たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

ネタバレ全開に付き閲覧ご注意ください。

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はじめに

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観てきたので、いつもの感想・考察を書きました。

劇場版の評判を聞いて、1週間でTVシリーズを履修しての鑑賞です。なお、『ロンド・ロンド・ロンド』は未履修です。

劇場版は、迫力満点の勢いのある映像でありながら、その根底にはブレのない丁寧なキャラ描写が冴えている快作だと思います。

2021.6.26 外部リンク追記

感想・考察

大迫力に圧倒される強演出の快楽

本シリーズの最大の特徴は、少女達の激情(ドラマ)、アクション、歌の3つが密着して描かれている点にあり、その激しさ、迫力に圧倒される。

劇場版では、この迫力はTVシリーズよりも数段スケールUPしているが、例えるならガルパンの劇場版をイメージすると分かりやすいと思う。とにかく度肝を抜かれる。これで迫力不足という観客はまず居ないだろう。

主人公達は聖翔音楽学園で歌劇を学ぶ。歌、踊り、演劇を学び、舞台女優を目指している。そんな彼女たちが、体当たりで本気で芝居にぶつかってゆく姿を描く青春ドラマである。

本作の肝は、その青春ドラマが「レヴュー」と呼ばれる現実からかけ離れた舞台上で、演者たちが剣や刀や弓などの武器を持って、歌いながら戦うという不思議な設定である。この戦いでは、相手の上掛けの金ボタンを弾き飛ばせば勝者となり、敗者は勝者に何かを奪われる。教室や学生寮では仲良しでも、レヴューでは誰もが遠慮なく、トップスタァを目指して手加減無く戦う。むき出しの感情に直結したバトルアクションと、それを盛り上げる歌唱。本作は、きらら系を連想する日常アニメの面もゼロではないが、日常パートでもレヴューのようなジリジリとした葛藤が描かれる。

レヴューはTVシリーズでは、学園の地下にある固定の舞台でキャラに合わせて舞台背景が変わる感じであったが、劇場版では地下鉄が展開して舞台が出来上がったり、より凝ったギミックに驚かされる。しかも、映画館の音響設備で大音量で歌唱やSEを聞くので、その音圧で気圧される。

ダイナミックな比喩的表現

本作のもう一つの特徴が、ダイナミックな比喩的表現である。

本作では東京タワーは、華恋とひかりが幼少期に交わした、一緒にスタァライトの舞台に立つという約束(=運命)の象徴である。東京タワーが持つ巨大さ、鉄の硬さが、2人の約束になぞらえられる。TVシリーズのラストでは演劇の台本に従い華恋を突き放すひかりに対して、舞台上で東京タワーが舞台上横向きに刺さる事で、華恋の想いがひかりに届き刺さった、という視覚的演出を行う。劇場版の冒頭では、その東京タワーの上で華恋とひかりが戦い、東京タワーが滅茶苦茶に破壊されていた。これは無敵と思われた鉄の約束が、ひかりによって破棄された事を意味する。そして、映画のラストでは再び東京タワーで決闘をする。

他にもポジションゼロのT字マーク=トップスタァ、線路=人生、トマト=血肉、と言った具合で枚挙にいとまがない。

リアルで考えたら荒唐無稽で何のことか分からないが、演出意図を理解すれば、強いインパクトと共に心にスーッと染みてくる。

SNSで、本作が難解という意見も散見したが、私には、むしろ直接的で分かりやすい映像に感じた。そこには、突拍子も無いように見えても、混乱しない様に綿密に計算し尽くされた演出意図が存在している。

この演出手法は、多かれ少なかれ、映像作品では使われるものではあるが、その使い方が振り切っている。これが、本作にドラッグ効果をもたらしていると思う。

演劇(歌劇)が増幅する強演出

本作の演劇要素もまた、強演出に一役買っている。

もともと、舞台で生で芝居を演ずる演劇と、フィルムに焼き付けて再生する映像は、その性質により特徴が異なる。

映像は、観客の目に見えるモノを組み立てる。基本的に、実写は存在するモノを撮影するが、アニメは実在しないモノを描く。どちらも、編集により時系列を圧縮したり、煩雑に場面転換が出来たり、表現の制約が少なくより自由である。だからこそ、映像表現が難しいとも言える。

演劇は、映像に比べて制約が多い。舞台という空間。ライブという時間。演者という動かせるもの。そして、観客と舞台の物理的距離。しかしながら、演劇が映像に劣ったエンターテインメントとは思わない。これらの制約を生かしながらも、より面白くするための演出技術が培なってきた歴史がある(当時は制約とも思っていなかっただろうが)。例えば、俳優の演技はオーバーアクションで声量も大きい。これは、舞台と観客との距離から生まれたものであるが、歴史と共に様式美といえるまでに定着したスタイルと言える。逆に、エッセイの様な自然な日常を舞台にしたモノはあまり見かけない。登場人物の心情を拡大表現したような作風が多く、それに合わせて脚本や演出が作り上げられてゆく。

