たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

空の青さを知る人よ

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ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

実は、私は秩父三部作の、劇場版あの花、ここさけを観てい無いのですが、このスタッフがテレビシリーズのあの花からどれだけ進化しているのかの興味もあり、今回観賞しました。

PVを観ていても、ドラマが濃そう、そんな印象だけで細かな前情報を持たずに鑑賞したのですが、想像以上に、芝居、作画、演出の強い作品でした。ドラマは、結構含みがある感じの演出で、そこが特徴的な味わい深い作品だと思います。

以下、長文ですが、いつも通り、考察・感想です。

考察・感想

敢えて全ては説明せず、含みを持たせた脚本と演出

普段、人と人が接するとき、全ての感情を分かりやすく吐露する訳ではない。勢いで本心とは逆の事を言ってしまったり、相手の反論が怖くて何も言えなかったり。本作の脚本家である、岡田磨里さんは、こうした脚本作りに長けていると思う。

一般的に、物語やドラマを伝えるために、必要最低限の台詞で、的確に誤解なく、論理的に伝えるのが、良い脚本と思われていると思う。その感情を補足するための細かなフックを物語のそこかしこに散りばめて、説明を補強する。この芝居は、Aの感情なのか?Bの感情なのか?誤解させないようにする。これが凄いのが、私の好きな吉田玲子さんだったり、SF的なロジカルな展開を得意とする虚淵玄さんだったり、と思っている。

しかし、人間がリアルな生活で誰かと接するときというのは、相手の本当の気持ちと言うのは分からないまま、Aの感情か?Bの感情か?断定できない状態で、手探りで接したり、その感情を明確にしてしまうと、更に関係が悪化する恐怖から、そこまで踏み込まずにやり過ごしたり、そうした曖昧なまま相手に接する事が多い。

余談だが、世の中にはたまにロジカルな会話で進まないと気が済まない人が居て、「Aですか?」という質問に対し、「Xです」と回答すると、話をジャンプさせずに、Aか否かの回答をください、と話を戻す人が居る。その人はこれくらいやらないと、気持ち悪いのだろう。しかし、多くの人は、Xですと回答し、その答えを受け入れてしまう。そして、語りたがらない部分は、曖昧なまま、その場のコミュニケーションは流れてしまう。

本作では、この日常に溢れる曖昧なコミュニケーションが多発し、それ故にドラマが生まれる。

例えば、こんなシーンがあった。

フェスティバル会場の外で一人ガンダーラを弾き語る慎之介の近くに座るあかね。そして茶化しながら「空の青さを知る人よ」を演奏する慎之介。屈託なく笑うあかね。そして、慎之介が去った後、涙を流すあかね。作中では、このあかねの笑いの重さと、涙の意味を、それとなくしか表現しない。神の声が状況を補足説明する事無く、目の前に起きた事を淡々と描く。

この笑うシーンで13年前の高校生時代の写真が重なる演出があり、この笑いが13年前の自分を思い出させる。自由で何も背負っていなかった頃の自分を。あかねは優等生を演じ続けている。それは、あおいを育てる決意をした大人の強さであり、実際にそれを見事に実践してきたし、その事に自信を持っているし、前だけ向いて生きてきた。あかねは母親をして生きてきた。しかし、この時の笑いで、失った13年分の青春の可能性の事を思い出してしまい、途端に涙が溢れた。あかねは演じ続けているので人前では泣かない。だから、この泣くシーンもあおいがこっそり見ていた、という風に私は解釈している。

ただ、これも解釈の一つでしかなく、正解という保証もない。

こうした、心情を敢えて明確にせずに含みを持たせる演出が、本作の特徴になっていると思う。

ちなみに、アニメを分解して考察して考えたい私としては、キャラの心情が、一発で分からない作品の方が、いろいろ考えを巡らせられて面白い。本作は、そうした一筋縄ではいかないところに手応えを感じてしまう。

ピアニッシモからフォルテシモまで、強弱を表現できる芝居と映像。

本作は、非常に繊細な芝居だと思うが、同時に大胆に弾けた芝居の両面を併せ持っていると思う。

例えば、どのキャラクターも想定外の会話の展開が発生した際に「えっ」という台詞を言う。この台詞は今までのアニメでは、省略されがちな会話のやり取りの一つだが、ある意味、リアル寄りな芝居に振っている結果だろう。しかしながら、この繊細な「えっ」もアニメとして心地よい会話劇に落とし込んでいる。

