たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

平家物語

はじめに

久々の山田尚子監督作品(=吉田玲子脚本)という事で、個人的にもかなり注目していた作品でした。

サイエンスSARUでの仕事という事もあり、奇抜なグラフィックと、おなじみの可愛らしさと、格調の高い文芸により、一風変わった面白い作品になっていたと思います。

  • 資盛の生存(現代人向けの救済)(2022.5.8追記)

それでは、いつもの長文の感想・考察です。

感想・考察

概要

監督は、少女の情感あふれる描写に定評のある山田尚子。シリーズ構成は山田監督作品に欠かせない吉田玲子。キャラクターデザインはレトロな雰囲気で繊細なラインの絵に特徴がある漫画家の高野文子。制作は、「映像研には手を出すな!」などの独特な絵柄の作品を多く創り出してきたサイエンスSARU。

アニメーション映像として

シリーズ構成・演出

平家物語』は時代を超えて語り継がれ、熟成を重ねた膨大な物語のエッセンスのアーカイブとも言える。メインは戦争を描く軍記モノであり合戦シーンも多い。それだけでなく、栄華を誇った平家の没落という因果応報を感じさせる全体の流れがある。さらに、魅力的な人物、エピソード満載の由緒正しいエンタメ作品である。ちなみに、琵琶法師という僧侶が弾き語ってきた事もあり、仏教色が強めである。これを1クールのアニメにコンバージョンするため、大胆な剪定と圧縮が行われた。

そのため、各シーンの密度は高く、イベントはサクサク進む印象である。台詞の説明で足りるところは、サラッと言わせてそれで済ませている。この辺りは、もともと弾き語りがベースの平家物語を映像化するにあたってのリソース配分もあるのだろう。慣れてくると、これはこれで心地良いテンポだと感じた。

キャラデザイン

ユーモラスさを多分に持ち、少な目の線にキャラクターの性格をキッチリ乗せたキャラデザインである。

もともと、キャラクター原案の高野文子は、古くは「絶対安全剃刀」の頃から、マニアの間ではカリスマ的な人気を博していた漫画家である。レトロ調でオシャレで可愛くてカッコいいという印象である。本作の仕事でもその印象は変わらない。

山田尚子監督と高野文子キャラ原案は、可愛いカッコいいという意味で非常に相性が良かったと思う。

作画・背景・レイアウト

本作は「絵」的に美してカッコいい。レイアウトなどの構図が決まっている点も良い。

最大の特徴は、折り紙を切って貼ったような背景にあると感じた。ある意味、浮世絵の雰囲気にも似ている。それでいて、色彩は無限に豊かでグラデーションによる変化もある。西洋絵画の写真のような表現とは対になる、和風な印象を受ける。

全体のルックとしては、サイエンスSARU色が強く感じられると思った。

物語・テーマ

軍記モノとしての平家物語

今の時代に軍記モノを扱う難しさは、少なからずあると思う。

戦争自体に正義はない。戦争とは暴走して止められない狂気であり、多くの人命を消費する権力者の賭博である。しかし、本作ではその狂気を狂気としてクローズアップするような事はない。本作では、平清盛vs後白河法皇の2大権力者の闘争を描く。しかし、この2人とも非道な面を持ちながら、実に人間らしい面も描くため、ステレオタイプな悪役にはならない。

大きな潮流としては、平家絶頂期には平家の総大将重盛が清盛と朝廷の間でバランスをとっていたが4話で他界。清盛と後白河法王の諍いは激化。朝廷は源氏を使って平家に対抗。7話で清盛の死後、平家はどんどん源氏にて押され西方に逃げる。そして、最終的に源氏に滅ぼされる。といった感じである。

この戦争も地震や台風と同じ変えられない運命と捉えているように思う。そして、その災厄とも言える運命の中で激しく生きた人たちの事を描く。

そして、本作は「平家物語」であるために、この戦争に負けて滅んでしまう平家というファミリーに焦点をあてる。英傑ではない普通の人たちが、激動の歴史の中で生き、そして死んでゆくことに対する鎮魂歌とも言える作風である。

その意味で、本作は戦争を暗に否定しているのだと思う。話がそれるかもしれないが、「この世界の片隅に」に通じる確かに生きた人たちを感じさせるところがあったと思う。

流石に、敦盛の最期や壇ノ浦など合戦モノとして力を入れて描く部分もあり、平家物語として期待されるポイントは描くが、必ずしもそこがメインではない感じがした。

びわ」という発明

本作が、他の平家物語と決定的に違うのは、びわという登場人物を創作した事にあると思う。びわの存在は発明と言っても差支えないだろう。

びわは孤児になったところを重盛に拾われて、重盛の家族と共に暮らしてゆくことになる。楽器の琵琶を抱えており、ときおり演奏する。1話のアバンとラストで、大人になったびわが琵琶法師となって弾き語るシーンが入る。これが痺れるほどカッコいい。

