たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

世界的規模でヒットしているという「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」の長文の感想・考察です。

とにかく、「楽しい」が詰まっています。ゲーム原作映画の革命であり、一つの到達点と言える歴史的な一作なのではないか、と思います。

感想・考察

アクションゲーム原作3DCGアニメーション映画

大過ぎる原作ゲームの映像化

ファミコンスーパーマリオブラザーズが発売されたのが1985年。以来、ゲーム機のハードウェアの進化にとともに、次々にシリーズ、派生のゲームが開発されてきたニンテンドーの看板ゲームである。

横スクロールアクションで、十字キーと、Aボタンはジャンプ、Bボタンはダッシュという超シンプルなUIであった。当時の横スクロールゲームにジャンプボタンはあったが、ダッシュボタンはスーパーマリオブラザーズがはじめてだったと思う。これは少し慣れが必要だが、文字通りマリオに乗り移って操る感覚があり、これは後の格ゲーにも通じるゲームキャラを思い通りに操り一体となるゲームの快楽性であったと思う。

貧弱なハードウェアゆえに記号的なアイテムがタイル状に並ぶステージを右に駆け抜ける。それぞれのアイテムは分かりやすさを求められた。ゆえに、突拍子もない、常識的に考えたら理不尽とも言える世界観であるが、それがゲームのアイデンティティとなり脈々と引き継がれてゆくことになる。

時代とともに新しいゲーム機が発売される度に、新たなマリオのゲームが制作され続けてきた。常にそのベースには、楽しげで、小難しさがなく、分かりやすさを極めたところにあったと思う。それは、老若男女に幅広くリーチするためのディレクションであったのだろう。昇竜拳コマンドのような複雑でピーキーな操作は無く、あくまで直感に訴えかける操作に限られる。アナログコントローラー、Wiiコントローラーなどに進化してゆくが、それはまさにニンテンドーゲーム機と共に歩んできた道のりと言える。

ゲームのそのもの(=延長線上)の世界観

オーバーオールのヒゲ男、理不尽な空中のレンガや「?」、敵がカメ、ジェットコースターのようなカートコース、その他もろもろ。

改めて説明するまでもなく、本作のキャラクターデザインや背景、ゲームのギミックは過去のニンテンドーのゲームで培われた世界観そのものである。

前述の通り、それはゲーム機のグラフィック能力の低さゆえのデザイン、設定を引き継ぐニンテンドーの伝統である事を我々は認知している。

映画でマリオに初めて触れる観客に対しては、なぜの嵐になるはずだが、直感的にゲームのルールで「こういうモノ」である事を受け取れる。おそらく、原作ゲームのデザインの素性の良さもあるのだろう。

それは、プラットフォームがゲーム機から映画に変化しただけで、全く同じアプローチである事に驚かされる。

ニンテンドーのゲームが提供するもの

小説、マンガ、映画とエンタメにも様々な種類があるが、ゲームがこれらの受動型のエンタメと大きく異なるのは、インタラクティブ性があるという事だろう。

ゲームとはプレイするものであり、一定のルールの下で他者と勝負し勝敗を決める。たとえばトランプや将棋などは典型的なゲームと言えるだろう。また、肉体を使ったゲームはテニスやゴルフなどのスポーツとして進化していった。中にはプレイ自体は一人で行い、得点という形で競い合う種類のものも存在する。ボーリングやピンボールがそれにあたるだろう。

この文脈の中でルールを含めてUIを通してコンピューター上でプレイするゲームとして「スペースインベーダー」や「ドンキーコング」が登場する。これらのコンピューターゲームは駄菓子屋や喫茶店に設置され有料でプレイするものであったが、その後、家庭用ゲーム機としてはやはりファミコンの登場する。それは、カセットでゲームソフトを交換可能なゲーム専用ハードを安価で提供するエポックメイキングな商品であり、そのソフトに「スーパーマリオブラザーズ」があった。

当時のハードウェアは貧弱であったがゆえに、グラフィックは簡素に、物語性は極力そぎ落とし、マリオを操作するアクションとステージクリアのパズル的な快感がスーパーマリオブラザーズの肝となっていた。

