たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

映画 ゆるキャン△

ネタバレ全開につき閲覧にご注意ください。

はじめに

ある意味、エポックメイキングな作品となったTVシリーズの「ゆるキャン△」。その映画の感想・考察です。

10年後の大人の5人を描くという事で、色々と身構えて観てきましたが、想像以上にゆるキャン△そのものでした。

ちなみに、TVシリーズ1期の感想・考察も書いていますので、良ければこちらも読んでみてください。何が変わって、何が変わらなかったのか。その辺りをずっと考えていました。

感想・考察

テーマ

JKから社会人への変化

TVシリーズから映画の5人の変化点を下記に列挙する。

No. 項目 TVシリーズ 映画 備考
1 職業 JK 社会人
2 年齢 16,17才? 26,27才くらい? 年齢は推測
3 時間 ある ない
4 お金 ない ある キャンプ用品くらい買える
5 キャンプ 毎週のように 遠ざかってる
(なでしこ除く)
6 ストレス
心配事
少ない 多い

TVシリーズでは、JK時代の楽しいキャンプ生活を描いた。何をしても新鮮でキラキラ輝いていた。気の置けない仲間とも馬鹿言って語り合った。

映画では、10年くらい経過し社会人となった5人を描く。みんな仕事も住所もバラバラ。最後にみんなで集まったのは3年前のキャンプ。それぞれの生活に追われ、キャンプも遠ざかっていたが、ゆるくSNSで繋がってはいる。

ちなみに、大人になった5人ではあるが、異性関連については触れられていない。流石に結婚話はなかったが、恋愛や失恋の1つや2つあってもおかしくはない。しかしまぁ、そこはファンの心情を考慮してスルーしてくれたスタッフのファンに対する優しさだろう。とりあえず、現状で5人ともシングルでフリーの扱いだったと思う。

大人になった5人は、それぞれに何らかの行き詰まりを抱えていた。リンは仕事の成長、大垣は観光推進機構での今回のプロジェクト、あおいは赴任先の小学校の廃校、恵那は愛犬のちくわの老衰、なでしこは、多分販売員としての業績のように思えた。誰もが順風満帆ではなく、少しだけ人生の陰りのようなモノを漂わせていた。

ここが、TVシリーズと映画の最大の変化である。つまり、ストレスフリーと言われていたTVシリーズに対し、明確にキャラ(≒観客)にストレスを与えるディレクションになっている。それは、多くの観客もまた社会人であり、仕事をしながら趣味でキャンプを楽しむ人たちに寄せて共感できるようにするためだったのではないかと思う。

5人が集まるという意味

個人的な事を言うと、私も高校時代につるんでいた友達が数人いて、掛け替えのない宝だな、とかはたまに思う。勿論、片田舎の高校の友達ゆえに、大人になってみるともっと凄い人は世の中たくさんいる事も分かってくるのだが、この時の友達ほど気さくな会話ができる関係というのは、その後はなかなか出来ないものである。

高校を卒業し、就職や大学進学、地元に残る者、都会に移り住む者、みなバラバラになったが、正月やお盆の帰省で集まって飲みに行ったり。そうこうして、みな家庭を持ったり、独身もいたり、生活も変わったり、仕事も変わったり。そしてだんだん疎遠になり集まる事も少なくなっていった。そういえば、コロナ禍になった頃、リモート飲み会したな、とか。

社会人になってこうした友人と飲み会で語り合い、自慢したり、愚痴ったりする事もあるが、彼らとは損得勘定の打算がないから、本音をぶつけられる。例えその事で問題が解決しなくても、ただ聞いてくれるだけで気休めになる。無理すんな、の一言で気持ちが軽くなったり。時には、既婚女性に惚れてしまったなどと告白されて、無責任に不倫を応援するのもなんだし、辛いな、くらいの相槌しか出来なかったが、それでも聞いてくれてありがとうと彼は言っていた。

話がかなり脱線したが、今回の映画を観て、なでしこたち5人の友人関係に、こうした自分の高校時代の友人関係と似た感覚を持ったファンは多いのではないだろうか。

この5人の関係で感じるのは、誰かが困っていたときに、その問題を排除したり、解決したりしてくれるわけじゃない。問題に立ち向かうのはあくまで自分で、ただ側にいて話を聞いてくれたり、誰かの行いが他の誰かの勇気になったり。一緒に馬鹿騒ぎしてガス抜きしてくれたり。そうした、互いに依存し過ぎない、ある意味ドライさなのだが、それが良いなと思う。そして、その距離感は、ゆるキャン△が延々と描いてきたモノだと思う。

何を「再生」したのか?

本作のテーマが「再生」にある事は明白だと思う。

  • なでしこ、リン、千明、あおい、恵那の5人
    • キャンプ熱の再来
    • 行き詰まり感じていたメンタルの再生
  • キャンプ場作り
    • 閉鎖施設や設備の再利用
    • 縄文時代の住空間をキャンプ場として再生

一番大きいのは、細くなっていた5人の繋がりが、以前のように太くなった事だと思う。それは、ラストの5人とも個人のテントを持ち寄って年越しキャンプをした事が象徴となっている。

また、社会人になりすり減ったメンタルは、友達との交流を通して癒されていく。小学校の廃校を悲しむあおいの気持ちに千明が寄り添い、なでしこのキャンプの楽しさの伝搬が喜びと言う話を聞いて、リンの励ましになったり。そうして、今の人生をまた一歩踏み出してゆく。

キャンプというのは非日常であり、ゆっくりとした時間の中で過ごす事で、新たな気付きや気持ちの整理ができたりもする。そして、キャンプが終われば日常に戻る。なでしこがリンと八ヶ岳の秘湯で湯治するのも同じこと。キャンプ自体が「再生」との相性が良いテーマだと思う。

そして、リンが劇中で決めたキャンプ場作りのテーマは「再生」。建物や巨大鳥かごやドラム缶や小学校の遊具を再利用し、インフラを再整備した事は、「再生」と直結している。

ちょっと面白いのが、縄文時代の住空間を時代を超えてキャンプ場に再利用するという考え方。キャンプ生活が、電気もガスも無かった縄文人の生活スタイルに近づいてゆくことになるという発想。キャンプを通じて、同じ星空を見て、同じ景色を見て、縄文人と同じ空間を過ごすという体験。これは、時代を超えた住空間の再利用を描いていたとも言えるだろう。

ラストの5つのテントの意味

EDでは、キャンプ場オープンから年末までの間の3か月間の5人の様子が描かれる。そして、ラストに5人がそれぞれのテントで元旦のダイアモンド富士を見る姿で映画は終わる。

それはもちろん、2期2話で千明とあおいが拝みそびれた初日の出のリベンジという意味もあるが、それだけではない。

工事中はなでしこがレンタルしてきた巨大テントで一緒に寝ていたというのは、なでしこやリンはともかく他のメンバーはテントを持っていなかったからではないかと思う。それがラストでは、各自テントを持ってきているという事は、趣味としてのキャンプが再開したと捉えてもよいだろう。そして、同じキャンプ場でありながらテントが違うことで、本作のテーマでもあるソロキャン(=自分に向き合う)的なニュアンスも漂わせる。

この1カットを持って、依存し過ぎず、ときおり交差して楽しい時を過ごして息抜きする、大人の5人のよき関係の復活を宣言していたと思う。

それは、TVシリーズから連綿とつながるゆるキャン△の良さであり、映画でも変わらなかった本作の魅力だと思う。

キャラクター

志摩リン

ストイックで本好きのリンは、名古屋で出版社に勤めていた。営業から編集に配属が変わり、この職場ではまだ半人前である。祖父の大型バイクを譲り受け、ときおりツーリングにでかける。バイク屋の店員の綾乃とも繋がっていたりする。満員電車に揺られての通勤、企画はボツる、色々と行き詰まりを感じていたところであろう。

千明に無理やり頼まれて、キャンプ場作りをOKするが、それを連載企画として採用され、仕事でもそれで回り始めた。しかし、その事が職場の先輩の負担になっている事を後で知る。

キャンプというのは非日常を過ごすが、いずれ日常に戻る。この非日常で普段過多になっている情報を遮断し、自分を見つめ直したりできるところが良い所だろう。また、名古屋から山梨までバイクで4時間のツーリングである。このツーリングで、とりとめのない事が脳裏に浮かんでは消えて行くのも、キャンプ同様の非日常の効果があると思う。

リンはキャンプ場作りにおいて、自分が過去キャンプしていたキャンプ場を周り、コンセプトを確認する。これにより、自分の過去のキャンプを振り返り、自分たちの新たなキャンプ場のディレクションを決める。これは、ある意味創作活動であり、今のリンの仕事だからこそである。本作の「再生」というテーマは色んな意味にかけられているが、リンにとっての「再生」は、何もかも手を入れて綺麗にしてしまうのではなく、今あるものを受け入れて味わう、というニュアンスに感じた。

そして、遺跡発掘→キャンプ場作り頓挫→先輩に甘え過ぎた→仕事に励む→ますますキャンプ場作りから遠のく、という流れのなかで、リン自身も以前にもまして仕事に追われ疲労困憊してゆく。

そんな時、なでしこの誘いにより、八ヶ岳の秘湯まで湯治に行く。それは、なでしこからの、停滞する今の状況にモヤモヤする気持ちの共有と、意気込みの告白だった。キャンプの楽しさを広めたい。そして、リンちゃんなら出来るよ、の台詞。5人の中で一番忙しくて、負担が大きく、しかも今作業が頓挫しているから、リンの心が一番折れやすい。だからこそ、なでしこも一緒に成し遂げたい気持ちを伝えた。その後、二人で市庁舎に直行する展開が熱い。

オープン当日のビーノの活躍は、完全にファンサービスであろう。我らのリンちゃんの復活を高らかに気持ちよく宣言するものであった。

各務原なでしこ

常にポジティブでバイタリティー溢れるなでしこ。キャンプだけでなく普段からロードバイクに乗るストロングスタイルのアウトドア女子になっていた。東京でアウトドアショップの販売員の仕事をしていた。

本作のなでしこは、JK時代に比べ、なんとなく心の片隅にモヤモヤを抱えていたような気がした。それは、絵の表情の雰囲気だったり、声の演技だったりしたのかもしれない。単純に大人になって落ち着いただけだったのかも知れない。

しかし、各キャラが何らかの行き詰まりや悩みを抱えていた事を考えると、もしかしたら、なでしこは自分の営業スタイルに少し自信を無くしていたのではないかと思った。お客様のニーズと予算を考慮するのはいいのだが、他店の商品をすすめてしまうのは販売職としては致命的であろう。店長は大目に見ていたが、そこをなでしこ自身も引っかかっていたのではなかろうか。

キャンプ場作りが遺跡発掘のために頓挫しているとき、八ヶ岳の秘湯でリンに告白する。キャンプの楽しさを伝搬し拡散したい。その気持ちは、リンに発破をかける言葉になったが、なでしこ自身への言い聞かせにも思えた。

最終的に、なでしこはガスランタンの購入で迷うJK3人組の背中を押す事ができた。ガスランタンはなでしこが最初にバイトで買ったキャンプ用品である。

結局、なでしこにブレがあったのか否かは分からない。でも、なでしこの生き方と思いは、キャンプ場造りを通してより強固になる。

大垣千明

千明は、いつも言い出しっぺで、みんなを引っ搔き回す。ある意味、問題児である。

今回のキャンプ場作りの件は、他のメンツはともかくリンが一番説得に手間がかかる事を見越して、最初にリンを口説くという作戦だったのではないかと想像する。気遣いはできるが、巻き込むと決めたら強引なヤツ。だが、憎めない。リンを無理やり連れて来たのは、リンに土下座して頼むのと同じ事だが、その重さをリンも理解しているところが良い。

遺跡発掘でキャンプ場作りが頓挫しそうになった時は、千明が一番辛かったであろう。それこそ、みんなに土下座してもいいくらいに。最終的には、千明のプレゼンの甲斐あって、市を説得してキャンプ場作りを継続に持ち込んだ。

そのプレゼン内容が今風である。まず、自分たちがキャンプ場作りの思いを語り、遺跡発掘も肯定し、最終的に相乗効果でWin-Winとなるハイブリッド案を提案する。誰も否定せず、全てを肯定するゆるキャン△のスタイルそのものである。

プレゼン資料は恵那が作ったのだろうが、その道筋を考えたのは誰だろうか。非常に興味深い。

犬山あおい

あおいは、勤務先の小学校が廃校になる事に心を痛めていた。これは、大切なモノとの別れである。

単純に話を盛り上げるなら、大切な人との死別を差し込むところだが、ここはゆるキャン△のテイストで、小学校の廃校というイベントにしているのだと思う。本作が10年後という時空を超えた話ゆえに、止められない時間と避けられない別れを受け止めるという儀式を描いていたと思う。

あおいは、「嘘やで」の言葉を使って心で泣いて、千明はそれを理解して受け止めた。別れの事実は変えられない。慰めや、励ましの言葉が欲しいわけじゃない。でも、その悲しみを誰かが知ってくれているだけで、気持ちは軽くなったりする。そうした関係に思えた。

斉藤恵

恵那は、ペットのちくわとの別れの予感が描かれた。あおいが「別れ」を描いたことに対して、これから「別れ」が訪れる者としての寂しさである。

恵那は横浜暮らしで、ちくわは山梨の実家暮らし。残された時間は少ないが離れて暮らす事もあり、さらに時間は限られる。散歩して河原に腰掛けて、「温かいね」というシーンでグッとくる。

余談だが、ゆるキャン△のキャラは行動や思考が男性である、という話をよくする。だから、ストイックなリンや豪快ななでしこや、引っ掻き回し役の千明や、お笑い担当のあおいの事を、こういうヤツ居ると思える。しかし、恵那だけは、女性であり本作のヒロインであると思う。

OP曲/ED曲

今回も、曲が良い。

ED曲の「ミモザ」の花言葉には「友達」という意味も含まれているとの事。ワルツなのが良い感じの曲。

また、OP曲はゆるキャン△のテイストそのもので、朝に聴きたい曲。

おわりに

映画ゆるキャン△は、10年後の大人になった5人を描く、という意味で挑戦的な作品だったと思います。

多くの観客は大人で、なでしこたちがその大人に追いついた形であり、その意味でより大人の観客に沁みる内容になっていたと思います。

そして、変に成長を描くのではなく、5人のテイストを大切にして、楽しさはそのままにしているところが非常に嬉しかったところです。

おそらく、アニメの「ゆるキャン△」は、映画で幕を閉じるのだと思いますが、本当に良いエンドだったと思います。

2022年春期アニメ感想総括

はじめに

2022年春期のアニメ感想総括です。今期の視聴は少なくて5本。以下、いつもの感想・考察です。

感想・考察

であいもん

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 和菓子のように繊細な人情ドラマの味わい
    • 背景、作画、文芸、演出、音楽、全方面にバランスの取れたアニメーションの出来の良さ
  • cons
    • 特になし

今期の吉田玲子シリーズ構成作品。監督は追崎史敏。制作のエンカレッジフィルムズは、最近の作品だとごちうさ3期を制作しており、中堅ながら堅実な作品作りという印象がある。

実際にアニメーションとしても変にリッチ過ぎたりせず、淡くて心地良いタッチの背景画や、スッキリとしたキャラクターデザイン、耳障りの良い劇伴など、心地良さ重視で不快に感じるモノは何もない。とはいえ、演出面で退屈するという事はなく、レイアウトや演出のテンポや音使いにもダルさもなく、設計意図が明確で心にストレートに浸透してくる感覚。この奇をてらわない作風が、本作の最大の魅力だろう。

キャストもかなり良くて、一果(CV結木梢)や、和(CV島崎信長)はその頑なさや大らかさのキャラのイメージにマッチした声質と演技であり、本作の魅力の1つだと思う。主要キャラが全員京都弁なのも、本作の挑戦だったのではないかと思う。ちなみに、「響け!ユーフォニアム」では京都弁が喋れることを条件にしたら声優が限られてしまうから、標準語にした、という話をどこかで聞いた。

シリーズ構成は、吉田玲子。四季の移り変わりとともに、和菓子屋で働く人たちの人情ドラマを描く。この手の作風には絶対の安心感がある。

物語としては、和をいい加減だと拒絶した一果が、時間の経過とともに和の優しさに触れ、和を受け入れていくという流れ。6話の運動会からツンツンしながらも和を家族だと認めはじめ、9話で和の誕生日に一果の一日デート券を渡し、12話で和と父親の事をはじめて会話して今の気持ちを打ち明けた。

和は無意識に父親を求める一果の事はずっと知っていて黙ってた。父親のこと、一果の気持ち、それらを否定も肯定もせず答えを出さずに、ただ家族として一果を笑顔に、元気にしたいという気持ちだけで見守ってきた。その気持ちが徐々に一果に浸透し、1年経ってずっと見透かされていた事に気付く一果。

思うに、和も祖父の台詞や、上京してしまった巴先輩によって心に空いた穴があったからこそ、一果の父親不在の心の穴に対するケアができたのではないかと想像する。和の中にこの虚無が無かったら本作は成立しなかったのではないかと思う。二人の待ち人が同一人物(父親=巴先輩)という事を知らないというのも皮肉が効いている。

