たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

アイの歌声を聴かせて

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

当初、あまり気にかけていなかったのですが、SNSの評判が良くて観に行きました。評判通りの楽しいアニメ映画でした。

小難しく考える映画じゃなくて、とにかくミュージカルシーンに代表されるパンチ力あるポジティブな青春モノという作風です。インド映画みたいな楽しい手触りです。

  • AIと人間の共存について、一部追記(2021.11.3)
  • 「サトミの幸せ、シオンの幸せ」(2023.7.2追記)

感想・考察

インド映画的な楽しさ溢れるミュージカル映画

インド映画的な楽しさについて考えると、やっぱり庶民の鬱憤を、映画で憂さ晴らしする娯楽的要素がコアにあると思う。そして、そこに音楽による感情の爆発を乗せるという作風が強烈なスパイスになる。本作は、まさにそんな魅力を持ったアニメ映画たと思う。

主人公のサトミは学校では孤立、ゴッちゃんとアヤは喧嘩中、サンダーは試合で一勝もできず。何が悪いと言うわけでもなく、何かのボタンの掛け違いで悶々とした気持ちと共存しながら生活している高校生たち。

そこに、天真爛漫(ちょっとポンコツ)な美少女転入生のシオンが、ミュージカル映画のワンシーンさながらに大声で伸びやかに歌を歌いながら登場人物たちを励ましてゆく。しかも、ネットワークに繋がったAIである事を生かし、時に周囲のデバイスを駆使しながら舞台をド派手に演出しながら、幸せになって欲しい人の為に歌い上げる。

なぜ、このような作風のアニメ映画が今まであまり存在していないのか? と言えば歌唱+ダンス+アニメという技術的な難しさもあるだろうが、日本人の登場人物がいきなり歌い出すという演出は、突拍子もなく抵抗があったからではないかと思う。

本作はそこを、ポンコツAIだから歌って踊る、という設定でクリアした点が発明だと思う。だから、インド映画みたいにエキストラも含めて全員がダンスする、という事は無いが、それでも、シオンの歌唱と踊りに破壊的なパンチ力があり、物語を牽引できてしまう。だから、ミュージカルシーンの意味は、シオンの歌が登場人物のわだかまりを解き、背中を押す、という構図に統一される。

シオンのCVは土屋太鳳さん。設定上AIという事で、芝居としては高音気味のフラットな声質を当てているのだが、その声が歌唱とマッチして、曲の頭から終わりまで爽やかな点も良いと思う。

ちょっと懐かしめのややリアル寄りなキャラデザ&キャラ作画

キャラデザは、敢えて今風のライトなモノではなく、青年漫画味のある少し懐かしさ感じさせるテイストであるが、これが本作に非常にマッチしている。

本作は高校生の青春ドラマであるが、多感な若者の内面を描くにあたり、ある程度の泥臭さをリアルに感じられる雰囲気を持っている点が良い。また、何よりシオンが人間と見間違う美少女AIという設定があり、その生身感を感じられるデザインになっていると思う。デフォルメよりもリアル寄りというディレクションである。

実際、シオンのミュージカルシーンは、人間がダンスできる範囲でリアルに徹した動きだったと思う(ダイナミックなカメラの演出はあるが)。サンダーとの柔道着での乱取りシーンも、柔道とタンゴのダンスの体重移動を意識したリアルな動きであり、キャラの生感は見事に出ていたと思う。

ちなみに、キャラクターデザイン原案は、紀伊カンナ先生。直近では、アニメ映画「浜辺のエトランゼ」の漫画原作者兼キャラデザをされていた。

シンプルなエンタメ物語と直球のミュージカル演出

本作の物語は比較的シンプル。あらすじは下記。

前半は、5人の若者たちが高校生活で抱える問題やわだかまりを、歌の力だけで意識改革をし、改善、解決してゆく。孤立したサトミに友達を作り、喧嘩中のゴッちゃんとアヤを仲直りさせ、勝ち知らずのサンダーに勝利をもたらす。

これらは、全て「サトミを幸せ」にするという命題を持って、シオンがAIらしく試行錯誤しながら行ってきた事である。これにより、5人の若者はシオンに救われてゆく。

そして、「サトミの幸せ」の仕上げに、なんとなく気まずくなってしまっていた幼馴染のトウマとサトミを恋仲にすべく、白馬の王子様がプリンセスに告白するという最高の盛り上がりの中で、制御範囲外で活動するシオンを危険とみなして回収する星間エレクトロニクス。

後半は、若者たちとサトミの母親の合計6人による、シオン奪還作戦。ここは、完全にアクション活劇なので、映画としての典型的なクライムである。この救出劇により、シオンのAIは、8年前同様に再びネットに逃げて生き延びる事が出来た。

最後は、サトミの母親は仕事に復帰。頓挫していたトウマとサトミの恋仲を、衛星軌道上からフォローするシオン。手を繋ぐトウマとサトミ。と、ハッピーエンドで気持ち良く終わる。

インド映画的なエンタメ作品としては、類型的でコンパクトに纏まっている。繰り返しになるが、ある意味ベタな展開である物語を、ミュージカルのパワーでゴリ押しする作風ゆえに、この物語と演出の相性は良い。

通常なら、AIをファンタジーにし過ぎとか、セキュリティを改竄し周辺デバイスまでも制御してしまうシオンを危険すぎるとか、ある意味常識的にルールに従って行動した支社長をあまりにもヒール役にし過ぎるとか、普通の映画なら突っ込みどころになりかねない点は多い。

しかし、これらは劇をシンプルに楽しむためのディレクションであると理解できる。なんなら、重要な役割を果たす劇中劇のムーンプリンセスも子供だましの童話のようなものであり、本作はそうした童話の様な物語と言っても良いだろう。多くの観客もそれを理解し、受け入れてしまう力が本作には宿っていると思う。

AIと人間の共存について

元気一杯で空気の読めないポンコツAIとして描かれたシオン。シオンはサトミを幸せにしたが、シオンは幸せだったのだろうか?

シオン(正確にはシオンに乗り移った8年前のサトミを幸せにする命令を受けたAI)は、機械学習により、サトミの幸せを試行錯誤し、サトミを幸せにした。サトミや周囲の人間が幸せなら本望。もともと命令に従って行動する機械だから、献身的なのはある意味当たり前なのだが。

良くあるAIモノなら、ここで自我に目覚めて、ピノキオよろしく人間になりたいAIの話になってしまうところ、シオンはあくまで機械として振舞っている。当然、映画が伝えるべきストーリーの範疇外のネタであり、物語のノイズになりそうな要素はカットしているのだと想像しているし、ディレクションとしては正しい。

しかし、幸せをくれた相手に対し、お返したい気持ちがあるのも人間だろう。シオンの救出劇とサトミの「友達」発言は、その恩返しにあたると思う。それは、神様やお地蔵様へのお供え物と同じである。一方的なギブだけでは気持ちが悪い。ギブあればテイクありである。AIに対しても、そうした気持ちを人間が持っている事が救われる。

そして、その言葉を受けたシオンの「私って、幸せだったんだね」という台詞がさり気なく切なくて沁みる。それは、単に言葉だけの反応だったのか、それとも人間として心が理解できた上での反応だったのかはどちらでも解釈できる範疇の演出だったと思う。ここを観客に委ねた演出が心地よいな、と思った。

私は、美少女型AI(またはロボット)モノは、過去の経験則から個人的に名作になりにくい印象を持っている。それは、上記の様な、AIの自我云々になったときに、どうしても薄っぺらなドラマ寄りな方向に走りがちで、設定とドラマの両立が難しいと感じていたから。本作は、シオンの自我を明確に描かないディレクションで、人間に奉仕する機械に徹していた事が個人的には良かったのかもしれない。

サトミの幸せ、シオンの幸せ(2023.7.2追記)

Netflixで配信があり再度鑑賞したのだが、後半のサトミの幸せ・シオンの幸せについて考察しきれていなかったと思い、2年越しになるが追記した。

そもそもシオンの中のAIは、小学三年生のサトミに与えられたタマゴ型のトイAIを、トウマが歌えるように音声合成機能追加しその他諸々を改造した代物である。これにより、より多くサトミと情報交換し学習を重ねる事ができた。その学習成果はサトミの母親の美津子も驚く内容であったが、当時の美津子の上長である野見山に学習データが削除されそうになり、ネットワークの世界に逃げ伸びた。トイAIは常にサトミを見守り「サトミの幸せ」を祈り続け、ようやく歌えるボディであるシオンに乗り移った。

サトミとしては、この話を聞いてシオン(=トイAI)を友達のように愛しく感じたという描写だったと思う。なにせ、8年前からの友人である。そして、中盤でサトミがシオンに聞きたかったと言っていたのは「シオンの幸せ」についてであろう。

支社ビルのラボでシオンと再開したとき、サトミは感激の涙を流しており、シオンは悲しいのか嬉しいのか分らなかった。屋上へリポートでも、サトミが涙を流しながらシオンに出会えた事を「幸せ」と語る。今度は逆に質問され、シオンは息も絶え絶えに、サトミと再会していっぱい話せた事について「私、幸せだったよ」と返す。

つまり、サトミからはAIは友達で有り私を幸せにしてくれた存在、シオン(=AI)からも人間と会話して幸せだったという、人間もAIも幸せに共存する世界を垣間見せて物語を〆る。

これは劇中にも描かれた大人側からみたAIへの脅威の感情に対する、子供視点の純粋無垢な別回答という事になるだろう。この感覚に似たエンタメとして、1974年に放送された子供向けTVドラマ「がんばれ!!ロボコン」という作品があった。ロボコンをはじめとする各ロボットたちが一般家庭に派遣されて住み込みながら奉仕活動をし、その貢献度をガンツ先生が採点するという流れになっていた。この中でロボットたちは人間に奉仕する事を喜びとし、人間たちもまたロボットを友達のように接して共存する世界であった。その意味で、本作のAI感は温故知新だったと思う。

果たして、2023年3月、ChatGPTなどのAI技術の革新的な発表が相次ぎ「Hottest week of AI」なる言葉も登場し、対話型のAIの進化を体感し時代の波を感じさせるニュースも相次いだ。画像生成AIの生成画像も著作権侵害していなければ公開したり販売してもセーフだとは言え、AI画像を良く思わない絵師の方々も多数いるため、この辺りは慎重に中立の立場を保つ人も多い。

このような、AIに対するアレルギーは珍しいものではなく時代の空気とも言える。が、本作ではそこを一足飛びにして、時代に逆行してAIハッピーで〆るところが痛快な見どころとも言える。

公開から1年8か月経過した今見ても、映画としての演出、音楽の使い方は劇場公開アニメ映画として相応しいクオリティを持っており、その上、AIというイマドキ感のあるテーマを楽しいエンタメとして昇華している点も含めて、なかなかの傑作ではないかと思う。

おわりに

いろいろ書きましたが、シンプルな娯楽映画の力に殴られたという強烈な印象の作品です。その娯楽作を作るために、綿密に設計された超良作でした。おそらく、何回でも楽しく観れる作品です。

本作を「竜とそばかすの姫」と真逆のテイストを持つ作品という感想を見かけましたが、激しく同意できます。明るく楽しく、気取らず大衆的な、作品の粗よりも作品の良さを強調するような、そんな作風だと思います。脚本が吉浦監督と大河内さんの共同脚本である所も含めて対称的に思えます。

出来れば、多くの人に観てもらいたい作品です。

2021年夏期アニメ感想総括

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はじめに

2021年夏期アニメ総括です。今回、最終回、クール区切れまで見た作品は下記です。

白い砂のアクアトープは2クール作品ですが、1クールで明快な区切りになっているので、1クール目の感想を書きます。

マギレコ2期は、まだ視聴中で、後日追記予定です。 マギレコ2期について追記(2021.11.10)

感想・考察

小林さんちのメイドラゴンS

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 今まで通りのクオリティで、深夜アニメに帰ってきた京アニ作品
    • 1期に比べ、キャラを掘り下げ、キャラに優しくなった作風
  • cons
    • 特に無し

1期は2017年1月~4月放送。途中、7.18事件があり、事件後初の京アニのテレビアニメ作品として、満を持してのメイドラゴン2期である。

なお、1期についてはブログ記事にまとめているので、下記を参照頂きたい。個人的な1期の感想だが、日常ギャクをベースとした作品で、人間とドラゴンの社会や種族の違いのギャップを扱ったドライなドラマもあり、武本康弘監督の奥深い作風と、京アニの暴力的とも言える作画・演出の魅力に痺れていた。

本作は、7.18事件で亡くなった武本監督の遺作でもある。作品を引き継いだのは石原立也監督。武本監督はシリーズ監督という肩書でスタッフリストに並ぶ。

2期では、1期同様に軽快なギャグと、シリアスなドラマ、何気ない日常の幸せ、こうしたモノが編み込まれて描かれる。演出・作画・動画は流石の京アニクオリティであり、1期と比べても全く遜色ない。間にヴァイオレット・エヴァーガーデンを挟んでいるからなのか、1期に比べて映像がより艶っぽくなったように感じた。

相変わらず個性的なドラゴンたちだが、2期では新キャラのイルルの追加、エルマの深掘りなどの変化があり、キャラクターにより奥行きを持たせてきた。

イルルは、深層心理にある人間と遊びたい気持ち、それを上書きし否定するドラゴン社会の人間を殺戮すべしとするルール、この相反にコンフリクトを起こした。これに対し、「私に騙されてみない?」という小林さんの言葉が優しい。イルルの現状の混沌勢の立場を否定する事無く、小林さんに罪を押し付ける事で、自分に素直に行動すれば良い、というイルルに対する助け船である。イルルはこの提案に乗っかり、小林家に居候し、5話で駄菓子屋のバイトを始め、子供達やタケトとの交流をしながら過ごしてゆく。8話で駄菓子屋に忘れられた(=捨てられた)人形を持ち主に届けるが、人形=大人になると卒業してしまう子供心の象徴であり、他人のそれも大切にしたいイルルの今の気持ちを描いた。過去の自分に折り合いを付けるために、イルル自身が主体となって行動する事に意味がある。それを理解して陰からサポートする小林さんとトール。寄り添って一緒に行動したタケト。それぞれにイルルに対する優しさを感じた。

カンナは、相変わらず子供全開な面と、周囲に気配り配慮できる思慮深さを持ち合わせていた所が印象的だった。6話で才川と二人で河川の上流まで弁当持参で歩く。河川の合流地点で老夫婦から、川の流れが人の都合によって変えられた経緯があった事を聞き、「私も変われるかな」と言うカンナ。人と川(≒ドラゴン)とも解釈でき、相手の都合に合わせて変化する事で共存してきた歴史的経緯を、才川と自分に重ねてみたのだろう。10話はまさにカンナ回。Aパートの家出してNYCでのクロエとの短い交流。小林さんと喧嘩して引っ込みが付かなくなるが、帰れる「おうち」がある事の幸せを、家出少女のクロエと交差させながら噛みしめる。Bパートは、夏休みの午後の一日を過ごす小林さんとカンナの切り取るが、そこに物語は無いという攻めた脚本。宿題の書き取り、そうめん、すいか、麦茶を買うためにお出かけ、猛暑、蝉の抜殻、河原、蛙、蟻、マンホール、自由研究、喫茶店、かき氷、クワイエット君、通り雨、雨宿り、てんとう虫、雨上がり、虹、おうち帰ろ、ただいま。カンナの子供視点で見えるモノを描くだけの日常回。少し話が脱線するが、猫の親子の散歩を見た事があるだろうか?子猫の好奇心にまかせて自由に歩かせて、後ろから親猫が見守りながらついてくる。とても微笑ましくて尊い光景であるが、Bパートはそれを連想させた。Aパートの家出があるから、Bパートの日常の幸せがより尊く感じ去れる。ほのぼのした良回だった。

エルマは、これまでのトールとの交流と、現在のトールに対する気持ちの整理が描かれた。時系列的に言えば、トールが一人旅で世界を見聞する。神と敵対すべきドラゴンでありながら、神として人々に崇められるエルマと出会う。そこで、混沌勢や調和勢という枠組みから少し外れた二人が、互いにひかれ合い意気投合する。しかし、互いの信念が噛み合わず喧嘩別れする。ここで面白いのは、思想などの違いがあっても折り合いを付けようとする小林さんのスタイルとは真逆な関係である。お互いに純粋であるがゆえに譲れない。その後、エルマはトールが移り住んだこちらの世界に乗り込んで、会う度にトールと口喧嘩をする。9話では、溜まりに溜まったトールへの気持ちをついに爆発させ本気のバトル。こちらの世界に来てトールにつれなくされる事に耐えられない、昔の様に仲良くしたい、というエルマの告白とトールの謝罪。殴り合いの喧嘩は引き分け。思想を脱ぎ捨てて、ありのままの心で友情を語るという意味では、イルルのルールを捨て本心を尊重するというドラマに似た構造を持っていたと思う。

トールについては、11話でこっちの世界に来るまでの経緯を1期よりも詳しく描く。あちらの世界のドラゴンは徹底的な個人主義。集団や派閥や肩書や親子の情は人間との関りで導入された概念であり、後天的に定着していった習慣である。ドラゴンが人間に害悪のレッテルを貼るのもその一環。混沌勢という枠組みも、終焉帝の娘という肩書も。終焉帝は、人間によりもたらされ変わりつつあるドラゴンの慣習に対し、トールに先入観を持たずに自分で見聞きして考えさせるために、トールを一人旅に出させる。その親心さえも人間の影響と自覚しつつ。その結果、トールは枠組み肩書に縛られる自分の不自由さに耐え切れず、自分の戦いを終結するために、バグって暴走し、神様に突進し、致命傷の痛手を負ってこちらの世界に来た。属する社会を失い、何者でもない孤独な存在として、たった一人取り異世界に残された時の孤独と恐怖。そのトールを拾いすくい上げ、居場所を提供した小林さん、という流れ。トールの「今わかりましたよ。私はメイドになりたかったんです」の台詞。とりあえず、束縛から逃げる事は考えていたが、具体的に成りたいモノは無かった。小林さんのメイドとして人生を歩む事が、全てを失ったトールに人生の生きる意味を与えた。寄り添って、与え、与えられる関係を心地よく思った。という振り返りだったと思う。

そして、最後に小林さん。12話は、トールの小林さんへの求愛に対する回答である。トールは言ってみれば、かなり重いモノを背負っていながら、明るく献身的に尽くす、出来過ぎた押し掛け女房である。1期OVA14話では、小林さんはトールに対して恋愛は要らないとキッパリと振っている経緯がある。物語として納得は出来るがトールに対して残酷過ぎると感じていた。

これに対し2期は、小林さんのトールに対する思いを「飲み込んどこ」、翔太ルコアを引き合いにトールが他の人を好きになったら「ざわざわするよなぁ」、花火の告白を「トール重いっ」、花見で現状を「ま、いいんじゃないの、今は気にしなくても」と言い、最後にプロポーズして追っかけてくるトール達から逃走しながらも、まんざらでもない風な微笑みを浮かべて2期を終わらせた。つまり、小林さんはトールの求愛に対して、お茶を濁して回答を先延ばしにした形、とも言える。1期なら明確に求愛を断った小林さんが、2期では複雑な思いを抱きながら返事を曖昧にした事で、かなりマイルドで優しい演出だと感じた。

もちろん、コメディをコメディとしてベタに終わらせただけ、という見方もあるだろう。しかし、2期はどのキャラに対しても優しさを持って描かれていた部分が存在していたと思う。そして、これは1期のドラマ志向の武本監督と2期のキャラ志向の石原監督の作風の違いによるものではないか、と想像している。

最後に本作のテーマについて。ずばり、2期のテーマは本音(こうありたい自分≒子供)とルール(ねばならない自分≒大人)のギャップに対する葛藤だったと思う。イルルも、トールも、集団や組織の中で生まれるルールと、自分の感性や本心にギャップがあり、葛藤があり、苦しんできた。自分を押し殺してルールに従ってもストレスが蓄積し心が病む。2期では、自分に素直に生きる事を小林さんが許す事で、ドラゴン達は癒されて生きて行ける。カンナは10話でも描かれた子供としての自由さの中で、のびのびと生きている。エルマとトールは、思想の違いから衝突し喧嘩別れしたが、思想を一旦脱いで、素直な自分をさらけ出して親友に戻れた。ちなみに、ファフニールとルコアは元から枠組みに属さずに自由だった。

