たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

羅小黒戦記

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

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はじめに

話題の中国アニメの「羅小黒戦記」の長文の感想・考察です。

噂通り非常に面白い!と自信を持ってオススメ出来る作品でした。周囲でも凄い凄いと言う噂は聞くのですが、どう凄い!というのが分かりにくく感じたので、感じた事、考えた事をこのブログにまとめたいと思います。

公開劇場が限られており、気軽に観に行きにくい状況ですが、機会があれば鑑賞をオススメしたい映画です。

感想・考察

何はともあれ、ド派手なアクション!

妖精たちの超能力バトル

本作の最大の見せ場は、何と言っても妖精達のド派手なアクションシーン。

妖精と言っても羽の生えた蝶々のようなものではなく、日本で言う妖怪の事だと言えば分かりやすい。妖精はそれぞれに個別の超能力を持ち、身体能力は桁違いに高く、けものの姿をしていたりするのだが、人間の姿になる事も出来る。

人間よりも古くからこの世界に生息しているが、最近は土地開発により森は削られ都市が作られ妖精は追いやられてしまう。しかしながら、人間と共存共生している妖精もおり、彼らは妖精とはバレない様に人間の姿をして町に暮らす。そうした世界である事が物語の前提にある。

本作では、人間との共生を望む妖精と、人間との共存を否定し、人間が奪った土地を取り返そうとする妖精との、妖精同士の激しいバトルアクションが描かれる。

妖精たちの超能力バトルでは、例えば、金属片を自在に操り変形させ、それを高速で飛ばして攻撃する。時にナイフにもなり、針金にもなり、相手を縛り付けたり。これは属性が金属の場合であり、木の属性であれば樹木を、水の属性であれば水を自在に操る事が出来る、と言った感じである。

基本はカンフー映画の文法

これらのアクションが目まぐるしく行われる。画面の手前から奥まで飛んで行き戻ってくる。物凄い勢いで走りきる妖精をカメラが追いかける。妖精によっては飛んだり空中浮遊したりするから、カットも平板にならず空間を強く意識した動きになる。これら数秒のカットが何カットも連続して続く。正直、気を抜くと何が起きているのか分からず置いてけぼりをくらう。それぐらい速い。しかも、それを馬鹿丁寧に破綻なく描き、見事にキッチリ動かしている点が凄い。

一般的な作品では、速すぎるシーンはスローモーションになる事が多いが、本作は全然そんな事は無く、目の前でリアルタイムに起きた事象として等倍速で動く。まるでカンフー映画の組手のように。

そして、この素早いテンポ感だけでなく、アクションシーンはカンフー映画の文法で作られている。

例えば、序盤のムゲンとフーシーたちのバトル。ムゲンがたった一人で4人を圧倒してゆく。しかも、姿勢は後ろ手を組んで直立。無表情で口はへの字に結んでる。全力を出していないのに、目にも止まらない速さで金属片が形を変えて相手を襲う。まるで、仙人のような所作で圧倒的な強さが描かれる。

例えば、中盤にムゲンが捕らえたシャオヘイと二人でイカダに乗って中国大陸を目指すシーンでは、野良犬(実際には猫)のように吠えるシャオヘイを目も合わさずに金属片で軽くあしらう。具体的には、暴れだしそうなシャオヘイを金属片で縛り上げたり、逃げ出そうとして溺れそうになるシャオヘイを金属片ですくい上げたり。とてもコミカルで面白い。これは、カンフー映画で言えば主人公が師匠に仕える修行時代にあたるパートである。

例えば、終盤のバトルの最中に、ムゲンが相手のフーシーを睨みながら、傍らにいるシャオヘイの襟を直すシーン。緊張感の中に優しさコミカルさを織り交ぜてきて面白い。

アクションシーンが大半でありながら、その中に力量差や笑いのドラマも込める。そうしたカンフー映画の良き文法をうまく活用した作風だと思う。

魅力的なキャラ設定

可愛い子猫、兼男の子、兼化け猫のシャオヘイ(小黒)

