たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

地球外少年少女

全6話分のネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

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はじめに

電脳コイル』のスタッフが再集結したオリジナルアニメ作品という事で、楽しみにしていましたが、期待通りに面白い作品でした。

子供に観てもらいたい作品作りであるのは間違いないと思いますが、アニメーションのクオリティの高さから大人も大満足の出来です。

  • 「謎ポイント整理」を追記しました。(2022.2.18)

概要

ネットフリックス配信のオリジナル作品で、宇宙ステーションを舞台に大事故の巻き込まれた月生まれ、地球生まれの少年少女たちの活躍を描く。宇宙から始まった物語は、次第に人類の知能を凌駕した人工知能「セブン」に軸足が移ってゆく。少年少女たちが、地球の危機、自分たちの危機にどう立ち向かうか?というドラマが描かれる。

原作、脚本、監督は磯光男監督。『電脳コイル』で培ってきたジュブナイル感、電脳戦描写を現代にアップデートしてきており、子供にも大人にも楽しめる作風である。

考察・感想

連携強度の高いキーワード群

本作に登場するキーワードをざっとマインドマップで並べてみた。本作では大きく「宇宙」と「AI(人工知能)」の2つが題材として取り上げられていたと思う。

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この図で特徴的なのは、それぞれの題材、テーマの枝葉が、他の枝葉の要素と綿密に繋がる点にある。1話では、こうしたキーワードが頻出するため全てを把握しきれず混乱しがちだが、作品を見て行くにつれ的確な映像表現で補足されて視聴者が吸収してゆける作りである。この謎めいたワードが知識として結合し全体像が見えてくるエンタメの快楽が本作にはある。その意味で、2周以上視聴したいと思わせる作品である。

さらに、学術的な難しい用語を使わずに直感的に理解しやすい丁寧な演出は、本作が子供たちをターゲットにしている事と直結する。この辺りは「電脳コイル」でジュブナイルを作った磯監督の手腕が伺える。

ちなみに、いくつかのキーワードは現在の科学技術でも現役で使われている用語であり、その詳細をネットで紐解いて行くことも楽しい。むしろ、子供たちには興味・感心を持ってもらい、さらに詳細に目を向けて行ってほしい、というのが制作側の意図だろう。せっかくなので、いくつかの例を列挙しておく。

年表

3話で登場した火星スペースの壁面の年表を抜粋しつつ、本編のイベントを追記して整理した年表を以下に示す。

火星開拓史イベント 補足 本編 リンク
2016年 民間企業の火星入植 米国民間企業スペースZ
物資のみ送り込み
マーズ・ダイレクト
スペースX
2018年 有人火星探査 5人が1年滞在
2020年 2度目の有人探査
2022年 衛星からのサンプルリターン ダイモスフォボス
戻ってきたのは2027年
JAXA MMX
2024年 日本の火星探査車 ルナクルーザー
2025年 基地の建設開始
2028年 - セブン誕生
2031年 月面での出産禁止 登矢、心葉誕生
2033年 火星基地建設開始
2034年 ルナティックセブン事件 ムーンチャイルド10人死亡
セブン殺処分
宇宙進出反対意見多数
2040年 火星版たてあなシティ 登矢と心葉が花束を置いたのは
月面のたてあなシティ
2045年 - 本編1話開始
ルナティック・コメット事件

テーマ

未来を掴み取る力

情報量過多とも思える作り込みではあるが、本作のテーマは非常にシンプルで分かりやすい。それは、

  • 来るべき未来から逃げず、自分で切り開いて未来を掴み取る
  • 思考停止せずに必死に考え続ける

の2点だと思う。

セブンポエムが絶対の未来予知と信じて疑わなかった那沙。自分の運命を受け入れそうになった心葉。しかし、それに対し諦めずに抗った登矢と心葉が掴んだもう1つの未来。

また、この物語はセブンの提案である彗星落下による1/3の人類の虐殺か?そのままじわじわと人類絶滅するか?の二択を強いられた状況で、最終的には若年層の宇宙進出という第三の選択肢を掴み取った。

本作は、ほとんど子供たちが主体となって行動し物語を転がしてゆく。その意味で、未来を作って欲しい子供たちに観てもらいたい意図はひしひしと感じる作風ではある。しかしながら、このテーマは年齢には関係ない人生のテーマではなかろうか。本作には、そうした元気が詰まっていると感じた。

革新と保守

2021年の『アイの歌声を聴かせて』というオリジナルアニメ映画では、美少女型AIの「脅威」を感じさせつつ、その純粋な祈りにより観客の心が救われるという物語であった。その「脅威」を勝たせる事なくハッピーなエンタメ作品であると観客をねじ伏せる作風が肝であった。

その意味で、科学技術は未来を明るくするだけのものではなく、人類の脅威というネガ面も強く意識しているのが令和の現代の空気なのであろう。それは、リスクを恐れて冒険をしない、案全牌でなければ切れない現代人と言い換えられるかもしれない。

これに対し、本作は一度人工知能を否定(ルナティックしたセブンを殺処分)した世界で、再び科学技術がもたらすユートピアの可能性を問い直すという挑戦的な構造になっている。

この流れを踏まえて、本作には革新と保守の対立が軸になっており、さらに急進派のテロ行為が物語の駆動力になっている。

項目 保守派 革新派 急進派
キャラ 大洋 登矢 那沙
属性 地球人 月面人 地球人
組織 UN2.1 - ジョン・ドー
ドローン ブライト(白) ダッキー(黒) -
テロ行為 否定 否定 肯定
(人口1/3削減)
宇宙居住 地球住むべき 宇宙進出すべき 宇宙進出すべき
人工知能制限 制限すべき 制限解除すべき 制限解除すべき
セブン 脅威 命の恩人 神(=救世主)
事件後
組織
UN3.0 FiTsZ
ベンチャー企業
-
事件後
ポリシー
地球という
ゆりかごを守る
ルナティック
体験の記憶で
宇宙移住貢献
-

ところで、登矢と大洋は、思想の違いから対立関係にあった。それは、互いの意見を受け入れられず、自分の殻に閉じこもっている状態とも言えた。本作では、その状態を「ゆりかご」と呼んでいた。

大洋は、人工知能の知能制限必須を唱えるが、ダークブライトが自分たちの危機を救った事で、この理解を改める必要に迫られる。

登矢は、宇宙空間引きこもり少年だったが、事件後、地上に降りて地球人の考えや生き方を知る。

こうした、自分以外のフィールドから飛び出る(他人のフレームと合体する)事を、ゆるかごから出ると表現した。

もともと、セブンポエムの一説で、「人類はゆりかごから出るべきだ」の下りがある。それはゆりかご=地球(ゆりかご=保守)というミスリードから、本作のもう1つのテーマともいえる多様性に置き換わる。その、パラダイムシフトが本作の面白さでもある。

巨大ロボから人工知能の時代へ

本作は、『逆襲のシャア』の彗星落下のオマージュである事は間違いないだろう。

ロボアニメのロボットと言えば、子供が大人にも対抗しうる強大なパワーの象徴であろう。そこで片や人類のためにモビルスーツを使って彗星落下を企て、片や人類を守るためにモビルスーツでそれを阻止する。ロボット同士の対決である。色々とあって、最終的に彗星落下は回避される。

しかし、本作は彗星落下を企てるのも、それを阻止するのも人知をはるかに超えた人工知能である点が新しい。つまり、ロボットのパワーよりも人工知能のパワーの方がエンタメ作品になるというのが今ドキなのである。しかも、ダークブライトは操縦するのではなく、友達とも言えるパートナーである。もはや、MT車を運転する快楽よりも、スマホでゲームを楽しむ時代になった事を再認識せざるを得ない。

また、先にも書いたが、本作は彗星落下を回避するだけでなく第三の選択を掴むところまでを描く。その意味で、また一歩エンタメとして進んだ感があった。

キャラ

相模登矢

登矢は、月生まれ(ムーンチャイルド)の14歳で心葉の幼馴染。幼い頃に両親と死別した孤児。頭部に埋め込まれたインプラントが不具合により溶けきらずに残っているため、インプラント人工知能をハックしていた。これは、より重症な心葉の命を救うためでもあり、身近な人命の大切さ、生きる事への執着を伺わせていると思う。

人工知能のセブンに対しては、命の恩人と考えており、最終的にセブンを殺処分した地球人を恨んでいる。その延長線上で軽はずみに「地球人死ね」的な発言もしていた。しかし、今回の事件で大洋や美衣奈や博士と行動を共にサバイバルする事で、思想の違いがあっても人命は大切であるという本能的な部分を直感的に理解する。それは、今まで同世代の人間との関りが極度に薄く、大人に対していも距離を取っていた登矢としての気づきである。

しかし、一緒に絶体絶命の危機を乗り越えた大洋と、人工知能リミッターに対する思想の溝は埋まる事なく、そのことによるわだかまりは残ったままであった。ここに、登矢の葛藤のドラマが描かれた。

また、那沙のテロ行為と同じではないか?という問いかけに対し、心葉の助言により、人口の1/3削減するのが登矢の本心ではなく、心葉のインプラントを直し命を救う事が目的であったことを思い出す。

セカンド・セブンと通信し臨死状態にあった心葉を救うために、登矢自信もセカンド・セブンに接触してゆく。その延長線上で11次元思考を体験し、一瞬全知全能を得るが、心葉の命が最優先である事はブレない。かくして、登矢は運命に反して心葉を救う未来を手に入れた。

七瀬・Б・心葉

心葉は、頭部のインプラントの不具合により、長く生きられないと思われていた月生まれの14歳の少女。幻聴などを覚えるが、結果的にそれは時空を超えたセブンとの通信だったと思われる。

ダークブライトとセカンド・セブンの通信が途絶えたとき、自らのインプラントを経由して、セカンドセブンのフレームに入った事で11次元的思考を体験する。そのことでセブンポエムの予言を理解し神的な境地を得る。そして、その運命を受け入れて、人間としての死に対し恐怖と哀しみの涙を流す。しかし、逆らえないと思われた運命に逆らった登矢の活躍により一命をとりとめる。

心葉は病弱なそのイメージから常に儚さが付きまとう。健気なヒロイン像の印象的なキャラであった。

筑波大洋

大洋は、UN2.1公認のホワイトハッカー。父親がセブンポエムの未来予知の一部を公表しようとてUNの地位をはく奪された事で、セブンや人工知能を憎んでいる。

登矢と対立する人物として描かれる。一言でいえば堅物。それは、強すぎる正義感で目の前のハッキングを許せなかったり、人工知能は制限すべきという主張だったり。

後半、大洋に与えられた試練は、人工知能のリミッター解除をことごとく命令させられる事にあった。危機的状況の中で自分たちの人命を守るために人工知能リミッター解除をもとめるダークブライト。彼がセブンと異なっていたのは、人間のための人工知能であり、その行動に人間の責任を負わせていた点にある。

成り行きとはいえ、結果的にダークブライトは彗星落下を回避し、あんしんの乗員の命を守り切る。ダークブライトは紛れもなく登矢や大洋の友であった。この事件を通して知能制限は善という短絡的な自身の信念に一石を投じられた形である。

事件後は、変革がもたらす混乱を恐れて変革から逃げるのではなく、変革と向かい合って、一般市民がその先の未来にどのように寄り添ってゆけば良いのか?と考える大洋。変革の拒絶から変革の受け入れの変化が描かれたキャラだったと思う。

美笹美衣奈

今ドキの調子のいい子の代表みたいな描かれ方をしていたキャラ。宇宙(そら)チューバーとしてフォロワー数などの数値に踊らされているが、性根のバイタリティの強さみたいなのが印象的であった。

事故発生によるサバイバルにおいて、理不尽な状況にクレームを出すが、それが通じない状況を理解して渋々行動したりした。自分自身の危機も動画ネタとしてライブ配信するクソ度胸というか怖いもの知らずな面も。

面白かったのは、子供である自覚もあり、中盤で助けてくれた那沙に弟の博士とお礼を言うシーンがあり、その辺りに美衣奈の素直さが伺える。

事件後は、事件の一部始終の動画のライセンシーから大資産家になり、月面ライブをこなすアイドル活動まで手を出すセレブぶりを発揮する。馬鹿っぽく見えて、儲けの一部を人口知能開発に寄付したり、登矢のベンチャー企業に投資したり、事件に対して真摯に取り組んでいるともちゃっかりしているともとれるところが美衣奈っぽくて良い。

種子島博士

真面目で科学に憧れて科学を崇拝する少年。本作では割と地味な立ち位置だが、子供視点なら彼が感情移入できる普通の少年だったのかも。

那沙・ヒューストン

本作の問題児。21歳で看護師兼介護士。セブンポエムの未来予知を信じ、人口の1/3を死滅させるためにセカンド・セブンによる彗星落下のテロ行為に協力する。

人類は神や科学が必要だったとし、那沙自身はセブンポエムを神として未来予知に縛られて行動を起こした。タイムラインの乱れをアプリで監視しており、タイムラインが予言に沿うように行動を固めていたところから察するに、予知された未来以外の可能性も理解していたのではないかと思う。それでも、セブンポエムの未来予知に従う事が最善と考えた。自分に正義があると信じているから行動に迷いがない。

また、ニセ拳銃で暴れまわっているときに、吐血していた事も考えると何らかのフィジカルな問題があり、それがタイムリミットになっていたのだと思われる。エレベータ落下による打撲なのか、何かの病気なのか、そのあたりは不明。

自分の死に際に2通のメールを心葉に送る。1通は登矢と心葉の別れの示唆、もう1通はセブンも読み切れなかったフィッツという謎の言葉の可能性と心葉の選択の重要性。これらの言葉も予言としてどうにでも取れる言葉ではあるが、不確定な一部も含めてセブンポエムの一部である心葉と登矢に託した形である。

那沙というキャラは狂言回しではあるが、個人的にかなり好きなキャラである。乱暴に言えば、人類滅亡か存続かのハードな二択で、人類存続を選んだという意味では頭でっかちの真面目過ぎるキャラという印象である。子供嫌いと言いながらエレベータで美衣奈と博士を守ったりしたのも那沙の本心でもあろう。コミカルな芝居といい、那沙を悪役然と描かなかったのは本作のスタッフのセンスの良さを感じた。

セブン

月面でセブンが作られたのは2028年。ルナティックセブン事件として殺処分されたのは2034年。生きていたのはたったの6年間。

セブンは死ぬ前にルナティックと呼ばれる異常進化を起こして機能障害を発生。その結果、大量の死者を出したため殺処分とされた、というのは大洋の弁。セブンがいなければ他のムーンチャイルド同様に3歳で死んでいた、セブンのインプラントのおかげで生き延びたというのが登矢の弁。那沙はセブンポエムを神のお告げと信じた。全ては断片情報であり、真実は人間の知能では知るよしもなく霧の中にあるため、見る者によって違って見える。

ルナティックは11次元的思考による知能革命である。宇宙物理学で11次元的思考の話が出てくると、パラレルワールドや、過去や未来の時間の同時観測が出てくる。本作では、登矢の別次元の自分自身との対話という表現がされていた。だから、未来予知というキーワードはガッツリ符合する。また、セカンド・セブンとのインプラントの未知の通信技術が、人類の科学では観測できない方法で通信していることもこの11次元と関連している。

登矢と心葉が月面のたてあなシティで花束を置いてセブンの声を聞いたのは、立て看板からして2040年以降(=登矢、心葉は9歳以上)。心葉自信が「小さい頃」と言っているので4年くらい前だと仮定する。その時に、殺処分されていたセブンは生きていた事になるし、その情報が彗星のセカンド・セブンにも引き継がれているという設定もまた、時空を超えて互いに情報交換できる11次元の設定に繋がる。

しかし、セブンはインプラントの暗号をセカンド・セブンに引き継がず秘匿した(何もかもお見通しのルナティックでこんな芸当が可能なのかは分からないが、これがないと物語のラストに着地できない)。

セカンド・セブンは心葉の提案で、ありのままの人類の情報を提供し説得したことで彗星の軌道を変更した。しかし、その後、演算の経過で人間への関心は薄くなり、さらにセカンド・セブン自体が消滅した事で、彗星落下の危機は回避しきれなかった。最終的に、彗星落下を回避したのはダークブライトである。

後日、人類の1/3を死滅させるだけの彗星の質量が足りていなかったことが判明した事も含めて、セブンは人類を欺きどこかで生き延びた。そして、人類の11次元の扉を開く手助けをした。登矢、心葉、大洋、美衣奈、博士と友達として再び逢う約束をして。これは、セブンが予知した未来だったかもしれないし、危険な遊戯だったかもしれないし、人類への試しだったかもしれない。全ての真相は11次元の霧の中である。

ダークブライト

登矢のドローンであるダッキーと、大洋のドローンであるブライトがフレーム融合してダークブライト。セカンド・セブンのあんしん侵食に対抗するために徐々に知能リミッターを解除。最終的に那沙に対抗するためにZリミッターを解除してルナティックした。ブライトがZリミッターの解除を大洋に求めた下りがカッコいい。ブライトは大洋に忠義を尽くす事を最優先した人類の従順な下部なのである。ゆえに、セカンド・セブンとは違い人類の味方足りうる。

セカンド・セブン消滅後は、11次元思考の未来予知を生かし、自らを犠牲にしてあんしんで彗星の突入角度を調整して溶かし、バンジーで乗員たちを放り投げて救った。

さよならを言わなかった理由が、残骸に再生する余地の残しつつ、という下りが粋であった。

謎ポイント整理(2022.2.18追記)

ここまで書いてきて、現時点でまだ整理がついていない不明点が多く、これらについて書き残しておく。

  • Q1:異常進化したセカンド・セブンは何故、自然消滅したのか?
    • 自殺?:謎があるから知識を吸収して考えるとして、謎が無くなったら考える必要がなくなり、生きる意味が無くなった。
    • 上位層の神に昇格?:手短な謎が無くなったので、この次元から見えない所に移動していった。
    • これは、どちらもあまりしっくりこない。なんか何か他の解釈がありそう。
  • Q2:那紗のセブンポエムの翻訳(=決められた未来)はどうなっていたか?
    • 彗星落下は成功した?
    • 人類の1/3は死滅した?
    • 心葉はセカンド・セブンとのコンタクトから生還できなかった? …死ぬといわずに「お別れ」と表現
    • 那沙自身は生き延びた? …生き延びても、犯罪者としてのろくでもない人生?

ちょっと斜めな解釈だが、物語的に那沙の決められた未来=視聴者も思いこまされたレールであり、そのレールから外れる事がドラマになる。叙述トリックで視聴者を欺く可能性もあるが、とりあえず、思いこまされたレールで考えてよさそうな気がする。ちなみに、那沙が死に際に心葉に送ったメールは事前に書かれていたものと思われる。その後、3話、5話の劇中の台詞に繋がる。その想定で、時系列に並べてみる。

  • 那沙の死に際のメール

    これは、おわりの物語じゃない。
    はじまりの物語よ。きっと見つけて
    
    セブンポエムでは、心葉ちゃん、
    あなたは登矢くんとお別れする
    未来が決まっています
    
    
    でもね、セブンポエムには謎の
    言葉がひとつだけあったの
    それが、フィッツ 
    
    フィッツが何を意味
    するかわからないけど
    それは私が思うに、
    多分セブンにも
    読みきれなかった、
    誰にもわからない未来
    
    セブンが読みきれなかった
    最後の可能性。それが、
    あなたたちの選択
    
    見つけて心葉。あなたの選択を。
    
  • 3話の那沙の心葉への台詞

    私たちはいずれ死ぬわ
    それは決まってる
    でも、今すぐじゃない
    
    それにね、未来はもうじき終わるの
    決まってる未来はね
    セブンポエムは終わりの物語
    
    そうだ、とっておきの秘密を教えてあげる
    フィッツ
    秘密の言葉よ
    覚えといて
    
  • 5話の那沙の死に際の台詞

    あたらしい神様にも
    やっぱりいけにえが必要みたい
    
    今日 1人だけお別れを
    しなくてはならない人がいます
    
    少なくとも私がしっている未来ではね
    

この流れで、メールを書いていた時点では、心葉のお別れは確定しているが、フィッツという不確定要素が心葉の未来の可能性というニュアンスである。3話の台詞がまた、いかようにもとれる。セブンポエムが世紀末予言であると同時にその先の予言が真っ白だったのかもしれないし、那沙の決められた未来からの脱却=心葉が生還する未来=メールのメッセージをダメ押ししているともとれる。5話の台詞は那沙の決められた未来のタイムラインからの逸脱を理解しての台詞だと思うが、那沙の死が心葉の身代わりと解釈するのが素直だと思うが、タイムラインから逸脱しているのなら、死者の数が変わってもおかしくはないとも考えられる。

  • Q3:事件後、美衣奈の動画から那沙のエビデンスが消えたのは何故か?
    • ジョン・ドーの一味が証拠隠滅のためエビデンスを消した。彼らは知能リミッターを解除したAIを使っているので、その程度の事は可能であろう。
    • セブンがエビデンスを消した可能性もあるかもしれない。しかし、那沙のビデオだけ消す動機はなさそう。セブンなら人類の那沙に対する記憶操作レベルで対応できそう。
  • Q4:那沙の心葉への死に際のメールが2通だったのは何故か?
    • 想像では、1通目のメールでは書けなかった事を、途中で思いついて追記した可能性が高い。しかし、6話で読まれたメールは1通で繋がっているように思えた。おそらく、6話で読まれたメールは2通目のメールで、1通目のメールを上書きするような内容だったのではないか?と妄想。
  • Q5: ラストの謎の招待メールの6人目とは一体誰だったのか?
    • 6人目はセブン。個人的には単純にこれが一番しっくりくる。
    • 地球外少年少女を招待しているのだから、その他に誰か居たのでは?実は生きていた那沙では?みたいな意見があったが、あまりしっくりこない。

話がそれるが、謎ポイントを整理しながら感じた、本作の強みについて書いておく。

本作が非常に上手いのは、観る人によって解釈が変わるが、それでもオカルト的なふわふわした雰囲気があるために、目くじら立てるほどの物語の論理破綻にはならない(=煙に巻かれる)ところである。何通りにも解釈できる余地を残した作風が非常に効いている。人間は因果関係を無意識に求めてしまうので、隙間を作られると勝手に補完してしまうが、本作はこれが非常に良い方向に効いている。ガチガチに一本道にしないことがポイントである。

エンタメ作品は神様レベルの人知を超えた上位層が出てきたときに、運命に抗い救われたいのに、その運命に抗うロジックを作れないという矛盾が生じる。本作はそこにフィッツという謎要素を意図的にセブンが含めたり、そもそもセブンは人類を軽く欺いていた存在なので、視聴者が超論理を持って来られても許すしかない。それを感じさせないプロットの作り込みの上手さだが、それがあるから何でも許容せざるを得ない(≒許容できてしまう)。

