たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

すずめの戸締まり

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

いつもの長文の感想・考察です。

新海誠監督の最新作は、今までと少しテイストが変わってて、若者のギラツキ感が少な目で、多少大人びた雰囲気に感じました。

その意味で、見やすく個人的にも好印象なのですが、人によってはパンチ力不足に感じるかもしれません。

ド直球の震災映画として、他の震災映画(アニメ映画)とも少し対比しながら、メッセージについて考えていました。

また、「震災映画」という観点でもブログを書いてみたので、よければ合わせてご覧ください。

感想・考察

新海誠監督にしては、珍しく非青春映画であること

今回の作品で思ったのは、新海誠監督にしては珍しく主人公が媚びていない女性で、カップルになる異性が大学生の美青年で、なおかつ彼は大半をコミカルな椅子の姿で過ごしていた事。これは、従来の新海誠監督作品の青臭さが残る少年(青年)と美少女ヒロインの構図と逆転している。すずめがJKながらある種の勇ましさでサバサバした感じだったこと、草太が色気感じさせる美青年だった事を考えると、ジェンダーレス感がある。

昨今の映画でジェンダーレスは当たり前の潮流であり、その流れに乗っただけかもしれない。しかも、草太は大半が椅子の姿で行動していたので、恋愛要素としては薄めのディレクションと感じた。そのおかげで本作が震災という大きなテーマに対し性差なく扱いやすくしていたと感じた。

ド直球の震災映画として

本作は、ド直球で東日本大震災をテーマにしている。アニメの震災映画としては『岬のマヨイガ』や『フラ・フラダンス』があったが、これらの作品に比べて本作は被災者の悲しみを全面に押し売りする作風ではない点が違いだと感じた。その意味で説教臭くないし、鑑賞後の雰囲気は本作の方がカラッとしていたと思う。

下記の作品について、以前ブログを書いているので、良ければ読んでいただきたい。

本作の震災映画としての〆方は、死別や喪失のとてつもなく大きな悲しみ痛みがあっても、人は未来に向かって生きてゆく事ができるという事を、震災後12年後のすずめの口から過去形で言わせて、辛すぎて忘却していた12年前の悲しみの自分を受け入れる事が出来た、というもの。被災者に対する辛かったね、頑張ったね、という安全圏からの慰めではなく、当事者が乗り越えた(=乗り越えられるよ)という報告の形を取っている点が良いなと思う。

地震という自然災害をファンタジー的に視覚化したミミズの描写が面白くもエグい。後ろ戸から出てくるミミズ、それを閉じて地震を阻止する閉じ師。ミミズが大空にそびえ立ち地面に落下する前に閉じれればOKというルールが提示される。宮崎では地震が起きてしまったが、愛媛では食い止めた。物語はその後も神戸⇨東京⇨仙台とロードムービーの形をとりながら舞台を移してゆく。

この辺りのファンタージー設定を、短時間で一気に分らせる映像としての密度は高く、アニメーションならではの迫力と説得力がある。

閉じ師の必要性

閉じ師は地震を抑え込むために開いた後ろ戸を閉じて廻っているというが、なぜ、人間がそのような仕事をせねばならないのか。

劇場で配布されていた「新海誠本」によると、土地を使い始める時は地鎮祭があるのに、土地を使い終わる時には神様に依頼しない事を不自然に感じた事が着想にあるような事が記載されていた。

その意味では、土地を使い終わって返却するときのお祭りと言うこともできなくはない。

戸締りする際に聞こえる、昔そこに暮らしていた人々の声が聞こえる。それは、東日本大震災で亡くなられた人たちの事を時折思い出し、忘れずに供養してゆくための演出に思えた。だからこそ、閉じ師は人間でなければならないのだろうと想像している。そうでなければ、震災映画としての物語が成立しない、と思う。

そう思いながら「新海誠本」を読み進めていたら、仙台の常世での震災時の漁船や倒壊した家屋の再現は、最後の方で付け足した演出と記載されていて驚く。私は当然、こちらが先だと思ったので。

まぁ、制作エピソードなんて精密なドキュメンタリーである必要はなく面白おかしく改変してもいいような気もするし、どっちでもいい事ではあるが。

ダイジン=神様=子供

猫の形をしたダイジンは、神様という事だった。悪戯好きで気まぐれで、それでいて特殊な力を持っていて、人間を翻弄する。

当然ながら、人命は大切なものであり、人間社会では人命最優先と教育される。しかし、地震というのは人間の倫理観とは無関係で、人命と人間の営みを一瞬で大量に奪い去ってゆく。神様とは無慈悲な存在。その乖離の大きさゆえに、被災者は大きな悲しみや怒りや無力感で、心がバグる。俗にいうPDSTである。

