たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

劇場版 ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

腐れ縁的な感じで鑑賞した、「劇場版 ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス」でしたが、大半がスペクタクルな宇宙人侵略映画で驚きました。 ただ、悪くなかったというか、映画として良かった。それでいて、確かに「ゾンビランドサガ」だったなという感触も得られる作風で、感心しました。

また、今回は山田たえが主役で、そのカッコいいところが満載で、本作の魅力になっていると思いました。

では、さっそくいつもの感想・考察です。

感想・考察

スタッフ

1期は2018年秋、2期は2021年春、そして今回の映画は4年半のブランクがあり2025年10月に公開された。

1期2期の監督は境宗久だが、映画では総監督が宇田鋼之介、監督が佐藤威、石田貴史で監督が交代している。3人とも1期2期で演出・絵コンテを担当しており、映像のテイストはTVシリーズで馴染んだモノである。

製作のMAAPA、シリーズ構成の村越繁は1期からの続投である。

作風

大部分はスペクタクルな宇宙人侵略映画

ぶっちゃけ、今回の映画は、「インデペンデンスデイ」のような宇宙人侵略映画が大半で、その宇宙人に山田たえとフランシュシュと佐賀県民が戦いってゆくというのがベースである。

1期のさくらたちがゾンビとしての殻を破ってゆくドラマ、2期の佐賀の復興と重ねたリベンジのドラマだったと思う。それに比べて今回の映画の物語やドラマは薄味である。どちらかと言えば、地球侵略してきたエイリアンを、科学力で劣る地球人がどうやって撃退するのか、というスペクタクルな部分がエンタメの大半を占めている。もちろん、エイリアンから佐賀(=地球)を取り戻すリベンジのドラマと言えなくもないが、スケールが大きすぎてアイドルアニメの枠組みを大きく超えてしまっている。

まず、スペクタクルな宇宙人侵略映画としての出来がいい。敵のエイリアンの気持ち悪さや母船、小型船、武器などのSF設定は、ガチで作り込んでいる。映画として音響も映像も大迫力。今回は、主役が山田たえ(CV三石琴乃)の声の芝居も迫力があり、映画として成立している。

ただ、本作はゾンビランドサガなのでフランシュシュが出てきて歌うだけで和むし、物語のド根性なご都合展開があってもフランシュシュだからと許せてしまう部分もあり、その意味は少々ズルい作風である。

通常、TVシリーズの映画化というと、映像の緻密さや音響の迫力で、より臨場感を出したいところ。ただ、TVシリーズの人間ドラマの延長線上だと、せっかくの映画でも迫力を出しにくい。ライブシーンだけ凝っても作品としての驚きは薄い。そこで本作は、ジャンルごと大きく切り替えて意外性もあり、娯楽映画としてスカッと楽しめるという、大胆なディレクションになっている。その中で、ゾンビならではの特徴を生かした作戦行動だとか、フランシュシュの連帯感を強くアピールするドラマ作りを行う。

もともと、ゾンビランドサガは、予想の斜め上をゆくのが作風というところもあり、こうした大胆なディレクションが受け入れられる素地はできていたのかもしれない。

山田たえがカッコいい!

今まで謎だらけだった、「伝説の」山田たえが主人公である。

エイリアン母船のエネルギー源の石を飲み込んで自我を取り戻す、という展開だがゾンビランドサガだから許せてしまう。今回のたえは、沈着冷静、頭脳明晰で行動力があり、決断も早い。流石に「持ってる」キャラである。三石琴乃さんの役でも過去イチ頼りがいがあるクールで熱いキャラである。

たえの謎も少しだけ明かされた。29歳で30年前に死んだ。幸太郎の先輩で面識がある。と言うが、時系列の整合性は私の中でとれていない。ぶっちゃけ職業も不明で、分かったような分からないような感じである。だが、これくらい謎が残ってても、ミステリアスのままでいいか、と思えるのもゾンビランドサガだからである。

実は1期のときに三石琴乃の無駄遣いとか思っていた。スタッフのインタビュー記事で「ふがー」とかしか言わないからこそ、実力ある演者が必要で依頼したと記憶している。なるほど、と思ったものだが、今回こそはその演技力を全力解放という感じである。

たえが先走って、フランシュシュが着いてきちゃう展開が何回かあったような気がするのが、最後の「着いてこないで」っていう台詞は、みんなとの記憶が戻った上で、巻き込みたくないからという感情が乗ってた芝居だったと思う。本作は振り切った芝居が多いので、こうしたグラデーションを付けてビシッと決まる芝居は流石だな、と感心して観ていた。

