ネタバレ全開に付き、閲覧ご注意ください。
はじめに
みんな大好き、吉田玲子脚本の長編オリジナルアニメーション映画ということで、観てきました。
鑑賞直後は、何となく突き抜けた感がなく平均点な印象でしたが、ブログを書きながら相変わらずの脚本の良さを思い知らされ、とても好きな作品になりました。
本作はお仕事モノでもありますが、日羽が凛として自尊心を持って生きるまでの成長と、震災復興を重ね合わせた震災モノの方に重心がある、と受け取りました。
なお、他作品との比較については、後日追記予定です。 他作品との比較を追記しました(2022.1.4)
概要
考察・感想
フラダンスでお仕事モノという設定
日羽は、スパリゾートハワイアンズというレジャー施設でフラダンスを踊るプロの新米ダンサーである。
新人ダンサーは、ここの新入社員であると同時に、常磐音楽舞踏学院の生徒でもある(就学期間は2年間)。ダンサーの採用枠は5人で、この5人で1チームとして行動する。チームの仲間と一緒にプロとして厳しいダンスレッスンに耐え、そこを乗り越えてお客様に笑顔を提供する、というお仕事モノとしての骨格である。
本作は、スパリゾートハワイアンズの全面協力のもと、背景や施設のバックヤードなども細かく描かれるもの特徴である。
3DCGによるダンスシーン
本作は、水島精二総監督をはじめ、、キャラクターデザイン・総策が監督はやぐちひろこ、制作はBN Picture(株式会社バンダイナムコピクチャーズ)という、初期のアイカツ!を連想させる布陣である。
それゆえ、3DCGを駆使したライブシーンは常套手段ではあるのだが、題材がフラダンスであるがゆえに動作は滑らかでゆっくり、手先、指先の細やかな動作に気を使う必要がある。しかも、現代のモーションキャプチャーの技術では、指先まではキャプチャーできないらしく、同時に録画した映像を見たりして、手の芝居をつける、などの苦労があったとの事。
こういった難しさもあっては、フラダンスのライブシーンには強いインパクトを感じなかった。題材と映像手段のマッチングの問題と言えるかもしれない。
スタッフ側もこうした弱点を知ってか、劇中でアイドルグループのライブシーンを挿入したりしてメリハリをつけていた。
丁寧で地味な演出
率直に言って、本作の演出は丁寧だけど地味だと感じた。これは決して下手という意味ではなく、抑揚のつけ方が地味という意味である。気の利いたレイアウトも多々あり、飽きるという事はない。
辛い状況、上手く回りだしたときの喜び、恋愛要素の浮き沈みの感情、そうした感情面を極端にデフォルメして描く、ということもなく、お仕事モノとして地に足がついた感じの演出がなされていたと思う。
その対比として、個人的に盛り上げられたポイントは、(a)ハンガーで残念のシーンと、(b)ひまわり畑での姉との対話のシーンと、(c)ラストの「ここにいるよ」のシーンに感じた。(a)はともかく、(b)(c)にカタルシスを持ってきていた事に、本作のメインテーマを感じさせるものがあった。
お仕事モノ、成長モノ、震災モノの3つの断面
お仕事モノとして物語
本作は、お仕事モノと震災モノの2つの面を持っている。まずは、お仕事モノとして本作をみた場合の考察から。
本作を仕事モノとして要約すると、
- 何も持たずに就職した日羽が、厳しく辛い訓練を経て、人並以上に努力。初ステージではトラブルにより最悪のデビュー。社内評価もダンサー中の最下位という現実の悲しさ。絶望のどん底からのマイナススタートである。
- この状況で、鈴懸先輩という憧れの人が登場し、乗り越えられると励ましてくれる。この辺から運気がプラスに転じてくる。
- そのうちに、チーム内の結束も強まり、巡業先のステージで客を笑顔にして、先輩にも褒められる。日羽のドライブや実家での夕食でチームも家族同様に結びついてゆく。そして、自分らしさをアピールするために全国フラ大会にエントリー。途中、失恋も経験するが、大会では自分らしさをアピールしたダンスを披露。成績こそ振るわなかったが、先生のお褒めの言葉もあった。仕事の波に乗れていて、プラスに回復し、さらに上昇中という状況である。
- この状況で、先輩は退社し、しばらくすれば後輩もできるであろう、先輩としての責任感を予感させながら、お仕事モノとしての物語は終わる。
お仕事モノとしてのテンプレに、仕事にゴールがあり、幾多の問題を解決し、ゴールに到達する事でカタルシスを得るというのがある。たとえば、お仕事アニメの代表作である『SHIROBAKO』は、クオリティの高さを維持しつつ完パケする事がゴールとなっており、カタルシスを得やすい。そのために、スタッフに頼み込んだり、明確な障害を取り除いたり、そうしたゴールに向かっての途中イベントも明確である。では、本作の日羽の仕事のゴールとは何か?