そして、大胆にデフォルメされた表現としては、しんのが封印された空間から脱出しようとした際に、パントマイムのように見えない壁にぶつかり踏ん張るシーン。最後にあかねを助けに行く時の激しい壁破り、その後の、空を飛翔するシーン。この表情の激しさや、飛翔の解放感はアニメならでわの表現だろう。見えない壁はともかく、飛翔シーンはある意味、荒唐無稽とも言えるシーンであり、役者の芝居でやろうとしても実写でやると滑稽で違和感が出てしまうだろう。

これらの大袈裟とも言える「動」のシーンと、シリアスな「静」のシーンが等しくシームレスに描かれる。演出的な強弱はあれど、映像や絵や声の芝居としては地続きで違和感がない。このことが本作の(アニメである事の)ポイントのように思う。

仮に、本作は実写化されたとしても、この「静」の芝居は演技できても、「動」の部分は実写では浮いてしまいそうな気がしていて、本作は、あるべくしてアニメ作品なのだと感じている。

そこに居るだけで芝居を感じさせるレイアウトと作画

本作は、やっぱり絵に力がある作品だと思う。

なんというか、あおいが立っているだけのシーンでも、姿勢や表情で演技をしているし、昼と夕焼けの溶け加減だったり空気感の伝わる背景、それらを上手く組み合わせたレイアウト。その辺のクオリティがどのシーンも良い。

表情で言えば、あおいの目力が非常に強かったり、あかねの姿勢が常にピンとしていたり、いちいち、そういう作画にキャラのバックボーンや感情が乗っている。もちろん、昨今の他の作品でも、こうした事はなされていますが、この作品は、どのカットも作り手の強い意志を感じ、隙が無い。

作品を観始めてしまうと、このクオリティに慣れてしまって、当たり前に思ってしまうのだけど、YouTubeの予告動画などを観直すと、その辺りを、まじまじと感じてしまう。

(抽象的ですみません)

17,18歳と31歳の13年のギャップの妙

あおいが17歳、しんのが18歳、あかねと慎之介が31歳。そして、しんのだけが13年前で時間が停止している。

この4人の年齢差と13年間のブランクが、物語の肝である。

まず、多くのアニメはティーンエイジャーが主人公の場合が多い。あの花もここさけも主人公は高校生である。本作も、女子高生のあおいが主人公であるが、あかねと慎之介の31歳コンビも主人公として捉えて良い存在だった。つまり、少年少女と、大人が主人公だった点が本作の特徴の一つだと思う。若さと大人のコントラストを描いていたと言ってもいい。

まず、慎之介としんのの13歳の年齢差について。

慎之介としんのは同一人物でありながら、印象も行動もかなりのギャップがある。同じ心を持っていたとしても長い年月をかけ、挑戦し、夢に破れ、妥協し、心をすり減らした。そして、故郷に錦を飾る事ができなかった慎之介は、故郷に背を向けて、故郷を忘れようとしていた。

対称的に、しんのが眩しいのは、夢という希望に満ち溢れていたからなのだが、しんのには慎之介の臆病さが理解できない。しんのは基本的に人がいいし、打算的なところがない。秩父の田舎で挫折を味わう事もなく、上だけ見てたし、青い空しか知らなかった。

しんのと慎之介は、最終的には互いの気持ちに歩み寄って、分かり合ってしまう。そして、しんのが消滅する。有名になる夢も、あかねの事も、完全に消えたわけでもない。まだ途中なのだと慎之介も気付く。要するに、慎之介は過去の自分である、しんのから勇気をもらう、という物語だったと思う。

あおいとあかねの14歳の年齢差も興味深い。

あかねは、両親の他界をきっかけに、あおいの母親として生きる事を決意する。その時にしんのと別れた。最初は、あおい以外の事にかまけていては、生きていけないぐらいカツカツで、恋愛どころではなかったのだと思う。そして、いつしか、あおい一筋に生きてきて、田舎で恋愛に燃えるような相手もおらず、気付いたら31歳になっていたのではないかと思う。一概には言えないが、30歳までに結婚したい、という女性は多いような気がする。31歳というのは、その境界を越えた年齢でもある。

しかし、あおいが高校卒業し、東京に上京すると言う。ある意味、あおい依存だったあかねは、あおい離れが必要になる。あかねは、少女から母親という第二の人生を歩み、子離れして第三の人生を歩む必然性が生ずる。そのタイマーが31歳という年齢なのである。

あかねと慎之介は、13年前に、お互いに相手を封印した。しかし、13年の時を経て、再度歯車がかみ合い、お互いに向き直る、という運命のいたずら。そうした物語なのだと感じた。

