たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

ワンダーエッグ・プライオリティ 特別編

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はじめに

ワンダーエッグ・プライオリティ特別編の感想・考察です。

特にお気に入りのねいるに注力して、全12話+特別編を通して書きました。いつになく気合が入りかなりの長文になってしまいました。

感想・考察

各話イベント

シリーズ通してみて感じた各話の概要を整理する。

話数 イベント 備考
1話 アイがエッグに初挑戦 アイの贖罪は友達の小糸の自殺
2話 アイとねいるが友達になる ねいるの贖罪は妹の自殺
3話 アイがリカの夢の中で共闘 リカの贖罪はファンのちえみの自殺
4話 桃恵初登場。4人初顔合わせ 桃恵の贖罪は友達のハルカの自殺
5話 4人仲良し、ねいるは1人でもエッグ買う ねいるのハードボイルドな戦い
6話 アイが登校を決める アイが疑念モヤモヤを吹っ切り
7話 リカが母親と和解 リカが現実に向き合う
8話 - 総集編
9話 ねいるが寿と決別 ねいるが自身の人生を楽しむ
アイ達が人生の友達
10話 桃恵がクリア、パニック殺害 桃恵はエッグを後悔
11話 リカがクリア、マンネン殺害
裏アカ昔話、AIフリル、あずさ、ひまり
リカはエッグで復讐叶わず
12話 アイがクリア
ただしパラレルワールドの自分が死ぬ
アイがエロスの戦士になる発言
特別編 パラレルから来た小糸、ちえみ、ハルカ、寿は別人
ねいるがクリア
アイルが戻り、ねいるはエッグ世界に居残る
リカはねいるを無かった事にした
一度拒絶したが、アイはねいるを探し行く

設定

パラレルワールド(その1)

9話で、寿がパラレルワールドの存在を口にする。12話で、アカ裏アカがエッグの世界がパラレルワールドであり得たかも知れない可能性とのやり取りである事を明言する。特別編では、パラレルの寿が同じ世界に2人いられないと言う。

この命の総数は変わらない部分に着目すると、フリル達はゲームクリアして彫像を生き返らせた桃恵とリカからはワンダーアニマルの命を奪い、アイからはパラレルのアイの目玉(=命)を奪い、アイルの代わりにねいるを奪った。

パラレルワールドの仕掛けは、彫像から生き返った小糸、ちえみ、ハルカが別人になっていた事とも符合する。関わらなかったから自殺をしていない。そして、昔撮ったスマホの写真も消滅した。その意味で、アイ達が世界線を越えてしまったとも言える。

エッグでの戦いは非常に情念に依存したものであったが、アカ裏アカたちが用意した仕掛けは非常にドライで感情にいっさい関りを持たないモノ。人間の気持ちはどうでもいい物理法則で縛られている。だからこそ、少女の感情のエネルギーがパラレルワールドの組み替えに必要な燃料になっていた。

AI

作中に出てくるAIは、フリル、ハイフン、ドット、キララ(以下略)と、ねいるの合計5人。

まあ、ハイフンたちはフリルにとってのペットのようなものであろう。自我というよりフリルへの服従により生かされていたというか、フリルに恐怖支配されていたフシがある。

フリルは、アカ裏アカが作りし理想の娘のAI。永遠の14歳。不老不死であり、心の成長も止まっている。基本的に笑顔を絶やさない感じでプログラムされているが、愛する人の移り気に嫉妬して、浮気相手を殺害するという、負の感情も持って行動する。その残虐性を少女性と言ってもいいのかもしれない。ある意味、人間臭い。

さて、ねいるは、寿が造りしアイルの代替品のAI。ねいるの思考はロジカルで行動に迷いやブレが無い。大人であり男性的であると言ってもいい。その意味で、アイたちが持つ不安定な少女性とは対称的な存在である。コンクリートのように無機質で人間味は薄い。

このように、フリルとねいるは同じAIでありながら、対称的な存在である。

では、何故、寿はねいるをこのような人間味の薄いAIにしたのか? 