本作では、こうありたい自分(≒子供)を優先する事で救われる物語を描く。もちろん、自分を優先するために常にルールを破れば万事解決というモノではない。葛藤があるからこそのドラマであり、だからこそ視聴者も救済される。余談ながら、アニメ映画の「ウルフウォーカー」も同様なテーマが描かれていた。組織に準ずる息苦しさを描くエンタメ作品が同時期に出てきた事は、時代を反映しているテーマといえるのかもしれない。

白い砂のアクアトープ(1クール目)

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 女子が女子っぽい、軽快で爽やかな脚本
    • ファンタジー要素で解決させない、基本はリアル路線の物語のバランス感覚
  • cons
    • 特に無し

制作P.A.WORKS、監督篠原俊哉、シリーズ構成柿原優子の座組は「色づく世界の明日から」に続くモノであり、この時点でクオリティはある程度担保されていた。前作が台詞による説明を極力排して絵画的(=絵本的)な物語を見せていたのに対し、今回は、夏、沖縄、水族館というモチーフを使い爽やかな青春群像劇を描く。その中に、海、生命、生き死にというテーマを組み合わて物語にコクを出す作風である。

映像はいつものP.A.WORKSクオリティ。海や空や水族館の魚などは期待通りの綺麗さ。沖縄の古民家、夜の砂浜、心地よさそうなロケーション描写で沖縄に行きたくなる。

水族館が舞台という事で、その辺りの設定も丁寧。設備や業務、台詞に十分にリアリティを与えていた。

個人的には柿原さんのシリーズ構成と脚本陣に注目していた。担当脚本としては、柿原さんが1,2,3,5,7,9,12話、千葉美鈴さんが4,6,9,11話、山田由香さんが10話という、全て女性脚本家が書いている。柿原さんはアイカツシリーズの、千葉さんはアイカツプラネット!の、山田さんはメイドラゴン、わたてん、恋アスのシリーズ構成の実績があり、女子を女子っぽく書ける脚本家を揃えて来た感がある。個人的には、千葉さんの脚本の軽快さが特に印象に残った。

1クール目を4パートに分割するとこんな感じか。

話数 日付 要約
序盤 1話~5話 7/19-7/30 風花が夢破れ、がまがまで生きる気力を取り戻す
中盤 6話~8話 8/1-8/22? くくる達の頑張りで水族館売上UP。各サブキャラ掘り下げ
知夢回 9話 8/22?-8/24 ティンガーラから来た知夢のがまがま研修
終盤 10話~12話 8/25-9/1 くくる最後の悪あがき、閉館受け入れ、ティンガーラで働く決意

まず、全体の流れから少し浮いている9話の知夢回について触れておく。がまがま水族館に研修に来た知夢が、くくるの仕事を甘いとし、がまがまに対する悪い印象を持って研修を切り上げる。この話は直前、直後の流れに直結しない。おそらく、2クール目のティンガーラ編を加速スタートするための予備動作的な回だったのだろう。

序盤は、風花のアイドルの夢が破れ、がまがま水族館との巡り合わせで、再び生きる気力を取り戻すまでをゆっくり丁寧に描く。繰り返しになるが、本作は女子が女子っぽく描かれるのが美点である。風花は、実家の出戻り慰労会が嫌だったから、ふらっと沖縄に逃げてきた。4話で元アイドルがばれて動揺する風花と、それを気遣うくくる。くくるは無理強いだったらごめんと謝罪し、風花はくくると仲良くなってもっと知りたかったからと気付き、くくるは私もと同意する。この辺りの感情の作り方、話の流し方が非常に女子っぽいと感じる。おそらく、男子ではこうはならない女子特有のロジックでの振る舞いであり、見せ方が軽妙であっさりしていて爽やかで良い。ちなみに、4話の脚本は千葉美鈴さん。

中盤は、くくるの頑張りを軸に、周辺キャラの、うどんちゃん空也、うみやん、夏凛の掘り下げ。キャラが全員嫌味が無く爽やかな点も本作の特徴である。個人的には、かき氷回のうどんちゃんと母親のやり取りが良かった。一見、放任主義風な母親だが、創作料理の自由さを思い出させるマンゴーラフテーのヒントを与えて乗り越えさせるスタイルが良かった。盛況に終わった日の夜、そのマンゴーラフテーを食べてダメ出しする母親。娘の成長に感じる喜びや寂しさや複雑な気持ち。風花の母親の描写もそうだが、そうした母親の娘への思いを上手くドラマに盛り込んでいた。

終盤は、くくるが閉館を受け入れ、号泣し、がまがまを閉じる話。くくるが閉館を拒む理由が、ここだけが唯一両親を感じられる居場所だったから。聞き分けの無い子供のワガママと言えばそうなのが、くくるは子供だから仕方ない。周りの櫂、夏凛も閉館を受け入れざるを得ない事を感じつつも、くくるにどう言えばよいかは分からない。おじいも頭ごなしに諦めさせず、くくるが老朽化で魚を飼育できない事を理解するまでじっくりと待つ。そして、台風一過の後、おじいはくくるに感謝とねぎらいの言葉をかける。くくるは閉館を受け入れて号泣する。全てが終わり、空っぽになったくくるの心に次の目標を設定させた風花の励ましがあり、1クール目は終了。

繰り返しになるが、序盤は風花が夢を無くしたところから生きる気力を取り戻すまで。中盤終盤はくくるが大切にしてたモノを失う運命を受け入れるまで。そして12話で、今度はくくるが夢をなくして次の目標を設定する所で終わる。つまり、風花が受けた恩を、くくるに恩返しするという流れである。序盤の風花がひどく自信を無くしていたのに対し、中盤以降は風花の堂々とした態度の切り替わり、同時にくくるに対するしっかり者の姉ポジションになってゆく。この風花とくくるの疑似姉妹関係が肝である。

本作では、基本的に奇跡が起きて物理的に局面を打開する事は無い。幻空間がキャラの意識に作用して本人の気持ちを整理したり、大切な事を思い出したりする、という程度の奇跡である。キジムナーも、くくるの亡き双子の姉も。はじめから、閉館は運命であり、そこを覆す物語ではなく、どう折り合いを付けて行くかのドラマである。だから、ファンタジー要素はあったものの、基本的にはリアル寄りの作劇だったと思う。

もう一つ、作劇的な話をすると、本作のキャラには、恨み妬み憎しみ蔑みと言った負の感情が出てこない点が爽快感の要因になっていたと思う。奇跡も無く、負の感情も無く、爽やか路線。ゆえに、作劇的にパンチが弱いと感じる視聴者が居るのも分かるが、私的にはこうした地味ながら爽快感のある物語を、非常に誠実に感じたし、とても心地よく楽しめた。

かげきしょうじょ!!

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 演出、作画、芝居の3拍子で見せる演劇の迫力
    • 深みあるサブキャラの掘り下げエピソード
  • cons
    • 特になし

宝塚を模した紅華歌劇団。その人材育成のための紅華歌劇音楽学校に100期生として入学した女生徒の描く青春群像劇。入学1年目は予科生、2年目は本科生という上下関係。様々な視点と愛情で生徒を指導する先生たち。そして紅華歌劇団の先輩方への憧れ。様々なグループとの関りの中で、憧れの舞台を目指し切磋琢磨する主人公達。

本作は演劇を題材にしている事もあり、舞台の稽古などの芝居の熱量や迫力が伝わってこそのドラマ。その辺りは演出、作画、演技ともに熱量高く、凄い芝居をしている事を視聴者に確実に分かりやすく伝たえる出来の良い映像。日常パートの緩さと、稽古などの緊張感の高まりのメリハリも良く、非常に見易く楽しめた。

逆に、作中で歌舞伎の見栄の話も出ていたが、カッコいいシーンを止めて客に見せるという感じで、動画でヌルヌルと動かすような映像ではなかったが、その意味でも少女マンガテイストの風味を的確に料理していたと思う。

本作の主人公は、予科生で歌舞伎の夢断たれた高身長のさらさ、男性嫌いで国民的アイドルグループから逃げてきた奈良田の二人。そして、目立たない山田、祖母と母が紅華歌劇団員だった星野、双子の沢田姉妹、委員長の杉本。主人公の2人以外も、それぞれのキャラが深掘りされる当番回があり、それぞれのカルマを芝居に変換して輝きに変換してゆく物語がある。

例えば、主人公のさらさは男役のオスカルを目指す屈託のないキャラなのだが、小演劇のオーディションでロミオに殺されるティボルト役に挑戦する。敵役ゆえロミオを憎むのだが、その憎みの感情が分からない。さらさは、手が届かないジュリエット=歌舞伎、ロミオ=幼馴染の暁也、と置き換えて欲しても手の届かないモノへの未練と無念を迫真の演技をする。しかし、幼馴染の暁也には嫉妬や羨望だけでなく、歌舞伎の師匠である魁三郎が無理やりさらさの恋人を命じたり、襲名の為に必死に努力している事も知っている。単純にロミオ=暁也と言うには乱暴過ぎるような、複雑な思いを抱えて演技している。本作の脚本は、全般的にこうしたステレオタイプにならないような複雑さを織り込んでおり、その辺りが非常に上手い。これにより、観る者の中で万華鏡の様に様々な模様を写し出す。

個人的には8話の星野回と13話最終回の杉本回が特にお気に入りであり、それぞれのキャラに深みとコクを持たせる短編小説の様な密度の濃い物語があり、話運びも綺麗。この辺りの脚本の出来の良さは、原作漫画からのではないかと想像する。これらのサブキャラも全員主役になれる何かを持っていて磨けば輝くという希望を抱かせる。また、本作は競争の現場でもあるが、ネガティブな競争ではなく切磋琢磨のポジティブな点も本作の特徴に思う。こうした深掘り回があるから、それぞれのキャラを好きになり、セッション回でもキャラの掛け合いを楽しく観れる。

本作は、入学からの1年を追う形で、来年度の生徒募集のポスター撮りシーンで、まだ続く未来を予感させて物語を終わる。ちなみに予科生は全部で40名だが、残り音34名も実力差があるわけではない。皆、仲間でありライバルである。予科生という可能性に目を輝かせる初々しさを描いて点も本作の特徴だったかも知れない。原作漫画は、まだまだ続巻があるとの事だが、1クールの綺麗に終えたシリーズ構成も良かった。

ED曲はカッコ良くてお気に入り。歌劇をイメージした曲なのだが、キャラに合わせて歌詞を変えた3バージョンがあり、キャラ、歌詞、歌唱がマッチしているというある意味、贅沢なモノ。ED曲の映像の少女マンガ風なイラストと相まって、良い味を出していた。

ラブライブ!スーパースターズ!!

  • rating ★★★★★
  • pros
    • エモさてんこ盛りの脚本と、コメディ色強めのテンポの良い演出の融合
    • 令和にアップデートしてマンネリ化を防ぎつつ、基本を押さえたラブライブらしさ
  • cons
    • 特に無し

満を持して登場した、ラブライブシリーズ最新作。2013年のμ's、2016年のサンシャインのAqoursを経て、2021年のスーパースターのLiella!と繋がる王道シリーズである。

ラブライブとしては、サンシャインと無印の間に虹ヶ咲が存在するが、こちらはグループではなくソロアイドル活動であり、スクールアイドル甲子園とも言えるラブライブ大会(=勝負)を否定した挑戦的なスタイルで、シリーズの中では例外的な存在と言ってよいだろう。本作は、サンシャインから繋がる本流のラブライブである。

シリーズ構成・脚本はお馴染み花田十輝、監督は無印の京極尚彦が戻ってきての強力な布陣。

サンシャインまでで形骸化したスクールアイドルの在り方を一部見直し、令和の現代にアップデートしている。最大の特徴は、1年生しかいない新設校で5人グループとした点。従来の3学年9人の構成からキャラを半分近くに減らした事で各キャラのドラマの深掘りが出来る。1期は高校1年生の4月から12月の東京大会までを描く事で四季の変化とともにLiella!の成長を描いた。

相変わらずエモさはてんこ盛り、コメディ色は更に強くなり、圧縮されたテンポの良い軽快な演出が冴える。この笑いのジャブと、感動の右ストレートのワンツー・コンビネーションの基本が出来ているので、見事にハマれる。

キャラ的には、主人公のかのんが今までにない属性と輝きを持ち合わせていた。ルックとしては釣り目でくるりん前髪(ゲームセンター嵐風味)が特徴。Liella!の中でも歌唱は群を抜いて上手いが、人前で歌えないというトラウマを抱えるという役どころ。好きだけど歌えない、諦めの気持ちからの脱却と解放を描く。6話で幼少期の千砂都を励まし救ったかのんの勇気。だが、その無邪気な勇気と相反する合唱で歌う怖さのコンフリクトで動けなくなってしまった小学生のかのん。11話では、その忘れていた記憶を思い出し、向き合い、再び自分の背中を押して、一人で歌う事を取り戻す。かのんはヒーローでありながら、弱点も持つ、親近感のある設定が魅力的に感じた。

個人的には、可可が一番お気に入り。上海出身でスクールアイドルに憧れて単身留学。かのんの歌声に惚れ込み、かのんを背中を押してスクールアイドル活動を開始する。上海出身の可可のキャラ立ちは、個人的に非常に頷けるものがある。というのも、以前、私の職場に居た上海出身の男性の印象と被る点が非常に多い。彼は、物怖じせず発言は直球、理不尽には断固抗議、親しい間柄の人間には尽くし、見下した人間はおちょくる。余談ながら、中国領事館も可可の中国人ぽさをツイートしているほどである。

もともと、ラブライブは、努力、友情、勝利という、令和においては、やや暑苦しいテーマを持っていた。それが同調圧力とも捉えられるため、そのままでは、ラブライブの味を存分に発揮しにくい。そこで、主人公のかのんにラブライブ熱を背負わせず、サブキャラの可可にエンジンになってもらう。その際に、この中国人っぽさが効いてくる。しかも、キュートな中国語訛りの日本語もあって、圧力をコメディに塗り替えて、浸透圧を高くする事ができる。その意味で、ラブライブに上海人の設定を考えた人は天才では無いかと思う。

他には、幼馴染でダンスが得意な千砂都、ヘタレキャラのすみれ、残念和風生徒会長の恋と、メンバーのキャラ立ちは濃すぎるほどに十分。この5人でLiella!を構成する。彼女たちは、ある意味バラバラで、思想やイデオロギーを持たず、何色にも染まっていない。白色とも違う。未来に向かって、何色にでもなれる強さを持っている。

すこし大袈裟だが、私は、Liella!はある意味でビートルズに似ていると思う。それは、各メンバーが個性的な天才でバラバラでありながら、作られた楽曲は不思議とどれもビートルズ以外の何物でも無いというところ。Liella!の魅力は、そうした力を感じさせるところだと思う。

物語としては、従来のラブライブの文法通り、主人公たちが立ち上げたスクールアイドルに一人ずつメンバーを勧誘して増やし、ラブライブ大会を目指して練習してゆくという鉄板スタイル。しかし、彼女たちは廃校阻止などの使命を持たず、自分達のために歌う、というディレクションが今風だと感じていた。

11話では、かのんが一人で歌えない事が分かり、その事に向き合って独唱ができるようになるドラマを描く。本作では内面に向かうドラマが多く、一人一人の強さをテーマにしていたと感じている。他人を頼っても依存はしない強さ。矢を束ねて強くするにも一本一本の強度がまずは大事という考え方。その意味でドラマは骨太。まずは、自分のために歌う。これは、かのんだけでなく、全員に言えるテーマである。

Liella!の由来はフランス語の「結ぶ」であり、彼女たちはメンバーを、全校生徒を、過去と未来を繋いでゆく。

12話では、ラブライブ東京大会に向けてステージ作りを全校生徒で行う。その思いを受け止めての熱唱であったが、結果は2位で全国大会出場を逃す。あっけないお祭りの終わり。シリーズを通してこれまで歌えるだけで幸せだったかのんは、生れて始めた負けの悔しさを味わう。自分一人の時は思わなかった、応援してくれた全校生徒への申し訳なさ。そして、涙をにじませ、来年こそ優勝する事を誓うLiella!。Song for me. Song for you. Song for all. 完。

私は、今まで勝ち負けよりも一緒に歌う事の楽しさを描いてきた本作が、最終話で価値観を反転させて来年こそ勝ちたい!となる事を意外に感じた。それは、虹ヶ咲がラブライブ出場を放棄したように、勝ち負けに拘らない事が今風であるという事を引き継いでいるように感じていたからである。しかし、本作はその予想を裏切ってきた。この辺りは、シリーズ構成の花田十輝の手腕だと思う。かのんがこれまで音楽大会とは無縁だった経緯の丁寧な設定も効いていて、これは明確に狙ったどんでん返しである。だからこそ、かのんの悔し涙の威力は大きい。「よりもい」でも似た感じを味わったが、今回も花田十輝脚本に完全にしてやられた。

音楽(=芸術)で順位を付け勝敗を争う事の意義については、様々なエンタメ作品で取り上げられる正解のないテーゼである。競争(=ラブライブ)を外した虹ヶ咲とは明確に異なり、本作はあくまでラブライブの本流であり、大会に出場する以上、勝ち負けは避けては通れない。

明確にラブライブ優勝を目標に掲げて挑戦する事になる2期のLiella!。その先にある物語が勝ちだけに拘らず、今まで通りの楽しさ、甘やかしじゃない友情、そして繋がりを大切にしてくれる事を願う。

東京大会2位という結末は可可の強制送還を発動させるのか? 年度変わって新1年生のLiella!加入はあるのか? など気になるネタを残しながら、ゆるりと2期を期待して待つ、と言ったところである。

月が導く異世界道中

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • もはや懐かしいと言える、80年代感じるキャラデザや掛け合い漫才
  • cons
    • 自由過ぎて見所多彩であるがゆえに、どのジャンルの話か身構えられず、観にくいと感じたテーマとシリーズ構成

本作は、作画、演出などのアニメーションとしての出来は良いのだが、設定や文芸面が変化球勝負の作品だったと思う。

基本的には、異世界転生。主人公の真が転生先で巴と澪という強力で美人のお供を連れて世直し道中する、というのが骨格。西洋風ではなく、水戸黄門という和風テンプレートを使う点が新しい。

悪人退治の爽快アクション活劇あり、美人のお供のお色気あり、という痛快エンタメの側面があるが、本作はこれだけでない。主人公の真は亜空の数種類の種族の住民を束ねる君主としての役割もあり、君主論的な描写もある。さらには、いつもの温厚な性格の裏に潜む、おびただしいほどの魔力。怒りの衝動に我を忘れて鬼の様な殺戮をしてしまうバーサーカー的な内面も。

ところで、本作が水戸黄門スタイルと言う事もあり、悪役を成敗する部分は本作の肝である。その悪役が美男美女しか居ないというヒューマン族というのが面白いと感じた。

真は、顔がブサイクという理由で転生直後に勇者ではなくへき地に落とされたダークヒーローでもある。真が束ねる事になった亜空の住民たちは、ブタやドワーフやドラゴンやアルケーなどであり、ある意味、容姿としては醜い部類である。これに対し、西洋人的な美男美女ばかりのヒューマンが悪役だったりする。要するに、容姿と心の美しさ醜さが逆転している構図である(ただし、ヒューマンにも良い人はいる)。もしかしたら、亜空の住民たちは西洋人から観た東洋人の暗喩なのかもしれない。

キャラデザは、「うる星やつら」を連想させるような80年代テイスト。ギャグ的な台詞も散りばめられており、シリアスとのメリハリを付けている。魔法や異世界設定や描写は、丁寧に考えられていて説明も細かい。アクションシーンの作画や演出なども迫力あるモノ。総じて、良く出来きており、アニメーションとしてのレベルはそこそこ高い。

ルックの通りにコメディ要素(真のモノローグ突っ込みなど)もあり、その辺りの口当たりは良い。

しかし、文芸面では、各話で見せ所が違うと言うか、活劇、国作り、ビジネスサクセスストーリー、ダークヒーローなど、要素多彩がゆえに、観る方も身構えられず、散漫で楽しみにくい。定食屋の日替わりランチが、和食、フレンチ、中華、イタリアンのいずれなのか、料理が出されるまで分からないロシアンルーレットみたいなモノである。

このように本作には、描きたいと思われる要素が多数あり、シンプルな活劇を予想して視聴した私としては少なからず面食らった。この雑多感は、本作の狙いであり魅力なのだろうが、個人的には焦点を定めきれず、とにかく見にくかったというのが、率直な印象である。

天官賜福

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 綺麗で迫力ある手描き2Dアニメの映像
    • 色気ある絵の芝居
  • cons
    • キャラ名の発音を覚えられなかったり、神様設定を理解出来ず、ところどころ話に付いていけなくなったところ