ダイジンの振る舞いは、神様そのものだったと思う。人間の気持ちに合わせて振る舞うという事はなく、あくまで気まぐれで無慈悲なキャラクターである。猫の姿をしている設定は絶妙である。

最初に猫に実体化した時は、痩せ細った子猫の姿だった。すずめが食事を与えそれを食べた事で普通の太り具合の状態に変化した。その後、草太を要石として椅子に封じ込め、自分は要石としての仕事を放棄し、その場から逃げ出す。すずめの事を気に入っており、東京で草太の代わりにすずめの側に居られるようなりたがったようだが、すずめに突き放され常世の中に潜り込む。

ダイジンの体の太り具合、大きさは、神様に対する信仰心の量に異存するように思えた。神様として忘れ去られた要石が人間に優しくされたという事で、力を取り戻し、すずめに執着したように思えた。

旅の途中で、実は後ろ戸を開けていたのはダイジンではなく、ダイジンはすずめと草太を道案内していたに過ぎない事が分かる。これは、『ごんぎつね』を想像させる。人間もまた、無慈悲なのである。

本来、神様というのは人間の希望を汲み取らない存在だと思うから、ダイジンがすずめを好いてすずめのために行動したというのは、本来の神様とは違う。

しかしながら、日本では神様にお供えをして祈願してきた歴史があるので、人間と神様を繋ぐ存在であったのだと思う。

環とすずめの口喧嘩とサダイジンについて

東北に向かう途中、雨降りのため停車した道の駅で、すずめと叔母の環の口喧嘩がエスカレートするシーン。すずめは叔母の愛が重い!(意訳)と口走ってしまい、売り言葉に買い言葉で環は、あんたのせいで人生めちゃくちゃ!(意訳)と口走ってしまう。ここですずめも環も相当に凹み、環は腰が抜けたように倒れこむ。ここは不思議なシーンで、環の後ろにサダイジンが現れ環を操っていたようにも見えた。

口に出すまいと封じ込めてきた鬱憤のエネルギーが一線を越えて爆発、である。さながら地震が発生したみたいに。作劇としては、雨降って地固まるではないが、お互いに歩み寄りがあり、2人の関係はいい雰囲気に修復されてゆく。

実は、本作には感情が高まって相手を全否定しまうシーンがもう1つある。東京のミミズを草太(=要石)で後ろ戸を閉じるときに、すずめがダイジンの事を、あんたなんて大嫌い!(意訳)と言うシーンである。ダイジンはその後、しょんぼりして常世に入り込んで戸締りされる。

もともと、すずめもダイジンも親の居ないひとりぼっちの子供である。相手の心配をよそに無邪気に行動していた事で、どれだけ迷惑をかけてるのよ!と叱られたという意味で、同じ構図だったと考えることもできる。

ここからは考えすぎかも知れないが私の解釈という事で。

すずめが環にキレられた事で、ダイジンに対してどんな仕打ちをしていたか理解してしまったのではないだろうか。同時に、自分が環に対してしてきた事も。この事があるから、ラストに向かってダイジンに謝罪の気持ちが持てるし、叔母とも和解できる。

では、なぜサダイジンは環の爆発を即したのか? 結果的に環とすずめの関係は修復されるが、サダイジンは神様であり、人間関係にはあまり関心がなさそうに思う。個人的に考えているのは、ダイジンが余りに不憫だったため、すずめに同じ体験をさせて懲らしめたのかもしれない。

思えば、サダイジンは神様の大人で、ダイジンは神様の子供のようにも思える。直接の親子ではないように思うが、その関係は環とすずめのような関係なのかもしれない。

岩戸鈴芽(いわとすずめ)

すずめは4歳の時、東日本大震災で母親を失い宮崎の叔母の環の家で育てられる事になった。当時すでに母子家庭であり、父親の存在については不明。

この時、常世に入り込み、居なくなった母親を探し回るが見つからない。そして、17歳のすずめから椅子を渡され扉を出て現世に戻った。3.11から椅子を貰って現世に戻るまでの間、絵日記は黒塗りのページが続いていた。演出意図としては現実を完全にシャットアウトし拒絶していたという事だろう。母親と死別した意味さえ呑み込めず、生死の際を彷徨った。そして、生きるためにその悲しみの記憶に鍵を掛けた。

叔母との生活は、それほど荒れているようには見えなかった。ただ、互いに気を使い過ぎてぎこちない部分もあったのだろう。すずめも17歳だから高校卒業したら看護師になって自立しようとしていた節があった。自分のために、迷惑かけているという負い目の気持ちもあったのだろう。叔母には自分のために時間を使ってほしい。