以下に、ザックリとしたスーパーマリオブラザーズの特徴を整理して示す。

ところで、一口にコンピューターゲームと言ってもいろんなジャンルが存在する。

1つはアドベンチャーゲームと呼ばれるジャンルで、リアルタイム性を排除し、画像+テキストベースで物語重視のタイプである。より小説に近いと考えて良いだろう。その延長線上に、ドラクエなどのRPGや、ときメモなどの恋愛シミュレーションゲームが存在する。これらは、キャラにパラメーター値を持たせ、キャラを育成してゆく要素が追加される。より小説に近いという意味では、自由度が高い反面、シナリオは複雑になり、舞台が学校などの限定的な設定になったり、エロやバイオレンスやホラーを取り込んだりと顧客ターゲットが細分化されていった。

もう1つはアクションゲームの多様化である。シューティング、レース、パズルなど様々な形態が存在した中で、殴り合いの対戦格闘ゲームが登場する。格ゲーの特徴として、個性的な多くのキャラ、複雑なコマンド入力、より専門的な知識を必要とするコンボ技など、非常にマニアックなものに進化してゆく。もちろん、殴り合いのバトルなので対戦も殺伐としていた。

こうしてみると、多種多様なコンピューターゲームの中でニンテンドーがブレなく、プレイヤーの間口を広く楽しさを追及するディレクションを大切にしているか分る。

ちなみに、映画の本編上映前に流れたニンテンドーの広告がYoutube動画に公開されており、ここまで説明してきたニンテンドーディレクションを再認識できる。

映画文法とゲーム文法

ここで言う映画文法とは、セオリーというか、ここはこうなるだろう、こうはならんだろうという類型的な作法として考えてもらいたい。必ずしも正解が1つという訳ではない。

映画には、まず物語があって、それに伴うドラマがあり、全体を貫くテーマがあったりする。これは、小説やマンガも共通しているが、表現する方法が文章や、絵や、映像+音響と異なる。

物語は起承転結や序破急といった流れがある。これにより、ストレスや問題から解放されたり、祈りにより救われたり、無慈悲なバッドエンドだったりの結末がある。これは小説やマンガでも同様である。

ドラマはキャラの感情の動きや葛藤やぶつかり合いで、好き嫌い、喜び悲しみ、愛しみ憎しみ、などを表現する。これにより観客の心に直接揺さぶりをかける。前述の物語は神の視点の流れだったのに対し、ドラマはキャラの感情そのものと言えば分るだろうか。

テーマは観客に向けたメッセージだったり、普遍性を持ったテーゼだったりするが、これもまた観客の心に問いかけて、鑑賞後の余韻となる。

この物語、ドラマ、テーマというのは映画文法では必須で、これらを掘り下げ深みを出して感動の差別化を図る。また、映画文法では物語はロジカルであるべきで、因果応報という必然性があるべきで、設定や物語の展開と不整合があってはならない。

また、物語やドラマに深みを出すためにはその社会やキャラが持つバックグラウンドを記号的に差し込んだりする。具体的には、シングルマザーの生きずらさや子供のメンタルとか、主人公が乗っているクルマや吸っているタバコの銘柄で性格や趣味趣向をそれとなく表現するとか。

しかし、こうした手法は観客のおかれている国や社会や年齢により、前提情報の共有の深度はかなり変化する。発展途上国の子供が見てもまったく分からないというケースもあるだろう。こうしたエンタメを深く楽しむためには、博識である事が望ましいし、映画を通して勉強して知識を習得し、より深く理解するというのもアリだろう。

要約すると、映画文法では物語はロジカルでドラマに深みがある方が良い。しかし、これにより観客の間口は狭まるという問題もある。

では、ゲーム文法(=マリオ文法)はどうなるかというと、世界観やキャラ設定は子供にも分かりやすく楽しいものとする事で、顧客の間口を広げている。ぶっちゃけ小難しい物語・テーマ・ドラマは存在しない。ただ、キャラを操縦してアクションゲームの快楽に浸る。

その意味で、ゲームと小説は対局で重なるところがほぼ無い存在であり、映画とゲームは映像+音響という意味では隣り合わせにあるが、物語・テーマ・ドラマとインタラクティブ性の有無というベースの部分での差異がある。これを図にして下記に示す。

こうした映画文法とゲーム文法の違いから、ゲーム原作の映画の難しさの一面を垣間見る事はできる。この状況で、本作はどのようなディレクションをとったのか?

