たいやき姫のひとり旅

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ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 -永遠と自動手記人形ー

ネタバレ全開です。閲覧ご注意ください。

はじめに

ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 -永遠と自動手記人形ー」の感想・考察です。

TVシリーズ全13話視聴済みのヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンなのですが、外伝はTVシリーズのテイストそのものだと思いました。生真面目すぎるヴァイオレットとゲストの関りのドラマが毎度のことながら泣かせます。久々のヴァイオレットとの再会に懐かしささえ感じました。

ですので、単一の映画というより、TVシリーズを前提とした新エピソードという位置付けで本作を観ています。ちなみに、TVシリーズ全13話について私の書いたブログもありますので、合わせてお読みいただければ幸いです。

なお、私は、原作小説は未読です。

感想・考察

キャラクター

イザベラ・ヨーク(エイミー・バートレット)

<あらすじー貧乏時代>

エイミーは、大富豪ヨーク家の愛人の娘。しかし、ヨーク家との縁も無く、おそらく戦争で母親も亡くなり、子供がてらに独りでギリギリな線で生きてきた。貧乏な境遇も戦争という時代が悪い、とある意味、人のせいにしていた。

そんな中で一人の捨て子を拾い、妹として育てる。自分で食べるのもやっとなエイミーがテイラーを拾った理由は、社会に対する反抗、みたいな台詞だったが、要するに不幸な境遇をどうにもできない社会や大人に対する苛立ちと正義感みたいなものだったのかと思う。エイミーも若かった。

そうして始まる貧乏な二人暮らし。テイラーは良く笑い、一緒に食事をし、一つのベッドで一緒に寝て、生活を共にする。家族が居るという代えがたい幸せを感じながら、一方で支出が二人分になった事で貧困は加速する。

生活に行き詰まりを感じていた矢先、大富豪のヨーク氏が突然現れ、テイラーの生活も保障するという条件で、エイミーをヨーク家の娘として連れて帰ると言う。離れ離れになりたくない気持ちもあったが、テイラーの幸せには変えられず、ヨーク氏に従うエイミー。この日から、エイミー・バートレットという名前は死んだ。

<あらすじー女学生時代>

ドロッセル王国の女学校でのイザベラは自分が嫌いで非社交的。近づく人間はヨーク家が目的であり、自分自身は空っぽ。上流階級の空気も嫌っていた。自分の意志はこの世界では何の意味も持たない。自分は鳥籠に閉じ込められた不自由な鳥。

そんな中で突然、3カ月間限定の家庭教師役として登場するヴァイオレット。背筋がピンとして礼儀正しく頭脳明晰、完全無欠の人間に見える。そんな正しく強い人間は嫌い。空っぽの自分が余計にみじめになる。

ある時以降、無表情のヴァイオレットとプライベートな会話をし始める。無表情で任務に忠実なだけの機械の様な人間だと思っていたヴァイオレットにも、逢いに行けない大切な人が居る、という話を聞いて急に親近感を感じる。イザベラも一切合う事も叶わないテーラーの事を連想したのだ。

イザベラは、もともと高級そうな熊のぬいぐるみと一緒に寝ていた。ぬいぐるみはイマジナリーフレンドであり、辛い事、耐えられない事をぬいぐるみに打ち明けて、自分を慰めるためにあったのだと思う。イザベラのメンタルは強くない。

友達としてヴァイオレットに一緒にベットで寝てもらったりするのだが、この時のイザベラは友達といより甘えん坊の子供のように見えた。一緒にお風呂に入ってもらった時には、その義手の痛々しさにたじろいだ。そうこうしてゆくうちに、イザベラとヴァイオレットの距離は縮まり親友と呼べる間柄になった。

勉強もダンスもヴァイオレットのおかげで大分形になってきた。ヴァイオレットの最終目的であったデビュタント(舞踏会)も騎士姫ヴァイオレットのリードのおかげでソツなくこなせた。そして、いよいよヴァイオレットとの別れの時が近づいてきた。

