たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

天気の子(その2)

ネタバレ全開です。閲覧ご注意ください。

はじめに

「天気の子」は、「君の名は。」から3年という十分な歳月を経て、じっくり吟味された物語なのだと思います。

新海誠監督のインタビュー記事で、怒りの感想が一番強い、だとか、その人たちをどう怒らせるのか?という様な挑戦的なワードを見るにつけ、本作が何を観客に試しているのか?というのが、だんだん気になってきました。

確かに、賛否両論と言ってよい、様々な感想ですが、その賛否両論も、作り手の仕掛けの範疇であり、言ってみればお釈迦様の手の中でコロコロところがされているだけのような気がしてきました。

だから、その作り手の期待する賛否両論が、どのようなものか、ずっと悩んでいたのですが、一旦まとまったのでブログの記事として整理してみました。

考察

「天気の巫女の生贄」という自己犠牲の否定と東京水没という代償

本作は、帆高の自分にとっての大切なものと、社会のルールが相反した時に、どちらを選ぶか?みたいな話がメインになりがちであり、それは話題の中心としては間違いないのですが、ロジカルな物語の中心としては、むしろ陽菜の自己犠牲を否定する所にあると思いました。

帆高が陽菜を助けに行く瞬間においては下記の選択でした。

  • 天気の巫女システムの選択
    • (a) 陽菜のいない晴天 →×陽菜関係者の哀しみ、〇晴れによる大衆の幸せ
    • (b) 陽菜のいる雨天(異常気象)→×雨天による大衆の不幸せ、〇陽菜関係者の幸せ

帆高は、(b)を選択するという気持ちで必死だった訳ですが、陽菜を救った代償といっても、都民にかかる迷惑は今まで通り異常気象が続くだけで、決して死傷者が出たり、社会、経済にダメージが出る事を想定していなかったと思います。そして、(b)を選択した延長線上での東京水没は事実でありながら、陽菜とも離れ離れになり離島で暮らしていた帆高にとっては、夢みたいな感じの実感の無い情報だったのだと思います。これが、下記の(b')です。そして、東京に戻り、水没の東京を直視し、陽菜との再会を果たします。これが、下記の(b'')です。勿論、普通の人は、(a)(b)の選択肢があった事など知らずに、初めから(b'')が運命だったと思っています。唯一知っているのは、須賀と夏美と凪の3人だけ。という状況です。

整理すると、(a)(b)の選択肢は、(b)を選択した事で(b')(b'')と変化してゆく形です。

  • 天気の巫女システムの選択
    • (a) 陽菜のいない晴天 →×陽菜関係者の哀しみ、〇晴れによる大衆の幸せ
    • (b) 陽菜のいる雨天(異常気象)→×雨天による大衆の不幸せ、〇陽菜関係者の幸せ
      • (b’) 陽菜のいる東京水没 →××社会は大ダメージ、△帆高と陽菜は離れ離れ
        • (b’') 陽菜のいる東京水没 →××社会は大ダメージ、◎帆高と陽菜の再会

で、観客は、この(a)(b'')の比較で何を思うのか?というのが映画の問いかけです。

以下は私の解釈です。

私はフィクションの物語を観ているので、(a)(b)選択の時点で(a)の自己犠牲を否定して(b)を選択してくれた事は非常に良かったし、物語としてはそれが当然のようにも思いました。そこで悩む必要は特に無いと思いました。

もし、ここで(a)を選択すべきだったと言う観客が居たら、多人数の為に一個人の命を犠牲にする事をどう向き合えるのか?という理屈になります。須賀さんは(a)を望みましたが、もし、娘の萌花が天気の巫女だったら、どう思うのか?という話です。

しかし、事件後、(b)を選択した延長線上で、(b')になった事で、未曽有の大災害を発生させ、(映画では描かれていませんでしたが)多くの死傷者が発生したという事を、帆高や陽菜のメンタルがどう受け入れるか?という話に移行してきます。この時の帆高は、夢みたいな感じで、この事を消化できていない風に描かれていました。

そして最後に、陽菜と再会した時に、3年間夢見心地だったものが、ハッキリと実感を持って理解できます。あの日、(b)を選択した事で、今陽菜と再会できたのだと。これは、東京水没のダメージと、生きて陽菜と再会できた事を天秤にかけて、陽菜と再会できたあの日の選択を肯定する事になります。もし、仮に、東京水没させるくらいなら、陽菜が消滅してたら良かった、などという話なら逆に私は大ブーイングだったでしょう。それでは、あの日、自己犠牲から救った陽菜が可哀そう過ぎます。