11話の雪遊びとぜんざい、父親との別れの一果の悲しい思い出を、何も言わずに楽しくて温かい思い出に上書きしてゆく和。12話のCパートで、父親にいつか会える日が来る、その日までここ(緑松)でゆっくりしてき、という和の台詞が本気で優しい。それに対して、(もう)安心できているからここで待ててる、という一果の台詞。拡大解釈かもしれないが、緑松で甘えない一果が、ここで(主に和に)甘えられるようになったという変化だと思う。それが、本作の物語のゴールという事だろう。一果のこの1年の変化は大きなものだが、それを12話に小刻みに、四季の移り変わりとともに丁寧に描いているから違和感がない。

一果は父親と再会しないし、和も巴先輩と再会しないし、佳乃子とも寄りが戻るわけではない。原作漫画の連載が続いているということもあるだろうが、問題が解決してカタルシスが得られるわけじゃない。割り切れないモヤモヤした曖昧な気持ちを抱えながらみな生きている。そこを肯定も否定もせずに、気持ちを軽くさせてゆく物語が本作の上品な味わいだったと思う。

脚本は、吉田玲子、雨宮ひとみ、上座梟の3人体制。雨宮さんは追崎監督作品でよく書いている方。上座さんはのんのんびよりりぴーでも脚本を書かれていたがそれ以外の仕事の経歴はなく、ペンネームではないかと想像している。2人とも手堅い仕事が印象的であったが、やはり吉田玲子脚本回のわびさびは一味違うと感じた。

触れるのが遅くなってしまったが、本作は人情ドラマをベースとして、そこに差し込まれる微笑ましいコメディ要素も楽しかった。一果のいけずな皮肉と和や佳乃子のタジタジ感や、和に対する佳乃子と美弦のライバル関係が笑いになるのだが、その辺りのシリアスと笑いの調和も美しかった。

個人的に好きだったキャラは佳乃子。和は佳乃子に振られたと思っているが、佳乃子は私よりも実家(=和菓子)を取ったとして意地を張って収集が付かなくなった元カノという設定。佳乃子が何とはなしに昔話していた祇園祭に来てみたものの、一果と出会い、和と再会する。その後、和菓子に軸足を移してゆく和を見ながら、私だけを見てという年頃でもなく、ふわふわした自分の気持ちを整理してゆく。私、ちゃんと和菓子も好きだから。精一杯の現状の気持ちを伝えたのだろうが、復縁してほしいと言うわけでもない。私が和の一番でなくてもいい。昔のように白黒つけずとも、曖昧な現状を受け入れる。満足げに一人公園で栗饅頭を食べる佳乃子もまた、曖昧な優しさの中で生きる、本作を象徴するキャラだったと思う。

パリピ孔明

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 孔明というトリッキーな設定の面白さ、それを違和感なく作品に取り込んでいる文芸や演出の巧みさ
    • 軍記モノでありながら、敵をも救うという今風な文芸の新しさ
  • cons
    • 特になし

制作のP.A.WORKSは、オリジナルアニメーションと小説原作に注力してきたイメージが強かったが、今回は漫画原作である点が珍しい。音楽制作はエイベックスが参加。クラブやラップも扱うため、音作りも余念が無い。主人公英子の歌が肝という事もあり、CVの本渡楓とは別に歌唱は96猫が担当し、説得力のある見事な歌唱を披露してくれている。また、KABEのCVの千葉翔也も声優ながら見事なラップの演技を聴かせてくれる。監督は本間修。シリーズ構成は米内山陽子。メインスタッフもP.A.WORKSの世代交代を感じさせてくれる。

楽器演奏シーンもあるが、そこは際限なくヌルヌル動くという事もなく、メリハリをつけていい感じにリソース配分していたと思う。このメリハリは、コミカルな日常シーンなどにも効いていて、それは漫画的な動きやコマの省略とも言える。逆に原画的な崩れはほぼ無く、クオリティのバランスの良さを感じる。リッチ過ぎるアニメーションが多くなってきた中で、逆に動けばいいってもんでもないという主張にも思える。

本作の最大の特徴は、現代の日本に三国志諸葛亮孔明が登場し、売れないシンガーの英子の軍師(≒プロデューサー)となるという奇抜な設定だろう。三国志をモチーフにした孔明の計略などを丁寧に積み重ねてゆくが、妙に説得力がある。孔明にかかれば全てがお見通しで、敵も味方も手のひらで転がされているだけという、ある種の名探偵モノのような爽快感がある。私は三国志には明るくないが、中国人のライトな歴オタ層も納得との事なので、よっぽど綿密にネタを仕込んでいるのだろう。こうした小ネタの積み上げが上手いから、孔明が現代に転生するという大きな嘘に目くじらを立てるという人はいないだろう。

物語は、基本的には英子、KABEが壁を乗り越えて行くサクセスストーリーであり、ラストに向かって最大のライバルの七海率いるAZALEAとのタイマンという流れである。そこに、孔明の秘策というスパイスが入り、不可能とも思える成功を掴み取とり、勝ち進んで行く。ただ、本作は三国志のテイストと異なり、今風な2つの要素を盛り込んでいる。

1つは、敵との勝負でありながら、敵を完膚なきまでに叩き潰すのではなく、敵もまた救われるという構図。孔明は、戦乱の世で大量の人の死を扱ってきたので、今度はそうした命のやり取りの無い世界にしたいという孔明の願いがあった事。そして、英子の民草を救う歌声にほだされたという面もあっただろう。ある意味、勝つために冷徹とも言える孔明という人物の変化が、本作の物語の救いの1つにもなっている。

そして、もう1つは英子の歌う目的が、サクセスや勝負そのものではなく、民草を救うためである事。今回の例だと、DREAMERはライバルである七海のために歌う。英子の気持ちが、七海の心に響けば英子の勝ちという構図ではあるが、英子は七海を救うために歌う事が軸にあった。これが、今までの軍記モノとは根本的に異なる点であろう。

この辺りのバトルものでありながら、Win-Winの関係とも言える敗者を作らない(=他者を否定しない)物語が、本作の文芸の新しさである。少し脱線するが、「平家物語」は戦記モノであり、敗者である平家を中心に描いたが、その死者たちを忘れず心に生かし続ける事を「祈り」として戦乱の世の大量の人死にを描いた。繰り返しになるが、こうした従来の戦記モノとは一線を画す作風が特徴である。

キャラデザインもキャラ設定も複雑すぎず、明快な分かり易さがある。この辺りは漫画原作の良さであろう。やはり、個人的には英子が素直で可愛いくて好みである。CV本渡楓の自信の無さが、どことなくにじみ出る演技も良かった。ライバルであり親友でもあった七海もまた、苦悩と葛藤を持った人間性のあるキャラで好感が持てた。何より、荒唐無稽ともいえる孔明のキャラもまた、血の通ったリアルな人間としての葛藤を持って描かれていた点が良かった。

孔明というファンタジー現代日本での芸能活動というビジネスの戦場のリアリティ、その劇画的な組み合わせが意外なほど調和して、嫌味のない物語が紡がれる。本作が、引っかかる事なく心に浸透してきたのも演出の巧みさ、バランスの良さであろう。

BIRDIE WING -Golf Girls' Story-(1クール目)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 脚本、演出ともに見せ方が非情に上手く中毒性のあるバトル描写
    • 大味な事が魅力になる豪快な物語と作風
  • cons
    • 初見で、キッズ向けと舐められてしまう事が少々勿体ない

制作はBN Picturesの異色の女子ゴルフアニメ。監督は稲垣隆行。シリーズ構成、全話脚本は黒田洋介という布陣。

1話放送時点で、「プロゴルファー猿」だの「ゴルフ版スクライド」などの評判を聞いて視聴を決めた作品である。正直、当初は面白さのポテンシャルは理解するが、ガンプラ要素などの雑味が多く、繊細さに欠ける大味なディレクションという第一印象であった。しかし、作品に身をゆだねていくうちに、些末な事は気にならなくなり、楽しさが癖になる、中毒性のある作風である事を確信した。

個人的にバトルモノにハマれない傾向があるのだが、その理由はバトルそのものがルーチンワーク的になり説得力が無くなってしまうケースが多々あるから。また、ドラマ面がおざなりになりやすい。昨今の良く出来たドラマを持つアニメ作品群の中で、キャラたちがボロボロになりながらも次々登場する強敵と戦い続けるメンタルが分からなくなってきて、そこを冷静に考えてしまうと冷めてしまうという負のループがあった。

しかし、本作はイブと葵という二人の強者の惹かれ合いを軸に、命懸けの賭けゴルフやマフィアの抗争、大資本によるゴルフブランドの経営戦略など、スポーツの枠を超えた破天荒な設定を盛り込み、確信的に馬鹿馬鹿しいとさえ思える劇画的な要素を盛り込む。例えるなら、昔のカンフー映画のテイストに近いと思う。ロジックとしては互いに求めあうライバルたちの感情が最大の原動力になっており、呆れるほどシンプルでパワフル。

また、イブの文字通り直球過ぎる豪快なゴルフも、本作の爽快感に一役買っている。絶叫しながら繰り出されるブルーバレットの過剰なデフォルメ絵のカット。その度に劇伴に流れる調子のいいギターリフ。この辺りは映像的な麻薬要素である。最初はギャグとして見えたこれらのカットも繰り返し見るうちに、勝手に感情が乗っかり、打ち込んだ爽快感を共有してゆく。強力な敵を相手に不可能とも言えるショットを次々と繰り出してゆくイブ。そして、相手のメンタルをへし折る快楽。

こうしたショットを輝かせるためにはバトルものとして良く出来ている必要があるが、本作はそこが脚本、演出ともに上手い。対戦相手との格上格下の関係を的確に表現し、相手の強さを見せて、不可能かと思わせる勝負にも打ち勝ってゆくイブ。しかも、次々と強敵を倒してゆく流れの中でダレが一切ない。勝負の状況説明にリリィやイチナを使っている点も、良くある手法ながら効いている。

キャラも濃くて面白い。天才の両親を持つサラブレッドの葵。身寄りがなく、とある人物に徹底的に相手をへし折るゴルフを叩きこまれたイブ。当初、敵か味方か分からなかったローズというダークヒーロー。凶悪なルックに対し、人生をエンジョイしているヴィペールなどの癖のあり過ぎるキャラ達の生き様。そして、雷凰編で登場するゴルフ部長の神宮寺、アプローチの天才飯島薫子、穂高一彦譲りの高精度ゴルフを見せる姫川みずほ。ネタの出し方も最高にワクワクする。これらはもう、「巨人の星」などの昭和スポ根を連想させるノリである。

つまり、本作の醍醐味を一言で言うなら、童心に帰ってバトルを楽しめる豪快な作風にある、と私は考える。

シリーズ構成は、今風な要素を散りばめながら、古典的なスポ根モノの基調としている。ストーリー展開の上手さ、ナフレスから日本への大胆な舞台転換、イブの生い立ちの謎など、飽きさせずに魅せる工夫が随所にみられ、その上密度が高い。この辺りは、流石は、ベテラン黒田洋介の仕事といったところだろう。

作画が粗いと感じる事もあるが、それさえも味に思えてくる。本作は、そんな中毒性のある作品だと思う。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 原典となるスクスタ要素を丁寧に再解釈し、12人+1人のキャラ愛溢れる物語に昇華させた文芸
    • 1期と変わらず、脚本、キャラ、歌唱パートの密着度の高さ
  • cons
    • 既存の9人のドラマは1期で一度完結しているため、前半は仲良しクラブ的なノリが強く、1期に比べてヒリヒリとしたドラマは薄くなってしまったところ

ラブライブの名を冠しながら、スクールアイドル甲子園とも言えるラブライブに出場しないという大胆なディレクションが印象的だった1期。2期はそこから、わずか1年3か月というインターバルで放送されたという事を考えると、割と突貫工事だったのではないかと思う。ポイントは、3人の新キャラ追加と、従来メンバーのソロではなくユニットでの楽曲披露。これらも、原典となるスクスタの要素を反映したものだが、そのキャラをより大切に再解釈するシリーズ構成は相変わらず見事としか言いようがない。

香港から来た嵐珠は自信に満ちた歌唱でファンを魅了していた。その強気な性格から友達ができないことの反動で、スクールアイドルとしての個人活動を極めて、ソロ活動をメインとしていた虹ヶ咲に転入してくる。しかし、そこでもユニット活動が始まっていたり、唯一の友達だったと思っていた栞子の気持ちに寄り添えていなかった事実に気付き、虹ヶ咲を去ろうとする。ところが、適性がないと諦めていたスクールアイドルになる決意をした栞子、過去の失敗から諦めていた歌唱への再挑戦を決意したミアに引き止められる形で、同好会でユニットを組む約束をした。ここで嵐珠は改めて友達つくりという夢をやり直す、という流れ。

ここでポイントなのは、同好会は個人を否定しないバラバラの集団でありながら、互いの夢を応援する仲間であるという事。2期の前半は、従来のメンバーがユニットを作り活動してゆく流れだが、徒党を組む事が同調圧力ではない事を強調する。QU4tRTZ(かすみ、 璃奈、エマ、彼方)はユニットを組む際にディレクションがバラバラである事をメンバー全員が再認識するが、互いの個性を尊重した形でユニットを纏める。DiverDiva(愛、果林)は馴れ合いではない切磋琢磨するライバル関係。A・ZU・NA(歩夢、しずく、せつ菜)は、自分一人で出来ない事でも他人を巻き込んで上手く他人を頼る事で乗り切れるチームワークと信頼関係が描かれる。この辺りの繊細な文芸面も見事。

12話は、侑と歩夢がそれぞれの夢を追うことが互いの距離の開きに繋がるため背中を押しにくい、というドラマが描かれる。それは、ラブライブ出場者へのエールを経て、エールに距離は関係ない≒距離があっても気持ちは一緒という結論に至る。夢への躊躇を取り除き、夢に正直にという虹ヶ咲のセオリーに則った展開である

13話は、侑へのファンレター=侑もトキメキを与える側とし、同好会のFirstLiveでファンへの感謝の気持ちと、夢を追いかけるバトンを視聴者につなぎ、幕を閉じる。

特に凄いなと思うのは、本作はたった数カットにさえも的確に意味を込め、しかもファンはその数カットから意味を的確に汲み取るという、強固な信頼関係の上に成立する作風であること。例えば、11話のお泊り会で3年生組の線香花火から果林の「もう消えちゃうわ」で、同好会の終わりを予感させる。例えば、12話のCパートで歩夢宛の英文メールと侑の作曲コンクールの下りで、それぞれの夢に向かっての別れを予感させる。そうして、確実に風向きを示しながら、次の話に繋げて行く。この辺りのディレクションのきめ細かさは本作の強みであろう。

ここまでポジ意見を書いてきたが、最後にネガ意見を。

繰り返しになるが、スクスタを再解釈して、ファンを気持ちよく喜ばせる作品を作り出しているスタッフの手腕は本当に凄いと思う。しかし、色んなネタを背負い過ぎていて、複雑なパズルを組むみたいな仕事になっていたように感じる。13話のライブシーンに映る観客席のモブキャラたちも、全て過去に登場してきたキャラだろう。そうした積み重ねの上に同好会も本作も成立しているのは理解する。しかし、それゆえにオーバーヘッドが大きく演出の身動きが取りにくくなっているような感じを受けた。

また、1期では9人+1人の個人の葛藤、問題を解決してゆくドラマであったが、2期では個人の確立の葛藤のドラマが新キャラ3人だけに減った事。これにより、同好会が仲良しクラブ的に見えてしまいがちな事。この辺りで1期に比べてパンチ力が落ちたという感触もあった。中にはソロ活動と仲間を逆ベクトルに感じてしまい、違和感を抱く視聴者もいたかもしれない。しかし、実はこの2つは完全に別のベクトルであり、二律背反ではないことが丁寧に描かれている。2期はそこの見せ方、伝え方が難しいテーマであるのは間違いないが、その意味ではよりソロ活動寄りの1期の方がシンプルで分かりやすく私好みではあった。

ラストも、夢のバトンを視聴者に繋いで完結するが、そこもありきたりで実感が薄い。シリーズ構成の田中仁さんは、もともとエモい話が得意な人なので、元ネタの再構成という制約に縛られ過ぎなければ、もっと自由でエモい話が書ける人だと思う。無駄に衝突を描いて欲しいというわけではないが、複雑なパズルを全て丸く収めてゆくのにエネルギーを使い切ってしまい、1期よりもエモさがすり減ってしまったように感じた点は、ネガ意見として書き残しておく。

SPY×FAMILY(1クール目)

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • リッチ過ぎるアニメーションの出来の良さ
  • cons
    • 期待していたスパイのシリアスよりも、コメディ重視な作風(2クール目までのタメなのかも知れない)

まず、本作は分割2クールの前半が終わったところであるため、評価は保留とさせていただく。

PVの時点から隙がない作品の印象であった本作。制作は、WIT STUDIO×CloverWorksという2社で行うという点も変わっている。監督、シリーズ構成は古橋一浩。ジャンプの集英社は勿論のこと、東宝もプロデューサーに関わっており、ビックプロジェクト感を漂わせる。

物語の骨子は、スパイの父、殺し屋の母、超能力者の娘が、それぞれの都合で寄せ集まった疑似家族。父親のスパイ活動のために娘を優秀な学校に入学させ、要人とコンタクトを取り、戦争を食い止めるというシリアスな物語と、気楽に見れるコメディな物語と、一粒で二度美味しい的な作風となっている。

