ネタバレ全開です。閲覧ご注意願います。
はじめに
いつもSNSやブログで他人の感想・考察をみているのですが、また、いくつか気になるネガ意見がありましたので、ブログに書いてみました。異論は認めます。
前のブログ、前の前のブログもありますが、今回も新規に記事を起こします。
なお、私はTVシリーズは未視聴、原作小説は未読ですが、(その2)の記事の後に文庫本の劇場版の小説を読みました。おっこ主観で書かれていておっこの心情の深掘りがありますので、こちらもおすすめです。
考察・感想
滅私について
滅私はおっこの人格否定なのか?
今回は、下記のネガ意見について考えていました。
- 本作のクライマックスシーンは、おっこが若おかみという共同体の一員になることで完結し、おっこが本来持つべきプライベートな人格を否定している。(超意訳です)
本作のクライマックスシーンでは、木瀬文太が両親を交通事故死させた相手と分かり、パニックになり、外に飛び出し、グローリーに抱擁され、最終的には、立派に若おかみとして木瀬一家を春の屋に迎え入れます。
これは急展開でしたが、おっこが持っていたはずの恐怖や悲しみを帳消しして、おっこという自己を捨てて、旅館の若おかみという共同体に属する事でハッピーエンドを作った、という解釈です。
こう思ってしまう気持ちは、何となく分かりますが、私は上記の様には思いませんでした。
グローリーの抱擁により、両親の死を受け入れる事ができたおっこ
クライマックスシーンについては、前回のブログでも書いているので詳細はそちらを参照ください。
クライマックスシーンの私の解釈について抜粋で書きます。
おっこは、「帰りたい」「一人にしないで」と泣き叫びながら旅館の外に飛び出します。この気持ちはおっこが抑圧してきた幸せな家庭に戻れない事の寂しさ、両親といつまでも居たいという無念。
この心の傷は、独りぼっちじゃない、みんながおっこの事を大切に思ってくれてる、両親が居ない寂しさがあっても、みんなが居てくれる事で、前を向いて歩いて行ける。だから、両親との別れを受けれても大丈夫。その事をおっこが理解しないと、おっこの心の傷は癒えないのだと思います。
そして、外に飛び出したおっこの心の傷を、抱擁で癒したのがグローリーでした。
グローリーは夏に宿泊した時に、両親の死がおっこを抑圧している事、その抑圧がいつか決壊する事を察知していたと思います。
グローリーはクライマックスシーンでおっこが泣き止むまで抱擁で受け止めました。そしてクルマの中に入って、おっこは両親の事、ウリ坊や美陽の事をグローリーに話します。グローリーはそうした幽霊話を真面目に聞き、その上で、おっこは一人じゃない、と言います。
おっこには峰子やエツ子や康さんの春の屋旅館の仲間がいます。小学校の友達がいます。そしておっこが紡いできた旅館の客との縁があります。とりわけグローリーはおっこの事を心から心配して、おっこの寂しさを両親の代わりに受け取ってくれました。
おっこは、この時点で両親の死を受け入れる事が出来たのだと思います。つまり、交通遺児の関織子は、この時点で救われていた。
木瀬一家を引き留めた、若女将としてのおっこ
両親の死を受け入れる事ができたおっこは、交通遺児の関織子から若おかみのおっこに頭を切り替えていきます。
今、目の前の木瀬文太というお客様は、自分が交通事故で両親を死なせてしまった子供を前に、いたたまれない気持ちになっています。つまり、文太の心の傷は、関織子への罪悪感です。
おっこはこれまでの若おかみとして、お客様ごとにおもてなしをし、お客様を笑顔にしてきました。ならば、おっこが文太を赦し、若おかみとして元気に頑張っている姿を見せる事が、文太の心の傷を癒し救うことになる。
文太は「あんた、俺が交通事故で両親を死なせてしまった一人娘の織子ちゃんだろ?」と聞き、おっこは「いいえ、春の屋旅館の若おかみのおっこです」と答えます。(台詞うろ覚えです)
劇中では、文太が救われる姿までは描かれていませんでしたが、見えない所で文太の心は救われていたのだと思いたいです。
SNSなどを見ていて文太への恨み、怒りがきれいさっぱり消えるのが変、という意見も見かけましたが、本作のおっこは両親との別れを受け入れられない事、交通事故のトラウマがある事は描かれていましたが、加害者である文太への恨みは描かれていませんでした。おそらく、その気持ちは最初から無かった、という事だと理解しました。
だから、おっこのこの台詞は、自我やプライベートなおっこを捨てるという意味じゃなないと思います。おっこが前に進めたのは最後に若おかみ発言したからじゃなくて、グローリーが受け止めてくれたから。その上で、いつも通りの若おかみとしての自分を取り戻して、文太を引き留めた。
おっこの心の傷はグローリーが癒した、文太の心の傷をおっこが癒す、花の湯温泉のお湯は誰も拒まない、という構図に思います。
高坂監督のコメント記事の中の「滅私」
高坂監督の公式HPのコメント記事を下記に引用します。
キャスト・スタッフコメント|映画「若おかみは小学生!」公式サイト
監督: 高坂希太郎氏コメント
物語は11~2歳の女の子が超えなければいけないハードルが有り、今時の娘には理不尽に 映るかも知れない作法や接客の為の知識、叡智を身に付けて行く主人公の成長を周辺の 人々も含め、悲喜こもごもと紡いで行く。
この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、 その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う 「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。
主人公おっこの元気の源、生き生きとした輝きは、春の屋旅館に訪れるお客さんに対して 不器用ではあるが、我を忘れ注がれる彼女の想いであり、それこそがエネルギーなのである! ある役者が言っていた。役を演じている時に生きている実感があり、家に帰りひとりに なると自分が何者か解らなくなると。詰り自分では無い何かになる。他人の為に働く時 にこそ力が出るのだと!