シャオヘイは、子猫、人間の男の子、化け猫の三つの姿を持つ。子猫の時も、男の子の時も、その仕草がとても可愛らしく描かれる。そして、人間に追い詰められた時に巨大な化け猫の姿になるが、その姿こそ、シャオヘイの強さのポテンシャルの高さと、内面の激しさを示すものである。

シャオヘイは、まだ幼いので心が純粋である。そして、その幼さゆえ、霊力のコントロールの仕方を知らない。その事が物語の核にある。

本作は、シャオヘイの心の変化と葛藤が克明に描かれる。最初は、住処を奪い危害を加える人間を憎み、フーシーを仲間だと思う所から始まっている。

しかし、敵であるムゲンに捕まり一緒に旅しながら、人間と共存する妖精の話を聞き、人間も妖精も違いが無い事を徐々に理解し、無差別に人間を傷付ける事は良くない事だと思うようになる。

地下鉄でフーシーに連れ去られ、人間を追い出すために力を貸して欲しいと頼まれ、納得が出来ずに断った。これは序盤のシャオヘイからの明確な変化を示す。無垢な心は無益な殺生を嫌がった。結果を急ぐフーシーは、シャオヘイが非協力的だとわかると、慌ててシャオヘイの「領域」と命を奪った。

自分の「領域」で一人目覚めたシャオヘイは、フーシーの行動を悲しみ涙がこぼれた。仲間だと思ったのに何故?

シャオヘイはまだ子供だから価値観が安定していない。だから、信じていたものに裏切られ、殺されて何が悪かったのか分からない。観ているこちらも心が痛む。

しかし、ムゲンとフーシーの戦場となった奪われし「領域」にシャオヘイが現れ、フーシーを止めるためにムゲンを援護する。信頼するムゲンと師弟協力によりフーシーを倒す展開が熱い。

フーシーを倒した後、シャオヘイはムゲンに「フーシーは悪者だったの?」と質問するが、ムゲンは「答えはもうシャオヘイの中にあるはず」と返すシーンが良い。あの日優しくしてくれたフーシーも、テロリストとして町を破壊したフーシーも同一人物であり、どちらもフーシーだった。ちょっとした行き違いで善人が悪人に変わってしまう事もある、という理解なのだと思う。言い換えれば、根っからの悪人は居ない、とも取れる。

ラストは、シャオヘイが館に到着し他の妖精たちと暮そうというタイミングで、ムゲンと離れ離れになると分かるや否や、ムゲンと一緒に修行の旅を続ける道を選ぶ。もっと言えば、家族としてムゲンを選ぶ。大泣きしながらムゲンに師匠!と言いながら抱き着く姿が可愛すぎるて泣ける。

無表情の師匠、ムゲン(無限)

館の執行人。人間なのに圧倒的に強い。普段は険しい感じで無表情。イケメン。ネット調査では、年齢は437歳。

フーシーを捕らえ損なったときに偶然拾ったシャオヘイ。最初は只の子供の妖精だと思ったが、途中でシャオヘイが「領域」を持つ事に気付く。強い潜在能力を持つが、まだ子供であるがゆえに、シャオヘイをキチンと育てないとフーシーのような過激派になりかねない。放っておけばフーシーの所に戻ろうとする。だから、ムゲンが館に連れて行くまでシャオヘイを弟子の様に面倒を見ることなる。

序盤、ムゲンはずっとへの字口で無表情だが、シャオヘイと二人旅を続けることで少しづつ笑顔に変ってゆく所が良い。不愛想な頑固爺さんが無邪気な子供の行動に心ほだされていく過程が面白い。そして、ムゲンは長く生き過ぎているからこそ、シャオヘイの若さと可能性が未来の輝きであり、宝である事を理解する。

ムゲンのカッコいい所は、シャオヘイに人間との共生を無理強いせずに、ムゲンの背中で伝えようとする所だと思う。フーシーの道は間違っていると思う。しかしそれを押し付けず、その最終判断はシャオヘイにゆだねている。ムゲンも領域を持っているので、人は他人に言われて行動するのではなく、己の心に従って行動するという事、そのとき当人が苦しくてもそうして行動しないと後悔する事を、言葉を使わず語っているのだと感じた。