実際には、娘(幼女)のアーニャの可愛さを前面に押し出したコメディ色が強く、シリアスな部分の進展は遅い。これは想像だが、2クールの中で起承転結の「起承」のみとなるから、後半のシリアスに向けた序盤ではないかと想像する。後半のシリアスをより強調するためには、偽りのぎこちなさの中にも幸せな家族という部分を刷り込んでおく必要がある。だからこそ、ほぼ進展しない様な日常をたっぷりと描いておく必要があるのではないかと想像している。

本作のテーマは、それぞれに目的を持つプロでありながら、偽りの家族を演じつつ、その役に本心の比重が移ってゆくところにあると思う。世界平和と家族を天秤にかける、ヒューマンドラマとしてのポテンシャルを十分に持っている。そのことは、ED曲「喜劇」や、OP曲「ミックスナッツ」の歌詞を見れば一目瞭然であるが、1クール目では、よりコメディで楽しく見れる作風に感じられる。

最後になったが、本作のアニメーションはリッチで良く動く。映像的にも情報量が多く緻密。とにかく高カロリーな作風で、鉄壁な完成度で非の打ちどころはない。だが、どこか上品過ぎて、突き抜けた面白さに欠けるようにも感じる。その意味では、バーディーウィングと対照的である。

個人的には、文芸面でもう少しシリアス寄りを期待するが、この辺りの後半の展開は、実際に2クール目を見てからの判断になる。

おわりに

今期も多様性に富んだ作品群がある事の幸せを感じながら視聴した。今期の中で特殊な位置付けにあったのは、やはりバーディーウィングだと思う。唯一無二の中毒性ある豪快な作風で、2期も楽しみでしかない。

しかしながら、個人的にはであいもんの人情ドラマでありながら、毎話凝ったドラマが入っており、1回では味わいきれず、何回か見て味わいを深めて見ていた作品なので思い入れが強い。やはり、吉田玲子脚本は一味違うというか、好みだなと再認識した。

パリピ孔明などの文芸の新しさを感じた作品と、バーディーウィングの文芸の古さが共存が面白いと感じたクールであった。

PC執筆環境(2022年版)

目的

私がブログや同人誌の原稿を執筆するPCの執筆環境、および推敲手順についてまとめる。

はこねくり回しながら執筆するため、エラー過多な文章になりがちである。そのエラーを取り除くのにいつも四苦八苦している。有能なライターならエラーがない文章を一発で書けるのかも知れないが、私には無理っぽい。そのため、なるべく人間の経験に頼るのではなく、機械を使ってエラー訂正をアシストしてゆくことを考えていた。

ところで、私は以前からアニメを語るPodcastに感想を投稿しており、その際に下記について注意してきた。

  • 声に出して読める文章
  • 冗長をなくした簡潔な文章(これは文字数制限があったため)

経験上この2点を注意するだけで、かなり文章は読みやすくて分かりやすいものになる。いきなり核心に触れるが、これが私の文章作成の根幹であるといってもいい。今回の推敲手順も、それを意識した形となる。

概要

コンポーネント

まず、執筆環境の全体像をつかむため、ハードウェア、ソフトウェアのコンポーネント図(=構成図)について説明する。

基本的には、PC内にGitのローカルリポジトリを作成し、そのフォルダ内のMarkdown形式のテキストファイルをVS Codeを使って編集する。ローカルリポジトリで管理する事で、修正履歴を残せる。

前提として、執筆者は一人の想定である。もし、複数人で執筆するなら、きちんとGitサーバーを立てるべきであろう。

なお、ローカルリポジトリDropboxなどのクラウドストレージ(G-Driveでも、OneDriveでもよい)に同期させている。これにより、複数のPCでシームレスに執筆できる。なんなら、スマホからも直接編集可能なので、出先で急に修正が必要な場合でも、簡単な編集ならできなくはない。

執筆環境の構成図を下記に示す。

執筆シーケンス

今回、執筆のターゲットとして、下記を想定している。

No. ターゲット 特徴 備考
1 はてなブログ 個人で執筆。 私のブログ(=本ブログ)
たいやき姫のひとり旅
Markdown形式でもUPできる!
2 同人誌 私の原稿に対して校正が入る。
同人誌毎に校正ルールが存在する。
私がお世話になっているのは
Fani通さん

同人誌編集の部分は、私がお世話になっているFani通さんのスタイルで、GoogleスプレッドシートGoogleドキュメントなどは、適宜置き換えてもらえばよいだろう。厳密には、マスターはExcelだとかの違いはあるが、便宜上執筆者目線で簡略化して記載している。要するに校正者が校正指摘をして、執筆者が確認し修正する、というループになっている。

この流れの中で重要なのは、推敲の部分である。私の書く文章は誤字脱字や、てにをはや、諸々のエラーがとにかく多い。そのため、エラー除去の工程を複数回設けているが、それぞれの推敲工程でメリット・デメリットがある。

概略シーケンス図では、推敲を経てはてなブログに記事UPする事になっているが、実際には記事の鮮度を優先して、執筆→記事UP→推敲→記事修正となるパターンが多い。

執筆のシーケンス図を下記に示す。

Markdownについて

Markdownは、文書の見出しや太字や表を全てテキストだけで記載して、HTML文書に変換する事ができる。画像やリンクも挿入可能。VS Code上ではテキストを入力しながらプレビュー画面にリアルタイムにレンダリング結果を確認できる。

Markdownのファイル拡張子は「.md」で、プレビュー表示するには、Ctrl+K → V とキーボードを押す。

ここでは、Markdown記法の詳細は省略するが、下記などを参考にして欲しい。

Gitについて

Gitはメジャーなバージョン管理システムである。そのメリットはファイルの修正履歴を残せることにある。

なお、最低限のGitの概念と操作についての説明は付録に記載したので、そちらを参照して欲しい。

インストール

前提OSは、Windowsとするが、使用するソフトウェアはMacでもLinuxでも動作するものである。適宜、読み替えていただきたい。

アプリケーション

環境作成に必要なアプリケーションを下記に示す。

これらのアプリケーションのインストールは、特に注意事項はないと思うので、インストールの詳細は省略する。

No. アプリケーション 概要 入手元 ダウンロードファイル 備考
1 Git for Windows Windows用のGit Git for Windows Windowsのみ
2 VS Code 高機能な
テキストエディタ
Download Visual Studio Code - Mac, Linux, Windows Windowsでどれか分からなければ、User Installerの64bit
3 Chrome Webブラウザ Google Chrome - Google の高速で安全なブラウザをダウンロード

VS Code拡張機能

環境作成に必要なVS Code拡張機能を下記に示す。

VS Code拡張機能のインストール手順は、下記などのWeb情報を参考にしてほしい。

No. 分類 VS Code拡張機能 概要 備考
1 日本語 Japanese Language Pack for Visual Studio Code メニューの日本語化
2 Markdonw Markdonw All in One Markdownの定番
3 Markdonw Markdown Preview Enhanced プレビューがリッチになる
4 Markdonw markdownlint Markdownの書式チェック
5 日本語 テキスト校正くん 日本語文章のチェック

Chrome拡張機能

環境作成に必要なChrome拡張機能を下記に示す。

Chrome拡張機能のインストール手順は、下記などのWeb情報を参考にしてほしい。

No. 分類 Chrome拡張機能 概要 備考
1 音声合成 テキスト読み上げ テキストを日本語音声で読み上げる

執筆手順

執筆

執筆は、普通にテキストディタで文章を心ゆくまで入力してゆくだけである。

ただし、一般的には後述の「テキスト校正くん」を執筆中にオンして、リアルタイムに校正指摘を表示して、適宜修正する事が多い。デメリットとして、エラー修正に気を取られ文章入力の勢いを妨げる事になること。今回は便宜上、執筆中はオフし、執筆後の推敲時にオンすることとする。

目視

  • ポイント
    • 「テキスト校正くん」による表記チェック
  • メリット
    • 簡単な誤字や全角半角の不適切など、一般的な日本語チェックができる
    • ルールはカスタマイズ可能
  • デメリット
    • 人によりルールが合わないケースもあり

一般的には、目視は黙読によるチェックになると思うが、ここでは「テキスト校正くん」というツールを使ったチェックに特化して記載する。

「テキスト校正くん」による表記チェックにより、エディタ画面のエラー箇所に赤い波線が表示され、マウスカーソルを合わせるとエラー詳細が表示されるので、これを修正して赤い波線を消してゆく。

なお、「問題の表示」をクリックすると問題個所をインラインで表示し、「↑」「↓」で前後のエラー箇所にジャンプするので、積極的に活用する。

校正ルールは、設定画面でオンオフをカスタマイズできる。設定画面の呼び出しは「Ctrl+,」で、検索ボックスに「テキスト校正くん」と入力する。

私は、ほぼデフォルトで使用しているが、下記の項目のみ文章スタイルが合わずにオフしている。

  • 「外来語カタカナ表記の語尾の調音表記をチェックします」

見ての通り、私の原稿は意外とエラーで真っ赤なままである。「とくに」はひらかずに「特に」の方がいい、かと言って他の言葉はひらいて欲しい。普通は、エラー多発は精神衛生上良くないので、このルールをオフにしてしまうのがよいのだろう。しかし、心配性な私はとりあえず指摘だけしてもらって、エラーを残してゆくスタイルで進めている。1ドキュメント内のエラー上限もカスタマイズ項目にあるので、上限オーバーにも要注意である。

とは言え、長文で画面が真っ赤になるとそれなりにストレスになるため、集中して執筆したいときは、「テキスト校正くん」の拡張機能自体を一時的に無効にしている(本末転倒だが…)。

実際のところ、「に」が2回以上使われているとか、読点が4回以上使われているとか、一文が長い時にハマりそうなエラーを見ては文章を短くしたり表現を手直ししているのでかなり助かっている。

音読

  • ポイント
    • シンプルに音読して違和感のある所をつぶしてゆく。
  • メリット
    • 文章に対して、シリアルに集中するので、かなり細かく効果的にエラーを拾える
    • 黙読だとスルーしがちな違和感も音読で拾える
      • 例えば、文章の論理展開が途中でジャンプした
      • 例えば、ネタとして切り出したものの、その後、使われずに取り残されている文章がある
      • 例えば、あちこちに、冗長的に記載が点在している
      • 例えば、1文が長すぎてカオスになっている
  • デメリット
    • 俗人的、かつ集中力が必要
    • 声を出していい環境に限定される

まず言っておくと、私はこの推敲手順の中で「音読」が最重要ポイントだと考えている。

音読ではツールは使わない。自分で声に出して読みながらチェックする。これが、経験上、一番効果的にエラーをチェックできるという実感がある。

人間は黙読すると、音読よりも早く読めるものだが、それゆえエラーに気付きにくくなる。声を出せるスピードに落とし、シリアルに文章をなぞっていくところがミソである。

エラー箇所は読んでいて引っかかる。引っかかったところを中心に周囲の文章との関連も見極めつつ、文章が流れるように修正する。

ただ、音読は声を出せる環境と集中力が必要なので、できる作業環境が限られる。カフェでも呟きながら出来なくはないが、正直大声で読み上げた方が効果的である。近くで家族が寝ていているため、深夜に声を出しにくい状況とかもあるだろう。とはいえ、この辺りの制約をクリアして実施しておきたい手順ではある。

音声合成ヒアリング

  • ポイント
    • 音声合成された声を聞いて違和感のある所をつぶしてゆく
  • メリット
    • 音読では拾いきれない、思い込みエラーなどを拾える
    • イヤホンを使う事で、声を出せない環境でもできる
  • デメリット
    • どうしても人間の発音とは異なる苦手ケースがあり、必ずしも万能ではない

音声合成ヒアリングには、音読にはないメリットが2点ある。

1つは、音読が俗人的であるがゆえに、思い込みにより脳内で無意識にエラー補正して正しく読み上げてしまう事があるのだが、音声合成ヒアリングはこの手のエラーを拾える。経験上、このタイプのエラーはしばしば発生しており、馬鹿にできない。特に繰り返し音読していると、思い込みが強まるので、音読を過信せずに音声合成ヒアリングを使う。

もう1つは、イヤホンを使う事で声を出せない環境でも推敲できること。これで電車内など音読できない環境での、音読に近い推敲作業ができる。

デメリットとしては、残念ながら人間とは違う発音になってしまうケースがしばしばある。顕著なのは人名で、海夢(まりん)、新菜(わかな)、紗寿叶(さじゅな)などは流石に難しい。他にも苦手ケースはあるが、そこは音声合成エンジンによりまちまちである。音が変わってしまうと文章のリズムが変わってしまうので、この点については音読の方が優れる。

次に、音声合成ソフトの一覧とそれぞれの使い方について示す。

No. 音声合成 アプリ OS依存 音声データ
(オススメ)
特徴
1 macOSのスピーチ - macOSのみ Kyoko VSCode上のテキストを
直接読み上げられる
2 Windows(Edge)の音声合成 Edge Windowsのみ Microsoft Nanami Online(Natural) 操作性が良い
3 Google音声合成 Chrome拡張機能
(テキスト読み上げ)
OS非依存 Google 日本語 高い読み上げ精度

macOSのスピーチ

  • macOS音声合成ソフトを標準搭載しており、テキストを選択→Ctrl+クリック→読み上げ開始、と操作するだけで読み上げてくれる。ショートカットキーを割り当てておくとなお良い。
  • VS Code上だけでテキストの直接読み上げが完結するので、面倒がなく非情に便利。
  • 設定画面は、「システム設定」「アクセシビリティ」「スピーチ」で表示する。

Windows(Edge)の音声合成

Windows音声合成ソフトを標準搭載しているが、使用できるのはEdgeのみである。EdgeはWebブラウザなので長文テキストも縦に長く表示するが、音声合成ヒアリングでは逆に全体が見通せて都合が良い。読み上げ中の文章は空色に、読み上げ中のワードは黄色に表示するため、読み上げ個所を把握しやすい。読み上げ中でも、読ませたい場所をクリックするとそこにジャンプできるので聞き直しも便利。ただし、操作中に、しばしば無応答になることがあった。

操作手順を下記に示す。

  1. Edgeを起動→Markdown形式のファイルをドロップ→右ボタンメニューの「音声を読み上げる」を選択、これで読み上げモードに入り、読み上げが始まる。
  2. 「音声オプション」を押すと、スピードと音声の選択ができる。音声はデフォルトの「Microsoft Nanami Online (Natural)」が良い。

Google音声合成

Google製の音声合成は、Chrome拡張機能「テキスト読み上げ」から使う。読み上げ精度の高さと、OS非依存である点が強みである。

注意点としては、しばらく使っているとGoogle CloudのText-to-SpeechのWebページで「SPEAK IT」ボタンを押し、「私はロボットではありません」をチェックしてサンプルデータを読み上げる必要がある。

操作手順を下記に示す。

  1. Chromeを起動→「拡張機能」→→「テキスト読み上げ」を選択
  2. 「Input text manually」を押す
  3. Markdown形式のテキストを丸ごとコピペする
  4. 「再生」ボタンを押すとテキストを解析して読み上げを開始する
  5. 歯車アイコンをクリックすると設定画面を表示する。
    • 音声は「Google 日本語」が良い。「Google Translate Japanese (Japanese)」は「#」の所で再生が止まる点が不便。

スペルチェックソフト

  • ポイント
    • スペル、文法チェックを機械的に行う
  • メリット
    • 提案に対して承諾、もしくは無視の二択するだけの簡単操作
  • デメリット
    • Googleアカウントが必要

Googleドキュメントにより、スペル文法チェックを行う。ここまでかなり読み込んできているつもりでも、意外とエラーが残っている。ここが、最期の仕上げ的なチェックとなる。

なお、Microsoft Wordにもスペル文法をチェックするエディター機能があるが、Microsoft365、もしくはOneDriveのオンラインのWordのプレミアムエディターを購入する必要がある。私自身は未使用なため機能比較はできないが、購入済の人はこちらでチェックするのも良いだろう。

操作手順を下記に示す。

  1. Googleドキュメントを新規に開き、テキストをコピペする。
  2. メニューから「ツール」「スペルと文法」「スペルと文法のチェック」を選択
  3. 指摘箇所が左上に表示される。「承諾」もしくは「無視」を選択してゆく(決断せずに「<」「>」で前後の指摘に移動することもできる)
  4. 全選択して、VS Codeにテキストを戻す

統一校正基準チェック

  • ポイント
  • メリット
    • 簡単なルールであれば一括置換
  • デメリット
    • 複雑なルールは目視で確認し、手動で修正する
    • 校正基準通りにしたくない場合、やはり目視で確認し、手動で修正する

校正ルール

個人ブログでは気にしていなくても、同人誌側で独自に校正ルールを持つ場合が多い。一例として、下記に私がお世話になっている同人誌のFani通さんの統一校正基準(=校正ルール)を示す。

記号 校正ルール 置換 検索用
正規表現文字列
- 英数字は全角→半角 対応
(ア) 句読点は「、」「。」。 対応
(イ) 感嘆符・疑問符は「!」「?」(全角)。 対応
(ウ) 感嘆符・疑問符の後ろには全角空白を入れる。
ただし記号の前後で文が繋がっている場合は空白を入れない。
ただし
以降
未対応

[!?][^ ]
(エ) 括弧類は「()」「[]」などすべて全角。
ただし括弧の中身がすべて半角の場合は半角括弧を使う。
「<」「>」(不等号)は半角だが、括弧として使う場合は「〈」「〉」(山括弧)に置き換える。
ただし
以降
未対応