本作で言いたかった事は、一生懸命仕事をする事で、お客様を笑顔にし、自分自身も喜びを感じる。そしてお客様から、雑誌記事や、友情や、色々なお返しがある。そうした嬉しい事が繋がって輪になる。そして、それは一生懸命にやる、という先にある。
つまり、仕事に関して相手に尽くすプロフェッショナルであれ、という事じゃないかと思いますし、本作を観て私はそう感じました。
滅私=一所懸命で、決して、自我やプライベート面をないがしろにしたり、否定したりするものでは無いと思います。
ただ、高坂監督は更に、一所懸命=自我の形成となる、という所まで語っているような気がします。
なんとなく「滅私」という言葉に過剰反応する人たちが居るのも分からないでもないですが、本作のテーマはもう少しシンプルなのではないかと思います。
おっこの若おかみ修行の是非
本作が少し面倒なのは、おっこが小学生でありながら若おかみとしての仕事をしている事にあると思います。
ただ、それを言ってしまうと、児童文学の憧れのスーパーヒロインとしての小学生若おかみを否定する事になってしまいますし、それはそれで原作小説ファンを裏切る事になるので、それは代えがたい設定だと思います。
大人であれば、仕事と言うのは。雇用契約に基づいた労働の対価として賃金をもらいますし、オフ/オフや公私は明確な区別ができる。だから契約の範囲で義務が生じ、契約外の範囲のオフは保証される。ただ、おっこは家の仕事の手伝いとして、雇用契約もなく賃金ももらわずに若おかみの仕事を体験している。
その事を児童就労と文句を言うネガ意見も拝見しましたが、若おかみ修行は家の手伝いなので法律的には労働外だと思います。
その次の問題として、貴重な小学生時代を、若おかみというお手伝いで浪費してしまう事が、プライベートな時間を搾取しているのではないか?というネガ意見。
確かに、東京時代の生活に比べて、若おかみの手伝いの時間により、プライベートな時間は少なくなっているとは思いますが、ゼロにはなっていません。
それは、友達のよりこの和菓子屋でのスイーツ試食会だったり、グローリーとのドライブやショッピングだったり。
ちなみに小説版では、おっこがグローリーに買ってもらった黄色の洋服を着て、その服に合わせて友達のよりこ達がおっこの髪型をいじるという、女の子らしいくだりがありましたが、映画にはありませんでした。きっと尺の都合でカットされたのだと思います。
また、プライベート面で両親を意識しなければいけないシーンが、これから先おっこが生きていく中で何度も登場する事はあると思います。例えば、運動会や参観日などのイベントで。
その時は、また誰かに涙を見せても良いと思うのです。峰子でもグローリーでも。
ちょっと不幸だったのが、峰子が仕事の上司だった事です。
旅館の仕事を覚えてもらうために、峰子の厳しい態度ばかりが目立ち、劇中でおっこに優しくしているシーンがありませんでしたが、それも演出上の話であり、おっこの両親の写真の前に、露天風呂プリンをお供えする優しさを、見えない所でおっこに注いでいるのだと思いたい。
人間万事塞翁が馬。結局、どのラインが幸せで、どのラインが不幸というわけじゃない。
何より、若おかみとしてお客様におもてなしする事が、おっこ自身の喜びになっていた。
そういう意味で、私はおっこが不幸だとは感じませんでした。
おわりに
今回書いたネガ意見というのは、大きく二つの根本があると思いました。
- 滅私という、おっこの自我、プライベートの否定というネガ意見
- 小学生若おかみという設定自体へのネガ意見
前者はドラマ的に構図が違うと個人的に言えるのですが、後者は児童文学ゆえの憧れのヒロインの活躍による爽快感を前提としている設定なのに、その設定自体を否定しているので、歯切れの良い見解が書けませんでした。
ただ、こうした児童文学ならではの楽しさの部分を素直に楽しめる私としては、そこを否定してしまう人をなんだか勿体なく思ってしまいます。多少の嘘は盛ってある。それに騙されて楽しめる、という事も大事なのではないか?などと常々思っています。
また、上記は個人的な感想なので、こうした感想もある、くらいに思っていただければ幸いです。