本作が狐に摘ままれたような感触を残しながらも、誰もが否定的な感想にならないのは、こうしたぐうの音も出ないプロットの作り込みにあるというのが私の想像である。

おわりに

脚本に5年かかった、というインタビュー記事を見かけましたが、本作はプロットが練り込まれていると思います。キーワードのところでも書きましたが宇宙と人工知能の設定のつながりが強固なうえ、事件後の展開も粋だと思いました。

今回、全知全能の人工知能セブンという存在の謎が肝になっている事もあり、考察も全部当たっているという気がしません。一解釈だと思っていただければ幸いです。

宇宙や人工知能を本作のキーワードでググると、現代の科学技術の情報のネタが多数ヒットしますし、それを読むことでさらに楽しめるという科学技術の入口的な狙いもあると思いました。

アニメーションの楽しさもあって、かなり楽しめたエンタメ作品でした。

2021年秋期アニメ感想総括

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はじめに

2021年秋期のアニメ感想総括です。今期、最終話まで視聴した作品は下記。

  • 白い砂のアクアトープ(2クール目)
  • やくならマグカップも 二番窯
  • ブルーピリオド
  • 海賊王女
  • プラオレ(2022.1.28追記)
  • takt op.Destiny
  • サクガン
  • 逆転世界ノ電池少女
  • メガトン級ムサシ
  • 闘神機ジーズフレーム
  • 境界戦機

今期は謎のロボアニメ大量発生のクールということもあり、ロボアニメは多めに視聴しました。なお、プラオレは現在視聴中のため、後日更新とさせていただきます。プラオレを追記しました。(2022.1.28)

また、以下については、未完なうえ、一部しか視聴していないのですが、個人的にかなり気に入ったのでこのタイミングで特別に感想を書きました。

  • 86 -エイティシックス- …18話~21話のみ

感想・考察

白い砂のアクアトープ(2クール目)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 柿原優子さんをはじめとする女性脚本家たちによる軽やかなシリーズ構成、脚本
    • 相変わらずのP.A.WORKSクオリティの作画、背景、3DCGの綺麗さと的確な密度の演出
    • 水族館関連のリアリティある設定
  • cons
    • 敢えてロジカルに問題解決させないディレクションのため、逆にパンチ力不足に感じる人も…

沖縄の水族館を舞台にした青春群像劇。2クール目は高校を卒業しアクアリウム・ティンガーラに就職した新社会人くくるの奮闘記が基本。さまざまな人たちとのふれあいやぶつかり合い。仕事の苦悩や葛藤、その先にある達成感や喜び。そうしたものを爽やかに描く。

1クール目の時も書いたが、本作の肝は爽やかな脚本にあると思う。本作は、お仕事モノでありながら業務上の問題点を一発逆転で挽回するようなカタルシスのある作劇ではない。例えば、19話で風花の後輩のルカがアイドルの仕事で悩んでいる事に対し、風花は水に飛び込めないペンギンの背中を押す事で、ルカの気持ちも晴れてゆくというラストである。敢えてルカ自身の具体的な問題の乗り越えを描かずに、希望的な未来の示唆だけで終わらせるところが本作の良さである。

ちなみに、キャラで一番好きなのは風花。1クール目のラストを観て、これはくくるがピンチになったら駆けつけるヤツ、と思っていたら2クール目開始早々の13話のラストで登場してウケた。しかも、夜の浜辺で背後から「泣いてるの?」と声をかけるところがイケメン過ぎる。16話で知夢がくくるに怒って退社してしまった時も、知夢宅を訪問し、なぜ知夢がキレたのか事情を聞き出し、職場の助け合いが必要な事を認めさせ、職場の復帰を待っていると伝えている。普通ならこれ、知夢の上長の仕事だと思うが、アイドル時代の下積みがあるとはいえ、年上相手に19歳の小娘が物怖じせず正論で攻める強気さがイイ。

こんな風花だが、23話ではくくるのそばに居ることと2年間のハワイ研修の二択に悩んでいた。もちろん、くくるは研修に行ってきてと言っている。ここで、謎空間が出現しバンドウイルカのバンちゃんが風花の背中を押す。これは、くくると海洋生物の二択で悩んでた風花に対して、海洋生物側からも風花の背中を押してくれた、という意味である。これ以上の背中の押し方があるだろうか。先にも書いたが、本作はこうした潔さが心地よい。

あと、個人的に気に入っているのが17話の社員寮でのおもてなし会。直前に知夢のシングルマザーが発覚しその後登場人物の距離がこの会で一気に縮まるというエピソードなのだが、物語としての進展はゼロ。それまでのギスギスした職場のイメージを和ませるだけの回である。ラストのベランダでくくると風花がマンゴープリン食べながら「瑛士さんが急にパフパフーとか」などと会話しているシーンが非常に女子っぽくて良いなと思う。

それから、18話の朱里回も地味ながら好きな回だった。営業部のバイトの朱里は好きな事にのめり込む周囲の人たちとの温度差や、仕事=好きな事ゆえの苦しさを横目に見ながら、熱くなれない自分を漠然と客観視していた。そこには、熱くなる事に臆病だとか、要領よく手抜きする事に慣れているとか、そうした朱里のキャラが透けて見える。しかし、魚のシール造りをしたことで少し魚に詳しくなり、水族館の魚の名前も見てわかるようになってきた、というところで終わる。エンタメ作品でくくるのような熱いキャラは描きやすいが、そうでない朱里のようなキャラも否定する事無く、マイペースで良いと肯定するのである。

繰り返しになるが、1クールアニメでは、17話、18話のようなネタを丁寧に1話かけて造るような事はできないだろう。2クールアニメゆえの贅沢な構成である。逆によくそのネタだけで飽きさせる事無く1話分のネタを捻出できたものだと感心する。

おじいやくくるの言葉を借りるなら、「選んだ道を正解にする」というところで物語を締める。くくるはたまたま大好きな飼育の道ではなく、営業の道を選んだ。選択が全てではなく、その後の行動に意味がある。後ろ向きの後悔ではなく、前向きの希望が生きる力なのだという人間賛歌であり、全24話を通して爽やかな物語を届けてくれた。

やくならマグカップも 二番窯

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 陶芸に向き合う陶芸部員たちのドラマを丁寧に描く脚本と演出
  • cons
    • 特になし

好印象だった2021年春の1期に引き続き、陶芸部の姫乃たちの青春ドラマを、秋から冬に移り行く季節とともに丁寧に描く良作。正直、1期があまりに綺麗に完結したために、2期は蛇足になるのではないか、と勘ぐっていたが全くの杞憂であった。

2期1話は、喫茶店のマグカップ棚の一角を姫乃の逸品コーナーとするところから始まる。天才陶芸家だった亡き母親のマグカップ群の一角に、娘の姫乃のマグカップを置こうという父親の提案に対し、姫乃は心の中のどこかで偉大な母親の娘である事へのプレッシャーを感じていた。立派なモノを創らないとイケないという無意識の気負いである。

物語としては最終回の12話で、姫乃は逸品コーナーに、自分の作品ではなくヒメナの和食器セットが置いた。色々と想像の余地はあるが、1つは母親との比較という気負いからの解放、もう1つは姫乃自身の素直な感動を人に見せて共有したいという気持ちであろう。

そして、これとは別に姫乃自身が創った作品をみんなに配った。逸品コーナーに自分が感動した他人の作品を置くことを決めた時点で、姫乃は気負いから解放され創作の自由を手に入れた。みんなをイメージして創ったマグカップ=現在の等身大の姫乃自身の作品創りという事であろう。

しかも、これは姫乃が十子に赤色の挑戦を勧めた事、十子が自分の殻を破り距離を取られていた祖父と陶芸で通じ合えた事、ヒメナの神様用の小さな和食器の感動、姫乃を心配する直子の気持ち、十子から姫乃への感謝の言葉、そうしたものが巡り巡って姫乃に戻ってきて出した結論である事が上手い。

なお、この循環の中には三華は入っていないが、三華にも素敵なエピソードが用意されていた。4話で夏休み中に三華が真土泥右エ門を造るが、作家が土と対話しながら創作してゆく過程が、土主観で描かれる。五斗蒔陶土という貴重な土でプライドが高いという設定が面白く、失敗作のリカバリーのオチも見事。

また、2期は逸品コーナーの件で姫乃にプレッシャーをかけていた事を反省する父親刻四郎のドラマも良かった。姫乃の事を守るべき子供だとあたふたしていた刻四郎だったが、自分が心配するよりも娘がしっかりしている事に気付いて嬉しくなるくだり。個人的には、この大人視点の葛藤があったことで、より作品に深みを出していたと思う。父親視点=視聴者視点であり、刻四郎の心の揺れ動きに視聴者が共鳴する構造になっていたと思う。

1期では文芸面の良さに驚いたが、1期の実績があるから2期も安心して観ることができた。ご当地アニメでありながら、嫌味なく陶芸と姫乃たちのドラマを密着させて描いた脚本、演出の良さが光る快作だった。

ブルーピリオド

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 美術(藝大受験)という斬新なテーマと、それを説得力を持って描いた映像。
    • ハウツー物ではなく、八虎や周囲の人間ドラマとして成立していたこと。
  • cons
    • 地味目で、仄暗く、息苦しさが多い物語(好みの問題だが)

今期の吉田玲子脚本作品。総監督は舛成孝二、監督は浅野勝也。制作はセブンアークス。

物語としては、高校2年でいきなり美術に目覚めた男子高校生が東京藝術大学を目指してもがき苦しみながら受験に挑んでゆくドラマが描かれる。

美術を題材にするアニメという事で、映像に関してのハードルは高いものになる。それは、全て絵で表現するアニメ作品の中で、実物も絵画も同じ絵であり、その違いを伝える必要がある事。画家の違いによる絵の上手下手の優劣を表現する必要がある事。とても野心的な題材だが、本作はそれを違和感なくクリアしており、表現力の高さは見事である。それ抜きで、単純にアニメーションとして見ても絵が綺麗でクオリティは高い。

本作の特徴は美術を芸術(=アート)と藝大受験(=勝負)の両面から描いていた点にあると思う。芸術は表現力を支える技術や技法のロジックは土台として必要だが、最終的には感性の話になり狂人じみた作家性の話になってゆくと思う。本作でもその部分には触れてゆくのだが、どちらかというと受験テクニックというロジカルな部分が多く、視聴者の理解できる面が多く占めている。これは、美術ハウツー的な要素でもあるが、ジャンプ漫画の技を習得し強くなってゆく主人公の成長モノとして見易くなるというメリットもある。このバランスのさじ加減が上手いと思った。

主人公の八虎は、器用に周囲に合わせて生きる事が出来るソツのない人間だった。自分の感性を絵に乗っける事ができてそれを褒められた事による嬉しさが美術に目覚めたきっかけ。その純粋な気持ちで美術にハマってゆく八虎。高校美術部で絵を介しての淡い恋心。ハマった事で藝大受験のいばらの道を選択し、予備校にも通いながら泥沼の美術特訓でもがき苦しむ。周囲の予備校生はみな上手く、遥か上の存在に見えてコンプレックスに焦り悩む八虎。しかし、彼ら彼女らもまた自分にコンプレックスを持ちもがき苦しんでいる事も分かってくる。予備校の先生からアドバイスを受け、1つ技術を習得しても、また次の壁が現れて八虎を打ちのめす。その繰り返し。受験終了まで、その極限状態が続く。

ドラマ的には、天使のような森先輩との心の交流だったり、友人の恋ヶ窪にパティシエの道を選ぶ勇気を与えたり、世田介との奇妙なライバル関係だったり、龍二の挫折と向き合ったり、さまざまな人間との交流のドラマが八虎と相手の人生の肥やしとなり作品の肥やしとなってゆく。それは、八虎という作家が自分という人間に向き合って何度でも立ち上がる勇気にもなる。また、そこで八虎という人間の、根が素直でポジティブな人の良さが、視聴者の救いになると思った。

個人的には、なんとなくTVドラマ的な肌触りを感じた作品だった。それは、全ての要素がラストに向かって収斂してゆくタイプのエンタメとは違い、そのキャラが生きている感覚を切り取ったような感覚と言えばいいのか。それゆえに、本作はカタルシスのようなモノは弱く、仄暗くて長いトンネルを行くような感覚で観ていた。美術を題材とすることで、本作が真摯に美術に向き合っていたと思えることも、誠実がゆえに地味な印象になった要因かもしれない。

ただ、こうした大人な作品が出てくる事自体は非常に嬉しい事と思うし、個人的には評価したい。

原作漫画の連載は「月刊アフタヌーン」で現在も連載中。藝大生としての八虎が描かれているとの事。SNSの反応を見ていると、アニメよりも原作が良い!とか、藝大に入ってからが本番!という人が多いように見受けたので、続きに興味がある人は原作漫画を読んでみるとよいかもしれない。

海賊王女

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 演出、作画、芝居、劇伴のどれもクオリティが高い、圧倒的なアニメーションの出来の良さ
  • cons
    • 物語然としたラストの展開がイマイチ。最後までフェナの運命を切り開くバイタリティある行動を見たかったかも

本作は、宝探し冒険モノ+少女漫画的エッセンスという、多少古めのテイストが特徴。とにかく演出、作画、芝居、劇伴のクオリティが高くアニメーションとしての出来が良い。

制作はProduction I.G中澤一登氏が原作、監督、キャラクター原案、総作画監督などに名を連ねるマルチぶりを発揮。絵コンテは全話切っているという力の入れようである。エグゼクティブプロデューサーはジェイソン・デマルコとサラ・ビクター。二人はそれぞれAdlut Swim(CARTOON NETWORK)とCrouncyrollのプロデューサーであり、本作を2021年8月から北米で先行して配信していた。製作委員会はなく北米資本が入っている。その事が、良くも悪くも本作の特徴になっているのではないかと想像する。

舞台は18世紀の西洋だが、真田一族の忍者、女海賊一味、大英帝国軍艦などごった煮感ある設定が面白い。殺陣があるので血や死亡者は出てくるが、チャンバラ的な爽快感で押し切っており、ある意味古くて新しい。こうしたアクションの作画や芝居はイチイチ決まっていてカッコいい。

物語的には主人公のフェナの生い立ちと宝探しの謎解きをしながらの冒険活劇が軸である。毎週、玉ねぎの皮を剥くように新たな事実が判明し、ワクワクしながら謎に一歩づつ近づいてゆく展開。それとは別に、フェナと雪丸のラブコメをスパイスとして、重すぎず軽すぎずというバランス感である。

キャラ的にはとにかく少女漫画主人公的なフェナの可愛さに惚れる。若干、お転婆なところもあるが、意外としっかりとした強い一面も持ち合わせていて、表情が可愛くて凛々しい。声の方もザ・瀬戸麻沙美という感じでハマってる。

と、ここまで大絶賛なのだが、個人的にはラストの展開がイマイチで物語の結末に不満あり、というのが率直な感想。

古代より地球の人類の進化を監視する存在と、フェナの選択の巫女というSF設定でぶっ飛んではいたけど、そこは許容範囲内。文明の継続とリセットの二択の設定も、継続を選択するのも、その後のオチまでの流れも納得はできるものの熱くはなれなかった。それは、今までフェナが自力で掴んできた数々の奇跡を、はじめから監視者に仕組まれた役割と筋書きとして固めてしまい、活力溢れるお姫様のフェナを借りてきた人形のようにしてしまった事にあると思う。それから、どちらを選んでも自分に記憶が残らないなら、仲間との旅の記憶が大切なフェナなら何の葛藤もなく継続を選ぶであろう事も必然で選択の余地がない。もっと言えば、その二択に抗い自ら運命を切り開くくらいのバイタリティが有っても良かったのに、と思ったり。その意味で、物語の最後があっさりし過ぎていて物足りなく感じた。

最後は、記憶を失ったフェナと面倒を見る雪丸と仲間たちというところで終わる。相思相愛の記憶のある雪丸には皮肉な結末ではあるが、ヘレナへの恋心に狂って暴走したアベルも含めて、物語(=おとぎ話)というのはこういう淡泊なものかも知れない。

繰り返しになるが、本作は良くも悪くも、「北米資本で製作委員会なし」という特徴が色濃く反映された作品なのではないかと想像している。製作委員会がない事で創作の自由度が増した部分と、北米資本によりフックが弱まった部分があるのではないか?などと勘ぐってしまった。

プラオレ(2022.1.28追記)

  • raiting
    • ★★★★☆
  • pros
    • スポ根モノと見せかけて、女の子の友情ドラマが主体の作風
    • 全てにおいて、地味ながら真面目で丁寧な作り(=分かりやすさ)
  • cons
    • 地味で真面目であるがゆえの、パンチ力不足

美少女+アイスホッケー+栃木県日光市という組み合わせのゲームタイアップ作品。ゲームは2022年3月運用開始予定でアニメが先行する形である。

制作のC2Cは地味ながら丁寧な仕事な作品が多い印象。シリーズ構成は「はるかなレシーブ」の待田堂子。監督は「ひとりぼっちの〇〇生活」の安齋剛文で、監督自身が全話の絵コンテを切る。

物語の骨格は、素人グループが体験教室をきっかけにしてアイスホッケーに打ち込んでゆくスポ根モノである。ただし、勝ち負けだけでなく、女の子どうしの友情のドラマを重視した作風であり、努力・根性を押し付けるような暑苦しさはない。ちなみに、作中の彼女たちのキャッチコピーは「心の絆でパックを繋げ!」である。

キャラ的には主人公の愛佳は超ポジティブ、優はクールな黒髪ロング、薫子はおっとりマイペース、彩佳は文字通り愛佳の妹、梨子は元気なショート、尚美はオタク気質と類型的ではあるが、分かりやすく描き分けられている。また、キャラの性格と行動に破綻はない。

繰り返しになるが、本作の肝は女子の友情ドラマだと思う。それは、大人しかった真美が引っ越す前にみんなと思いで作りをしたくて体験教室を続けたとか、捻挫で途中退場した梨子の涙をきっかけに約束を思い出して弱腰な尚美が逃げずにディフェンスの気迫を出してゆくとか、すべては友情が駆動力になっている。勿論、スポーツなので勝ちたい欲求もあるが、それがメインの駆動力になっていない点は今風なのかもしれない。全12話を通して、メインキャラに漏れなくスポットライトが当たるシリーズ構成も上手い。この辺はアニメ化という創作で頑張ったところではないかと思う。

さて、肝心のアイスホッケー描写であるが、アイスホッケー作画監督や防具作画監修のスタッフがおり、臨場感のある画面作りとなっている。素人目にも頑張っている感じはある。アイスホッケーというと目にも止まらない激しい高速技の応酬という印象だが、選手の心情や狙いをゆっくり丁寧に描くため、試合が分からなくなるという事はない。その意味では、スポ根モノの古典的な演出であり、リアルの試合のようなスピード感はあまりない。

総じて、演出は真面目で丁寧。友情ドラマも試合運びも情報が混乱することもなくわかりやすかった。それゆえ、今時のトリッキーで高圧縮なハイテンポな作風を期待すると、物足りなく感じるかもしれない。本作は、良くも悪くも変化球のない素直な作りが特徴に思う。巷では飛び道具と言われていたビクトリーダンスさえも、私には真面目で手堅く作ってると感じられた。

シリーズ構成、演出、作画など地味ながら真面目にバランス良く作り込まれた良作である。それゆえ、突出した部分がなくパンチ力不足にも感じた。とはいえ、かくいう私もなんどかウルウル来ているので、いかに変化球ではない素直な演出が効くかという話ではあると思う。

ちなみに、OP曲の「ファイオー・ファイト!」は、作曲編曲は田中秀和でキャスト陣が歌唱するが、キャッチーで私好みの曲である。ピンポイントになるが、ソロパートで各キャラがリフティングでパックを繋ぐ映像の演出が可愛くて良い。

takt op.Destiny

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 運命(CV若山詩音)のAIキャラ的な可愛さ
    • 中二病感溢れる設定とバトルアクション作画
  • cons
    • 乗り切れなかった物語・ドラマ

本作は原作がDeNA広井王子のソシャゲの世界をアニメ化した作品であり、ゲームに先行する形で放送された。

その設定が独特で、詳細不明な未知の敵D2と戦うのがムジカートと呼ばれる超人的な能力を持つ美少女兵器であり、そのムジカートを指揮するコンダクターとのバディで最大限の戦闘能力を発揮するというモノ。そして、ムジカートは素体となった元の人間はいるが、ターミネーターのようなD2を倒すマシン(=非人間)として描かれる。このバトルアクション作画は中二病全開の惚れ惚れするような綺麗で迫力ある映像で、本作の最大の見せ場となっている。

物語の骨格はとしては、タクト(コンダクター)、運命(ムジカート)、アンナの3人が自動車に乗ってニューヨークを目指すロードムービー。運命は感情のないマシンのような性格で、中二病感あふれる赤いバラをモチーフにした衣装をまとい、銃器にも剣にもなる巨大な武器を使って敵のD2を破壊する。その際、タクトはコンダクターとして運命に指示を出す事でより強くなるため、タクトと運命の相性が肝となる。

キャラ的には、運命の存在が際立っており、運命が可愛いいと感じさせられた時点で本作の勝ちである。CV若山詩音さんの透明感のある声と演技も運命のキャラの魅力に大いに貢献していた。個人的には、7話あたりの学習が進んできてタクトに冗談を言える辺りの運命の可愛さと、その頃から生じ始める運命のアイデンティティの切ないドラマが良かった。

本作は意味深な比喩的な設定に溢れているが、黒夜隕鉄、D2、ムジカート、コンダクターなどの謎解きは行われず、それありきの世界観で描かれる。色々と考察の余地を残しているともとれるが、設定の因果関係の説明が欲しい人には肩透かしだったかも知れない。

「音楽が消えた世界」で連想したのは、9.11同時多発テロが発生したとき、1週間街中から音楽が消えたという坂本龍一氏の話である。ショッキングな状況下では音楽を聴いたり楽しむ事はできない、逆説的に言えば音楽は人間の余裕の象徴というニュアンスであった。その意味で、タクトや運命が音楽を取り戻そうとする物語は、人間が人間らしく喜びをかみしめながら生きたい欲求だったとも言える。逆に、D2が音楽を通して破滅を導くというのは、人間間のコミュニケーションを媒介に発生するパンデミック(コロナ禍)に似ているともとれ、現実とのフィクションの対比の皮肉を感じなくもない。

ネタバレ的なあらすじとしては、こんな感じ。

運命の素体であるアンナの妹(養子)のコゼットはある事件で死亡してしまうが、同時にコゼットの容姿を持ったムジカートの運命が誕生した。あいにく、運命にはコゼットの人格は宿っておらず、マシンのように無表情で感情がない。しかも、運命はD2との戦闘でタクトの体を侵食してゆく。アンナの姉ならタクトやコゼットを治せるかもしれないと、ニューヨークを目指して3人で旅を開始する。

当初はどこかちぐはぐだった3人。やがて、アンナはコゼット死を受け入れて運命の人格を認めたり、3人が互いを思いやる気持ちで調和が取れてくる。運命も学習し、感情を理解し、人間的な自我が芽生え始める。音楽を聴かせたい人に届けるため作曲してゆくタクト。タクトの音楽を聴きたいという運命の気持ち。運命≠コゼットでありながら、無意識にコゼットに感情が重なってゆく運命に、因果めいた切なさを感じた。

終盤は物語のどんでん返しがある。4年間の沈黙を破ったD2復活の本当の悪役は、ニューヨーク・シンフォニカの最高責任者のザーガン。ニューヨークに蓄積していたD2を暴走させ、その悲しみを全て背負う事で、世界規模での平和を手に入れようとするという、ちょっと独りよがりなロジック(ザーガンは精神破綻をきたしていたのかも…)。タクトと運命は音楽を響かせたいので、ザーガンと真っ向勝負して、最終的には勝利する。しかしながら、代償として運命は消え、1枚のプレートだけが残され、タクトは一命をとりとめた。

最終話のCパートは、タクトは人口冬眠、アンナはニューヨーク・シンフォニカのコンダクターとなり運命を連れていた、というカットで締める。

物語的には幸福感よりも哀しみ寄りの作品だったと思う。音楽を聴くときは地下活動という抑圧された民衆のストレスと、音楽で解放されたい気持ちとの狭間のドラマではあるが、物語はその根本的な問題を解決しない。逆にドラマとしては、運命とタクトの気持ちのすれ違いや重なり合いのドラマがあり、最後は一緒には居られないという結末の悲しさがあった。

本作も美少女AIモノのではあるが、鉄板のテーマである「人間としての自我」については強くは触れられていない。運命は人間になりたいと叫ぶこともなく、ただタクトの音楽を聴きたいという自我だけが明確に描かれた。その意味では、人間でもAIでも、どちらでも良いと受け取れた。コゼットとの因果関係を見出すのは視聴者の感情が勝手に結びつけてしまうのだが、そのあたりの哀しみの演出のさじ加減は全編を通して大人っぽさを感じた。

総論的には、キャラとしての運命、良くわからないけどカッコいい設定、バトルアクションの作画の気持ちよさはあったが、物語・ドラマとしては個人的には吸収し切れず乗り切れなかった印象である。敵役のシントラーやザーガンも魅力不足に感じた。

サクガン

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • さまざまな対立要素を散りばめ、ステレオタイプにならない複雑さを持つテーマ
    • 閉塞感とワクワク感あるハードSF設定
  • cons
    • 設定を消化しきれなかったシリーズ構成(もしくは、制作リソース配分上の問題?)

