たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

すずめの戸締まり(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

本作は紛れもなく震災映画ですが、自分が昨年見た2作品と比べて何が違ったかを整理したいと思い、書き記してみました。基本的には、物語で何を語っているかに興味があります。

それから、本作の福島の描き方について、ちょっと気になって考えていたので、後半はその事について書きました。

過去に書いたブログ記事もありますので、よければこれらもみていただければと思います。

後半、大幅に記事を追記しました。(2022.12.1追記)

「喪失と廃墟と福島原発事故」を追記しました。(2022.12.12追記)

感想・考察

他の震災アニメ映画との比較

「岬のマヨイガ

本作は、「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」という被災地支援の企画の一環として制作されている。平たく言えば、被災地に観光客を呼び込むための復興支援的な趣旨である。原作小説は柏葉幸子、脚本は吉田玲子、監督は川面真也

本作は3.11の岩手の被災現場にいた女子高生ユイと女子小学生ひよりを、妖怪たちと縁のある老婆キワが癒してゆく物語であった。

震災によるPTSDを癒すには、働く食べる寝ること、気持ちよく過ごせる住宅があること、そして家族と呼べる無償の愛があること。こうしたテーマだったと思う。

ユイは父親からの暴力、ひよりは両親との死別という辛いトラウマがある。二人は被災地に暮らしていた訳ではないが偶然トラウマから逃げて被災地に居たという設定である。

被災地では地震によりアガメという妖怪の封印が外れてしまう。アガメは人々の不安を具現化した妖怪であるから、震災により疲労困憊した被災者たちの負の気持ちを吸収して巨大化してゆく。キワが妖怪たちと戦うが太刀打ちできない。そこにユイとひよりが加勢しアガメを倒す、というファンタジー形式の物語になっている。

本作では、被災者の悲しさ辛さを癒してゆく事に注力した脚本であり、そのために辛さと乗り越えを描くという作風である。

「フラ・フラダンス」

こちらも「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」の企画。本作はいわき市の「スパリゾートハワイアンズ」を舞台にしたオリジナルアニメで、脚本は同じく吉田玲子、監督は水島精二

震災10年後に「スパリゾートハワイアンズ」に入社した5人のダンサーの1年間の成長を描くお仕事モノという体裁であるが、主人公の1年と、福島の10年を重ねる形で描かれる。

3.11で亡くなった姉の真理。10年後、思いがけず、高校を卒業してダンサーとして就職する妹の日羽。同期入社の5人チームを組むが、何も持たない日羽はゼロスタートで訓練は辛く厳しい。デビュー当日に痛恨のミスがあり動画配信でも嘲笑され、どん底からのスタート。辛さの中でもチームメイトとの暖かい交流、職場の憧れの先輩の励ましが支えになる。少しづつ自尊心を取り戻し、自分らしいフラを踊れるようになってゆく日羽たち。

補足しておくと、動画配信のくだりは、放射能事故の風評被害の暗喩であろう。これは、福島ならではである。

本作では、苦労を耐えて自尊心を取り戻してきた事への敬意を示す作風で、未来への希望で結ぶ

「すずめの戸締まり」

紹介した二作と異なり、こちらは震災復興のスポンサーはない。

すずめは、4歳のときに3.11で母親を失う。常世で彷徨い母親を探すが見つからない。受け入れられない現実は、数ページにわたる黒塗りの絵日記に象徴されていた。そして生きるため、その悲しい現実に鍵をかけた。

すずめは常世に足を半分突っ込んだせいなのか、自分自身の生死に無頓着なところがあった。

道中で千果(大家族)やルミ(母子家庭)とふれあいや援助に感謝する。千果は小学校の廃坑、ルミが神戸育ちであれば28年前の阪神淡路大震災の被災者で、二人は閉じた記憶があってもポジティブに生きている、という見本である。

また、草太と一緒に旅することで草太に惚れてゆく。東京では草太が要石としてミミズを抑え込んで常世に閉じ込められてしまう。その際、草太の無念を知り、できるなら自分が代わりたい、とさえ考える。ここは母親の死別の繰り返しになっている。

しかし、その後のドライブを経て、草太と一緒に生きたい、に変わる。最終的には要石の役割は草太からダイジンに戻され、草太+すずめ+ダイジン+サダイジンの協力でミミズを封じ込める事ができた。