日羽はどん底スタートだったから、人様の足を引っ張らず、一人前に仕事がこなせるようになる事がゴールといったところだろう。その意味では、明確な合格点を表現しにくいのであろう。本作では、そこをフラ全国大会で観客の心を掴めたところを1つのゴールに設定していたと思う。
そこに向かっていくときに、憧れの鈴懸先輩の登場や、先輩たちからの励ましや、チームメイトの支えがありという流れである。しかしながら、その問題排除のロジックが明確に描かれることないため、日羽が理由もなく時間の経過とともに、何となく成長しているように感じてしまう。平たく言えば、一発逆転のロジックが存在しない。だから、お仕事モノとしてのカタルシスは弱いと感じた。
この点について、水島総監督のインタビュー記事に関連する記載があったので、ここに引用する。
- ゛水島:そうですね。日羽に限らず、全編を通して重要なドラマが自然に入ってくるお話なので、ここが節目のイベントだ、という見せ方をしないことが演出のうえでも大事だなと脚本を読んだときに思いました。”
これは、現実でもそう感じることは多いと思う。たとえば、英会話の練習をしていて、ある日突然ヒアリングが聞き取れるようになるとか。その意味で、本作のディレクションはゲーム感覚ではなく、生身の人間が生きている感じを味わえるモノである。そうすることでカタルシスは弱くなるが、ドラマとしては誠実で奥深さがある、とも言える。
日羽の成長モノとして物語
個人的には、本作のポイントはお仕事云々ではなく、何も持たない日羽が自尊心を持って生きて行くまでに成長する物語であると思う。
話はそれるが、本作の日羽は、『千と千尋の神隠し』の千尋を連想させる。ある日突然、異次元に迷い込み、湯屋でこき使われ、がむしゃらに働いて、ハクという憧れの人が登場しつつも叶わぬ恋に終わり、最後は自尊心を持って現実世界に帰ってくる。ある意味、スピリチュアルな成長の物語である。
令和の現代においては、その人が向いていなければ、システムや運用でカバーしたり、向いている職場に配置転換したり、などという対策を当然と思う観客もいるであろう。しかしながら、前述の個人の成長物語が骨格にあるので、そのような展開にはならない。あくまで、ドラマの中心は日羽のメンタルにある。
JK時代の日羽は、ふわふわしていて、自分を持っていない感じに見えた。
そんな日羽が社会人となり仕事をする。自信無さげで頼りなく失敗続き。周囲の足を引っ張ってしまう申し訳なさ。そして初ステージでは大恥をかく失態。日羽が良いのは、辛くても、苦しくても人のせいにせず愚痴をこぼさない。悔し涙を流しても、投げやりにはならない。ドジっ子で運が悪くても、とにかく誠実なのである。途中でメンタルが壊れるのではないかと、見ているこちらが心配してしまうほどである。
ただ、本気で悩んで諦めかけていた時に、鈴懸先輩の「乗り越えられるよ。ここはあの時、誰もが乗り越えたんだ」の台詞。この言葉のおかげもあって、続けられた。
ここから、だんだんと仕事も調子に乗ってくる。水族館での巡業の成功。先輩たちからの誉め言葉。
日羽にとっては、チームメイトの存在も大きかったと思う。失敗続きの日羽を責めるのではなく助け合う。各々が弱点を克服するために努力する。運転初心者の危なっかしいドライブ。回廊美術館でのシーンは印象的で、視界にあるのは何もない田舎の、落ち着ける穏やかな山の景色。これは、日羽の内面でもあり、その後の実家の食事のシーンも含め、日羽がチームメイトを受け入れ、チームメイトも日羽を受け入れていたシーンだと感じた。
日羽の鈴懸先輩への淡い恋心も描かれた。励ましをくれた憧れの先輩。交際中疑惑の誤解が溶けたのもつかの間、10年間毎月欠かさず亡き姉の墓参りをしていた事、退職して実家を継ぐ事を知り、片想いの失恋も経験した。
そうした仕事以外のオフの経験もまた人生の潤いとなって仕事にも良い影響を及ぼす。
フラ全国大会への挑戦は、自尊心を持って生きる事の高らかな宣言である。自分たちらしいフラダンス=自尊心。成績は振るわなかったが、早川先生からも褒められた。アイドルのライブのように観客とその瞬間を共有し、みんなを笑顔にすることができた。褒められる=肯定される。その延長線上にラストの「ここにいるよ」の台詞がある。
真理と日羽の姉妹のドラマ
真理と日羽は二人で1つ。「まり」と「ひわ」でひまわり。一緒にフラダンスを踊りたかった真理の残留思念。
偶然の重なりで、日羽はフラダンスを仕事として選び、姉の断片を感じて過ごす1年だったが、それも成仏できなかった真理が仕掛けた事なのかも知れない。
