たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

映像研には手を出すな!

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はじめに

2020年冬期アニメの中で、一番面白くて、一番精神力を使った作品が、「映像研には手を出すな!」でした。

もともと、2020年冬期アニメ総括の1作品として、感想・考察を書くつもりでしたが、あれこれ書き始めたら長文になってしまったので、単独のブログ記事に起こしました。とにもかくにも、度肝を抜かれた、というのに尽きます。

全12話中、4話毎に作品完成しクライマックスを迎える三部構成となっていますので、それぞれに感想・考察をまとめます。

感想・考察

1話~4話、一作目の「マチェットを強く握れ!」

妄想と現実が繋がるワクワクドキドキ感

人見知りだが、妄想癖著しく好奇心旺盛な小学3年生時代から始まり、途中「コナン」を見てアニメにドハマりした浅草。冒険のドキドキワクワク、なぜその構造をしているのか?そうした好奇心を描き起こし、実在しない妄想設定を緻密にスケッチブックに書き起こし続け、高校生になってますますアニメ制作への夢が高まっていた。ふとしたキッカケでアニメーター志望の水崎と出会い、設定の浅草、アニメーターの水崎、プロデューサーの金森の役割分担でアニメーション制作のための部活動「映像研」を立ち上げる。浅草のスケッチブックに水崎の絵を重ねて興奮する二人の姿が、仲間が出来た事を純粋に喜ぶ二人の姿に観ているこちらも気分が高揚する。

しかも、この高揚感を表現するのに、浅草の過去ストックのアイディア設定メモが宮崎駿の妄想ノートそのものであり、その水彩画のラフ絵自体がアニメーションとして動いて楽しい! 浅草の妄想の中に引きずり込まれる状況なので、そこで動作するメカのSEは、浅草の口SEである。本作ではこうした妄想と現実が入り混じったドラッグの様な感覚の演出がしばしば登場するが、こうした妄想の中に入り込む楽しさというのは、ちいさな子供も喜んで視聴していたという事が言語を超えた本作の強みの一つである。

余談だが、他者を浅草の妄想に引き込むくだり、ミヒャエル・エンデの「モモ」という小説の主人公モモが物語を語ると五感を駆使した迫力満点の語りとなり周囲の子供たちを物語の中に引き込む、という能力に似ていると感じた。

創作活動における理想と現実のギャップ

処女作を作るにあたり、浅草と水崎は理想と現実のギャップに直面する。あれもこれもやりたいのに、それをやる時間を確保できない。1シーンのハイカロリーなシーンに時間をかけすぎて、他のシーンに手が回らない。こうしたマネジメントに関しては金森が牧羊犬の如く二人のケツを叩き働かせる。金森が凄いのは、文句言うだけでなく、改善案を人知れず探し出して提示し、間に合わせようとするところ。手書きにこだわる水崎に、動画自動補完ツールで作業効率をアップし、浮いた時間で手書きシーンを描けばよい、という辛辣な言葉使いだがその根っこのポジティブさが光る。

映像研の3人とも作品作りを全肯定し、ゴールに向かって全力を尽くす。それは、誰の命令でもなく各自の腹の中から湧き出てくる創作意欲やビジネス魂に忠実に、ボロボロになりながらも全力で立ち向かってゆく。そして、視聴者は映像研の3人が戦っている姿に勇気をもらうのだと思う。

果たして生徒会予算審議会で上映された処女作は、観客を作品内に引きずり込み圧倒し、映像研の活動予算を獲得する事も出来たが、映像研の3人はその事に目もくれず作品の改善点を話し合う。やりたかったけどやれていない事だらけなのだ。その湧き出る創作欲こそが燃料であり、眩しさであり、観客の期待なのである。

5話~8話、二作目のロボ研制作依頼のロボアニメ

ロボ研と映像研の対比

ロボ研部員は濃い目のネタとして効いている。ロボアニメで育ったオタクは合理的機能性よりも二足歩行のロマンを優先する。効率、コストを度外視しても、それが人間が操縦して立ち上がり、敵と格闘戦を行う事を夢見ている。当初、設定的に無理がある二足歩行ロボを題材にする事自体が非リアリティと一蹴した浅草も、涙を流しながらロマンを語るロボ研小野に共感し設定を快く引き受ける、というくだりが分かり味が合って良い。結局、何かを作る事は好きの延長線上にある。

ロボ研と映像研は、ある意味凡人と天才の比較で描かれていたと思う。ロボットとアニメの違いはあれど、浅草と水崎は天才であり、創作結果を生み出し作品を発表し他者に観てもらっている実績があり、夢に向かって有限実行である。しかし、ロボ研は仲間と夢について語る事はあっても、何かを創作したりはしておらず、放課後お茶会倶楽部的な活動が中心であり、あってもロボ研で代々引き継ぐロボの張りぼて加工くらいである。私は凡人の側なのでロボ研のうだうだ感も好きである。しかし、映像研は尖ったエリート集団である事を相対的に知らしめる。