ラストで17歳のすずめは4歳のすずめに再会し、これからの人生を人を好きになったりしながら生きられると励まし、三本足の椅子を手渡す。これにより4歳のすずめは常世から現世に戻った。この言葉は同時に17歳のすずめの未来への励ましでもある。

本作の震災映画としてのメッセージは非常にミニマルである。それは、人生辛いことがあってもそれだけじゃない。素敵な人生を歩める(大切な人たちとの交流いや恋愛がある)んだ、という未来を肯定することにある。

そして、他の2作品と比べて本作が決定的に違う点が1つある。それは、主人公が受けたストレス(悲しさ辛さ悔しさ)でお涙頂戴することなく、被災者のハンデキャップや努力を美化することなく、それらを描かないというディレクション。本当にシンプルに未来の肯定だけをする点にある。これにより、他の2作品と違って説教臭さが全くない。

ここは一般的な映画と比較するとあっさりし過ぎて、もっと攻めた演出を期待する人もいるかもしれない。しかしながら、大ヒットが約束されている大衆娯楽映画として被災者も含めた多くの観客が観る前提で、万人に受け入れられるラインがここまで、というディレクションだったのではないかと想像する。

3.11の描き方

すずめの東日本大震災の体験(2022.12.1追記)

3.11の記憶というのは人それぞれであり、被災者の中でもグラデーションの幅が大きいものだと思う。当時、私の職場は東京で、自宅は神奈川県であった。この時は日本の一大事だと思ったし、ただならぬ不安はあったがどうすることもできず、という感じだった。私には関東東北に親戚はおらず直接的な悲しみや苦痛を味わっていない。正直なところ、この一大事をどこか他人事のように見ていた部分が大きかったと思う。

実際に被災者や被災現場に居た方々の「すずめの戸締まり」の感想を動画配信やブログで拝見していると、思い出して胸が苦しくなったという感じの感想が多い。

震災描写についての解説と、その映像を見たときの感情をつぶさに綴っている良記事があったので下記にリンクを参照していただければと思う。ブログ内に、震災10年後に3.11当時を振り返ったブログ記事へのリンクもあり、非常に読み応えがある。

またこの方は、身近に死別した人は居なかったとの事だが、その日避難する際に吹雪きでメンタルが大幅に削られた事を思い出して、映画に集中できなくなったとの事。

私自身は、その日吹雪いていた事も記憶になかった。これくらい、観客の体験、記憶に依存して心の抉り量が変わる。これは、SNSで感想を漁って、はじめて実感した。

あらかじめ言っておくが、被災者の心をえぐるので震災描写はまだ早いとか言うつもりは毛頭ない。

すずめと芹澤のギャップと福島原発事故

東日本大震災とくれば、必ずセットで語らなければならない福島第一原子力発電所事故。本作では放射能という言葉も使われないし、言及もされないが、画面にはそれ関係のモノは登場する。

芹澤とすずめの「ここってこんなに綺麗だったんだな」「え?ここがきれい??」の会話は被災者以外と被災者のギャップを示す。私も含め多くの観客は芹澤と同じ被災者以外であろう。

ドライブ途中に反対車線ですれ違う汚染土壌運搬車両。延々と続く帰還困難区域のフェンス。丘の上から遠巻きに見える福島第一原子力発電所

しかし、これらは作品内では全く説明されず、知らなくても本筋の物語には全く影響しない。

説明すると、福島の汚染土壌や廃棄物は、福島第一原子力発電所の周辺の土地に中間貯蔵施設を作り、そこに貯蔵される。用地は民地の大半は買収契約済だが、一部はまだ交渉中である。福島の各地から黒い袋に詰められた汚染土が、緑色のゼッケンを付けた汚染土壌運搬車両(=トラック)で運ばれてくる。

新海誠監督は、その今の福島の日常風景を切り取り、「すずめの戸締まり」のフィルムに残した。この事が、本作の最大の震災映画としての狙いであり、功績だったのではいか、と想像している。

知らなければ何もひっかからない。知っていればその意味が分る。知らずとも気になった人がいれば、今回の私のように調べて、その事実の一端を知る。ネットで検索すれば偏ったモノも含めて色々な情報が出てくる。いずれにせよ、この施設は日本の負債を象徴するのは間違いない。

そして、本作にはこうした原発事故に対するイデオロギーは存在しない。自然災害ではなく人災とか、事故の責任の所在とか、今回の施設に対してとか、何か主義主張を押し付けることもない。ただ、フィルムに存在を残したい、という意図に思えた。それは、本作がそうしたドキュメンタリー作品ではなく、大衆娯楽作品だからだと思う。