本作は、中国で制作された、歴史ファンタジーアニメである。日本では、アニプレックスが日本語吹き替え、OP/ED作成を行っている。

羅小黒戦記など、中国製のアニメーションの躍進も記憶に新しいが、個人的には中国のエンターテインメントの文芸面に興味があり視聴した。

まず、目を見張るのがアニメーションとしての出来の良さである。アクションシーンの作画や演出は迫力があり、なおかつ情緒もある美しいモノ。2Dアニメではこれまで日本の独壇場だと思っていたが、本作はその辺りも全く見劣りしない。ただし、全話が神作画というわけではなく、後半は話数によっては作画はダレてきていた。無数の毒蛇が3DCGで描かれるシーンは、日本製の手描き2D+3DCGを見慣れた目からすると違和感が多く、この辺りは課題であると感じた。

本作では、神様は基本的に天界にいるものの、一部の神様は地上で人間と共に暮している。そして、神様は美男美女と相場が決まっている。面白いのは天界の神様たちは、プライドが高く互いに絵牽制し合っている。神様だからと言って、お釈迦様の様に大きな心で世界を見守っている訳ではなく、人間と同じような世知辛い生き方をしている。

主人公の謝憐(シエ・リン)は、出世欲の無く優しい人柄の神様。信者がおらず、徳を積むための修行で地上に降りて来た。とりあえず、天界から南風(ナンフー)と扶揺(フーヤオ)という二人のお供が付いてきて、人間界に起きた事件を解決するという、水戸黄門スタイル。ここに、途中から謎の紅い美少年三郎(サンラン)も加わって物語は進む。

本作は、ぶっちゃけ謝憐の「受け」と三郎の「責め」のBL的な雰囲気満載で描かれるのが特徴。とにかく、この二人の男同士の思わせぶりなシーンが多い。この作風もあり、美男美女の色気漂う仕草は上手い。

物語は、怪奇現象を解明し化け物を退治をミステリー形式で進行させてゆく。1クールの中で2件の事件を解決というゆったりペースなので、各話のキャラの魅力を描くには適したスタイルに感じた。事件の真相は、届かぬ恋愛を拗らせて怨念が人間を襲うとかの物語であり、古典とも言える。しかしながら、幾重にも要素を重ねて物語が単調になないような工夫がなされていると感じた。

さて、大枠はこんな感じの作風だが、本作はいくつかの見ずらい要因を持っていた。

1つ目は、キャラの名前を覚えにくい点。

普通、自国の作品を観る時はキャラ名をすぐ覚えられるが、日本人が中国語のキャラの音だけ聞いても、なかなかキャラと一致させられなかった。考えてみると、公式HPなどのキャラ紹介を事前に見たりするのだが、無意識に漢字で覚えてしまっており、いざ耳で聞いた時に一致せずに、誰だっけ? となってしまっていた。恐らく、英語のキャラ名ならなんとなくカタカナで覚えられるのだが、中国語となるとなまじ漢字表記があるだけに、その罠にハマりやすい。しかも、三郎に関しては、別名である「ホワチョン」とか「ケツウタンカ」などの別名があり、さらにややこしくなる。これについては、ぶっちゃけ、ネタバレ覚悟でネット上の用語集などを頼りに、キャラ名を確認しながら観た方が楽しめると感じた(実際、私は途中からそうしていた)。

2つ目は、神様の設定が直感的に分かりにくい点。

中国人なら幼少期から浸透していて、違和感なく理解できるのだろうが、その予備知識を持たないと、どの神様とどの神様が仲が悪いとか、この昔話は何をモチーフにしているとかを、パッと出されても理解が追いつかない。前述のキャラの名前が分からない、という点も大きく作用している。更に、本作は事件をミステリー形式で解いて行く物語でもあるから、ずっと引っ張て来た疑惑の最期の答え合わせで、知らない神様が出て来て、良く分からない単語を喋って一件落着、とされても置いてけぼりで困惑しかない、という事があった。これについても、SNSで見かけた人物相関図によりやっと理解出来た、という感じである。

キャラや神様の設定さえ理解していれば、文芸的に悪い物語では無いと思うが、視聴していてそこまで理解が追いつかない点が、私にとっては難しく歯がゆい作品だった。これは作品自体の善し悪しというより、海外展開時の作風の相性と考えた方が良いと思う。逆に国際商品力を高めるために、尖っている部分を丸めたり、妙に説明過多にしたりするよりも、ドメスティックな感性で作品作りをしている点は、良い事に思う。

マギアレコード 2nd Season -覚醒前夜- (2021.11.10追記)

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 2期をやちよと鶴乃の救済の物語として成立させてくれた事
  • cons
    • 低コスト、リソース不足感を感じさせる煮詰めの甘さ
    • 「マギウスの翼」についての描写の弱さ
    • 取って付けた感のある、見滝原組の登場

まずは、各話メモとあらすじから。

話数 サブタイトル メモ
1話 『みんなでなら魔法少女になれる気がしたの』 見滝原組。ほむら、ういの「神浜市に来て」聞く
2話 『あなたとは少しも似てなんかない』 やちよのいろは探し。ねむの依頼で黒江いろは保護。みふゆやちよドッペル対決。いろはドッペル
3話 『持ちきれないほどあったでしょ』 いろはのドッペル結界。夢よりも現実(=他者との関り)の選択
4話 『お前はそれでいいのかよ』 いろは黒江ホテルフェントホープへ。レナかえで合流。魔女プラント。かえでドッペル暴走カプセル化
5話 『もう誰も許さない』 杏子とフェリシアさな合流。エンブリオイブ覚醒作戦。呑んだくれみふゆとフェリシアさな。キュレーションフェントホープ。灯花誰も許さない。いろは逃がす黒江、環さんや七海さんに追いつき変わりたい
6話 『私にしかできないことです』 過去に囚われの黒江。フェリシアさなマギウス脱退。みふゆ鶴乃任せて。やちよとまどかさやかほむら合流。アリナ抜ける。いろは杏子合流、突入。やちよ達合流
7話 『何も知らないじゃない』 噂と融合したマミと鶴乃。フェリシアさな合流。誰にも頼らないやちよ、反発フェリシア。調整屋みたまにももこみふゆに依頼。本心を知るのが怖い。心を閉ざすのが調整屋。ももこ私が背負う。助言は、相手に同調(=コネクト)して攻撃。やちよvs鶴乃、切り離し失敗
8話 『強くなんかねーだろ』 弱気やちよ。舞台、回想。メル死亡、鶴乃自責、やちよが追い込んだ、頼られてない、強くならなきゃ、精神的孤立、カラ元気、疲れた。強がらず、弱いまま、支え合いたい。ももこやちよ合流。鶴乃救出、マミ救出成功。過去に飲み込まれる黒江。灯花ねむ、いろは再会、真実を語りだすねむ。

1期の最後は、結果的に自分のせいで仲間が犠牲になったのではないか。と悩むやちよ。それを否定するいろはだが、戦いの中で行方不明に。不穏に勢力を拡大するマギウスの翼。といういい所で終わった。

2期は、やちよ黒江がいろはを助け出し、いろは黒江が敵本拠地に乗り込むが、マギウスの翼のエンブリオイブ覚醒作成が始動。いろはとやちよの元にみかづき荘のみんな、神浜組が集結しマギウスの翼との決戦。最終的に、噂と融合してしまった鶴乃とマミを元通りに戻し、エンブリオイブ覚醒作戦を阻止。一方、黒江はやちよいろはの支え合いの強さに触れ、自分自身もそう変わりたいと願い奮起するも、孤立状態で過去の自分に呑み込まれ闇落ち。いろはは、灯花ねむと再会し、ねむによる真実語りが始まる。という所で終わる。

この流れなら、2021年12月にあるという、3期のポイントは、ういの謎と黒江の救済だろう。

ネガ意見からで恐縮だが、とにかく本作は不満を多く感じた。

1つ目は、キャラの心情変化が感突に感じられる事が多い点。2期のプロット自体は、あらすじに記載した通り悪くはないし、筋は通っているとは思う。しかし、その描写が不足しているのか、煮詰めが足りないのか、肝心のキャラの心情変化が感突で、いかにも事務処理的にイベントを処理しているだけに思えてしまう。具体的には、8話のみたまの心情変化。みたまは調整屋として、魔法少女達が目の前で悲劇に会っても、心のブラインドを降ろし、現実から目をそらす事で自分自身のメンタル破壊の危機から逃れていた。ももこがかえでの救済を頼んでも助けてくれない。ここで、ももこが「(みたまの苦しみを)私が全部背負うから」の発言を受けて、みたまが心を開いて協力してくれるという心情変化があった。しかし、話の流れは理解できるが、ここに書いてある以上の情報も無く、説得力に欠ける。ももこの言葉が、蓄積されたみたまの苦しみをひっくり返すロジックが欲しい。これは、一例だが、一時が万事、ロジック不足な印象を受ける。

本来、こうしたロジックは、脚本会議などで煮詰めて解像度を上げて行くものであろう。シリーズ構成が1期の劇団イヌカレーさんから、2期では高山カツヒコさんに変更になった。脚本も同様だが、1期の脚本は小川楓さんと劇団イヌカレーさんの共同脚本となっていた。単純に脚本家が悪いと言いたいわけではない。一般的にこのような作り込みは、クリエイターの粘り強さが必要であり、コストと時間がかかる。しかし、その辺りに時間が割けていないように思われる。これは、制作時のコスト面の問題の可能性がある。もしかしたら、2022年に上映予定の劇場版『ワルプルギスの廻天』にリソースを割いているのかもしれない。もちろん、これは想像でしかないが、そうした「やっつけ仕事」を感じずにはいられない点を残念に思った。

2つ目は、マギウスの翼の崩壊についての描写が弱い。2期は新興宗教とも言えるマギウスの翼の組織的な力に対抗する、個々人の構図だったと思うが、その巨大な組織が崩壊した理由が良く分からない。エンブリオイブ覚醒作戦が全てを破壊する最後のオペレーションであり、ねむや灯花もその先の事は考えていなかった、というオチなのかも知れないが、エンブリオイブ覚醒作成が失敗するロジックが良く分からない。上陸するはずだったワルプルギスはなぜコースがそれたのか? それを食らう予定だったエンブリオイブは最終的にどうなったのか? マギウスの翼に組織に属していた魔法少女やドッペル化した魔法少女は最終的にどうなったのか? 

最終的に物語の焦点を、鶴乃とやちよの和解とみかずき荘の再結成にしたい意図は理解する。しかし、マギレコ自体がマギウスの翼の不気味な恐怖を描いてきており、マギウスの翼とは何だったのか?、マギウスの翼は何故崩壊したのか?、というロジックをきっちり提示して欲しかった。

3つ目は、せっかく登場させた見滝原組の必然性が感じられなかった点。あらすじで書いた通り、見滝原組は2期において、重要な役割をはたしていない。まどかたちを登場させたというのは、古くからのファンへのサービスとか、2022年に上映要諦の劇場版への地ならしとか、そうした意味合いにしか感じられない。確かに、まどかたちが登場して嬉しい気持ちは分かるが、ストイックに考えるなら、そこを削っても、みかずき荘のメンツや、マギウスの翼の描写の深みを深掘りして欲しかった気持ちはある。

4つ目は、アクションシーンの動画がこなせていない。2期でもアクションシーンは派手ではあったし作画的には頑張っていたと思う。しかし、動画で動かせていないため、ヌルヌルした動きにはなっておらず、パラパラと動く印象だった。この点も、コスト見合いなところであろう。そこを、劇場版のクオリティでヌルヌル動かしたら、コストが足りないという事になるのかも知れない。しかし、なまじまどマギや同時期放送の他の作品がヌルヌル動いているのをみたら、物足りなくなってしまうところではある。

次に、ポジ意見も少し。

物語的に、やちよと鶴乃の救済をキッチリと描いてくれた事は良かったと思う。やちよは、仲間を作っても自分だけが生き残り、自分が死神ではないかという疑念の中、仲間を作る事を避けて来た経緯がある。強くなければ生き残れないが、自分自身にも他人にも強さを強要してしまうという状況で、鶴乃は壊れてしまった。ここで、いろはの自分を捨てても他人に寄り添う力がやちよに作用する。他人の弱さ、自分の弱さを認めて助け合う。2期で登場したコネクトの概念がそれである。やちよは鶴乃救出を一度は失敗するも、最終的には二人はやり直す事が出来た。やちよも鶴乃も救済されて2期は終わる。

私自身はキャラの心情に注視して作品を観ているため、風呂敷を畳み切れない伏線があっても、キャラの物語として成立していればとりあえずOK、としてしまうところはある。

最後に、本作についての総括について。

ソシャゲのキャラを好きになってもらうタイプのアニメ化作品であり、本家のまどマギのテイストをふんだんに生かしながらマギウスの翼と言う新興宗教的な組織や、ドッペルなどの設定も盛り込んだ物語のポテンシャルの高さはあったと思うが、それが取っ散らかってしまった感はぬぐえない。キャラデザや、陰影のあるキャラの内面は、個人的に好きであったし、味のある劇団イヌカレーテイストも好きではあったが、全体的に1期よりもアート的なマギレコらしさは軽減して、普通のアニメになってしまった感はある。おそらく、3期で起死回生の逆転ホームランというのは難しそうである。

かなり、辛口になってしまったが、1期のポテンシャルの高さを考えると、2期のコストやリソース不足を感じさせるクオリティを残念と言わざるおえない。

おわりに

今期は、メイドラゴン2期、アクアトープ、かげきしょうじょがそれぞれに甲乙つけがたい感じで良かったです。逆に、断トツでドハマりした作品はありませんでした。

かげきしょうじょは原作漫画からだと思いますが、サブキャラ担当回が一編の短編小説の様な完成度で良かったですし、より複雑な要素も配置していて、良い感じの余韻が得られた脚本でした。

アクアトープは、朝ドラ風味の清涼感ある作風で、変にネガティブな人はおらず、気持ち良くみれる工夫がなされたシリーズ構成・脚本に感じました。

メイドラゴンは、1期から続く、ハイクオリティな作画・動画・演出に打ちのめされる作風ですが、シリーズ構成的に俯瞰でみても、1期とはまた違ったテーマを感じる事が出来きましたし、何よりもキャラに優しくなった感じがして、これはこれで心地よく楽しめました。

そんな中、ラブライブスーパースターの追い上げが凄かったです。1か月遅れての放送開始という事もあり、他作品が最終回で終わった後で、ラストに向けて盛り上がる流れにやられました。ラブライブは、どうせいつもの廃校阻止のためキラキラ輝くために、努力・友情・勝利って暑苦しいヤツでしょ? という先入観に対し、イイ感じで外してきたり、ド直球を投げ込んできたりで、脚本・シリーズ構成の花田さんに、またも翻弄されてエモさトラップにハマりました。

また、今期は脚本的にクセがありそうな作品もチェックしていたのですが、当たりもあれば外れもあり、という感じのクールでした。

岬のマヨイガ

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。 f:id:itoutsukushi:20210905082154p:plain

はじめに

劇場版アニメ「岬のマヨイガ」の感想・考察です。

のんのんびより川面真也監督、吉田玲子脚本コンビなので、癒し効果のある良作の期待を持って挑みましたが、期待通りの出来でした。

本作は、3.11震災映画でもありますが、個人的には良質のヒューマンドラマの印象が強く残りました。

バックボーン

フジテレビの「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」という被災地支援の企画の一環として制作されている。この被災地支援は長期的なビジョンがあり、被災10年目の今年の企画は、ひらたく言えば、被災地をアニメ化し、聖地巡礼を即して応援するというモノである。

文化庁文化芸術振興費補助金も受けており、真面目な優等生な作品的を連想させる。

ちなみに、原作小説の著者は、岩手県出身、盛岡市在住の児童文学作家の柏葉幸子先生。本作は東日本大震災をテーマにした先生の40周年記念作品である。

インタビューで川面監督は、2017年頃からコツコツ作ってきたとの事。のんのんびよりの劇場版が2018年8月公開、3期が2021年1月放送開始と考えると、がっつり並行して制作していた事になると思う。

感想・考察

作画・背景

本作は地域伝承の昔話の要素をふんだんに取り入れている。”ふしぎっと”と呼ばれる優しい妖怪たちである。

その舞台となる岩手の自然の背景美術の美しさ。のんのんびよりでも田舎の風景描写に定評はあったが、今回もその実力を遺憾なく発揮している。

キャラクターデザインはややリアル寄りにデザインされていて、キャラの身長差、中高年の表情、猫などの動物などデフォルメに逃げずに描いている。

本作は人間らしい暮らしをキチンと描く必要性からだと思うが、全般的にリアリティのある描写だったと思う。古民家の居心地の良さ、食事の美味しさ、それらが伝わる事が大前提の作品なので、そうした部分はド直球の映像を作り込んでくる。

妖怪たちのファンタジー要素もリアル寄り。特に河童のデザインは怖さ込みのリアリティある楽しいモノ。遠野のマヨイガでふしぎっと達が集結しているシーンがあるが、ここはゲゲゲの鬼太郎の世界みたいになっていた。それは、ふしぎっと達は異世界ではなく、紛れもないこの世界、同一ライン上に存在するという演出だと思う。

ただし、キワが語る昔話のシーンは突然「まんが日本昔ばなし」テイストになる。これはリアル世界とのコントラストになっていた。

物語・テーマ

震災とPTSD心的外傷後ストレス障害

東日本大震災は、多くの人命を奪った。

人命はとても大切なモノで、当然のように守られるべきモノで、空気の様に存在していて当たり前というのが平和を生きる人間の感覚である。

しかし、大災害はその思い込みを否定し、宇宙から見たら人命は虫けら同然という事実を突き付けて、被災者に殴りかかる。神の力による圧倒的な暴力と言ってもいい。

震災以外にも、圧倒的な暴力により人間が大量に死ぬ事案が存在する。それは戦争であったり、スペイン風邪のような大規模な感染症だったり。

これにより、人と人との相互依存により生かされてきた人間は、死別により人間関係の接続を一方的に切断され、メンタルを壊され、最終的には発狂してしまう(=人間が人間ではなくなってしまう)。いわゆる、PTSD(心的外傷後ストレス障害)である。

本作は、被災地に残り、弱体化したコミュニティの中で生きる人たちの中で、少し特別な立ち位置のユイ、ひよりの2人の少女を通して、PTSDにならないために、人間らしく生きるために、地域が復興するために、何が大切か?をファンタジー要素をからめて描いていたと思う。

生きる強さは、人間らしく暮すことから(働く食べる寝る→住宅→家族)

まずは、よく働いて、よく食べて、よく寝ること。

昔、ドキュメンタリーTVで、有名なお寺の住職が、人間にはこの3つが大切と語っていた。本作ではキワが、まさにこの通りの事をユイとひよりに体験させ、人間らしさを回復させている。人間は、これらの事ををおろそかにすると集中力を欠き、判断を誤り、いざという時に能力を発揮できない。大変な時だからこそ、体力や精神力が必要になる。もちろん、平常時から心と身体の健康をケアしてゆくことが重要なのは昔から不変であるが、震災時という異常事態だからこそ、この事が重要になる。

次に、住宅。

先の3つを大切にするためにも、住宅は非常に重要である。本作に登場する”マヨイガ”は、住人に至れり尽くせりだったが、人間が気持ち良く暮らすためには、人間がメンテナンスしてより住みやすい住宅に育てる必要がある。震災時には住宅を失い、プレハブの仮設住宅に暮らす被災者も多かったと思う。住宅が無いのは論外だが、こうした住宅の不自由さが人間にストレスを与える。

そして、最後は家族。

キワはユイやひよりを決して否定せず、肯定する。互いに認められる関係があり、互いに肯定し合う事で、人と人は心の繋がりを持てる。ユイは暴力で父親から否定され、両親と死別したひよりは自分につきまとう不幸に自分を否定していた。2人とも震災前から肯定されない状況があり、震災で身寄りも無くなり宙ぶらりんの状況になった。心配されて声をかけられる事はあっても、2人を肯定してくれる人はなかなか居ない。

口で言うのは簡単だが、実際の被災地の現場で人間らしく暮らす事は、物理的制約により簡単に改善する事は難しい。生きてるだけで必死という状況で、でも決しておろそかに出来ない事だと思う。主演の芦田愛菜さんのインタビュー記事で、”小さな幸せ”につて言及されている。

平時なら空気の様に当たり前過ぎて、気付く事さえ忘れてしまいがちな、これらの事について触れている様に思う。逆説的に言えば、普段からこれらの事を大切に生きたい、という作品のテーマに思う。