([ -~]*)|[[ -~]*]|{[ -~]*}|<[ -~]*>
(オ) 括弧の直前直後にある句読点は、閉じ括弧の直後へ統一。 未対応 [。、])|[。、](
(カ) 引用符は「‘」「’」「“」「”」の対を守る。 未対応 ‘|’|“|”
(キ) 「...」(三点リーダ)は 2 つ重ねる。
「・」(中黒)連続は三点リーダに置き換える。
「―」(ダッシュ)は 2 つ重ねる。
「─」(罫線素片のよこ)はダッシュに置き換える。
対応
対応
対応
対応
(ク) その他の記号のうち ASCII にある文字は半角。 対応
(ケ) 複数の記号が絡む場合や固有名詞等は、上記基準に拘らず個別に判断する。 未対応

校正ルール適用手順

校正ルールの中で(ウ)(エ)(オ)(カ)(ケ)は括弧の対のチェックなどであり、単純な置換では対応できないので、目視で確認する事になる。

校正ルール適用手順を下記に示す。

実際に、校正ルール置換スクリプトを実行した際の画面コピーを下記に示すが、置換しない方が良い箇所も置換されてしまう事があり、その場合は手動で置換を戻す。

置換後、検索用正規表現文字列で、該当箇所を検索し、修正が必要な場合は手動で修正する。

左端アイコン列の「検索」アイコンを選択し、検索文字列を入力し、入力エリアの右横にある歯車アイコン(=正規表現で検索)をオンにする。プロジェクト内に該当ファイルが多すぎる場合は、「…」を押し、含めるファイル」で検索対象ファイルを絞り込む。検索結果をクリックすると、当該箇所にジャンプする。


付録

付録A. Git操作概要

Gitは、本来、チームで開発する際のバージョン管理ソフトである。しかし、私の執筆は個人作業でありチームで共有する必要がない。そのため、Gitサーバー(=リモートリポジトリ)は存在せずPC内のローカルリポジトリに閉じている。また、いくつかの編集を並行して行うためのブランチという概念もあるが、ここでは説明しない。

とこでもいいので、PC内のファイルシステムに来歴管理する作業フォルダを決めてGitの初期化を行えば、そこがローカルリポジトリとなり、Gitを使い始める事ができる。作業フォルダにはいくつかのフォルダーやファイルが存在する。それとは別に、「.git」というGit専用のフォルダが初期化時に作成されて、そこに差分情報が蓄積される。ローカルリポジトリの概念図を下記に示す。

ファイルを編集しているだけでは履歴は残らない。履歴を残すためにはコミットする必要がある。まず、修正記録を残したいくつかのファイルを「git add」する。その後、メッセージを記入して「git commit」する。コミットの概念図と概略手順を下記に示す。

次に、操作例を下記に示す。

  1. VS Code のターミナルの規定プロファイルの選択

    1. とりあえず、「ターミナル」「新規ターミナル」でターミナルを開く
    2. ターミナルのプルダウンメニューから「規定プロファイルの選択」を選択し、「Git Bash」を選択する
    3. 再度、新規ターミナルを開き、Git Bashが開くことを確認する
  2. コマンドラインからのGit初期化(実行例)

     git init
     git config --global user.name tsukushi  # 各自変更
     git condig --global user.email tsukushi@xxxx.com  # 各自変更
     cat ~/.gitconfig  # 設定内容確認
     ls -al ~/.gitconfig  # 設定ファイル確認
    

  3. GUIからのコミット(実行例)

    1. 操作例として、新規に「aaa.md」ファイルを作成し、中身を記入する
    2. 左端アイコン列の「ソース管理」アイコンを選択し、ファイルを選択すると、差分が表示される(ソース管理アイコンの数値は、最終コミット時からの変化ファイル数)
    3. ファイル名の右の「+」を押すステージに移動する(git addコマンドと同じ)
    4. エディットボックスにコミットメッセージを記入し、Ctrl+Enterを押す(git commitコマンドと同じ)
    5. 左端アイコン列の「エクスプローラー」アイコンを選択し、ファイルを選択すると、タイムラインにコミットメッセージが追加されている
    6. 更に追記して、「ソース管理」アイコンを選択し、ファイルを選択すると、変更差分が表示される。後は同じ要領

付録B. 校正ルール置換スクリプト

校正ルール置換スクリプトとファイルの入出力の概要を下記に示す。

校正ルール置換スクリプト(fanitsu.sh)のソースコードを下記に示す。

#!/bin/bash
if [ $# -ne 1 ]; then
    echo "一括正規表現置換スクリプト r1.01" 1>&2
    echo "---" 1>&2
    echo "$0 置換ファイル名" 1>&2
    echo "(オリジナルは、「入力ファイル名.org」に退避されます)" 1>&2
    exit 1
fi
IN_FILE=$1
ORG_FILE="$IN_FILE.org"
TMP_FILE="$IN_FILE.tmp"

# 置換文字列配列
sed_array=(
    # 英数字は全角→半角
    'y/abcdefghijklmnopqrstuvwxyzABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ0123456789/abcdefghijklmnopqrstuvwxyzABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ0123456789/' 
    # (ア)句読点は「、」「。」。
    'y/,./、。/'
    # (イ)感嘆符・疑問符は「!」「?」(全角)。
    'y/!\?/!?/'
    # (ウ)感嘆符・疑問符の後ろには全角空白を入れる。
    # ただし記号の前後で文が繋がっている場合は空白を入れない。※未対応【[!?][^ ]】
    's/? +|? +/? /g'
    's/! +|! +/! /g'
    # (エ)括弧類は「()」「[]」などすべて全角。
    # ただし括弧の中身がすべて半角の場合は半角括弧を使う。 ※:未対応(無条件に置換)
    # 「<」「>」(不等号)は半角だが、括弧として使う場合は「〈」「〉」(山括弧)に置き換える。※未対応【<.*>】
    'y/\[\]\(\)\{\}/[](){}/'
    # 'y/<>/〈〉/'
    # (オ)括弧の直前直後にある句読点は、閉じ括弧の直後へ統一。※未対応【[。、])|[。、](】
    # (カ)引用符は「‘」「’」「“」「”」の対を守る。※:未対応【‘|’|“|”】
    # (キ)「…」(三点リーダ)は 2 つ重ねる。
    # 「・」(中黒)連続は三点リーダに置き換える。
    # 「―」(ダッシュ)は 2 つ重ねる。
    # 「─」(罫線素片のよこ)はダッシュに置き換える。
    's/・・・+/…/g'
    's/…+/……/g'
    's/─+/―/g'
    's/―+/――/g'
    # (ク)その他の記号のうち ASCII にある文字は半角。※全角化のため除外される記号は、「()?[]{}」→「()?[]{}」。
    'y/”#$%&*+,-./:;<=>@¥^_‘|~/"#$%&\*\+,-\.\/:;<=>@\\\^_`|~/'
    "y/’/'/"
    # (ケ)複数の記号が絡む場合や固有名詞等は、上記基準に拘らず個別に判断する。※未対応
 )

# 注意点
# (1) 下記の文字は、2度実行すると3段階に変化してしまう点に注意
#     「,.」→「,.」→「、。」

cp $IN_FILE $ORG_FILE
for ((i = 0; i < ${#sed_array[@]}; i++))
do
    cp $IN_FILE $TMP_FILE
    echo "${sed_array[$i]}"
    cat $TMP_FILE | sed -r "${sed_array[$i]}" >$IN_FILE
done
rm -f $TMP_FILE

平家物語

はじめに

久々の山田尚子監督作品(=吉田玲子脚本)という事で、個人的にもかなり注目していた作品でした。

サイエンスSARUでの仕事という事もあり、奇抜なグラフィックと、おなじみの可愛らしさと、格調の高い文芸により、一風変わった面白い作品になっていたと思います。

  • 資盛の生存(現代人向けの救済)(2022.5.8追記)

それでは、いつもの長文の感想・考察です。

感想・考察

概要

監督は、少女の情感あふれる描写に定評のある山田尚子。シリーズ構成は山田監督作品に欠かせない吉田玲子。キャラクターデザインはレトロな雰囲気で繊細なラインの絵に特徴がある漫画家の高野文子。制作は、「映像研には手を出すな!」などの独特な絵柄の作品を多く創り出してきたサイエンスSARU。

アニメーション映像として

シリーズ構成・演出

平家物語』は時代を超えて語り継がれ、熟成を重ねた膨大な物語のエッセンスのアーカイブとも言える。メインは戦争を描く軍記モノであり合戦シーンも多い。それだけでなく、栄華を誇った平家の没落という因果応報を感じさせる全体の流れがある。さらに、魅力的な人物、エピソード満載の由緒正しいエンタメ作品である。ちなみに、琵琶法師という僧侶が弾き語ってきた事もあり、仏教色が強めである。これを1クールのアニメにコンバージョンするため、大胆な剪定と圧縮が行われた。

そのため、各シーンの密度は高く、イベントはサクサク進む印象である。台詞の説明で足りるところは、サラッと言わせてそれで済ませている。この辺りは、もともと弾き語りがベースの平家物語を映像化するにあたってのリソース配分もあるのだろう。慣れてくると、これはこれで心地良いテンポだと感じた。

キャラデザイン

ユーモラスさを多分に持ち、少な目の線にキャラクターの性格をキッチリ乗せたキャラデザインである。

もともと、キャラクター原案の高野文子は、古くは「絶対安全剃刀」の頃から、マニアの間ではカリスマ的な人気を博していた漫画家である。レトロ調でオシャレで可愛くてカッコいいという印象である。本作の仕事でもその印象は変わらない。

山田尚子監督と高野文子キャラ原案は、可愛いカッコいいという意味で非常に相性が良かったと思う。

作画・背景・レイアウト

本作は「絵」的に美してカッコいい。レイアウトなどの構図が決まっている点も良い。

最大の特徴は、折り紙を切って貼ったような背景にあると感じた。ある意味、浮世絵の雰囲気にも似ている。それでいて、色彩は無限に豊かでグラデーションによる変化もある。西洋絵画の写真のような表現とは対になる、和風な印象を受ける。

全体のルックとしては、サイエンスSARU色が強く感じられると思った。

物語・テーマ

軍記モノとしての平家物語

今の時代に軍記モノを扱う難しさは、少なからずあると思う。

戦争自体に正義はない。戦争とは暴走して止められない狂気であり、多くの人命を消費する権力者の賭博である。しかし、本作ではその狂気を狂気としてクローズアップするような事はない。本作では、平清盛vs後白河法皇の2大権力者の闘争を描く。しかし、この2人とも非道な面を持ちながら、実に人間らしい面も描くため、ステレオタイプな悪役にはならない。

大きな潮流としては、平家絶頂期には平家の総大将重盛が清盛と朝廷の間でバランスをとっていたが4話で他界。清盛と後白河法王の諍いは激化。朝廷は源氏を使って平家に対抗。7話で清盛の死後、平家はどんどん源氏にて押され西方に逃げる。そして、最終的に源氏に滅ぼされる。といった感じである。

この戦争も地震や台風と同じ変えられない運命と捉えているように思う。そして、その災厄とも言える運命の中で激しく生きた人たちの事を描く。

そして、本作は「平家物語」であるために、この戦争に負けて滅んでしまう平家というファミリーに焦点をあてる。英傑ではない普通の人たちが、激動の歴史の中で生き、そして死んでゆくことに対する鎮魂歌とも言える作風である。

その意味で、本作は戦争を暗に否定しているのだと思う。話がそれるかもしれないが、「この世界の片隅に」に通じる確かに生きた人たちを感じさせるところがあったと思う。

流石に、敦盛の最期や壇ノ浦など合戦モノとして力を入れて描く部分もあり、平家物語として期待されるポイントは描くが、必ずしもそこがメインではない感じがした。

びわ」という発明

本作が、他の平家物語と決定的に違うのは、びわという登場人物を創作した事にあると思う。びわの存在は発明と言っても差支えないだろう。

びわは孤児になったところを重盛に拾われて、重盛の家族と共に暮らしてゆくことになる。楽器の琵琶を抱えており、ときおり演奏する。1話のアバンとラストで、大人になったびわが琵琶法師となって弾き語るシーンが入る。これが痺れるほどカッコいい。

そして、びわの右目(翡翠色)は未来が見え、びわの左目(黄金色)は亡者が見えるが、後者は4話で死んだ重盛から授かった後天的なモノである。

未来を見る力により、びわはときおり平家一門の滅びをフラッシュバックして垣間見てしまう。びわは、今後死にゆく人たちという先入観で平家の人々を見ることになる。これは視聴者が史実というネタバレを知っているのと同じと考えてよいだろう。OP曲のサビの「最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても」という歌詞を聞くたびに、この事が強烈に刷り込まれてゆく。

亡者を見る力により、亡者の無念を見る事になる。ちなみに、亡者と死者の違いは、無念があって成仏でいない死者が亡者である。こちらは後述するが、亡者を供養する=愛を持って語り継ぐというびわの動機付けになる。

びわは、カメラとなって平家の人たちを視聴者に見せる。さらに、びわはあちらの世界のアバターとなって視聴者の気持ちを代弁する存在となる。アバターを通しての体験があるからキャラを身近に感じられる。物語=時空を超えた体験である。びわが他のキャラと違い年を取らないのも、視聴者の感情移入を妨げない工夫であろう。

「見るべきものは、すべて見た」は知盛の台詞だが、その直後にびわは視力を失う。そして、びわは琵琶法師として物語を語り継ぐ存在となる。

記憶する事=愛する事=生かす事

びわは父親を平家の禿に殺されて平家を憎んだ。重盛に「お前たちは、じき滅びる」と言い放つところからのスタートである。

しかし、重盛の息子たちの維盛資盛清経の三兄弟や徳子と暮らし、雅な生活の中で彼らに情が湧いてくる。とくに重盛はびわの右目を美しいと肯定した事の意味は大きい。重盛はびわに優しく父親のような存在になっていた。

しかし、重盛も亡くなる。それから坂道を転げ落ちるように次々と死にゆく平家の人びと。びわは左目で亡者の無念を見て、右目で死にゆく未来を見ることになる。共に過ごした者たちの死を、ただ見る事しかできない辛さが続く。

清盛の死後、びわは資盛に追い出される形で平家をいったん離れる。そして、母親探し(=自分探し)の旅に出る。

再会した母親は、結果的にびわと父親を捨てたと告白する。そして、母親はたとえ逢えなくても、静かに安らかにあってほしいと「祈り」続けていたと。びわは、捨てられた=存在の否定と一瞬感じ取ってしまう。しかし、離れ離れになっていても「祈り」により存在が肯定され続けていた事に気付く。少なくとも、びわは母親に祈られる事で、母親の心の中にも生きていた。

作中では「祈り」と表現されているが、私は、祈り=愛する事=肯定する事だと受け止めた。

びわが愛すべき亡者を語る(=記憶する)事で、心の中にその人を生かす事になる。そして、語り継ぐ(記録し再生する)事で、永遠に愛すべき人を生かすことができる。

びわが平家の人たちを愛するのは、物語の登場人物を愛する読者の視点であり、物語を創作、翻訳するクリエーターの視点でもある。

先にも書いたが、平家物語は神の視点で人死にを描く軍記モノであることには違いがない。それを題材にして、合戦の勇ましさを美化せずに、キャラを愛するディレクションにした事が、本作への山田尚子監督の回答なのであろう。

また、私は7.18京アニ事件を引き合いに出すのはあまり好まないが、この「祈り」が事件の鎮魂歌として受け取れる事は、単なる偶然とは思えない。

生きるべき者の義務(徳子の意味)

壇ノ浦を経て、なおも生き延びた徳子。

徳子は、当初、自分の自由が通らない世の中に不満を抱きつつも、運命に翻弄されながら生きてきた。

政略結婚、夫の不倫問題、子宝に恵まれない日々、そしてやっと生まれた赤ちゃん。重盛や夫との死別。愛すべき我が子だけは絶対に守ると決めた。

この頃から、殺し殺され合いの憎しみの世の中で、相手をゆるし、ゆるし続けねば悪循環を断ち切れない事を悟る。世界が苦しいだけじゃないと信じたい。

清盛が死んだ事で、源氏に追われて平家一門と我が子を連れての西方への逃避行。栄華を誇った平家、雅を極めた朝廷、それが今や泥水の中を歩き、船上の長旅で水も飲めず、苦しい生活が続く。長引く戦いで平家一門も数を減らしてゆく。そして、壇ノ浦の決戦を迎える。

ここで、多くの平家一門が次々と自害してゆく。時子が帝(徳子の子)を抱えて海に沈んで逝き、徳子も続こうとするがびわが引き止めた。

一番大切な我が子を、すべてを失った徳子は生きている方が地獄だが、びわは生きる義務がある事を告げて徳子を生かす。大変な皮肉である。

これが史実通りの展開であったとしても、道ずれで死ぬ事を美談にせず、虚無であっても徳子を生かした選択は、個人的には良かったと思う。

寂光院での徳子の祈り

生き延びた徳子は出家して、我が子や平家一門を弔いながら寂光院で過ごした。徳子と仲の良かった後白河法皇が訪れ会話してときに、柴漬けでもてなし穏やかに会話していたところが印象的だった(平家物語のバージョンによっては、徳子が延々と後白河法皇に愚痴るバージョンもあるらしく、この潔さは本作のスタッフのディレクションなのだろう)。