すずめは少し変わり者として描かれていたと思う。普通に友達もいるが、登校中に突然回れ右して帰ったり、その後、重役登校したり、それでも友達はいつもの事みたいな感じで見ていたと思う。

ミミズを見て廃墟まで戻り草太の戸締りを手伝う。その危険に対しての躊躇の無さが普通の女子ではないと感じた。この勇敢さと表裏一体にあったのは、すずめが生死に無頓着で死を恐れていなかったから。幼少期に常世で死の淵を彷徨い、もともとあの時半分死んでいた人間だったという無自覚な感覚があったのかもしれない。自分の命に無頓着であるという事は、自分を大切にしてくれた人が死別で受ける悲しみが分らないという事である。もしくは、大勢の人の悲しみを見るくらいなら自分の命なんて粗末にしてもいいと考えているのか。いずれにせよ、それは母親と常世の記憶を封印してきた事と直結しているのだろう。

一方で、一目で草太に惹かれるという描写があり、すずめと草太の男女のロマンスも描く。もっとも、草太がすぐに椅子の姿に化けさせられるため、ビジュアル的には滑稽なやりとりである。それゆえ、恋愛ドラマは重くならない軽めのディレクションだったと思う。なぜ、草太だったのかは結局わからなかった。常世繋がりの縁なのか、たんなる面食いだったのか。

道中で千果やルミに出会い、世話になり、家族のように楽しく過ごす。千夏は大家族、ルミは母親と子供の人間関係を疑似体験する。しかし、その先々でミミズが現れ、草太と協力して後ろ戸を閉じる。東京に向かう新幹線ですずめは田舎者丸出しだった。東京で育った草太とは対照的に、すずめは地方の小さな世界にしか居なかった。旅先で彼女たち家族は、それぞれを生き、それぞれを暮らしていた。旅というのは、基本的に楽しいものである。見たことのない風景。旅先でのもてなし。旅の恥はかき捨て。草太と一緒だったとはいえ、すずめが主導の一人旅のようなものである。結果的には、早く自立したいすずめにとって、良い経験になったのかもしれない。

東京のミミズ退治は、非常に辛い結果に終わる。草太が大学生で人望が熱い事、教員になる夢があったが今年の受験を棒に振った事、まだ生きたいという未練がありながら無念にも要石になってしまった事。皮肉にも、この世に未練のないすずめは生きてしまったというのが辛い。

草太の祖父の助言により、常世に入る方法は幼少期にすずめが常世に迷い込んだ扉を探す。草太の友人の芹澤、叔母の環、すずめ、そしてダイジンの3人と一匹のドライブである。途中、道の駅でサダイジンも合流する。

宮城の住宅跡地の庭で、幼少期の絵日記を掘り起こして見る。3.11以降何ページも真っ黒に塗りつぶされた絵日記だが、めくった先に常世で受け取った椅子と母親らしき女性の絵。辛すぎて忘れていた記憶との再会。あの時、すずめは死にかけて常世を彷徨っていた。すずめは草太に惚れ無念を知るから、常世に行って自分の命に代えても草太をこの世に戻したい。

常世ではミミズが大暴れしておりサダイジンが抑え込む。要石の役割は草太→ダイジンに切り替わり、草太+すずめ+サダイジン+ダイジンでミミズを抑え込む。

この時見た東日本大震災の被害現場と、この時に聞いた被災者の声ですずめの心が引きちぎれそうになる。最後に4歳のすずめに出会い、椅子と励ましの言葉を渡す。どんな事があっても、未来を生きてゆけるよ、と。これは、4歳のすずめを励ますための言葉でもあり、17歳のすずめにとっても励ましになっている。辛い過去があっても生きられた(=生きられる)のだと。

すずめの問題の1つは自分自身を大切にしない事だったと思うが、草太と一緒に生還したことで惚れた男と一緒に生きるという楽しみとともに、自分が必要とされる人を心配かけないように、自分を大切に生きてゆくのだろうと思う。

おわりに

本作は、エンタメとしての楽しさと震災映画というメッセージをド直球で投げ込んできた作風に感じました。主人公が男子ではなく、媚びていない女子だったことも、個人的には見やすい要素だったかもしれません。

本文中では、「岬のマヨイガ」「フラ・フラダンス」に比べて、震災のメッセージが息苦しくないテイストになっている事は、大ヒットが約束されているような大作では、このあたりが落としどころだったのかもしれない、などと勘ぐってしまいました。

個人的には、文句つけるところは特になく、多くの人が楽しめるエンタメ映画だったと思います。