人間に優しい”ふしぎっと”(妖怪、お地蔵様)たち

世間一般的には、妖怪は恐ろしい存在だが、本作では、河童や、お地蔵様や、神社の狛犬は、”ふしぎっと”と呼ばれ、人間の味方で共生関係にある。

これは、ふしぎっと達と会話も出来るし通じ合えるキワが居るからこそであり、本作の癒し寄りのファンタジー要素でもある。

少し脱線するが、京極夏彦先生の「遠巷説百物語」のインタビュー記事を読んだ。

記事のタイトルにもある様に、人間が非常事態で追い詰められている状況下では、エンタメとしての妖怪が追い打ちをかけて辛さを増す事は出来ない(超意訳)とあり、本作とも通じていて面白い。

なお、彷徨える”マヨイガ御殿”は遠野にあったが、これは柳田國男先生の「遠野物語」という東北の地域伝承の昔話、民話を集めた本があり、その中のマヨイガを周到したモノである。

意外とあっさりしていた、アガメ退治

アガメは、人間の恐怖や悲しみや不安を食べて巨大化し大きな渦となる魔物。その目的は、その土地から邪魔な人間を追い払うこと。海中の洞窟に封印されていたが、震災で封印が解けて再び地上に現れた。

あれっ、と思ったのはこの設定。普通に考えて魔物なら、人間の負の感情を餌に、更に負の感情を増大し、その影響で周囲の人間も負の感情を抱かせ、エントロピー増大の法則で最終的には誰にも止められなくなるという設定になるのではないかと思う(≒まどマギ魔法少女システム)。しかし、本作では人間を余所の土地に追いやるのみに留めている。

アガメがやろうとしている事は、震災で弱体化した地域コミュニティの更なる弱体化である。このような非情事態だからこそ、互いの協力、助け合いが大切だが、その繋がりを断絶させ、人間をこの土地から追い出す、というロジック。私個人は被災者が事情により移住することを一概に悪い事とは思わない。なので若干の引っ掛かりはあったが、物語的には人間が逃げ出しアガメがその土地に定着したら人間の負けである。

また、アガメは人間の心と表裏一体なので、ふしぎっとたちが手助けはしてくれても、最終的には人間自身(=自分自身)が戦う必要がある。

これに対し、キワも伝説の小刀で対抗するが、それでも抑えきれないくらい強大化したアガメ。最終的にはひよりのお囃子とユイの舞によりアガメを退治する。

ユイとひよりは余所の土地から来た流れ者である。その2人が地域コミュニティの存続の問題に決着を付けた形である。このことで、より被災者のドラマではなく、一般的な自己肯定のドラマにシフトさせていると思う。それは、被災者自身の戦いを直接描くことが、現段階でもまだ辛すぎるということもあるかもしれないし、令和時代の痛すぎるストレスは描かないエンタメ作品として妥当なディレクションだったかもしれない。その意味でも、本作は震災をよりマイルドに扱っていると思う。

SNS等で観測した感想で、せっかくの見せ場、山場をあっさり終わらせすぎ、という意見もあったが、ユイとひよりの家族が与え合う信頼の力で魔物を倒すという物語の構図であり、バトルアクションシーン自体よりも人間ドラマ重視の構成と思えるので、これで良かったと思う。

キャラクター

ユイ

ユイは17歳であり、ショートパンツから覗く健康的な生足が印象的だったが、上半身のラフなパーカーとジャケットのおかげでエロくならない仕上がり。キャピキャピ感は無く、基本的に少し大人っぽさ強めだが、ときおり可愛さが垣間見える、という嫌味の無いライン。

ユイは、弱者であるひよりに対して優しく、何かあったら守ろうとしていたところが良いな、と思って見ていた。当初、警戒心が強くぶっきらぼうに見える面もあったが、根は優しい。

身の上としては、父親の家庭内暴力により母親は離婚。残されたユイは、すぐにキレる父親からの暴力と否定があるのみで、家庭に愛情も逃げ場も無い。「お前のためを思って」という言葉は、他人に思い通りに命令するための枕詞。

だから、序盤の氷水のシーンでこの言葉に反応してコップをテーブルから払い落として割った。実はこれは後のシーンで、父親がユイのパスタをテーブルから凪払う行動と重なっていた事が分かる。しかし、この時のキワの落ち着いた対応で、ユイの怒り感情は静まる。

キワは、ユイに家事を分担させ働いて汗をかかせ、美味しい食事を食べさせ、居心地の良い住宅を提供し、ゆっくり休める寝床を提供した。ユイの事を「真っ直ぐな所が好きさ」と褒めて肯定した。河童は、ユイのカルボナーラを美味しいと褒めてくれた。この人間らしい暮らしの中で、バイト先もはじめ、自分自身を取り戻してゆく。この事で、キワとひよりを大切な家族である、との認識を強めてゆく。

アガメがユイに見せたトラウマは、逃げてきた父親がユイを連れ戻しに来る恐怖である。父親の幻影に連れていかれそうになるユイを助けたのは、「ユイ姉ちゃん」、「大切な家族」と声に出して引き留めてくれたひより。いつも見守っていたひよりから、家族の絆のフィードバックを受ける。

危険を冒してアガメ退治したのも、家族のキワを守りたい一心で出来る事をした、という事だろう。

一昔前のドラマであれば、1つ踏み外せば、人生の奈落の底に転げ落ちてゆくリスクを持ったキャラだったと思う。それを救ったのがキワと出会い、人間らしい暮らしと家族と呼べる大切な人が出来たから、という物語だったと思う。

ちなみに、原作小説でのユイの設定は夫のDV被害から逃げてきた妻だったとの事。この場合、祖母、母、娘の3世代の疑似家族になるので、ユイが母性でひよりを守る流れにもなりスムーズだし、これはこれで面白そうである。これは全くの想像に過ぎないが、母親的な女性が主人公に据えるとアニメ的にギャップがあるというか、絵的にも難易度が上がるとかの理由で、ユイが17歳の設定になったのではないか、と考えている。

ひより

ひよりはショックで声が出せなくなった、素朴で可愛い8歳の女の子。三つ編みのおさげ髪がトレードマークだが、就寝時や寝起きの髪を解いた姿も良い。

ユイにも共通して言える事だが、ひよりは交通事故で両親を失い一人取り残される状況下で「どうして私だけこんな目に…」という気持ちがあった。他人に比べて自分だけが辛い。ただ、ユイと違い、突然前触れもなく両親と幸せな自分の居場所を失ったという落差の大きさ。お囃子の笛がお葬式を連想させ、絶望的な悲しみが押し寄せる下りは胸が詰まる。

口がきけないという事は情報発信が不便になっているという事だが、代わりに目でしっかり見て物事を受け止めている芝居の印象を持った。

ひよりは、父親の幻にユイが連れて行かれそうになった際に、これ以上大切な人を失いたくない気持ち、怯えるユイを守りたい気持ちから感極まって、声を出してユイを引き留める事ができた。キワを守りたい気持ちから、お囃子(=出来る事)でアガメを弱らせた。

ひよりは、物語的にはユイとキワを繋ぎ止める存在であったが、最終的には皆家族となり、新しく家族を取り戻す事が出来た。

河童に物怖じしなかったり、座敷童と花火をしたり、ふしぎっと達に抵抗が無く、キワの血筋でキワの役割を引き継ぐ存在になることを連想させた。

とにかく、ひよりは可愛さが目立っていた。

キワ

本作の魔法少女枠のお婆さん。ふしぎっと達とコミュニケーションを取り、ふしぎっと達と人間を仲介する。河童に海中の洞窟の様子を調査してもらったり、お地蔵さまにユイの住民票を細工してもらったり。仕事のお礼に御馳走を振舞ったり。ギブ&テイクの関係を築いている。

これは想像だが、キワという名前の由来は、「際」(境目、端っこ)という意味で、人間とふしぎっとの中間の存在という意図ではないかと思う。

身寄りの無いユイとひよりを拾って、子狐崎のマヨイガに3人で暮らし始める。ユイ達に人間らしい暮らしを提供し、存在を肯定し、自尊心を回復させる。その与え方や包容力が圧倒的。最初は警戒していたユイの心も開き、家族と呼べる信頼関係をを築いた。

キワがいいなと思うのは、絶対に相手の存在を否定しない、無理強いせずに行動を起こすまで待つ、笑顔を忘れない、といったコミュニケーションのスタイル。

なぜ、ユイとひよりの2人を選んだか?については、ひよりは実の孫だったから、ユイはひよりに親切にしてくれていたから、だと思う。

アガメとの決闘を決心した際、小刀を取りに行くついでにユイとひよりを遠野に置いてきた。死のリスクがあるから、2人には生き延びて欲しいという気持ちだったのだと思う。

地域伝承に精通しているから、常識では計り知れない、それ絡みの問題に対して敏感で、ふしぎっと達と連携して問題を解決する。その行動はボランティアとも思え、常に与える立場に居る。キワ自身が持つ力があるから、「出来る事をする(=最善を尽くす)」が、このような行動になるのだろう。圧倒的に大人であり、ある意味、仙人のようにも思う。キワの存在自体がファンタジーとも言える。

常識的に考えれば、ユイを引き取る件も事件に発展する可能性があるリスクであるが、そうした常識を超えた部分で行動するのは、ふしぎっと達と通じる達観した価値観によるものかも知れない。

キワは本作のテーマそのものである。それは、語り継がれる地域伝承の昔話のように、人間の願望や教訓が具現化したものかもしれない。

おわりに

期待通りに、優しさに満ちた上品な作品だと思いました。

テーマ的には3.11震災を描いてはいますが、より個人的な物語に帰結していますし、そこまで重く構えずに観れるヒューマンドラマに感じました。

反面、物語的にはこじんまりとしてしまい、パンチが弱いと率直に感じました。

最近感じでいた事ですが、何をするにしても、地盤となる「人間らしい暮らし」を大切にする事が重要という部分にストレートに触れていたように思います。

食事が美味しそうだったり、古民家の生活が気持ちよさそうだったり。ガジェットがほとんどないアナログな生活、しかも妖怪と人間が共生する世界。もしかしたら、外国人が本作を観たら、異世界転生モノに感じるかもしれない、などと妄想しました。

竜とそばかすの姫

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。 f:id:itoutsukushi:20210725162936j:plain

はじめに

細田守監督最新作「竜とそばかすの姫」の感想・考察を書きました。

個人的に、細田監督の作品は、余り観ておらず、かなり以前に「時をかける少女」をTVで観たという程度のため、他の細田監督作品との比較考察はありません。ただ、毎度賛否両論になる細田監督の作品という事で、興味を持って鑑賞しました。

率直な感想を述べると、ケチの付ける所が無いバランスよいエンタメ作品だと感じました。

以下、いつもの感想・考察になります。

下記の章を追記しました。

  • 本作の賛否両論についての考察<2021.7.29追記>

感想・考察

ネットとリアルの対比

ネットもリアルも否定しない今風なディレクション

ネット世界の描写はド派手。3DCGを活かして、立体的で精細。それでいてお城のシーンなどは不思議と調和のとれた色彩で嫌味が無い。絵としてはパンフォーカスな感じでノイズが無い鮮明なモノである。

一方、リアルワールドの描写は、従来からの手描きの作画、背景の領分であり、ある意味地味に描かれている。絵としてはフィルムで撮影した際の空気感を感じさせる、落ち着ける映像である。

このギャップをメリハリを付けて描くことが、本作のポイントになっている。

そして、本作は、どちらか一方を否定する事無く、ネットもリアルも両方とも肯定している点が今風である。

例えば、2007年のTVアニメ『電脳コイル』は、ネット(正確にはネットに繋がったAR:拡張現実)を子供が熱中するゲームの様な世界として描いた。作中の大人視点では、大切なのはリアル、ネットはいつか卒業すべきモノとして否定的に描かれていた。しかしながら、本作では誰もネット自体を否定しない。

本作のテーマで言えば、ネットの世界でも勇気は必要だし、リアルの世界でも勇気は必要である。その取っ掛かりをネット世界で変身する事で掴んだり、ネットの経験を元にリアルでの勇気にフィードバックしたり、二つの世界でアバターが違えども、同じ魂で繋がっている事で、ネットとリアルの良い相乗効果が望ましいとして描かれていた様に思う(というか、そう汲み取った)。

もはや、ネットは人類が掴んだ新しい生活必需品(=道具)という事であり、そのディレクションが今風だと思う。

ド派手な今風のネットワールド<U>

本作のネット社会は<U>と呼ばれている。ネットワークで接続された、個人のデバイスがその人に応じた拡張現実を提供する。繰り返される謳い文句は、<U>はもう一つの現実、<As>はもう一人のあなた。<U>はもう一つの人生をネットの中で提供する。つまり、変身願望を叶える事が出来るかも知れない世界である。ただし、<As>はリアルの身体の拡張現実であり、魂の部分は同一なのが大前提である。

よくよく、ディズニー映画の『美女と野獣』のオマージュという意見を見かけるが、私はこれさえも、ネットのインターナショナルなエンタメ性を具現化した表現だと想像している(ちなみに、私は『美女と野獣』は未鑑賞)。

すずは、リアルでは母の死がトラウマで人前で歌えなくなっていた。しかし、ヒロの招待により<U>に接続して、Belleに変身する事で歌う事が出来た。ヒロはBelleと歌をプロデュースし、プロ顔負けの立派な楽曲に仕立て上げ<U>の世界でバズらせる。ネット内の評価は、最初は取るに足らない感じから、批判的なモノ、好意的なモノが混ざり、次第に大きな渦を巻いて、賛否両論となる。ネットの世界で賛否両論は正常な状態。賛成100%は何か裏があるし、本当につまらなければ無視される。こうして、Belleは<U>の世界でライブで圧倒的な視聴者数をカウントする新たな歌姫となった。

ここまでの部分は、ネット世界で変身して魂を解放し成功するというサクセスストーリーになっている。なので、観ていて気持ちが良くて引き込まれる映像になっている。

その後、ネット内の狂暴な存在として竜が登場する。ネット内で破壊を繰り返し、ネット民のヘイトを溜める。そして、それを取り締まるジャスティスと名乗る自警団。いわゆる、「〇〇警察」や、行き過ぎた正義を振りかざし、ターゲットを身バレさせて攻撃する悪役として、現代のネットの風刺して描く。そして、なかなか捕まらない竜の存在についてネット民の関心が集まりつつあった。

ネットの世界は刺激的であり、サクセスストーリーもあり、様々な芸術やエンタメに触れる事が出来る。しかし、このようなノイズも多く、心休まらない感覚もある。だからと言って、本作はネットを風刺する事はあっても否定する事は無い。

ネットとリアルの二つの世界を結ぶ「身バレ」のリスクの扱い

ネットの世界は匿名が基本である。しかし、ネット上の炎上案件でヘイトを溜めたアカウントに対して、リアルの個人情報を特定して公開し、リアル世界でその個人に嫌がらせをしたり迷惑行為をする。これが、いわゆる「身バレ」である。本作では、アンベイルと呼ばれていた。

本作では、この「身バレ」は2回使われた。

1つはヘイトを溜めた竜の攻撃する手段として。これは、先の説明通りである。

もう1つは、身バレした竜(=恵)の信用を取り戻すために自ら身バレして<U>の世界で「すず」の姿でBelleの歌を歌ったところ。

これは、リアルでの接続を持つ必要性からの苦肉の策ではあったが、ネット内でもすずの容姿に対する落胆だけでなく、応援の声も混じり、その歌声自体はまごう事なきBelleの歌声であり、ネット内の聴衆を釘付けにする巨大な渦となる。それは、リアル(の容姿)でも自信を持って歌う事が出来たすずのトラウマ克服の姿を描くと言う、物語のクライマックスとして重要なシーンである。

これにより、従来のBelleという存在は、恐らく消滅してしまうのだろうと想像する。ネット民は、その意味を知らないが、その歌に感動する。また、ある者は、平凡な女子高生がこれだけの魅力を持つヒーローになれる事に感銘を受け勇気づけられる者も居る。でも、それはついでの事というのが押しつけがましくなくてよい。

私の記憶からは欠落していたようだが、最終的には、<U>の世界でBelleの姿で歌うシーンがあるとの事。だとするなら、身バレをしても<U>の世界で受け入れられた、という事であり、リアルとの接点をも飲みこんで<U>という市場がBelleを受け入れられた、という意味である。ヒロの言う、積み上げてきたモノを台無しにするという事と天秤にかけての、身バレだったが、その勇気に対する肯定しBelleの歌を望む声が、否定を上回った、という事だろう。もしかしたら、そこが本作に込めたネットへの希望なのかもしれない、などと想像した。<2021.8.3追記>

地味とも言えるリアルワールドの表現

ネットのクライマックスに対して、リアルのクライマックスは、驚くほど地味に描かれる。

具体的には、恵と知の住所を特定して、すずが高知から川崎に向かい、父親の暴力から恵と知を守るシーンであるが、この部分は、映像的には驚くほど地味である。すずの恵と知を守るという意思の強さを目力で父親が気圧されるというシーンであるが、メラメラとしたオーラが透過光で滲み出て気迫を描く、というような非現実的な演出は一切ない。ネットの聴衆のような観客も居ない。

このシーンは坂道を横から撮影するシンプルで平板な構図を使っていた。他にも、川べりを歩きながら会話するシーンが多用されるが、そこも画面の中央を大きく川面が占有し、その中に人物を置くという平板な構図である。しかも、割と重要な心象描写のシーンでこの構図を使い、登場人物の向きも重要な意味を持つ。それは、舞台上で演劇をイメージさせたりする。ここも、立体的に見せていたネットとの対比と考えられる。

それから、リアルのシーンは必要以上に登場人物の顔に寄らずに、引きで撮影しているシーンが多い。この辺りも、リアルの芝居がダイナミックになり過ぎないようにするための工夫では無いかと考えている。

また、校内の中庭の周囲を囲う校舎と廊下。これは、コロシアムを連想させるものであり、二階廊下の観客が、中庭の舞台を観劇する事を連想させる。ただ、リアルでステージ上に居るのはルカであり、すずとヒロは一観客でしかないのだが、それがネット内ではひっくり返るというフリである。

映像自体は、細田節全開の線の細いキャラクター。背景は手描きの味わいがあるちょっとボケ気味のモノであり、ここも敢えてネットのようなクッキリ感を排除している。

総じて、リアルワールドは、ネットワールドと比較して意図的に地味に描かれていたと思う。もっと言えば、より実写的な映像を多用する事で、ネットの3DCGで描くダイナミックな世界と書き分けていたと思うし、そこは徹底していた。

物語・テーマ

本作は、母親の理不尽な死を受け止められず、10年間も悶々としてきた(=よりハッキリ言うなら母親を許せなかった)すずが、自らの体験を通して母親の気持ちを理解して、憑き物が落ちるという流れである。物語としては綺麗に成立している。

この10年間のすずを、父親も、ヒロも、しのぶも、合唱隊のおばさんたちも見守ってきた。特にヒロは、<U>の世界で自身の交友関係を使ってすずをBelleとしてプロデュースし、すずの魂を解放した(ヒロ個人が楽しんでいた面は多分にあったが)。父親が電話で(グレずに)優しい子に育ってくれた、という裏には、こうした周囲の人間の力が有った事を想像させる。

一方、恵は父親からの虐待により、心に深い傷を負っていた。竜の城の女性の絵画のガラスのひび割れからすると、母親の事も憎んでいたのだろう。愛のない環境で、知を守る為に一人で孤独に戦ってきた。ありていに言えば、恵の救いはすずが愛の手を差し伸べ、父親から護る事で、孤独から救われるという事になる。

ただ、Belleが竜に惹かれていった経緯というのは、ちょっと分かりにくく感じた。本質的には、すずが前足を負傷していた犬を飼っていた事と符合するのだが、すずは心に傷を負った弱者に対して敏感であり、救済する心を持っていて、その視点で直感的に竜の痛みを感じたから、というのが妥当だろう。その根底にすずの優しさがあり、その延長線上にすずの勇気がある。

テーマとしては繰り返し使われるモチーフで有り、物語としては非常にシンプルであると感じた。

それゆえ、難解ではないと思うが、より複雑なモノを好む観客からは、パンチが足りないと感じるのかもしれない。

個人的には、とっ散らかって投げっぱなしの作品よりも、綺麗に成立している物語を好むので、好印象しかない。

ディズニー調のデザインと歌唱の役割

本作が、細田守監督作品として挑戦的だなと思うのは、ネットワールドの映像を、ディズニーを連想させるデザインを多用してきた所にある。いわゆる、ジャパニメーションが培ってきた萌えの文法から外れたヒロインのデザインが本作のテイストの重要な役割を示す。