阿弥陀如来像の五色の糸は、死者を極楽浄土に導くためのものであり、徳子の祈りをビジュアル化したものである。水の下の竜宮城に平家のファミリーみんなが幸せに暮らす世界線。辛すぎた人生だが、こんな幸せがあったらと祈る。おそらく、これも仏教的な要素なのだと思うが、私は宗教には疎いため、詳細は分からない。

最期の「祇園精舎の鐘の音」からはじまる一説だが、びわの語りから重盛の語りに切り替わり、時間が巻き戻る。これは、物語をまだ初めから再生(=読み直す)という事であり、再び読んで彼らを愛を持って生かす、というメタ的な意味と解釈した。我々が繰り返し再生する事で、彼らは永遠に生き続ける事ができるというのは、本作のスタッフの祈りなのだから。

雑感

オリジナルが持つ仏教色の強さ

ここまで、感想・考察を書いてきて、どうしても本作に満点を付けられない感覚があり、その事について記しておこうと思う。

それは、アニメの問題というより、原作の平家物語自体の問題なのだが、私にはこの平家一門絶滅という物語自体がハード過ぎると感じられる点である。

無論、時代を超えて読まれ続けてきているエンタメ作品であるがゆえに、楽しさはある。しかし、本作では、楽しい事もあったとしても人生がハード過ぎて死ぬ間際に恨みつらみが払拭できず、成仏できず亡者となった人たちばかり。そこが壮絶過ぎる。そして、仏教ゆえに、彼らを安らかな極楽浄土に案内したいというニュアンスが強い。そこに妙な圧力をなぜか感じてしまう。

本作ではそこを、キャラを愛する事で、キャラを永遠に生かすことができる、と解釈を今風に変えている事は理解する。そうだとしても、根幹の部分で、読者に死のハードさを強いる作風というか匂いが脳裏をよぎる。

自分でも考え過ぎだとは思うが、その点でどうしても波長が合わず気になってしまう、という面があった事は、率直な感想として記しておこうと思う。

資盛の生存(現代人向けの救済)(2022.5.8追記)

前述の通り、原作が持つ仏教色の強さに違和感を覚える私のような人にこそ、より共感を呼ぶキャラが一人居る。それが、資盛である。

ちなみに、資盛生存説だが壇の浦の死亡者リストに資盛の名前が無かった事から、安徳天皇を守りつつ奄美大島まで来たなどのいくつかの伝承があるらしい。

資盛と徳子を対比すると、その生き様の違いが明確になる。政治の駒になる事を嫌っていた徳子だったが、壇の浦の決戦後に出家して平家から切り離された存在になるが、それでも徳子は平家を背負っていたし平家を想っていた。言葉を変えるなら、出家してもなお平家に縛られていた。もちろん、それこそが物語上の徳子の美点になっているのは理解しているつもりである。

対して資盛は、本作では後醍醐天皇に命乞いの文を出した事からも、最後まで諦めない忍耐強さ、生きることへの執着が描かれていたと思う。資盛は自分に忠実なのである。

勿論、資盛が平家の滅亡を悲しまないワケはないだろう。しかし、家族、組織の肩書きが無くとも自害せずに、個人で生きる事を選択した。徳子の祈りは平家の救済ではあるが、資盛の生存こそが、現代を生きる(=新しい時代に向かって生きる)我々への救済ではないかと思う。

参考情報

おわりに

色々と話題作ではありましたが、大ファンである山田尚子監督作品の復活に、素直に喜び嬉しくなりました。

大変挑戦的な作品だったと思いますが、私には少々ハード過ぎたように思います。

次回作は、是非、楽しさ多めの作品になるといいな、と思いました。

86 ―エイティシックス―

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はじめに

本作は、2021年春期、2021年秋期にOAされたましたが、制作遅延により22話と23話が2022年3月に遅れてOAとなりました。

個人的には、22話と23話の感動の大きさは、ここのところのアニメ視聴の中ではずば抜けており、最後まで作品に付き合ってきたファンへの最大のプレゼントだったと思います。

私自身は、まず18話~21話を視聴していて、アニメーションの出来の良さに作品に引き込まれました。そして、ラストまで待たされている間に2クール目、1クール目の順に遡って視聴しておいて良かったと思いました。クライマックスは1クール目からの積み重ねであり、それを知らずにはここまで感動は出来なかったと思います。

色々と感じた良さをブログにまとめようと思い書き始めてみましたが、書きたい事が多すぎてかなりの長文になりました。

感想・考察

概要

本作は、SF戦争アクションといった要素を掛け合わせた作品であるが、とにかく物語の力が強い作風である。

あらすじは、人種差別を受け未来を奪われて最前線で戦わされる少年兵(シン)たちと、差別をしている側の社会の中でそれに抗いながら少年兵たちと交流を持つ高潔なお嬢様指揮官(レーナ)の物語であり、過去に囚われた死神のシンが未来を掴むまでの物語でもある。

物語・作風

全23話を通して観ると、本作の物語のトリッキーさに驚く。

主人公のシン達5人を除き、1クール目と2クール目で舞台や登場人物を大きく切り替えて、クライマックスでその二つのを結ぶ。そのカタルシスの大きさが半端ない。

また、本作は実にごった煮感ある作風で、多脚戦車によるSF戦争モノを基本としつつ、人種差別や、住む世界と身分が違う男女の恋愛物語や、敵無人兵器に憑依してしまった亡霊の怪談話などなど、多彩な要素を詰め込んでいる。

こうした中でも、クライマックスを考えると男女の恋愛の物語が軸にあったと思えるのだが、別にそこに至るまでの道のりが長い。

男(シン)は死と隣り合わせの人生の中で、自分の生きる意味を見いだせず悶々としていたが、最期の最後で、女に肯定され生きる意味を与えられた。

女(レーナ)はお嬢様でその高潔さゆえに腐敗した社会で息苦しく生きていた。そんな中で、差別を受け地獄のような戦場でも自尊心を失わずに人間らしく生きた少年兵達が、女の心の支えになり、女を強くした。

この男女の関係も、お互いに離れ離れで疎なコミュニケーションだからこそ、心と心の繋がりになっていたという点が肝である。その意味では、現代におけるSNSなどの手軽に繋がる世界とは違い、容易に繋がらない昔の時代感だからこその物語だったと思う。AIや多脚戦車などの近未来感とは別に、社会や通信手段はアナクロという不思議な設定が、このごった煮感ある作風のポイントになっている。

演出・作画・音楽

本作のアニメーションとしての総合的なクオリティはかなり高い。

花や線路を効果的にモチーフとして使用したり、赤色が生で青色が死のイメージだったり、演出的な意図も明確な意図をもって散りばめられており、かなりの浸透圧で演出意図が心に染み込んでくる。

レイアウトもバッチリ決まっており、キャラ作画も乱れることなく、メカや戦闘シーンの3DCGもカッコよく、とにかくどのシーンも明確な意図をもって的確に設計されている印象を持った。

また、22話、23話の感動的なシーンで流れる挿入歌がカッコよくて秀逸であった。これは、YouTube動画があったので、埋め込みで貼っておく。

世界観

戦争&メカアクション

本作は戦争を描くが、敵国は無人兵器のみという設定で、単純な国家間の人間同士の殺し合いではない点が今風である。

敵のギアーテ帝国のレギオンは完全な無人兵器群であり、敵国の人間はすでに死滅している。無人の機械が当初の人間の命令を守り、工場で無人兵器を生産し、戦闘を続けているという皮肉である。

一方、サンマグノリア共和国の最前線の部隊は、有人の多脚戦車で戦う。雰囲気としては攻殻機動隊タチコマを大きくして大砲(滑空砲)の乗せた感じだと思えばよい。装甲は薄くアルミの棺桶と呼ばれている。ワイヤーを使ってクモの様に身軽に移動したりもできる。

ざっくりしたした紹介はこんな感じだが、メカの設定はかなり凝っている。

また、兵器描写も緻密でカッコいい。ウエザリング(汚れ)や凹みも描かれリアリティがあり、3DCGで描かれるので作画が崩れる事もない。対するレギオンの大量の無人兵器でビッシリと埋め尽くされた感や、不気味な近未来感ある装甲の輝きや、最大の敵モルフォの神々しさのある巨大感など圧巻である。

しかも、実際のバトルシーンも緊張感を伴うレイアウトとカッティング、リアリティのある音響SEにより、ここ数年のメカアクションアニメとしても見応えのある映像に仕上がっている。

未来とも過去とも感じられる不思議な世界観

本作はSFとは書いたが、時代の空気としては第二次世界大戦頃を彷彿とさせる世界観であり、兵器メカやパラレイドと呼ばれる一対多の感覚共有デバイスなどが明確な未来感がある。

サンマグノリア共和国の軍服や市民の服装、建物、紙の書類に万年筆、スマホや携帯電話は存在しないなど、生活様式は我々の時代よりも過去である。雰囲気としては、フランスやイタリアなどの西洋の共和国を連想させる。

物語と直結する設定上の特徴として、サンマグノリア共和国では極端な人種差別が行われている。銀髪銀瞳の人間を優勢人種とし、それ以外の人間を劣勢人種として「色付き」などと呼び蔑んだ。「色付き」は1区から85区の塀の外の86区に迫害し、人権をはく奪し、レギオンと戦う兵役を課した。本作のタイトルの「エイティシックス」は迫害を受ける86区民を意味する。銀髪銀瞳の人間たちはそんなエイティシックス達の犠牲の上に胡坐をかいて暮らしている。軍人は直接前線に出向くこともなく後方から指揮するのみ。流石に今の時代にこの人種差別感は辟易するモノがあるが、これも昔の時代の雰囲気を持たせた世界観で、前時代の社会なのだと理解した。

一方、2クール目の舞台となるギアーテ連邦はアメリカ合衆国を連想させる。非人道的な人種差別はなく平等が約束される。だが、レギオンの脅威が拡大しており、エイティシックスであるシン達を再び戦場に送り込むこととなる。

死者の亡霊(=日本的な怪談話)

本作はレギオンが人間の断末魔の脳(思考?)をコピーして、いつまでもレギオンの制御装置として働かされるというSF的なオカルトホラー要素が面白いと思った。もっとも、これは1クール目が進行するにつれ徐々に明らかになる。

当初は、レーナの前任のハンドラーが謎の精神異常でリタイアするという都市伝説めいた噂から始まる。スピアヘッド戦隊=死神というホラーイメージの導入になっていた。これを紐解いて行くと、シンがレギオンの声を聞く事ができるから相手に先手を打てるという話になり、その声がレギオンに取り込まれた死者(=戦友)の断末魔の叫び声であり、パラレイド越しに半狂乱の意識を大量に入力してしまったハンドラーが半狂乱になっていったという経緯が分かってくる。

これは、死しても無念で成仏出来ない怨念というか、四谷怪談などの日本的な幽霊を連想させる。だからこそ、死者を成仏させたいし、幽霊の悪夢から解放されたい。おおよそ、怪談噺の幽霊は、生前悲惨な目に会っている。それは、エイティシックスも同様であろう。エイティシックスは、決められた短い人生しか与えられていなかったため、自分もすぐに死者になるという認識だったのではないか。だからこそ、死者を粗末にできない、ないがしろにできないという気持ちがあったのではないかと思う。

国家と人種差別

ただ、やはり令和の現代で人種差別をしたときに、感情移入しにくさ、というのはあると思う。差別する側への嫌悪感、差別される側への悲壮感に怒りを覚えつつ、救いのない物語になってゆくので、どうしても爽快感は無くなる。

令和のアニメで人種差別を扱うこと自体、ちょっと珍しくて、挑戦的な題材を選んでいたと思う。前述の通り、本作は現代ではなく過去の時代感に設定しているのも、この辺りの設定と密着していると思われる。

ただし、本作は人種差別そのものを問題にするよりも、その状況が生み出すシンとレーナの物理的な壁として活用する事に注力していた印象である。住む世界が違うロミオとジュリエットの様に。

差別されていた側のエイティシックスが、どのようなメンタルで戦っていたかについては、ライデンが劇中で語っている。端的に言えば、差別してる奴らは憎いが、自尊心のために戦い、差別している憎き奴らを結果的に守る事は、たまたまである。

最終的には2クール目冒頭のレギオンの大攻勢でサンマグノリア共和国はほぼ崩壊状態。差別していた側に天罰が下る、という物語の流れで、視聴者の気分の帳尻を合わせる。

2クール目のギアーテ連邦は、自由と平等の国である。差別もなく、元エイティシックスのシン達にも人権が与えられる。しかし、そこには「差別を受けて来た可哀そうな子供たち」というレッテルが貼られ、哀れみの視線も混じっていた。

また、ノルトリヒト戦隊に所属し軍人として生活し始めると、元々の戦闘力の高さと生還率から死神と揶揄され、歓迎されない視線もあった。モルフォ殲滅戦では帰還率ゼロと言われる作戦に任命されたが、その裏には孤児で身寄りがなく犠牲者を出してもギアーテ連邦国民からは恨まれない、という軍の世論対応の目論見もあった。

つまり、自由と平等のこの国でも何らかの差別的扱いを受けていたという意味では、人類に対する皮肉ととれる。ギアーテ連邦大統領の、それ(=差別を無くすこと)が出来なければこんな国滅んでしまえばいいんだよ、という台詞があった。人類の理想と現実のギャップは、1クール目のレーナとも重なる。この辺りは、本作のエンタメとしての面白さではないかと思う。

キャラ

シンエイ・ノーゼン(シン)

1クール目

シンが持たされた特殊能力は、レギオン(=死者)の声が聞こえる力。そして、仲間の死を看取る死神。パーソナルマークは「首なし骸骨」。

死神の由来は、必ず戦闘で生還し、致命傷を追った仲間をレギオンにならないように止めを刺して看取る事。戦死者の機体の一部を持ち帰り名前を彫って遺骨代わりに残す事。アンダーテイカー(=葬儀屋)は、そのためにあだ名。

サンマグノリア共和国において有色人種であるエイティシックスに人権はない。そして、5年間の兵役を追える前に、サンマグノリア共和国にとって不都合な真実として100%戦死させられるという意味で、未来もない。

誰もが死に際に死にたくないと言う。死に対する恐怖と無念がレギオンに蓄積し、大量の狂気となって聞こえてくる、という想像を絶するストレスを受け続けるシン。スピアヘッド戦隊も11名が戦死し、残りはライデン、アンジュ、セオト、クレナとシンの5名になった。

ライデンは、この不条理の中の限られた命だからこそ、自尊心を持って戦う(意訳)と言った。

シンの場合、幼少期に戦死した兄のレイを成仏させるという個人的な使命を持っていた。シンはレイから憎まれていたと信じ込み、消えない罪の意識にさいなまれていた。いつのころからか、レイの声がレギオンの声に混じって聞こえるようになった。そして、11話でレイの魂を成仏させた瞬間、レイから愛されていたという記憶を垣間見るという皮肉。兄のレイの魂と共に、シンの罪も溶けた。

12話で、シン達はサンマグノリア共和国から解放されて自由を手に入れるが、その自由もつかの間、13話でレギオンの襲来に仲間ともども殺されて1クール目は終わる。

不自由な人生だったし、安らかとは言い難いが、最後は悔いを残すことなく、やっと死ねた。

視聴者の私としては、これがオチだとするなら、何とも救いようがない話とも感じられた。

2クール目

シン達5人は生きていた。ギアーテ連邦という国に保護され、ここに差別はなく人権を保障されて暮らせるという。ただ、そう言われても、実感のわかない日々を生活が続く。結局、レギオンと戦うべく軍に所属してゆく道を再び選ぶ。

人権あるこの国でも、死神と揶揄されたし、冷たい視線は混じったていた。親しかったユージンがレギオンにやられたときも、スピアヘッド戦隊の時と同様に、止めを刺して看取った。その事で戦友や家族から憎しみをぶつけられる事もあった。やはり、死神が人間らしく生きる事は叶わないらしい。

シン達のノルトリヒト戦隊には、かつてのギアーテ帝国の姫君であるフレデリカがマスコットとして同行する。フレデリカはシン同様の異能を持ち、シンの心も読みにいける。そして、かつてのシン同様に、レギオンになった近衛兵のキリヤを成仏させるという。フレデリカとかつてのシンの宿命が重なる。

ギオンの超巨大列車法であるモルフォは、移動する事で対戦中の全ての国の首都を射程圏内に入れて砲撃可能であり、モルフォ撃破が人類側の最優先事項であった。そして、モルフォにはキリヤが取り込まれている。モルフォ討伐の無理ゲーに挑戦する意味は、人類が生き延びるためであり、フレデリカの願いのためである。

シンは、生きる事の無頓着で、キリヤとサシ違いになればいいか、と考えていたところをフレデリカに窘められる。ライデンも大統領も、死にに行く訳じゃない、生きて帰って来なさい、と言われるのにその実感が持てない。生きる事を肯定できない。むしろ、戦闘に身を投じているときに、レギオンに取り込まれたキリヤのように狂気じみた笑みを無意識に浮かべて、あちら側の狂気に足を突っ込んでいる(=もう少しで人間では無くなる)という感覚。

ノルトリヒト戦隊から深く先行し、ライデン達も途中で追ってを足止めさせ、最終的にシンだけがモルフォに到達する。モルフォとの丁々発止の格闘のの末、シンの多脚戦車は戦闘でボロボロ、残段数は1、という絶体絶命。ここで、フレデリカが飛び出して自殺を演じてキリヤが取り乱したところで、シンがキリヤを仕留める。自爆装置が作動し、モルフォは完全に機能を停止した。この作戦は、ギアーテ連邦の勝ちである。