最後の夜、親友であるヴァイオレットとの別れを惜しむイザベラ。ヴァイオレットは自分はドールだから代筆依頼があれば駆けつけると慰める。そして、ずっと引っ掛かっていた疑似姉妹の妹のテイラーとの思い出を語り始める。離れ離れになりたくなかった気持ちと、そうするしかなかった状況と、今の寂しさを、感情がごちゃ混ぜになった状態で吐き出す。ヴァイオレットから、その思いを手紙で伝えてください、と言われヴァイオレットと手紙を書くイザベラ。翌朝、手紙を持って女学校から離れるヴァイオレットと、それを見送るイザベラ。短かった3カ月の交流は、一旦ここで幕を閉じる。

その後、イザベラは名のある家柄のお嬢様の級友に呼び止められ、苗字(=家柄)ではなく、名前(=個人)で呼んで欲しいと打ち明けられる。自分に自信が持てず近づく人間はみな家柄にしか興味が無いと信じていたイザベラは、この時、初めて個人が認められた事に気付く。それは、ヴァイオレットの家庭教師の成果でもあり、イザベラの今後の希望を感じさせるものであった。

<あらすじー嫁ぎ先時代>

嫁ぎ先でも、お屋敷の外には滅多に出ない。イザベラは結局、鳥籠から出られない不自由な存在。嫁ぎ先で自由にさせてもらえないのか?自ら閉じこもっているのか?その辺りは分からない。

ある日、郵便配達がエイミー宛ての差出人テイラーの手紙を届ける。手紙はヴァイオレットが手伝った。手紙には「私はテイラー・バートレット。エイミー・バートレットの妹です」とある。イザベラはテイラーと心が繋がりを感じて嬉しくて泣きだす。

運命が引き裂いたエイミーとテイラーの気持ちが、時を隔てて繋がった。その奇跡に言葉なく、ただ涙が流れた。

<考察>

思うに、エイミーはテイラーと言う家族を作る事で、家族の愛を体験する。それは、母親と一緒に暮らしていた時に感じていたモノかもしれないが、独りぼっちのエイミーが心から欲していたモノだったのだろう。テイラーの笑顔で救われ、生活の励みになった。しかし、家族を持つという事は、責任を持つという事でもある。家族を助け、家族を守る。エイミーはテイラーの生活の責任を他人に委ねた。もともと、戦災孤児として野垂れ死にしてもおかしくないところを、貧乏ながら引き取って育て、孤児院に入るところまで持って行ったという意味ではファインプレーとも言えなくもない。しかし、本来であればエイミー自身が、二人分を稼ぎ、二人分の幸せを確保したいという思いで、二人暮らしを始めたのだと思うし、その意味では、エイミーは貧しさに負けた。総合的にみたら、これが最良の選択だったと自分に言い聞かせながら。

結局、イザベラがヴァイオレットから受け取ったものは、自尊心と、心の交流ができる友達だったのだと思う。その中で、自分の心のわだかまりであるテイラーとの別れについて、素直な心をヴァイオレットに打ち明けた。今までは独りで抱え込んでいたが、この時だけはヴァイオレットに打ち明けられた。テイラーに対する感謝、謝罪、元気ですか?幸せですか? 色んな気持ちがあったはずだが、手紙に選んだ言葉は、「これは、あなたを守る魔法の言葉です。エイミー、ただそう唱えて」。この解釈は少し私には難しい。これは、エイミー自身がこう呼ばれると嬉しい、という意味であり、その心の繋がりを願う気持ちである。直接的にはテイラーを守れない。最終的には、イザベラとテイラーが繋がれば、その事でテイラーの心の支えとなり得るという事なのかな?、と想像している。なんというか含みを持たせた言葉なのだが、その含みが大きすぎるような気も若干した。

テイラー・バートレット

<あらすじー貧乏時代>

ある日、捨て子だったテイラーは、独り暮らしの少女エイミーに拾われて、二人で暮らし始める。字は読めない。言葉も満足ではない。でも、独りぼっちじゃない、姉ぇねと暮らす日々が嬉しくて、いつも笑顔でいた。