考えられる理由の1つは、プラティにおけるアカ裏アカのフリルの失敗の歴史から、AIに嫉妬などの感情を持たせる事を禁止するルールが出来て、それに従っているという可能性。1つは単純に寿独自のディレクションで、社長業務に不要な感情をワザとオミットしてデザインした可能性。この辺りは想像でしかない。

ただ、9話で寿と遊ぶようにエッグの世界で戦っていたねいるは、とても感情豊かで人間味があったと思うし、ねいるの部屋で昏睡状態になる前の寿とのやりとりの記憶から察するに、人間味をもった行動をしているように感じるし、寿個人がねいるの感情を否定する事はなく、むしろ肯定していた。その意味では、ねいるの感情は遅咲きの機能という事だったのだろうか。

ここで、フリルとねいるの対比を整理しておく。

項目 AI フリル AI ねいる 備考
制作者 アカ裏アカ 寿
目的 愛玩 理想の経営者?
方針 理想の14歳の娘 青沼アイルのコピー
特徴 無邪気・可愛さ・笑顔
感受性豊か
他人をいたわれない
(→結果、残虐)
論理的
無機質
自我が無かった
人間関係 アカ裏アカ(疑似親)
あずさ(疑似継母)
寿(生みの親、同士)
田辺秘書など(会社関係)
アイ達(友達関係)
フリルはネット経由で
全ての人を監視可
悩み 誰からも愛されない? 人間の感情を知りたい?
思いやれる人間になりたい?

シリーズ通してのねいるの気持ちの流れは、後述のキャラのところで詳細を記載するが、ねいるに足りないモノは人間としての自我であり、人間の気持ちに対する理解力である。対して、フリルに足りないものは他人からの愛なのだと思う。

パラレルワールド(その2)

ところでパラレルワールドでは同じ世界に同一人物は2人存在できないとの事だが、アイルとねいるは一応人間とAIの違いがあり、同じ世界に同時に存在しても良いように思われる。しかし、アイルの、あなたの居場所は無くなった、という台詞もあり、彼女たちもまた2人同時に存在できない雰囲気を匂わせている。

無論、アイルが自殺する前は2人は同時に存在していたハズではある。だが、当時のねいるの存在感が次第に強くなるにあたり、パラレルの同一人物的存在となり、例の法則が適用されたという可能性も考えられなくもない。実際、こちらの世界に残ったねいるは思考にブレが無く強い存在感を持っていた。しかし、ねいるは9話で自分の人生を楽しむ選択をした後、髪型を変えたりカントリーな住宅に暮らしたり、自分自身の生き方を持ち始めた事で、だんだん気持ちにブレが生じてゆく。自信を失いか弱い存在に変容してゆくねいる。

小糸やちえみやハルカがこっちの世界に戻ってきた時に、自殺の原因の根が存在しない人生の人間に入れ替わっていた事を考えると、アイルも以前のようにねいるに嫉妬して自殺した弱さを持たないキャラ変があってもおかしくない。

結果的に、弱くなったねいるはこの世界から消えて、相対的に強くなったアイルが戻ってきた。そのことが、やはりパラレルの法則を想像させずには居られない。もっとも、アイルの自殺の原因がねいるにあった以上、ねいるとの存在の交換はゲームクリア後の宿命だったのかもしれない。

エッグの世界

結局、エッグの世界とは何だったのか?

それは、パラレルワールドという仕掛けを用いた、生き死にが曖昧になった空間だったのかもしれない。三途の川の様な生と死の境界にある緩衝地帯みたいな。

彫像を生き返らせる(=他のパラレルワールドの同一人物と入れ替える)ためには、ゲームクリアが大前提であり、その後、ワンダーアニマル、もしくは人間の命を犠牲にする必要があった。このルールは、フリルの部下のハイフンたちが執行していたが、フリルが作ったルールというより、パラレルワールド自体が持つルールだったのではないかと想像する。

ちなみに、寿のケースだと、生命維持装置を停止して死亡した事で、他のパラレルの寿がこちらの世界に来た。その意味では、やはり、命の交換は発生している。

では、ゲームクリアとは何だったのか?