しかし、シンは生き延びた事で、再び自責の念に駆られていた。キリヤにあの世に引っ張られそうになり、兄に憎まれたり、味方に死神として疎まれたり、ライデン達にも置いてけぼりされたり。シンの心の中で真実が分からなくなり、自己否定の渦が台風のように膨れ上がり、生と死の狭間に迷い込んでいた。

そして、身動きもとれず、拳銃も手元に無い状態で、レギオンの残党が近づいてくる。撃ってくれ!と叫ぶのは捕まってレギオンにされたら、このままの無念のまま、ずっと彷徨わなければならないから。それは地獄に落ちるのと同じこと。シンの罪に対する罰というなら酷過ぎる仕打ち。

その、レギオンは撃ちぬかれ、向こうからサンマグノリア共和国の女性士官が歩み寄ってくる。

彼女は、仲間を見殺しにするつもりはない。レギオンの大攻勢を教えてくれた、その人に感謝している。(死んでしまったと思われる)その人に追いつくために戦っている。そして、追いついた先の景色を見せたい、とスピアヘッド戦隊の写真を抱えて持ち歩いていた。あなたも勝ち抜いて生きている事を誇って欲しい、と語る。

パラレイド経由の声でシンは彼女がレーナである事を理解するが、彼女はシンという人間をことごとく肯定する。ライデン達もフレデリカも大統領も、死ぬな生きろとは言うが、肯定はしていなかった。この肯定がある事で、シンは生きる意味を持ち、前に進むことが出来る。しかも、レーナが頑張れるのはシンのおかげだという。シンは期せずして他人に何かを与えていた。死神と呼ばれたシンが、人の命を奪うのではなく、人を生かしていたという事実。目からウロコならぬ涙が落ちた瞬間だった。

一度はハッチを開けて対面しようとしたが、結果的に対面はせずにレーナと別れてしまった。

シンの帰還をライデン達も大統領達もフレデリカも歓喜する。みんな生き延びていて、置いてけぼりになっていなかった。フレデリカやライデン達もレーナの事を冷やかしてくる。

戦闘を終え、ひと時の休息をライデン達どもども過ごす。ユージンや戦没者の墓参りは、ある意味死者との決別である。今までシンは死者を背負い過ぎていた。だから、お墓に預けて肩の荷を下ろす。妹や同僚の憎しみも受け止めつつ、生前の笑顔(=幸せだった過去)を届けたのも、シン自信に施したのと同様のセラピーである。

そして、今度赴任してくる客員士官はレーナである。レーナはかつての部下が生き延びて再び部下になる事はサプライズとして隠されている。今度は顔を突き合わせてレギオンと戦う事になる。とても、晴れ晴れしい気持ちで。

ヴィラディレーナ・ミレーゼ(レーナ)

1クール目

レーナはサンマグノリア共和国の裕福な家庭の女性士官。基本的に意識高い系の高潔なお嬢様。過去にエイティシックスのレイに助けられた事もあり、周囲が差別しているエイティシックスに肩入れする。レーナ自身はこうした差別を何とも思わない社会に辟易している。

そして、ハンドラーとしてスピアヘッド戦隊の指揮を執るようになる。パラレイドを使って毎晩、全隊員と音声会話をコミュニケーションを図る。隊長のシンは紳士的であったが反発する者も居た。しかし、少しづつ距離は縮まってゆくのを感じていた。時には慰労のために補給物資に花火を送付したこともあった。

しかし、連日続く戦闘により隊員たちは少しづつ戦死していった。補給物資の送付も上層部の対応の悪さから滞りはじめる。不十分な補給状況での出撃命令。もう少しで彼らも退役なのにと考えていたところ、ライデンの口から退役する前に必ず戦死させられるように仕向けられている、という事実が告げられる。圧倒的な理不尽と無力感。結局、彼らから見たら私も差別をする者と同罪なのか。

最期となる戦いで、アンリエッタに無理やりパラレイドを改造させ、失明覚悟でライデンの視覚に接続して、長距離砲撃による援護射撃を敢行した。これにより、レギオンになったレイの魂を成仏させる事が出来た。やっと彼らと対等となり信頼を勝ち得たという喜び。

しかし、シン達はそのまま進軍し、サンマグノリア共和国からの通信圏外に出てしまった。1区に居るレーナは建物の外に出て追いかけようとするも、手が届くことも、追いつくことも勿論なく、この国に置き去りにされてしまう。

後日、謹慎中のレーナはシン達が居なくなったスピアヘッド戦隊の兵舎に赴き、そこに彼らが確かに実在した痕跡を感じ取り、彼らの写真とハンドラー1の落書きを受け取り持ち帰った。決して彼らを忘れぬように。

結局、レーナはエイティシックスに何を見ていたのだろうか。周囲の堕落した人間に嫌気がさし、迫害されながらも自尊心を持って生きる彼らに、人間としてのあるべき尊厳を見たのかもしれない。そして、自分もそっち側の人間でありたいと。それとは別にレーナはシンに無意識に恋もしていたのだろう。面白いのはアナクロな音声通話のみのやり取りだからこそ、その人の内面により深く触れたような気になってしまうところであろう。これは、TVのバラエティー番組よりも深夜ラジオの方が心に沁みる、みたいな感じだと思う。だからこそ、相手を美化しやすい。最期に追いすがろうとして泣いてしまうというのは、昭和な雰囲気を感じてしまう。時代感を古くしていると書いたが、この辺りも意図的な振舞いだと想像しているし、そこを理解していないと違和感を覚えてしまう作風かもしれない。

2クール目

シン達から聞いた情報通り、レギオンはタイムリミットで稼働停止する事なく増殖し続け、この国に大攻勢をしかけてきた。多数の死傷者が出て、この国に甚大な被害をもたらしたが、これは堕落した国民達に罰が当たったのかもしれない。とは言え、祖国が滅んでいい理由にはならない。レーナは、制服を青から黒に代え、髪の毛に赤のメッシュを刺して、新たな部隊のハンドラーとなって戦っていた。

ギオンとの戦いが続く中、レーナは境界線を超えて進軍した。そして、存在を確認できなかった他国の軍と、巨大列車砲タイプのレギオンを確認し、長距離援護射撃を行う。結果的に、レギオンは沈黙し自爆した。

戦場に近づくと、レギオンと交戦し仕留めたと思しき多脚戦車。たった1機でレギオンを倒したのか。中からパイロットの声が。ギアーテ連邦軍に保護を求めるか?と聞かれる。部下を見捨てる事は出来ない。たとえ負けるのだとしても誇りを持って戦い抜く。そうできると示してくれた人達に、一緒に戦い、この先の景色を見せるために戦っている。そう言い返した。あなたも勝って生き残ったのだから、それを誇ればいい。

別部隊のレギオンに対してギアーテ連邦の援軍が攻撃する。グランミュールに戻るためにギアーテ連邦軍のヘリに輸送してもらう事になった。

ボロボロになった旧共和国に進軍してきてレギオンを追い返したギアーテ連邦軍。旧共和国軍は進駐軍におべっかを使うが、この状況に追い込まれても色付き人種を上から目線で見下す国民たち。やるせなさと屈辱感。そんな中、ギアーテ連邦軍から将校派遣の依頼があり、それに志願した。

ギアーテ連邦に来て最初に訪れたのは、旧共和国軍の戦没者慰霊碑。忘れません。そして、直後に紹介された新たな部下。シン?! 死なずに生き伸びていた? 涙が溢れる。ライデン、セオト、アンジェ、クレナ!嬉しい!!やっと追いついた。これからは、彼らと一緒に歩んで行けるなんて。完。

レーナは、命令無視してから、随分とたくましくなった。それは、死を約束されていながら、誇りを持って戦ってきたエイティシックス達を見て報いたい、自分もそうありたいと真似して生きてきたから。凛々しさと可愛さが同居しているところにレーナのヒロインとしての魅力があると思う。

フレデリカ・ローゼンフェルト

フレデリカは、2クール目のヒロインとして登場。まだ10歳の子供だが、かつてのギアーテ帝国の最期の女帝である。

フレデリカは、シンとの重なる部分と、シンを俯瞰から見る者としての役割があったように思う。レギオンを生み出して国民は滅んでしまったギアーテ帝国の末裔という事からか、シン同様にレギオンの声が聞こえる模様だが、シンの心も読めてしまう。だからこそ、シンの理解者と成りうる。子供ながらに達観した面もあり、子供っぽい素振りの合間に、大人びた正論を切り出してくる事も多い。

序盤では、シン達と大統領宅で共に暮らす事になったときに、自然とシン達の妹的なポジションの関係を築く。そして、シン達が配属されたノルトリヒト戦隊のマスコットとして同行し、モルフォ討伐戦にも着いてきた。

フレデリカは、レギオンになってしまった近衛兵のキリヤの魂を成仏させるという、やるべき事を持っていた。これは、シンが兄のレイを成仏させた下りと全く同一の構図である。だから、キリヤを仕留める事をシンに委ねる事になる。

しかし、反面、シンが生きるという事からどんどん遠ざかり、死の際まで足を踏み入れそうな気配を察する。戦闘中に浮かべるシンの薄ら笑いが、シンのレギオン化を連想させる。シン自身が死に場所を求めてさすらっている。フレデリカは、シンが相打ち覚悟で戦闘に赴くのを「わらわを悲しませるつもりか」と引き留めようとした事もあった。進軍中にライデン達と違い、シンだけが死にに行こうとしている事を叱った事もあった。シンにとってはこの説教も馬の耳に念仏だったかもしれないが、フレデリカは人間としていつも真っ当な事を言っていたと思う。ある意味、保護者としてシンの事がただ心配だったのだろう。

物語終盤で、シンとキリヤの一騎打ちになった際、土壇場でフレデリカが表に出て、自らの頭に拳銃を突きつけ、キリヤの気を引いた。キリヤは死んだハズのフレデリカが生きていた事、そしてフレデリカ自身の命を人質に戦闘停止を要求している事にパニックに陥った。シンは、すかさずモルフォの中のどこにキリヤが居るかをフレデリカに訊ねるが、フレデリカは一瞬回答に躊躇する。それは、愛すべきキリヤとの本当の別れを意味するから。そして、初心通りキリヤの居場所をシンに伝え、シンがキリヤを仕留める。自爆装置が自動起動しモルフォは大破する。

キリヤはこのとき、爆発からフレデリカを守る。キリヤは、フレデリカを死なせてしまった後悔の念をずっと引きずっていたので、フレデリカの命を救ったことで、今度こそ未練なく成仏できるのだろう。また、狂気だけ残ったように思えたキリヤだったが、守ってくれる優しいキリヤが最期の記憶として残った。これで、フレデリカのやるべき事は果たせた。

22話でレーナに救われたシンの心を見て安心するフレデリカ。シンの存在を始めて全面的に肯定したレーナにお返しをするために、次に会うまでに、がっかりさせない見たかった景色を見せる。男子特融のカッコつけだが、生きる意味を持ったシンを祝福した。

本作は、基本的にキャラが軍人ばかりなので、どうしても映像が窮屈で堅苦しくなる。フレデリカの存在は文字通りマスコットとして、本作の印象を柔らげる効果があったと思う。同時に、兵士としての義務感とは別に、実に人間として真っ当な祈りのような存在として、視聴者がシンを見る際の視点の拠り所になっていたと思う。

おわりに

本作は、1クール目こそ、どこに向かう物語なのか分からず、漂流感とストレスを感じる所もあるのですが、最後まで観てなんぼの作品です。

途中で挫折してしまった人も、是非とも最後まで観ていただけたらな、という気持ちです。

書きだしたら、あれもこれもと長文になりましたが、様々な要素を詰め込んでごった煮にした作風でもあり、自分で書いていても、なかなか書き切れずに驚いてしまいました。原作小説の魅力が大きいのでしょうが、こうした作品の分析もまた、楽しくできました。

2022年冬期アニメ感想総括

はじめに

2022年冬期のアニメ感想総括です。今期、最終話まで視聴した作品は下記。

  • その着せ替え人形は恋をする
  • 明日ちゃんのセーラー服
  • スローループ
  • 異世界美少女受肉おじさんと
  • ハコヅメ
  • プリンセスコネクト Re:Dive Season 2

なお、平家物語は現在視聴途中のため、後日追記する予定です。追記しました。

感想・考察

その着せ替え人形は恋をする

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 徹底的にネガティブ要素(=ストレス)を排除した、新感覚ラブコメの作風
    • 演出、作画、芝居、音響、撮影の力が全方位に出来が良いアニメーション
  • cons
    • 特になし

今期の台風の目、CloverWorks制作アニメ2本柱の1本。アニメーションプロデューサーの梅原翔太は「ワンダーエッグ・プライオリティ」も担当しており、個人的に放送前から期待は高かった。監督は篠原啓輔、シリーズ構成・全話脚本は冨田頼子。原作はヤングガンガン連載のラブコメ漫画である。原作者の福田晋一先生も理想のアニメ化と感謝するほどの良きアニメ化であった。

本作はコスプレを題材にしたラブコメでありながら、従来の文法をいくつか無視した新感覚のラブコメと言える。

従来の恋愛モノは、恋のライバルが恋愛相手を取った取られただの、どちらか片方の異性を選ばなければならないだの、浮気や二股などの裏切りだの、なんらかのストレスを抱えたドラマ作りがベースにあった。ストレスフルな葛藤があるから、恋愛の勝者敗者の分かれ目があり、物語を紡ぐことができた。しかし、本作はこのストレスが無い。勝者も敗者もいない。恋愛の楽しい点を集めて物語が進むという点が新しい。

例えば、海夢と新菜のカップルに対し、結果的に新菜に好意を寄せる紗寿叶というキャラが中盤から登場する。従来のラブコメなら三角関係のドロドロした展開は必至だが、本作ではそうはならない。例えば、新菜がこっそり心寿のコスプレ衣装を作るために新菜が心寿を自室に招き入れた事の違和感に海夢が気付いたのに、数秒後には忘れている。例えば、11話でラブホテルであわや一線を超えそうになるが、12話ではその事は触れられない。明らかに、恋愛モノのストレスを意識したイベントも配置しつつ、ことごとくそれをキャンセルしてしまう展開で埋め尽くされている。

また、本作の序盤は、男子なのに雛人形好きという事を否定された新菜の存在を、強い憧れだけでコスプレに突っ走ってくるJKギャルの海夢が全肯定する事で救われる展開になっている。海夢の表裏のない性格の良さ、読モするほどの美貌、そして若さ弾ける色気、その全てのパワーで視聴者もすぐに海夢に惚れてしまうという感じの高感度キャラである。

そして、ここがポイントなのだが、新菜は海夢の好きを肯定する部分を尊敬し、エロさには興奮している。一方、海夢は新菜の他人が好きなモノを徹底的に理解した上でコスプレ衣装を作るという誠実さが魅力なのだが、あるタイミングから、海夢は明確に新菜に恋愛対象として惚れる。

海夢と新菜はお家デートをする程の仲であるが、コスプレという趣味を主題にしているため、淫らな展開には辛うじてならない。特に新菜は理性と本能を完全に分離しているので、その点が観ている側のじらしポイントになる。とは言え、二人の関係は好き同士。デートをしてもうぶな輝きを描く事になるので、とにかく爽やか。ここが本作の肝と言える。

今のところ新菜→海夢はエロさの欲情よりも尊敬の理性が勝っている。仮に二人が一線を越えてしまうとプラトニックではなくなってしまう。大人ならばそれもアリだし、それも青春だが、それは本作の目指す世界ではないのだろう。文芸的にはこの理性と欲情の狭間のバランスを絶妙にキープしているが、ヤジロベーのように妙な安定感、安心感がある。

また、本作は演出、作画、芝居、音響、撮影の力が全方位に強い。

最も印象的だったシーンで説明すると、8話の江の島デートのシーンである。江の島の海岸で二人で裸足で過ごすシーンの海が淡いエメラルドグリーンで描かれる。水面は日差しが反射してキラキラと眩しい。くるぶしまで二人で浸かったシーンは、その世界に二人だけしか居ないような、そんな没入感と特別完を演出していた。実際の江の島の海はもっと深々とした緑色で、砂浜は灰色で、空は青色か灰色だろう。

この時点で海夢は新菜に完全に惚れていたので、海夢の事だけを見て、恥ずかしい台詞を言っては一人赤面していたが、新菜の方は自分の知らない世界に来て遠くの海の方を眺めていた。つまり、このデートのシーンに海夢は恋愛対象の新菜を見ているが、新菜は海夢を見ずに未知の世界のその先を見ていたというすれ違いのニュアンスをこのシーンに込める。ただ、多くの視聴者は二人のラブラブだけが印象に残るので、すれ違いの寂しさはあまり感じずに尊い多幸感だけが残る。つまり、そうした隠し味や出汁をキッチリとシーンに乗せて料理しているので、完成したアニメーションを見たときの満足度(=旨味)が半端なく高い。例えて言うなら、高級レストランの食事である。これは一例だが、全ての話にこのような上質でコントロールの行き届いたシーンがあり、それをテレビシリーズで見られるという事が驚異的である。