それは、パラダイスとしてのネットの具現化として、全世界共通知であるディズニーを基調とする事で、そこが夢の世界である事を直感的に分からせる事。それは、ターゲットをワールドワイドと考えた際に、より効果的なディレクションだと思う。

Belleのデザインは明確なディズニーの文法で造られる。ロングドレスに引き締まったウエスト。大きな目と力強い唇。アイシャドウと口紅はしっかりと。誰が観てもお姫様というアイコンである。

そして、お姫様の歌唱も力強くてアナ雪を彷彿とさせる、誰もが凄みを感じる非常に出来の良い仕上がり。

本作がネットとリアルの二面性を持つ作品だからこそではあるが、このように大胆に従来の文法からかけ離れた作風を取り入れられた面はあると思う。しかし、それをソツなく仕上げているのは、何気に凄い実力なのではないかと思う。もしかしたら、人脈的にも作風的にも、今後の細田監督の作品に大きく影響するのかもしれない、などと想像していた。

ただ、理性では狙いは分かっていても、個人的にはディズニー調のお姫様というのはどうしてもケバく見えてしまって萌えられず…、という気持ちが有った事は正直に記しておく。

本作の賛否両論についての考察 <2021.7.29追記>

本作の脚本が駄目だ!と主張する意見をSNSで良く見かけたのが、個人的にケチを付ける所が無いと感じていたので、具体的に何が問題視されているか、ブログやYoutube動画の感想を漁ってみた。

否定派のポイントをざっくり整理するとこんな感じだと思う。

  • リアルのラストの虐待児童を助ける下りに違和感あり!
    • 女子高生1人が遠方の児童虐待の児童を助けに行く。
      • 危険。大人を付けるべき。
      • 虐待の父親が逃げ出すが、説得力(=論理)の無いご都合展開。
      • 児童虐待は社会問題。女子高生1人に任せる展開が不自然。

まあ、なるほど、主張は理解できるし、これを言われると反論は難しい。

しかしながら、私が鑑賞した際にこれらの違和感に捕らわれずに受け入れられた理由は、おそらく、本作がフィクション映画(=メッセージを含んだ寓話)であるという認識があるからだろう。

この一連のすずの無謀とも言える行動は、増水した川で子供を助けようとして亡くなってしまった母親の行動と重ねる事で、すずが母親の死を許す、という物語の構造になっている。なので、誰の助けもない状況下で、命懸けですず本人が弱者救済を選択する必然性があった。結果的に児童虐待の父親が現場から逃げ出すくだりはご都合展開と言えるが、これこそが寓話としての奇跡であり、物語としての救い(≒祈り)である。つまり、児童虐待という社会問題を切り口にしつつ、シンプルに主人公の成長を描く作風だった、と私は解釈している。

ここで一旦、否定派の意見を列挙すると、こんな感じである。

  • 否定派のご意見
    • ネットの<U>の世界ならまだしも、リアルの児童虐待をテーマにしているのだから、そこはファンタジーじゃ駄目でしょ。
    • これを観た子供が、間違った理解で現実社会で振舞ったら危険でしょ。
    • そこは、もう少し説得力を持って違和感無く描くのが良いエンタメでしょ。
    • 少なくとも大ヒットと言われる超メジャー映画だから、影響力は大きいでしょ。

否定派の根っこには、本作を寓話(=メッセージを伝える事を優先したお伽話)として許容できるか否かが分岐点に思う。これを整理すると、下記となる。

  • ラストの虐待児童の救出の感じ方
    • 肯定派は、本作は寓話、テーマは個人の成長、特に違和感は感じない
    • 否定派は、テーマの社会問題の解決が雑&ご都合展開、強く違和感を感じる(=本作を寓話とは思っていない)

では、ここまで来て本作は寓話か否かという議論になるが、そこはどちらが正解と言う話では無く、個人個人が自由に感じ取ればそれでイイ気がしている。つまり、本作は寓話か否かの議論は不毛だと思う。

さて、本作が寓話だとして、そのメッセージが何かについて、改めて考えてみたい。

否定派が指摘するご都合展開を使ってまで描いたモノは一体何だったのか? それは、誰も助けに行かない(≒行けない)状況で、リスクを承知で危険をかえりみず、弱者に手を伸ばし救済する事。それは、勇気と言ってもいいだろう。

ただ、母親は不幸にもその勇気で命を落としたが、そこに深い意味は無い。母親が死んで、すずが死ななかったのは物語の生んだ偶然(=運命)でしかない。

少し見方を変えると、たった一人で立ち向かう事については、周囲のノイズに流されず、自分の中にキチンとした価値観を持ち、行動する姿が描かれていた。この構図で対比になるのは、<U>の中で竜の心の痛みに気付いたBelleだけが、竜の心配して庇った事と重なる。Belle自身は、ネット内では賛否両論だが、竜は99%以上ヘイトを溜めており、ネット民が正義を振りかざして叩きたいターゲットである。そこに疑問を持ち、何故なのかと深掘りし、本当に否定すべき問題なのか? その裏に真実が潜んでいるのではないか? そういう問いかけを常に持ち続ける事の大切さをメッセージとしているのではないだろうか?

本作では、しのぶも合唱隊のおばさん達も助言はするが、すずの代わりに行動する事は無い。あくまで、すず自身が責任を取る形で、他の誰でもないすず自身が選択するのだという事が描かれていた。何も選択しないことではなく、選択する勇気。他人のせいにしない勇気。その辺りは若者に向けた本作のメッセージではないかと思う。

ここまで書くと気付く方もおられるだろうが、

  • 毎回賛否両論となる細田監督作品=本当に良いモノは賛否両論の巨大な渦になるという事
  • 寓話ゆえにツッコミどころ満載で酷評に耐える細田監督=ネット民からのヘイトを溜める竜

という感じで、<U>の世界は、細田監督作品のエンタメ感を描いたものであるとも言えるし、もはや、賛否両論は細田監督の芸風(=生き様)と言ってもいいかもしれない。

仮に、否定派が言う通り脚本家を別に立ててネガ要素を徹底的に排除した脚本が出来ても、メッセージ性や感動が弱くなるなら本末転倒である。また、監督は作品のディレクションを決定する権限を持っているのだから、そのような脚本は不採用になるから、細田監督以外に脚本を書かせれば良いという単純な話でもないだろう。

ブログ初稿公開後に、いろんな感想・考察を漁り、更に本作について考えを深めた形になったが、それはそれで非常に良い体験をしたと考えている。今回参考にさせていただいた中で良かったと思える感想・考察を幾つか列挙させていただくので、良ければご参照いただければと思う。

おわりに

私はキャラの心情と変化に筋が通っていて欲しいので、それが出来ていない作品の評価は下がります。本作は、寓話的ご都合展開が多いと言われていますが、キャラの心情をより大切に造られていると感じられるため、私にとっては逆に違和感無く観れました。なので、私が鑑賞してみた本作の感想は、「特にケチを付ける所のないバランスが取れた作品であり、物語的にも綺麗に閉じていて不満無し。」というモノです。

強いて弱点を言うなら、本作は優等生過ぎると思います。もっと若くてギラギラした感じが欲しければ、『天気の子』などの新海誠監督作品の方がより好みに合うのだろうとは思いました。

ワンダーエッグ・プライオリティ 特別編

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はじめに

ワンダーエッグ・プライオリティ特別編の感想・考察です。

特にお気に入りのねいるに注力して、全12話+特別編を通して書きました。いつになく気合が入りかなりの長文になってしまいました。

感想・考察

各話イベント

シリーズ通してみて感じた各話の概要を整理する。

話数 イベント 備考
1話 アイがエッグに初挑戦 アイの贖罪は友達の小糸の自殺
2話 アイとねいるが友達になる ねいるの贖罪は妹の自殺
3話 アイがリカの夢の中で共闘 リカの贖罪はファンのちえみの自殺
4話 桃恵初登場。4人初顔合わせ 桃恵の贖罪は友達のハルカの自殺
5話 4人仲良し、ねいるは1人でもエッグ買う ねいるのハードボイルドな戦い
6話 アイが登校を決める アイが疑念モヤモヤを吹っ切り
7話 リカが母親と和解 リカが現実に向き合う
8話 - 総集編
9話 ねいるが寿と決別 ねいるが自身の人生を楽しむ
アイ達が人生の友達
10話 桃恵がクリア、パニック殺害 桃恵はエッグを後悔
11話 リカがクリア、マンネン殺害
裏アカ昔話、AIフリル、あずさ、ひまり
リカはエッグで復讐叶わず
12話 アイがクリア
ただしパラレルワールドの自分が死ぬ
アイがエロスの戦士になる発言
特別編 パラレルから来た小糸、ちえみ、ハルカ、寿は別人
ねいるがクリア
アイルが戻り、ねいるはエッグ世界に居残る
リカはねいるを無かった事にした
一度拒絶したが、アイはねいるを探し行く

設定

パラレルワールド(その1)

9話で、寿がパラレルワールドの存在を口にする。12話で、アカ裏アカがエッグの世界がパラレルワールドであり得たかも知れない可能性とのやり取りである事を明言する。特別編では、パラレルの寿が同じ世界に2人いられないと言う。

この命の総数は変わらない部分に着目すると、フリル達はゲームクリアして彫像を生き返らせた桃恵とリカからはワンダーアニマルの命を奪い、アイからはパラレルのアイの目玉(=命)を奪い、アイルの代わりにねいるを奪った。

パラレルワールドの仕掛けは、彫像から生き返った小糸、ちえみ、ハルカが別人になっていた事とも符合する。関わらなかったから自殺をしていない。そして、昔撮ったスマホの写真も消滅した。その意味で、アイ達が世界線を越えてしまったとも言える。

エッグでの戦いは非常に情念に依存したものであったが、アカ裏アカたちが用意した仕掛けは非常にドライで感情にいっさい関りを持たないモノ。人間の気持ちはどうでもいい物理法則で縛られている。だからこそ、少女の感情のエネルギーがパラレルワールドの組み替えに必要な燃料になっていた。

AI

作中に出てくるAIは、フリル、ハイフン、ドット、キララ(以下略)と、ねいるの合計5人。

まあ、ハイフンたちはフリルにとってのペットのようなものであろう。自我というよりフリルへの服従により生かされていたというか、フリルに恐怖支配されていたフシがある。

フリルは、アカ裏アカが作りし理想の娘のAI。永遠の14歳。不老不死であり、心の成長も止まっている。基本的に笑顔を絶やさない感じでプログラムされているが、愛する人の移り気に嫉妬して、浮気相手を殺害するという、負の感情も持って行動する。その残虐性を少女性と言ってもいいのかもしれない。ある意味、人間臭い。

さて、ねいるは、寿が造りしアイルの代替品のAI。ねいるの思考はロジカルで行動に迷いやブレが無い。大人であり男性的であると言ってもいい。その意味で、アイたちが持つ不安定な少女性とは対称的な存在である。コンクリートのように無機質で人間味は薄い。

このように、フリルとねいるは同じAIでありながら、対称的な存在である。

では、何故、寿はねいるをこのような人間味の薄いAIにしたのか? 

考えられる理由の1つは、プラティにおけるアカ裏アカのフリルの失敗の歴史から、AIに嫉妬などの感情を持たせる事を禁止するルールが出来て、それに従っているという可能性。1つは単純に寿独自のディレクションで、社長業務に不要な感情をワザとオミットしてデザインした可能性。この辺りは想像でしかない。

ただ、9話で寿と遊ぶようにエッグの世界で戦っていたねいるは、とても感情豊かで人間味があったと思うし、ねいるの部屋で昏睡状態になる前の寿とのやりとりの記憶から察するに、人間味をもった行動をしているように感じるし、寿個人がねいるの感情を否定する事はなく、むしろ肯定していた。その意味では、ねいるの感情は遅咲きの機能という事だったのだろうか。

ここで、フリルとねいるの対比を整理しておく。

項目 AI フリル AI ねいる 備考
制作者 アカ裏アカ 寿
目的 愛玩 理想の経営者?
方針 理想の14歳の娘 青沼アイルのコピー
特徴 無邪気・可愛さ・笑顔
感受性豊か
他人をいたわれない
(→結果、残虐)
論理的
無機質
自我が無かった
人間関係 アカ裏アカ(疑似親)
あずさ(疑似継母)
寿(生みの親、同士)
田辺秘書など(会社関係)
アイ達(友達関係)
フリルはネット経由で
全ての人を監視可
悩み 誰からも愛されない? 人間の感情を知りたい?
思いやれる人間になりたい?

シリーズ通してのねいるの気持ちの流れは、後述のキャラのところで詳細を記載するが、ねいるに足りないモノは人間としての自我であり、人間の気持ちに対する理解力である。対して、フリルに足りないものは他人からの愛なのだと思う。

パラレルワールド(その2)

ところでパラレルワールドでは同じ世界に同一人物は2人存在できないとの事だが、アイルとねいるは一応人間とAIの違いがあり、同じ世界に同時に存在しても良いように思われる。しかし、アイルの、あなたの居場所は無くなった、という台詞もあり、彼女たちもまた2人同時に存在できない雰囲気を匂わせている。

無論、アイルが自殺する前は2人は同時に存在していたハズではある。だが、当時のねいるの存在感が次第に強くなるにあたり、パラレルの同一人物的存在となり、例の法則が適用されたという可能性も考えられなくもない。実際、こちらの世界に残ったねいるは思考にブレが無く強い存在感を持っていた。しかし、ねいるは9話で自分の人生を楽しむ選択をした後、髪型を変えたりカントリーな住宅に暮らしたり、自分自身の生き方を持ち始めた事で、だんだん気持ちにブレが生じてゆく。自信を失いか弱い存在に変容してゆくねいる。

小糸やちえみやハルカがこっちの世界に戻ってきた時に、自殺の原因の根が存在しない人生の人間に入れ替わっていた事を考えると、アイルも以前のようにねいるに嫉妬して自殺した弱さを持たないキャラ変があってもおかしくない。

結果的に、弱くなったねいるはこの世界から消えて、相対的に強くなったアイルが戻ってきた。そのことが、やはりパラレルの法則を想像させずには居られない。もっとも、アイルの自殺の原因がねいるにあった以上、ねいるとの存在の交換はゲームクリア後の宿命だったのかもしれない。

エッグの世界

結局、エッグの世界とは何だったのか?

それは、パラレルワールドという仕掛けを用いた、生き死にが曖昧になった空間だったのかもしれない。三途の川の様な生と死の境界にある緩衝地帯みたいな。

彫像を生き返らせる(=他のパラレルワールドの同一人物と入れ替える)ためには、ゲームクリアが大前提であり、その後、ワンダーアニマル、もしくは人間の命を犠牲にする必要があった。このルールは、フリルの部下のハイフンたちが執行していたが、フリルが作ったルールというより、パラレルワールド自体が持つルールだったのではないかと想像する。

ちなみに、寿のケースだと、生命維持装置を停止して死亡した事で、他のパラレルの寿がこちらの世界に来た。その意味では、やはり、命の交換は発生している。

では、ゲームクリアとは何だったのか?

ゲームクリアが描かれたのは、桃恵とアイ。桃恵は、自分が男子に見られてチヤホヤされる事を喜びながら、女性として生きたいという矛盾を抱えて生きてきた。それが、薫の登場で女性として生きる自信を得て、コンプレックスを克服した時点でクリアとなった。アイは、沢木先生や小糸のモヤモヤ悩む事よりも目の前の母親を大切に生きる事、自殺してしまったパラレルの自分に自信を持たせられた時点でクリアとなった。

つまり、弱い自分を克服し強くなった(≒少女性からの脱却した)ことにより、ゲームクリアとなったと言える。しかし、エッグに挑戦できたのが14歳の少女だけだった事を考えると、大人になってしまった時点でゲームに参加できなくなるとも言える。これは、逆に言えば用済みになったから、ゲームクリアとしているとも考えられる。かくして、ご褒美としての彫像の生き返りと、代償としての命の差し出しが必要になった。

それなら、エッグ少女を救う戦いとは何だったのか?

ここは、正直良く分からない。以降は、大胆な仮説を立てての妄想である。

一度自殺してしまったエッグ少女のトラウマを克服させて生きたいと思わせる事は、死んでしまったifの世界から、死ななかった側のifの世界にパラレルの命のスワップが発生する事になると仮定する。その場合、本来死ぬ必然性の無かったパラレル世界のエッグ少女が、本人の意思とは別のところで死が発生する。これが、少女の正体不明の自殺であり、ひまりを自殺させたフリルの死の誘惑ではないか?と想像する。

アカ裏アカは、とりあえずこの仮説まで到達しているから、アイ達をエロスの戦士としてエッグに挑戦させ、パラレルの命のスワップを繰り返させていた。そうすることで、パラレル間の行き来の実績を多数つくり、パラレル間の移動の仕組みを調査・研究していたとか。だから、アイたちがエッグに挑戦してくれない事には、ひまりに近づく事は出来ない。

ただ、この仮説が正しいとしても、ひまりを生き返らせる(≒別の世界から連れてくる)ためには、彫像となったひまりを生き返らせるためのエロスの戦士が必要だし、そんな役を引き受けてくれる少女は見当たらない。この辺りで、私の妄想も行き詰まりである。

ちなみに、1話のエッグ少女のくるみは、以前エロスの戦士としてエッグに挑戦していた経験がありそうな口ぶりであった。くるみはエロスの戦士であっても、心臓、もしくは目を奪われるとエッグの世界から戻れなくなる(=死ぬ)という発言を残している。その場合、命が1つ余る。その命を誰かの生き返らせに使う事ができると仮定すると、アカ裏アカは真っ先にひまりを生き返らせに使いたいだろう。逆に、今は別の世界のアカ裏アカがひまりの生き返らせに成功しているから、こちらの世界にひまりは居ない、という状況なのかもしれない。

前述の通り、この辺りは完全に妄想である。が、エッグの戦いが、パラレルワールド間移動のための耕しになっていたというのは、設定としてアリではないかと思う。


キャラ

青沼ねいる(1話~12話)

時系列を追ってねいるについての感情をトレースして整理したい。

おそらく、青沼アイルが、ジャパン・プラティの優秀な遺伝子配合による試験管ベイビーであり、青沼コーポレーションの経営を任されるべく誕生したデザイナーズベイビーであると思われる。14歳の社長なので、優秀な人材である事には違いない。

そして、阿波野寿が、青沼アイルに似せて造ったAIがねいるである。

本編の前半のねいるを見ると分かるが、ねいるは博識で、状況分析に長け、非常にロジカルで迷いが無い。感情に振り回される事が無いとも言えるし、そういう感情が無かったとも言える。それは、社長業(=経営者)としてのチューニングされた特性の可能性が高い。もしかしたら、アカ裏アカのフリルの事例があるために、AIに感情をプログラムしない事がルール化されていた可能性もある。

ねいるは、青沼コーポレーションの本社ビルの地下9階の医療フロアの寿の部屋で一緒に暮らしていた。ベットは2個。9話の回想シーンで、散らかった本や論文を前に寿がねいるに何かを教える回想シーンがあった。何かあれば、寿がねいるにその都度講義をしていたのであろう。ねいるにとって寿は、生みの親であり、先生であり、同士であった。

ちなみに、2話でねいるの名刺が副社長になっていたのは、アイルが社長だったからと思われる。社長の判断よりも、副社長の方が、実に的確に経営のための判断を下す。その中で次第にアイルのストレスは蓄積されてゆく。そして、ある日突然、アイルはねいるの背中を斬りつけ、橋から飛び降り自殺した。この凶行の原因は、より完璧なねいるに対するアイルの嫉妬である(パラレルから来た寿談)。しかし、その「嫉妬」の感情がねいるには分からない。その理解できない不思議なモヤモヤをずっと抱えていた。そして、アイルを取り戻すべく、エッグの戦いに没入してゆく。

ここまで来て、やっと1話のアイとの出会いに至る。

2話で、ねいるは初見で地下庭園から興味津々で後を着いてくるアイをプロファイリングした。アイは今の自分が嫌いで変えたいから、怖わがりながらもエッグに挑戦している、と。そして、ねいる自身は、自分が大好きであり、自分が死なせた妹のためにエッグで戦っていると告げた。バスに乗る別れ際に、名刺を渡しつつ、エッグ購入日を奇数日偶数日で分けて二度と逢わないように提案してアイと別れる。ねいるにとってアイは特別な興味を抱く事のない凡人でしかなかった。