そして、ある日突然、姉ぇねと引き離されて、孤児院に入る。

ヨーク氏はテイラーを孤児院に入れたが、戦後、野垂れ死にも不思議じゃない状況で、孤児院に入れるだけでも幸せという事だろう。生きる上での最低限が保証された。

<あらすじー孤児院時代>

ベネティクトが郵便配達した際、テイラーは他の友達とではなく、一人で遊んでいた。発達障害だったのかも知れない。他の子どもたちのように、字も読めなかった。

ベネティクトが届けたのはヴァイオレットとエイミーの二通の手紙。エイミーの手紙を読みあげてもらい、昔一緒に暮らしていたエイミーの事を思い出し、ただ涙が流れた。

<あらすじーライデンシャフトリヒ時代>

テイラーは、孤児院から抜け出し、単身船に乗り込み、ヴァイオレットを訪ねて来た。説明は無いが、何か孤児院で困った事があったのだろう。字も読めない状況で外国を目指してくるというだけで、それ相応の事情があったのだろう。そして、幸せを届ける郵便配達の仕事をしたい!と頼み込んだ。おそらく、孤児院に届いたエイミーの手紙を届けた郵便配達の仕事がとても素晴らしく思えたのであろう。

届かなくていい手紙なんてない。ベネティクトを師匠として後をついて郵便配達を体験するが、大変な仕事である事を認識する。次の日はヴァイオレットが郵便配達の仕事を手伝ってくれた。手紙を受け取る人はいつも喜んでいる。字はヴァイオレットが教えてくれると約束してくれた。大変な仕事だけど頑張りたい。

ある日、ヴァイオレットにエイミーの事を忘れかけている事を話した。そして、エイミーへの手紙を書く事になったが何をかけば良いか分からない。ヴァイオレットが手伝ってくれて手紙は書けたが、届け先のエイミーの居場所が分からない。エイミーの居場所は、師匠のベネティクトが探し出してくれた。そして、手紙をベネティクトと一緒に郵便配達する事に。道中は長い。

ベネティクトがエイミーに郵便を届ける瞬間を草むらから様子を伺っていた。エイミーは手紙を見て涙を流した。それを見たテイラーは、忘れていたエイミーの面影を思い出し、テイラーも涙を流した。

<考察>

テイラーは明るくて少し頭が弱い。テイラーも幼かったのでエイミーの事はうろ覚えになった。ラストでエイミーが手紙を受け取って涙した時、エイミーの事を思い出したが、直接エイミーの前に出ていく事はしなかった。突然の感動で動けなかったのかも知れないし、エイミーの涙が手紙の返事だったし、それで十分だったのだと思う。時を隔てた二通の手紙には住所の記載がない。C.H郵便社はエイミーの住所を押さえたので手紙の往来は不可能ではないが、きっと、ここまでの手紙で十分なのだろう。この2通の手紙で、エイミーとテイラーの心が時空を超えて繋がっている事の証が出来た。そのエビデンスが、二人にとっての心の支えになるのだろう。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

ドロッセル王国の要請でイザベラの家庭教師に選ばれてたのは、ドロッセル王国のシャーロッテ姫を我がまま娘から立派なレディに仕立て上げた実績を買われての事だろう。イザベラもまた、国家的な政略結婚の駒である事を伺わせる。

イザベラの心の奥に潜む、もう会えない大切な人への思いにヴァイオレットが共鳴し手紙を書かせた。勿論、ギルベルト少佐の事を連想しての事である。そして、イザベラが友達だというので、ヴァイオレットもイザベラを友達だと思った。ある意味、オウム返しであり、何となくTVシリーズ中盤ではないかと思わせる。イザベラを初めての親友という台詞が有ったと思うが、個人的には、ルクリアも親友だったのではないか?と思うのだが、ベッドを共にする友達という意味では、イザベラが始めてだったのかも知れない。いずれにせよ、イザベラは、ヴァイオレットにとって、同じ心を共有した大切な友人になった。