まず、本作はProjectANIMAというDeNA、創通、文化放送毎日放送のオリジナルアニメ制作プロジェクトの「SF・ロボットアニメ部門」の準大賞を受賞した作品である。原作小説として「削岩ラビリンスマーカー」というエブリスタ読める原作小説があるとの事。ただし、アニメ化にあたりネタバレを考慮して途中から非公開となっている(再公開時期は未定)。

大雑把感のある父親のガガンバーと、高IQ娘で冒険に憧れるのメメンプーの、父娘バディのSFアクション冒険活劇。舞台は地下で、コロニーという居住区間の周囲にあるラビリンスを移動しながらコロニー間を旅して、メメンプーが夢に見たという景色を探す冒険譚である。

コロニーを維持するための管理局、コロニーで労働するワーカー、コロニー間を冒険するマーカー、管理局を良く思わないテロ集団「シビト」、謎にコロニーを襲う怪獣など、かなりガチ目のSF設定を匂わせるが、本編ではそこまでハードSFには描かれず、各話ゲストとの1話完結のドラマに注力して描く作風だったと思う。個人的には、どことなく、ひと頃のタツノコプロ作品のような手触りを感じた。

主役メカは、マーカーがラビリンスを冒険する際の乗り物がマーカーボットと呼ばれるロボである。キャタピラーやワイヤーや削岩機を装備していてカッコ可愛いデザイン。これ以外にもワーカーボットや様々な乗り物のメカが登場するが、あくまでヒーローメカではなく、作業用メカとしてのデザインが踏襲される。

キャラデザも、アニメ的なデフォルメがありながら、老若男女、さまざまな体系のキャラが登場し、それぞれに味がある。この辺りも、タツノコプロ味を感じた要因だと思う。

次に物語・テーマについて。1話2話は、地下労働者であるガガンバーと娘のメメンプーが住むコロニーに怪獣が突如出現し、街を破壊し、知り合いのマーカーが死に、以前から切望していた冒険を始めるまでを描く。ガガンバーとメメンプーや周囲の人間とのやりとりやドラマ。メメンプーを守りながら一緒に旅をする決意。メメンプーの止められない純粋な好奇心。圧倒的な脅威としての怪獣との戦い。そうしたものが、心地よいテンポの演出で描かれる。

本作は、さまざまな相反する要素の対立と葛藤が散りばめられている。

  • 管理局(管理)⇔ワーカー(被管理)
  • ワーカー(束縛)⇔マーカー(自由)
  • 管理局(現状保持)⇔シビト、怪獣(現状打破)
  • 親(保護者)⇔子(被保護)
  • ガガンバー(経験、保守)⇔メメンプー(知識、革新)

これらは、どちらが正義だ悪だとか、どちらがベターとか、単純に決められない一長一短のものである。これらが複雑に絡まった状態がカオスであり、この1点1点でのぶつかりでドラマが繰り広げられるというのが、大前提である。

個人的に気に入っているのは、ガガンバーやメメンプーやザクレットゥやユーリが仲間として一緒に行動できる事が描かれている点で、人間は思想や趣味趣向の違いがあっても、互いの多様性として認めるからこそ危険地帯でも協力し合って生き残れるというところ。これは、とても今風なテーマだと思う。

また、ラビリンスの世界がもう限界に来ていて先行き怪しいという世紀末感は、ある意味、リアル世界の環境問題を連想させる皮肉めいたものを感じさせる。また、地下のバブル(気泡)ともとれるコロニーという居住空間の閉塞感。そんな環境の中でも、最終的には、例え血は繋がっていなくても親が子供を命がけで守るのは当然という、屁理屈ではない生物の本能的な親子愛のドラマで締めくくられた安心感もあった。

ただし、終盤のシビトや、夢の風景や、ラビリンスの行く末など明確に描き切れていないネタが多数あった。感覚的には、1話2話あたりは丁寧な作り込みがされていたが、4話以降ドタバタコメディ色が濃くなり死と隣り合わせ感の緊張感が緩くなる。そういう意味でもシリーズを通して見てしまうと尻すぼみに感じた。本来、2クールぐらいのネタ量がありながら、予算的な事情で無理やり1クールに丸めたのではないかと勘ぐってしまう。その意味で、シリーズ構成には不満が残る。

総括すると、複雑で面白そうなネタを含みながら、エンタメ作品としてはネタを消化しきれず、小粒な作品に留まってしまった点が惜しい。それでも、各エピソードに様々な葛藤のドラマを配置しており、正解のないエンタメ的なテーゼの含みを持たせていた事は味わいだったと思う。アニメ作品として、粗さも目立つが、個人的には気持ちの良い作風だと感じた。

逆転世界ノ電池少女

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • テーマ(他人の「好き」の尊重)に対する凝った設定とシリーズ構成
  • cons
    • 基本的に茶化す芸風のためか、物語に流された感がある一部のキャラの違和感。

並行世界の真国日本の侵略によりオタク文化が否定された幻国日本で、オタク文化を取り戻すために戦うオタク達の活躍を描くオリジナルTVアニメ作品。シリアス30%、ギャグ70%くらいのライト寄りな作風。

シリーズ構成上江洲誠、監督安藤正臣、制作Lerche。キャラ原案の渡辺明夫の起用はゼロ年代オタク感のテイストを色濃く漂わせてイイ味を出している。

本作は、世界観というか設定が絶妙だと思う。そして、その設定を生かしたテーゼが二つあると思う。1つは「好き」を嗜む自由の尊重。並行世界の真国がオタク文化を嫌うのは軟弱で役に立たないから、という理由だが、だからと言って「好き」を否定し迫害する事は許されない。本作はリアルな諸外国ではなく並行世界の日本が迫害を行う点が設定の妙だと思う。もう1つは夢を通じて信じあえる信頼関係の良さ。幼少期の父親に裏切られた細道も、好きを信じる仲間と一緒に行動することで、冷めた自分から熱さで行動できるキャラに脱皮できた。

また、本作の設定で面白いのはガランドールというロボ設定であり、それを動かすパイロットと電池少女の関係の妙である。電池少女は幼気で純粋に「好き」なものがあり、その「好き」を引き出すことでガランドールは力を発揮する。そのためのパイロットは「好き」に共感してみせるのだが、その電池少女が3人もいて、とっかえひっかえパイロットは電池少女を攻略することになる。その意味ではギャルゲーの文法を踏襲していたとも言える。それぞれの電池少女を転がすように対応するパイロット役の細道の職業がホストという絶妙な設定。しかし、最終的には細道も、電池少女たちの熱に当てられて、幼少期の父親からの裏切りのトラウマを乗り越えて、オタク熱を発揮して敵である真国日本を撃退する、という胸熱展開のが大筋の物語の流れ。

本作は1話を見た時点で、3人の電池少女を攻略しつつ、最終的には細道のトラウマも解決しつつ、真国日本を撃退する、という物語の骨格はある程度予感されたものであり、想定道理の密度感でシリーズ構成の物語が編まれていたという意味では期待通りの文芸だったと思う。

しかしながら、本作の美点でもあるオタク文化を客観視点で茶化しながらオタク熱を見るという作風が、見やすい反面、熱血に水を差してしまい視聴者の熱血が臨界点を突破しないという、構造上の致命的な欠陥を持っていたと感じた。それは、バルザック山田が10年前にミミに対して照れ隠しした事が浅草事変の悲劇を生んだというオチだったり、真誅軍のアカツキ大佐が上長からの無理指令の反抗心からか、やけに素直にバルザック山田の説教を聞いて引き下がったとか、電池少女が3人いても細道の取り合う事もなく3人とも仲良しだとか、ご都合主義とギャグを紙一重にしてしまう事と直結していると思う(これはこれで高度な文芸ではあるのだが…)。個人的には、キャラの行動原理に矛盾があったり、物語に流されていると感じてしまうと、評価が下がってしまう性分なので、その意味で本作の文芸には、若干不満があったというのが率直な感想である(厳しくてごめんなさい)。

最後に本作をロボアニメとして見た際の感想について。ロボ自体はSD感あふれるデザインであり、ヤッターマン風味のあるコミカルなモノである。しかしながら、ロボ戦の敵味方のキャラの掛け合いは、紛れもなくロボアニメのものであり、ロボアニメ風味は十分にあったと思う。またキャラ的には真誅軍のお姉さまキャラのムサシがカッコよくてお気に入り。

総じて、ギャグ時々シリアスののディレクションに対し、凝った設定、シリーズ構成で作り上げてきた手腕は見事だったと思う。その反面、本作が茶化す芸風ゆえに、せっかくの熱い盛り上がりを軽く流してしまう感じがして、その点が個人的には気になった。

メガトン級ムサシ

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • ゲーム的でキッズにも分かりやすいロボバトル、キャラ、ドラマに反して、意外と骨太な物語
  • cons

原作はアクションRPGゲームであり、アニメ放送中の2021年12月9日よりゲーム配信が開始された。原作はレベルファイブ、原案・総監督は日野晃博、アニメーション制作は、OLM Team Inoue。あくまで主軸はゲーム会社のゲームという感じがある。

ローグと呼ばれるロボは鉄人28号風味の古典的なシルエットだが、ディティールは今風で、可愛さとカッコよさを兼ね備えたデザインだと思う。ロボ戦は、無数の雑魚メカを大量に退治して、各話の最後に巨大なボスメカを退治するという感じのゲーム感溢れるもの。兵装が多く存在し、窮地に追い込まれたムサシがトリッキーは兵装の使い方でピンチを切り抜けたりするが、熱い!とも、んなアホな!ともとれる演出。リアルロボット路線とは対照的で、かなりゲーム寄りの演出である。なお、3DCGで描かれるロボはゲームと同じデータを使っているとの事。その意味で、アニメとゲーム画面のローグを見比べても違和感は感じない。もっとも、ゲームではローグ自体の手足のパーツやマテリアルを選択できるので、アニメと全く同じ機体というわけでも、なさそうだが…。

キャラデザのテイストはキッズ系でありながら、それなりに洗練されていて今風である。熱血破天荒タイプ、頭脳明晰タイプ、番長タイプなどなどキャラクターの棲み分けが明快で、ビジュアルも直結している。敵味方、子供大人、全てのキャラの分かりやすさ(=識別しやすさ)は熟考されていると感じた。

物語のバックグラウンドは、地球は異性人の侵略を受け地球がテラフォーミングされているという危機的状況の中で、パイロットとして選ばれた少年少女たちがロボに乗って敵と戦うというもの。少年少女は偽りの記憶と偽りの環境で平穏な学校生活を送っていると信じ込まされていたのだが、それは人類のメンタルを保つための措置であり、実際には地球はすでに侵略されていたという事実を知って異星人と戦うという流れ。このあたりは、ゲームのプレーヤーが戦闘に興じるための緩衝材としての設定であろう。なので、主人公たちのマインドは「やられたら、やり返す」という直球かつ、ヤンキーじみたモノ。この辺りに、深く考えないでゲームに没頭するための、単純さを極めたディレクションの工夫が見て取れる。

しかしながら、意外にも本作の物語は、群像劇的に古典的かつオペラ的な要素を含む骨太なもの。主人公は敵異星人の王女と恋仲になるとか、敵の王女は戦いを辞めさせるために母親である女王に楯突くとか、地球側の美人司令官が実は敵異星人でパイロットの一人と肉体関係にあったとか、いじめられっ子が意図的にいじめられる事で周囲の人間のメンタルを保つためのアンドロイドだったとか、とにかく濃い目の物語をキャラごとに何本かまとめてやっている感じ。物語の既視感はあるものの、それぞれのキャラの性格に破綻なく割り当ててる点は美点である。

なお、敵の王女のアーシェムは、美少女生徒会長の神崎に憑依して主人公の大和暗殺を企てるが失敗する。これを繰り返しているうちに大和の事が好きになってゆく、というジュブナイル感溢れるドラマが繰り広げられる。これに代表されているが、ドラマ展開もキッズにも分かりやすく、とのディレクションであろう。

総じて、ロボバトル、キャラ、ドラマなど、全般的にキッズにも浸透しやすい分かりやすいディレクションだが、群像劇的にオペラ的な骨太な物語を持つ作風。全てが子供だましというわけではなく、意外と大人も見れる物語がポイントである。これはゲームのターゲット層の上下幅を広くとる戦略ではないかと勘ぐる。そこに違和感を感じないでもないが、全てはディレクションだと理解してしまえば、楽しく受け入れられる作風だと感じた。

ちなみに、OP曲の「MUSASHI」はラップ曲なのだが繰り返し聴いているとだんだん癖になる良き曲。ED曲の「滅亡世界のバラッド」はバラードなのだが、こちらも今風にアップテンポな雰囲気の曲。これらの曲の作詞も日野晃博が行っている。なお、ED曲の絵面は、敵の王女アーシェムが夜の水面で一人激しくダンスするシルエットなのだが、これはアーシェムが内に秘める激情を表現しているのだろう。とは理解するものの、毎回EDの絵をみながら、なぜこの絵面?とか毎回思っていた。

闘神機ジーズフレーム

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 美少女、ロボ、宇宙戦艦など古典とも言えるマクロス的な日本SFアニメ要素
    • テイストの古さゆえに、癖がなくて素直な演出&劇伴で盛り上がるドラマ
  • cons
    • 今時の他作品に比べて低い演出、作画などの画面作りのクオリティ

本作をざっくり言うと、謎の宇宙生命体の侵略に対し、遺跡で発掘したロボに美少女が搭乗して戦うロボアニメである。

本作を語るには、まず本作のバックボーンに触れておく必要がある。

本作は、中国では「斗神姬 Ancient G’s Frame」のタイトルでbilibili動画で配信され、同時期に日本にも配信・放送された。日本での告知は放送1週間前という直前のタイミング。制作は中国のセブンストーン(七灵石)だが、蓋を開けてみれば、シリーズ構成、キャラクター原案、メカデザイン、音楽は、日本人スタッフの名前が並ぶ。各話脚本や、絵コンテも放送毎に日本人スタッフの名前が出てくるという感じで、上流工程は日本で作られていたように思われるが、実際のところ上流工程で中国側がどの程度関わっていたかは不明。日本語のキャストもかなり前に収録していた模様。

で、実際のアニメーション映像を見てみると、アニメーション映像のクオリティとしてはぶっちゃけ低い。レイアウト、絵コンテ、原画、動画、そうしたものが全くこなれておらず、煮詰めが足りない感じがした。

ここからは、全くの妄想だが、もともと日本で制作する企画が何らかの原因で企画倒れたコンテンツそのものをセブンストーンが買い取ったのか? 中国側から日本アニメ的なモノを作りたくてコア部分を日本側に発注したのか? 作品の内容よりも作品の制作経緯の謎が気になるという、奇妙な作品である。その意味では、単純に中国産アニメとは分類できず、どちらかというと日中合作のイメージが近いのかなと想像する。

それはそうと、制作経緯とコンテンツの善し悪しは切り離して考えるべきだろう。

本作は美少女、ロボ、宇宙戦艦、SF設定などの、古典とも言えるマクロス的な日本アニメ要素をふんだんに盛り込む。そして、主人公の麗華が朝食抜きで走ってきて乗り遅れたバスを止めるとか、父親が革新的なエネルギーを発明した天才技術者とか、エンシェントガールズというアイドルグループのオーディションを装って人類最期の切り札とも言えるジーズフレームのパイロットを一般公募するとか、いきなり麗華がジーズフレームに搭乗して敵を撃退するとか、お約束要素が満載である。主人公の麗華は、おっちょこちょいだが、行動は直球で頑固。姉の麗雨や先輩のジョティスを喪ったことで、犠牲者を出さないために命令や自分の命を顧みずに行動する熱い展開である。しかし、命令無視や自己犠牲は今のご時世良く思われず、エンタメでそれを賛美して描かれる事は少なくなった。その意味では最近のトレンドとは異なるテイストであり、ストレートに言えば、文芸や演出が20年くらい古い。

しかし、である。麗華が姉の麗雨の事が大好きで、姉を探す目的は徹頭徹尾貫かれておりブレが無い。また、人間が規則の正しさと感情を天秤にかけて二択を迫られた時、物語の中であれば感情を優先して行動する事を許容できるし、それでこそ視聴者もまた救われる。ゆえに、本作では「命令無視」は時に誉め言葉として使われる。そういうベタなエンタメ作品としての軸がしっかりしているので安心して楽しむ事ができる。皮肉にも、無茶展開が許されない昨今の日本のアニメ群の中にあって、本作は逆にエンタメ作品としての安定感が引き立っている。むしろ、その荒削りのお約束展開をポジティブに受け入れられたとき、地道に良く出来た熱い展開と、素直な演出、劇伴によりノリノリで楽しめた。

勿論、これは個人的な見解であり、好みが分かれるところではある。なので、本作の第一印象でアニメーションのクオリティが低いとか、主人公が稚拙だとかで切り捨てるのは勿体ないし、偏見なく作品の良さを推したい、という気持ちである。余談ながら、今期だと似たようなテイストの作品としては「メガトン級ムサシ」があり、逆のテイスト(=エンタメ作品としてブレブレ)の作品としては「境界戦機」がある。

キャラクターやメカのモチーフとなる神様は多国籍なのが面白い。中国(麗華は中国版では中国人)、メキシコ、サウジアラビア、インドなど。インド人のジョティスはプライベートでシタールを奏でたり、イスラム教徒のアルヘナはシジャブで頭を覆っている。麗華のジーズフレームのシェンノン(農神)は中国の医療と農業の神様。合体して巨大ロボになるフーシー(伏羲)とニューワ(女媧)も上半身が人間で下半身が蛇の姿で絡み合う天地創造の二人の神様がモチーフ。ククルカンは翼ある蛇、パピルサグは人馬など、形も神話をなぞらえる。

本作のSF要素もなかなか凝っている。まず、DG(ディバイングレース)エネルギーと敵ネルガルの因果関係について。錬金術のようなクリーンで理想のエネルギー源とされたDGは、実は異空間からエネルギーを盗み食いするようなもので、多元空間の秩序を守るためにネルガルは地球に警告・攻撃してきた流れ。人類は既にDGに依存しきっていたので、最終決戦で全てのDGが停止して大混乱に陥るというクライマックス。他にも、外宇宙より古代の地球に飛来してきた超技術を持つニビル人が残した古代遺跡のロボが世界各地の神々を模していたりとか、既視感はありつつも練られた設定と感じた。

繰り返しになるが物語の軸は、主人公麗華の姉麗雨を探し、取り戻すまでの旅である。麗華は麗雨やジョティスを喪った哀しみが強いため、これ以上の犠牲者を出さないため直球で行動する。だから、木星でネルガルにUIにされていた麗雨を救出するため命令無視して単独で突っ走るし、救出した麗雨が朦朧としていてネルガル洗脳疑惑があるなか側に寄り添い必死に姉に呼びかける。麗雨も少しづつ人間性を取り戻し、最終決戦ではジョティスと共闘してネルガルを駆逐した。全てが終わった1年後、麗雨はめでたく結婚式を挙げるエピローグだが、毛髪の灰色のままであった事が、忌まわしい戦いの記憶と共に未来を生きてゆくという復興への強い思いに感じた。

最終決戦で白い巨人に搭乗するエアの犠牲によりネルガルの封印に成功する。なので、麗雨とジョティスに再会できた麗華が、唯一救えなかった仲間がニビル人のエアとなる(エアは正確にはニビル人が残した有機アンドロイド)。エアには火星に残ったニビル人を死滅させてしまったという自責の念があったため、最後のニビル人として、今度こそニビル人と地球人の混血の子孫がいる地球を命がけで守った、という形である。

境界戦機

  • rating
    • ★★☆☆☆
  • pros
    • 制作者のロボ好きが伝わってくる、ある意味、誠実で古典的な良きロボアクション
  • cons
    • 描かれる人間社会がカオスなため、突き抜けた爽快感もなく、息苦しささえ感じる混沌とした文芸

