たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~ 9話~12話

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はじめに

バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~」(通称、カラパレ)を熱く語るブログです。今回は、総括と9話から最終回の12話までを語ります。

私は2019年冬期アニメで一番ドハマりした作品です。過去2回ブログを書いていますので、良ければ合わせて見てください。

また、2019年4月27日17時~5月6日期間、YouTubeで全12話一挙配信あります。良い作品なので是非、この機会に観てください。

総括(考察)

「カラパレ」とは何だったのか?

シリーズ構成、横手美智子さんの放送前コメント

放送前のシリーズ構成の横手美智子さんのコメントを引用する。

 

小さな村でおこる、
ささやかな出来事のお話です。
皆さんも、村のカフェや丘の上から
一緒に眺める気持ちで、
楽しんでください。

シリーズ構成 横手美智子

このコメントが本作のディレクションを的確に表していると思いますし、このブログはこのコメントをヒントに書いています。

いつか見た子猫の記憶(私的ポエム)とカラパレ

ここのところ、カラパレとは一体なんだったのか?というのを言語化しようとして、ずっと悩んでいた。が、ふと、いつだったか見た猫の親子の事を思い出して、あぁ、これってカラパレだったなぁ、と思ったので、私のその記憶を恥ずかしながら私的ポエム風に書いてみた。

小春日和の昼下がりのこと。
アパートに囲まれた駐車場の奥の方に
二匹の子猫と母親猫を見かけた。
子猫たちは無邪気にじゃれ合っている。
そして傍らには、それを見守る母親猫。

そのうち、片方の子猫がアスファルトの
地面の上を動く蟻を一匹見つける。
子猫は前足で蟻を踏みつぶそうとするが、
踏みつぶしたつもりの前足を動かすと蟻は再び動きだす。
子猫は不思議な顔をして、これを何回か繰り返す。

そして飽きたのか、再び二匹の子猫がじゃれ合う。
しばらくしたら、向こうの方に歩いて行ってしまった。

言うまでもなく、子猫=ソナタ達、母親猫=アルディ達、蟻=映画。

何の悪意も無い、媚びも無い、計算も無い。日常の幸福な1シーン。おそらく、誰もがこの光景を見れば、心が和み、穏やかな気持ちになれるのではないかと思う。

視聴者の多くは、学校や会社で成績、効率、業績UPに励む戦士なのだと思うが、そうした戦士にも上記の様な、心の休息は必要だと思う。本作は、日常生活で多忙を極め、普段見失いつつある人間(もっというと全生物)の根本のホッとする幸福感を描く事がテーマだと思った。

もっとも、カラパレの中では、こうした微笑ましエピソードだけでなく、相手を思いやるがためのドラマもキッチリ描いてて、そのドラマに引き付けられてゆく事になる。

描かれたのは、のどかな村の子供たちのドラマ

本作の視聴者は、ソナタ達の子供の視点で、パーレル村という田舎ののどかな生活を体験する。田舎の子供ゆえに、そこで描かれるドラマはささやかな素朴なモノで、映画を見て凄く感動するとか、上映会で上映する映画1本を一人で選べず、友達の前で、思わず涙を流してしまうとか。

もし、主人公たちが大人であれば、古臭い映画で感動もしないし、締切りを考慮して割切った仕事をこなすだろう。大人は、こんな事で悩まない。

子供なら、自然に共感できる部分もあるし、大人なら、子供を見守り愛おしく思う視点で観る事が出来る。もちろん、大人でもソナタ達に自然に共感しても構わないし、どちらかと言えば、私はそっち側だ。

絶対に描かれない、競争、争い、努力根性、恋愛

本作が特徴的なのは、友達と一緒に過ごす中で、相手の個性を尊重し、相手を認め、相手を受け入れる。そして、いつもポジティブに話を楽しい方向に薦める。要するに、心がとても健やかで健全である事。

そのテーマを描くために、本作では通常の作品に登場する、競争、争い、努力根性、恋愛が全く描かれない。

通常の深夜アニメ作品には、根性で全国大会優勝という目標を達成したり、解決必須な問題を努力で解決したり、そうしたカタルシスを味わう物語に慣れ過ぎている。これは、作品を企画する段階で、その方が売れるというマーケティングのセオリーがあるからだと思う。しかし、本作は敢えて、それを取り込まずに排除する。