ここから先は、私の妄想だと思ってもらいたい。

しかし、これらのアイテムを描かずに作ることは可能だと思うが、そうはしなかった事に何か無言の主張を感じる。本作のスポンサーは東宝である。妙なイデオロギーが混入すれば、国家検閲こそないが、東宝映画の作品としては、ダメ出しが出るのかもしれない。

本作が「天気の子」のように青臭い若者のギラツキ感やセンチメンタリズムを感じさせない、ある意味優等生的な物語になっている事とも符合する。平たく言えば、本作がアニメーション映画として映像的な気持ちよさに振り切る事とバーターに、震災後の今の福島の風景をフィルムに残した。そう勘ぐれなくもない気がしている。

この福島の風景こそが、本作のロック魂なのかもしれない。

ちなみに、私もこうしたニュースには無関心な方であり、私自身もイデオロギーはなく、どうこう意見があるものではない。エンタメ作品が何かを描く。その意味を考えたい、といつも考えている。

大衆娯楽映画と震災映画(2022.12.1追記)

少し話が脱線するが、最近のエンタメ作品は観客に変なストレスを与えないという潮流にある気がする。

一例をあげると、「その着せ替え人形は恋をする」のラブコメは三角関係や浮気などが全くなく、主人公カップルのエロいが健全な男女交際を描く。「スパイ×ファミリー」は本来、非情なスパイを描きながら、超能力少女のコメディ色を前面に押し出して気軽に楽しめる作風になっている。なんというか、怨念や邪念のようなモノを極力排除する傾向にあると感じている。

新海誠監督の前作「天気の子」では、穂高が世界と陽菜の二択で苦悩し、陽菜を選択する。これも主人公の葛藤であり、エスカレートすれば執念になる。しかし、本作「すずめの戸締まり」では主人公のや迷いや「念」を感じない。端的に言えば、毒が無くて、とても爽やかな。前半の超高速展開、ジブリっぽさ、女性主人公、明確な悪役の不在、そういったものを含めて行儀のよい大衆娯楽作品感がある。動きの良さ、背景美術の暖かさ綺麗さも含めて、映像の快楽で観客をグイっと引き込んでいると思う。

3.11描写に関しては観客の中の記憶に依存して感情が変わるため、私のような非被災者は、それこそ毒が全くない楽しい部分だけが残る。

本作は、震災映画として、3.11の当時に被災現場の雰囲気や、現在の福島の姿フィルムに記録した。そこに、震災で亡くなったひとの無念(負の念)を描かない。乗り越えてきた辛さも描かない。説教臭さはない。ドキュメンタリー映像のようなイデオロギーもない。静かに3.11を風景としてフィルムに落とし込んだ。

思想的なモノを描けば収集のつかない嫌悪感の押収になるだろう。東日本大震災福島第一原子力発電所事故に対しての変なメッセージを織り込まなかった事こそが、大ヒットが約束された大衆娯楽映画作品の本作としてのディレクションだったのではないかと思う。

これをもって、新海誠監督の震災映画が腑抜けているとか言う批評家もいるかもしれないが、私はそうは思わない。フィルムに残り、数年毎にTVでOAされるであろう大衆娯楽映画である本作は、その都度普段映画を観ない人の心にもリーチしていくのだろう。被災経験の有無に関わらず。そして、苦しい事があっても人間に未来は訪れるのだというメッセージを残して。

喪失と廃墟と福島原発事故(2022.12.12)

新海誠監督は「喪失」を描き続けていると言う人は多い。では、本作では「喪失」はどう扱われたのか?

廃墟=人々から忘れられた場所である。そこには建造物などが残骸として残っており、後片付けして更地にできなかった土地であり、言わば神様に返し忘れた土地である。まずはシンプルに廃墟=喪失ではないかと思う。

ただ更地にすれば神様に返却した事になるのか?というのもちょっと違う気はする。人手が入った土地というのは、林業にしろ田畑にしろ、自然に見えて人工的に整備された土地であり、人手がかかっている事で美しく感じるものである。本当に手つかずの土地というのは原生林しかなく、放置する事でそこまで戻るというのも時間がかかるものだと思うが、更地にすればいずれは自然のままに神様に返っては行くという想定であろう。