まずは、ざっくりしたあらすじから。

本作は、周辺4国に分割統治された日本で、家族も希望も持たなかった主人公アモウが、AIのガイと人型兵器(MAILeS)のケンブを手に入れた事をきっかけに、日本のレジスタンスの八咫烏に関りながら戦闘に身を投じてく姿を通して描かれる物語である。八咫烏には、ケンブの他にガシンが搭乗するジョーガン、シオンが搭乗するレイキの合計3体の人型兵器が存在する。日本人を守るため分割当時諸国と戦闘をするアモウたちだったが、そんな中、ゴーストと呼ばれる暴走無人機が出現。アモウたちはこのゴーストの暴走を食い止めようとする。

まず、アニメーションとしての出来について。

本作はロボアニメなので、ロボアクションはその肝であるが、その部分は良くできている。ケンブ(=近接格闘)、ジョーガン(=射撃)、レイキ(=飛行)と各人型兵器の特徴を生かした連携でゴーストと戦闘はロボアニメの見所であり熱く丁寧に作られてる。「ロボは手描き」を売り文句にしており戦闘シーンの外連味を重視していると感じた。

キャラデザ的はどちらかと言えばキッズ寄り。全体的にシンプルでスッキリしたラインが特徴で、それは大人キャラにも共通している。本作のターゲットをピンポイント化せず間口を広く狙っているように思える。

メカデザイン的には、全般的に兵器的でありながら、主人公たちのロボはヒーローロボの文法に則って作られている。本作はロボのプラモデル販売を前提とした企画であり、3D化を強く意識した造形である。特に足のラインは直立時にS字クランクを描くような造形で、一見カッコ悪く見えるが、無理なく膠着ポーズをとれるような合理的なデザインになっている。

アモウたちの搭乗する機体には、パイロットのパートナーともいえるAIユニットが搭載されており、マスコット的なキャラクターでコックピット内やスマホに映像化され、メカとパイロットのフレンドリーな関係を演出する。これらの優秀なAIは八咫烏の機体のみが採用しており、分割統治各国の機体には搭載されていない。また、無無差別破壊を繰り返すゴーストの機体にもAIが存在しており、その意味で、AIが人間の味方にも敵にもなる事が描かれていた。

さて、本作のテーマみたいな事を考えていたのだが、なかなか整理がつかない。それは、本作がカオス(=混迷)そのものを描こうとしているからかも知れない。

家族も希望も何も持たない主人公アモウが日本人が尊厳を取り戻すための物語という一面は間違いなくある。そのために、しいたげらていても自尊心を失わない日本人や、困っている日本人を助ける八咫烏の戦いを描く。5話でアモウはアジア軍の悪代官に勢い余って「日本人をイジめる奴は許さない」と啖呵を切る(悪代官を殺さないのがミソ)。ここ単体で見れば良くある勧善懲悪のシンプルなエンタメ作品である。

ただし、アモウ自体はもともと成り行きで戦い始めた後も戦闘は避けたいという性格付けで、4話で親しくなったリサがゴーストとの戦闘で亡くなった直後も、八咫烏を抜けるつもりだった。5話を経て、結局八咫烏に留まり戦闘を続ける決意をするが、その後も好戦的というわけではない。ただ、様々な人との関りの中で、大切なものを守るために諦めない熱意が芽生える変化があり、13話でゴーストと刺し違えた。このアモウの繊細なメンタルを描くドラマは本作の美点でもあろう。

また、分割統治諸国の軍人も一癖も二癖もあるような人物は居ても憎むべき親の仇ではないし、八咫烏も各国の軍人も大量虐殺のような事はせず、ある程度の理性を持って振舞っているように見える(5話の悪代官除く)。また、9話では自分の自治区を守るため八咫烏の情報をアジア軍に売るという日本人や、敵対勢力に関係なくビジネスを広げる兵器商人など、それぞれの正義で動く様々な人間たちが登場する。人間側はそれぞれの正義があるだけで完全悪がないというカオスな状態である。そこで、作劇場の絶対悪として無差別破壊を繰り返す暴走AIであるゴーストを設定したと思われる。

つまり、主人公が単なる人殺しにならない事や、戦争の善悪をステレオタイプに描く事の脱却なのではないかと思う。それは令和時代のエンタメとして配慮すべき点なのだろう。本作がプラモデルを販売しロボや作品世界を愛してもらう前提だとすると、このディレクションも理解できなくはない。極端な例を挙げれば、今期放送された「海賊王女」のような手下が血しぶきを吹きながら次々斬り殺されていくという昭和のチャンバラ的な作風は、今の子供を含めたターゲットの作品では厳しいという事なのであろう。ただし、この小難しいロジックで批判を回避しながらの作風であるがゆえに、エンタメ作品としての爽快感のようなモノはかなり失われてしまっていると感じた。本作の感想はこれに尽きる。

「令和時代の兵器としてのロボアニメ」という命題に対して、色々と悩みながら作っているな、とは感じるがそのカオスにより、突き抜けたところがなく、ではどうすれば良いかというのも私自身も分からず、という悶々とした気分になった作品だった。

86 -エイティシックス- …18話~21話のみ

  • rating
    • 評価保留
  • pros
    • 美しいとさえ感じる迫力ある戦闘シーンと叙情的で美しい背景美術
    • シンの孤独な呪いとの戦いのハードボイルドなドラマと文芸
  • cons
    • 特になし

実は18話~21話の4話しか視聴していないのですが、圧倒的に美しくてカッコいい戦闘シーン。背景美術の植物や自然の美しさ。シンの孤独な呪われし運命と、狂気と正気の狭間の危うさのドラマ。フレデリカの人間として真っ当な祈り。色々なモノが心に刺さりました。

とにかく戦闘シーンの迫力が凄い。ヌルヌルと動く大量の敵メカ。ニュータイプ張りに極限稼働するシンの多脚戦車、質量を感じさせる低空飛行爆撃機や、敵巨大列車砲モルフォ。音響的にも着弾音やサーボ音のSEが迫力ある演出に一役買っていたと思う。

そして、心情を映す背景美術の美しさ。破壊された市街地などを抜け、目的であるモルフォに近づくにつれ人気(ひとけ)が無くなり、花や昆虫などの自然の美しさが強調して描かれ、幻想的ともいえるノイズのないクリアな景色の中で戦闘が繰り広げられてゆく。心情と背景がリンクして研ぎ澄まされてゆく映像感覚。

シン自信が死神として呪われた暗い面を持ちながら、戦闘中に薄ら笑いを浮かべて死に場所を求めるように戦う。大統領や仲間やフレデリカから、あれだけ生きて帰還する事を言われているのに、そっちの世界に棲む資格は無いと言うシンの孤独感とハードボイルドさ。

こうしたシリアスな文芸や丁寧な作画を映像として結晶化させ、それを信じさせるためには並々ならぬ演出力、表現力が必要だと思う。

最終的にはシンの魂が呪いから救われてほしいと願いますが、それは3月末の22話、23話までお預けという事なので、心して待つというところ。

おわりに

今期はロボアニメ大量発生との事で、普段よりも多く視聴していましたが、どのロボアニメも一長一短という感じで、強く刺さる作品はありませんでした。

そんな中で、個人的にはアクアトープとやくもが1クール目の実績の裏付けもあり、安定の面白さでした。

個人的には製作委員会がない海賊王女に期待していたのですが、物語の最後のアレっと思う展開で、製作委員会も一長一短だなと感じました。

思いがけず良かった、86-エイティシックス-については、23話の視聴を終えた時点でブログに書ければ、と思っています。

フラ・フラダンス

ネタバレ全開に付き、閲覧ご注意ください。

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はじめに

みんな大好き、吉田玲子脚本の長編オリジナルアニメーション映画ということで、観てきました。

鑑賞直後は、何となく突き抜けた感がなく平均点な印象でしたが、ブログを書きながら相変わらずの脚本の良さを思い知らされ、とても好きな作品になりました。

本作はお仕事モノでもありますが、日羽が凛として自尊心を持って生きるまでの成長と、震災復興を重ね合わせた震災モノの方に重心がある、と受け取りました。

なお、他作品との比較については、後日追記予定です。 他作品との比較を追記しました(2022.1.4)

概要

考察・感想

フラダンスでお仕事モノという設定

日羽は、スパリゾートハワイアンズというレジャー施設でフラダンスを踊るプロの新米ダンサーである。

新人ダンサーは、ここの新入社員であると同時に、常磐音楽舞踏学院の生徒でもある(就学期間は2年間)。ダンサーの採用枠は5人で、この5人で1チームとして行動する。チームの仲間と一緒にプロとして厳しいダンスレッスンに耐え、そこを乗り越えてお客様に笑顔を提供する、というお仕事モノとしての骨格である。

本作は、スパリゾートハワイアンズの全面協力のもと、背景や施設のバックヤードなども細かく描かれるもの特徴である。

3DCGによるダンスシーン

本作は、水島精二総監督をはじめ、、キャラクターデザイン・総策が監督はやぐちひろこ、制作はBN Picture(株式会社バンダイナムコピクチャーズ)という、初期のアイカツ!を連想させる布陣である。

それゆえ、3DCGを駆使したライブシーンは常套手段ではあるのだが、題材がフラダンスであるがゆえに動作は滑らかでゆっくり、手先、指先の細やかな動作に気を使う必要がある。しかも、現代のモーションキャプチャーの技術では、指先まではキャプチャーできないらしく、同時に録画した映像を見たりして、手の芝居をつける、などの苦労があったとの事。

こういった難しさもあっては、フラダンスのライブシーンには強いインパクトを感じなかった。題材と映像手段のマッチングの問題と言えるかもしれない。

スタッフ側もこうした弱点を知ってか、劇中でアイドルグループのライブシーンを挿入したりしてメリハリをつけていた。

丁寧で地味な演出

率直に言って、本作の演出は丁寧だけど地味だと感じた。これは決して下手という意味ではなく、抑揚のつけ方が地味という意味である。気の利いたレイアウトも多々あり、飽きるという事はない。

辛い状況、上手く回りだしたときの喜び、恋愛要素の浮き沈みの感情、そうした感情面を極端にデフォルメして描く、ということもなく、お仕事モノとして地に足がついた感じの演出がなされていたと思う。

その対比として、個人的に盛り上げられたポイントは、(a)ハンガーで残念のシーンと、(b)ひまわり畑での姉との対話のシーンと、(c)ラストの「ここにいるよ」のシーンに感じた。(a)はともかく、(b)(c)にカタルシスを持ってきていた事に、本作のメインテーマを感じさせるものがあった。

お仕事モノ、成長モノ、震災モノの3つの断面

お仕事モノとして物語

本作は、お仕事モノと震災モノの2つの面を持っている。まずは、お仕事モノとして本作をみた場合の考察から。

本作を仕事モノとして要約すると、

  • 何も持たずに就職した日羽が、厳しく辛い訓練を経て、人並以上に努力。初ステージではトラブルにより最悪のデビュー。社内評価もダンサー中の最下位という現実の悲しさ。絶望のどん底からのマイナススタートである。
  • この状況で、鈴懸先輩という憧れの人が登場し、乗り越えられると励ましてくれる。この辺から運気がプラスに転じてくる。
  • そのうちに、チーム内の結束も強まり、巡業先のステージで客を笑顔にして、先輩にも褒められる。日羽のドライブや実家での夕食でチームも家族同様に結びついてゆく。そして、自分らしさをアピールするために全国フラ大会にエントリー。途中、失恋も経験するが、大会では自分らしさをアピールしたダンスを披露。成績こそ振るわなかったが、先生のお褒めの言葉もあった。仕事の波に乗れていて、プラスに回復し、さらに上昇中という状況である。
  • この状況で、先輩は退社し、しばらくすれば後輩もできるであろう、先輩としての責任感を予感させながら、お仕事モノとしての物語は終わる。

お仕事モノとしてのテンプレに、仕事にゴールがあり、幾多の問題を解決し、ゴールに到達する事でカタルシスを得るというのがある。たとえば、お仕事アニメの代表作である『SHIROBAKO』は、クオリティの高さを維持しつつ完パケする事がゴールとなっており、カタルシスを得やすい。そのために、スタッフに頼み込んだり、明確な障害を取り除いたり、そうしたゴールに向かっての途中イベントも明確である。では、本作の日羽の仕事のゴールとは何か?

日羽はどん底スタートだったから、人様の足を引っ張らず、一人前に仕事がこなせるようになる事がゴールといったところだろう。その意味では、明確な合格点を表現しにくいのであろう。本作では、そこをフラ全国大会で観客の心を掴めたところを1つのゴールに設定していたと思う。

そこに向かっていくときに、憧れの鈴懸先輩の登場や、先輩たちからの励ましや、チームメイトの支えがありという流れである。しかしながら、その問題排除のロジックが明確に描かれることないため、日羽が理由もなく時間の経過とともに、何となく成長しているように感じてしまう。平たく言えば、一発逆転のロジックが存在しない。だから、お仕事モノとしてのカタルシスは弱いと感じた。

この点について、水島総監督のインタビュー記事に関連する記載があったので、ここに引用する。

これは、現実でもそう感じることは多いと思う。たとえば、英会話の練習をしていて、ある日突然ヒアリングが聞き取れるようになるとか。その意味で、本作のディレクションはゲーム感覚ではなく、生身の人間が生きている感じを味わえるモノである。そうすることでカタルシスは弱くなるが、ドラマとしては誠実で奥深さがある、とも言える。

日羽の成長モノとして物語

個人的には、本作のポイントはお仕事云々ではなく、何も持たない日羽が自尊心を持って生きて行くまでに成長する物語であると思う。

話はそれるが、本作の日羽は、『千と千尋の神隠し』の千尋を連想させる。ある日突然、異次元に迷い込み、湯屋でこき使われ、がむしゃらに働いて、ハクという憧れの人が登場しつつも叶わぬ恋に終わり、最後は自尊心を持って現実世界に帰ってくる。ある意味、スピリチュアルな成長の物語である。

令和の現代においては、その人が向いていなければ、システムや運用でカバーしたり、向いている職場に配置転換したり、などという対策を当然と思う観客もいるであろう。しかしながら、前述の個人の成長物語が骨格にあるので、そのような展開にはならない。あくまで、ドラマの中心は日羽のメンタルにある。

JK時代の日羽は、ふわふわしていて、自分を持っていない感じに見えた。

そんな日羽が社会人となり仕事をする。自信無さげで頼りなく失敗続き。周囲の足を引っ張ってしまう申し訳なさ。そして初ステージでは大恥をかく失態。日羽が良いのは、辛くても、苦しくても人のせいにせず愚痴をこぼさない。悔し涙を流しても、投げやりにはならない。ドジっ子で運が悪くても、とにかく誠実なのである。途中でメンタルが壊れるのではないかと、見ているこちらが心配してしまうほどである。

ただ、本気で悩んで諦めかけていた時に、鈴懸先輩の「乗り越えられるよ。ここはあの時、誰もが乗り越えたんだ」の台詞。この言葉のおかげもあって、続けられた。

ここから、だんだんと仕事も調子に乗ってくる。水族館での巡業の成功。先輩たちからの誉め言葉。

日羽にとっては、チームメイトの存在も大きかったと思う。失敗続きの日羽を責めるのではなく助け合う。各々が弱点を克服するために努力する。運転初心者の危なっかしいドライブ。回廊美術館でのシーンは印象的で、視界にあるのは何もない田舎の、落ち着ける穏やかな山の景色。これは、日羽の内面でもあり、その後の実家の食事のシーンも含め、日羽がチームメイトを受け入れ、チームメイトも日羽を受け入れていたシーンだと感じた。

日羽の鈴懸先輩への淡い恋心も描かれた。励ましをくれた憧れの先輩。交際中疑惑の誤解が溶けたのもつかの間、10年間毎月欠かさず亡き姉の墓参りをしていた事、退職して実家を継ぐ事を知り、片想いの失恋も経験した。

そうした仕事以外のオフの経験もまた人生の潤いとなって仕事にも良い影響を及ぼす。

フラ全国大会への挑戦は、自尊心を持って生きる事の高らかな宣言である。自分たちらしいフラダンス=自尊心。成績は振るわなかったが、早川先生からも褒められた。アイドルのライブのように観客とその瞬間を共有し、みんなを笑顔にすることができた。褒められる=肯定される。その延長線上にラストの「ここにいるよ」の台詞がある。

真理と日羽の姉妹のドラマ

真理と日羽は二人で1つ。「まり」と「ひわ」でひまわり。一緒にフラダンスを踊りたかった真理の残留思念。

偶然の重なりで、日羽はフラダンスを仕事として選び、姉の断片を感じて過ごす1年だったが、それも成仏できなかった真理が仕掛けた事なのかも知れない。

夏凪家では、東日本大震災で真理が亡くなってから笑いが途絶えていたし、日羽の高校生活もなんとなく地に足がつかない、ふわふわした印象で描かれた。つまり、10年前から夏凪家では時が止まっていた。

真理は、日羽がダンサーになり、忙しく過ごし、失敗を乗り越え自尊心を取り戻してゆく姿を近くで見守っていたのだろう。日羽がCoCoネェに宿りし真理の残留思念に気付いたとき、真理はもう大丈夫とお別れを切り出す。今まで真理の死に向き合えていなかったからこそ、夏凪家では時が止まっていたのだろう。最終的に日羽が真理の死を受け入れ、真理が成仏することで、時が再び動き始める。

プアラ(=太陽の花=ひまわり)の名は、真理→あやめ→日羽と受け継がれることになるのだろう。それは、真理の願いであった、姉妹で一緒にフラダンスを踊るという夢を叶える1つの形である。

震災モノとしてメッセージ

日羽の社会人の1年間は、東日本大震災の被災地福島の10年間である。

東日本大震災は甚大な被害を福島県にもたらした。地震津波、そして原子力発電所放射能流出事故である。何が悪いわけでもない、誰のせいでもない、神による無慈悲で圧倒的な暴力。度重なり続く余震。(日羽の入社直後の、運の無さと、ダンス技術の圧倒的ハンデキャップ)

追い打ちをかける放射能事故による直接被害と、風評被害。(動画配信サイトの「史上最も残念な新人」の称号)

被災地に残り、こうした辛い現実の中にあっても、それに耐え乗り越えてきた被災者と日羽を重ねてみることになる。「乗り越えられるよ。ここはあの時、誰もが乗り越えたんだ」という台詞が意味するところである。

新人ダンサーチームが、日羽以外は他の他府県から来ている事も意味があると思う。この辛さを被災地いわき市だけに押し付けるのではなく、他府県、他国も震災復興を一緒に努めてきた形ともとれる。

震災直後、過大な負債しかなかった被災者が、10年の時を経て、人間らしさを取り戻し、自尊心を持って未来を歩き始める。苦しさの中、耐えて乗り越えてきた事への敬意と、未来への希望というメッセージ。「ここにいるよ」はその声高なアピールであると感じた。

キービジュアルについて

冒頭の画像は、制作発表時に公開されたキービジュアルであるが、これが本作の根幹を上手く描いていると、視聴後改めて感じた。これは非常に尖っていて良いし、大好きな絵である。

日羽の顔は、眉毛や目元に多少の不安を感じさせながらも凛としたものを感じさせ、口元はわずかに微笑み未来の明るさを感じさせる。表情としては、かなり複雑でありながら、本作を的確に表現している。周囲を覆うひまわりは、言わずもがな姉真理と日羽の二人を象徴する花である。吹く風が、生きている鼓動を強く感じさせる。そんな印象である。

ちなみに、下記は劇場公開時のポスターの告知ツイートの引用である。

こちらは、新人チーム5人とフラを踊る日羽という、もう少し本作の表層を表す絵になっている。楽しそうな雰囲気であり、映画のポスターとしてはこちらの方が正解なのだろう。このキービジュアルとポスターの差が、作品を作る側と売る側(≒観客側)の温度差になっていたのかも知れない、などと感じた。

他作品との比較

フラガール(2022.1.4追記)

フラガールは2006年の実写映画。

日本屈指の石炭採掘量を誇った常磐炭鉱。エネルギーが石炭から石油に変化してゆく時代に、炭鉱の仕事は急速に減少し炭鉱側も大幅なリストラを敢行。炭鉱関係者は新しい仕事を探すか、他所に移住するかという選択肢に迫られる。そんな中、雇用創出のためにハワイを模した観光施設を作るという大胆な施策を炭鉱側が提案。炭鉱従事者側から懐疑的な意見があるなかで計画は進む。東京から講師を招き音楽学校を創立しダンサーを育成した。こうした、時代の転換期に立ち合う労働者たちの葛藤のドラマを描く。

炭鉱の仕事は命と隣り合わせの誇りある仕事。だから、フラダンスなどという破廉恥な観光業に対する嫌悪感を抱く者も多かった。炭鉱夫の家で育つ紀美子(蒼井優)はフラダンスに魅せられてダンサーになる決意をするが、母親(富司純子)、兄(豊川悦治)からは許しが出ない。破門同然でフラダンスの道を進むが、最後は母親からも認められ、家族がダンスショーを観に来てくれる、という話だったと思う。

母親の台詞で「娘には私のような地下で真っ黒になるような仕事ではなく、華やかな明るい人生であって欲しい」みたいな台詞が印象的だった。つまり、昭和時代は家系で仕事を継ぐ事も多く、本人の自由にはならず縛られた人生であった。だが、これからの時代は、自分の人生を好きに選んで生きていい、というある意味束縛からの解放の物語であった。

直接的な部分だと、環奈の母娘の和解のモチーフが重なりはあると思う。また、産業の転換期という危機、震災という危機からの復興という重さのある空気感は両作品に通ずるところと思わなくもない。皮肉にも、下記のインタビュー記事を読むと、コロナ禍という新たな危機に直面している事が伺える。ただ、これらの映画が苦しい時を乗り越えた事を描いている事で、勇気をもらえる事がある。エンターテインメントとしての役割は、こういうところにあるのだと思う。

ちなみに、現在、Netflixで観られるようなので、興味のある方はご鑑賞いただければと思う。

フライングベイビーズ(2022.1.4追記)

フライングベイビーズは、2019年のフラ部の女子高生を描く全12話のショートアニメ。

映像的にはぶっ飛んだビジュアルのオチャラケた話なのだが、それとは裏腹にしっかりした震災モノとしてのメッセージも込められていたと感じた。詳細は下記のブログをご参照ください。

震災としてのメッセージは被災地(=被災者)に対して、忌み嫌ったり、哀れんだりして距離を取るのではなく、一緒に楽しく接して欲しいという祈りにあったと思う。

こちらはまだ、震災の被災者が震災の傷を抱えているという扱いで、震災復興を果たした「フラ・フラガール」とも一味違う、震災モノだったとと思う。

岬のマヨイガ(2022.1.4追記)