おそらく、冒頭に書いた、子猫の観察をして、心を浄化する事が本作のテーマだと思うので、そのような刺激物を排除しているのだと思う。

食べ物で言えば、通常の作品が人口調味料使用の添加物いっぱいの刺激的な食べ物、対して本作が無添加、天然素材の体に優しい食べ物、といったところだろうか。

少し脱線するが、本作の作画や演出が尖っておらず平凡なのも、こうした刺激物を排除し、物語と言う素材を味わうための配慮だったのではないか?とさえ思っている。

子供たちを見守る大人たちの存在

この世界の設定として、マーメイドは真珠から生まれるので、マーメイドに親子の概念は無い。ソナタ達は寮で共同生活をし、そこには寮母はおらず、基本的には自主性に任せて暮しているいる。

ソナタ達の親代わりになっているのは、パーレル村のアルディらの大人たちである。なお、カプリ達の姉代わりがソナタ達という関係もあり、ある意味、村が一つの家族として機能している。

その、アルディ達による、ソナタ達の子育ての接し方が非常に良い。

下記は偶然読んだ子育てに関するブログ記事だが、子育てこうあるべきという内容が、アルディ達の接し方そのものであり、読んでいて驚いてしまった。

  • 1年間の育休で痛感したパパママの罪 – アゴラ

    • 要約すると、子供の多様性の芽を摘まない様にするために重要な事は、
      • 「ダメダメ攻撃」はNG
      • 良い事をしたら「褒める」、悪い事をしたら「叱る」は基本
      • 子供に考える時間を与えて「待つ」
      • 親が問題に介入しすぎない、子供に行動させてみる

5話アバンで映写機が直り、1本の映画を見終えたソナタ達に「次は、どうする?」と言ったアルディ。10話でパールバール祭の記録映画の撮影をソナタに依頼するアルディ。11話で、カノンの結晶化問題をソナタ達に任せてみない?と言ったレジェ。例を挙げれば枚挙にいとまがない。

これらは、全部アルディ達大人が、ソナタ達子供にしている事と重なると思う。

なお、多様性を否定しない、というのはOP曲の「Wonderland Girl」の歌詞にも通じる。

このパーレル村の心地よさが、アルディ達大人も含めた村全体で作り上げてきた人柄の良さであるとも言える。

都会(アトランティア)と田舎(パーレル村)の対比

アトランティアを象徴する人物として描かれたのは、チェルとヴェラータの二人だったと思う。

アトランティアは便利で何でも有るが、パーレル村には何も無い、というのが二人の共通した印象。

しかし、多忙を極めるチェルは、パーレル村で失っていた心を取り戻した。赤ちゃんをあやす子守歌としての「シャボン」や映画館で合掌する「シャボン」で歌う楽しさを思い出し、寝過ごすほど十分な睡眠を取り、精神力を回復した。

これの意味するところは、パーレル村には何も無いが故に、人々が持つ大切なモノに触れ合って気付くことができる、という事だろう。

ヴェラータは、パーレル村が退屈で、それが嫌でパーレル村を飛び出し、アトランティアに住み着いた。そして、ひじきサンドより美味しいモノや刺激的なモノが沢山あるアトランティアに馴染んだ。

ヴェラータは、ソナタ達の案内でパーレル村や映画館を案内されて、変らない風景や、記憶の中のボロボロの映画館を思い出す。思い出すと言うのは、一度忘れていたものを思い出すのだし、多分、風景や施設だけの記憶だけでなく一緒に過ごしたであろうシェルシスのアルディや仲間たちの事も思い出していったのだろう。

ヴェラータはパーレル村を捨てたつもりだったのだろうが、自己を形成した若かりし頃の記憶が生まれ故郷であるパーレル村である事は変わりがない。そして関りのあった人達は今もここで子供達を見守りながら暮らしている。

何よりアトランティアで結晶化したカノンが、このパーレル村の子供達であるソナタ達と一緒に過ごす事を楽しいと感じていた。その事に、きっとヴェラータも自分のはるか昔の記憶に納得できる何かがあったのだと思った。

都会は生き馬の目を抜くような競争社会、広告などの過剰な刺激、そうしたモノがある事で疲れ果て大切なモノを見失う。何でも有る事が人生の損失になり、何にもない事が人生のプラスになるという面もある、という「田舎賛歌」というメッセージに感じた。