時代は、演劇から映像にシフトしたが、どちらが優れているという事ではなく、どちらも独自の良さがある。

さて、本題に戻るが、本作がテーマにしている演劇とキャラの激情を描く作風は非常に相性が良い。というのも、一般的な映像作品で激情を扱うと、逆に観客がついてこれずシラケてしまうケースがしばしばある。しかし、芝居が大袈裟になりがちな演劇をモチーフにしているため、その違和感は軽減される。例えば、日常離れしたクサい台詞でも演劇というフィルターを通す事で、カッコ良く見える。芝居が持つ様式美の様なモノがあり、その型にはめてゆく事になるが、その型が気持ちいい。その上、アニメーションとしてのバトルシーンは外連味たっぷり。カット割りは普通のアニメの文法であり、映像的にもマイナスは無い。その意味で、本作は演劇と映像のいいとこどりの作風とも言える。

本作の考察を拝見していると、日常と非日常(=芝居)の境界線が曖昧になる話が出るが、個人的には本作は、そうした芝居が作った別人格、というのは感じない。日常もレヴューで戦っている時も、全て同一人格のキャラに見えている。その点は妙なトリックは使っていなくて見易く感情移入できる。ただ、劇場版のまひるの様に、人格は同じでもレヴュー中に極端なホラーになったり、そうした意外な程の幅の広さに活用されている感じである。

2021.6.26追記

舞台オタクの方が、いかに劇場版スタァライトが舞台の文法を用いて、舞台+映像の奇跡であるかを、具体的に詳細に熱く語るブログがあり、勝手ながらリンクを張らせていただいた。私が上記に書いている演劇+映像をより具体的に感じられる非常に良いブログであり、読んで頂きたい記事です。

とてもシンプルな物語

本作は、いわゆる強演出な作風だが、逆に物語はシンプルである。高校3年生になり、進路(=人生の次の舞台)と真剣に向き合い歩んでゆく、というもの。

劇場版という事もあり、TVシリーズのファンが持つ各キャラの印象を周到し、TVシリーズを思い出せるような作りになっている。例えば、大場ななは、TVシリーズ同様、一見温厚だが実は一番の暴れん坊というイメージを尊重する。その意味では、本作はファンムービーであるのは間違いない。

しかし、TVシリーズが作って来た各キャラの問題の落としどころを、生温い予定調和と、ことごとく否定して、その先を描いている点が過激であり面白い。詳細は、後述の各キャラのところで記載するが、劇場版をしゃぶり尽くすには、TVシリーズの履修は必須であると、個人的には思う。

逆にTVシリーズは物語にトリッキーに仕掛けを持った、凝ったシリーズ構成になっている。それは、劇中劇のスタァライトが持つ物語と、華恋とひかりの物語を重ねながら、劇中劇が持つ物語を破壊して、その先を描くという力強さにあった。つまり、TVシリーズも劇場版もそれぞれ違った良さがある。その意味で、両方を味わいたい作品ではある。

キャラクター

大場ななvs真矢クロ純那双葉香子まひる

本作の一番の暴れん坊、大場なながクール過ぎて、ハードボイルド過ぎて、イカれ過ぎてて痺れる。

ななの願望により、TVシリーズでループし続けていた第99回聖翔祭。8話ではひかりが、9話では華恋がななのボタンを飛ばしてループを諦めさせる。これは、華恋とひかりの約束(=運命)の煌めきがななに勝ったという展開。この時、ななは、より良い進化と次の舞台を受け入れた。

しかし、進路を決めていた6人は、定年間近のサラリーマンみたいに守りに入っていた事に腹を立てていたのだと思う。それは、TVシリーズで進化を受けて停滞を否定した事と矛盾しない。今、この時を、このメンツで煌めきたいという強い願望。ななは物語の着火剤として非常に有効に機能していた。

花柳香子vs石動双葉

ここは完全に浮気疑惑の夫婦喧嘩。

6話では、最近素っ気ないと怒る香子に対し、一番近くで煌めきが見たいのは変わってないから、となだめる形で双葉が繋ぎとめた。

しかし、劇場版では、双葉はクロの助言もあり新国立第一歌劇団への入団を希望する。これが香子にしてみたら裏切りなのだが、喧々諤々の末、双葉の入団を認め、双葉が京都に戻ってくる事を待つ事を決心する香子。

その口論のやりとりが、双葉の表向きの綺麗ごとめいた言い訳を聞いてもびくともせず、私から逃げてんじゃないの? 的な嫌味を直球でぶつける本気度が面白い。レヴュー中のシーン毎に喧嘩の優劣が入れ替わる、丁々発止のカンフー映画のような口喧嘩の脚本が見事。