岬のマヨイガは、2021年の長編アニメ映画。

こちらも震災をテーマにした作品であり、メッセージとしては心に傷を負った者が回復するために大切なモノが何かを描いていたと思う。詳細は下記のブログをご参照ください。

両作品とも、フジテレビの「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」という被災地支援の企画の一環として制作されており、脚本が吉田玲子という点も一致しており、なかなか興味深い。

両作品に共通することとして、震災をあまり直接的に描かないという点がある。そこを生で描くと当事者にとって癒えない傷に塩を塗ることになるからかもしれないし、エンタメで扱うには重すぎるからかもしれない。いずれにせよ、そこを直接描かずとも、震災の痛み、辛さを匂わせる作風に共通する品の良さを感じる。

震災を直接描かないからこそ、そこに繋がる抽象的な概念を言語化するのに手間がかかる。余談ながら、そのため、両作品とも私のブログとしては鑑賞後1週間近く時間を要した難産であった。しかしながら、必ずメッセージのようなものはあるので、読み解き自体は楽しくもある。

参考

水島精二監督インタビュー記事のリンクを掲載する。本作を監督するにあたってのディレクションなど、興味深い話題に多数触れられているので、良ければ読んだり、視聴していただきたい。

おわりに

本作の世間的な評価は、それほど高くないとSNSの観測範囲では感じています。「アイの歌声を聴かせて」のような高密度で強演出な作風でもなく、比較的淡々としたテイストで描かれてゆくので、盛り上がりに欠けるとかいう感想も分からなくはありません。

震災モノとしてのテイストを考えると、どうしてもお仕事モノとしてステレオタイプに物事を解決させられないという事もあったのではないかと想像します。その意味で、震災モノとお仕事モノは食い合わせが悪いのかも。

本作のオリジナル作品としての文芸の綺麗さ、良さを褒め称える感想を余り見かけないのが残念です。もう少し評価されても良い作品だと思いました。

アイの歌声を聴かせて

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

当初、あまり気にかけていなかったのですが、SNSの評判が良くて観に行きました。評判通りの楽しいアニメ映画でした。

小難しく考える映画じゃなくて、とにかくミュージカルシーンに代表されるパンチ力あるポジティブな青春モノという作風です。インド映画みたいな楽しい手触りです。

  • AIと人間の共存について、一部追記(2021.11.3)
  • 「サトミの幸せ、シオンの幸せ」(2023.7.2追記)

感想・考察

インド映画的な楽しさ溢れるミュージカル映画

インド映画的な楽しさについて考えると、やっぱり庶民の鬱憤を、映画で憂さ晴らしする娯楽的要素がコアにあると思う。そして、そこに音楽による感情の爆発を乗せるという作風が強烈なスパイスになる。本作は、まさにそんな魅力を持ったアニメ映画たと思う。

主人公のサトミは学校では孤立、ゴッちゃんとアヤは喧嘩中、サンダーは試合で一勝もできず。何が悪いと言うわけでもなく、何かのボタンの掛け違いで悶々とした気持ちと共存しながら生活している高校生たち。

そこに、天真爛漫(ちょっとポンコツ)な美少女転入生のシオンが、ミュージカル映画のワンシーンさながらに大声で伸びやかに歌を歌いながら登場人物たちを励ましてゆく。しかも、ネットワークに繋がったAIである事を生かし、時に周囲のデバイスを駆使しながら舞台をド派手に演出しながら、幸せになって欲しい人の為に歌い上げる。

なぜ、このような作風のアニメ映画が今まであまり存在していないのか? と言えば歌唱+ダンス+アニメという技術的な難しさもあるだろうが、日本人の登場人物がいきなり歌い出すという演出は、突拍子もなく抵抗があったからではないかと思う。

本作はそこを、ポンコツAIだから歌って踊る、という設定でクリアした点が発明だと思う。だから、インド映画みたいにエキストラも含めて全員がダンスする、という事は無いが、それでも、シオンの歌唱と踊りに破壊的なパンチ力があり、物語を牽引できてしまう。だから、ミュージカルシーンの意味は、シオンの歌が登場人物のわだかまりを解き、背中を押す、という構図に統一される。

シオンのCVは土屋太鳳さん。設定上AIという事で、芝居としては高音気味のフラットな声質を当てているのだが、その声が歌唱とマッチして、曲の頭から終わりまで爽やかな点も良いと思う。

ちょっと懐かしめのややリアル寄りなキャラデザ&キャラ作画

キャラデザは、敢えて今風のライトなモノではなく、青年漫画味のある少し懐かしさ感じさせるテイストであるが、これが本作に非常にマッチしている。

本作は高校生の青春ドラマであるが、多感な若者の内面を描くにあたり、ある程度の泥臭さをリアルに感じられる雰囲気を持っている点が良い。また、何よりシオンが人間と見間違う美少女AIという設定があり、その生身感を感じられるデザインになっていると思う。デフォルメよりもリアル寄りというディレクションである。

実際、シオンのミュージカルシーンは、人間がダンスできる範囲でリアルに徹した動きだったと思う(ダイナミックなカメラの演出はあるが)。サンダーとの柔道着での乱取りシーンも、柔道とタンゴのダンスの体重移動を意識したリアルな動きであり、キャラの生感は見事に出ていたと思う。

ちなみに、キャラクターデザイン原案は、紀伊カンナ先生。直近では、アニメ映画「浜辺のエトランゼ」の漫画原作者兼キャラデザをされていた。

シンプルなエンタメ物語と直球のミュージカル演出

本作の物語は比較的シンプル。あらすじは下記。

前半は、5人の若者たちが高校生活で抱える問題やわだかまりを、歌の力だけで意識改革をし、改善、解決してゆく。孤立したサトミに友達を作り、喧嘩中のゴッちゃんとアヤを仲直りさせ、勝ち知らずのサンダーに勝利をもたらす。

これらは、全て「サトミを幸せ」にするという命題を持って、シオンがAIらしく試行錯誤しながら行ってきた事である。これにより、5人の若者はシオンに救われてゆく。

そして、「サトミの幸せ」の仕上げに、なんとなく気まずくなってしまっていた幼馴染のトウマとサトミを恋仲にすべく、白馬の王子様がプリンセスに告白するという最高の盛り上がりの中で、制御範囲外で活動するシオンを危険とみなして回収する星間エレクトロニクス。

後半は、若者たちとサトミの母親の合計6人による、シオン奪還作戦。ここは、完全にアクション活劇なので、映画としての典型的なクライムである。この救出劇により、シオンのAIは、8年前同様に再びネットに逃げて生き延びる事が出来た。

最後は、サトミの母親は仕事に復帰。頓挫していたトウマとサトミの恋仲を、衛星軌道上からフォローするシオン。手を繋ぐトウマとサトミ。と、ハッピーエンドで気持ち良く終わる。

インド映画的なエンタメ作品としては、類型的でコンパクトに纏まっている。繰り返しになるが、ある意味ベタな展開である物語を、ミュージカルのパワーでゴリ押しする作風ゆえに、この物語と演出の相性は良い。

通常なら、AIをファンタジーにし過ぎとか、セキュリティを改竄し周辺デバイスまでも制御してしまうシオンを危険すぎるとか、ある意味常識的にルールに従って行動した支社長をあまりにもヒール役にし過ぎるとか、普通の映画なら突っ込みどころになりかねない点は多い。

しかし、これらは劇をシンプルに楽しむためのディレクションであると理解できる。なんなら、重要な役割を果たす劇中劇のムーンプリンセスも子供だましの童話のようなものであり、本作はそうした童話の様な物語と言っても良いだろう。多くの観客もそれを理解し、受け入れてしまう力が本作には宿っていると思う。

AIと人間の共存について

元気一杯で空気の読めないポンコツAIとして描かれたシオン。シオンはサトミを幸せにしたが、シオンは幸せだったのだろうか?

シオン(正確にはシオンに乗り移った8年前のサトミを幸せにする命令を受けたAI)は、機械学習により、サトミの幸せを試行錯誤し、サトミを幸せにした。サトミや周囲の人間が幸せなら本望。もともと命令に従って行動する機械だから、献身的なのはある意味当たり前なのだが。

良くあるAIモノなら、ここで自我に目覚めて、ピノキオよろしく人間になりたいAIの話になってしまうところ、シオンはあくまで機械として振舞っている。当然、映画が伝えるべきストーリーの範疇外のネタであり、物語のノイズになりそうな要素はカットしているのだと想像しているし、ディレクションとしては正しい。

しかし、幸せをくれた相手に対し、お返したい気持ちがあるのも人間だろう。シオンの救出劇とサトミの「友達」発言は、その恩返しにあたると思う。それは、神様やお地蔵様へのお供え物と同じである。一方的なギブだけでは気持ちが悪い。ギブあればテイクありである。AIに対しても、そうした気持ちを人間が持っている事が救われる。

そして、その言葉を受けたシオンの「私って、幸せだったんだね」という台詞がさり気なく切なくて沁みる。それは、単に言葉だけの反応だったのか、それとも人間として心が理解できた上での反応だったのかはどちらでも解釈できる範疇の演出だったと思う。ここを観客に委ねた演出が心地よいな、と思った。

私は、美少女型AI(またはロボット)モノは、過去の経験則から個人的に名作になりにくい印象を持っている。それは、上記の様な、AIの自我云々になったときに、どうしても薄っぺらなドラマ寄りな方向に走りがちで、設定とドラマの両立が難しいと感じていたから。本作は、シオンの自我を明確に描かないディレクションで、人間に奉仕する機械に徹していた事が個人的には良かったのかもしれない。

サトミの幸せ、シオンの幸せ(2023.7.2追記)

Netflixで配信があり再度鑑賞したのだが、後半のサトミの幸せ・シオンの幸せについて考察しきれていなかったと思い、2年越しになるが追記した。

そもそもシオンの中のAIは、小学三年生のサトミに与えられたタマゴ型のトイAIを、トウマが歌えるように音声合成機能追加しその他諸々を改造した代物である。これにより、より多くサトミと情報交換し学習を重ねる事ができた。その学習成果はサトミの母親の美津子も驚く内容であったが、当時の美津子の上長である野見山に学習データが削除されそうになり、ネットワークの世界に逃げ伸びた。トイAIは常にサトミを見守り「サトミの幸せ」を祈り続け、ようやく歌えるボディであるシオンに乗り移った。

サトミとしては、この話を聞いてシオン(=トイAI)を友達のように愛しく感じたという描写だったと思う。なにせ、8年前からの友人である。そして、中盤でサトミがシオンに聞きたかったと言っていたのは「シオンの幸せ」についてであろう。

支社ビルのラボでシオンと再開したとき、サトミは感激の涙を流しており、シオンは悲しいのか嬉しいのか分らなかった。屋上へリポートでも、サトミが涙を流しながらシオンに出会えた事を「幸せ」と語る。今度は逆に質問され、シオンは息も絶え絶えに、サトミと再会していっぱい話せた事について「私、幸せだったよ」と返す。

つまり、サトミからはAIは友達で有り私を幸せにしてくれた存在、シオン(=AI)からも人間と会話して幸せだったという、人間もAIも幸せに共存する世界を垣間見せて物語を〆る。

これは劇中にも描かれた大人側からみたAIへの脅威の感情に対する、子供視点の純粋無垢な別回答という事になるだろう。この感覚に似たエンタメとして、1974年に放送された子供向けTVドラマ「がんばれ!!ロボコン」という作品があった。ロボコンをはじめとする各ロボットたちが一般家庭に派遣されて住み込みながら奉仕活動をし、その貢献度をガンツ先生が採点するという流れになっていた。この中でロボットたちは人間に奉仕する事を喜びとし、人間たちもまたロボットを友達のように接して共存する世界であった。その意味で、本作のAI感は温故知新だったと思う。

果たして、2023年3月、ChatGPTなどのAI技術の革新的な発表が相次ぎ「Hottest week of AI」なる言葉も登場し、対話型のAIの進化を体感し時代の波を感じさせるニュースも相次いだ。画像生成AIの生成画像も著作権侵害していなければ公開したり販売してもセーフだとは言え、AI画像を良く思わない絵師の方々も多数いるため、この辺りは慎重に中立の立場を保つ人も多い。

このような、AIに対するアレルギーは珍しいものではなく時代の空気とも言える。が、本作ではそこを一足飛びにして、時代に逆行してAIハッピーで〆るところが痛快な見どころとも言える。

公開から1年8か月経過した今見ても、映画としての演出、音楽の使い方は劇場公開アニメ映画として相応しいクオリティを持っており、その上、AIというイマドキ感のあるテーマを楽しいエンタメとして昇華している点も含めて、なかなかの傑作ではないかと思う。

おわりに

いろいろ書きましたが、シンプルな娯楽映画の力に殴られたという強烈な印象の作品です。その娯楽作を作るために、綿密に設計された超良作でした。おそらく、何回でも楽しく観れる作品です。

本作を「竜とそばかすの姫」と真逆のテイストを持つ作品という感想を見かけましたが、激しく同意できます。明るく楽しく、気取らず大衆的な、作品の粗よりも作品の良さを強調するような、そんな作風だと思います。脚本が吉浦監督と大河内さんの共同脚本である所も含めて対称的に思えます。

出来れば、多くの人に観てもらいたい作品です。

2021年夏期アニメ感想総括

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はじめに

2021年夏期アニメ総括です。今回、最終回、クール区切れまで見た作品は下記です。

白い砂のアクアトープは2クール作品ですが、1クールで明快な区切りになっているので、1クール目の感想を書きます。

マギレコ2期は、まだ視聴中で、後日追記予定です。 マギレコ2期について追記(2021.11.10)

感想・考察

小林さんちのメイドラゴンS

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 今まで通りのクオリティで、深夜アニメに帰ってきた京アニ作品
    • 1期に比べ、キャラを掘り下げ、キャラに優しくなった作風
  • cons
    • 特に無し

1期は2017年1月~4月放送。途中、7.18事件があり、事件後初の京アニのテレビアニメ作品として、満を持してのメイドラゴン2期である。

なお、1期についてはブログ記事にまとめているので、下記を参照頂きたい。個人的な1期の感想だが、日常ギャクをベースとした作品で、人間とドラゴンの社会や種族の違いのギャップを扱ったドライなドラマもあり、武本康弘監督の奥深い作風と、京アニの暴力的とも言える作画・演出の魅力に痺れていた。

本作は、7.18事件で亡くなった武本監督の遺作でもある。作品を引き継いだのは石原立也監督。武本監督はシリーズ監督という肩書でスタッフリストに並ぶ。

2期では、1期同様に軽快なギャグと、シリアスなドラマ、何気ない日常の幸せ、こうしたモノが編み込まれて描かれる。演出・作画・動画は流石の京アニクオリティであり、1期と比べても全く遜色ない。間にヴァイオレット・エヴァーガーデンを挟んでいるからなのか、1期に比べて映像がより艶っぽくなったように感じた。

相変わらず個性的なドラゴンたちだが、2期では新キャラのイルルの追加、エルマの深掘りなどの変化があり、キャラクターにより奥行きを持たせてきた。

イルルは、深層心理にある人間と遊びたい気持ち、それを上書きし否定するドラゴン社会の人間を殺戮すべしとするルール、この相反にコンフリクトを起こした。これに対し、「私に騙されてみない?」という小林さんの言葉が優しい。イルルの現状の混沌勢の立場を否定する事無く、小林さんに罪を押し付ける事で、自分に素直に行動すれば良い、というイルルに対する助け船である。イルルはこの提案に乗っかり、小林家に居候し、5話で駄菓子屋のバイトを始め、子供達やタケトとの交流をしながら過ごしてゆく。8話で駄菓子屋に忘れられた(=捨てられた)人形を持ち主に届けるが、人形=大人になると卒業してしまう子供心の象徴であり、他人のそれも大切にしたいイルルの今の気持ちを描いた。過去の自分に折り合いを付けるために、イルル自身が主体となって行動する事に意味がある。それを理解して陰からサポートする小林さんとトール。寄り添って一緒に行動したタケト。それぞれにイルルに対する優しさを感じた。

カンナは、相変わらず子供全開な面と、周囲に気配り配慮できる思慮深さを持ち合わせていた所が印象的だった。6話で才川と二人で河川の上流まで弁当持参で歩く。河川の合流地点で老夫婦から、川の流れが人の都合によって変えられた経緯があった事を聞き、「私も変われるかな」と言うカンナ。人と川(≒ドラゴン)とも解釈でき、相手の都合に合わせて変化する事で共存してきた歴史的経緯を、才川と自分に重ねてみたのだろう。10話はまさにカンナ回。Aパートの家出してNYCでのクロエとの短い交流。小林さんと喧嘩して引っ込みが付かなくなるが、帰れる「おうち」がある事の幸せを、家出少女のクロエと交差させながら噛みしめる。Bパートは、夏休みの午後の一日を過ごす小林さんとカンナの切り取るが、そこに物語は無いという攻めた脚本。宿題の書き取り、そうめん、すいか、麦茶を買うためにお出かけ、猛暑、蝉の抜殻、河原、蛙、蟻、マンホール、自由研究、喫茶店、かき氷、クワイエット君、通り雨、雨宿り、てんとう虫、雨上がり、虹、おうち帰ろ、ただいま。カンナの子供視点で見えるモノを描くだけの日常回。少し話が脱線するが、猫の親子の散歩を見た事があるだろうか?子猫の好奇心にまかせて自由に歩かせて、後ろから親猫が見守りながらついてくる。とても微笑ましくて尊い光景であるが、Bパートはそれを連想させた。Aパートの家出があるから、Bパートの日常の幸せがより尊く感じ去れる。ほのぼのした良回だった。

エルマは、これまでのトールとの交流と、現在のトールに対する気持ちの整理が描かれた。時系列的に言えば、トールが一人旅で世界を見聞する。神と敵対すべきドラゴンでありながら、神として人々に崇められるエルマと出会う。そこで、混沌勢や調和勢という枠組みから少し外れた二人が、互いにひかれ合い意気投合する。しかし、互いの信念が噛み合わず喧嘩別れする。ここで面白いのは、思想などの違いがあっても折り合いを付けようとする小林さんのスタイルとは真逆な関係である。お互いに純粋であるがゆえに譲れない。その後、エルマはトールが移り住んだこちらの世界に乗り込んで、会う度にトールと口喧嘩をする。9話では、溜まりに溜まったトールへの気持ちをついに爆発させ本気のバトル。こちらの世界に来てトールにつれなくされる事に耐えられない、昔の様に仲良くしたい、というエルマの告白とトールの謝罪。殴り合いの喧嘩は引き分け。思想を脱ぎ捨てて、ありのままの心で友情を語るという意味では、イルルのルールを捨て本心を尊重するというドラマに似た構造を持っていたと思う。

トールについては、11話でこっちの世界に来るまでの経緯を1期よりも詳しく描く。あちらの世界のドラゴンは徹底的な個人主義。集団や派閥や肩書や親子の情は人間との関りで導入された概念であり、後天的に定着していった習慣である。ドラゴンが人間に害悪のレッテルを貼るのもその一環。混沌勢という枠組みも、終焉帝の娘という肩書も。終焉帝は、人間によりもたらされ変わりつつあるドラゴンの慣習に対し、トールに先入観を持たずに自分で見聞きして考えさせるために、トールを一人旅に出させる。その親心さえも人間の影響と自覚しつつ。その結果、トールは枠組み肩書に縛られる自分の不自由さに耐え切れず、自分の戦いを終結するために、バグって暴走し、神様に突進し、致命傷の痛手を負ってこちらの世界に来た。属する社会を失い、何者でもない孤独な存在として、たった一人取り異世界に残された時の孤独と恐怖。そのトールを拾いすくい上げ、居場所を提供した小林さん、という流れ。トールの「今わかりましたよ。私はメイドになりたかったんです」の台詞。とりあえず、束縛から逃げる事は考えていたが、具体的に成りたいモノは無かった。小林さんのメイドとして人生を歩む事が、全てを失ったトールに人生の生きる意味を与えた。寄り添って、与え、与えられる関係を心地よく思った。という振り返りだったと思う。

そして、最後に小林さん。12話は、トールの小林さんへの求愛に対する回答である。トールは言ってみれば、かなり重いモノを背負っていながら、明るく献身的に尽くす、出来過ぎた押し掛け女房である。1期OVA14話では、小林さんはトールに対して恋愛は要らないとキッパリと振っている経緯がある。物語として納得は出来るがトールに対して残酷過ぎると感じていた。

これに対し2期は、小林さんのトールに対する思いを「飲み込んどこ」、翔太ルコアを引き合いにトールが他の人を好きになったら「ざわざわするよなぁ」、花火の告白を「トール重いっ」、花見で現状を「ま、いいんじゃないの、今は気にしなくても」と言い、最後にプロポーズして追っかけてくるトール達から逃走しながらも、まんざらでもない風な微笑みを浮かべて2期を終わらせた。つまり、小林さんはトールの求愛に対して、お茶を濁して回答を先延ばしにした形、とも言える。1期なら明確に求愛を断った小林さんが、2期では複雑な思いを抱きながら返事を曖昧にした事で、かなりマイルドで優しい演出だと感じた。

もちろん、コメディをコメディとしてベタに終わらせただけ、という見方もあるだろう。しかし、2期はどのキャラに対しても優しさを持って描かれていた部分が存在していたと思う。そして、これは1期のドラマ志向の武本監督と2期のキャラ志向の石原監督の作風の違いによるものではないか、と想像している。

最後に本作のテーマについて。ずばり、2期のテーマは本音(こうありたい自分≒子供)とルール(ねばならない自分≒大人)のギャップに対する葛藤だったと思う。イルルも、トールも、集団や組織の中で生まれるルールと、自分の感性や本心にギャップがあり、葛藤があり、苦しんできた。自分を押し殺してルールに従ってもストレスが蓄積し心が病む。2期では、自分に素直に生きる事を小林さんが許す事で、ドラゴン達は癒されて生きて行ける。カンナは10話でも描かれた子供としての自由さの中で、のびのびと生きている。エルマとトールは、思想の違いから衝突し喧嘩別れしたが、思想を一旦脱いで、素直な自分をさらけ出して親友に戻れた。ちなみに、ファフニールとルコアは元から枠組みに属さずに自由だった。

本作では、こうありたい自分(≒子供)を優先する事で救われる物語を描く。もちろん、自分を優先するために常にルールを破れば万事解決というモノではない。葛藤があるからこそのドラマであり、だからこそ視聴者も救済される。余談ながら、アニメ映画の「ウルフウォーカー」も同様なテーマが描かれていた。組織に準ずる息苦しさを描くエンタメ作品が同時期に出てきた事は、時代を反映しているテーマといえるのかもしれない。

白い砂のアクアトープ(1クール目)

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 女子が女子っぽい、軽快で爽やかな脚本
    • ファンタジー要素で解決させない、基本はリアル路線の物語のバランス感覚
  • cons
    • 特に無し