そして、3年後、テイラーはイザベラの合う事の許されない大切な人だから、丁寧に対応する。エイミーの記憶が薄れている事を聞き、エイミーへの手紙をテイラーに書かせる。

ヴァイオレットは会いたい人に会えない辛さを知り、手紙の力を信じているので、この奇跡が起こせる。全てを書く必要は無い。自分の近況も要らない。ただ、その時も、今も、相手を思う気持ちが確かにある事だけを抽出して手紙を書いた。そして、この二通の手紙が時を隔てて繋がった。

ヴァイオレットがテイラーに三つ編みを施す時の、二本だとほどけてしまうが三本ならほどけない、という台詞。これは、そのままエイミーとテイラーの二人だけではほどけてしまっていた繋がりが、ヴァイオレットが入る事で繋がりを維持する事が出来た、という意味にもとれる。ヴァイオレットだから出来た奇跡のファインプレーだと思う。

ベネティクト・ブルー

ヴァイオレットがドールのプロなら、ベネティクトは郵便配達のプロである。ぼやきながら仕事をしていても、郵便配達の仕事に誇りを持っている。テイラーとのやりとりは、その初心を取り戻させるが、そのテイラーを啓蒙したのは、他でもない、昔の自分であったという輪廻。郵便配達が運ぶのは幸せなのである。

ラストの「同じじゃねぇか」は、今のエイミー=今草むらで泣いているテイラーとも取れるし、今のエイミー=3年前のテイラーとも取れる。奥行きのある台詞が憎い。

世界観

3年後の復興中の世界

映画のラストに、劇場版の予告が入っていた。ガス灯が電気灯に変わり、手紙が電話に変わり、という時代の潮流を感じさせる内容だった。本編中にも、エッフェル塔を連想させる電波塔が建設中だった。

時代の潮流という意味では、ホッジンズのC.H郵便社の事業も何か変化が起きるのかもしれないし、個人的には電波塔を舞台にテロリストと対決するヴァイオレットの姿という妄想してしまった。

一方で、ルクリアを通して、結婚してもドールを辞めずに仕事を続ける新時代の女性像というのが示唆される。結婚がゴールなのは前時代的で、結婚しても夢を追い、仕事を続ける女性像が近代的という描き方。エリカは小説家の夢、アイリスは世界一のドールの夢があるが、ヴァイオレットの夢は答えられなかった。

この辺りの、ヴァイオレットの今後の人生のビジョンが、劇場版への布石になるのだろう。

その他

TVシリーズと外伝

TVシリーズは、ドールの仕事でおこる依頼人のハートフルな物語と、戦争によるヴァイオレットの心の傷のペインフルな物語と半々だったと思う。それは、TVシリーズがヴァイオレットの成長と、それに伴う心の痛みをテーマにしていたからだと思う。戦時中、兵器として作り込まれたヴァイオレットは感情を持たずに命令通りに敵を殺傷した。しかし、戦争中にギルベルト少佐を失い、戦後に感情と取り戻し、ギルベルト少佐の「愛している」の意味を徐々に理解してゆくにつれ、激しい心の痛みを伴ってゆく、というドラマだったからだと思う。戦争をリアルに描く事は、ヴァイオレットの心の痛みを描くのに必要不可欠だった。私はTVシリーズを観ていて、あまりの痛々しさに見ていて辛いとさえ思う事もあった。

多くの視聴者は、前者のハートフルなエピソードが好きだったと思う。私の知る範囲では、10話のアンの話の人気が高い。7話のオスカーの話も良い話だし、個人的には5話のシャーロッテ姫の話が一番好きである。このようなハートフルな話であっても、ヴァイオレットはドールの仕事を通じて依頼人に何かを与え、ヴァイオレットは「愛している」に関する何かを知る、という等価交換があり、なんらかの痛みを伴っていた。