それは、単純に言えば、限りなくゲーム文法に比重を置き、映画文法に必要な物語・テーマ・ドラマの部分は極力シンプルで整合性のとれたものにしている。

マリオはブルックリンを救った後に、キノコ王国で配管工の仕事をしてゲームの世界で生活している。これこそがニンテンドーがスポンサーの意義でもあるのだが、スーパーマリオブラザーズを全面肯定して映画は終わる。

ドラゴンクエスト ユアストーリー」がゲームプレイヤー自身を俯瞰視させられ、興ざめして大ブーイングを起こしてしまった記憶も新しいが、それとは対照的と言っていいだろう。

これにより、本作は見終わった後に楽しさだけが残り、スッキリした気持ちで映画館を出てこれる。率直に言って、私も鑑賞後に引っかからずに抜けてしまう映画だなぁ、という感想は持っていた。しかし、それもまた映画ではないのだろうか。

原作ゲームを肯定し、原作ファンを肯定し、多幸感満載の映画があってもいい。そもそも、中身の濃密とは無関係に、ここまで映像に多幸感を凝縮してくる技術には賞賛しかない。これこそ原作愛(=リスペクト)であろう。

個人的には、このディレクションには大きな拍手喝采を送りたい。

キャラクター

マリオ

もともと、ゲーム内ではマリオは特定の人格やキャラ性を持たない。もっと言えば彼は人生や物語を持たない。(もちろん、ひげ男という揺るぎないアイデンティティはある)。これはマリオ自体がプレイヤーの分身であるためだと思う。だから、性別や年齢や人種を超えた存在となり得る。

では、物語のある映画という異なるステージ上で、マリオはどのようなキャラ性でどのような物語を紡いだか。

  • マリオは社会や家庭の中では認められていない劣等生
  • 強い兄弟愛(=優しさ)
  • 忍耐強く、諦めない強さ
  • 決断力、行動力が高く、うじうじしない

劣等生というところは、古のゲームオタクの記号と言えるであろう。「ゲームセンターあらし」も「ハイスコアガール」も主人公は勉強も運動もパッとしない子供がゲームの世界だけでは光り輝き、リアルワールドのヒエラルキーから解放される。

そして、ニンテンドーのゲームはピーキー過ぎず、コツを習得したら伸びるというチューニングである。考えながら繰り返しプレイする事で一つ一つ壁を乗り越えられる。最初から無双ではなく、少しづつステップアップしてゆく喜びを我々プレイヤーは知っている。ここに、忍耐強さや、諦めない強さを当てはめてくる。

ゲームと映画ではエンタメの特性は大きく異なる。しかし、ゲームのエッセンスを綺麗に物語に落とし込み直しているスタッフのセンスの高さには感服する。

さて、マリオの課題は家庭的にも社会的にも認められていないというところにあるので、ブルックリンの街を守り、ルイージと共に市民からも親からも感謝され認められるというのがゴールとなる。

面白いのは、ドンキーコングもジャングル王国の国王の息子として親に認められていないという課題があり、この事でマリオと共に意気投合するところ。だから、このゴールはドンキーコングとも共通している。

ルイージ

ゲーム内ではマリオとルイージは協力して敵を倒す、という流れなので兄弟の絆の強さを作品内に落とし込むのは至極真っ当なのだが、ルイージがヘタレというのが面白い。

マリオとは逆に、弟のルイージは弱気で行動力がない。幼少期には、ルイージがいじめられているところをマリオに助けられ、マリオにハッパをかけられていた。ルイージは兄のマリオの後を着いて生きてきた。

興味深いのは、家庭内では不良の兄のマリオが弟を連れまわすから弟のルイージも不良になったと父親が考えていたところ。これもルイージの主体性の弱さを表す設定だと思うが、兄を否定する選択肢がありながら兄を肯定し続けたところに、ルイージの兄を慕う強さが伺える。