制作P.A.WORKS、監督篠原俊哉、シリーズ構成柿原優子の座組は「色づく世界の明日から」に続くモノであり、この時点でクオリティはある程度担保されていた。前作が台詞による説明を極力排して絵画的(=絵本的)な物語を見せていたのに対し、今回は、夏、沖縄、水族館というモチーフを使い爽やかな青春群像劇を描く。その中に、海、生命、生き死にというテーマを組み合わて物語にコクを出す作風である。

映像はいつものP.A.WORKSクオリティ。海や空や水族館の魚などは期待通りの綺麗さ。沖縄の古民家、夜の砂浜、心地よさそうなロケーション描写で沖縄に行きたくなる。

水族館が舞台という事で、その辺りの設定も丁寧。設備や業務、台詞に十分にリアリティを与えていた。

個人的には柿原さんのシリーズ構成と脚本陣に注目していた。担当脚本としては、柿原さんが1,2,3,5,7,9,12話、千葉美鈴さんが4,6,9,11話、山田由香さんが10話という、全て女性脚本家が書いている。柿原さんはアイカツシリーズの、千葉さんはアイカツプラネット!の、山田さんはメイドラゴン、わたてん、恋アスのシリーズ構成の実績があり、女子を女子っぽく書ける脚本家を揃えて来た感がある。個人的には、千葉さんの脚本の軽快さが特に印象に残った。

1クール目を4パートに分割するとこんな感じか。

話数 日付 要約
序盤 1話~5話 7/19-7/30 風花が夢破れ、がまがまで生きる気力を取り戻す
中盤 6話~8話 8/1-8/22? くくる達の頑張りで水族館売上UP。各サブキャラ掘り下げ
知夢回 9話 8/22?-8/24 ティンガーラから来た知夢のがまがま研修
終盤 10話~12話 8/25-9/1 くくる最後の悪あがき、閉館受け入れ、ティンガーラで働く決意

まず、全体の流れから少し浮いている9話の知夢回について触れておく。がまがま水族館に研修に来た知夢が、くくるの仕事を甘いとし、がまがまに対する悪い印象を持って研修を切り上げる。この話は直前、直後の流れに直結しない。おそらく、2クール目のティンガーラ編を加速スタートするための予備動作的な回だったのだろう。

序盤は、風花のアイドルの夢が破れ、がまがま水族館との巡り合わせで、再び生きる気力を取り戻すまでをゆっくり丁寧に描く。繰り返しになるが、本作は女子が女子っぽく描かれるのが美点である。風花は、実家の出戻り慰労会が嫌だったから、ふらっと沖縄に逃げてきた。4話で元アイドルがばれて動揺する風花と、それを気遣うくくる。くくるは無理強いだったらごめんと謝罪し、風花はくくると仲良くなってもっと知りたかったからと気付き、くくるは私もと同意する。この辺りの感情の作り方、話の流し方が非常に女子っぽいと感じる。おそらく、男子ではこうはならない女子特有のロジックでの振る舞いであり、見せ方が軽妙であっさりしていて爽やかで良い。ちなみに、4話の脚本は千葉美鈴さん。

中盤は、くくるの頑張りを軸に、周辺キャラの、うどんちゃん空也、うみやん、夏凛の掘り下げ。キャラが全員嫌味が無く爽やかな点も本作の特徴である。個人的には、かき氷回のうどんちゃんと母親のやり取りが良かった。一見、放任主義風な母親だが、創作料理の自由さを思い出させるマンゴーラフテーのヒントを与えて乗り越えさせるスタイルが良かった。盛況に終わった日の夜、そのマンゴーラフテーを食べてダメ出しする母親。娘の成長に感じる喜びや寂しさや複雑な気持ち。風花の母親の描写もそうだが、そうした母親の娘への思いを上手くドラマに盛り込んでいた。

終盤は、くくるが閉館を受け入れ、号泣し、がまがまを閉じる話。くくるが閉館を拒む理由が、ここだけが唯一両親を感じられる居場所だったから。聞き分けの無い子供のワガママと言えばそうなのが、くくるは子供だから仕方ない。周りの櫂、夏凛も閉館を受け入れざるを得ない事を感じつつも、くくるにどう言えばよいかは分からない。おじいも頭ごなしに諦めさせず、くくるが老朽化で魚を飼育できない事を理解するまでじっくりと待つ。そして、台風一過の後、おじいはくくるに感謝とねぎらいの言葉をかける。くくるは閉館を受け入れて号泣する。全てが終わり、空っぽになったくくるの心に次の目標を設定させた風花の励ましがあり、1クール目は終了。

繰り返しになるが、序盤は風花が夢を無くしたところから生きる気力を取り戻すまで。中盤終盤はくくるが大切にしてたモノを失う運命を受け入れるまで。そして12話で、今度はくくるが夢をなくして次の目標を設定する所で終わる。つまり、風花が受けた恩を、くくるに恩返しするという流れである。序盤の風花がひどく自信を無くしていたのに対し、中盤以降は風花の堂々とした態度の切り替わり、同時にくくるに対するしっかり者の姉ポジションになってゆく。この風花とくくるの疑似姉妹関係が肝である。

本作では、基本的に奇跡が起きて物理的に局面を打開する事は無い。幻空間がキャラの意識に作用して本人の気持ちを整理したり、大切な事を思い出したりする、という程度の奇跡である。キジムナーも、くくるの亡き双子の姉も。はじめから、閉館は運命であり、そこを覆す物語ではなく、どう折り合いを付けて行くかのドラマである。だから、ファンタジー要素はあったものの、基本的にはリアル寄りの作劇だったと思う。

もう一つ、作劇的な話をすると、本作のキャラには、恨み妬み憎しみ蔑みと言った負の感情が出てこない点が爽快感の要因になっていたと思う。奇跡も無く、負の感情も無く、爽やか路線。ゆえに、作劇的にパンチが弱いと感じる視聴者が居るのも分かるが、私的にはこうした地味ながら爽快感のある物語を、非常に誠実に感じたし、とても心地よく楽しめた。

かげきしょうじょ!!

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 演出、作画、芝居の3拍子で見せる演劇の迫力
    • 深みあるサブキャラの掘り下げエピソード
  • cons
    • 特になし

宝塚を模した紅華歌劇団。その人材育成のための紅華歌劇音楽学校に100期生として入学した女生徒の描く青春群像劇。入学1年目は予科生、2年目は本科生という上下関係。様々な視点と愛情で生徒を指導する先生たち。そして紅華歌劇団の先輩方への憧れ。様々なグループとの関りの中で、憧れの舞台を目指し切磋琢磨する主人公達。

本作は演劇を題材にしている事もあり、舞台の稽古などの芝居の熱量や迫力が伝わってこそのドラマ。その辺りは演出、作画、演技ともに熱量高く、凄い芝居をしている事を視聴者に確実に分かりやすく伝たえる出来の良い映像。日常パートの緩さと、稽古などの緊張感の高まりのメリハリも良く、非常に見易く楽しめた。

逆に、作中で歌舞伎の見栄の話も出ていたが、カッコいいシーンを止めて客に見せるという感じで、動画でヌルヌルと動かすような映像ではなかったが、その意味でも少女マンガテイストの風味を的確に料理していたと思う。

本作の主人公は、予科生で歌舞伎の夢断たれた高身長のさらさ、男性嫌いで国民的アイドルグループから逃げてきた奈良田の二人。そして、目立たない山田、祖母と母が紅華歌劇団員だった星野、双子の沢田姉妹、委員長の杉本。主人公の2人以外も、それぞれのキャラが深掘りされる当番回があり、それぞれのカルマを芝居に変換して輝きに変換してゆく物語がある。

例えば、主人公のさらさは男役のオスカルを目指す屈託のないキャラなのだが、小演劇のオーディションでロミオに殺されるティボルト役に挑戦する。敵役ゆえロミオを憎むのだが、その憎みの感情が分からない。さらさは、手が届かないジュリエット=歌舞伎、ロミオ=幼馴染の暁也、と置き換えて欲しても手の届かないモノへの未練と無念を迫真の演技をする。しかし、幼馴染の暁也には嫉妬や羨望だけでなく、歌舞伎の師匠である魁三郎が無理やりさらさの恋人を命じたり、襲名の為に必死に努力している事も知っている。単純にロミオ=暁也と言うには乱暴過ぎるような、複雑な思いを抱えて演技している。本作の脚本は、全般的にこうしたステレオタイプにならないような複雑さを織り込んでおり、その辺りが非常に上手い。これにより、観る者の中で万華鏡の様に様々な模様を写し出す。

個人的には8話の星野回と13話最終回の杉本回が特にお気に入りであり、それぞれのキャラに深みとコクを持たせる短編小説の様な密度の濃い物語があり、話運びも綺麗。この辺りの脚本の出来の良さは、原作漫画からのではないかと想像する。これらのサブキャラも全員主役になれる何かを持っていて磨けば輝くという希望を抱かせる。また、本作は競争の現場でもあるが、ネガティブな競争ではなく切磋琢磨のポジティブな点も本作の特徴に思う。こうした深掘り回があるから、それぞれのキャラを好きになり、セッション回でもキャラの掛け合いを楽しく観れる。

本作は、入学からの1年を追う形で、来年度の生徒募集のポスター撮りシーンで、まだ続く未来を予感させて物語を終わる。ちなみに予科生は全部で40名だが、残り音34名も実力差があるわけではない。皆、仲間でありライバルである。予科生という可能性に目を輝かせる初々しさを描いて点も本作の特徴だったかも知れない。原作漫画は、まだまだ続巻があるとの事だが、1クールの綺麗に終えたシリーズ構成も良かった。

ED曲はカッコ良くてお気に入り。歌劇をイメージした曲なのだが、キャラに合わせて歌詞を変えた3バージョンがあり、キャラ、歌詞、歌唱がマッチしているというある意味、贅沢なモノ。ED曲の映像の少女マンガ風なイラストと相まって、良い味を出していた。

ラブライブ!スーパースターズ!!

  • rating ★★★★★
  • pros
    • エモさてんこ盛りの脚本と、コメディ色強めのテンポの良い演出の融合
    • 令和にアップデートしてマンネリ化を防ぎつつ、基本を押さえたラブライブらしさ
  • cons
    • 特に無し

満を持して登場した、ラブライブシリーズ最新作。2013年のμ's、2016年のサンシャインのAqoursを経て、2021年のスーパースターのLiella!と繋がる王道シリーズである。

ラブライブとしては、サンシャインと無印の間に虹ヶ咲が存在するが、こちらはグループではなくソロアイドル活動であり、スクールアイドル甲子園とも言えるラブライブ大会(=勝負)を否定した挑戦的なスタイルで、シリーズの中では例外的な存在と言ってよいだろう。本作は、サンシャインから繋がる本流のラブライブである。

シリーズ構成・脚本はお馴染み花田十輝、監督は無印の京極尚彦が戻ってきての強力な布陣。

サンシャインまでで形骸化したスクールアイドルの在り方を一部見直し、令和の現代にアップデートしている。最大の特徴は、1年生しかいない新設校で5人グループとした点。従来の3学年9人の構成からキャラを半分近くに減らした事で各キャラのドラマの深掘りが出来る。1期は高校1年生の4月から12月の東京大会までを描く事で四季の変化とともにLiella!の成長を描いた。

相変わらずエモさはてんこ盛り、コメディ色は更に強くなり、圧縮されたテンポの良い軽快な演出が冴える。この笑いのジャブと、感動の右ストレートのワンツー・コンビネーションの基本が出来ているので、見事にハマれる。

キャラ的には、主人公のかのんが今までにない属性と輝きを持ち合わせていた。ルックとしては釣り目でくるりん前髪(ゲームセンター嵐風味)が特徴。Liella!の中でも歌唱は群を抜いて上手いが、人前で歌えないというトラウマを抱えるという役どころ。好きだけど歌えない、諦めの気持ちからの脱却と解放を描く。6話で幼少期の千砂都を励まし救ったかのんの勇気。だが、その無邪気な勇気と相反する合唱で歌う怖さのコンフリクトで動けなくなってしまった小学生のかのん。11話では、その忘れていた記憶を思い出し、向き合い、再び自分の背中を押して、一人で歌う事を取り戻す。かのんはヒーローでありながら、弱点も持つ、親近感のある設定が魅力的に感じた。

個人的には、可可が一番お気に入り。上海出身でスクールアイドルに憧れて単身留学。かのんの歌声に惚れ込み、かのんを背中を押してスクールアイドル活動を開始する。上海出身の可可のキャラ立ちは、個人的に非常に頷けるものがある。というのも、以前、私の職場に居た上海出身の男性の印象と被る点が非常に多い。彼は、物怖じせず発言は直球、理不尽には断固抗議、親しい間柄の人間には尽くし、見下した人間はおちょくる。余談ながら、中国領事館も可可の中国人ぽさをツイートしているほどである。

もともと、ラブライブは、努力、友情、勝利という、令和においては、やや暑苦しいテーマを持っていた。それが同調圧力とも捉えられるため、そのままでは、ラブライブの味を存分に発揮しにくい。そこで、主人公のかのんにラブライブ熱を背負わせず、サブキャラの可可にエンジンになってもらう。その際に、この中国人っぽさが効いてくる。しかも、キュートな中国語訛りの日本語もあって、圧力をコメディに塗り替えて、浸透圧を高くする事ができる。その意味で、ラブライブに上海人の設定を考えた人は天才では無いかと思う。

他には、幼馴染でダンスが得意な千砂都、ヘタレキャラのすみれ、残念和風生徒会長の恋と、メンバーのキャラ立ちは濃すぎるほどに十分。この5人でLiella!を構成する。彼女たちは、ある意味バラバラで、思想やイデオロギーを持たず、何色にも染まっていない。白色とも違う。未来に向かって、何色にでもなれる強さを持っている。

すこし大袈裟だが、私は、Liella!はある意味でビートルズに似ていると思う。それは、各メンバーが個性的な天才でバラバラでありながら、作られた楽曲は不思議とどれもビートルズ以外の何物でも無いというところ。Liella!の魅力は、そうした力を感じさせるところだと思う。

物語としては、従来のラブライブの文法通り、主人公たちが立ち上げたスクールアイドルに一人ずつメンバーを勧誘して増やし、ラブライブ大会を目指して練習してゆくという鉄板スタイル。しかし、彼女たちは廃校阻止などの使命を持たず、自分達のために歌う、というディレクションが今風だと感じていた。

11話では、かのんが一人で歌えない事が分かり、その事に向き合って独唱ができるようになるドラマを描く。本作では内面に向かうドラマが多く、一人一人の強さをテーマにしていたと感じている。他人を頼っても依存はしない強さ。矢を束ねて強くするにも一本一本の強度がまずは大事という考え方。その意味でドラマは骨太。まずは、自分のために歌う。これは、かのんだけでなく、全員に言えるテーマである。

Liella!の由来はフランス語の「結ぶ」であり、彼女たちはメンバーを、全校生徒を、過去と未来を繋いでゆく。

12話では、ラブライブ東京大会に向けてステージ作りを全校生徒で行う。その思いを受け止めての熱唱であったが、結果は2位で全国大会出場を逃す。あっけないお祭りの終わり。シリーズを通してこれまで歌えるだけで幸せだったかのんは、生れて始めた負けの悔しさを味わう。自分一人の時は思わなかった、応援してくれた全校生徒への申し訳なさ。そして、涙をにじませ、来年こそ優勝する事を誓うLiella!。Song for me. Song for you. Song for all. 完。

私は、今まで勝ち負けよりも一緒に歌う事の楽しさを描いてきた本作が、最終話で価値観を反転させて来年こそ勝ちたい!となる事を意外に感じた。それは、虹ヶ咲がラブライブ出場を放棄したように、勝ち負けに拘らない事が今風であるという事を引き継いでいるように感じていたからである。しかし、本作はその予想を裏切ってきた。この辺りは、シリーズ構成の花田十輝の手腕だと思う。かのんがこれまで音楽大会とは無縁だった経緯の丁寧な設定も効いていて、これは明確に狙ったどんでん返しである。だからこそ、かのんの悔し涙の威力は大きい。「よりもい」でも似た感じを味わったが、今回も花田十輝脚本に完全にしてやられた。

音楽(=芸術)で順位を付け勝敗を争う事の意義については、様々なエンタメ作品で取り上げられる正解のないテーゼである。競争(=ラブライブ)を外した虹ヶ咲とは明確に異なり、本作はあくまでラブライブの本流であり、大会に出場する以上、勝ち負けは避けては通れない。

明確にラブライブ優勝を目標に掲げて挑戦する事になる2期のLiella!。その先にある物語が勝ちだけに拘らず、今まで通りの楽しさ、甘やかしじゃない友情、そして繋がりを大切にしてくれる事を願う。

東京大会2位という結末は可可の強制送還を発動させるのか? 年度変わって新1年生のLiella!加入はあるのか? など気になるネタを残しながら、ゆるりと2期を期待して待つ、と言ったところである。

月が導く異世界道中

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • もはや懐かしいと言える、80年代感じるキャラデザや掛け合い漫才
  • cons
    • 自由過ぎて見所多彩であるがゆえに、どのジャンルの話か身構えられず、観にくいと感じたテーマとシリーズ構成

本作は、作画、演出などのアニメーションとしての出来は良いのだが、設定や文芸面が変化球勝負の作品だったと思う。

基本的には、異世界転生。主人公の真が転生先で巴と澪という強力で美人のお供を連れて世直し道中する、というのが骨格。西洋風ではなく、水戸黄門という和風テンプレートを使う点が新しい。

悪人退治の爽快アクション活劇あり、美人のお供のお色気あり、という痛快エンタメの側面があるが、本作はこれだけでない。主人公の真は亜空の数種類の種族の住民を束ねる君主としての役割もあり、君主論的な描写もある。さらには、いつもの温厚な性格の裏に潜む、おびただしいほどの魔力。怒りの衝動に我を忘れて鬼の様な殺戮をしてしまうバーサーカー的な内面も。

ところで、本作が水戸黄門スタイルと言う事もあり、悪役を成敗する部分は本作の肝である。その悪役が美男美女しか居ないというヒューマン族というのが面白いと感じた。

真は、顔がブサイクという理由で転生直後に勇者ではなくへき地に落とされたダークヒーローでもある。真が束ねる事になった亜空の住民たちは、ブタやドワーフやドラゴンやアルケーなどであり、ある意味、容姿としては醜い部類である。これに対し、西洋人的な美男美女ばかりのヒューマンが悪役だったりする。要するに、容姿と心の美しさ醜さが逆転している構図である(ただし、ヒューマンにも良い人はいる)。もしかしたら、亜空の住民たちは西洋人から観た東洋人の暗喩なのかもしれない。

キャラデザは、「うる星やつら」を連想させるような80年代テイスト。ギャグ的な台詞も散りばめられており、シリアスとのメリハリを付けている。魔法や異世界設定や描写は、丁寧に考えられていて説明も細かい。アクションシーンの作画や演出なども迫力あるモノ。総じて、良く出来きており、アニメーションとしてのレベルはそこそこ高い。

ルックの通りにコメディ要素(真のモノローグ突っ込みなど)もあり、その辺りの口当たりは良い。

しかし、文芸面では、各話で見せ所が違うと言うか、活劇、国作り、ビジネスサクセスストーリー、ダークヒーローなど、要素多彩がゆえに、観る方も身構えられず、散漫で楽しみにくい。定食屋の日替わりランチが、和食、フレンチ、中華、イタリアンのいずれなのか、料理が出されるまで分からないロシアンルーレットみたいなモノである。

このように本作には、描きたいと思われる要素が多数あり、シンプルな活劇を予想して視聴した私としては少なからず面食らった。この雑多感は、本作の狙いであり魅力なのだろうが、個人的には焦点を定めきれず、とにかく見にくかったというのが、率直な印象である。

天官賜福

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 綺麗で迫力ある手描き2Dアニメの映像
    • 色気ある絵の芝居
  • cons
    • キャラ名の発音を覚えられなかったり、神様設定を理解出来ず、ところどころ話に付いていけなくなったところ

本作は、中国で制作された、歴史ファンタジーアニメである。日本では、アニプレックスが日本語吹き替え、OP/ED作成を行っている。

羅小黒戦記など、中国製のアニメーションの躍進も記憶に新しいが、個人的には中国のエンターテインメントの文芸面に興味があり視聴した。

まず、目を見張るのがアニメーションとしての出来の良さである。アクションシーンの作画や演出は迫力があり、なおかつ情緒もある美しいモノ。2Dアニメではこれまで日本の独壇場だと思っていたが、本作はその辺りも全く見劣りしない。ただし、全話が神作画というわけではなく、後半は話数によっては作画はダレてきていた。無数の毒蛇が3DCGで描かれるシーンは、日本製の手描き2D+3DCGを見慣れた目からすると違和感が多く、この辺りは課題であると感じた。

本作では、神様は基本的に天界にいるものの、一部の神様は地上で人間と共に暮している。そして、神様は美男美女と相場が決まっている。面白いのは天界の神様たちは、プライドが高く互いに絵牽制し合っている。神様だからと言って、お釈迦様の様に大きな心で世界を見守っている訳ではなく、人間と同じような世知辛い生き方をしている。

主人公の謝憐(シエ・リン)は、出世欲の無く優しい人柄の神様。信者がおらず、徳を積むための修行で地上に降りて来た。とりあえず、天界から南風(ナンフー)と扶揺(フーヤオ)という二人のお供が付いてきて、人間界に起きた事件を解決するという、水戸黄門スタイル。ここに、途中から謎の紅い美少年三郎(サンラン)も加わって物語は進む。

本作は、ぶっちゃけ謝憐の「受け」と三郎の「責め」のBL的な雰囲気満載で描かれるのが特徴。とにかく、この二人の男同士の思わせぶりなシーンが多い。この作風もあり、美男美女の色気漂う仕草は上手い。

物語は、怪奇現象を解明し化け物を退治をミステリー形式で進行させてゆく。1クールの中で2件の事件を解決というゆったりペースなので、各話のキャラの魅力を描くには適したスタイルに感じた。事件の真相は、届かぬ恋愛を拗らせて怨念が人間を襲うとかの物語であり、古典とも言える。しかしながら、幾重にも要素を重ねて物語が単調になないような工夫がなされていると感じた。

さて、大枠はこんな感じの作風だが、本作はいくつかの見ずらい要因を持っていた。

1つ目は、キャラの名前を覚えにくい点。

普通、自国の作品を観る時はキャラ名をすぐ覚えられるが、日本人が中国語のキャラの音だけ聞いても、なかなかキャラと一致させられなかった。考えてみると、公式HPなどのキャラ紹介を事前に見たりするのだが、無意識に漢字で覚えてしまっており、いざ耳で聞いた時に一致せずに、誰だっけ? となってしまっていた。恐らく、英語のキャラ名ならなんとなくカタカナで覚えられるのだが、中国語となるとなまじ漢字表記があるだけに、その罠にハマりやすい。しかも、三郎に関しては、別名である「ホワチョン」とか「ケツウタンカ」などの別名があり、さらにややこしくなる。これについては、ぶっちゃけ、ネタバレ覚悟でネット上の用語集などを頼りに、キャラ名を確認しながら観た方が楽しめると感じた(実際、私は途中からそうしていた)。