このように、好きの肯定による救済、エロくはあるが淫乱にならずピュアな恋愛、ストレスキャンセルな軽快な作風、コメディの楽しさ、そして上質なアニメーション。これらのポジティブ要素が奇跡的に、否、綿密な設計の上に作り込まれたクオリティの高さが本作の魅力である。

12話は、コスイベント無しで、夏休み中盤から最終日までの海夢と新菜の充実した生活を描く。海夢に連れてきてもらった花火(=新世界)。スマホ越しに遠距離添い寝する海夢と新菜。ただし、恋愛の矢印は海夢→新菜止まりで、相互恋愛の一歩手前で1クールを占める。幸せの絶頂のちょっと手前。松任谷由実の歌で言えば14番目の月である。2クール目も十分あり得る作品だと思うが、この余韻で止めるとろこも絶妙。シリーズ構成の各話の刻み、バランス感覚も見事だったと思う。

明日ちゃんのセーラー服

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 物語性を敢えて希薄にし、アニメーションの動き、演出に全振りした作風
    • 美少女の身体、仕草、表情で煌めきを描き切る作画
  • cons
    • 特になし

原作は博先生による漫画だが、今までの漫画にない斬新な作風が特徴の作品である。それは、グラビア雑誌のような精密なポージングや服の皺を再現した作画だったり、一連のアクションをストロボ撮影したような動きある絵を何枚も描いたり。おおよそ漫画表現では高カロリー過ぎて適さない事に、敢えて挑戦している作品だと言える。

監督は「空の青さを知る人よ」で長井龍雪監督と共同演出していた黒木美幸。シリーズ構成、全話脚本は 山崎莉乃。アニメーション制作は、今勢いに乗っているCloverWorksという布陣。

本作の最大のウリは、美少女の身体、仕草、表情の煌めきをアニメーションで動かし表現しきる、という点にある。ここを魅せる作風なので、乱暴に言えば複雑な物語はノイズになる。

本作のあらすじを書いてしまうと呆れるほど超シンプルである。田舎に暮らしていたキラキラした主人公の明日小路が、セーラー服を着て入学したての中学校でクラスメイト全員と友達になって、さらにキラキラしてゆく物語、である。小路は運動能力が極端に高く、歌も踊りも上手く、底抜けに明るい。そして、クラスメイト達はそんな小路に憧れ、もっと言えば小路に惚れてしまう。そこに妬みや憎しみなどの負の感情はなく、あくまでもピュアに小路を好きになる。

客観的に考えれば、このあらすじだけを紹介されても胡散臭いと思うのが普通だろう。しかし、実際にはアニメーションを見て、私自身も小路が好きになり、この物語を信じられてしまう魔力が本作にはあった。

それを信じさせるには、小路がキラキラしていなければならない。SNSでもフェチアニメなどと騒がれていたが、この魔法をかけるのに必要な説得力が、通常のアニメでは考えられないくらいリアリティを持った動きやポーズであったのだと思う。つまり、可愛いとか可愛くないというレベルを超えて、そこにその生身の人間が居る、という感覚を視聴者に与える。一つ断っておくと、アニメーションのリアリティは、実写のような生っぽさとは違う。むしろ、実写よりもデフォルメされ誇張される事で大げさな動きとなり、実写以上の躍動感を違和感を与えずに表現できる。そして、躍動感=小路そのものである。その意味で、本作はアニメーションでなければ適切に表現しえない作品だったと思う。

本作で特に凄いと感じたのは7話と12話なのだが、それぞれに異なる独特の印象を持っていた。

7話は、蛇森が小路にせがまれて、そこから独学でギター演奏を勉強して小路に演奏を披露する回である。7話を始めて観たとき、私は瞬きも、息をするのも忘れると感じるくらいに、画面に食い入り、ガチで泣いてしまった。蛇森の心情に寄り添い、それがストレートに伝わってくるため、視聴していて蛇森自身になり切っていた。

さびれたギターの弦を弾いたときの音に対する感動。コードの多さへの驚き、焦燥感と折れそうになる気持ち。演奏当日の小路を誘うときの清水の舞台から飛び降りる感覚。ハプニングで聞かされた木崎のピアノとの格差の絶望感。気持ちを積み重ねた練習曲チェリーを披露する際の緊張感。たどたどしい演奏を肯定された安堵感と達成感。上機嫌で更なる練習に励む高揚感。

20分余りの尺の中に、物凄い情報量の感情が、交通整理されながら途切れることなくすんなり入ってくる。ここまで心情が浸透してくるのは、演出力の高さのゆえ、だろう。

7話は物語的にもコンパクトながら出来が良かった。蛇森の学生寮の同室の戸鹿野の存在が効いている。それは、小路と戸鹿野の雑談で地道なステップアップの喜びを共有→戸鹿野自身のスランプの克服→戸鹿野が牧羊犬のごとき蛇森の導き→蛇森が小路に拙いギター演奏をプレゼントする→小路が元気をもらう、というやる気の循環を描いている点が美しい。

12話は、体育祭の後夜祭での演劇部の小路のダンスを見せつつ、体育祭の各種目をフラッシュバックしながら、1日の小路の興奮の絶頂を振り返る。ダンス前の直前の緊張感から、木崎のピアノ演奏に合わせたセーラ服の小路のダンス。伴奏が途切れないから、視聴者に息をつく暇を与えない。各種目のクラスメイトの活躍、小路たち応援団のエール、勝ち負けに一喜一憂するクラスメイト。木崎の演奏は途中でバイオリンの演奏に切り替わり、体育祭のトリであるバレーを最高に熱くドラマチックに見せる。最後は小路のファインプレーで試合を勝ち取り、1年3組は優勝する。この序盤からの盛り上がりがダンスの勢いとも重なり、小路のダンスも大声援で幕を閉じる。ここに物語は無く、小路と1年3組のクラスメイトの熱い情動だけがある。各種目のスポーツとダンスをアニメーションと音楽だけで魅了しきってしまうところが、本作の演出と作画の凄いところである。このAパートの15分強の時間、映像とともにエクスタシーを迎えてどっと疲れた、という感覚になった。これこそが、本作の真骨頂であろう。

こうして振り返って整理してみると、本作がいかに例外的な作品だったか理解できる。従来のエンタメ作品が持つ物語性は敢えてシンプルに削ぎ落し、美少女の煌めきのエッセンスだけを取り出し、アニメーションの快楽にリソースを全力投球するという作風である。別の言い方をするなら、圧倒的な躍動感の演出の凄み。非常に稀有で、ある意味ストイックな作風と言ってよいだろう。

エンタメ作品の多様性は喜ばしいので、このような超変化球、かつ剛速球な作品が出て来た事を、素直にうれしく思う。

PS.

7話視聴時点で書いた感想・考察ブログに、「明日ちゃんのセーラー服=ブルセラのグラビア写真集・イメージビデオ」と書いた。

これは、本作の前半の違和感について考え方をまとめたモノだが、今でもこの考え方は強く持っている。しかし、後半のクラスメイト全員が小路の友達となり返ってくるという、巨大なクライマックスめがけて収束してゆく熱い展開には、ブルセラ的な匂いは感じない。前半と後半でテイストがガラッと変わった、と言ってもいいくらいに違う。これは、おそらく物語を持たずに絵的な作品として連載開始した原作漫画が、連載途中にもとから持っていたキラキラを物語として昇華させた後付けのものではないか、と想像している。

そして、アニメスタッフは全12話を通してそのキラキラを、演出や作画や音響などの精密な設計と技術力で映像として結実させた。そこに本作の凄みがあると思う。

スローループ

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 王道きららで、誠実な家族の人間ドラマを描く、大人も楽しめるお菓子のような作風
    • メインは人間ドラマで、趣味(フライフィッシング&料理)はサイドディッシュ的な主従関係のバランス
  • cons
    • 特になし

王道直球のきららアニメ。シリーズ構成の山田由香は「私に天使が舞い降りた!」「恋する小惑星」などの温かみあるドラマ作りが印象的な脚本家。監督は秋田谷典昭。制作はCONNECT(≒SILVER LINKS)である事から、中堅レベルの以上の手堅い作品になる期待があった。

登場人物は、他界した父親の趣味だったフライフィッシングを嗜む、少し陰のあるひより。持ち前の明るさと料理の腕前でひよりの殻を破ってく義理の姉の小春。少し大人でひよりに寄り添う幼馴染の恋。この3人のJKを中心に紡がれるドラマである事が、1クール作品としての収まりを良くしている。他にもJSの双葉と藍子や、働く女性である一花とみやび、それぞれの両親や兄弟など家族の繋がりの物語を、春から秋にかけての季節の変化とともに描く。

本作が他のきらら系と異なるのは、片親の死別や再婚などの重めで繊細なドラマを真面目に盛り込んでいる点にある。単なるキャッキャウフフな作風ではなくビターな味わいと言える。例えるなら、お菓子なのに高級なドライフルーツやラム酒を使った深みある大人の味わい。脚本はシリーズ構成の山田由香と大知慶一郎の2名体制で、どちらも脚本も繊細な女子の心情を描く事には長けている。個人的には山田由香は人情味あふれる物語をまとめる事ができる吉田玲子フォロワーの最有力候補ではないかと考えている。

物語の軸は、どちらかというと他者との交流を拒みがちだったひよりが、義姉の小春と出会って心を開き、徐々に勇気を持って能動的になり、様々な人の繋がりを持って生きて行くという感じである。そこに家族への気遣い、亡者への想いが乗ってくる。ひよりにはボーイッシュな雰囲気も少しあり、ボーイミーツガール的な印象を当初抱いていた。

しかし、元気一杯で無敵に見える小春も、他者に心配をかけまいと無理に頑張りすぎるきらいがあり、そうした弱さも抱えている面も見えてくる。。8話で風邪で迷惑をかけたと言う小春に対して、家族なんだから甘えてもいい、というひよりの台詞が沁みる。

また、ひよりの幼馴染の恋の存在も本作の要である。釣りバカの父親を持ち、釣具店の店員をしていることから釣りの知識は長けている。恋は、父親が他界して落ち込んでしまったひよりに寄り添う事は出来ても、ひよりを元気づけられなかった事を罪のように感じていた。小春の元気はそこを軽々と乗り越えてひよりを引っ張り上げた。それを認めざるを得ない恋。ひよりをめぐってライバル関係にある小春と恋だが、互いの長所も認め合う関係である。

そんな恋だが、11話のひよりの告白により、昔恋が軽はずみに言ってしまった「再婚おめでとう」の言葉が、ひよりが母親の事を考えるきっかけになり、現実の母親の再婚に繋がり、今のみんなの繋がりがあるのだから感謝していると伝えられる。恋が抱えていた自己否定を、ひよりの告白が肯定し恋を救う。この物語の確かさに唸る。

フライフィッシングのウンチクやお手軽料理の紹介も散りばめられ、趣味モノとしての側面もキッチリ描かれていた。ただし、ガチの趣味モノというより、サイドディッシュ的な要素になっていた。あくまで、物語が主でフライフィッシングは従である。

フライフィッシングに限らず、釣りはあくまで集団競技ではなく個人のスポーツ(≒遊び)である。魚と向き合い、自然と向き合い、最終的には自分自身と向き合う事になる。ひよりが内向きな性格なのも、フライフィッシングという居場所に定着してしまった事と関係あるのだろう。面白いのは、他者に積極的に干渉しながら、内心寂しがりの小春がそれなりにフライフィッシングにハマっているところである。12話では、コンテストという事もありひよりと離れた場所で、恋の助言を受けながら、小春自身が考えて一人で魚を釣り上げるシーンがあった。負けず嫌いな性格もあるが、基本は一人という釣りの世界が、小春の心に良い効果を与えているような気がしてならない。大袈裟かもしれないが、フライフィッシング要素を通じて、べたべたに依存していない、健全で対等な人間関係を感じられたように思う。

最後に繰り返しになるが、完全なききららテイスト(=文法)でありながら可愛いだけじゃない、優しさ溢れる手堅いドラマ作りが本作の持ち味であり、その期待に見事に応えてくれるクオリティだったと思う。その意味で、今期一番の良心的な良作だったと思う。

異世界美少女受肉おじさんと

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 片方が美少女化した男同士の恋愛 or BLという葛藤の斬新なコメディ
    • ネタが濃いのに、後を引かないサッパリした味付け
    • 古典的ともいえる漫画的手法でのアニメ映像作りによる、リッチ志向アニメーションへのアンチテーゼ
  • cons
    • 特になし

本作は異世界に召喚された二人の30代サラリーマン、橘と神宮寺の変則的なBLラブコメである。橘の美少女化がミソで、二人の見た目は男女になるが、心は幼馴染の男同士(=BL)という狂気の設定。気を許すと相思相愛になるが、そこは理性で踏ん張る、という葛藤のコメディである。私はBL愛好者ではないが、この設定だけでなんだか「ぞわぞわ」した。

原作はCygamesの漫画アプリ「サイコミ」の連載作品であり、担当編集者は割と最初からアニメ化を意識していたという。そして、本作を読んだBiliBili動画のプロデューサーが中国でウケると惚れこんでアニメ化に至ったという経緯らしい。アニメーション制作は中堅の安心感のあるOLM。監督はこれが初となる山井紗也香。漫画原作とアニメの共同進行の形だったとの事で、1クールとしての物語のまとまりも期待できた。

率直に言えば、アニメーションとしてはリッチとは言えず、むしろ動画枚数を減らした省カロリー作画な作品に思える。しかし、テンポの良い高密度な台詞の掛け合い、整ったキャラ絵に時折挟まれる超省略のデフォルメ絵、こうした漫画的表現を生かした映像作りが特徴である。

本作の笑いの基本はコントである。拗らせてエスカレートさせて反転させて笑わせるとか、時折正論で直球を返すといった視聴者の心を巧みに誘導しコントロールする芝居や演出である必要があるが、本作はそこが適切かつ緻密に表現できているのでコントとして成立している。とにかく、笑いのテンポが速くノリが軽い。キャッチーで個性が分かり易いサブキャラ達も、この事に貢献していたと思う。

繰り返しになるが、本作は美少女化した橘と堅物の神宮寺の禁断のBLラブコメというラインをベースにしている。容姿的に男女になったことで生じた恋愛感情なのか。もともとのBLか否か。恋愛という欲望と、幼馴染とのBLは絶対回避したいという理性の葛藤。

しかし、見方を変えると根っこはシンプル。橘と神宮寺は二人とも、自分が持っていないモノにコンプレックスを抱え、相手が持っているモノに憧れていたからこそ、親友としての関係が成立していた事が分かる。だからこそ惹かれ合うのだが、そこに橘の自己肯定感の低さや、神宮寺の自己分析の弱さによる誤解が生じて、二人の痴話喧嘩がこの物語のクライマックスとなる。

この痴話喧嘩は、神宮寺の強者としてのプライドの破棄→神宮寺からの橘という人間の全肯定→両者の和解という流れで綺麗に決着する。欲望に流されるという意味でもなく、BLというバリアを取っ払って素直な関係になるという解放感。これが二人に対する救済となる。しかし、ラストは素直になりすぎた二人が、やっぱりBLはマズいと1話の状態にリセットされて旅は続くという、喜劇としては後腐れがない鉄板のオチである。

このように、BLという「ぞわぞわ」する要素をライト感覚に調理したり、深く作り込まれたキャラ造形やクライマックスの描き方などをみるに、文芸的にもなかなか優秀なのではないかと思う。なにより、気楽に楽しく見られるのがいい。

M・A・Oさんの快演にも触れておきたい。美少女化した32歳男子という役どころを、声質の可愛さといじけた男子の喋り方の絶妙な演技で橘という人物に説得力を持たせてきた。 また、ダンディズム溢れる日野聡さんもドンピシャなキャスティングで二人の息の合った演技も楽しめた。

また、今期の着せ恋、明日ちゃんにみるリッチなアニメーションばかりでなく、こうした省カロリー低コストならではの良さを感じされる作品だったと思う。

ハコヅメ

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 一見地味過ぎる印象だが、ノンフィクション的で社会モノとして誠実な作風
    • ドラマチックにし過ぎない、地味ながら風刺やオチが効いた、噛めば噛むほど味が出る脚本
  • cons
    • やっぱり、地味過ぎて、第一印象損しているところ

原作はモーニング連載の交番勤務の女性警察官の漫画。原作者の秦三子先生自身が女性警察官の経験者であり、リアルな現場の雰囲気をコメディを交えて描く。

主人公の川合は交番勤務の新米警察官。ある日、美人で凄腕の刑事上がりの藤が川合のペアとして赴任してくるバディ物でもある。

原作漫画単行本の表紙は、妙に色気のある凝った描き込みの絵柄だと感じたが、アニメでは、劇画的な線の多さは感じるモノの色っぽさをあまり感じないデザインになっていたと思う。また、川合、藤のCVを務める若山詩音、石川由依の演技もぎこちなさというか固さを感じる違和感があった。なんというか、アニメーションとしての気持ちよさがあまり感じられない作風に感じていた。

物語は女性警察官の勤務の日常の悲喜こもごもを描くという一面はあるのだが、どちらかというと様々な種類の事件で警察官が現場で感じる何かを綴っている感じがした。凄惨な事件に警察官自身のメンタルにダメージが出たり、不条理とも言える現場の仕事内容だったり、一般市民からの歓迎されない視線だったりの辛さの印象が残る。それでも、藤をはじめとする先輩警察官のイザという時の強さ、鋭さが無ければ、事件を解決し被害者の魂を救う事は出来ないという厳しさを垣間見せる。