神楽ひかりvs露崎まひる

闇落ちまひるのホラー映画な恐怖。

5話で、まひるは自分には何も無いと思い込んでいたが、自分なりの輝きがある事を自覚して舞台少女を続ける事ができた。

劇場版では、突然ひかりが自主退学して姿をくらましてしまうので、その事で抜け殻になってしまった華恋の事を気遣わないわけがない。朗らか一辺倒に見えていたそのスタイルも否定し、ホラーでドスを利かせてひかるを説得するギャップに、一皮むけたまひるの本気を見た気がした。

華恋から逃げたひかりに、華恋に向き合えと助言できるところが、まひるならではの面倒見の良さの強さでもある。ひかりに嫉妬した過去もあった。華恋とひかりを身近で1年間見続けてきたまひるならではの立ち回りだった。

大場ななvs星見純那

この二人はルームメイトであり、9話で華恋に負けてループ終了してしまった時に、偉人の格言と自分の格言でななを慰めたのが純那である。

大学文学部進学という、言い訳ばかりで舞台少女を遠のけていた純那にかなりの苛立ちをぶつけ、蔑んだなな。ななの正論ながら狂気の悪役っぷりが冴える。このレヴューで偉人の格言と自分の格言をななにぶつけるが、その言葉が心に届かないと一刀両断される純那。純那に、殺して見せろ!と言われても、止めを刺さずに立ち去ろうとするなな。今思えば、その凌辱こそが純那を奮い立たせるための、ななが与えし試練だったのかもしれない。最終的に純那は、ななの脇差で舞台を叩き切り、復活する事が出来た。

その戦いは、ロジックを持たない本能と魂の叫びであり、その事が純那の脱皮だったのかもしれない。

天堂真矢vs西條クロディーヌ

(ななは例外として、)負け知らずで常にトップだった真矢。そして、常に2番手で真矢の後塵を拝していたクロ。TVシリーズで印象的だったのは、10話で華恋ひかり組に負けた時、フランス語で真矢は負けていない、と擁護するシーン。自分の敗北よりも真矢がトップに居ない事の方が重大問題であり、真矢を倒すのが自分以外という事を認められなかった。重度の真矢依存と言っても差し支えないだろう。

劇場版では、戦う前から、アニマル将棋で真矢の敗北の言葉を口にしており、二人の勝敗をひっくり返す勢いを予感させていた。実際にクロが勝利を掴んだ事がとても痛快だった。

真矢クロの戦いは、優劣を逆転しながら幾つかのターンをこなしてゆくドキドキ、ハラハラのクライムアクション。悪魔のクロに対し真矢の天使なのだが、真矢自身が空っぽの器である事が、何者にでもなれる柔軟性と言う最大の強みとして勝利を掴んだかのように見えた。しかし、その優等生ぶった余裕が逆に命取りになる。強くなるためには一度負けておく必要がある、というのは「頭文字D」の拓海の父親、文太の言葉だが、真矢のその尖った鼻をへし折る役をクロが演じきった。努力の天才真矢を努力で打ち負かしたクロ。劇場版ではなんとなくクロの肩の力が抜けていた感じがして、真矢への固執、依存が薄まっていた印象を受けた。そのしなやかさがクロの成長だったのかも知れない。

神楽ひかりvs愛城華恋

ループの張本人ななを倒したのは、華恋とひかりの2人でスタァライトの舞台に立つという約束(=運命)だったし、英語原本のスタァライトの別れの悲劇を上書きし、2人が一緒に居られる様に物語を書き換えたのも華恋がもつ約束への渇望だった。華恋の燃料の全ては約束であったが、その約束自体の重さというのはTVシリーズでは描かれていなかった。劇場版では、その部分が補足、強化された形である。

華恋は携帯ゲーム機で遊ぶ少し引っ込み思案な普通の子供であった。5歳のときに華恋はひかりは出会う。華恋は、しだいにひかりに心を開いてゆく。ひかりは、華恋が他の子供と一緒に携帯ゲーム機で遊んでいる姿を見て、演劇のチケットを渡す。そこで見たスタァライトの衝撃。ひかりと華恋はここで約束(=運命)をし、東京タワーは2人の約束の象徴となった。

その後、ひかりの所属する劇団アネモネに入団するが、ひかりはロンドンに引っ越し離れ離れに。置き去りにされた華恋は、その約束だけを胸に芝居に打ち込み児童演劇で主役を務めるなどの活躍を残す。約束が最優先であり、そのために一般的な生徒達が放課後にだらだらと過ごす時間は犠牲にした。他人からはストイックでカッコよく見られた華恋だが、ひかり本人からの連絡はない(親からの連絡はある)ため、ひかりがどのように過ごしているか分からない。もしかしたら約束を忘れてしまっているかも知れない、という不安を抱きながらも、演劇に打ち込むしか出来なかった。「神楽ひかり」を何度か検索しようとして止めている。ひかりからの連絡を待つからだが、時が立ちすぎていて不安になる。ついにスマホで検索してしまうが、ひかりはロンドンの王立演劇学院に居るらしい。共に頑張っている事はここで知る。ここまでで、白馬に乗った王子様を待つ乙女の完成である。