ゲームクリアが描かれたのは、桃恵とアイ。桃恵は、自分が男子に見られてチヤホヤされる事を喜びながら、女性として生きたいという矛盾を抱えて生きてきた。それが、薫の登場で女性として生きる自信を得て、コンプレックスを克服した時点でクリアとなった。アイは、沢木先生や小糸のモヤモヤ悩む事よりも目の前の母親を大切に生きる事、自殺してしまったパラレルの自分に自信を持たせられた時点でクリアとなった。

つまり、弱い自分を克服し強くなった(≒少女性からの脱却した)ことにより、ゲームクリアとなったと言える。しかし、エッグに挑戦できたのが14歳の少女だけだった事を考えると、大人になってしまった時点でゲームに参加できなくなるとも言える。これは、逆に言えば用済みになったから、ゲームクリアとしているとも考えられる。かくして、ご褒美としての彫像の生き返りと、代償としての命の差し出しが必要になった。

それなら、エッグ少女を救う戦いとは何だったのか?

ここは、正直良く分からない。以降は、大胆な仮説を立てての妄想である。

一度自殺してしまったエッグ少女のトラウマを克服させて生きたいと思わせる事は、死んでしまったifの世界から、死ななかった側のifの世界にパラレルの命のスワップが発生する事になると仮定する。その場合、本来死ぬ必然性の無かったパラレル世界のエッグ少女が、本人の意思とは別のところで死が発生する。これが、少女の正体不明の自殺であり、ひまりを自殺させたフリルの死の誘惑ではないか?と想像する。

アカ裏アカは、とりあえずこの仮説まで到達しているから、アイ達をエロスの戦士としてエッグに挑戦させ、パラレルの命のスワップを繰り返させていた。そうすることで、パラレル間の行き来の実績を多数つくり、パラレル間の移動の仕組みを調査・研究していたとか。だから、アイたちがエッグに挑戦してくれない事には、ひまりに近づく事は出来ない。

ただ、この仮説が正しいとしても、ひまりを生き返らせる(≒別の世界から連れてくる)ためには、彫像となったひまりを生き返らせるためのエロスの戦士が必要だし、そんな役を引き受けてくれる少女は見当たらない。この辺りで、私の妄想も行き詰まりである。

ちなみに、1話のエッグ少女のくるみは、以前エロスの戦士としてエッグに挑戦していた経験がありそうな口ぶりであった。くるみはエロスの戦士であっても、心臓、もしくは目を奪われるとエッグの世界から戻れなくなる(=死ぬ)という発言を残している。その場合、命が1つ余る。その命を誰かの生き返らせに使う事ができると仮定すると、アカ裏アカは真っ先にひまりを生き返らせに使いたいだろう。逆に、今は別の世界のアカ裏アカがひまりの生き返らせに成功しているから、こちらの世界にひまりは居ない、という状況なのかもしれない。

前述の通り、この辺りは完全に妄想である。が、エッグの戦いが、パラレルワールド間移動のための耕しになっていたというのは、設定としてアリではないかと思う。


キャラ

青沼ねいる(1話~12話)

時系列を追ってねいるについての感情をトレースして整理したい。

おそらく、青沼アイルが、ジャパン・プラティの優秀な遺伝子配合による試験管ベイビーであり、青沼コーポレーションの経営を任されるべく誕生したデザイナーズベイビーであると思われる。14歳の社長なので、優秀な人材である事には違いない。

そして、阿波野寿が、青沼アイルに似せて造ったAIがねいるである。

本編の前半のねいるを見ると分かるが、ねいるは博識で、状況分析に長け、非常にロジカルで迷いが無い。感情に振り回される事が無いとも言えるし、そういう感情が無かったとも言える。それは、社長業(=経営者)としてのチューニングされた特性の可能性が高い。もしかしたら、アカ裏アカのフリルの事例があるために、AIに感情をプログラムしない事がルール化されていた可能性もある。