2つ目は、神様の設定が直感的に分かりにくい点。

中国人なら幼少期から浸透していて、違和感なく理解できるのだろうが、その予備知識を持たないと、どの神様とどの神様が仲が悪いとか、この昔話は何をモチーフにしているとかを、パッと出されても理解が追いつかない。前述のキャラの名前が分からない、という点も大きく作用している。更に、本作は事件をミステリー形式で解いて行く物語でもあるから、ずっと引っ張て来た疑惑の最期の答え合わせで、知らない神様が出て来て、良く分からない単語を喋って一件落着、とされても置いてけぼりで困惑しかない、という事があった。これについても、SNSで見かけた人物相関図によりやっと理解出来た、という感じである。

キャラや神様の設定さえ理解していれば、文芸的に悪い物語では無いと思うが、視聴していてそこまで理解が追いつかない点が、私にとっては難しく歯がゆい作品だった。これは作品自体の善し悪しというより、海外展開時の作風の相性と考えた方が良いと思う。逆に国際商品力を高めるために、尖っている部分を丸めたり、妙に説明過多にしたりするよりも、ドメスティックな感性で作品作りをしている点は、良い事に思う。

マギアレコード 2nd Season -覚醒前夜- (2021.11.10追記)

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 2期をやちよと鶴乃の救済の物語として成立させてくれた事
  • cons
    • 低コスト、リソース不足感を感じさせる煮詰めの甘さ
    • 「マギウスの翼」についての描写の弱さ
    • 取って付けた感のある、見滝原組の登場

まずは、各話メモとあらすじから。

話数 サブタイトル メモ
1話 『みんなでなら魔法少女になれる気がしたの』 見滝原組。ほむら、ういの「神浜市に来て」聞く
2話 『あなたとは少しも似てなんかない』 やちよのいろは探し。ねむの依頼で黒江いろは保護。みふゆやちよドッペル対決。いろはドッペル
3話 『持ちきれないほどあったでしょ』 いろはのドッペル結界。夢よりも現実(=他者との関り)の選択
4話 『お前はそれでいいのかよ』 いろは黒江ホテルフェントホープへ。レナかえで合流。魔女プラント。かえでドッペル暴走カプセル化
5話 『もう誰も許さない』 杏子とフェリシアさな合流。エンブリオイブ覚醒作戦。呑んだくれみふゆとフェリシアさな。キュレーションフェントホープ。灯花誰も許さない。いろは逃がす黒江、環さんや七海さんに追いつき変わりたい
6話 『私にしかできないことです』 過去に囚われの黒江。フェリシアさなマギウス脱退。みふゆ鶴乃任せて。やちよとまどかさやかほむら合流。アリナ抜ける。いろは杏子合流、突入。やちよ達合流
7話 『何も知らないじゃない』 噂と融合したマミと鶴乃。フェリシアさな合流。誰にも頼らないやちよ、反発フェリシア。調整屋みたまにももこみふゆに依頼。本心を知るのが怖い。心を閉ざすのが調整屋。ももこ私が背負う。助言は、相手に同調(=コネクト)して攻撃。やちよvs鶴乃、切り離し失敗
8話 『強くなんかねーだろ』 弱気やちよ。舞台、回想。メル死亡、鶴乃自責、やちよが追い込んだ、頼られてない、強くならなきゃ、精神的孤立、カラ元気、疲れた。強がらず、弱いまま、支え合いたい。ももこやちよ合流。鶴乃救出、マミ救出成功。過去に飲み込まれる黒江。灯花ねむ、いろは再会、真実を語りだすねむ。

1期の最後は、結果的に自分のせいで仲間が犠牲になったのではないか。と悩むやちよ。それを否定するいろはだが、戦いの中で行方不明に。不穏に勢力を拡大するマギウスの翼。といういい所で終わった。

2期は、やちよ黒江がいろはを助け出し、いろは黒江が敵本拠地に乗り込むが、マギウスの翼のエンブリオイブ覚醒作成が始動。いろはとやちよの元にみかづき荘のみんな、神浜組が集結しマギウスの翼との決戦。最終的に、噂と融合してしまった鶴乃とマミを元通りに戻し、エンブリオイブ覚醒作戦を阻止。一方、黒江はやちよいろはの支え合いの強さに触れ、自分自身もそう変わりたいと願い奮起するも、孤立状態で過去の自分に呑み込まれ闇落ち。いろはは、灯花ねむと再会し、ねむによる真実語りが始まる。という所で終わる。

この流れなら、2021年12月にあるという、3期のポイントは、ういの謎と黒江の救済だろう。

ネガ意見からで恐縮だが、とにかく本作は不満を多く感じた。

1つ目は、キャラの心情変化が感突に感じられる事が多い点。2期のプロット自体は、あらすじに記載した通り悪くはないし、筋は通っているとは思う。しかし、その描写が不足しているのか、煮詰めが足りないのか、肝心のキャラの心情変化が感突で、いかにも事務処理的にイベントを処理しているだけに思えてしまう。具体的には、8話のみたまの心情変化。みたまは調整屋として、魔法少女達が目の前で悲劇に会っても、心のブラインドを降ろし、現実から目をそらす事で自分自身のメンタル破壊の危機から逃れていた。ももこがかえでの救済を頼んでも助けてくれない。ここで、ももこが「(みたまの苦しみを)私が全部背負うから」の発言を受けて、みたまが心を開いて協力してくれるという心情変化があった。しかし、話の流れは理解できるが、ここに書いてある以上の情報も無く、説得力に欠ける。ももこの言葉が、蓄積されたみたまの苦しみをひっくり返すロジックが欲しい。これは、一例だが、一時が万事、ロジック不足な印象を受ける。

本来、こうしたロジックは、脚本会議などで煮詰めて解像度を上げて行くものであろう。シリーズ構成が1期の劇団イヌカレーさんから、2期では高山カツヒコさんに変更になった。脚本も同様だが、1期の脚本は小川楓さんと劇団イヌカレーさんの共同脚本となっていた。単純に脚本家が悪いと言いたいわけではない。一般的にこのような作り込みは、クリエイターの粘り強さが必要であり、コストと時間がかかる。しかし、その辺りに時間が割けていないように思われる。これは、制作時のコスト面の問題の可能性がある。もしかしたら、2022年に上映予定の劇場版『ワルプルギスの廻天』にリソースを割いているのかもしれない。もちろん、これは想像でしかないが、そうした「やっつけ仕事」を感じずにはいられない点を残念に思った。

2つ目は、マギウスの翼の崩壊についての描写が弱い。2期は新興宗教とも言えるマギウスの翼の組織的な力に対抗する、個々人の構図だったと思うが、その巨大な組織が崩壊した理由が良く分からない。エンブリオイブ覚醒作戦が全てを破壊する最後のオペレーションであり、ねむや灯花もその先の事は考えていなかった、というオチなのかも知れないが、エンブリオイブ覚醒作成が失敗するロジックが良く分からない。上陸するはずだったワルプルギスはなぜコースがそれたのか? それを食らう予定だったエンブリオイブは最終的にどうなったのか? マギウスの翼に組織に属していた魔法少女やドッペル化した魔法少女は最終的にどうなったのか? 

最終的に物語の焦点を、鶴乃とやちよの和解とみかずき荘の再結成にしたい意図は理解する。しかし、マギレコ自体がマギウスの翼の不気味な恐怖を描いてきており、マギウスの翼とは何だったのか?、マギウスの翼は何故崩壊したのか?、というロジックをきっちり提示して欲しかった。

3つ目は、せっかく登場させた見滝原組の必然性が感じられなかった点。あらすじで書いた通り、見滝原組は2期において、重要な役割をはたしていない。まどかたちを登場させたというのは、古くからのファンへのサービスとか、2022年に上映要諦の劇場版への地ならしとか、そうした意味合いにしか感じられない。確かに、まどかたちが登場して嬉しい気持ちは分かるが、ストイックに考えるなら、そこを削っても、みかずき荘のメンツや、マギウスの翼の描写の深みを深掘りして欲しかった気持ちはある。

4つ目は、アクションシーンの動画がこなせていない。2期でもアクションシーンは派手ではあったし作画的には頑張っていたと思う。しかし、動画で動かせていないため、ヌルヌルした動きにはなっておらず、パラパラと動く印象だった。この点も、コスト見合いなところであろう。そこを、劇場版のクオリティでヌルヌル動かしたら、コストが足りないという事になるのかも知れない。しかし、なまじまどマギや同時期放送の他の作品がヌルヌル動いているのをみたら、物足りなくなってしまうところではある。

次に、ポジ意見も少し。

物語的に、やちよと鶴乃の救済をキッチリと描いてくれた事は良かったと思う。やちよは、仲間を作っても自分だけが生き残り、自分が死神ではないかという疑念の中、仲間を作る事を避けて来た経緯がある。強くなければ生き残れないが、自分自身にも他人にも強さを強要してしまうという状況で、鶴乃は壊れてしまった。ここで、いろはの自分を捨てても他人に寄り添う力がやちよに作用する。他人の弱さ、自分の弱さを認めて助け合う。2期で登場したコネクトの概念がそれである。やちよは鶴乃救出を一度は失敗するも、最終的には二人はやり直す事が出来た。やちよも鶴乃も救済されて2期は終わる。

私自身はキャラの心情に注視して作品を観ているため、風呂敷を畳み切れない伏線があっても、キャラの物語として成立していればとりあえずOK、としてしまうところはある。

最後に、本作についての総括について。

ソシャゲのキャラを好きになってもらうタイプのアニメ化作品であり、本家のまどマギのテイストをふんだんに生かしながらマギウスの翼と言う新興宗教的な組織や、ドッペルなどの設定も盛り込んだ物語のポテンシャルの高さはあったと思うが、それが取っ散らかってしまった感はぬぐえない。キャラデザや、陰影のあるキャラの内面は、個人的に好きであったし、味のある劇団イヌカレーテイストも好きではあったが、全体的に1期よりもアート的なマギレコらしさは軽減して、普通のアニメになってしまった感はある。おそらく、3期で起死回生の逆転ホームランというのは難しそうである。

かなり、辛口になってしまったが、1期のポテンシャルの高さを考えると、2期のコストやリソース不足を感じさせるクオリティを残念と言わざるおえない。

おわりに

今期は、メイドラゴン2期、アクアトープ、かげきしょうじょがそれぞれに甲乙つけがたい感じで良かったです。逆に、断トツでドハマりした作品はありませんでした。

かげきしょうじょは原作漫画からだと思いますが、サブキャラ担当回が一編の短編小説の様な完成度で良かったですし、より複雑な要素も配置していて、良い感じの余韻が得られた脚本でした。

アクアトープは、朝ドラ風味の清涼感ある作風で、変にネガティブな人はおらず、気持ち良くみれる工夫がなされたシリーズ構成・脚本に感じました。

メイドラゴンは、1期から続く、ハイクオリティな作画・動画・演出に打ちのめされる作風ですが、シリーズ構成的に俯瞰でみても、1期とはまた違ったテーマを感じる事が出来きましたし、何よりもキャラに優しくなった感じがして、これはこれで心地よく楽しめました。

そんな中、ラブライブスーパースターの追い上げが凄かったです。1か月遅れての放送開始という事もあり、他作品が最終回で終わった後で、ラストに向けて盛り上がる流れにやられました。ラブライブは、どうせいつもの廃校阻止のためキラキラ輝くために、努力・友情・勝利って暑苦しいヤツでしょ? という先入観に対し、イイ感じで外してきたり、ド直球を投げ込んできたりで、脚本・シリーズ構成の花田さんに、またも翻弄されてエモさトラップにハマりました。

また、今期は脚本的にクセがありそうな作品もチェックしていたのですが、当たりもあれば外れもあり、という感じのクールでした。

岬のマヨイガ

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。 f:id:itoutsukushi:20210905082154p:plain

はじめに

劇場版アニメ「岬のマヨイガ」の感想・考察です。

のんのんびより川面真也監督、吉田玲子脚本コンビなので、癒し効果のある良作の期待を持って挑みましたが、期待通りの出来でした。

本作は、3.11震災映画でもありますが、個人的には良質のヒューマンドラマの印象が強く残りました。

バックボーン

フジテレビの「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」という被災地支援の企画の一環として制作されている。この被災地支援は長期的なビジョンがあり、被災10年目の今年の企画は、ひらたく言えば、被災地をアニメ化し、聖地巡礼を即して応援するというモノである。

文化庁文化芸術振興費補助金も受けており、真面目な優等生な作品的を連想させる。

ちなみに、原作小説の著者は、岩手県出身、盛岡市在住の児童文学作家の柏葉幸子先生。本作は東日本大震災をテーマにした先生の40周年記念作品である。

インタビューで川面監督は、2017年頃からコツコツ作ってきたとの事。のんのんびよりの劇場版が2018年8月公開、3期が2021年1月放送開始と考えると、がっつり並行して制作していた事になると思う。

感想・考察

作画・背景

本作は地域伝承の昔話の要素をふんだんに取り入れている。”ふしぎっと”と呼ばれる優しい妖怪たちである。

その舞台となる岩手の自然の背景美術の美しさ。のんのんびよりでも田舎の風景描写に定評はあったが、今回もその実力を遺憾なく発揮している。

キャラクターデザインはややリアル寄りにデザインされていて、キャラの身長差、中高年の表情、猫などの動物などデフォルメに逃げずに描いている。

本作は人間らしい暮らしをキチンと描く必要性からだと思うが、全般的にリアリティのある描写だったと思う。古民家の居心地の良さ、食事の美味しさ、それらが伝わる事が大前提の作品なので、そうした部分はド直球の映像を作り込んでくる。

妖怪たちのファンタジー要素もリアル寄り。特に河童のデザインは怖さ込みのリアリティある楽しいモノ。遠野のマヨイガでふしぎっと達が集結しているシーンがあるが、ここはゲゲゲの鬼太郎の世界みたいになっていた。それは、ふしぎっと達は異世界ではなく、紛れもないこの世界、同一ライン上に存在するという演出だと思う。

ただし、キワが語る昔話のシーンは突然「まんが日本昔ばなし」テイストになる。これはリアル世界とのコントラストになっていた。

物語・テーマ

震災とPTSD心的外傷後ストレス障害

東日本大震災は、多くの人命を奪った。

人命はとても大切なモノで、当然のように守られるべきモノで、空気の様に存在していて当たり前というのが平和を生きる人間の感覚である。

しかし、大災害はその思い込みを否定し、宇宙から見たら人命は虫けら同然という事実を突き付けて、被災者に殴りかかる。神の力による圧倒的な暴力と言ってもいい。

震災以外にも、圧倒的な暴力により人間が大量に死ぬ事案が存在する。それは戦争であったり、スペイン風邪のような大規模な感染症だったり。

これにより、人と人との相互依存により生かされてきた人間は、死別により人間関係の接続を一方的に切断され、メンタルを壊され、最終的には発狂してしまう(=人間が人間ではなくなってしまう)。いわゆる、PTSD(心的外傷後ストレス障害)である。

本作は、被災地に残り、弱体化したコミュニティの中で生きる人たちの中で、少し特別な立ち位置のユイ、ひよりの2人の少女を通して、PTSDにならないために、人間らしく生きるために、地域が復興するために、何が大切か?をファンタジー要素をからめて描いていたと思う。

生きる強さは、人間らしく暮すことから(働く食べる寝る→住宅→家族)

まずは、よく働いて、よく食べて、よく寝ること。

昔、ドキュメンタリーTVで、有名なお寺の住職が、人間にはこの3つが大切と語っていた。本作ではキワが、まさにこの通りの事をユイとひよりに体験させ、人間らしさを回復させている。人間は、これらの事ををおろそかにすると集中力を欠き、判断を誤り、いざという時に能力を発揮できない。大変な時だからこそ、体力や精神力が必要になる。もちろん、平常時から心と身体の健康をケアしてゆくことが重要なのは昔から不変であるが、震災時という異常事態だからこそ、この事が重要になる。

次に、住宅。

先の3つを大切にするためにも、住宅は非常に重要である。本作に登場する”マヨイガ”は、住人に至れり尽くせりだったが、人間が気持ち良く暮らすためには、人間がメンテナンスしてより住みやすい住宅に育てる必要がある。震災時には住宅を失い、プレハブの仮設住宅に暮らす被災者も多かったと思う。住宅が無いのは論外だが、こうした住宅の不自由さが人間にストレスを与える。

そして、最後は家族。

キワはユイやひよりを決して否定せず、肯定する。互いに認められる関係があり、互いに肯定し合う事で、人と人は心の繋がりを持てる。ユイは暴力で父親から否定され、両親と死別したひよりは自分につきまとう不幸に自分を否定していた。2人とも震災前から肯定されない状況があり、震災で身寄りも無くなり宙ぶらりんの状況になった。心配されて声をかけられる事はあっても、2人を肯定してくれる人はなかなか居ない。

口で言うのは簡単だが、実際の被災地の現場で人間らしく暮らす事は、物理的制約により簡単に改善する事は難しい。生きてるだけで必死という状況で、でも決しておろそかに出来ない事だと思う。主演の芦田愛菜さんのインタビュー記事で、”小さな幸せ”につて言及されている。

平時なら空気の様に当たり前過ぎて、気付く事さえ忘れてしまいがちな、これらの事について触れている様に思う。逆説的に言えば、普段からこれらの事を大切に生きたい、という作品のテーマに思う。

人間に優しい”ふしぎっと”(妖怪、お地蔵様)たち

世間一般的には、妖怪は恐ろしい存在だが、本作では、河童や、お地蔵様や、神社の狛犬は、”ふしぎっと”と呼ばれ、人間の味方で共生関係にある。

これは、ふしぎっと達と会話も出来るし通じ合えるキワが居るからこそであり、本作の癒し寄りのファンタジー要素でもある。

少し脱線するが、京極夏彦先生の「遠巷説百物語」のインタビュー記事を読んだ。

記事のタイトルにもある様に、人間が非常事態で追い詰められている状況下では、エンタメとしての妖怪が追い打ちをかけて辛さを増す事は出来ない(超意訳)とあり、本作とも通じていて面白い。

なお、彷徨える”マヨイガ御殿”は遠野にあったが、これは柳田國男先生の「遠野物語」という東北の地域伝承の昔話、民話を集めた本があり、その中のマヨイガを周到したモノである。

意外とあっさりしていた、アガメ退治

アガメは、人間の恐怖や悲しみや不安を食べて巨大化し大きな渦となる魔物。その目的は、その土地から邪魔な人間を追い払うこと。海中の洞窟に封印されていたが、震災で封印が解けて再び地上に現れた。

あれっ、と思ったのはこの設定。普通に考えて魔物なら、人間の負の感情を餌に、更に負の感情を増大し、その影響で周囲の人間も負の感情を抱かせ、エントロピー増大の法則で最終的には誰にも止められなくなるという設定になるのではないかと思う(≒まどマギ魔法少女システム)。しかし、本作では人間を余所の土地に追いやるのみに留めている。

アガメがやろうとしている事は、震災で弱体化した地域コミュニティの更なる弱体化である。このような非情事態だからこそ、互いの協力、助け合いが大切だが、その繋がりを断絶させ、人間をこの土地から追い出す、というロジック。私個人は被災者が事情により移住することを一概に悪い事とは思わない。なので若干の引っ掛かりはあったが、物語的には人間が逃げ出しアガメがその土地に定着したら人間の負けである。

また、アガメは人間の心と表裏一体なので、ふしぎっとたちが手助けはしてくれても、最終的には人間自身(=自分自身)が戦う必要がある。

これに対し、キワも伝説の小刀で対抗するが、それでも抑えきれないくらい強大化したアガメ。最終的にはひよりのお囃子とユイの舞によりアガメを退治する。

ユイとひよりは余所の土地から来た流れ者である。その2人が地域コミュニティの存続の問題に決着を付けた形である。このことで、より被災者のドラマではなく、一般的な自己肯定のドラマにシフトさせていると思う。それは、被災者自身の戦いを直接描くことが、現段階でもまだ辛すぎるということもあるかもしれないし、令和時代の痛すぎるストレスは描かないエンタメ作品として妥当なディレクションだったかもしれない。その意味でも、本作は震災をよりマイルドに扱っていると思う。

SNS等で観測した感想で、せっかくの見せ場、山場をあっさり終わらせすぎ、という意見もあったが、ユイとひよりの家族が与え合う信頼の力で魔物を倒すという物語の構図であり、バトルアクションシーン自体よりも人間ドラマ重視の構成と思えるので、これで良かったと思う。

キャラクター

ユイ

ユイは17歳であり、ショートパンツから覗く健康的な生足が印象的だったが、上半身のラフなパーカーとジャケットのおかげでエロくならない仕上がり。キャピキャピ感は無く、基本的に少し大人っぽさ強めだが、ときおり可愛さが垣間見える、という嫌味の無いライン。

ユイは、弱者であるひよりに対して優しく、何かあったら守ろうとしていたところが良いな、と思って見ていた。当初、警戒心が強くぶっきらぼうに見える面もあったが、根は優しい。

身の上としては、父親の家庭内暴力により母親は離婚。残されたユイは、すぐにキレる父親からの暴力と否定があるのみで、家庭に愛情も逃げ場も無い。「お前のためを思って」という言葉は、他人に思い通りに命令するための枕詞。

だから、序盤の氷水のシーンでこの言葉に反応してコップをテーブルから払い落として割った。実はこれは後のシーンで、父親がユイのパスタをテーブルから凪払う行動と重なっていた事が分かる。しかし、この時のキワの落ち着いた対応で、ユイの怒り感情は静まる。

キワは、ユイに家事を分担させ働いて汗をかかせ、美味しい食事を食べさせ、居心地の良い住宅を提供し、ゆっくり休める寝床を提供した。ユイの事を「真っ直ぐな所が好きさ」と褒めて肯定した。河童は、ユイのカルボナーラを美味しいと褒めてくれた。この人間らしい暮らしの中で、バイト先もはじめ、自分自身を取り戻してゆく。この事で、キワとひよりを大切な家族である、との認識を強めてゆく。

アガメがユイに見せたトラウマは、逃げてきた父親がユイを連れ戻しに来る恐怖である。父親の幻影に連れていかれそうになるユイを助けたのは、「ユイ姉ちゃん」、「大切な家族」と声に出して引き留めてくれたひより。いつも見守っていたひよりから、家族の絆のフィードバックを受ける。