しかし、ここでとても面白いのは劇中で都会を否定しないこと。繰り返しになるが本作は誰も否定せず、誰とも勝負しない。だから都会を否定する事もない。実際、都会には都会の良さがある。

実際、チェルもヴェラータもアトランティアに帰って、都会で活躍する。彼女らのホームはあくまでアトランティアアトランティアで見失いがちなモノがパーレル村で見つけられた、というだけの話。パーレル村を知らずに訪れたチェルも、パーレル村から出て行ったヴェラータもそれは等しくそう感じたはず。

おそらく殆どの視聴者はアトランティア人であり、その視点でパーレル村の様子を覗き見る。アトランティアが本作に登場する理由は、現代では存在しないかもしれないパーレル村という楽園の特殊性を浮きだたせるためだったのではないかと思う。

平成最後の昭和レトロ

本作は、パーレル村を表現するために、昭和レトロな雰囲気を使っていたと思う。

  • 映画館の映写機の回転部分が、フイルムの回転を連想させる
  • 古いキネオーブの再生音が、アナログレコードっぽい
  • テレビはブラウン管、映りが悪い時は叩いて直す
  • マンタはカンカン帽、あざらし郵便はマドラス
  • フェルマの服装はバブル期のボディコン?
  • お魚名称連呼の歌は「自動車ショー歌」がモチーフ?
  • 掃除道具はほうき

書き出せば枚挙にいとまがない。

あと、作画カロリーが低めだとか、今風の高密度演出とは真逆でゆったりした演出だとか、アニメーションの作風が一昔前なのも、昭和レトロを表現するための手法の一環だったのだと思う。

アニメ「カラパレ」という奇跡の企画

ブシロードという単独スポンサー

本作のスポンサーは、ブシロード1社のみ。製作委員会は無い。

上記は、ブシロードの木谷氏のコラム記事だが、ブシロードは、バンドリや、レヴュースターライトなど、突拍子もない無茶企画をぶち上げてくるイメージがあるが、そのためには、ブシロード100%の出資が重要、との記載がある。

また、アニメ作品は電撃戦でいうところの空から降ってる航空戦力で、短期間に消費者の物欲を促し、カードやソシャゲの本隊が、後から地上を移動してくるイメージ、との記載もある。

普通に製作委員会があれば、BDも売る、グッズも売る、キャラソンも売るとなるし、企画自体も、いくつものフックを設けて、客に媚びる企画になったと思う。萌えて、バトルがカッコよくて、熱くて、カタルシスがあって、とてんこ盛り企画になるところである。

しかい、カラパレはヴァンガードのカードゲームを宣伝するために制作されたコンテンツなのは間違い無いが、ソナタ達の設定にバミューダ△の世界感を使う事、ソナタのカードの能力である「旋律」などの能力をキャラ毎に生かす事、あとは自由、という感じを受ける。

その意味で、本作の企画は、余分な企画要素は何もない。何度も書くけど、競争、争い、根性、恋愛を全く描かない、というポリシーの作品を2019年に企画が通せたのも、奇跡だと思うが、これも「ブシロード出資100%」の賜物だと想像する。

こうした自由度の高い企画を歓迎するし、今後もこのような企画に振舞わされない作品が多く登場る事を望みたい。

「カラフル・パストラーレ」のネーミングと物語のプロット

「カラフル・パストラーレ」はアトランティアに行って人気アイドルグループになったソナタ達のアイドルグループ名であり、本作の副題でもある。直訳すると「色彩豊かな牧歌詩」という感じか。

余談だが、2018年夏時点では本作のタイトルは「カラフル・パストラーレ ~from bermuda△~」であった。

作品の内容からすると、旧タイトルの方が作品内容に直結してるようにも思うが、今のタイトルに変更したのは、英語は止めて子供でも馴染めるカタカナにするという事と、商品名を先に持ってくる、というブシロード要望だったのではないか、と勝手に想像している。

個人的に気になっているのは、「カラフル・パストラーレ」の名づけの親は誰なのか?