夏凪家では、東日本大震災で真理が亡くなってから笑いが途絶えていたし、日羽の高校生活もなんとなく地に足がつかない、ふわふわした印象で描かれた。つまり、10年前から夏凪家では時が止まっていた。
真理は、日羽がダンサーになり、忙しく過ごし、失敗を乗り越え自尊心を取り戻してゆく姿を近くで見守っていたのだろう。日羽がCoCoネェに宿りし真理の残留思念に気付いたとき、真理はもう大丈夫とお別れを切り出す。今まで真理の死に向き合えていなかったからこそ、夏凪家では時が止まっていたのだろう。最終的に日羽が真理の死を受け入れ、真理が成仏することで、時が再び動き始める。
プアラ(=太陽の花=ひまわり)の名は、真理→あやめ→日羽と受け継がれることになるのだろう。それは、真理の願いであった、姉妹で一緒にフラダンスを踊るという夢を叶える1つの形である。
震災モノとしてメッセージ
日羽の社会人の1年間は、東日本大震災の被災地福島の10年間である。
東日本大震災は甚大な被害を福島県にもたらした。地震と津波、そして原子力発電所の放射能流出事故である。何が悪いわけでもない、誰のせいでもない、神による無慈悲で圧倒的な暴力。度重なり続く余震。(日羽の入社直後の、運の無さと、ダンス技術の圧倒的ハンデキャップ)
追い打ちをかける放射能事故による直接被害と、風評被害。(動画配信サイトの「史上最も残念な新人」の称号)
被災地に残り、こうした辛い現実の中にあっても、それに耐え乗り越えてきた被災者と日羽を重ねてみることになる。「乗り越えられるよ。ここはあの時、誰もが乗り越えたんだ」という台詞が意味するところである。
新人ダンサーチームが、日羽以外は他の他府県から来ている事も意味があると思う。この辛さを被災地いわき市だけに押し付けるのではなく、他府県、他国も震災復興を一緒に努めてきた形ともとれる。
震災直後、過大な負債しかなかった被災者が、10年の時を経て、人間らしさを取り戻し、自尊心を持って未来を歩き始める。苦しさの中、耐えて乗り越えてきた事への敬意と、未来への希望というメッセージ。「ここにいるよ」はその声高なアピールであると感じた。
キービジュアルについて
冒頭の画像は、制作発表時に公開されたキービジュアルであるが、これが本作の根幹を上手く描いていると、視聴後改めて感じた。これは非常に尖っていて良いし、大好きな絵である。
日羽の顔は、眉毛や目元に多少の不安を感じさせながらも凛としたものを感じさせ、口元はわずかに微笑み未来の明るさを感じさせる。表情としては、かなり複雑でありながら、本作を的確に表現している。周囲を覆うひまわりは、言わずもがな姉真理と日羽の二人を象徴する花である。吹く風が、生きている鼓動を強く感じさせる。そんな印象である。
ちなみに、下記は劇場公開時のポスターの告知ツイートの引用である。
こちらは、新人チーム5人とフラを踊る日羽という、もう少し本作の表層を表す絵になっている。楽しそうな雰囲気であり、映画のポスターとしてはこちらの方が正解なのだろう。このキービジュアルとポスターの差が、作品を作る側と売る側(≒観客側)の温度差になっていたのかも知れない、などと感じた。
🌻ポスタービジュアル解禁🌻
— オリジナルアニメ映画『フラ・フラダンス』絶賛公開中🌻🌺 (@hula_fulladance) September 8, 2021
踊ること。
笑うこと。
仲間を想うこと。
職業、フラガール
📢さらに!#早見沙織 さん #相沢梨紗 さん#上坂すみれ さん #木村昴 さんら
豪華声優陣の参加も決定❕#フラ・フラダンス#12月3日公開 pic.twitter.com/V8VeHG5CdP
他作品との比較
フラガール(2022.1.4追記)
フラガールは2006年の実写映画。
日本屈指の石炭採掘量を誇った常磐炭鉱。エネルギーが石炭から石油に変化してゆく時代に、炭鉱の仕事は急速に減少し炭鉱側も大幅なリストラを敢行。炭鉱関係者は新しい仕事を探すか、他所に移住するかという選択肢に迫られる。そんな中、雇用創出のためにハワイを模した観光施設を作るという大胆な施策を炭鉱側が提案。炭鉱従事者側から懐疑的な意見があるなかで計画は進む。東京から講師を招き音楽学校を創立しダンサーを育成した。こうした、時代の転換期に立ち合う労働者たちの葛藤のドラマを描く。