エッグでの戦いに身体を酷く痛めつけてICUで治療するねいる。そこに現れたのは、ねいるの身体を心配するアイであり、「欲張るからだよ。次、戻ったら、友だちになろう」 とスマホのSMS画面を見せて立ち去った。珍しく他人の優しさ気遣いを受けたねいる。

翌日、また見舞いに来たアイと病院の屋上で戯れの会話をする。友だちになったら何するの? (ナックに)行って何するの? それって楽しいの? ペットボトルのお茶のいい匂いを共有する2人。「たまにはいいかもね」とSMSにサムアップの画像を返信するねいる。驚くアイ。目を合わさず遠景を見ながら口元を緩めるねいる。この日、合理の極みだったねいるが、初めて非合理を許容し受け入れた。人生に無駄を受け入れた。この事が、後のねいるの変化のキッカケとなる。

3話で、病院のベッドの上で、アイが別のエッグの挑戦者のリカと遭遇した事をSMSで知る。翌日、アイがリカを連れて、エッグを土産に見舞いに来る。お調子者でちゃっかり者のリカに難色を示すねいる。その夜、「リカに気を付けろ」とSMSを送信する。図々しくて不誠実なリカをビジネスパートナーとして信頼できないと判断したのだろう。

4話で、退院の迎えに来たアイを自分の会社に案内し、ねいるは自分が社長だと告げる。このとき、アイが他人を信じすぐ許してしまう事について、ダメだけど素敵なところと言う。そういう子が居ないと私たちが救われない、とも。ここの「私たち」はエッグ挑戦者のことかもしれないし、ジャパン・プラティで造られたAIのことだったかもしれない。その後、ねいる、アイ、リカ、桃恵のエッグ仲間の4人が揃った。

5話は、ねいるのエッグでの戦いが描かれるとともに、個性の違う4人が友達になった事が描かれた。ねいるとリカと桃恵が、アイの家に遊びに行く。不慣れで緊張してお菓子をアイの母親に差し出し挨拶するねいる。リカの図々しさに呆れつつ、リカのくすぐりに屈して笑い出したり。小糸と沢木先生の下世話な話に付き合ったり、その後に4人で地下庭園まで歩いて行ったり、ゲーセンで遊んでみたり、地下庭園でピクニック気分でお菓子を食べたり。この日の経験全てが、これまでのねいるの人生に無縁だった、普通の14歳の少女の楽しい日常であった。

そして最後の最後にエッグを買うのを止めないか、と提案するリカ。リカの提案は普通に考えたら至極当然。最初は友だちや知人の自殺に責任感じてエッグへの挑戦を始めたが、自分の命を懸けてまで挑戦する事じゃないし、ましてや自分が死んだら身内が悲しむから、もうエッグを買うのを辞めないか?という提案である。

ただ、ねいるにとってはこの提案は響かない。肉親もおらず、大切な人といえば寿くらいだが、おそらく、この時点で既に寿は植物人間状態になっていた。ただ、自分のオリジナルのアイルという人間の気持ちを知りたい。そんな、ぽっかり空いた心の穴を埋めるために命を賭けて戦う。結果的に、アイたちもねいるに引っ張られるようにエッグを買い続ける事になる。サブタイトルの「笛を吹く少女」は、結果的にねいるがアイたちをエッグの戦いに先導していた事を意味していたのかもしれない。

6話は、母親と沢木先生の再婚の話にモヤモヤするアイに対して、ねいるは「オッカムの剃刀」「アイも先生が好き」と鋭いプロファイリングをしている。ここは、ねいるの分析力、本質を見抜く力が生かされた台詞であった。それと、この話でワンダーアニマルのピンキーを与えられ育て始めている。

7話は、誕生日のリカの母親への愚痴に、ねいるが「共依存」「断ち切らなきゃ何も変わらない」と強烈な分析結果をぶつけてリカを怒らせる。その事で「思った事を口にしてしまう。合理的に正しいと思った事を」「女性社会に向いていない」という台詞もあり、人間関係の難しさに困惑した様子を初めて見せる。リカがピンチを脱して帰還して戻ってきた時に、ねいるは「死なないで」の台詞があり、リカたちをかけがえのない存在として、素直な感情を伝えたのは、ねいるにとって精一杯の友情だったのだろう。

9話は、ねいると寿の決別の回。会社ビル地下9階のねいるの自室に、友だちとしてアイたちを招待するねいる。ここで、ジャパン・プラティとデザイナーズベイビーの話が登場。流石にAIである事は伏せている。リカたちにしてみれば、楽しく遊ぶためにたこ焼きパーティーやマニキュア塗りを楽しみにしてきたのに、ねいるが寿の生命維持装置を切る事についての話で口論になり、後味悪く退散する形に。ただ、寿と約束したねいるも、ボタンを押す事に手が震えて、結局一人でボタンが押せなかった。最終的には、アイとねいるが二人同時にボタンを押す事が出来た。

この話で重要なのは、尊厳死などでななく、個人的な夢も将来のビジョンも持たないねいるが、寿の言う通り自分の人生を楽しむ事ができるか? そのために、寿という過去と決別し、変化を受け入れられるか? というのがポイントだと思う。理性でボタンが押せるとリカたちに啖呵を切っていても、実際には変化を受け入れる事の怖さで手が震えていた。そこを飛び越えるための手助けをアイがした。

ラストで生前の寿と語らっていた時の本をスーツケースに詰め、モルモットのアダムも持ち出していたのは、放送当時は寿の遺品を処分するため、と考えていた。しかし、特別編を見た後では、湖畔のカントリー風な新居に引っ越すために持ち出すためだったと理解できる。

エッグの世界での寿とのやりとりで出てきた「パラレルワールド」「死の誘惑」のキーワードは、終盤で繰り返し出てくるが、「あどけない悲しみ」が特別編のねいるに直結していて今思うと切ない。

10話は、地下庭園に訪れたねいるは、三つ編みだった髪を降ろしてイメージチェンジして登場した。これは、アイルの髪型でもある。三つ編みは、合理的で邪魔にならない髪型で有り、会社に縛られているという意味でも、ねいるを象徴するアイデンティティであった。その固い縛りを捨てたところに、自分の人生を生きる変化を読み解ける。また、リカのラーメンの誘いに即答OKしたのも、ねいるの変化の現れである。

OA当時は、私はねいるのこの変化は喜ばしい事だと思っていたが、特別編を見た後では、見方が少し変わってくる。ねいるのブレの無い強さは、実はこの変化とともに失われつつあり、徐々にねいるに迷いが生じて、弱々しい印象に変化してゆく。

12話では、丘の上に4人集まって、ワンダーアニマルを殺されたリカと桃恵は別々の方向に去って行ってしまう。後悔していると告げた桃恵に、「自分で選んだんじゃないの?」と問いかけるも、「何で誘ったの!」と泣きながらアイに問い詰める桃恵。ねいるは当事者側でもあるから、立場的には微妙であり、終始寂し気な表情が印象的であった。アイの気持ちを察して、言葉少なに「一緒に帰ろ」とアイに寄り添ったのは、ねいるの優しさだったのだろう。

沢木先生と小糸にエッグの世界で対峙して生還したアイ。アイとねいるは2人で丘の上に腰かけて会話する。アイは、小糸から真実を聞きたいと思っていたが、そうではなくて、一人ぼっちだった私の友達になってくれた事で救われたから、その感謝の気持ちを伝えたかったのだという。途中の、ねいるの「嘘の友達でも?」という問いかけが切ない。この一連の会話は、そのまま特別編に効いてくる。

青沼ねいる(特別編)

そして、問題の特別編。

冒頭のエッグ世界での花火のシーンはねいるのゲームクリアを意味する。ねいるの居場所は無くなり、妄想(=人間になり自分の人生を楽しむ)は叶わないとアイルは断言。時系列シャッフルされているが、ここでフリルとの対峙があり、私と友達になれば人間になれると告げられる。

これが、ねいるに対する死の誘惑であり、ねいるはその誘惑に心を揺さぶられた。自分の人生を楽しみたい→人間になりたい→エッグの世界のフリルに確かめたい=死ぬ、という矛盾である。しかしながら、パラレルの旅人でもある寿の事例もあるから、死=人生の終わりとも限らないという概念もあるのだろう。最終的にねいるは、悩みぬいた末に、意を決してフリルに会いに行く決意を固める。

Aパートは、このゲームクリア後のねいるの寝起きのシーンで始まる。エッグの世界から生還し、ねいるの中の子供(=人間になりたい弱さ)と大人(=冷静に分析する強さ)の人格が分離して会話するが、完全に子供のペースである。ワガママに生きよう、ワガママは子供の特権、大人っぽいから不幸なのかも。団地の玄関前にモルモットのアダムを置いてアイに託した。枕井商店の前でガチャガチャを見つめてたら、偶然アイに遭遇し、和らいだ笑顔が浮かべるねいる。そのまま、「じゃあ、また」と挨拶を交わし別れた。ねいるは、バスの中からSMSでアイに、しばらくアダムの世話を頼む、と連絡。アイからの電話には出ない。ここでねいるは音信不通となり行方不明に。

このやり取りを考えると、ねいるはエッグの世界に行き、戻ってくる前提でいたと思う。ねいるにとってアイたち(=親友)はかけがえのない宝石である。エッグ無しでエッグの世界(≒三途の川)に入るには、自分自身が生と死の狭間に行く(=臨死体験をする)必要がある。寿の事例を考えると、アイルに押し出されたねいるは、別のパラレル世界で生かされる可能性が高く、その意味で戻って来れない可能性もあり得る。この「シュレーディンガーの猫」の様な精神状態のまま、アイとの別れは中途半端なままとなった。

その後、アイは小糸の改変を経験し、音信不通のねいるを心配して会社に乗り込み、アイルに知らない人扱いされている。世界が一斉に切り替わったと思える演出である。世界線が変わったためにスマホに小糸の写真も無い。だが4人で撮ったプリクラの写真は残っていたという事は、ねいるはまだ改変されていなかった。

カラオケを経て、田辺秘書に電話で呼び出され、湖畔のねいる自宅で寿と鑑賞するねいるの最期のエッグの夢。寿はねいるがAIだと告げ、リカはAIのねいるの存在を否定し、アイは言葉を失った。その夜、ねいるからの電話を取らずにスマホを投げたアイ。翌日、もしくは数日後の昼、アイは酷い事をしたと母親の膝の上で泣きじゃくる。

ねいるという存在は強くて強固だった。社長になるために造られたAIであり、卓越した分析力、判断力と、ブレない強い意志を持っていた。しかし、寿の遺言で自分の人生を楽しむ事を決め、髪を降ろした頃から、ねいるの存在は弱くて脆くなってゆく。社長としての存在は戻ってきたアイルがねいるを否定する事で消滅した。ねいるがAIと知らされたリカは、その場でねいるを否定した。アイはその事実を受け止められないまま、ねいるの電話を取らなかった。この瞬間、ねいるは誰からも必要とされなくなり、この世界のねいるは死んだのだと思う。アイは、自分の罪の重さを直感しているからこそ、後悔し、泣きじゃくったのだと思う。

ねいるからの最期の電話のシーンで映される、草むらに仰向けに横たわっていたねいるの姿。外傷は見受けられなかったが、とても薄幸な雰囲気を感じさせる演出だった。果たして、アイに残したかった言葉は何だったのか? 具体的な事は一切分からず、全て視聴者の妄想に任せる形である。

アイたちがこっちの世界で流されるように付き合いが自然消滅し、社会に順応してゆく事を成長というなら、ねいるは、ただ一人だけ逆行して少女化していった、という物語の余韻が、とてつもなく切ない。

大戸アイ(特別編)

転校してリカと桃恵とも自然消滅のくだりは、少女期を卒業し大人になってゆくという意味であり、こちらの世界の存在がより安定して強固になる事を意味する。言い換えれば、エッグの世界から遠ざかる。しかし、危険な少女期を乗り切って、より安定した大人に成長して、めでたしめでたし、とはならなかった。

「ねいるは人間になれたのかなあ」というねいると距離を取った台詞から、あの日確かに存在した友情の記憶を鮮明に思い出し、ねいるに会いに行く。ねいるへの贖罪とも違う、忘れていた親友に会う事で、自分にとって大切なモノと向き合いたい、という気持ちだと思う。

少女を描いた物語の結末は、少女を肯定した。だからこそ、儚くて強く、アンビバレントで奥深い。

田辺美咲

田辺秘書のスタンスは会社側の大人である。ねいるやアイルとは密着しているが、気持ちは距離をとっている。そして、エッグの世界に関しては、アカ裏アカの共犯者である。

当初、社長はアイルだったのであろうから、人間であるアイルに情があってもおかしくないとも思うし、ねいるの気持ちもよくよく察していた。そんな中で、結局、田辺はねいるをどうしたかったのか?というのが良く分からなかった。

もちろん、ねいるがエッグで戦う意味は、アイルを取り戻す事にある。しかし、そのためにねいるが飛ばされる事も知っていたハズ。

田辺がねいるの最期の夢を見せたかったのはアイであり、リカはついでである。ねいるがAIである事を知って、ねいるの悩みを共有させて、ねいるがこっちの世界に戻ってくるような事があれば、こんどはアイルが不安定になりかねない。その中で、敢えてリスクを取ってアイに伝える意味は何なのか? ねいるを不憫に思い、アイに力になって欲しいという同情なのか?

その辺りは、彼女のポーカーフェイスに隠されて、確かな事は何も分からず、妄想してください、という風に感じた。

特別編という肌触り

アクションは抜きの低コスト短納期の演出、作画?

私は、当初書き下ろされた時の11話12話と、総集編が決まった後の12話+特別編は、実は違う脚本なのでは無いか?と勘ぐっていた。

1つは、物語を〆るためには、アイの問題解決を最後にするのが望ましいが、特別編がラストだと、ねいるの問題になってしまう事。

もう1つは、特別編がワンエグにしては、アクションシーンが全くない、省リソース、低コスト、短納期向きな映像になっていた事。

もちろん、アクションシーンが無くても、キャラの表情や背景の美しさは申し分ないクオリティであったが、カタルシスという意味では全く盛り上がらない味付けを、最初からシリーズ構成時に設計するだろうか?

こうした違和感を強く感じていたので、仮説として11話と12話を入れ替えて、高度なパッチワークをした結果、説明不足と、迫力不足になってしまったのではないか? と妄想したりしていた(非現実的な妄想なのかもしれないが…)。

しかしながら、よくよく特別編を見なおしても、ねいるがAIだった衝撃の真実と、ねいるが消えてしまったという流れは、それまでのねいるの心情の変化からしても微塵も違和感が無く、はじめからキッチリ設計されたものと感じられる。仮に、順番が変わってしまったとしても、ねいるに関しては、終始一貫した物語であり、改悪されたところはないのであろうと想像する。

アイについても同様で、小糸や沢木先生に対して持つ疑念を疑念として払拭し、ノイズに負けず自己主張できるようになったという流れも、違和感は無い(多少、詰め込み過ぎた感はあったが)

キャラの心情重視の私としては、そこをキチンと結んでくれた事が嬉しく思う。

これについては、不本意ながら、総集編、および特別編という形にはなってしまったが、作品のテーマに対し、うやむやにすることなく形にしてきてくれたスタッフの誠意を強く感じる。

風呂敷を広げっぱなしのシリーズ構成?

風呂敷をひろげっぱなしと言えば、エッグの世界の設定周り、フリルという強キャラの結末、アカ裏アカのひまり生き返らせ作戦の結末、といったところか。

まあ、確かに、ぼんやりした抽象概念だったり、フリルという悪の放置だったり、アカ裏アカのマッドサイエンティストによるエロスの戦士にされる14歳の少女の犠牲者は無くなることはなないのか問題だったり、視聴者に対するストレスの原因が未解決なまま、安堵させることなく、ぶっつりと終わるイメージはある。何だかんだ言っても、視聴者はストレスから解放されて救われたい気持ちがある。

だから、風呂敷を広げっぱなし、という指摘に対しては、擁護出来ないと思う。

ただ、フリルとエッグの世界の件は、与えられた社会システムであり、その中でキャラが何をするかというドラマであり、最初から社会システムをどうこうするモノでは無いというスタンスはアリと言えばアリである。例えば、世界は昔、資本主義と共産主義と別れて争っていた。それゆえにイデオロギーによる国家の分断の悲劇が起きて、それがエンタメになる事は多々あった。その不幸な構造を改善すべき課題と感じていても、そこまでのスコープで問題解決を描く作品を私は知らない。本作もおそらく、そのシステムの中で、キャラがどんなストレスを受け、どう変化・対応してゆくかのドラマを描く事が主題であったと思うし、そこは逃げていなかったと思う。

その意味で繰り返しになるが、キャラの心情を組んだドラマを、シリーズを通して丁寧に積み上げてきた事に関しては、凄く高く評価している。特に本作の台詞は考え抜かれたモノであり、とくにアイたち4人の掛け合いの台詞は、非常にキャラにフィットしていた。

台詞の全てが脚本家の仕事とは限らないと思うが、上記だけでも本作の脚本のずば抜けた力を感じたのは間違いない。

その意味で、本作のシリーズ構成は、大胆な生け花的な荒っぽさがあり、万人に美しいものとは言えないが、肝心の細部は手抜きなく、とてもクセがあるシリーズ構成だったと思う。

おわりに

私はワンエグの中ではねいるが好きで、論理的でブレが無く少女性を持たないねいるが何故エッグで戦うのか、ずっと分からりませんでした。しかし、特別編で完結を観た事で、ある意味、ねいるが大人から少女に逆行して、脆く儚く消えていった、寂しくも切ない物語として理解する出来た様に思います。

ねいるのこの一連の変化について、あまり詳しく感想や考察をみかけないため、私なりにモヤモヤした部分を整理出来た事は非常に良かったと思います。

明確に描かず解釈に幅を持たせた作品だと思うので、解釈が違うという方もいると思いますが、いろんな解釈があるのだな程度に思ってもらえば幸いです。また、そうして考察して吐き出してゆくのが良い作品だとも思います。

スタッフの皆様には良い作品を生み出していただき、感謝しかありません。

2021年春期アニメ感想総括

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はじめに

2021年春期アニメ総括です。今回、最終回まで見た作品は下記。

今期は意外と、視聴本数は少なかった様に思います。やっぱり、これくらいの視聴本数が適度なのかもしれません。

感想・考察

やくならマグカップ

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 陶芸を題材にしつつ朝ドラテイストでシンプルまとめた文芸の上手さ
  • cons
    • 中部ローカルネタでその他地方民への置いてけぼり感

岐阜県多治見市の町おこしのフリーコミックが原作。前半15分がアニメ、後半15分がキャストによるご当地案内という例外的な構成。アニメ内にもご当地要素が満載なのだが、逆にノイズに感じないのは、物語が持つ素性の良さだと思う。商用エンタメ原作ではないことが、逆にのびのびとした文芸を造れるとしたら、皮肉だと思う。

主人公は東京から多治見に引っ越してきたばかりの高校1年生の姫乃。高校の陶芸部に入り、陶芸に打ち込む姿を朝ドラテイストで描く青春コメディドラマ。同じ部活に陶芸の英才教育の十子先輩、ひたすら明るい天才肌の三華、そして陶芸部ではないのにいつも一緒な隣人の直子。彼女たちのともに、秋の美濃焼コンテストに向けて作品を制作してゆく過程が描かれる。

東農地方は陶器の全国有数の生産地であり、多治見では陶芸はなじみ深い題材である。そして、陶芸は、創作であり、芸術品であり、実用品であり、その魅力の切り口の多さに触れつつ、ドラマに落とし込んでいる点が上手い。例えば、姫乃はコンテスト向けに作品造りに悩んでおり、自由であるがゆえの創作の苦しみを味わっている。十子先輩は基本的に実用品作りを好み、三華は楽しさを表現する事に注力しておりどちらかと言えば芸術寄りである。母親は芸術品も実用品もいかんなく才能を発揮していたが、姫乃は実用品寄りである。姫乃は最愛の父親に贈った不格好な茶碗の反応で、母親の作品や十子先輩の作品よりも劣っていたと感じ、父親を無条件に笑顔にする作品造りを目指すという、無意識のリベンジを誓う。作品でもてなす客が、不特定多数だったり特定の個人だったり、何があれば笑顔になるのか?という哲学にも似た奥深さを垣間見せてくれたと思う。