  • (a)ブシロード社の商品企画
    • これまでのバミューダ△のアイドルグループの流れにおいて、次回は、個性豊かな田舎娘という設定でいこうという商品企画ありき
  • (b) アニメ制作
  • (c) etc

個人的には(a)だと想像している。(b)であればアニメ制作側がバミューダ△の商品企画の提案の下敷きを作る事になってしまうので、それは無いのだろう。

そして、次に気になるのは、カードゲームと言うバトルものの商品企画に対するアニメ作品なのに全く争い競争を描かない、更に言えばアイドル物なのに全くアイドルとしての活動を描かない物語のプロットを用意したのは、(a)(b)どちらなのか?

個人的には(b)だと想像している。ブシロード側は作品の内容はアニメ制作側にお任せだったのではなかろうか?こうした物語のプロットに関しては餅は餅屋である。

ただ、出来上がってきたプロットを見て、ブシロード側は、よくもOKを出したものだとも思う。結果的に、昨今のアニメの中に置いて、とても例外的な異色な作風になったし、その事は喜ばしい事なのだが、今までの常識を覆す判断だと思う。

ここで西村純二監督のコメントを引用する。

 

カードゲームとの世界観の共有が
アニメ「カラフル・パストラーレ」を
豊かにしているのと同様に
母体である「バミューダ△」の世界を
より豊かに出来ればと思います。

監督 西村純二

勝手な想像だが、ブシロード側から提示された予算、納期の範囲でやるとなると、アイドルとしての歌や踊りはカロリーが高いから出来ません、作画も演出も並ですが、低コスト短納期で、物語重視でなら、提示された予算納期で可能です、というやり取りだったのかな?と妄想している。

もっと予算があったら、歌や踊りが入ったかもしれないし、別の作品になっていたかもしれない。繰り返しになるが、2019年にカラパレという稀有な良作が生まれ、出会えた事を嬉しく思う。

販売未定のBD/DVD媒体商品

本作は、BD/DVD媒体商品の発売予定が無い、という所も例外的である。

通常はパッケージ商品を売る事も回収計画に入れると思うが、先ほどのコラムに書いてある通り、アニメコンテンツが購買意欲促進のための武器であり、本体のカードゲームの利益でペイする事、パッケージ商品の製作も只では無いので、それ自体で回収出来ないと考えると、もしかしたら、パッケージ商品の販売はしてくれないのかも知れない。

本作は、SNSを観測していても、ファンの絶対数は少ないと感じるし、BDを販売しても、Amazonで数百枚という販売数にしかならない可能性が高いとは思う。

ただ、だからこそ、個人的には、BD-BOXとして全12話+OSTを収録したパッケージ商品を販売して頂ければ、と思う。

もしかしたら、バミューダ△の収益状況によって、パッケージ商品の販売有無が決まるのかもしれないが…。

9話~12話(考察・感想)

9話「ね、君も食べる?」

キャロの魅力爆発回。

元気いっぱいな姿がカメラマンの目に留まり、急遽、映画に出演する事になったキャロだが、実際の撮影ではプレッシャーで緊張してしまいNGテイク連発で、そのカットの撮影は翌日に持ち越しに。

その夜、落ち込むキャロを心配しキャロの緊張を解きほぐそうと、みんながあの手この手を尽くすシーンが楽しい。

  • カノンは、都会から逃げてきた私だから、励ましなんか出来ないといじける
  • セレナは、難しい映画理論を説明し始め、逆にキャロを混乱させる
  • フィナは、お風呂につからせリラックスさせるが、いろんな入浴剤など試しているうちに、のぼせてキャロが溺れそうになる
  • ソナタは、マンタ印のハーブティを飲ませてリラックスしてもらおうとする。
    • ハーブティを口にして「ね、みんなも飲んでみる?美味しいよ!」
      • それだよ!(その演技でOK!)