そのような廃墟に後ろ戸が出現し、そこからミミズが出てきて大地震を起こす。神道的によりストレートに言うなら、神様から借りた土地を好き勝手使って、使えなくなったからゴミ同然に放置していたら、神罰が下って災いとなる、という感じか。しかしながら、それを地震の原因としているところは、ファンタジー要素と言ってもいいのかもしれない。

更に、後ろ戸を閉じる際に、以前そこに生きていた人たちの生活の声が聞こえるという現象を描く。しかし、その声は成仏できなかった地縛霊という事でもなく、念がこもっているわけではない。朽ちてしまったその土地を憂いているわけではなく、その先朽ちる事を考えてもいなかった当時の生きる人の声である。それは、今生きている人の中にある記憶や記録と言い換えてもいいかもしれない。しかし、本作では残された人々の思いが弱くなると、災いの後ろ戸が開くという設定になっており、そこを閉じ師が担っている構造である。

この部分の設定がは非ロジカルだと考えている。当時、そこで生活していた人の声を聞く=記憶・記録が弱くなる→神罰が下る、の部分は神様視点で考えたときに何のメリットもない。ただし、これ自体はクライマックスの3.11乗り越えの作劇上の意味はあり、そのための設定かなと理解している。

ここまでを整理すると、こんな感じか。

SNSの感想で、地震という天災を人間が防げる設定だとすると、その人間のミス(もしくは人間社会のミス)という解釈となり、それは如何なものか、という感想を見かけた。個人的にはこの感想に対しては否定的で、閉じ師の一存で災難を防げるというのは思い上がりもいいところで、閉じ師の力が及ばないほどの巨大ミミズで関東大震災も起きたのだろうし、そこはやはり人間には及ばない、神様の持つ絶対領域というものがあるのだと思う。

ただ、3.11は廃墟がトリガーになっていた訳ではなく、人間が土地を使っている状態で発生した。その意味で、このフローチャートには沿わない。むしろ、3.11から12年後の今、被災地はまだ基礎のみを残して人が住まない土地(≒廃墟)になっている事、そこで生活していた人たちの声を草太とすずめが聞く事(=人間の記憶・記録に残す事)で常世のミミズの封じ込めに成功する。その意味では、ちょっとしたパラドックスになっていて、12年前の東日本大震災の抑え込みはなく、12年後の今のすずめの気持ちを鎮める戦いになっていたように思う。作劇上、ここを勢いで見せている感じがして、ちょっとした引っかかりを覚える。

しかしながら、この流れも、私は明日のすずめ、という台詞の感動を通すための流れなので、アリといえばアリだろう。この絶対的な未来の肯定は、当事者以外の台詞では説得力を持たず、本人だからこそ許されるモノであろう。

改めて、喪失を考えると、(a)存在していたものが消失した、(b)その消失を観測する者がいること、の2点があって初めて観測者に喪失が生じる。

喪失したモノと喪失を感じる者を列挙すると下記になると思う。

  • 廃墟に対する、閉じ師(本来は廃棄した人たち)
  • 3.11被災地に対する、すずめ

ただし、本作では手に入らなかった喪失をセンチメンタリズムたっぷりに感傷的に描くのではなく、喪失のその先に力強く歩みだす事をテーマに描いていたように思う。

と、ここまでは一般的な映画の解釈。しかしながら、個人的に喪失で引っかかっている点が1点残っている。それが、福島第一原子力発電所事故である。

前述の通り、事故現場周辺は、帰還困難区域として人も住めない土地となっている。中間貯蔵施設を作り汚染土壌を集積する。廃墟ではない。しかし、人が住めなくなった土地であり、神様に返却したくても返却できない土地となっている。果たして、この土地で生活していた人の声を聞き、後ろ戸を閉じる閉じ師は居るのだろうか。あくまで個人的な妄想ではあるが、その神様と人間の間のルールをも超えてしまったところに、喪失を込めているような気がしないでもない。この皮肉がフィルムに残る。それが、本作の意義のように思える。

繰り返しになるが、私自身は何のイデオロギーも持たず、この件をどうこう主張するものではない。

参考

参考までに、今回ブログ執筆にあたり、ネットで検索して読んだ情報を下記に示す。

おわりに

ちょっと、偏ったブログになったと思いますが、本作の大衆娯楽映画と3.11震災映画としての両面をみたときに、なんとなくザラついた違和感を感じて、そのことがしばらく引っかかっていて、それをまとめてみました。

書いたことで、なんとなくスッキリしたような気がします。色々と考えさせられる作品だと思いました。