優しいお兄さんキャラの、フーシー(風息)

人間との共生を拒み、過激派として行動してしまうフーシー。物語上の悪役だが、その優しさが滲み出る人柄が魅力的なお兄さんキャラ。

フーシーの悪役としての振舞を列挙すると、シャオヘイとの初めての出会いはフーシーが人間を操りシャオヘイを襲わせた自作自演だったこと、今までタブーだった館の妖精を襲撃したこと、地下鉄テロなど人命を犠牲を前提に行動したこと、シャオヘイの協力が得られないと分かるとシャオヘイの命と領域を奪ったこと。このとき禁断の略奪の能力を使ったこと。これらは全て、人間を追い出し土地を取り戻すという結果を急ぐための過激な行動だった。

ただ、この悪行も、今まで我慢を重ねてきたが堪忍袋の緒が切れて強硬手段に出た、と言う描かれ方をした。もともといい人が、その理想の為に過激な行動をしたのだと、私は解釈している。

おそらく、多くの観客もフーシーと仲間達を好きなのではないかと思う。特にロジェなんか明らかに善人だし、シューファイは無口キャラだが憎しみは感じさせないし、テンフーは顔は怖いが大人しくてユーモラス。この当たりの敵ながら憎めない役作りも上手い。

本作の気持ちよさは、この敵対する妖精にも憎むべき悪役は誰もおらず、人間味あふれる愛すべきキャラ造形になっている点にあると思う。

力強い物語とテーマ

妖精たちの戦争という表面的な基本構造

本作を記号化するなら、下記の二つの勢力の争いであると言える。

  • 親人派(ムゲン&館)→正義
    • 主張:人間と妖精は争わず共生すべき
      • 妖精は人間の姿で町に溶け込んで生活する
  • 抗人派(フーシーと仲間)→悪
    • 主張:人間と妖精の共生は許容できない
      • 妖精に土地を返せ、人間は出て行け
      • 人間との共生は、こそこそ生きるようなモノで耐えられない

最初、悪のフーシーの側についたシャオヘイが、正義のムゲンと共に過ごす事で、正義に目覚めて悪を倒す、という物語の骨格である。

しかし、前述の通り、フーシーは物語的には悪役なのに、フーシー自体が優しいお兄さんキャラなので、勧善懲悪な感じはしない。

果たして、この物語の解釈は正しいのか?感じる違和感は何なのか?

興味深い人間の立ち位置

人間がもともと妖精が居た森を開発し都市を作るくだりは、漢民族少数民族を侵略を連想させる。しかし、中国は共産党一党支配であり、体制批判を匂わせる描き方だとメディアの検閲を通らない。だから、本作は体制批判を想起させる人間側の悪を描く事はできない、のだと想像している。

本作における人間の扱いは、館の妖精からすれば絶対に守るべき存在であり、人間の死者は一人も描かれない。シャオヘイが電車で誘拐犯に抱えられている姿を見て、乗客の人間の大人たちは、シャオヘイを助けようとする。(その後、大人たちは操り人形にされてしまうが) 館の妖精は、人間達の生活も楽しいものだよ、と言う。あくまで人間は害のない存在として描かれる。

こうした人間の扱いと、物語の正義と悪の基本構造は、この妖精と人間の関りのモチーフの中で、検閲を通すためのディレクションではないかと思う。

勧善懲悪の否定と、非暴力・共存というテーマ

では、あえて、この制約ある不自由なモチーフを使って作品を作る意味は何なのか?