SEの百鬼目と背景の美術部発注による分業

そして、二作目では美術背景を美術部に発注し、SEの百鬼目をスタッフに参画させる。これにより、より作品作りに総工数をかけられるが、チーム内の意志疎通が重要になるため、監督としての浅草の任は重くなる。仕事を大きくするためには組織を大きくするのは常套手段。しかし、この事が三作目の伏線として効いてくる。

水崎の生き様のドラマ

このロボアニメ編の主役は水崎だったと思う。有名俳優を両親に持ち、幼少の頃からアニメーションが好きで見てきた。しかし、映像の先に見ていたモノは、物理法則だったり、人体や筋肉のメカニズムだったり、何故、そう動くのか?という問いかけの連続だった。目に見える情報を頭の中で解析し、そこを組み立て直し、原画動画として再生する。ある意味、画家が目で見て頭で咀嚼して筆で描く事と同じである。そして、浅草が設定で積み重ねている行為とも似ている。水崎の燃料もまた、そうした動きに関する興味関心と、それをアニメーションとして出力する快感である。

水崎と両親のドラマも描かれた。父親は有名俳優であり子育て放任であり水崎のアニメのめり込みを反対し俳優に育つことを希望。母親も有名俳優であり、父親よりもマシではあるが基本子育て放任。親子の接触が少ない設定である。水崎はアニメに自身の持てる力全てを注ぎ込んでおり、アニメ制作=自分の生きる意味として考えているも、父親に反対されている状況のため、映像研の活動は内緒であり、このまま何も無く続けられる状況ではなかった。

この断絶のある親子が対峙したのは、会話ではなく、ロボアニメの製作と鑑賞という作品を通してだった。映像には水崎の生き様が刻み込まれていた。祖母の残り茶を投げ捨てる仕草、間違った箸の持ち方、そして渾身のバトルアクション。それを見て我が子を感じる父親。父親は理解してしまったのである、我が子もまた、自分や周囲の人を顧みず全力で表現に突っ走ってしまう表現者の業を、そして、誰でもない自らの生き様を映像として放出している情熱を。結果、水崎は父親にアニメ制作を許されるが、言葉ではなく作品で殴り合い、理解し合う、というのが表現者同士として効いている。親子としての距離感やぎこちなさを残しつつ、親子ではなく同業者の先輩後輩のコミュニケーションではないか?とも感じなくもないが、それでもやはり子を思う親という感覚は有ったと思う。その事がこのドラマの良い余韻になっていたと思う。

9話~12話、三作目の「芝浜UFO大戦」

お金を稼ぐ事が好きな、金森の行動原理

このパートで金森の幼少期と行動原理が明かされる。金森はマネーそのものよりも、人の役に足ちお金を稼ぐ正統派な「ビジネス」が好きなのである事が幼少期の行動から伺わせる。映像研の件も、そこにお金儲けのリソースがあるから、生き急ぐようにお金儲けを実践してみる。金森の凄いところは、お金儲けがフワフワしたものではなく、即実践で、コスト納期期日を実感を持って把握し、雇用される側の士気も考慮する、経営者そのものである事。

金森と浅草の中学生時代の出会いのエピソードも、互いの利害が一致するから一緒に行動するだけ、というものであり、友だちとして仲良くしたい、などと言う感情は全く持っていなかった。ちなみに、共通の目的を持った、慣れ合いのない関係を友だちではなく「仲間」として強調するシーンが多かったが、この二人の関係が起源にある。

ここまで書くと金森が機械仕掛けの鬼経営者みたいに聞こえるかもしれないが、そんなことはなく、浅草が水路に落ちた時にいち早く飛び込んで助けて風邪を引いたり、仲間を思いやる面も見せるのがミソである。

客観的には失敗作だったと思う「芝浜UFO大戦」

三作目の「芝浜UFO大戦」は、ぶっちゃけ個人的にはエンタメ作品としては失敗作だと思う。確かに、映像的には、劇伴も付き動きもクオリティUPしている所もあり、大作感は増している。前2作と比較して尺も長く中途半端にテーマを盛り込もうとした雰囲気も伺える。しかし、何を表現しているか、普通の人には伝わらない。よく自主製作映画にありがちな、不器用な作品に仕上がっていたと思う。視聴者は、それまでの浅草の台詞で作品のテーマなどを聞いているので追いついてゆけるが、そうでなければキツイ上にラストの意味が分からない。