ゲーム内でのマリオの行動原理はピーチ姫を助けるという設定だったが、その役割はルイージに変えられた。これは、女性が守られるべき存在から自ら戦う存在に変化したものだが、これもポリコネを意識したものであろう。逆に見ず知らずの女性を助けるよりも、身近で大切な弟を助ける方が、よりダイレクトで話が分かりやすい。

ルイージの課題はマリオに言われていた「やられたらやり返せ」的なところであるが、この課題に対してクッパに苦戦していたマリオを盾になって守った、というのがゴールとなる。

ピーチ姫

ピーチ姫はキノコ王国のプリンセスだが唯一の人間である。物心つく前にキノコ王国にワープしてきており、キノコたちに育てられた恩義もあり、キノコ王国のために尽力する。マリオが来た事で、クッパの侵攻を知り、マリオを戦士として育てつつ、ジャングル王国のコング軍に応援要請をしてクッパに対抗しようとする。

前述の通り、男勝りでカッコよく戦う女性なのはポリコネ対応なのだろう。

マリオとピーチ姫は同じ目的を持つ同士であり、恋心は有ったとしても非常に薄っすらとして感じである。ピーチ姫からすれば、マリオは自分以外ではじめて合う人間だから、期待と不安と共に親近感を持って接していたのだろう。マリオからすれば、ルイージを救うためのキーマンである。

ピーチ姫はトレーニングを通してマリオの忍耐強さ、しぶとさに敬意を表していたので、信頼関係はできていた。

カートでマリオとドンキーコングと離れ離れになった後、キノコたちを人質にクッパに囚われたが、結婚式のその瞬間も、ブルックリンに移動後も、最後まで諦めずにクッパと戦う。

世間の感想について ~評論家ウケ云々、ポリコネ云々~

YouTube動画やPodcastの感想を拝見すると、この手の話題が必ず触れられていて、少々うんざり気味である。

ポリコネ関係の話題は、ディズニー・ピクサーに限らず古くからハリウッド映画に見られる傾向なのだと思うし、ポリティカルコネクトレス(=政治的正しさ)を語る自体には問題はないと思う。それが否定されたら最悪の社会だ。

私がポリコネ関係の話で思うのは、政治的正しさを押し出そうとして説教臭くなってしまうパターンである。一例をあげると、性差平等を考慮したときに、不平等で虐げられる女性を描かないのではなく、社会的に強い女性ばかりが登場するという極端さである。つまり、女性蔑視の否定ではなく、女性上位であるべきと強く肯定しているように見えてしまう。

これは、SNS上でのフェミニズム関係の話題にも当てはまると思う。

別に否定もせず肯定もせず、曖昧なままにしておけばいいのに、その曖昧が出来ないのが頭でっかちというか、イエス・ノーのロジカルさの中でしか生きられない悲しさというか。

個人的に本作が説教臭さを脱臭するディレクションがあったようには感じるが、戦うピーチ姫など明らかに現代的なポリコネの影響だろうし、ポリコネ=批評家大好き=一般観客嫌い、というステレオタイプな話は、主語の違うレベルの的を得ない議論ではないかと思う。

おわりに

余談だが、最近、子供にも分かりやすい物語・テーマを極上の作画と演出で大人にも楽しめるようにした本作に似たテイストの「らくだい魔女 フウカと闇の魔女」という作品があった。この時も思ったのだが、無理に大人向けに世知辛いメッセージを込めるよりも、ストレートに原作の良さを真面目な脚本・演出で映像化してくれる事が本当にありがたいと思う。

ニンテンドー自体もニンテンドーピクチャーズという映像部門を立ち上げている。あくまでリスクの高いゲーム部門に対するリスク分散との事なので、ゲームが屋台骨なのは変わらないのであろう。イルミネーションに限らず、自社製の映像コンテンツも増えてくるのだろうが、ここまで映像としての完成度があげられるか?という不安もあるし、本作のような作品こそ日本で作って欲しいという期待もある。