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はじめに
アニメ映画「バースデー・ワンダーランド」の考察・感想です。
脚本家の丸尾みほさんのインタビュー記事を読んで、思うとこあり追記しました。(2019.4.29追記)
考察・感想
リアルワールドとワンダーランドともに等しく圧倒的なリアリティ
本作が凄いと思ったのは、その世界に存在するモノ全てのリアリティ。それは、アカネが暮すリアルワールドも、アカネが旅するワンダーランドも等しくリアリティがある。
リアルワールドの方で言えば、例えばアカネの家。アカネの2階の天井の傾斜によるちょっと圧迫感があるロフト的な雰囲気で子供部屋に最適だなとか、アカネの家の台所のタイル張りの作業台とか、パステル調の壁の色だとか、縁側にあたるところがちょっとしたウッドデッキになってるとか、その向こうは家庭菜園があるとか、ブランコが置いてあるとか、そうした一つ一つに家を作った人の設計、住んでいる人ののこだわりを感じられる。
母親のみどりがサクッとオムレツ作るシーンとか食事するシーンとか、使い慣れた動線や道具の馴染んだ雰囲気というものが描けてる。
チィの店の骨董品とかも無国籍ながら、それっぽいものを多数陳列していて、こういうのも一つ一つデザインするのも大変そうだな、という事を当たり前の様にやっている。
まず、そうした、リアルワールドの家、道具などのその人となりを反映するようなモノの設定のリアリティに関心する。
そして、ワンダーランド側の世界もまた、不思議な世界という前提の中で非常にリアリティがある。
例えば、最初に訪れたケイトウの町で歓迎されて町長の家で歓迎され晩御飯を御馳走になって泊ってゆくというシーンがあるのだけど、家自体のデザインも食器も食事の内容も、うまく説明できないけどその町の雰囲気に沿ってキチンとデザインされている。おそらくケイトウの赤がこの町の象徴的な色なので、白地に赤のラインが入った陶器で統一されていたりする。
食事のシーンが面白くて、アルコールが出て来てチィが少し酔っ払ったりするのだけど、最後の方は水を飲んでいて、そうした食事の流れがきちんとしているところとか、そうした生活や習慣の流れが細かく描かれる。
他にキリがないけど、そうしたワンダーランド側の日常のリアリティと言うのが、リアルワールド側のリアリティと等しくある。おそらく、そうした事は非常に手間がかかる演出なのだと思うが馬鹿正直にやる。
アニメと言うのはデフォルメの世界なのに、なぜ、ここまでリアリティにこだわるのか?おそらくワンダーランド側で体験する事が、絵空事にならないようにするために、これだけこだわりの描写をしているのだと思う。
こうしたリアリティに必要な設計図は、デザインのイリヤ・クブシノブさんと全カット絵コンテを描いた原恵一監督の執念の賜物なのだと想像する。
まるで海外旅行をしているかのようなワンダーランド
ワンダーランドの体験は、結果的に3泊4日(うろ覚え?)くらいの旅行だった。
この映画を観ていて、ワンダーランドから戻ってくるシーンが印象的で、骨董品屋に戻って来たアカネとチィが少し朦朧としていて、チィはすぐに横になり、アカネは自転車に乗って家に帰るのだけど、この雰囲気が丁度、海外旅行から戻ってきて成田空港でそれぞれの家に向かう時と全く同じ感じがした。いわゆる時差ボケというやつ。
このシーンを観て、私は理解した。ワンダーランドで経験した事は、実は海外旅行みたいな事だったのだなと。きっと、狙った演出だったと思う。
ワンダーランドの行く先々の風景は、絵画の様に美しい。それだけを放心状態で観ていてもしばらく飽きないような景色。そして、温暖で過ごしやすかったり、標高が高く寒かったり、砂嵐のような厳しい気候だったり、いろんな自然の中を旅する事になる。まるで観光旅行のように。
一泊目のケイトウの町に泊めてもらった時のもてないしの晩餐会の食事、チィのようにアルコールが飲みたいだろうなと感じたし、二人が宿泊して疲れて熟睡して、朝起きて、外の空気の清々しさを感じて。そうした事も旅のリアルだったと思う。