ねいるは、青沼コーポレーションの本社ビルの地下9階の医療フロアの寿の部屋で一緒に暮らしていた。ベットは2個。9話の回想シーンで、散らかった本や論文を前に寿がねいるに何かを教える回想シーンがあった。何かあれば、寿がねいるにその都度講義をしていたのであろう。ねいるにとって寿は、生みの親であり、先生であり、同士であった。

ちなみに、2話でねいるの名刺が副社長になっていたのは、アイルが社長だったからと思われる。社長の判断よりも、副社長の方が、実に的確に経営のための判断を下す。その中で次第にアイルのストレスは蓄積されてゆく。そして、ある日突然、アイルはねいるの背中を斬りつけ、橋から飛び降り自殺した。この凶行の原因は、より完璧なねいるに対するアイルの嫉妬である(パラレルから来た寿談)。しかし、その「嫉妬」の感情がねいるには分からない。その理解できない不思議なモヤモヤをずっと抱えていた。そして、アイルを取り戻すべく、エッグの戦いに没入してゆく。

ここまで来て、やっと1話のアイとの出会いに至る。

2話で、ねいるは初見で地下庭園から興味津々で後を着いてくるアイをプロファイリングした。アイは今の自分が嫌いで変えたいから、怖わがりながらもエッグに挑戦している、と。そして、ねいる自身は、自分が大好きであり、自分が死なせた妹のためにエッグで戦っていると告げた。バスに乗る別れ際に、名刺を渡しつつ、エッグ購入日を奇数日偶数日で分けて二度と逢わないように提案してアイと別れる。ねいるにとってアイは特別な興味を抱く事のない凡人でしかなかった。

エッグでの戦いに身体を酷く痛めつけてICUで治療するねいる。そこに現れたのは、ねいるの身体を心配するアイであり、「欲張るからだよ。次、戻ったら、友だちになろう」 とスマホのSMS画面を見せて立ち去った。珍しく他人の優しさ気遣いを受けたねいる。

翌日、また見舞いに来たアイと病院の屋上で戯れの会話をする。友だちになったら何するの? (ナックに)行って何するの? それって楽しいの? ペットボトルのお茶のいい匂いを共有する2人。「たまにはいいかもね」とSMSにサムアップの画像を返信するねいる。驚くアイ。目を合わさず遠景を見ながら口元を緩めるねいる。この日、合理の極みだったねいるが、初めて非合理を許容し受け入れた。人生に無駄を受け入れた。この事が、後のねいるの変化のキッカケとなる。

3話で、病院のベッドの上で、アイが別のエッグの挑戦者のリカと遭遇した事をSMSで知る。翌日、アイがリカを連れて、エッグを土産に見舞いに来る。お調子者でちゃっかり者のリカに難色を示すねいる。その夜、「リカに気を付けろ」とSMSを送信する。図々しくて不誠実なリカをビジネスパートナーとして信頼できないと判断したのだろう。

4話で、退院の迎えに来たアイを自分の会社に案内し、ねいるは自分が社長だと告げる。このとき、アイが他人を信じすぐ許してしまう事について、ダメだけど素敵なところと言う。そういう子が居ないと私たちが救われない、とも。ここの「私たち」はエッグ挑戦者のことかもしれないし、ジャパン・プラティで造られたAIのことだったかもしれない。その後、ねいる、アイ、リカ、桃恵のエッグ仲間の4人が揃った。

5話は、ねいるのエッグでの戦いが描かれるとともに、個性の違う4人が友達になった事が描かれた。ねいるとリカと桃恵が、アイの家に遊びに行く。不慣れで緊張してお菓子をアイの母親に差し出し挨拶するねいる。リカの図々しさに呆れつつ、リカのくすぐりに屈して笑い出したり。小糸と沢木先生の下世話な話に付き合ったり、その後に4人で地下庭園まで歩いて行ったり、ゲーセンで遊んでみたり、地下庭園でピクニック気分でお菓子を食べたり。この日の経験全てが、これまでのねいるの人生に無縁だった、普通の14歳の少女の楽しい日常であった。