それは、フーシー達が悪役として描かれていない所がポイントであると私は考えている。

漢民族少数民族の諍いは絶える事無く続く。少数民族が中国政府にテロ行為を行うこともあるだろう。しかし、そうした過激派であっても、もともとは優しい人間の可能性があること。シャオヘイは、フーシーが悪者だったのか?とムゲンに質問するが、その答えはもうシャオヘイの心の中にあるはずだ、と返し答えを言わない。つまり、フーシーが悪者かどうかは、観客に委ねる形になっている。単純にテロ行為だけみて、勧善懲悪に当てはめては物事の本質は見えない、というメッセージにも思う。

そして、全体を貫く、非暴力・共存というテーマも本作には確実に存在する。ここは、ある意味、体制批判というより、体制としてはそんな事実は無い、というところで検閲に引っ掛からないと想像している。

だから、私は本作は、検閲のためにぬるくなった脚本などとは思わないし、作家として制約ある中で誠意ある脚本を書いていると、感じた。この点が本作の脚本の好きなところであり、物語の骨太さを感じる所である。

「領域(レイイキ)」の存在

本作には、領域という不思議な概念が存在する。以下に映画から読み取ったポイントについて列挙する。

  • 「領域(レイイキ)」について
    • 限られたごく一部の者だけが領域を持つ
    • ≒自分自身の内面?
    • 領域の中では、持ち主自身が絶対的支配者であり、何でも思った通り動かせる
    • 他人を領域内に招き入れる事はできるが、その人にとっては圧倒的に不利
    • 基本的にはそれ程、大きくない
    • ムゲンは自分の生家を格納している

領域は、本作のクライマックス部のバトルアクションの舞台として使われた設定でもあるが、本質的には、他人が犯す事が出来ない個人の信念であり、他人に影響を与えるカリスマ性のような力だと私は想像している。だから、仙人のようなムゲンが領域を持てるのだと。シャオヘイも持っていたが、誰が持てるのか?については不明。この考察は、調査したわけでは無く、作品をは鑑賞しながら感じた想像である。

この推察が当たっているなら、答えはもうシャオヘイの心の中にあるはずだ、のムゲンの台詞と領域の存在は符合する。つまり、物事の善し悪しは、他人に委ねるモノではなく、自分の内面に問いかけろ、というメッセージにも感じた。

本作は、単純に強い奴と戦いたい、という能天気なテーマではなく、善悪の判断を自分に問いかけるという、内面に向かったテーマを持っている事が、鑑賞後の味わいになっていると思う。

印象的な地下鉄の女の子のシーン

個人的に一番好きなシーンは、電車の中でシャオヘイが乗客の人間を守るシーンである。

電車の上でテロリストとムゲンが戦っている最中、ムゲンに頼まれてシャオヘイが乗客を守る。車内に落ちてくる石をシャオヘイが砕く。霊力を使って岩を金属製のパイプで受け止める。さらに振ってくる岩々を、化け猫の姿になり人間を庇うのだが、その姿をみて人間はシャオヘイを化け物と怖がる。そうして、ムゲンとシャオヘイがその場を立ち去ろうとするときに、助けてもらった女の子が「ありがとう」とお礼を言い、シャオヘイは「どういたしまして(うろ覚え)」と返す。地下を走っていた電車が地上に出て、車窓が一面明るくなる、というシーン。

今まで、化け猫の姿を怖がらない人間は居なかった。化け猫姿というのはシャオヘイの本質であり、恐怖というのは拒絶であるから、いくらシャオヘイが歩み寄っても最終的には拒絶される存在である、というのがシャオヘイの人間感であったと思う。しかし、この女の子は、シャオヘイの本当の姿を見ても、目を逸らさず真っ直ぐ感謝してくれた。これは、妖精も人間も対等に心を通わせる事ができるという、明るい可能性を示唆していたと思う。

この時のシャオヘイの表情は、何が起きたか分からず唖然とした感じだった。すぐに全面的に人間を信用できるわけでは無い。だけど、この瞬間、何かがシャオヘイの中で変わった。この内面に何かが触れた瞬間の演出が非常に良く、胸に刺さった。

おわりに

本作の魅力は色々と多い。要所要所のコミカルさで笑いながら、鑑賞後の爽やかさも兼ねると言う作風が非常に良いと思います。屁理屈の様な考察を書きましたが、それ抜きで十二分に楽しいです。

個人的には、骨太なテーマを持った脚本・構成がしっかり出来ているからこその安定感だと思いますし、その点を大きく評価します。物語的に見てもイベント、展開に全く無駄を感じません。

誰にでも薦められる良作だと思いますし、中国映画というレッテルを外して多くの人に観て欲しい作品です。