あの約束の日、華恋が煌めいてしまった事は、ひかりが仕掛けた事であり、ひかりが責任を取るべきではないか? と思えてしまう。華恋が一般人として生きるレールから、舞台少女としてのレールにポイントを切り替えたのは間違いなくひかりである。

また、華恋の空っぽさも強調されていた様に思う。本作では演劇の天才真矢が、何色にも染まっていない=何者にもなれるから強い、というニュアンスの描かれ方をしていたが、これが華恋にも共通すると感じた。だからこそ華恋は強いのではないだろうか。

果たして、高校1年の5月14日、ひかりが転入してきて第100回のスタァライトをひかりと華恋は共演する事が出来た。これがTVシリーズである。

しかし、ひかりは理由を告げずに聖翔音楽学園から姿を消す。その時に劇場版の冒頭のレヴューがあり華恋が負けた。そして、ひかりと一緒という進路を見失った。

劇場版の冒頭で、ひかりが逃げた理由は、まひるとのレヴューの中でひかりの口から語られる。「ファンになってしまうのが怖かったから」と。この台詞は意味深である。ファン=好きになる=ライバルで居られなくなる、という意味だと思うが、恋愛になぞらえて恋に落ちてしまう事への歯止めに思えなくもない。あるいは、自信家のひかりのプライドが許さなかったのか。いずれにせよ、ひかりは保身に走って華恋から逃げた。

取り残された華恋は行き先を見失う。皆が進路を決める時期に進路希望は白紙のまま。列車に乗り、運命の赤い糸に手繰り寄せられ砂漠の東京タワーに辿り着く。

一方、ひかりもロンドン地下鉄から、運命の赤い糸に手繰り寄せられ、途中ひまりに負かされて、砂漠の東京タワーに辿り着く。

未来をかけて向き合う2人。演者としての自信に満ち溢れているドヤ顔のひかりに対し、不安顔の華恋。幼少期に観た2人だけの約束のスタァライトの再演。しかし、突き放すように戦いを挑むひかりを前に、舞台の重圧で潰れて死んでしまう華恋。どうすんのこれ? と思いながらも、落下、ポジゼロ人形化、再生産、で生き返る華恋。やっと言えた最後の台詞は、ひかりに勝ちたい。

離れ離れでありながら、狛犬の様に一対の存在であったひかりと華恋。とくに華恋はこれまでひかりにすがって生きて来た。その共依存を断ち切り、真剣勝負のライバルとして未来を開けた事の清々しさ。

TVシリーズは東京タワーの鉄の約束(=運命)の力の強さが牽引してきた物語ではあったが、その約束に対する思い入れが具体的に描かれない事を惜しいと感じていた。記号の強さに対して、その理由の説明が弱かったと率直に感じていた。それは、TVシリーズを詰め込み過ぎたために描ききれなかった2人の背景。劇場版でそこを補完し、サラっと、でも力強く描いてくれたことが非常に嬉しかったし良かった。

参考情報

古川監督のインタビュー記事が良すぎたので、リンクを列挙しておく。

キリンが「分かります」と言いながら実は分かっていない件。キリン=観客なわけだが、他人事には思えなくて、TVアニメを見る時に先の展開を考察しながら見てる自分が「分かります」になっている。実際には、自分の先読みは50%も当たらないし、考察屋、批評家=キリンだと感じてた。

劇場版=ヤンキーマンガの件も感じてて、この感想に書こうとしていたら、書いてる途中でインタビュー記事が先に出てしまった。

TVシリーズでは、華恋の描きが足りず、舞台で華恋役の小山百代さんも悩んでいた、という下りが非常に印象的。製作したアニメが演者にストレスを与え続け、それを解放するために続編の劇場版のディレクションが決まる下りがジーンとくる。

おわりに

私としては、1月の「ジョゼと虎と魚たち」「ウルフウォーカー」から、5ヶ月ぶりの映画鑑賞でしたが、非常に満足度が高い作品でした。

強演出作品は、脚本の善し悪しに関わらずノリで観れてしまうモノですが、リピーターがそれなりに居るという事は、ドラマ=キャラ描写がブレなく筋が通っている脚本である事の証左でもあると思います。

劇場版が公開されてから、TVシリーズを履修したにわか組ではありますが、当時何故この作品を見ていなかったのが不思議な気持ちです。

99期生の9人は全員好きですし、何より華恋とひかりをキチンと描いてくれた事が、とても嬉しく思いました。