そして最後の最後にエッグを買うのを止めないか、と提案するリカ。リカの提案は普通に考えたら至極当然。最初は友だちや知人の自殺に責任感じてエッグへの挑戦を始めたが、自分の命を懸けてまで挑戦する事じゃないし、ましてや自分が死んだら身内が悲しむから、もうエッグを買うのを辞めないか?という提案である。

ただ、ねいるにとってはこの提案は響かない。肉親もおらず、大切な人といえば寿くらいだが、おそらく、この時点で既に寿は植物人間状態になっていた。ただ、自分のオリジナルのアイルという人間の気持ちを知りたい。そんな、ぽっかり空いた心の穴を埋めるために命を賭けて戦う。結果的に、アイたちもねいるに引っ張られるようにエッグを買い続ける事になる。サブタイトルの「笛を吹く少女」は、結果的にねいるがアイたちをエッグの戦いに先導していた事を意味していたのかもしれない。

6話は、母親と沢木先生の再婚の話にモヤモヤするアイに対して、ねいるは「オッカムの剃刀」「アイも先生が好き」と鋭いプロファイリングをしている。ここは、ねいるの分析力、本質を見抜く力が生かされた台詞であった。それと、この話でワンダーアニマルのピンキーを与えられ育て始めている。

7話は、誕生日のリカの母親への愚痴に、ねいるが「共依存」「断ち切らなきゃ何も変わらない」と強烈な分析結果をぶつけてリカを怒らせる。その事で「思った事を口にしてしまう。合理的に正しいと思った事を」「女性社会に向いていない」という台詞もあり、人間関係の難しさに困惑した様子を初めて見せる。リカがピンチを脱して帰還して戻ってきた時に、ねいるは「死なないで」の台詞があり、リカたちをかけがえのない存在として、素直な感情を伝えたのは、ねいるにとって精一杯の友情だったのだろう。

9話は、ねいると寿の決別の回。会社ビル地下9階のねいるの自室に、友だちとしてアイたちを招待するねいる。ここで、ジャパン・プラティとデザイナーズベイビーの話が登場。流石にAIである事は伏せている。リカたちにしてみれば、楽しく遊ぶためにたこ焼きパーティーやマニキュア塗りを楽しみにしてきたのに、ねいるが寿の生命維持装置を切る事についての話で口論になり、後味悪く退散する形に。ただ、寿と約束したねいるも、ボタンを押す事に手が震えて、結局一人でボタンが押せなかった。最終的には、アイとねいるが二人同時にボタンを押す事が出来た。

この話で重要なのは、尊厳死などでななく、個人的な夢も将来のビジョンも持たないねいるが、寿の言う通り自分の人生を楽しむ事ができるか? そのために、寿という過去と決別し、変化を受け入れられるか? というのがポイントだと思う。理性でボタンが押せるとリカたちに啖呵を切っていても、実際には変化を受け入れる事の怖さで手が震えていた。そこを飛び越えるための手助けをアイがした。

ラストで生前の寿と語らっていた時の本をスーツケースに詰め、モルモットのアダムも持ち出していたのは、放送当時は寿の遺品を処分するため、と考えていた。しかし、特別編を見た後では、湖畔のカントリー風な新居に引っ越すために持ち出すためだったと理解できる。

エッグの世界での寿とのやりとりで出てきた「パラレルワールド」「死の誘惑」のキーワードは、終盤で繰り返し出てくるが、「あどけない悲しみ」が特別編のねいるに直結していて今思うと切ない。

10話は、地下庭園に訪れたねいるは、三つ編みだった髪を降ろしてイメージチェンジして登場した。これは、アイルの髪型でもある。三つ編みは、合理的で邪魔にならない髪型で有り、会社に縛られているという意味でも、ねいるを象徴するアイデンティティであった。その固い縛りを捨てたところに、自分の人生を生きる変化を読み解ける。また、リカのラーメンの誘いに即答OKしたのも、ねいるの変化の現れである。

OA当時は、私はねいるのこの変化は喜ばしい事だと思っていたが、特別編を見た後では、見方が少し変わってくる。ねいるのブレの無い強さは、実はこの変化とともに失われつつあり、徐々にねいるに迷いが生じて、弱々しい印象に変化してゆく。