そして道中には色んなトラブルが付き物。途中、砂嵐に足止めされたり、ガイドであるヒポクラテスが姿を消したり(実際にはハエになっていただけ)、吊り橋を車で走り抜けたり、関所で有罪(?)になったり。旅行者はそういう事に対処しながら、旅を続ける。
正直、途中、ワンダーランドの旅が長くて、なかなかドラマが進展しないな、と中盤思っていたけども、それも、その旅行という疲労体験を観客にも徹底的に共有するための演出的な設計だったのではないか、と想像している。
旅の恥はかき捨て
アカネはワンダーランドに無理やり連れてこられて、早く戻りたいという気持ちだったが、直ぐに戻れないと分かっても、最初は旅を楽しんでいなかった。
しかし、ワンダーランドの旅をつづけながら、トラブルを克服したり、色んな現地の人との会話をしたり、少しづつワンダーランドの旅行を楽しめるように、少しづつ大胆になっていったと感じた。
その点については、旅を楽しむ事に慣れているチィの存在が大きい。アカネはチィの姿を見て、旅に馴染んでいったのだと思う。
終盤のワンダーランドでのアカネの行動
今回、アカネはワンダーランドで行った勇気ある行動は、下記。
- ザン・グを王子の姿に戻す(素行不良になった王子を更生する)
- 雫斬りの儀式に王子と一緒に寄り添う
- 儀式に失敗し投身しようとする王子を引き留めようとする(結果的に落下する)
最初、私はこれらの行動をアカネが出来る事に激しく違和感を覚えた。おそらく、私以外にも同様の感想を感じている人は多数いるのではないかと想像する。
ずばり、ここを納得できるか?が本作の好き嫌いの分かれ道だと思う。
アカネは小学校で友達がハブられそうになる事に対し、自分がハブられるような事にはなりたくないため、その問題を見逃そうとしていた。(それが、冒頭のアカネの憂鬱だった)
それなのに、自分が傷付くかもしれないのに、他人を正そうとする。以前のアカネはそれが出来ずに悩んでいた。
実はこの事を試写会をみてしばらく考えていた。
そして、おそらく、こうではないか?という結論に至った。それは旅行がアカネを大きくしたという考え。
旅は現実のしがらみから解放されて行動する。旅の恥はかき捨て。その中でアカネが問題に対して積極的能動的にアプローチしたのは、それが旅先であるから。旅行でいろいろ心をもみほぐしてきたから。だから、ここでアカネは行動できた。
少し飛躍がありそうな感じもあるので、万人がこの理解に納得できるか?は自信がない。しかし、私はこの線でとりあえず納得している。
ちょっとした勇気というお土産
アカネがワンダーランドでとった勇気ある行動というのは、先にも書いた通り、旅先だから出来た事なのである。
しかし、この成功体験は、アカネの中に残り、その事でリアルワールドの友達がハブられそうになる件について、問題を解決する行動を取ることができた。(ワンダーランドの貝殻のお土産)
本作のテーマと言うのは、このちょっとした勇気というのは誰でも持てる。それに最適な方法は旅をする事だよ、という事の様に思う。
私は、このブログで、敢えて「冒険」という言葉を使わずに「旅行」という言葉で表現している。それは、冒険と書いてしまった瞬間に、非現実的なニュアンスになってしまうから。本作では、それを徹底して「旅行」のニュアンスで扱っていたと思うので、その感覚を信じて「旅行」という言葉で統一している。
その事が、「誰ても」勇気が持てる、という身近な感覚で受け止められる、という狙いなのだと考えている。
なかなか粋なミドリ(アカネの母親)
キャラクターについても、いくつか書きたかったのだが、とりあえずミドリだけ。
600年前にワンダーランドに現れた救世主は、アカネの母親のミドリの件。
ワンダーランドの1時間はリアルワールドの1日なので、ワンダーランドの600年前は、リアルワールドの25年前。ミドリが丁度、アカネぐらいの年齢。
そのミドリがアンニュイなアカネをチィの店にお使いに行かせて、在りもしない自分の誕生日プレゼントを持って帰ってこい、と言うのは初めから、ワンダーランドに行かせるつもりだったのか?否か?