今回の外伝は、そのヴァイオレットの心の痛みを知る物語、という部分を外してきている。だから、ヴァイオレットの心の痛みを感じないで済む分、依頼人の物語とドラマに集中できる。今回、ギルベルト少佐は名前すら登場しない。ただ、ヴァイオレットに逢いたくても会えない人が居る、という情報だけがある。そうした、ヴァイオレットのバックグラウンドについての説明や、ライデンシャフトリヒの説明は、大幅に省略されている。なので、外伝は、ハートフルな物語に没頭してゆく事が出来る。本作が劇場公開作品という閉じた作品で有ることを考えると、このディレクションは有りだと思う。

ちなみに、外伝の前半は、おそらくTVシリーズの9話~11話の間の事だと想像している。ホッジンズが、テイラーをしばらく面倒見て欲しいとヴァイオレットに頼み込まれるシーンがあるが、8話でホッジンズに食って掛かるシーンを連想させる回想が入る。そして、8話と9話は時間的に連続しており、9話でギルベルト少佐の死を受け入れているので、「逢いたいけど会えないのです」の台詞がある事を考えると、9話よりも後ではないかと思われる。また、12話13話でヴァイオレットは命令で動く事から解放され自分の意志で動く自由を得る。イザベラの家庭教師を任務と言っていたので、それよりは前だと思われる。根拠は無いが、10話のアンのエピソードと11話のエイダンのエピソードの間ではないかと想像している。

それから、外伝は前半後半の2エピソードから構成されているが、劇場公開作品になった事で、テレビシリーズの尺の制約から開放された事、シネスコサイズの横に広がりが持てた事などから、映像的にのびのびとした自由さを感じた。

ちなみに、原作小説では前半のイザベラのエピソードだけであり、後半のテイラーのエピソードはアニメスタッフが付け足したとの事。この物語は前半と後半のエピソードがセットになって初めて物語として完結すると感じていたので、アニメスタッフのセンスには脱帽する。つまり、前半だけだとエイミー→テイラーへの一方通行で終わってしまい完結しないという問題に対して、後半でエイミー⇔テイラーの双方向の繋がりを完成させる物語としつつ、3年間の時間を隔てた事で劇場版への時代の潮流も描いて、テレビシリーズと劇場版の間を取り持つブリッジとして機能させている。この構成を考えた人は天才ではないかと思う。

京アニ事件と外伝

本作は、京アニ事件以前に作られ、京アニ事件後に公開される作品なので、意図しなくても複雑な気持ちで観る事になるという人も多いと思う。

京アニクオリティという意味では、京アニ事件以前に完成していた作品なので、京アニ事件による悪影響は本作には存在しない。それがあるとすれば、これよりも後の作品であり、劇場版のヴァイオレット・エヴァーガーデンがその最初の作品となるのであろう。この作品で京アニ事件によるダメージを初めて実感する事になり、その喪失をファンとして受け入れる時が来るのだと想像している。

とりあえず、公開スケジュールの延期が外伝の公開と同時に発表された。想像するに、人的リソース減少にともなうリスケだと思うが、プロジェクトとしては至極当然だと思うし、個人的にはこれはこれで歓迎である。

私は、今回の外伝も、出来るだけ京アニ事件という色眼鏡を通さずに鑑賞しブログを書いたつもりだし、今後の京アニ作品も、ただそうしてゆくだけだと思う。出てきたものを真摯に観て受け止める。ファンが出来るのは、ただそれだけだと思う。

おわりに

ヴァイオレット外伝は、TVシリーズと何ら変わらないクオリティだったので、TVシリーズ全話泣いた私としては、当然劇場でも泣いていました。TVシリーズ同様に圧倒的な説得力を持つ映像と、卓越した精細なキャラの心理描写で、考察好きとしては、そこが難しくもあり、嬉しい所です。

悲しい事件はありましたが、ヴァイオレットというシリーズ作品の完結を気長に待とうと思います。