そして、びわの右目(翡翠色)は未来が見え、びわの左目(黄金色)は亡者が見えるが、後者は4話で死んだ重盛から授かった後天的なモノである。

未来を見る力により、びわはときおり平家一門の滅びをフラッシュバックして垣間見てしまう。びわは、今後死にゆく人たちという先入観で平家の人々を見ることになる。これは視聴者が史実というネタバレを知っているのと同じと考えてよいだろう。OP曲のサビの「最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても」という歌詞を聞くたびに、この事が強烈に刷り込まれてゆく。

亡者を見る力により、亡者の無念を見る事になる。ちなみに、亡者と死者の違いは、無念があって成仏でいない死者が亡者である。こちらは後述するが、亡者を供養する=愛を持って語り継ぐというびわの動機付けになる。

びわは、カメラとなって平家の人たちを視聴者に見せる。さらに、びわはあちらの世界のアバターとなって視聴者の気持ちを代弁する存在となる。アバターを通しての体験があるからキャラを身近に感じられる。物語=時空を超えた体験である。びわが他のキャラと違い年を取らないのも、視聴者の感情移入を妨げない工夫であろう。

「見るべきものは、すべて見た」は知盛の台詞だが、その直後にびわは視力を失う。そして、びわは琵琶法師として物語を語り継ぐ存在となる。

記憶する事=愛する事=生かす事

びわは父親を平家の禿に殺されて平家を憎んだ。重盛に「お前たちは、じき滅びる」と言い放つところからのスタートである。

しかし、重盛の息子たちの維盛資盛清経の三兄弟や徳子と暮らし、雅な生活の中で彼らに情が湧いてくる。とくに重盛はびわの右目を美しいと肯定した事の意味は大きい。重盛はびわに優しく父親のような存在になっていた。

しかし、重盛も亡くなる。それから坂道を転げ落ちるように次々と死にゆく平家の人びと。びわは左目で亡者の無念を見て、右目で死にゆく未来を見ることになる。共に過ごした者たちの死を、ただ見る事しかできない辛さが続く。

清盛の死後、びわは資盛に追い出される形で平家をいったん離れる。そして、母親探し(=自分探し)の旅に出る。

再会した母親は、結果的にびわと父親を捨てたと告白する。そして、母親はたとえ逢えなくても、静かに安らかにあってほしいと「祈り」続けていたと。びわは、捨てられた=存在の否定と一瞬感じ取ってしまう。しかし、離れ離れになっていても「祈り」により存在が肯定され続けていた事に気付く。少なくとも、びわは母親に祈られる事で、母親の心の中にも生きていた。

作中では「祈り」と表現されているが、私は、祈り=愛する事=肯定する事だと受け止めた。

びわが愛すべき亡者を語る(=記憶する)事で、心の中にその人を生かす事になる。そして、語り継ぐ(記録し再生する)事で、永遠に愛すべき人を生かすことができる。

びわが平家の人たちを愛するのは、物語の登場人物を愛する読者の視点であり、物語を創作、翻訳するクリエーターの視点でもある。

先にも書いたが、平家物語は神の視点で人死にを描く軍記モノであることには違いがない。それを題材にして、合戦の勇ましさを美化せずに、キャラを愛するディレクションにした事が、本作への山田尚子監督の回答なのであろう。

また、私は7.18京アニ事件を引き合いに出すのはあまり好まないが、この「祈り」が事件の鎮魂歌として受け取れる事は、単なる偶然とは思えない。

生きるべき者の義務(徳子の意味)

壇ノ浦を経て、なおも生き延びた徳子。

徳子は、当初、自分の自由が通らない世の中に不満を抱きつつも、運命に翻弄されながら生きてきた。

政略結婚、夫の不倫問題、子宝に恵まれない日々、そしてやっと生まれた赤ちゃん。重盛や夫との死別。愛すべき我が子だけは絶対に守ると決めた。

この頃から、殺し殺され合いの憎しみの世の中で、相手をゆるし、ゆるし続けねば悪循環を断ち切れない事を悟る。世界が苦しいだけじゃないと信じたい。

清盛が死んだ事で、源氏に追われて平家一門と我が子を連れての西方への逃避行。栄華を誇った平家、雅を極めた朝廷、それが今や泥水の中を歩き、船上の長旅で水も飲めず、苦しい生活が続く。長引く戦いで平家一門も数を減らしてゆく。そして、壇ノ浦の決戦を迎える。