危険を冒してアガメ退治したのも、家族のキワを守りたい一心で出来る事をした、という事だろう。

一昔前のドラマであれば、1つ踏み外せば、人生の奈落の底に転げ落ちてゆくリスクを持ったキャラだったと思う。それを救ったのがキワと出会い、人間らしい暮らしと家族と呼べる大切な人が出来たから、という物語だったと思う。

ちなみに、原作小説でのユイの設定は夫のDV被害から逃げてきた妻だったとの事。この場合、祖母、母、娘の3世代の疑似家族になるので、ユイが母性でひよりを守る流れにもなりスムーズだし、これはこれで面白そうである。これは全くの想像に過ぎないが、母親的な女性が主人公に据えるとアニメ的にギャップがあるというか、絵的にも難易度が上がるとかの理由で、ユイが17歳の設定になったのではないか、と考えている。

ひより

ひよりはショックで声が出せなくなった、素朴で可愛い8歳の女の子。三つ編みのおさげ髪がトレードマークだが、就寝時や寝起きの髪を解いた姿も良い。

ユイにも共通して言える事だが、ひよりは交通事故で両親を失い一人取り残される状況下で「どうして私だけこんな目に…」という気持ちがあった。他人に比べて自分だけが辛い。ただ、ユイと違い、突然前触れもなく両親と幸せな自分の居場所を失ったという落差の大きさ。お囃子の笛がお葬式を連想させ、絶望的な悲しみが押し寄せる下りは胸が詰まる。

口がきけないという事は情報発信が不便になっているという事だが、代わりに目でしっかり見て物事を受け止めている芝居の印象を持った。

ひよりは、父親の幻にユイが連れて行かれそうになった際に、これ以上大切な人を失いたくない気持ち、怯えるユイを守りたい気持ちから感極まって、声を出してユイを引き留める事ができた。キワを守りたい気持ちから、お囃子(=出来る事)でアガメを弱らせた。

ひよりは、物語的にはユイとキワを繋ぎ止める存在であったが、最終的には皆家族となり、新しく家族を取り戻す事が出来た。

河童に物怖じしなかったり、座敷童と花火をしたり、ふしぎっと達に抵抗が無く、キワの血筋でキワの役割を引き継ぐ存在になることを連想させた。

とにかく、ひよりは可愛さが目立っていた。

キワ

本作の魔法少女枠のお婆さん。ふしぎっと達とコミュニケーションを取り、ふしぎっと達と人間を仲介する。河童に海中の洞窟の様子を調査してもらったり、お地蔵さまにユイの住民票を細工してもらったり。仕事のお礼に御馳走を振舞ったり。ギブ&テイクの関係を築いている。

これは想像だが、キワという名前の由来は、「際」(境目、端っこ)という意味で、人間とふしぎっとの中間の存在という意図ではないかと思う。

身寄りの無いユイとひよりを拾って、子狐崎のマヨイガに3人で暮らし始める。ユイ達に人間らしい暮らしを提供し、存在を肯定し、自尊心を回復させる。その与え方や包容力が圧倒的。最初は警戒していたユイの心も開き、家族と呼べる信頼関係をを築いた。

キワがいいなと思うのは、絶対に相手の存在を否定しない、無理強いせずに行動を起こすまで待つ、笑顔を忘れない、といったコミュニケーションのスタイル。

なぜ、ユイとひよりの2人を選んだか?については、ひよりは実の孫だったから、ユイはひよりに親切にしてくれていたから、だと思う。

アガメとの決闘を決心した際、小刀を取りに行くついでにユイとひよりを遠野に置いてきた。死のリスクがあるから、2人には生き延びて欲しいという気持ちだったのだと思う。

地域伝承に精通しているから、常識では計り知れない、それ絡みの問題に対して敏感で、ふしぎっと達と連携して問題を解決する。その行動はボランティアとも思え、常に与える立場に居る。キワ自身が持つ力があるから、「出来る事をする(=最善を尽くす)」が、このような行動になるのだろう。圧倒的に大人であり、ある意味、仙人のようにも思う。キワの存在自体がファンタジーとも言える。

常識的に考えれば、ユイを引き取る件も事件に発展する可能性があるリスクであるが、そうした常識を超えた部分で行動するのは、ふしぎっと達と通じる達観した価値観によるものかも知れない。

キワは本作のテーマそのものである。それは、語り継がれる地域伝承の昔話のように、人間の願望や教訓が具現化したものかもしれない。

おわりに

期待通りに、優しさに満ちた上品な作品だと思いました。

テーマ的には3.11震災を描いてはいますが、より個人的な物語に帰結していますし、そこまで重く構えずに観れるヒューマンドラマに感じました。

反面、物語的にはこじんまりとしてしまい、パンチが弱いと率直に感じました。

最近感じでいた事ですが、何をするにしても、地盤となる「人間らしい暮らし」を大切にする事が重要という部分にストレートに触れていたように思います。

食事が美味しそうだったり、古民家の生活が気持ちよさそうだったり。ガジェットがほとんどないアナログな生活、しかも妖怪と人間が共生する世界。もしかしたら、外国人が本作を観たら、異世界転生モノに感じるかもしれない、などと妄想しました。

竜とそばかすの姫

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。 f:id:itoutsukushi:20210725162936j:plain

はじめに

細田守監督最新作「竜とそばかすの姫」の感想・考察を書きました。

個人的に、細田監督の作品は、余り観ておらず、かなり以前に「時をかける少女」をTVで観たという程度のため、他の細田監督作品との比較考察はありません。ただ、毎度賛否両論になる細田監督の作品という事で、興味を持って鑑賞しました。

率直な感想を述べると、ケチの付ける所が無いバランスよいエンタメ作品だと感じました。

以下、いつもの感想・考察になります。

下記の章を追記しました。

  • 本作の賛否両論についての考察<2021.7.29追記>

感想・考察

ネットとリアルの対比

ネットもリアルも否定しない今風なディレクション

ネット世界の描写はド派手。3DCGを活かして、立体的で精細。それでいてお城のシーンなどは不思議と調和のとれた色彩で嫌味が無い。絵としてはパンフォーカスな感じでノイズが無い鮮明なモノである。

一方、リアルワールドの描写は、従来からの手描きの作画、背景の領分であり、ある意味地味に描かれている。絵としてはフィルムで撮影した際の空気感を感じさせる、落ち着ける映像である。

このギャップをメリハリを付けて描くことが、本作のポイントになっている。

そして、本作は、どちらか一方を否定する事無く、ネットもリアルも両方とも肯定している点が今風である。

例えば、2007年のTVアニメ『電脳コイル』は、ネット(正確にはネットに繋がったAR:拡張現実)を子供が熱中するゲームの様な世界として描いた。作中の大人視点では、大切なのはリアル、ネットはいつか卒業すべきモノとして否定的に描かれていた。しかしながら、本作では誰もネット自体を否定しない。

本作のテーマで言えば、ネットの世界でも勇気は必要だし、リアルの世界でも勇気は必要である。その取っ掛かりをネット世界で変身する事で掴んだり、ネットの経験を元にリアルでの勇気にフィードバックしたり、二つの世界でアバターが違えども、同じ魂で繋がっている事で、ネットとリアルの良い相乗効果が望ましいとして描かれていた様に思う(というか、そう汲み取った)。

もはや、ネットは人類が掴んだ新しい生活必需品(=道具)という事であり、そのディレクションが今風だと思う。

ド派手な今風のネットワールド<U>

本作のネット社会は<U>と呼ばれている。ネットワークで接続された、個人のデバイスがその人に応じた拡張現実を提供する。繰り返される謳い文句は、<U>はもう一つの現実、<As>はもう一人のあなた。<U>はもう一つの人生をネットの中で提供する。つまり、変身願望を叶える事が出来るかも知れない世界である。ただし、<As>はリアルの身体の拡張現実であり、魂の部分は同一なのが大前提である。

よくよく、ディズニー映画の『美女と野獣』のオマージュという意見を見かけるが、私はこれさえも、ネットのインターナショナルなエンタメ性を具現化した表現だと想像している(ちなみに、私は『美女と野獣』は未鑑賞)。

すずは、リアルでは母の死がトラウマで人前で歌えなくなっていた。しかし、ヒロの招待により<U>に接続して、Belleに変身する事で歌う事が出来た。ヒロはBelleと歌をプロデュースし、プロ顔負けの立派な楽曲に仕立て上げ<U>の世界でバズらせる。ネット内の評価は、最初は取るに足らない感じから、批判的なモノ、好意的なモノが混ざり、次第に大きな渦を巻いて、賛否両論となる。ネットの世界で賛否両論は正常な状態。賛成100%は何か裏があるし、本当につまらなければ無視される。こうして、Belleは<U>の世界でライブで圧倒的な視聴者数をカウントする新たな歌姫となった。

ここまでの部分は、ネット世界で変身して魂を解放し成功するというサクセスストーリーになっている。なので、観ていて気持ちが良くて引き込まれる映像になっている。

その後、ネット内の狂暴な存在として竜が登場する。ネット内で破壊を繰り返し、ネット民のヘイトを溜める。そして、それを取り締まるジャスティスと名乗る自警団。いわゆる、「〇〇警察」や、行き過ぎた正義を振りかざし、ターゲットを身バレさせて攻撃する悪役として、現代のネットの風刺して描く。そして、なかなか捕まらない竜の存在についてネット民の関心が集まりつつあった。

ネットの世界は刺激的であり、サクセスストーリーもあり、様々な芸術やエンタメに触れる事が出来る。しかし、このようなノイズも多く、心休まらない感覚もある。だからと言って、本作はネットを風刺する事はあっても否定する事は無い。

ネットとリアルの二つの世界を結ぶ「身バレ」のリスクの扱い

ネットの世界は匿名が基本である。しかし、ネット上の炎上案件でヘイトを溜めたアカウントに対して、リアルの個人情報を特定して公開し、リアル世界でその個人に嫌がらせをしたり迷惑行為をする。これが、いわゆる「身バレ」である。本作では、アンベイルと呼ばれていた。

本作では、この「身バレ」は2回使われた。

1つはヘイトを溜めた竜の攻撃する手段として。これは、先の説明通りである。

もう1つは、身バレした竜(=恵)の信用を取り戻すために自ら身バレして<U>の世界で「すず」の姿でBelleの歌を歌ったところ。

これは、リアルでの接続を持つ必要性からの苦肉の策ではあったが、ネット内でもすずの容姿に対する落胆だけでなく、応援の声も混じり、その歌声自体はまごう事なきBelleの歌声であり、ネット内の聴衆を釘付けにする巨大な渦となる。それは、リアル(の容姿)でも自信を持って歌う事が出来たすずのトラウマ克服の姿を描くと言う、物語のクライマックスとして重要なシーンである。

これにより、従来のBelleという存在は、恐らく消滅してしまうのだろうと想像する。ネット民は、その意味を知らないが、その歌に感動する。また、ある者は、平凡な女子高生がこれだけの魅力を持つヒーローになれる事に感銘を受け勇気づけられる者も居る。でも、それはついでの事というのが押しつけがましくなくてよい。

私の記憶からは欠落していたようだが、最終的には、<U>の世界でBelleの姿で歌うシーンがあるとの事。だとするなら、身バレをしても<U>の世界で受け入れられた、という事であり、リアルとの接点をも飲みこんで<U>という市場がBelleを受け入れられた、という意味である。ヒロの言う、積み上げてきたモノを台無しにするという事と天秤にかけての、身バレだったが、その勇気に対する肯定しBelleの歌を望む声が、否定を上回った、という事だろう。もしかしたら、そこが本作に込めたネットへの希望なのかもしれない、などと想像した。<2021.8.3追記>

地味とも言えるリアルワールドの表現

ネットのクライマックスに対して、リアルのクライマックスは、驚くほど地味に描かれる。

具体的には、恵と知の住所を特定して、すずが高知から川崎に向かい、父親の暴力から恵と知を守るシーンであるが、この部分は、映像的には驚くほど地味である。すずの恵と知を守るという意思の強さを目力で父親が気圧されるというシーンであるが、メラメラとしたオーラが透過光で滲み出て気迫を描く、というような非現実的な演出は一切ない。ネットの聴衆のような観客も居ない。

このシーンは坂道を横から撮影するシンプルで平板な構図を使っていた。他にも、川べりを歩きながら会話するシーンが多用されるが、そこも画面の中央を大きく川面が占有し、その中に人物を置くという平板な構図である。しかも、割と重要な心象描写のシーンでこの構図を使い、登場人物の向きも重要な意味を持つ。それは、舞台上で演劇をイメージさせたりする。ここも、立体的に見せていたネットとの対比と考えられる。

それから、リアルのシーンは必要以上に登場人物の顔に寄らずに、引きで撮影しているシーンが多い。この辺りも、リアルの芝居がダイナミックになり過ぎないようにするための工夫では無いかと考えている。

また、校内の中庭の周囲を囲う校舎と廊下。これは、コロシアムを連想させるものであり、二階廊下の観客が、中庭の舞台を観劇する事を連想させる。ただ、リアルでステージ上に居るのはルカであり、すずとヒロは一観客でしかないのだが、それがネット内ではひっくり返るというフリである。

映像自体は、細田節全開の線の細いキャラクター。背景は手描きの味わいがあるちょっとボケ気味のモノであり、ここも敢えてネットのようなクッキリ感を排除している。

総じて、リアルワールドは、ネットワールドと比較して意図的に地味に描かれていたと思う。もっと言えば、より実写的な映像を多用する事で、ネットの3DCGで描くダイナミックな世界と書き分けていたと思うし、そこは徹底していた。

物語・テーマ

本作は、母親の理不尽な死を受け止められず、10年間も悶々としてきた(=よりハッキリ言うなら母親を許せなかった)すずが、自らの体験を通して母親の気持ちを理解して、憑き物が落ちるという流れである。物語としては綺麗に成立している。

この10年間のすずを、父親も、ヒロも、しのぶも、合唱隊のおばさんたちも見守ってきた。特にヒロは、<U>の世界で自身の交友関係を使ってすずをBelleとしてプロデュースし、すずの魂を解放した(ヒロ個人が楽しんでいた面は多分にあったが)。父親が電話で(グレずに)優しい子に育ってくれた、という裏には、こうした周囲の人間の力が有った事を想像させる。

一方、恵は父親からの虐待により、心に深い傷を負っていた。竜の城の女性の絵画のガラスのひび割れからすると、母親の事も憎んでいたのだろう。愛のない環境で、知を守る為に一人で孤独に戦ってきた。ありていに言えば、恵の救いはすずが愛の手を差し伸べ、父親から護る事で、孤独から救われるという事になる。

ただ、Belleが竜に惹かれていった経緯というのは、ちょっと分かりにくく感じた。本質的には、すずが前足を負傷していた犬を飼っていた事と符合するのだが、すずは心に傷を負った弱者に対して敏感であり、救済する心を持っていて、その視点で直感的に竜の痛みを感じたから、というのが妥当だろう。その根底にすずの優しさがあり、その延長線上にすずの勇気がある。

テーマとしては繰り返し使われるモチーフで有り、物語としては非常にシンプルであると感じた。

それゆえ、難解ではないと思うが、より複雑なモノを好む観客からは、パンチが足りないと感じるのかもしれない。

個人的には、とっ散らかって投げっぱなしの作品よりも、綺麗に成立している物語を好むので、好印象しかない。

ディズニー調のデザインと歌唱の役割

本作が、細田守監督作品として挑戦的だなと思うのは、ネットワールドの映像を、ディズニーを連想させるデザインを多用してきた所にある。いわゆる、ジャパニメーションが培ってきた萌えの文法から外れたヒロインのデザインが本作のテイストの重要な役割を示す。

それは、パラダイスとしてのネットの具現化として、全世界共通知であるディズニーを基調とする事で、そこが夢の世界である事を直感的に分からせる事。それは、ターゲットをワールドワイドと考えた際に、より効果的なディレクションだと思う。

Belleのデザインは明確なディズニーの文法で造られる。ロングドレスに引き締まったウエスト。大きな目と力強い唇。アイシャドウと口紅はしっかりと。誰が観てもお姫様というアイコンである。

そして、お姫様の歌唱も力強くてアナ雪を彷彿とさせる、誰もが凄みを感じる非常に出来の良い仕上がり。

本作がネットとリアルの二面性を持つ作品だからこそではあるが、このように大胆に従来の文法からかけ離れた作風を取り入れられた面はあると思う。しかし、それをソツなく仕上げているのは、何気に凄い実力なのではないかと思う。もしかしたら、人脈的にも作風的にも、今後の細田監督の作品に大きく影響するのかもしれない、などと想像していた。

ただ、理性では狙いは分かっていても、個人的にはディズニー調のお姫様というのはどうしてもケバく見えてしまって萌えられず…、という気持ちが有った事は正直に記しておく。

本作の賛否両論についての考察 <2021.7.29追記>

本作の脚本が駄目だ!と主張する意見をSNSで良く見かけたのが、個人的にケチを付ける所が無いと感じていたので、具体的に何が問題視されているか、ブログやYoutube動画の感想を漁ってみた。

否定派のポイントをざっくり整理するとこんな感じだと思う。

  • リアルのラストの虐待児童を助ける下りに違和感あり!
    • 女子高生1人が遠方の児童虐待の児童を助けに行く。
      • 危険。大人を付けるべき。
      • 虐待の父親が逃げ出すが、説得力(=論理)の無いご都合展開。
      • 児童虐待は社会問題。女子高生1人に任せる展開が不自然。

まあ、なるほど、主張は理解できるし、これを言われると反論は難しい。

しかしながら、私が鑑賞した際にこれらの違和感に捕らわれずに受け入れられた理由は、おそらく、本作がフィクション映画(=メッセージを含んだ寓話)であるという認識があるからだろう。

この一連のすずの無謀とも言える行動は、増水した川で子供を助けようとして亡くなってしまった母親の行動と重ねる事で、すずが母親の死を許す、という物語の構造になっている。なので、誰の助けもない状況下で、命懸けですず本人が弱者救済を選択する必然性があった。結果的に児童虐待の父親が現場から逃げ出すくだりはご都合展開と言えるが、これこそが寓話としての奇跡であり、物語としての救い(≒祈り)である。つまり、児童虐待という社会問題を切り口にしつつ、シンプルに主人公の成長を描く作風だった、と私は解釈している。

ここで一旦、否定派の意見を列挙すると、こんな感じである。

  • 否定派のご意見
    • ネットの<U>の世界ならまだしも、リアルの児童虐待をテーマにしているのだから、そこはファンタジーじゃ駄目でしょ。
    • これを観た子供が、間違った理解で現実社会で振舞ったら危険でしょ。
    • そこは、もう少し説得力を持って違和感無く描くのが良いエンタメでしょ。
    • 少なくとも大ヒットと言われる超メジャー映画だから、影響力は大きいでしょ。

否定派の根っこには、本作を寓話(=メッセージを伝える事を優先したお伽話)として許容できるか否かが分岐点に思う。これを整理すると、下記となる。

  • ラストの虐待児童の救出の感じ方
    • 肯定派は、本作は寓話、テーマは個人の成長、特に違和感は感じない
    • 否定派は、テーマの社会問題の解決が雑&ご都合展開、強く違和感を感じる(=本作を寓話とは思っていない)

では、ここまで来て本作は寓話か否かという議論になるが、そこはどちらが正解と言う話では無く、個人個人が自由に感じ取ればそれでイイ気がしている。つまり、本作は寓話か否かの議論は不毛だと思う。

さて、本作が寓話だとして、そのメッセージが何かについて、改めて考えてみたい。

否定派が指摘するご都合展開を使ってまで描いたモノは一体何だったのか? それは、誰も助けに行かない(≒行けない)状況で、リスクを承知で危険をかえりみず、弱者に手を伸ばし救済する事。それは、勇気と言ってもいいだろう。

ただ、母親は不幸にもその勇気で命を落としたが、そこに深い意味は無い。母親が死んで、すずが死ななかったのは物語の生んだ偶然(=運命)でしかない。

少し見方を変えると、たった一人で立ち向かう事については、周囲のノイズに流されず、自分の中にキチンとした価値観を持ち、行動する姿が描かれていた。この構図で対比になるのは、<U>の中で竜の心の痛みに気付いたBelleだけが、竜の心配して庇った事と重なる。Belle自身は、ネット内では賛否両論だが、竜は99%以上ヘイトを溜めており、ネット民が正義を振りかざして叩きたいターゲットである。そこに疑問を持ち、何故なのかと深掘りし、本当に否定すべき問題なのか? その裏に真実が潜んでいるのではないか? そういう問いかけを常に持ち続ける事の大切さをメッセージとしているのではないだろうか?

本作では、しのぶも合唱隊のおばさん達も助言はするが、すずの代わりに行動する事は無い。あくまで、すず自身が責任を取る形で、他の誰でもないすず自身が選択するのだという事が描かれていた。何も選択しないことではなく、選択する勇気。他人のせいにしない勇気。その辺りは若者に向けた本作のメッセージではないかと思う。

ここまで書くと気付く方もおられるだろうが、

  • 毎回賛否両論となる細田監督作品=本当に良いモノは賛否両論の巨大な渦になるという事
  • 寓話ゆえにツッコミどころ満載で酷評に耐える細田監督=ネット民からのヘイトを溜める竜

という感じで、<U>の世界は、細田監督作品のエンタメ感を描いたものであるとも言えるし、もはや、賛否両論は細田監督の芸風(=生き様)と言ってもいいかもしれない。

仮に、否定派が言う通り脚本家を別に立ててネガ要素を徹底的に排除した脚本が出来ても、メッセージ性や感動が弱くなるなら本末転倒である。また、監督は作品のディレクションを決定する権限を持っているのだから、そのような脚本は不採用になるから、細田監督以外に脚本を書かせれば良いという単純な話でもないだろう。

ブログ初稿公開後に、いろんな感想・考察を漁り、更に本作について考えを深めた形になったが、それはそれで非常に良い体験をしたと考えている。今回参考にさせていただいた中で良かったと思える感想・考察を幾つか列挙させていただくので、良ければご参照いただければと思う。

おわりに

私はキャラの心情と変化に筋が通っていて欲しいので、それが出来ていない作品の評価は下がります。本作は、寓話的ご都合展開が多いと言われていますが、キャラの心情をより大切に造られていると感じられるため、私にとっては逆に違和感無く観れました。なので、私が鑑賞してみた本作の感想は、「特にケチを付ける所のないバランスが取れた作品であり、物語的にも綺麗に閉じていて不満無し。」というモノです。

強いて弱点を言うなら、本作は優等生過ぎると思います。もっと若くてギラギラした感じが欲しければ、『天気の子』などの新海誠監督作品の方がより好みに合うのだろうとは思いました。