さて、姫乃の陶芸家としての実力だが、今は亡き天才的な陶芸家だった母親の才能を遺伝的に受け継ぎ、次々に周囲を驚かす名作を生み出す、という事は全くない。あくまで、平凡な女子高生が、陶芸作品を作ってゆくという初心者目線で物語は進む。途中、何が造りたいか自分でも分からないとか、無意識リベンジとか、母親の偉大な業績のプレッシャーから逃げたりとか、果報は寝て待てとか、釉薬選びは直感でいいとか、作品(=自分)が急に他人より見劣りして見え始めるとか、賞(=他人の評価)が欲しくなるとか、素人の創作活動あるある、で溢れている。その中で、姫乃自身が笑顔を忘れたり、仲間と笑顔を取り戻したりというドラマがあり、心地よく朝ドラテイストを味わうことが出来た。

本作の物語のオチも秀逸である。4話で、父親を喜ばせたいという呪いにもにた想いは、実際に創作物を作り、いろいろな行程を経て、コンテストに出品し、参加賞しか貰えず身の程を知ったという状況で、作品である陶器の座布団に父親が勝手に座って割ってしまう姿を見て、怒るでもなくうれし泣きする姫乃。無意識リベンジを達成できた喜びであるが、作品を壊された事よりも、その事実が欲しかったものであり勲章であるという事。笑いと涙を同時に表現した文芸面は見事であり、かなりの手練れに感じた。

考察的な部分ではあるが、父一人、娘一人の家族であり父親の愛情を一心に受けて育った姫乃は、4話で父親にプレゼントした自作の茶碗が、最高の茶碗ではなかった事にある種のヤキモチを焼いたのでは無いかと思う。母親の茶碗は仕方ないにしろ、十子先輩の茶碗の出来栄えが上だった事を認めざるおえない時、自分が父親にとって一番ではない瞬間を味わってしまった。もっと極端に言えば、父親の浮気を感じてしまったから、ここまで呪いの様にリベンジに拘ってしまったのではないかと想像している。勿論、父親は姫乃からプレゼントされた不格好な茶碗が嬉しくないわけない。そうした、ちょっとした姫乃の影の部分もある事が本作の味わになっている。

こうしたシンプルだけど味わいがあり、言語化するのが難しい感情は、最近のアニメではあまり味わえていない気がしている。アニメの製作委員会や、商用マンガやラノベの編集の売れるためのセオリーや、そうしたモノから一番遠い所にある作品のように感じる。地元宣伝を最優先に掲げながら、文芸面では自由というのが、皮肉でもあり、重要な事の様な気がする。

ここまで、ポジ意見ばかりだったが、最後にネガ意見をいくつか。

本作は、懐かし過ぎる中部ローカルネタで中部地方民以外を置いてけぼりにしたり、1話まるまる夢オチ回があったり、お遊びが過ぎる所もあったと思う(私はお隣愛知県出身の古のおタクなので、ネタにはついて行けたが)。

また、天才肌の三華の騒がしさが、ちょっと騒がしかった。本編内でも、仲の良い十子先輩と三華が、それが原因で喧嘩になるエピソードがあるのだが、スタッフとしては意図的にやっている部分であろう。

こうしたネガ意見も、全体のコメディ色と、文芸面の良さで許せてしまう、という作風だった。

実際に、あまりにも綺麗に1期が終わったので、2期やるの? と驚いてしまった。十子先輩と祖父の関係や、姫菜、刻四郎、草野の高校時代の三角関係や、姫乃に拘り続ける直子の秘密など、ネタはまだまだありそうなので、2期を緩く楽しみにしている。

オッド・タクシー

  • rating ★★★★★
  • pros
    • ミステリーサスペンスな超高密度シリーズ構成
    • プレスコによる独特の間を持つ絵画劇
  • cons
    • 特に無し

本作を一言で言えば、絵本のような動物デザインのキャラが、コントの様な会話劇で、高圧縮されたサスペンスミステリーを展開する作品。無数の伏線をばら撒き、終盤加速しながら最終回に向けて伏線回収してゆく流れに圧倒される。しかも、ラストは危機が迫るところで終わるという、なかなかのビターな展開に痺れる。

本作の特徴の一つとして、癖の強い各キャラの喋りによる会話劇がある。ボソボソと喋る主役のオッサンの花江夏樹。役同様にお笑い芸人やラッパー。芸人も多数起用。淡々としていながらも、コントの様にツッコみの入る会話に思わず微笑う。また、精神異常者の田中や、負けず嫌いすぎて生きにくくなっている二階堂なども、大量のモノローグを淡々と語らせる役どころには、実力派声優を起用しており、なかなかソツがない。また、本作は全編プレスコなので、演者のタイミングで喋りが進むというメリットが生きている。

喋りのコテコテさに比べて、絵作りはあっさり目。動画枚数を使って見せるというシーンは無い。作画カロリーは低めなのではないかと思うし、作風に合っている。

一見、演出も目立つところは少ないように感じるが、分かりにくい部分が無いのは美点だと思う。終盤の現金強奪作成の段取りなんかも、事前に視聴者に分かりやすく説明しているし、各シーンの見せ場なども適切に盛られており、映像を見ていてダレる部分が全くなかったので、総じて演出力、構成力は高かったのだと思う。

そして本作の最大の魅力は、此元和津也による超高密度なシリーズ構成・脚本。サスペンスミステリー+笑いの本作の脚本を作ったところ、全20話分くらいのボリュームになり、それを全13話に圧縮。削った部分の一部をYouTubeのオーディオドラマにしたとの事だが、こちらも通して聴いて盛り上がるような作りになっており、食材を無駄にしない。

シリーズ構成はミステリーとして破綻が無く、伏線がキッチリ回収されて行く快感があった。1話を観た時点で、その作風に絶対の安定感を感じた。しかも、それがロジカルなだけでなく、クセのあるキャラたちの感情もロジックに絡ませている点が上手い。誰もがどこか少し狂っていて、誰もが悲哀を持っている。そうした人間ドラマの感情面と、ミステリーのロジック面の掛け合わせが非常に巧に調理されている点が見事。

こうした作風なので、本作を観ているときは、パズルのピースがハマる時に微妙な興奮を覚えながら、ロジックを脳みそで楽しんでいた。エモさが爆発する事はなく、淡々と冷静に楽しんでいた。これは、唯一無二の視聴感覚だったと思う。

スーパーカブ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 台詞や劇伴の曲調に頼り過ぎない、リアリティ重視の挑戦的な映像
    • 人間嫌いなJK小熊をハードボイルド主人公に仕立てた作風の新しさ
    • 見ていてバイクに乗りたくなる
  • cons
    • イベント優先し過ぎで、キャラの心情に追従できない強引な展開

結論から言うと、個人的に文芸面にかなり不満が残る作品だった。その事を、順を追って説明する。

本作の最大の特徴は、台詞などの説明を極力排し、カメラが切り取った映像でキャラの心情を描くという挑戦的なディレクションにあったと思う。一般的なアニメ作品では、台詞はキャラの心情を的確に表現する事が多い。それにより、絵で描いた情報をより強固にしたり、絵で描けてない情報を補足したりする。しかし、実際の日常生活において、人間はそれほど的確で端的な会話をしていない。さらに、主人公の小熊は一人暮らしであること、基本的に人間嫌いで学校でも友達がほぼいない事から、小熊に説明的な台詞というのは逆に不自然になると考えられる。その事を強く意識した結果のディレクションなのだと思う。

本作のもう一つの主役は、原付のスーパーカブである。スーパーカブは、非常に信頼できるメカとして描かれる。主人公の小熊は人間嫌いであるが、それゆえに機械を信用する。小熊の中では、ある意味スーパーカブはヒーローとして神格化していると言っても過言ではない。本田技研工業の監修も入る公式お墨付き作品である。だから、スーパーカブを噓をつかずに描く事のプライオリティは高いし、リアリティを重視する。

例えば、深夜のコンビニでガス欠となり、いくらキックしてもエンジンがかからずに焦る小熊のシーンがある。キックすると、一瞬リアのランプが点灯するシーンには感心した。エンジン音、走行音は、本物そのもの。劇中に登場する取扱説明書までも忠実に再現される。そうした、バイクの細かな描写は大真面目に作り込まれる。

こうしたメカのリアリティに対して、ドラマも写実的になり、あたかも日常をカメラが切り取ったようなドキュメンタリータッチの映像になる。

主な登場人物は3名。ハードボイルド主人公な小熊、気のいい相棒の礼子、か弱いヒロインの椎。同じクラスのJK2年生である。

1話は、団地に一人暮らしの小熊は人間嫌いで他人との関りを持たず虚無的な生活を送っていた。しかし、ふとしたキッカケで手に入れたスーパーカブにより、エモーショナルな刺激を受け、少しづつ生きる輝きを持てるようになる。小熊にとってスーパーカブは、日常を楽しくするモノであり、行動力を拡張するモノである。最初は素うどんの状態だったスーパーカブだが、最終的には全部盛りの状態まで装備品が追加されて行く。箱や籠、レインスーツ、防寒用具としてハンドグローブ、ウィンドシールド、防寒着。また、小熊は自分でオイル交換したり、愛車の整備も怠らない。これは、スーパーカブがモノであり、手間をかけたらかけただけリターンがあると信じられるからできる事。面倒なモノは信用できる。

こんな小熊に礼子という仲間ができる。友達ではない点がミソである。礼子もまた郵政カブに乗るカブ信者であり、趣味仲間としての繋がりである。礼子は小熊に有益な情報とパーツを提供する。この件で礼子は損得度外視で趣味仲間のために動く。2人はカブの話以外はしない。バイクと言う共通の価値観で繋がる気楽な人間関係である。

2話3話は、小熊にとって他人であった礼子が、はじめての仲間になるまでの行程を描く。はじめから意気投合ではない。駐輪場でカブのシートに座りながら食べる弁当。最初は教室では素っ気なかった。礼子の大らかな性格が小熊に趣味を通じた社交性を持たせて行く。どこにだって行ける、という夢を共有しあう。

5話は、礼子の冒険者としての片鱗を垣間見せる回であった。夏休みに郵政カブで富士山登頂を目指す礼子。前例はないわけではないが、無謀。礼子は人間的にもメカ的にも、現状のスペックで目の前のハードル越えを挑戦する。ハードルを越える事が目的ではなく、礼子がカブに乗り限界を目指す事に意義がある。淡々と転倒を繰り返し、礼子もカブもボロボロになりながら、昨年よりも高い富士山中腹まで登りつめて限界を更新した礼子。この後、礼子は壊れた郵政カブから、ハンターカブに乗り換える。

そして、7話以降、後半に登場するヒロインが椎である。椎の家は裕福である。父親は道楽でドイツパンを焼いて商売しており、店は無国籍で雑多な海外製品に溢れている。父親が独英、母親が米、椎は伊という家族でも趣向がバラバラ。中でも、椎は最近自我が芽生えてきて、父親の押しつけではなく、自らのカラーとしてイタリアを積極的に選ぶ、という状況である。そして、椎の自転車はアレックスモールトンのAM-20。父親が椎にあてがった高級自転車である。

最初は、文化祭で椎が使う機材を校内に搬入する作業を小熊と礼子が手伝う所から、交流が始まる。その時に、椎は小熊とスーパーカブを頼りがいのあるヒーローとして認識する。さながら命の恩人のような扱いで。それ以来、椎は小熊と礼子に珈琲を差入れたり、父親の店でコーヒーを奢ったりする。

11話は、椎が冬の夜、無舗装の山道をモールトンで走行中に転倒し川に落下。携帯電話で小熊に連絡が入り、小熊が椎を救出して小熊のアパートでお風呂に入れさせ、礼子が壊れたモールトンを回収し、3人でカレーうどんを食べて一泊してゆくという流れ。この時に、椎は辛さから、小熊に「冬を消して」とすがるが、どうする事もできない小熊。しかし、春休みのタイミングで、3人とカブ2台で、冬から逃げて春を掴むために、山梨県いち早く桜咲く九州最南端の佐多岬まで、超ロングツーリングを敢行する。その後、水色のリトルカブを購入する椎。完。

物語的には、小熊の父親は離婚、母親も行方不明、一人暮らしをしてきた小熊は人間不信となっていた。そんな中で運命的な出会いをしたスーパーカブが、小熊の人生の輝きに灯をともした。そしてラストは、人間嫌いでモノと仲間しか信用しない小熊が、人懐っこい椎に触れ合い、他人に「何か」を与える事が出来た、という明るめの希望を示唆して終わる。

ここまでが、本作の好意的な解釈である。ここから先は、私が本作に抱く不満を記載する。

本作は、JKに似つかわしくない主人公小熊のハードボイルドな性格付けが最大の特徴である。人間不信ゆえに、信用できる仲間と、信頼性の高いメカだけを受け入れる。他人との関りは最低限。ときおり、美味いコーヒーを飲んで幸せに浸る。まあ、これは原作小説の読者層や、深夜アニメの視聴者層のターゲットを絞った戦略として、アリはアリだろう。

そして、小熊と対称的な存在として、ヒロイン椎が存在する。椎はか弱く、困難な障害があるときに、頼りがいのあるヒーローに救いを求める、というハードボイルド小説の構図である。しかしながら、こう言ってはなんだが、椎が小熊にすがる気持ちが全く分からない。機材を運搬してくれた恩はあるが、何故そこまで小熊に熱を入れるのか?

11話の大切なモールトンが破損したという状況から、椎の「冬を消して、春を連れて来て」の台詞がきて、最終的に小熊は「このままでは、3人とも冬に殺される」としてロングツーリング敢行するという流れ。これは、ハードボイルド小説によくあった、秘密を知ってしまったために当局の暗殺者からつけ狙われ、生き延びるための逃避行をやりたいだけ、なのではないかと思う。しかし、椎は生きて行けないほどの辛さを味わっているわけではなく、明日から前向きに体調を整えて店を好きに改造してゆくことに障害は無い。敢えて「春を連れてく」と泣きつくような障害でもないし、小熊に頼る事でも無い。小熊も小熊で調子に乗って「冬に殺される」とポエムじみた台詞を言う。

つまり、逃避行と言うイベントをやりたいがために、椎にも小熊にも強引な振舞いを強いているとしか思えないところに、個人的にかなり違和感を抱いている。キャラを尊重して考えた場合、そうはならんだろう、という行動であり極端すぎる。もちろん、シチュエーションを楽しむためのちょっとしたご都合展開と割り切れる人も居るだろう。しかし、私はキャラの行動原理を逸脱してしまうと、その作品を楽しめない性分なのである。

また、そうしてみた時に、椎は何故、冬の夜道をわざわざ危険な猫道をモールトンで走ったのか?再起不能となったモールトンは何故もっとタイヤとかひん曲がっていないのか?片道1500kmのロングツーリングの下道移動の苦行に耐えられるのか?とか、一部でリアリティを追求している割に、随分と雑な展開が気になってきたりもする。

いくつもアニメーションとして美点がありながら、私的にはこうした巨大な欠点があったために、どうしても最後までノリきれない部分が残る作品であった。

ゾンビランドサガR

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 不幸のどん底の主語を、さくらから佐賀県民に変えてのリベンジの物語
    • 毎回変化球なのに、不思議とゾンビランドサガであると認められる器の大きさ
  • cons
    • 逆に、主語を佐賀県民に変えた事で、熱さが薄まったように感じてしまった点

2019年秋期の1期から2年半、満を持しての2期であるが、個人的には1期ほど熱くなれなかったというのが正直な感想である。

1話で「Revenge」の映像を観たときに、あぁ、これぞフランシュシュと1期の積み上げがあるからこそのクオリティを感じた。特に1話ではフランシュシュに時間制限がある事が幸太郎により強調されていた。映像的にも、ぶっ飛んだ展開にしても、そこは1期の実績があるので、安心して観れると直感した。

前半は、2話サキ、3話4話純子愛、5話リリィときて、ここまでは1期の焼き直しであろう。6話のたえの強運回は、幸太郎の借金2千万円をチャラにするという展開でフランシュシュのイケイケを表現する。

7話は、舞々の超変化球回。舞々はフランシュシュに憧れてはいるが、ゾンビの覚悟を持てないから、フランシュシュ7号になり即卒業という超展開で度肝を抜いた。おそらく、舞々は藤子駒子とともに令和のアイドルになり、フランシュシュと対決するのではないか? と邪推していたが、そういう展開は無かった。

8話9話は、待望のゆうぎり回。明治に一度亡くなった佐賀の数奇な運命とともに描かれる、ゆうぎり、喜一、伊東の3人の若者の壮絶なドラマ。

11話は、集中豪雨災害により孤立する佐賀県民を、避難所で歌って元気づけるフランシュシュを描く。佐賀県民にとってもフランシュシュは、ゾンビだとしても、それをはねのける佐賀県のアイドルとしての信頼関係が描かれる。

12話は、災害復興中でインフラも麻痺していた佐賀で、無謀にも駅スタライブを決行し、佐賀県民、県外のファンが集い満席状態でフランシュシュのコンサートを成功させる。フランシュシュの不屈の魂が会場のみんなに伝搬し成功を収めた形である。

1期では、持っていないさくらが、幸太郎やフランシュシュに支えられて、何度でも立ち上がりやり直す事が力強く描かれた。2期では、持っていないのがさくらから佐賀県に主語が変わり、佐賀の自尊心を守る為、リベンジをする!という意識を、災害復興の佐賀県民と重ねて描いた。さくらとフランシュシュは、リベンジの象徴である。

ただ、これは1期と違い、2期の佐賀県民のリベンジの燃料というのが直感的に分かりにくく、どうしてもコンサートが成功したカタルシスを感じにくかった。不幸を背負っている佐賀という事を意識づけるためのゆうばりの8話9話であり、その後、リベンジの意味が変わるのだが、それにしても、主観が佐賀県民に移った事で、その情熱の濃度が薄まってしまった、という印象である。

同時に、幸太郎の余命の短さから、フランシュシュの幸太郎離れを予感させるシーンが随所に観られた。幸太郎がその場に居ない事で、フランシュシュも薄っすらゾンビメイク顔で描かれる事が多多かった。これは、幸太郎が居なくなるフラグなのだが、2期ではそこまでは触れられなかった。

最後の最後で、謎のUFO襲撃なので、3期やる気なのか? と勘ぐってしまうが、実際に幸太郎や舞々など今後の布石に思えるネタも散見されるので、可能性はありそうに思う。個人的には1期や、スタッフが多く重なる「体操ザムライ」のシリーズ構成の出来の良さを考えると、もう一声、何か感動が欲しかった、というのが率直な感想である。

ゴジラSP

  • rating ★★☆☆☆
  • pros
    • 仮想科学的なSF要素で、おぉ!となるところ
    • 人間ドラマを極力排した、ドライな展開の新しさ
  • cons

本作は、円城塔をシリーズ構成・脚本に置き、ゴジラTVシリーズでやるという難題に挑戦した意欲作であると思う。仮想科学的なSF要素を前面に押し出すところで、おぉ、と思う所はあったが、終わってみると、狐につままれたような決着で、全くカタルシスを感じなかった。

はじめに断っておくと、私は怪獣プロレスや、特撮オマージュネタとかに興味は無い。だから、そうした要素が多数出て来ても、個人的にはプラス査定にはならない(とは言え、マイナス査定にもしていないつもり)。

本作には、X-Fileの未知なる現象による事件がモルダーの知識や経験則で解明されたり、平成ガメラの様な怪獣が古代文明のガーディアンや破壊兵器だったりして謎解きされて行く過程で、おぉ!となる事を無意識に期待していたのかも知れない。

だから、MD5の「解けば分かる」が現実的に不可逆である事を説明するくだりが今風だなとか、紅塵が時間を超えて出力する事で計算能力を常識を超えて飛躍的に向上させるくだりに、おぉ!とかは感じた。

しかし、その先に、紅塵が大量に発生し、未来が不確定になり、世界の破滅が来る事に対して、ジェットジャガーを最強にするプロトコルを発動し破滅を防いだくだり。絵的にはジェットジャガーが巨大化して、青いツララで紅塵の象徴であるゴジラを機能停止させた。という流れに、んん?となってしまった。

過去からの置石を使って未来で救われるのであれば、一所懸命に破滅を防ごうと頑張っていたメイもユンも、ただ空騒ぎしていたという皮肉なのだと解釈した。でも、どうやって紅塵を一瞬にして消滅させたかのロジックや、特異点以降の未来予知が出来なかった理由は、私には分からなかった。いつもなら、SNSなどで考察を掘ることろだが、あまりにも不意打ち過ぎて、それすらする元気が起きなかったというのが正直な所。何回か見直せば、いろいろ紐解ける事もあるかもしれないが…。