1話でこそ、市民の笑顔を守るために仕事をするというド正論に触れはするが、そこが真実ではなく、警察官の人間としての気持ちを尊重した物語になっている。劇中でも、踊る大捜査線のドラマチックさをおちょくるシーンがあるのだが、警察官の仕事がドラマのようなきれいごとじゃない事が描かれる。

そこを理解すると、本作がアニメーションとしての爽快感を持たない作風である事も納得がいく。中年男性や中年女性もデフォルメしたりせず、リアリティを持ったデザイン。川合や藤の主役の二人の会話は敢えてアニメっぽさや演劇っぽさを消した抑揚を抑えた芝居。リアリティある事件を扱うのに、映像がヘラヘラしていたり、演出の力で美化されていたら、それこそ不誠実である。つまり、本作はフィクションでありながら、ノンフィクション風味を大切にするディレクションなのである。ぶっちゃけ、地味と言ってもいいだろう。

しかし、本作の脚本は噛めば噛むほど味が出るタイプで良く出来ている。先ほど敢えてドラマチックではないと書いたが、後味の悪さの中にも、物語としての皮肉やオチはよく練られている。地味ながら確実に視聴者の意識を決められて方向に持っていって反転させる事で、笑いにしたり、意外な事件解決の手掛かりにしたり。それができるのも、地味ながら飽きさせない脚本と、視聴者を引っ張る的確な演出の力があってこそだろう。

今期はアニメーションの快楽を前面に押し出した着せ恋や明日ちゃんのような作品が目立ったが、本作のような敢えて地味な作風の作品も同時期に見られるという、アニメの多様性に感謝したい作品であった。

プリンセスコネクト Re:Dive Season 2

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 相変わらず、良く動く作画動画
    • 相変わらず、豪快で迫力ある音響
  • cons
    • シリアス寄りになった事で、凡庸になってしまった脚本

1期放送終了から1年9か月を経ての2期。1期監督の金崎貴臣は総監督となり、代わりにいわもとやすおが監督を務める。アニメーション制作のCygamesPictureは1期と同じくCygamesPicture。

1期の特徴は、とにかく良く動く作画・動画、切れの良い音響、ドラマは強いが物語は希薄、食事のシーンや美食殿の楽しさに特化した作風。とにかくキャラを好きになってもらう意図が明快で、ゲーム原作のアニメ化としては一つの完成形だったのではないかと思う。個人的に大好きな作品だった。

2期はこのテイストからかなり変化があった。根本的な部分では文芸がシリアス寄りになり、正義による悪役からの王国の奪還、前世では救えなかった仲間を守り抜く事が物語として描かれた。シリアス寄り自体は構わないが、強大な力を持つ敵役とのバトルは、よほど丁寧に勝ちに至るロジックを組まないと白けてしまう事が多い。そのためには緻密な脚本や演出が必要になるが、2期はそこが弱いと感じた。

個人的に1期で大好きだったのはキャルで、悪役の皇帝の手下である事と美食殿の仲間である事の二律背反の葛藤のドラマを背負っており、クールになりきれない人間味ある甘さ弱さのドラマを上手く描いていた。しかし、2期でキャルは皇帝に無理やり操られ、ペコリーヌと戦わされ、そのことでペコリーヌは怒りを増幅させる。実質、キャルは皇帝に凌辱(=レイプ)される形であり、そうした物語の組み立て方も理解できるが、この辺りが安直に感じてしまった。何より、キャラの可愛さが1期よりも描けていない事を残念に感じた。

また、作画・動画の良さは、話数によってバラつきを感じた。もちろん肝心の話では良く動くしアクションも決まるのだが、前述の文芸面での勝てるロジックが希薄さ故に、キャラや物語に入り込みきれない。

結局、2期で一番好きな話は、1期のイメージを強く残す1話であった。

結果的に、1期に比べてかなり評価が下がってしまったが、これが率直な感想である。 

平家物語(2022.5.1追記)

詳細は、別ブログ記事に書きましたので、こちらを参照ください。

おわりに

今期は、CloverWorksここに在り!という感じで、着せ恋と明日ちゃんの2強だったと印象でした。

しかしながら、ファ美肉おじさんとやハコヅメのような、リッチ過ぎるアニメーションへのアンチテーゼとも言える作品もあり、こうした多様性が嬉しくもあり、それらも正当に評価されるべき、と思えたクールだったと思います。

着せ恋と明日ちゃんは両作品とも従来の型を破る超変化球だったと思いますが、ある意味人間ドラマとしての王道直球な作品が好みの私としては、スローループの安定感もまた、良かったなと思いました。

明日ちゃんのセーラー服 7話 「聴かせてください」

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はじめに

今期の優良株作品「明日ちゃんのセーラー服」の7話が、マジで泣いてしまったくらいに良かった。

という事で、今まで本作に感じて来たこと、7話のポイントの考察・感想を書きました。

また、7話というのはターニングポイント回であり、1話~6話までの違和感を払拭して後半進んで行くで有ろうことを予感させるモノでした。その辺りを含めて、これまでの本作についての私の解釈についても、今時点で一度整理しておきたいと思います。

考察・感想

テーマ

「明日ちゃんのセーラー服」とは、ブルセラのグラビア写真集・イメージビデオである。

SNSでも、美少女のフェチ、エロティシズム、などなどと言われている本作だが、個人的にはそれだけでは的を得ていないとと思っている。本作の本質は、仮想的な2次元のグラビア美少女である明日小路のグラビア写真集であり、イメージビデオだと考えている。そして、観客は空想の美少女に恋をする。それが、本作の狙いだと考える。

90年代後半、ブルセラ的なグラビア雑誌や写真集が一定数発売されていた時期があった。内容は美少女がセーラー服やスク水や体操服姿で、元気に笑ったり、可憐でドキっとする仕草だったり、アンニュイな表情をしていた。

ロケ地は過疎地の廃校だったり、海岸だったり、古びた日本家屋だったり、ノスタルジーを感じさせる場所が多かった。都会のコンビニなどの世知辛い現代的な要素は無い田舎の方が、オジサンが美化すべき美少女の居場所として適切だったのかもしれない。本作の舞台が田舎である事、住宅がアンティークな事、校舎が古めかしい佇まいである事、これらは全てブルセラ雑誌と符合する。

当時は、女優やアイドルが器用にタレントとしてバラエティーをこなし始めていた時代である。だからこそ、純粋に美少女の身体、仕草、表情だけを提供するグラビアが神格化した美少女を作り上げる事ができた。演じる映画やドラマの物語も、歌うアイドルソングも持たないことが、むしろノイズの無い空想の美少女を強固にする。

では、本作の主人公の小路はどうか。常にキラキラしていて、嫌味なく、負の感情を持たず、美人で可愛くて、ちょっと田舎っぽくて大胆である。身体の柔軟性の高さから、様々なポーズを自在に操り、母親や妹と楽しく仲良くやっており、憧れ要素が満載である。それらが、フォトジェニックだったり、表情が豊かだったり、仕草や言動にドキっとしたり。小路が何の運命や物語を背負っていないのも、それが誰の心にも描く空想の美少女の邪魔になるからだと思う。小路は周囲の誰も否定する事なく優しく受け入れる。これらの文法はグラビア美少女そのものと言ってよい。

原作の漫画家の博先生は、少なくとも連載当初はココを狙っていたのではないかと思う。漫画で美少女グラビアを再現するというのは博先生の絵力あってこそ、の挑戦だったと思う。

1話~6話のテーマ(干渉できない美少女)

前述の通り、小路は中学で初めて同級生を持つ。その事で級友に対しての好奇心が強く前のめりである。

級友たちも、小路のある種破天荒さに驚きつつも、接触すると心の中まで爽やかな風を吹かせてきて、小路に対して恋に落ちる。これは大げさな言い方だが、百合的な意味合いではなく、少年がグラビア雑誌の美少女に恋してしまう感じと言えばよいのかもしれない。

谷川は、4話で小路に惚れてしまい写真集のモデルを頼み写真を撮り漁った。大熊は、5話で観察対象としていた小路がそれを気付いていた事を受け、正式に小路を昆虫観察に誘った。ともに、小路は自分とは違う美しくて眩しい存在である事を理解し、小路を観察する者であるが、小路は被観察者としてではなく一緒に過ごす友達として距離を詰めてくる。

この谷川と大熊は、グラビア写真集のページをめくる読者とイメージが重なる。ただ、手を伸ばしても届かない神格化した存在ではなく、声をかければ応えてくれる級友である事を小路は主張する。しかしながら、この時点では小路は相変わらず小路であり、小路の内部に変化が生じたわけではない。小路というのはあくまで、ガラス越しに存在する干渉できない美少女なのである。

小路は子供のように純真で素直で真っ直ぐである。身体能力が高く野生児的な部分もある。しかし、人間は成長したり、都会の喧噪に揉まれたりする事で、純粋では居られなくなる。だからこそ、小路に干渉できない事が、この空想の美少女を汚さず継続させる事を無意識に求めてしまい、それで安心してしまう。そういう面があったのだと思う。

6話では、小路は木崎と一緒に釣りをして、木崎を家に招き入れる。学校外、学生寮外で2人で遊びに行くのは初めての経験ではあるが、これもまた小路のフィールドでの行動であり、小路を変化させるものではない。しかし、小路は自分を差し置いて木崎を「江利花ちゃん」と呼ぶ母親と妹に地団駄を踏み、別れ際に木崎は「小路さん」と呼び、小路に下の名前で呼んでと告げて別れたところで6話は終わる。

7話のテーマ(美少女と観測者の変化=物語)

物語後半開始の7話。今までは干渉できない小路が周囲に干渉されて変化する事を描いて行くのだと想像している。それは、前半で描いたガラス越しの干渉できないグラビア美少女の否定である。グラビアには物語は邪魔であると書いたが、これからは小路の物語が始まり、小路が変わり始めるのではないか。

まず、7話のアバンは、早朝の教室で木崎のことを「江利花ちゃん」という変化のシーンから始まる。

そして、小路は楽器奏者に強い憧れがあり、木崎のピアノの演奏、蛇森のギターの演奏に感激し、自らの演劇の練習に負けていられないと励む。具体的な変化は7話では描かれなかったが、これは今までマイペースだった小路に対する明確な干渉であり、小路の心の変化として描かれたと思う。

勿論、7話で一番変化したキャラは蛇森であろう。蛇森は小路に干渉された事がきっかけとなり、戸鹿野の導きがあって、今まで興味があっても弾くことができなかったギターを弾けるようになった。この大きな蛇森の変化を7話に持ってきた事の意味があるような気がしてならない。

多くの視聴者は、諦めてしまった憧れに対し必死で手を伸ばす蛇森に憧れを諦めた自分を重ねたり、蛇森を我が子のように応援するような気持で見ていた事と思う。7話のドラマは視聴者にダイレクトに干渉し、私も誰も使っていない家のウクレレを弾きたくなった。

それは、今までのような眺めているだけで十分というところから、エモーショナルに変化して他者に干渉する事を良しとして描いていると思う。6話までの空気で油断していたところに、力のこもった7話のアニオリ回で、ふいに右ストレートを撃ち込まれて度肝を抜かれた、というのが率直な感想である。この変化があるからこそ、小路の物語が紡がれてゆく未来が見えるし、今までよりも能動的に作品にハマれると思うし、残りの話も期待しかない。

キャラ

明日小路

絶対的なキラキラ感を持つ美少女。田舎育ちで身体能力、運動神経が高い。朗読(=妹への読み聞かせ)は情感豊か。演劇部に所属。料理は苦手。靴下穴やゲップを恥ずかしがる。

7話の小路は、キラキラした瞳で楽器奏者の憧れを示し、木崎に遠ざかっていたピアノを練習させ、未経験者の蛇森にギターを弾かせた。木崎の練習演奏は隠れていたので小さく手を叩いていたが、蛇森の拙いギター演奏にも全力の拍手を惜しみなく送っていた。

木崎のピアノ演奏後、蛇森は自信を無くし、本当は弾けないとその場を去ろうとするところ、手を握って無理やり引き留めた。蛇森の苦労を知ってか知らずか、というところは明確に描かれないが、戸鹿野との会話の雰囲気で、それを察していたのかもしれない。とにかく、小路にとって演奏に優劣は存在せず、むしろ小路のために頑張って努力して弾いた蛇森を強く賞賛したと視聴者は感じられる作りである。

最終的に、木崎のピアノ演奏も、蛇森のギター演奏も自信の憧れの姿であり、自分もまた演劇に打ち込むというやる気の循環を持って7話を終わる。

蛇森生静

エレキギターへの憧れはあるが、面倒くさがりなのか軽音部(?)でつるむこともせず、譜面も読めず、汗をかかずに生きて来た。しかし、小路のお願いを断り切れずギターを弾く約束を。寮にはインテリアになっていた父親のギターがあり、それでとりあえず単音のドレミファソラシドを練習し始める。

しかし、一般的には和音のコード進行で演奏するモノであり、すでにそこから障壁となっていた。弦が切れてしまい難しさから逃げてしまいたくなる蛇森の尻を叩いたのは同室の戸鹿野だった。いきなりは出来ないから、最初は簡単な所から始めてゆけばいい。そこから諦めずに練習を続けた。左手の指は絆創膏だらけになり、授業中も空気中で弦を押さえた。

演奏当日、蛇森の足取りは重いが、牧羊犬である戸鹿野がしっかりクールに蛇森を教室まで連れて来た。そして、言いずらそうに小路と夕方の約束をした。

演奏直前にハプニングがあり木崎のピアノ練習を聴かされてしまう。上手すぎる演奏の後ですっかり自信を無くしてしまい、ギターを片付けて帰ろうとするが、小路の懇願もありチェリーを演奏する。拙くて冷や汗ものの演奏だったが、なんとか最後まで演奏できた。

思うに今回の演奏というのは小路だけに聴かせる小路へのプレゼントである。それは、自分自身をさらけ出す告白に近いのかもしれない。その演奏に対し、小路は全直で拍手し蛇森を賞賛した。力強い肯定である。蛇森はこの肯定を持って自信を付け、さらなるステップの練習に励む。また上達した演奏を小路に聴かせるために。

憧れを実現し継続するためには、喜んでくれる人がいてくれる事が望ましい。蛇森は小路が喜んでくれたことで一歩を踏み出すことが出来た。

戸鹿野舞衣

表面はクールに見えるが内に熱いものを秘める印象を持つ戸鹿野。しかし、他人と距離を置いて干渉を避けているようにも見える。

蛇森がギターを弾き始めても、文句を言うのでもなく、気にしないからと本音を飲み込んでしまう。小路との会話で蛇森が弾けもしないギターを弾く約束をした事を知り、弾けるようになりたい気持ちを確認した上で、蛇森にいきなりは出来ないから簡単なところから目標を設定してゆくことを勧める。これは、帰宅前に小路との会話で小路が楽しみにしている事と、部活動で少しづつ出来るようになる楽しみの話をしていた事と、戸鹿野が部活動で上手くシュートが決まっていなかったことがリンクしている。つまり、いろんな偶然の重なりがあり、ギターを演奏させる方向で蛇森に干渉した。

その後は、シュートも決まり次のステップに進めた。その喜びを知るからこそ、蛇森の演奏を応援し、小路に聴かせるまでの牧羊犬として蛇森の尻を叩いてきた。

演奏当日、帰宅した際に蛇森が熱心により難しいFコードの練習をしていた事で、蛇森もまた次のステップに進んだことを悟り喜びを共有する。

木崎江利花

木崎は、都会的でお金持ちで音楽に強く洗練されている。だからこそ牧歌的な自然への強い憧れがあるが、そのアプローチも、本で知識を得て形や道具から入るスタイルである。

小路とは何もかもが正反対で、互いに強い憧れがある。それゆえ、他の級友よりも一歩近い友達となり、下の名前で呼ぶようになる。名前で呼ばれた木崎は既に舞い上がった惚れた女の顔である。

木崎はおしゃれだから、小路が家庭内で臆面もなく振舞っている様子が妹や母親経由で木崎にバレる事を恥ずかしがっていた。7話では、逆に音楽室の木崎と兎原の会話で、小路は木崎の知らないツンツンな一面を垣間見る。

小路の演奏者への強い憧れ→埃のかぶった自室のピアノ→音楽室のピアノ練習という流れからも、過去に何らかの挫折があり、小路をきっかけに再度ピアノの封印を解いた、という事だろう。この辺りの伏線も追々紐解かれてゆくのだろう。

兎原透子

柳原も木崎と同様に都会(東京)から来た。コミュニケーション能力が高く誰とでも会話でき情報収集能力は高いが、逆に本心が見えにくい。その事がまた、純真無垢な小路と対照的な存在に思える。根拠は無いが、もしかしたら過去に人間関係のトラブルで人間関係に疲れ気味という設定があるのかもしれない。

兎原もまた本作の重要キャラだと思うので、今後の展開に期待したい。

おわりに

色々と考えていたのですが、7話を視聴しての私の気持ちは、期待しかありません。

シリーズ構成、脚本は山崎莉乃さんの作品は初めて拝見するのですが、凄く巧みで繊細なドラマ運びに唸ります。監督の黒木美幸さんはじめ、女性スタッフも多い事も、本作のテイストを決定する重要な要素ではないかと感じています。

残りの話数もどう流れてどう〆るのか非常に楽しみな作品です。