12話では、丘の上に4人集まって、ワンダーアニマルを殺されたリカと桃恵は別々の方向に去って行ってしまう。後悔していると告げた桃恵に、「自分で選んだんじゃないの?」と問いかけるも、「何で誘ったの!」と泣きながらアイに問い詰める桃恵。ねいるは当事者側でもあるから、立場的には微妙であり、終始寂し気な表情が印象的であった。アイの気持ちを察して、言葉少なに「一緒に帰ろ」とアイに寄り添ったのは、ねいるの優しさだったのだろう。

沢木先生と小糸にエッグの世界で対峙して生還したアイ。アイとねいるは2人で丘の上に腰かけて会話する。アイは、小糸から真実を聞きたいと思っていたが、そうではなくて、一人ぼっちだった私の友達になってくれた事で救われたから、その感謝の気持ちを伝えたかったのだという。途中の、ねいるの「嘘の友達でも?」という問いかけが切ない。この一連の会話は、そのまま特別編に効いてくる。

青沼ねいる(特別編)

そして、問題の特別編。

冒頭のエッグ世界での花火のシーンはねいるのゲームクリアを意味する。ねいるの居場所は無くなり、妄想(=人間になり自分の人生を楽しむ)は叶わないとアイルは断言。時系列シャッフルされているが、ここでフリルとの対峙があり、私と友達になれば人間になれると告げられる。

これが、ねいるに対する死の誘惑であり、ねいるはその誘惑に心を揺さぶられた。自分の人生を楽しみたい→人間になりたい→エッグの世界のフリルに確かめたい=死ぬ、という矛盾である。しかしながら、パラレルの旅人でもある寿の事例もあるから、死=人生の終わりとも限らないという概念もあるのだろう。最終的にねいるは、悩みぬいた末に、意を決してフリルに会いに行く決意を固める。

Aパートは、このゲームクリア後のねいるの寝起きのシーンで始まる。エッグの世界から生還し、ねいるの中の子供(=人間になりたい弱さ)と大人(=冷静に分析する強さ)の人格が分離して会話するが、完全に子供のペースである。ワガママに生きよう、ワガママは子供の特権、大人っぽいから不幸なのかも。団地の玄関前にモルモットのアダムを置いてアイに託した。枕井商店の前でガチャガチャを見つめてたら、偶然アイに遭遇し、和らいだ笑顔が浮かべるねいる。そのまま、「じゃあ、また」と挨拶を交わし別れた。ねいるは、バスの中からSMSでアイに、しばらくアダムの世話を頼む、と連絡。アイからの電話には出ない。ここでねいるは音信不通となり行方不明に。

このやり取りを考えると、ねいるはエッグの世界に行き、戻ってくる前提でいたと思う。ねいるにとってアイたち(=親友)はかけがえのない宝石である。エッグ無しでエッグの世界(≒三途の川)に入るには、自分自身が生と死の狭間に行く(=臨死体験をする)必要がある。寿の事例を考えると、アイルに押し出されたねいるは、別のパラレル世界で生かされる可能性が高く、その意味で戻って来れない可能性もあり得る。この「シュレーディンガーの猫」の様な精神状態のまま、アイとの別れは中途半端なままとなった。

その後、アイは小糸の改変を経験し、音信不通のねいるを心配して会社に乗り込み、アイルに知らない人扱いされている。世界が一斉に切り替わったと思える演出である。世界線が変わったためにスマホに小糸の写真も無い。だが4人で撮ったプリクラの写真は残っていたという事は、ねいるはまだ改変されていなかった。

カラオケを経て、田辺秘書に電話で呼び出され、湖畔のねいる自宅で寿と鑑賞するねいるの最期のエッグの夢。寿はねいるがAIだと告げ、リカはAIのねいるの存在を否定し、アイは言葉を失った。その夜、ねいるからの電話を取らずにスマホを投げたアイ。翌日、もしくは数日後の昼、アイは酷い事をしたと母親の膝の上で泣きじゃくる。