31歳なんて、ある程度の年齢の人なら、まだまだ全然やり直しが効く若さとしか思わないのですが、当人たちは、特に大きな夢を抱きつつ夢破れた人たちは、終わってしまったと感じてしまう、というのがリアルなのかも知れません。

あかねのジムニー(JA11)

愛車が旧車のジムニー(JA11)。二人暮らしで地方職員。ちょっとした災害でも駆けつけられる走破性を持つジムニーという選択は、実にありそうな設定である。しかも、5MTで硬派で骨太なところ、ベージュとホワイトのツートンカラーで女性らしさ、を表現していて上手い。ジムニーはあかねを象徴するアイテムである。

キャラクター

相生あおい

あおいは、幼少期に慎之介のギターに憧れてベースを始めた。ベースを弾きながら探しているのは、自分を満たす何かなのか?その手段がベースである事は理解できるが、漠然と有名になる事しかイメージがなく、ただベースの演奏技術を向上させてきた。田舎では限界がある。高みを知りたい。自分の可能性を試したい。そんな感じだろうか。

ただ、あおいは姉のあかねと二人家族で、姉が母親代わりになって育てられた。あかねは良くできた人間であり、地方職員という事もあり、気が利いて、物腰が柔らかい。そんな優等生の姉を持ち、その姉と比較されることも多かったのだろう。その反動かどうかは分からないが、あおいは周囲に愛想を振舞ったり迎合することなく、少し突っ張り気味の真っ直ぐな性格の人間になった。

そして、しんのに出会い、慎之介が秩父に戻ってくる。

プロとして慎之介があおいのベースにダメ出しする。ベーシストとして周囲の音を聞きつつ、自分を持ち、周囲を邪魔しない、という指摘が今までのあおいの性格で欠けていたのだろう。そして、指摘が的を得ているから、ムキになる。まだまだ、自分の高みが低い事を自覚させられる瞬間でもある。

あおいは慎之介との対比を横目にみつつ、しんのを好きになっていく。あおいはもともと恋愛をしておらず免疫が無いから気付くのにも時間がかかった。しかも、あかねと慎之介の寄りを戻せば、しんのは成仏して消えてしまうかもしれない。好きになったしんのと別れたくない。姉の幸せと自分の恋愛を天秤にかけて悩むあおい。

悩み過ぎてパニック気味になったあおいは、その悩みの矛先を、思わずあかねに向けてしまい、自分を犠牲にして生きるあかねの事を馬鹿みたい、と心と反対の言葉を言ってしまう。呆然と立ち尽くすあかね。真っ直ぐ過ぎて不器用だから大好きな人をを傷つけてしまう。

あかねが不在のときに昔のノートを見つけ、文句も言わずに何でもこなしてしまうあかねが、実はあおいのために相当努力してくれていた事を知り、あかねの優しさを再認識する。あかねは、苦労を表に出さず、嫌な顔も、涙も他人に見せない。その事を、あおいは察した。そして、あかねの事が大好きな事を再認識した。

演奏会の会場の外で、慎之介とあかねが談笑し、慎之介が去った後、あかねは涙を流した。それを目撃したあおいは、あかねの心境の何かを察したのだろう。

あかねがトンネル崩落事故で連絡普通になったとき、しんのの元に駆け付けた。

しんのは閉じ込められた存在なので、音信不通のあかねをどうにかできる保証はないのだけど、あおいは、この事を伝えるとともに、どうすればよいか分からない自分の気持ちを、しんのに受け止めて欲しかったのではないかと思った。

そして、しんののほとばしる気持ちが、秩父の山をあおいと一緒に飛翔する。しんのがあかねを好きな気持ち、慎之介の煮え切らなさに業を煮やす気持ちを、手を取って引っ張られながら理解したのだろう。

あかねが救出された後、クルマにあかね、慎之介、しんのの3人だけ乗せたのは、もう、しんのと別れる覚悟をしたからである。しんのの存在は、あかねを封印した気持ちだから、あかねが慎之介に合わせてツナマヨのおにぎりを作る発言で、あかねが慎之介に向き合ってくれる事を理解して、しんのは消滅した。

あおいは、姉のあかねも、恋愛対象のしんのもどちらも好きだが、自分の好きよりも、あかねの恋愛を優先した。その葛藤で涙を流した。

太眉の女子高生がベースを弾くカッコ良さ。そのイメージから入って出来た作品との事だが、あおいは若い分だけ、分かりやすく描かれていたような気がする。しんのもそうだが、若さゆえ、失う事への躊躇が無い。失敗をしていないから、勢い付いてしまう。31歳組との対比が眩しく感じた。