炭鉱の仕事は命と隣り合わせの誇りある仕事。だから、フラダンスなどという破廉恥な観光業に対する嫌悪感を抱く者も多かった。炭鉱夫の家で育つ紀美子(蒼井優)はフラダンスに魅せられてダンサーになる決意をするが、母親(富司純子)、兄(豊川悦治)からは許しが出ない。破門同然でフラダンスの道を進むが、最後は母親からも認められ、家族がダンスショーを観に来てくれる、という話だったと思う。
母親の台詞で「娘には私のような地下で真っ黒になるような仕事ではなく、華やかな明るい人生であって欲しい」みたいな台詞が印象的だった。つまり、昭和時代は家系で仕事を継ぐ事も多く、本人の自由にはならず縛られた人生であった。だが、これからの時代は、自分の人生を好きに選んで生きていい、というある意味束縛からの解放の物語であった。
直接的な部分だと、環奈の母娘の和解のモチーフが重なりはあると思う。また、産業の転換期という危機、震災という危機からの復興という重さのある空気感は両作品に通ずるところと思わなくもない。皮肉にも、下記のインタビュー記事を読むと、コロナ禍という新たな危機に直面している事が伺える。ただ、これらの映画が苦しい時を乗り越えた事を描いている事で、勇気をもらえる事がある。エンターテインメントとしての役割は、こういうところにあるのだと思う。
ちなみに、現在、Netflixで観られるようなので、興味のある方はご鑑賞いただければと思う。
フライングベイビーズ(2022.1.4追記)
フライングベイビーズは、2019年のフラ部の女子高生を描く全12話のショートアニメ。
映像的にはぶっ飛んだビジュアルのオチャラケた話なのだが、それとは裏腹にしっかりした震災モノとしてのメッセージも込められていたと感じた。詳細は下記のブログをご参照ください。
震災としてのメッセージは被災地(=被災者)に対して、忌み嫌ったり、哀れんだりして距離を取るのではなく、一緒に楽しく接して欲しいという祈りにあったと思う。
こちらはまだ、震災の被災者が震災の傷を抱えているという扱いで、震災復興を果たした「フラ・フラガール」とも一味違う、震災モノだったとと思う。
岬のマヨイガ(2022.1.4追記)
岬のマヨイガは、2021年の長編アニメ映画。
こちらも震災をテーマにした作品であり、メッセージとしては心に傷を負った者が回復するために大切なモノが何かを描いていたと思う。詳細は下記のブログをご参照ください。
両作品とも、フジテレビの「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」という被災地支援の企画の一環として制作されており、脚本が吉田玲子という点も一致しており、なかなか興味深い。
両作品に共通することとして、震災をあまり直接的に描かないという点がある。そこを生で描くと当事者にとって癒えない傷に塩を塗ることになるからかもしれないし、エンタメで扱うには重すぎるからかもしれない。いずれにせよ、そこを直接描かずとも、震災の痛み、辛さを匂わせる作風に共通する品の良さを感じる。
震災を直接描かないからこそ、そこに繋がる抽象的な概念を言語化するのに手間がかかる。余談ながら、そのため、両作品とも私のブログとしては鑑賞後1週間近く時間を要した難産であった。しかしながら、必ずメッセージのようなものはあるので、読み解き自体は楽しくもある。
参考
水島精二監督インタビュー記事のリンクを掲載する。本作を監督するにあたってのディレクションなど、興味深い話題に多数触れられているので、良ければ読んだり、視聴していただきたい。
- 映画『フラ・フラダンス』 水島精二が語る「総監督の“お仕事”」① | Febri
- 映画『フラ・フラダンス』 水島精二が語る「総監督の“お仕事”」② | Febri
- 映画『フラ・フラダンス』 水島精二が語る「総監督の“お仕事”」③ | Febri
- 12月3日(金)映画『フラ・フラダンス』公開直前「フラガール全員集合スペシャル」 - YouTube
おわりに
本作の世間的な評価は、それほど高くないとSNSの観測範囲では感じています。「アイの歌声を聴かせて」のような高密度で強演出な作風でもなく、比較的淡々としたテイストで描かれてゆくので、盛り上がりに欠けるとかいう感想も分からなくはありません。
震災モノとしてのテイストを考えると、どうしてもお仕事モノとしてステレオタイプに物事を解決させられないという事もあったのではないかと想像します。その意味で、震災モノとお仕事モノは食い合わせが悪いのかも。
本作のオリジナル作品としての文芸の綺麗さ、良さを褒め称える感想を余り見かけないのが残念です。もう少し評価されても良い作品だと思いました。