ネガ意見ばかり、つらつら書いてしまったが、最後に本作に感じた事をいくつか。

本作は、人間ドラマを極力削り、感情や情動が事件を解決する事が無い、という世界を淡々と描いていた。その意味で、「シン・ゴジラ」とも違う。シンゴジは物語はシンプルだが、人間が持つ葛藤は随所に描かれていたし、人間が背負っているモノを描いていた。本作はそこを抜いて描いていた点が新しい。例えて言えば、作品全体が、スタートレックのスポックのような雰囲気である。敢えて、カタルシスを描かない、という姿勢が非常にクールに感じた。

主人公のメイとユンの2人の男女の描き方も面白かった。彼らは直接面会する事無く、今回の事件を深掘りできる仲間として、チャットを通じて情報交換しながら、互いに有益な情報を提供し合い、話を転がしてゆく。そこに、恋愛感情も同情も一切存在しない。先の話に通じるが、この辺りも非常にクール。

総じて、今までのエンタメの定石に捕らわれない作品造りが、本作が輝いていた点だと思う。

おわりに

今期は、シリーズ構成がクセのあるモノばかり試聴していたような気がします。

オッドタクシーは超過密サスペンスミステリーだったし、ゾンビランドサガRは各話の振れ幅が滅茶苦茶大きかったし、ゴジラSPは、物語やドラマなどで語れない不思議な手触りの作品でした。

そんな中で、スーパーカブは、女子高生でハードボイルド小説的な文法を用いた点が新しくもあり、従来のキャラクターの心情に追従するのが難しい作風で、私をかなり困惑させました。

また、やくならマグカップもは、ご当地宣伝アニメでありながら、意外にも文芸面で気持ち観られてという点で、ゆるく楽しく視聴できました。

今まで、アニメっぽいシリーズ構成に慣れ過ぎていたのかも知れない。来期もかげきしょうじょ!!やNIGHT HEAD 2014など、ドラマ畑のシリーズ構成作品も気になる様になってきており、観るのは疲れるけども、丁度面白い時期なのかも知れない、などと思いました。

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

ネタバレ全開に付き閲覧ご注意ください。

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はじめに

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観てきたので、いつもの感想・考察を書きました。

劇場版の評判を聞いて、1週間でTVシリーズを履修しての鑑賞です。なお、『ロンド・ロンド・ロンド』は未履修です。

劇場版は、迫力満点の勢いのある映像でありながら、その根底にはブレのない丁寧なキャラ描写が冴えている快作だと思います。

2021.6.26 外部リンク追記

感想・考察

大迫力に圧倒される強演出の快楽

本シリーズの最大の特徴は、少女達の激情(ドラマ)、アクション、歌の3つが密着して描かれている点にあり、その激しさ、迫力に圧倒される。

劇場版では、この迫力はTVシリーズよりも数段スケールUPしているが、例えるならガルパンの劇場版をイメージすると分かりやすいと思う。とにかく度肝を抜かれる。これで迫力不足という観客はまず居ないだろう。

主人公達は聖翔音楽学園で歌劇を学ぶ。歌、踊り、演劇を学び、舞台女優を目指している。そんな彼女たちが、体当たりで本気で芝居にぶつかってゆく姿を描く青春ドラマである。

本作の肝は、その青春ドラマが「レヴュー」と呼ばれる現実からかけ離れた舞台上で、演者たちが剣や刀や弓などの武器を持って、歌いながら戦うという不思議な設定である。この戦いでは、相手の上掛けの金ボタンを弾き飛ばせば勝者となり、敗者は勝者に何かを奪われる。教室や学生寮では仲良しでも、レヴューでは誰もが遠慮なく、トップスタァを目指して手加減無く戦う。むき出しの感情に直結したバトルアクションと、それを盛り上げる歌唱。本作は、きらら系を連想する日常アニメの面もゼロではないが、日常パートでもレヴューのようなジリジリとした葛藤が描かれる。

レヴューはTVシリーズでは、学園の地下にある固定の舞台でキャラに合わせて舞台背景が変わる感じであったが、劇場版では地下鉄が展開して舞台が出来上がったり、より凝ったギミックに驚かされる。しかも、映画館の音響設備で大音量で歌唱やSEを聞くので、その音圧で気圧される。

ダイナミックな比喩的表現

本作のもう一つの特徴が、ダイナミックな比喩的表現である。

本作では東京タワーは、華恋とひかりが幼少期に交わした、一緒にスタァライトの舞台に立つという約束(=運命)の象徴である。東京タワーが持つ巨大さ、鉄の硬さが、2人の約束になぞらえられる。TVシリーズのラストでは演劇の台本に従い華恋を突き放すひかりに対して、舞台上で東京タワーが舞台上横向きに刺さる事で、華恋の想いがひかりに届き刺さった、という視覚的演出を行う。劇場版の冒頭では、その東京タワーの上で華恋とひかりが戦い、東京タワーが滅茶苦茶に破壊されていた。これは無敵と思われた鉄の約束が、ひかりによって破棄された事を意味する。そして、映画のラストでは再び東京タワーで決闘をする。

他にもポジションゼロのT字マーク=トップスタァ、線路=人生、トマト=血肉、と言った具合で枚挙にいとまがない。

リアルで考えたら荒唐無稽で何のことか分からないが、演出意図を理解すれば、強いインパクトと共に心にスーッと染みてくる。

SNSで、本作が難解という意見も散見したが、私には、むしろ直接的で分かりやすい映像に感じた。そこには、突拍子も無いように見えても、混乱しない様に綿密に計算し尽くされた演出意図が存在している。

この演出手法は、多かれ少なかれ、映像作品では使われるものではあるが、その使い方が振り切っている。これが、本作にドラッグ効果をもたらしていると思う。

演劇(歌劇)が増幅する強演出

本作の演劇要素もまた、強演出に一役買っている。

もともと、舞台で生で芝居を演ずる演劇と、フィルムに焼き付けて再生する映像は、その性質により特徴が異なる。

映像は、観客の目に見えるモノを組み立てる。基本的に、実写は存在するモノを撮影するが、アニメは実在しないモノを描く。どちらも、編集により時系列を圧縮したり、煩雑に場面転換が出来たり、表現の制約が少なくより自由である。だからこそ、映像表現が難しいとも言える。

演劇は、映像に比べて制約が多い。舞台という空間。ライブという時間。演者という動かせるもの。そして、観客と舞台の物理的距離。しかしながら、演劇が映像に劣ったエンターテインメントとは思わない。これらの制約を生かしながらも、より面白くするための演出技術が培なってきた歴史がある(当時は制約とも思っていなかっただろうが)。例えば、俳優の演技はオーバーアクションで声量も大きい。これは、舞台と観客との距離から生まれたものであるが、歴史と共に様式美といえるまでに定着したスタイルと言える。逆に、エッセイの様な自然な日常を舞台にしたモノはあまり見かけない。登場人物の心情を拡大表現したような作風が多く、それに合わせて脚本や演出が作り上げられてゆく。

時代は、演劇から映像にシフトしたが、どちらが優れているという事ではなく、どちらも独自の良さがある。

さて、本題に戻るが、本作がテーマにしている演劇とキャラの激情を描く作風は非常に相性が良い。というのも、一般的な映像作品で激情を扱うと、逆に観客がついてこれずシラケてしまうケースがしばしばある。しかし、芝居が大袈裟になりがちな演劇をモチーフにしているため、その違和感は軽減される。例えば、日常離れしたクサい台詞でも演劇というフィルターを通す事で、カッコ良く見える。芝居が持つ様式美の様なモノがあり、その型にはめてゆく事になるが、その型が気持ちいい。その上、アニメーションとしてのバトルシーンは外連味たっぷり。カット割りは普通のアニメの文法であり、映像的にもマイナスは無い。その意味で、本作は演劇と映像のいいとこどりの作風とも言える。

本作の考察を拝見していると、日常と非日常(=芝居)の境界線が曖昧になる話が出るが、個人的には本作は、そうした芝居が作った別人格、というのは感じない。日常もレヴューで戦っている時も、全て同一人格のキャラに見えている。その点は妙なトリックは使っていなくて見易く感情移入できる。ただ、劇場版のまひるの様に、人格は同じでもレヴュー中に極端なホラーになったり、そうした意外な程の幅の広さに活用されている感じである。

2021.6.26追記

舞台オタクの方が、いかに劇場版スタァライトが舞台の文法を用いて、舞台+映像の奇跡であるかを、具体的に詳細に熱く語るブログがあり、勝手ながらリンクを張らせていただいた。私が上記に書いている演劇+映像をより具体的に感じられる非常に良いブログであり、読んで頂きたい記事です。

とてもシンプルな物語

本作は、いわゆる強演出な作風だが、逆に物語はシンプルである。高校3年生になり、進路(=人生の次の舞台)と真剣に向き合い歩んでゆく、というもの。

劇場版という事もあり、TVシリーズのファンが持つ各キャラの印象を周到し、TVシリーズを思い出せるような作りになっている。例えば、大場ななは、TVシリーズ同様、一見温厚だが実は一番の暴れん坊というイメージを尊重する。その意味では、本作はファンムービーであるのは間違いない。

しかし、TVシリーズが作って来た各キャラの問題の落としどころを、生温い予定調和と、ことごとく否定して、その先を描いている点が過激であり面白い。詳細は、後述の各キャラのところで記載するが、劇場版をしゃぶり尽くすには、TVシリーズの履修は必須であると、個人的には思う。

逆にTVシリーズは物語にトリッキーに仕掛けを持った、凝ったシリーズ構成になっている。それは、劇中劇のスタァライトが持つ物語と、華恋とひかりの物語を重ねながら、劇中劇が持つ物語を破壊して、その先を描くという力強さにあった。つまり、TVシリーズも劇場版もそれぞれ違った良さがある。その意味で、両方を味わいたい作品ではある。

キャラクター

大場ななvs真矢クロ純那双葉香子まひる

本作の一番の暴れん坊、大場なながクール過ぎて、ハードボイルド過ぎて、イカれ過ぎてて痺れる。

ななの願望により、TVシリーズでループし続けていた第99回聖翔祭。8話ではひかりが、9話では華恋がななのボタンを飛ばしてループを諦めさせる。これは、華恋とひかりの約束(=運命)の煌めきがななに勝ったという展開。この時、ななは、より良い進化と次の舞台を受け入れた。

しかし、進路を決めていた6人は、定年間近のサラリーマンみたいに守りに入っていた事に腹を立てていたのだと思う。それは、TVシリーズで進化を受けて停滞を否定した事と矛盾しない。今、この時を、このメンツで煌めきたいという強い願望。ななは物語の着火剤として非常に有効に機能していた。

花柳香子vs石動双葉

ここは完全に浮気疑惑の夫婦喧嘩。

6話では、最近素っ気ないと怒る香子に対し、一番近くで煌めきが見たいのは変わってないから、となだめる形で双葉が繋ぎとめた。

しかし、劇場版では、双葉はクロの助言もあり新国立第一歌劇団への入団を希望する。これが香子にしてみたら裏切りなのだが、喧々諤々の末、双葉の入団を認め、双葉が京都に戻ってくる事を待つ事を決心する香子。

その口論のやりとりが、双葉の表向きの綺麗ごとめいた言い訳を聞いてもびくともせず、私から逃げてんじゃないの? 的な嫌味を直球でぶつける本気度が面白い。レヴュー中のシーン毎に喧嘩の優劣が入れ替わる、丁々発止のカンフー映画のような口喧嘩の脚本が見事。

神楽ひかりvs露崎まひる

闇落ちまひるのホラー映画な恐怖。

5話で、まひるは自分には何も無いと思い込んでいたが、自分なりの輝きがある事を自覚して舞台少女を続ける事ができた。

劇場版では、突然ひかりが自主退学して姿をくらましてしまうので、その事で抜け殻になってしまった華恋の事を気遣わないわけがない。朗らか一辺倒に見えていたそのスタイルも否定し、ホラーでドスを利かせてひかるを説得するギャップに、一皮むけたまひるの本気を見た気がした。

華恋から逃げたひかりに、華恋に向き合えと助言できるところが、まひるならではの面倒見の良さの強さでもある。ひかりに嫉妬した過去もあった。華恋とひかりを身近で1年間見続けてきたまひるならではの立ち回りだった。

大場ななvs星見純那

この二人はルームメイトであり、9話で華恋に負けてループ終了してしまった時に、偉人の格言と自分の格言でななを慰めたのが純那である。

大学文学部進学という、言い訳ばかりで舞台少女を遠のけていた純那にかなりの苛立ちをぶつけ、蔑んだなな。ななの正論ながら狂気の悪役っぷりが冴える。このレヴューで偉人の格言と自分の格言をななにぶつけるが、その言葉が心に届かないと一刀両断される純那。純那に、殺して見せろ!と言われても、止めを刺さずに立ち去ろうとするなな。今思えば、その凌辱こそが純那を奮い立たせるための、ななが与えし試練だったのかもしれない。最終的に純那は、ななの脇差で舞台を叩き切り、復活する事が出来た。

その戦いは、ロジックを持たない本能と魂の叫びであり、その事が純那の脱皮だったのかもしれない。

天堂真矢vs西條クロディーヌ

(ななは例外として、)負け知らずで常にトップだった真矢。そして、常に2番手で真矢の後塵を拝していたクロ。TVシリーズで印象的だったのは、10話で華恋ひかり組に負けた時、フランス語で真矢は負けていない、と擁護するシーン。自分の敗北よりも真矢がトップに居ない事の方が重大問題であり、真矢を倒すのが自分以外という事を認められなかった。重度の真矢依存と言っても差し支えないだろう。

劇場版では、戦う前から、アニマル将棋で真矢の敗北の言葉を口にしており、二人の勝敗をひっくり返す勢いを予感させていた。実際にクロが勝利を掴んだ事がとても痛快だった。

真矢クロの戦いは、優劣を逆転しながら幾つかのターンをこなしてゆくドキドキ、ハラハラのクライムアクション。悪魔のクロに対し真矢の天使なのだが、真矢自身が空っぽの器である事が、何者にでもなれる柔軟性と言う最大の強みとして勝利を掴んだかのように見えた。しかし、その優等生ぶった余裕が逆に命取りになる。強くなるためには一度負けておく必要がある、というのは「頭文字D」の拓海の父親、文太の言葉だが、真矢のその尖った鼻をへし折る役をクロが演じきった。努力の天才真矢を努力で打ち負かしたクロ。劇場版ではなんとなくクロの肩の力が抜けていた感じがして、真矢への固執、依存が薄まっていた印象を受けた。そのしなやかさがクロの成長だったのかも知れない。

神楽ひかりvs愛城華恋

ループの張本人ななを倒したのは、華恋とひかりの2人でスタァライトの舞台に立つという約束(=運命)だったし、英語原本のスタァライトの別れの悲劇を上書きし、2人が一緒に居られる様に物語を書き換えたのも華恋がもつ約束への渇望だった。華恋の燃料の全ては約束であったが、その約束自体の重さというのはTVシリーズでは描かれていなかった。劇場版では、その部分が補足、強化された形である。

華恋は携帯ゲーム機で遊ぶ少し引っ込み思案な普通の子供であった。5歳のときに華恋はひかりは出会う。華恋は、しだいにひかりに心を開いてゆく。ひかりは、華恋が他の子供と一緒に携帯ゲーム機で遊んでいる姿を見て、演劇のチケットを渡す。そこで見たスタァライトの衝撃。ひかりと華恋はここで約束(=運命)をし、東京タワーは2人の約束の象徴となった。

その後、ひかりの所属する劇団アネモネに入団するが、ひかりはロンドンに引っ越し離れ離れに。置き去りにされた華恋は、その約束だけを胸に芝居に打ち込み児童演劇で主役を務めるなどの活躍を残す。約束が最優先であり、そのために一般的な生徒達が放課後にだらだらと過ごす時間は犠牲にした。他人からはストイックでカッコよく見られた華恋だが、ひかり本人からの連絡はない(親からの連絡はある)ため、ひかりがどのように過ごしているか分からない。もしかしたら約束を忘れてしまっているかも知れない、という不安を抱きながらも、演劇に打ち込むしか出来なかった。「神楽ひかり」を何度か検索しようとして止めている。ひかりからの連絡を待つからだが、時が立ちすぎていて不安になる。ついにスマホで検索してしまうが、ひかりはロンドンの王立演劇学院に居るらしい。共に頑張っている事はここで知る。ここまでで、白馬に乗った王子様を待つ乙女の完成である。

あの約束の日、華恋が煌めいてしまった事は、ひかりが仕掛けた事であり、ひかりが責任を取るべきではないか? と思えてしまう。華恋が一般人として生きるレールから、舞台少女としてのレールにポイントを切り替えたのは間違いなくひかりである。

また、華恋の空っぽさも強調されていた様に思う。本作では演劇の天才真矢が、何色にも染まっていない=何者にもなれるから強い、というニュアンスの描かれ方をしていたが、これが華恋にも共通すると感じた。だからこそ華恋は強いのではないだろうか。

果たして、高校1年の5月14日、ひかりが転入してきて第100回のスタァライトをひかりと華恋は共演する事が出来た。これがTVシリーズである。

しかし、ひかりは理由を告げずに聖翔音楽学園から姿を消す。その時に劇場版の冒頭のレヴューがあり華恋が負けた。そして、ひかりと一緒という進路を見失った。

劇場版の冒頭で、ひかりが逃げた理由は、まひるとのレヴューの中でひかりの口から語られる。「ファンになってしまうのが怖かったから」と。この台詞は意味深である。ファン=好きになる=ライバルで居られなくなる、という意味だと思うが、恋愛になぞらえて恋に落ちてしまう事への歯止めに思えなくもない。あるいは、自信家のひかりのプライドが許さなかったのか。いずれにせよ、ひかりは保身に走って華恋から逃げた。

取り残された華恋は行き先を見失う。皆が進路を決める時期に進路希望は白紙のまま。列車に乗り、運命の赤い糸に手繰り寄せられ砂漠の東京タワーに辿り着く。

一方、ひかりもロンドン地下鉄から、運命の赤い糸に手繰り寄せられ、途中ひまりに負かされて、砂漠の東京タワーに辿り着く。

未来をかけて向き合う2人。演者としての自信に満ち溢れているドヤ顔のひかりに対し、不安顔の華恋。幼少期に観た2人だけの約束のスタァライトの再演。しかし、突き放すように戦いを挑むひかりを前に、舞台の重圧で潰れて死んでしまう華恋。どうすんのこれ? と思いながらも、落下、ポジゼロ人形化、再生産、で生き返る華恋。やっと言えた最後の台詞は、ひかりに勝ちたい。

離れ離れでありながら、狛犬の様に一対の存在であったひかりと華恋。とくに華恋はこれまでひかりにすがって生きて来た。その共依存を断ち切り、真剣勝負のライバルとして未来を開けた事の清々しさ。

TVシリーズは東京タワーの鉄の約束(=運命)の力の強さが牽引してきた物語ではあったが、その約束に対する思い入れが具体的に描かれない事を惜しいと感じていた。記号の強さに対して、その理由の説明が弱かったと率直に感じていた。それは、TVシリーズを詰め込み過ぎたために描ききれなかった2人の背景。劇場版でそこを補完し、サラっと、でも力強く描いてくれたことが非常に嬉しかったし良かった。

参考情報

古川監督のインタビュー記事が良すぎたので、リンクを列挙しておく。

キリンが「分かります」と言いながら実は分かっていない件。キリン=観客なわけだが、他人事には思えなくて、TVアニメを見る時に先の展開を考察しながら見てる自分が「分かります」になっている。実際には、自分の先読みは50%も当たらないし、考察屋、批評家=キリンだと感じてた。

劇場版=ヤンキーマンガの件も感じてて、この感想に書こうとしていたら、書いてる途中でインタビュー記事が先に出てしまった。

TVシリーズでは、華恋の描きが足りず、舞台で華恋役の小山百代さんも悩んでいた、という下りが非常に印象的。製作したアニメが演者にストレスを与え続け、それを解放するために続編の劇場版のディレクションが決まる下りがジーンとくる。

おわりに

私としては、1月の「ジョゼと虎と魚たち」「ウルフウォーカー」から、5ヶ月ぶりの映画鑑賞でしたが、非常に満足度が高い作品でした。

強演出作品は、脚本の善し悪しに関わらずノリで観れてしまうモノですが、リピーターがそれなりに居るという事は、ドラマ=キャラ描写がブレなく筋が通っている脚本である事の証左でもあると思います。

劇場版が公開されてから、TVシリーズを履修したにわか組ではありますが、当時何故この作品を見ていなかったのが不思議な気持ちです。

99期生の9人は全員好きですし、何より華恋とひかりをキチンと描いてくれた事が、とても嬉しく思いました。