相生あかね

あかねは、化けの皮が剥がれなかった優等生だと思う。

高校三年生の時に両親が他界、4歳の妹を育てるために、自分の青春を捨てて、あおいの母親になった。嫌な顔や涙は他人には見せず、人知れず努力する。あかねの素の性格もあったのだろうが、あかねは華奢な見た目とは裏腹に、強くしなやかに生きてきた。それもこれも、妹のあおいを背負っているからである。

母として、地方職員として、完璧に仕事をこなし、周囲には嫌な思いをさせない気配りを見せる。ずっと未婚で通したのは、慎之介への未練というより、母親を優先するために青春を捨てた決意だったのでないかと思う。

慎之介に再会しても、その疲れ果てた姿にがっかりする。ホテルで酔った慎之介を投げ飛ばしてみせるところでも、護身術を体得しているあかねの強さを伺わせる。

あおいに、自分を犠牲にして馬鹿みたい、と言われた時のあかねは頬に手を当てて身動きが取れなかった。反論するでも泣くでもない。言葉で言われたのに、まるでビンタを食らったような、驚きの表情。この反応から察するに、あおいがこんなことをあかねに言い放ったのは、これが始めてだったのだろう。もしかしたら、あかね自身が自己犠牲という発想は全く持っていなかったからかもしれない。

会場の外で一人浮いている慎之介を探して外に出たのは、あかねがいつもの周囲に気を使う性格だったのだろう。しかし、探しているうちに、慎之介が「空の青さを知る人よ」というCDを1枚だけ発売した過去を知る。その情報を得て、会場の外で慎之介に会い、「空の青さを知る人よ」を買ったと嘘をつき、茶化しながら歌う慎之介に、昔の様に二人で笑うあかね。そして、慎之介が会場に戻った後で、一人涙を流すあかね。

あかねは、東京に行った慎之介が、デビューする際に、自分の卒業アルバムの言葉を使ってCDを作った。それは、東京からのラブレターだったに違いないし、その曲でビッグになる前提だったのだろう。しかし、その夢は叶わず、慎之介の夢は果てた。あかねの涙は、当時の慎之介の気持ちの有難さと、自ら封印してしまった取り返しのつかない、青春の輝きを失った悲しみ、なのかもしれない。

あかねは、トンネル崩落事故で、しんのが駆け付けた時に、13年後の自分を見せるのを恥ずかしがった。それは、単純に自分が錆びてしまったからではなく、生き方が変わってしまった自分を、当時のみずみずしい、しんのに見られたくなかったからも知れない。でも、しんのは今のあかねを肯定してくれた。

帰りの車で、あかねと慎之介としんのが3人になったとき、慎之介にツナマヨのおにぎりを作る話をした。それは、あおいの独り立ちを全く想像していなかったあかねが、その時が来た事に気付き、あおい中心だった人生を切り替えて、他の人のために生きる事を示唆する言葉である。この台詞で、あかねはもう、あおい一人に献身的な人生から解放される事を意味する。

あかねは、始めに未婚の母をやり切って、次に青春を取り戻す事になった。その事は、EDでも語られる。

従来の岡田磨里さん脚本であれば、あかねのような重たいものを背負ったキャラは、どこかで糸が切れて恋愛できずに我慢してきた事に対して号泣したり、あおい一筋の異常で歪んだ愛憎表現になりそうなところ、見事に人前で弱みを見せない女性として、あかねを描いた点が過去作と違う最大のポイントだと思う。その意味で、本作はとても爽やかな印象を受けるのだと思う。

おわりに

本作が「刺さる」人と「刺さらない」人が居ると思いますが、私は凄いクオリティの作品と認めた上で、どちらかと言えば、「刺さらない」側の人間でした。

恐らく、自分が大きな夢を持たず、夢破れたという気持ちを持たずに、生きてきたからなのかも知れないな、などと思ったり。受け止め方は、本当に人それぞれになる作品だと思いました。

そして、個人的に本作のお気に入りキャラは、やっぱりあかねです。というか、本作の主役があかねだったと思います。誰に対しても、いい人で接するあかねを悪く思う人は居ない。心の闇を描かなかったからこそ、人としての強さの面で惹かれてしまう。でも、そのバリアも肩から降ろす時が来た。そんな風に感じた作品でした。