もともと、「芝浜UFO大戦」は芝浜商店街とのタイアップで制作し、同人即売会で販売する方針である。浅草の芝浜町散策で思い付きで設定を盛り付け、対空砲塔などの兵装を出してしまったが故に、戦争する敵味方の設定が必要になり、水崎のツテで劇伴を頼んだ音楽を聞いてラストのダンスによる大団円のイメージが浮かび、時計塔の鐘の音で水車の鐘や、人間とカッパの対立による抗争を思いつく。そして、浅草と教頭の間の議論にならない話合いと、教頭の花壇の花を愛でる姿を見て、人間もカッパも元は同じ種族なのに立場や環境が違い争いが起こる、というネタを思いつく。そしてラストは互いの立場を理解し和解し合い大団円のダンスを踊る、という構想が出来た。

しかし、ラスト大団円の劇伴がふたを開けてみると宇宙的な重苦しいイメージの曲である事が最終工程で発覚し、その曲は2週間も誰もチェックされずに放置されていて、差し替える曲もない。これは作品作りの分業化における落とし穴でもあった。このままでは、作品として成立せずに同人即売会での販売もできない、という絶体絶命。この責任を全て監督である浅草が持ち、短時間に最善策を判断せねばならない、という特大のプレッシャー。

もともと、11話ラストのラッシュのシーンで浅草は、この作品のラストの大団円に違和感を覚えていた事もあり、「芝浜UFO大戦」のテーマを大幅に変更する事に。ただし、映像の追加は最低限に留め、シーンの順番を入れ替える事で作品を成立させる、というトリッキーな手法。結果的に、大団円は取りやめ、争いは継続。ラストシーンは、平和を呼びかけ、味方から敵を守った人間AとカッパBは、敵に投降するという所で幕が引かれる。

それでも、映像研の劇中作としては意義のある「芝浜UFO大戦」

正直、12話はモヤモヤした雰囲気で見届けた視聴者も少なからずSNSで観測された。前述の通り、「芝浜UFO大戦」はそれ単体で観たらエンタメ作品として失敗作だと思う。しかし、これが映像研の浅草たちの作品である事が強いメッセージを持つ、と思う。「芝浜UFO大戦」は、浅草が選んだ創作活動そのものであり、浅草の生き様そのもの、と思えるからである。

みな仲良くという日和見な平和主義では、創作活動、とりわけ総責任者である監督は務まらない。その全てが予定調和だったり設計図通りだった事はなく、目の前に迫る事案を自分自身で対処しなければならない重圧。そして、その中で逃げ出さず作品を作る覚悟。集団創作活動において、理性を持って最善を尽くし続ける戦いなのだという、浅草の気持ちを「芝浜UFO大戦」は代弁している。単身で味方から敵を守り投降した人間とカッパは、浅草自身の投影だろう。

例外的で類を見ないシリーズ構成

さて、本作「映像研には手を出すな!」は、浅草の作風の通り粘土細工の様な行き当たりばったりの作品だったのか?というとそうは思わない。本作は非常に綿密なシリーズ構成を持って作られた作品だと思う。

1クールのラストは、まだやりたい事が山ほどある、俺たちの戦いは続く、というのは決まっていたと思う。しかし、途中段階では大団円ラスト構想がフェイント的に差し込まれる。これは浅草の本来の人柄の良さであり、日和見的なニュアンスであり、私は物語が何かを救う事を無意識に期待しているので、ラストは大団円はアリだよな、と呑気に構えていた。このフェイントが効いて、浅草の監督としての成長を強烈に印象付ける事になる。まさか、こんな展開になるとは…、と12話を観たときのショックは相当大きかった。度肝を抜かれた、と言っても過言ではない衝撃であり、完敗の気分だった。浅草自身と「芝浜UFO大戦」のオーバーシンクロも綿密な設計の結果だろう。

作品を観る時に安易に先が読める作品よりも、こう来たかー!という驚きを持って観た作品だった。だが、それくらいのじゃじゃ馬の方が観ていて楽しい。

おわりに

本作は、物語を楽しむ作品ではなく、迫力あるドラマを味わう作品なのだと思う。物語好きの私には例外的な作品でありながら、はやり強く惹かれるのは、浅草、水崎、金森の戦う姿に勇気を貰っているからだと思う。アニメーションの根源的な楽しさ、創作で諦めず戦い続ける姿からもらう勇気、それを味わえる唯一無二の作品だったと思う。

本作の楽しさが一体何だったのか?言語化するのに手間取ってしまいましたが、直感で分かっている人には、当たり前で分かっている事ばかり書いているのかもしれません。でも、この作品のこうした考察はなかなか見かけませんので、書いてすっきりしました。