私は、帆高が陽菜を助けに彼岸に来た時の、(他人のためじゃなく)自分の為に祈ればいい、という台詞が好きで、陽菜はその台詞で自分をもっと大切にしていい事に気付いて、彼岸から戻って来れたと思っています。帆高の気持ちも嬉しいし、帆高のおかげで生き返れたと言っても過言では無いからです。

だから、ラストの陽菜の祈りは、絶対に他人のための祈りじゃなくて、自分自身や帆高との縁の感謝を込めた祈りだったと思っています。

この物語の構図を理解した上で、世間では色んな感想があるな、と思って眺めています。もっとたくさんあったような気もしますが、記憶している所では以下でしょうか。

  • 1人の我がままで、多くの死傷者、社会的経済的なダメージを与え、社会を屈服させる物語は、納得いかない。
  • 自分の住んでいる東京を水没させたラストは良い感じがしない。

作り手の作意としては、この代償を伴った判断を、観客はどう受け止めるのか?という思考実験だった、と言えるかも知れません。(b'')で起きてしまった東京水没が、主人公の過去の判断により引き起こされたものであれば、主人公にヘイトが溜まってもおかしくない。しかし、物語の論理としては、強固なまでに、気持ちいいほどに、自己犠牲を否定した軸をブレずに貫いている完成した物語である。

考えれば考えるほど、埋まらない、後味の悪さの一面を併せ持つ、この多面性が本作の深みになっている事は間違いないと思いますし、このような考察を楽しめる良作であるとも思います。

「社会のルール」と「自分にとって大切なもの」

本作のテーマは「自分にとって大切なもの」を大事にする事に自信を持って良い(=自分の選択に自信を持とう)、という事なのですが、帆高は見事にそれを最優先として行動しました。

で、それが社会のルールに反して違法行為になる場合、どうするか? 帆高は迷いなく大切なもの優先でしたが、大人である須賀や夏美は、ルール違反に躊躇する背景(親権裁判、就活)と、大切なものを追いかける帆高を応援する気持ちの葛藤がありました。

帆高の大切なものと、帆高の社会のルール違反について整理します。

  • 帆高にとっての大切なもの

    • 陽菜
  • 帆高の社会のルール違反

    • 家出
    • 拳銃所持
    • 陽菜を強引に誘うチンピラに発砲(殴り倒される危機感から)
    • アパートから陽菜、凪と共に逃走(警察に捕まりたくないから)
    • 警察署から逃走(陽菜を助けるため)
    • 拳銃を須賀に発砲(陽菜を助けるため)

基本、家出と拳銃所持以外は、陽菜がからんでいます。拳銃は無力である帆高の怒りが爆発した際に発砲されるという怒りを表わす道具として描かれるとともに、帆高の隠れた暴力性を描いていたと思います。帆高は、上記のルール違反を重ねていきますが、全てのルール違反は、最初の家出が根本にあり、その意味では、帆高が社会に対して、もともと不適合な因子だった事を含んでいたと思います。

これらの罪をみて、帆高が我がままの為に罪を重ねる事を不快に思う観客も居たと思います。その気持ちは何となく理解できるのは、このロジックだと我がままの為に罪を犯しても良い物語に見えてしまうからです。極論すると、某カルト教団のような事にもなりかねない。

しかし、帆高には、もう一つの特徴があります。それは、恨みや妬みを全く持っていない事。私利私欲を全く感じない事。この帆高の精神の健全性が、某カルト教団との違いと信じています。この辺りの作り手の配慮はなかなか秀逸です。

だから、ここでも賛否両論になります。否定意見はこんな感じだったでしょうか。

  • 罪を重ねる帆高を観て、感じが悪かった。
  • 我がままで、社会のルール違反するのは、道徳上悪い。子供に見せられない。

私は、物語としての、社会のルールよりも大切な何かがある、というメッセージは非常に受け入れられるもので、社会のルールと言うのは、集団全体が良くなる方向で、割切ったモノになりがちだと思います。

昨今は、個人個人を大切にする、というご時世だと思うので、このメッセージは個人的に有り、です。

おわりに

この考察も書くのに大分時間がかかりました。これを考えている間は、他の作品を集中して見る気もしなかったので、これを書く事でやっと落ち着きました。

この考察が正しいか否かはともかく、ただ美しいだけの物語でなく、様々なフックを効かせたエンタメ作品である事は間違いなく、その作り手側の執念のような気迫さえ感じる作品だと、改めて思いました。

また、「天気の子」はこれまで遭遇したどの作品よりも、ブログ記事が大量に書かれている作品だと思います。それらの、ブログ記事を書いてくれた人たちにも感謝します。