、私は次回作も楽しみに待ち続けると思います。

2018.5.3追記 2回目鑑賞で本作の評価が変わったというブログはこちらです。