ねいるという存在は強くて強固だった。社長になるために造られたAIであり、卓越した分析力、判断力と、ブレない強い意志を持っていた。しかし、寿の遺言で自分の人生を楽しむ事を決め、髪を降ろした頃から、ねいるの存在は弱くて脆くなってゆく。社長としての存在は戻ってきたアイルがねいるを否定する事で消滅した。ねいるがAIと知らされたリカは、その場でねいるを否定した。アイはその事実を受け止められないまま、ねいるの電話を取らなかった。この瞬間、ねいるは誰からも必要とされなくなり、この世界のねいるは死んだのだと思う。アイは、自分の罪の重さを直感しているからこそ、後悔し、泣きじゃくったのだと思う。

ねいるからの最期の電話のシーンで映される、草むらに仰向けに横たわっていたねいるの姿。外傷は見受けられなかったが、とても薄幸な雰囲気を感じさせる演出だった。果たして、アイに残したかった言葉は何だったのか? 具体的な事は一切分からず、全て視聴者の妄想に任せる形である。

アイたちがこっちの世界で流されるように付き合いが自然消滅し、社会に順応してゆく事を成長というなら、ねいるは、ただ一人だけ逆行して少女化していった、という物語の余韻が、とてつもなく切ない。

大戸アイ(特別編)

転校してリカと桃恵とも自然消滅のくだりは、少女期を卒業し大人になってゆくという意味であり、こちらの世界の存在がより安定して強固になる事を意味する。言い換えれば、エッグの世界から遠ざかる。しかし、危険な少女期を乗り切って、より安定した大人に成長して、めでたしめでたし、とはならなかった。

「ねいるは人間になれたのかなあ」というねいると距離を取った台詞から、あの日確かに存在した友情の記憶を鮮明に思い出し、ねいるに会いに行く。ねいるへの贖罪とも違う、忘れていた親友に会う事で、自分にとって大切なモノと向き合いたい、という気持ちだと思う。

少女を描いた物語の結末は、少女を肯定した。だからこそ、儚くて強く、アンビバレントで奥深い。

田辺美咲

田辺秘書のスタンスは会社側の大人である。ねいるやアイルとは密着しているが、気持ちは距離をとっている。そして、エッグの世界に関しては、アカ裏アカの共犯者である。

当初、社長はアイルだったのであろうから、人間であるアイルに情があってもおかしくないとも思うし、ねいるの気持ちもよくよく察していた。そんな中で、結局、田辺はねいるをどうしたかったのか?というのが良く分からなかった。

もちろん、ねいるがエッグで戦う意味は、アイルを取り戻す事にある。しかし、そのためにねいるが飛ばされる事も知っていたハズ。

田辺がねいるの最期の夢を見せたかったのはアイであり、リカはついでである。ねいるがAIである事を知って、ねいるの悩みを共有させて、ねいるがこっちの世界に戻ってくるような事があれば、こんどはアイルが不安定になりかねない。その中で、敢えてリスクを取ってアイに伝える意味は何なのか? ねいるを不憫に思い、アイに力になって欲しいという同情なのか?

その辺りは、彼女のポーカーフェイスに隠されて、確かな事は何も分からず、妄想してください、という風に感じた。

特別編という肌触り

アクションは抜きの低コスト短納期の演出、作画?

私は、当初書き下ろされた時の11話12話と、総集編が決まった後の12話+特別編は、実は違う脚本なのでは無いか?と勘ぐっていた。

1つは、物語を〆るためには、アイの問題解決を最後にするのが望ましいが、特別編がラストだと、ねいるの問題になってしまう事。

もう1つは、特別編がワンエグにしては、アクションシーンが全くない、省リソース、低コスト、短納期向きな映像になっていた事。

もちろん、アクションシーンが無くても、キャラの表情や背景の美しさは申し分ないクオリティであったが、カタルシスという意味では全く盛り上がらない味付けを、最初からシリーズ構成時に設計するだろうか?