キャロがソナタ達が一生懸命になって自分のために頑張っていろいろやってくれている姿を見て、嬉しくて、友達の思いやりを実感して、一見まずそうなハーブティを一気に飲むシーンが良い。そこからの問題解決。

映画撮影最終日、イワシストームという天候不順問題も、キャロが自分のせい(テルテルクラゲ)と思い込んでしまうのは、子供っぽくて可愛いとところ。

今回は、くよくよしても仕方ない、やってみなけりゃ分からない、と無謀にもイワシに直接交渉しようとするが、その勢いでポコを蹴飛ばし映画館の天上の穴を開いてしまい、光が外に漏れてしまうが、その事が逆にイワシストームに反射して幻想的な光景になり、イイ感じで映画撮影ができて問題解決。

キャロの演技も、イワシストームも、棚から牡丹餅で解決。決して根性で問題が解決しないのがカラパレである。何と言うか、この緩さが癖になる魅力というか。

「ね、君も食べる?」のOKテイクは、そのまま、つまずいて驚いた表情のアップになる、と言うのがキャロらしくて洒落ている。そのシーンのキネオーブを見て、かしましく賑やかにはしゃぎ続ける5人。

キャロの周りには元気で明るい雰囲気が伴う、そしてその元気の燃料はソナタ達なのだ、というお話だと思った。

10話「これ、どうやって撮るの?」

ソナタの子供っぽい可愛さが良く描かれていた回。

ソナタが偶然みつけた未録画のキネオーブ。コーダが作ってくれた撮影機は撮りたい心に反応して録画されるが、いつ撮影が始まっていつ撮影が終わったのか分からないという欠点が。

とりあえず、テスト的に撮影したものは無断撮影したキャロ達の寝姿。みんなに怒られ撮るものに悩むソナタにパーレル村の祭の記録映画の撮影を依頼するアルディ。

せっせと撮影し続けたソナタだったが、祭の後に記録された映像を確認して焦るソナタ。そして、撮影機の故障じゃないか?とコーダに相談する。全然、祭が取れていないんです、と。

成り行きで映画館に集まって、記録映画を再生すると、準備の様子、村のみんな、パーレル村自体、そして最後にクラゲを放流して水中一杯にクラゲの光が広がる光景と、それを見ている友達4人。

ソナタが撮りたいものが撮影されている。が、記録映画としてソナタが必要と思う映像が欠落している。

ただ、撮影された映像を見て、アルディも他のみんなも褒めた。パーレル村の人々がお祭りを楽しんだ事、ソナタがパーレル村と友達が好きな事が伝わってきた、と。

記録映画として依頼されたが、ソナタの周囲のみんなを好きな気持ちが、大人たちににも 仲間たちにも肯定されて、この話は終わる。

ところで、この話の欠点は、ソナタが撮影していたつもりで撮影できていなかった映像が不明確な点である。そこが明確にならないと、ドラマとしては完結しない。

映像だけを信じて考えると、夜中のパーレル村のみんなが騒いでいるシーンが録画されてなかったので、そこが落ちたのだと思う。妄想すると、パーレル村の祭りの背景や由来だとか、そうした学術的(?)な部分の記録がソナタが興味が持てず落ちたのかとも思った。この辺りは不確実で解釈が間違っているかも知れない。

私はソナタが記録映画撮影という大役を与えられ、一人でやってみて、それで失敗しているかもしれない、と心配する姿を見て、子供っぽくて愛らしいなと思ってしまった。

ソナタは、とりあえずやってみるという事は出来ている。ただ、必要以上に心配性。だから、良くできていた箇所は褒めて自信をつけさせて伸ばす。という、子供をケアする大人の部分にどうしても視線が行ってしまう。

ソナタの思いやりの優しさ、大人たちの暖かに見守る優しさ、その二つが印象に残る話だった。

11話「この曲は」

冒頭のカノンのパーレル村に馴染んだ描写とカノンの結晶化の対比が印象的だった。

ヴェラータの手紙のオーディションの誘いに対するソナタ、フィナ、セレナ、キャロがアルディを責めるシーンはアルディがやり込められて、何だか可笑しいシーンで好きなのだが、カノンがパーレル村に居て幸せであると疑わないソナタ達の思いやりの暴走でもあった。

カノンがみんなに見せたかった小さなキネオーブは、古い録音でシャボンが入っていた。それを4人に聞かせたかったのは、シャボンの歌詞と5人一緒が楽しいという気持ちを共有したかったのだと思う。

キネオーブが割れて思わず流れたカノンの涙は、5人一緒が永遠とは限らない、と直感的に感じてしまった寂しさだと思う。もちろん、ヴェラータの手紙が心理的に影響している。