で、お土産のカーペットを見て、おっ、となったのは、あれは試験に合格した時に貰えるものだから、頑張ったわね、という事か。
この辺り、想像の余地を多分に残す、ミステリアスな雰囲気が素敵なミドリさんが、キュートです。
最後の方のカットで、アカネの家で家族3人+チィの4人で晩御飯を食べる食卓のシーンが映るのだけど、アカネとチィにとってはリアルな記憶があるワンダーランド旅行であり、ミドリもそれとなく理解しているのだけど、父親はそんな事は全く知らないはずだし。
そんな中で、アカネの誕生日のお祝いの晩餐の時間、ワンダーランドの話をしているのか?していないのか?そういう所を想像させるカットが1つ入るだけで、非常に楽しくなる、そうした仕掛けがいっぱいなエンディングだったと思います。
脚本家の丸尾みほさんのインタビュー記事を読んで(2019.4.29追記)
唐突ですが、私が本作を試写会で鑑賞した直後に思ったのは、脚本が弱い!!でした。
その後、いろいろ考えて、上記の感想・考察をまとたのだが、脚本の丸尾みほさんのインタビューを拝見する事ができたので、その記事を読んでの感想を追記します。
この短い記事を読んで、なるほどと思う事があったのですが、目に留まったのは下記の2点。
- 本作における主人公・アカネについても「ごく普通の女の子としてアカネを描くことを意識しました」と語る。
- 丸尾さんがそんな本作に込めたメッセージのひとつは、“世界は広い”ということ。
主人公は普通の小学生女児であり、その視点と感情と論理で物語が進行します。だから、物語終盤になるまで旅の単なるゲスト気分だし、ザン・グの事は何を考えているのか分からないただ怖い存在だし、ワンダーランドの水不足を救う意味なんて、まるで他人事にしか思えないし、そうした周囲の情報がアカネ視点での感情で表現されている。
つまり、圧倒的な情報を前にしても、小学生女児の脳みそで世界を感じるだけだから、その先の様々な知識のウンチクや、問題解決のためのアプローチだとかの大人視点が無く、ただ状況に流されているような漂流感があって、しかも旅のガイドや付き人が優秀なので危機感迫るドラマは中盤まで無い。そうした事が大人から見て淡々と感じるのではないだろうか。
ただ、これもある意味狙いなのだと、この記事を読むと納得する。
そして、「世界は広い」というのは、上記の感想・考察で書いた、海外旅行のニュアンスと近いと感じた。その意味で、本ブログで書いたことも、あながち外れていなかったのではないか、と思う。
ちなみに、丸尾みほさんの事を良く存じ上げなかったのでWikiを拝見した所、2010年くらいまでは幅広く作品を手掛けられているベテランで、最近の作品だと、原恵一監督の映画作品に関わっているだけで、露出は少ない感じ。
このような大ベテランの方とは思わずに結構言いたい放題で書いてしまいましたが、でも、やっぱり、上の方でブログに書いた、アカネが終盤にどうして勇気を持って行動できたか?の論理的な説明の無さには今でも戸惑いを覚えています。
その事も意図通りなのかもしれませんが、そこまでは読み解けない事が、自分の読解力不足かもしれません。
おわりに
色々と書きましたが、鑑賞後の感覚が通常の映画と異なり、正直戸惑いを覚える作品でした。しかし、色々考えて、本作が小学生女児視点の物語をリアルに描こうとするスタンスが理解できないと、おいてけぼりになる作品だと感じました。それが、好き嫌い別れポイントで人に薦められるか否か、変わる作品だと思います。