こうした違和感を強く感じていたので、仮説として11話と12話を入れ替えて、高度なパッチワークをした結果、説明不足と、迫力不足になってしまったのではないか? と妄想したりしていた(非現実的な妄想なのかもしれないが…)。

しかしながら、よくよく特別編を見なおしても、ねいるがAIだった衝撃の真実と、ねいるが消えてしまったという流れは、それまでのねいるの心情の変化からしても微塵も違和感が無く、はじめからキッチリ設計されたものと感じられる。仮に、順番が変わってしまったとしても、ねいるに関しては、終始一貫した物語であり、改悪されたところはないのであろうと想像する。

アイについても同様で、小糸や沢木先生に対して持つ疑念を疑念として払拭し、ノイズに負けず自己主張できるようになったという流れも、違和感は無い(多少、詰め込み過ぎた感はあったが)

キャラの心情重視の私としては、そこをキチンと結んでくれた事が嬉しく思う。

これについては、不本意ながら、総集編、および特別編という形にはなってしまったが、作品のテーマに対し、うやむやにすることなく形にしてきてくれたスタッフの誠意を強く感じる。

風呂敷を広げっぱなしのシリーズ構成?

風呂敷をひろげっぱなしと言えば、エッグの世界の設定周り、フリルという強キャラの結末、アカ裏アカのひまり生き返らせ作戦の結末、といったところか。

まあ、確かに、ぼんやりした抽象概念だったり、フリルという悪の放置だったり、アカ裏アカのマッドサイエンティストによるエロスの戦士にされる14歳の少女の犠牲者は無くなることはなないのか問題だったり、視聴者に対するストレスの原因が未解決なまま、安堵させることなく、ぶっつりと終わるイメージはある。何だかんだ言っても、視聴者はストレスから解放されて救われたい気持ちがある。

だから、風呂敷を広げっぱなし、という指摘に対しては、擁護出来ないと思う。

ただ、フリルとエッグの世界の件は、与えられた社会システムであり、その中でキャラが何をするかというドラマであり、最初から社会システムをどうこうするモノでは無いというスタンスはアリと言えばアリである。例えば、世界は昔、資本主義と共産主義と別れて争っていた。それゆえにイデオロギーによる国家の分断の悲劇が起きて、それがエンタメになる事は多々あった。その不幸な構造を改善すべき課題と感じていても、そこまでのスコープで問題解決を描く作品を私は知らない。本作もおそらく、そのシステムの中で、キャラがどんなストレスを受け、どう変化・対応してゆくかのドラマを描く事が主題であったと思うし、そこは逃げていなかったと思う。

その意味で繰り返しになるが、キャラの心情を組んだドラマを、シリーズを通して丁寧に積み上げてきた事に関しては、凄く高く評価している。特に本作の台詞は考え抜かれたモノであり、とくにアイたち4人の掛け合いの台詞は、非常にキャラにフィットしていた。

台詞の全てが脚本家の仕事とは限らないと思うが、上記だけでも本作の脚本のずば抜けた力を感じたのは間違いない。

その意味で、本作のシリーズ構成は、大胆な生け花的な荒っぽさがあり、万人に美しいものとは言えないが、肝心の細部は手抜きなく、とてもクセがあるシリーズ構成だったと思う。

おわりに

私はワンエグの中ではねいるが好きで、論理的でブレが無く少女性を持たないねいるが何故エッグで戦うのか、ずっと分からりませんでした。しかし、特別編で完結を観た事で、ある意味、ねいるが大人から少女に逆行して、脆く儚く消えていった、寂しくも切ない物語として理解する出来た様に思います。

ねいるのこの一連の変化について、あまり詳しく感想や考察をみかけないため、私なりにモヤモヤした部分を整理出来た事は非常に良かったと思います。

明確に描かず解釈に幅を持たせた作品だと思うので、解釈が違うという方もいると思いますが、いろんな解釈があるのだな程度に思ってもらえば幸いです。また、そうして考察して吐き出してゆくのが良い作品だとも思います。

スタッフの皆様には良い作品を生み出していただき、感謝しかありません。