一晩経ってカノンが結晶化した。書きかけのヴェラータへの返事の手紙を前にして。

この問題の原因はソナタ達にある。ソナタ達にカノンの結晶化問題を任せるというレジェとアルディの対応が良いな、と思う。

アトランティアに戻りたかった可能性、パーレル村で結晶化したのでアトランティアに戻れば結晶化解除できる可能性、古い録音のシャボンをみんなに聞かせたかった理由。カノンの結晶化の原因を必死に考えるソナタ達だが、どうしてもカノンの結晶化の原因にリーチせず、もがくソナタ達。

ラストシーンのソナタのカノンの気持ちに寄り添えれば、という台詞。ソナタは人の気持ちになる事は得意なのだが、どうしてもカノンの気持ちが分からない。それは、表面的な気持ちだけを汲み取って、その陰にあるホントの気持ちまではリーチしてなくて、という事なのかもしれない。カノンを助けられない無力感に打ちひしがれるソナタが印象的で好きなシーン。

11話はカノンの結晶化解除=カノンの気持ちにリーチする事なのが脚本的に面白い。カラパレ自体、友達を思いやる気持ちがベースのドラマである。その集大成としてのカノンの結晶化。今まで何となく分かっているつもりでも、実は分かっていなかった友達の気持ち。

5話の上映会成功と同様に12話が達成感ある神回になる事を確信した11話でもあった。

12話「小さな光となって、輝いて」

冒頭のカノンの欠けた4人とパーレル村の違和感の描写が良い。

結局、カノンの結晶化の原因を紐解いたのは、アトランティアでの後見人のヴェラータだったのが良いと思った。

ヴェラータはパーレル村が嫌いで出て行ったのだが、アトランティアでのカノンの事は良く知っている。だから、パーレル村でのカノンの気持ちを追体験する事になる。

カノンの手紙を読んでパーレル村で歌いたい気持ちを取り戻せたのはパーレル村と言う場所と4人の友達のおかげ、というカノンの気持ちを知った。ソナタ達が上映してくれた映画を見た。そしてカノンにとってソナタ達がかけがえのない存在である事を理解した。

カノンの結晶化の原因は、5人いっしょに歌いたい、だけどソナタ達はパーレル村を離れ、アトランティアに付いてきてくれるのだろうか?というカノンの中の不安と葛藤。

その原因を聞いてアトランティアでオーディションを受ける事について、好奇心を示すキャロ、友達として協力したいと言うフィナ、二人に賛同するソナタ、しかし、不安を隠せないソナタ。それぞれの気持ちはそれぞれだけど、カノンを取り戻したい気持ちは一緒。

最終的には、映画館でカノンに4人がシャボンを歌い聞かせる事で結晶を壊す事が出来た。5人で歌いたい気持ちがカノンにリーチしたという事だと思う。一件落着。

本作が興味深いのは、ここから一気に時間がジャンプし、アトランティアで人気アイドルグループとなった後になるところ。

このジャンプした時間というのは、ソナタ達もいろんな覚悟をし、いろんな体験をし、時には喧嘩もし、時には死に物狂いで頑張り、という経験の連続だったと思う。それはチェルの件でも伺わせるアトランティアのアイドルの忙しさと競争社会。その中で、ソナタ達は否応なく成長し大人になっていくのだろう。そうした人間ドラマがあった事は容易に想像できる。だけど、そうした競争や努力根性を描かないのがカラパレである。

成長したソナタがステージ上で話したパーレル村のおとぎ話の飛び散った真珠のくだり、私はアイドルの歌が色んな人の心の中に小さく宿り残り続けるイメージを想像した。

もっと言えば、「シャボン」という大きな歌が、キネオーブで再生されたり、子守歌として何世代にも引き継がれたり、時にアイドルの流行歌として流れたり、そうして人々の心を少しだけ照らす明かりになる事も連想した。

ソナタは人の心に寄り添うのが上手い。そして感受性が強い。ソナタっぽい言葉だと思った。

そして、5人のデビュー曲であるシャボンの5人バージョンのEDに入り物語は終了する。

上出来である。

おわりに

本作は、2019年の現在において、例外的なアニメだと思います。その特別さを書き記す長文もあまり見かけない事もあり、総括的な意味も込めて、自分の触れたカラパレに関する情報を集約したつもりです。

本ブログを読んで、共感して頂けるカラパレ民の方や、新しく興味を持って見てくれる方が居れば幸いです。