ここで、多くの平家一門が次々と自害してゆく。時子が帝(徳子の子)を抱えて海に沈んで逝き、徳子も続こうとするがびわが引き止めた。

一番大切な我が子を、すべてを失った徳子は生きている方が地獄だが、びわは生きる義務がある事を告げて徳子を生かす。大変な皮肉である。

これが史実通りの展開であったとしても、道ずれで死ぬ事を美談にせず、虚無であっても徳子を生かした選択は、個人的には良かったと思う。

寂光院での徳子の祈り

生き延びた徳子は出家して、我が子や平家一門を弔いながら寂光院で過ごした。徳子と仲の良かった後白河法皇が訪れ会話してときに、柴漬けでもてなし穏やかに会話していたところが印象的だった(平家物語のバージョンによっては、徳子が延々と後白河法皇に愚痴るバージョンもあるらしく、この潔さは本作のスタッフのディレクションなのだろう)。

阿弥陀如来像の五色の糸は、死者を極楽浄土に導くためのものであり、徳子の祈りをビジュアル化したものである。水の下の竜宮城に平家のファミリーみんなが幸せに暮らす世界線。辛すぎた人生だが、こんな幸せがあったらと祈る。おそらく、これも仏教的な要素なのだと思うが、私は宗教には疎いため、詳細は分からない。

最期の「祇園精舎の鐘の音」からはじまる一説だが、びわの語りから重盛の語りに切り替わり、時間が巻き戻る。これは、物語をまだ初めから再生(=読み直す)という事であり、再び読んで彼らを愛を持って生かす、というメタ的な意味と解釈した。我々が繰り返し再生する事で、彼らは永遠に生き続ける事ができるというのは、本作のスタッフの祈りなのだから。

雑感

オリジナルが持つ仏教色の強さ

ここまで、感想・考察を書いてきて、どうしても本作に満点を付けられない感覚があり、その事について記しておこうと思う。

それは、アニメの問題というより、原作の平家物語自体の問題なのだが、私にはこの平家一門絶滅という物語自体がハード過ぎると感じられる点である。

無論、時代を超えて読まれ続けてきているエンタメ作品であるがゆえに、楽しさはある。しかし、本作では、楽しい事もあったとしても人生がハード過ぎて死ぬ間際に恨みつらみが払拭できず、成仏できず亡者となった人たちばかり。そこが壮絶過ぎる。そして、仏教ゆえに、彼らを安らかな極楽浄土に案内したいというニュアンスが強い。そこに妙な圧力をなぜか感じてしまう。

本作ではそこを、キャラを愛する事で、キャラを永遠に生かすことができる、と解釈を今風に変えている事は理解する。そうだとしても、根幹の部分で、読者に死のハードさを強いる作風というか匂いが脳裏をよぎる。

自分でも考え過ぎだとは思うが、その点でどうしても波長が合わず気になってしまう、という面があった事は、率直な感想として記しておこうと思う。

資盛の生存(現代人向けの救済)(2022.5.8追記)

前述の通り、原作が持つ仏教色の強さに違和感を覚える私のような人にこそ、より共感を呼ぶキャラが一人居る。それが、資盛である。

ちなみに、資盛生存説だが壇の浦の死亡者リストに資盛の名前が無かった事から、安徳天皇を守りつつ奄美大島まで来たなどのいくつかの伝承があるらしい。

資盛と徳子を対比すると、その生き様の違いが明確になる。政治の駒になる事を嫌っていた徳子だったが、壇の浦の決戦後に出家して平家から切り離された存在になるが、それでも徳子は平家を背負っていたし平家を想っていた。言葉を変えるなら、出家してもなお平家に縛られていた。もちろん、それこそが物語上の徳子の美点になっているのは理解しているつもりである。

対して資盛は、本作では後醍醐天皇に命乞いの文を出した事からも、最後まで諦めない忍耐強さ、生きることへの執着が描かれていたと思う。資盛は自分に忠実なのである。

勿論、資盛が平家の滅亡を悲しまないワケはないだろう。しかし、家族、組織の肩書きが無くとも自害せずに、個人で生きる事を選択した。徳子の祈りは平家の救済ではあるが、資盛の生存こそが、現代を生きる(=新しい時代に向かって生きる)我々への救済ではないかと思う。

参考情報

おわりに

色々と話題作ではありましたが、大ファンである山田尚子監督作品の復活に、素直に喜び嬉しくなりました。

大変挑戦的な作品だったと思いますが、私には少々ハード過ぎたように思います。

次回作は、是非、楽しさ多めの作品になるといいな、と思いました。