テーマ

佐賀を守る使命

今回の映画は、1期の「さくらを仲間として受け入れる」を、たえに置き換えた形と言っていいだろう。また、2期の「佐賀を守る」はそのまま使われているが、スケールが大きくなって地球の命運までも引き受けてしまっている。

佐賀が蹂躙され瀕死の状態から、再度立ち上がる構造になっており、それをまるまる2時間の映画で描き切る構成である。

今回もまた、佐賀と佐賀以外(世界規模)が断絶し、佐賀の人間でこの逆境に対処する必要がある。己の生命力だけでゴキブリのようにしぶとく戦う。

エイリアンの地球侵略が、そのシチュエーションにそのまま使えると考えた(=発見した)人は天才ではないかと思う。映画としてのまとまりも良いし、ストーリーがゾンビランドサガ以外の何物でもない。

個人的には、エイリアンのゴーグルを調査していて視力が低く、熱源と音響を頼りにしている事が判明するシーンで痺れた。これは、目の前を通るエイリアンを息を潜めてやり過ごすという良くあるシチュエーションが出来るヤツ!、と興奮した。同時にサーモグラフでゾンビは体温がなく認識されず、逆にたえは飲み込んだ石の熱がかなり高音で認識されているので、フランシュシュが作戦のカギになる。この辺りの映画の盛り上げ方は、その文法に乗っ取っているからこそ盛り上がる。

こうしてエイリアンの特徴を掴み、母船に乗り込むための陽動作戦は佐賀の人たちとの連携で行い、たえとフランシュシュが母船に乗り込み破壊するという筋書き。この文法も鉄板である。

かけがえのないフランシュシュの仲間

今回は、山田たえを活躍させる代わりに、たえがフランシュシュのグループから外れて対立するという構図であった。

たえ自身は、エイリアンの石でゾンビではなく、生き返った的な演出だったのかと思う。だからこそ、たえ自身は生きている側という自覚だったと思われるし、ゾンビよりも生存者の人命を優先した。

逆に残りのフランシュシュのメンバーが、自我を取り戻して変わってしまったたえを観て、それでもフランシュシュのたえであるというスタンスを崩さずに接していたのが対象的である。例え、自我を取り戻しても仲間である事は、1期のさくらの事件で経験済みで前例があるからこそ、かもしれない。

当初は、フランシュシュを戦闘の足手まといとみなし、さらにゾンビだからと軽視した。しかし、あるタイミングでフランシュシュだった記憶が蘇るが、自己犠牲で佐賀(=地球)を救おうとする。

しかし、フランシュシュの残りのメンバーとしては、佐賀(=地球)を救う事と等しく、フランシュシュの仲間を救いたい。7人で助け合って行動するのが当たり前。誰一人も欠けさせない運命共同体みたいに思ってるから、地獄の底まで付き合う。

今回のたえは、何でも自分で背負ってしまうので、最後は自分一人だけの自己犠牲で佐賀を救おうとする。しかし、フランシュシュはそれを許さず、全員揃って帰還するべく奮闘する。とくに、さくらがそれを許さない。巻き添えを望まないたえと、仲間を見捨てないさくら。

最後のウィニングライブで、たえの歌唱と踊りをはじめて披露するフランシュシュの演出が粋である。硬派でクールで熱いたえが、フランシュシュを仲間として認めた証明である。ただ、曲の途中でたえの元々の自我が再び消滅してゆく。自我のたえとの別れ、そしてゾンビのたえとの再会。さくらの頭をかじるたえの目ににじむ涙。それが、自我のたえのフランシュシュへの感謝と別れの気持ちを表現しているように感じた。

母船乗り込み時にさくらの肢体がバラバラになる不謹慎なコメディも織り交ぜながら、ゾンビゆえに雑に扱っても死なないというゾンビランドサガが培ってきた無茶をそのまま飲み込ませる世界観でゴリ押しする側面が多い。その意味でズルいとも思う。

しかし、コメディの中で、こうした肝となる部分をサラッと描くセンスの良さが光る作風は健在で、確かにゾンビランドサガだったなぁ、と鑑賞後に思える作品だったと思う。

おわりに

本作は、その映画の構成が、TVシリーズアニメの劇場版作品としては異例だったように思いますが、逆に言えば、1本の映画としてのまとまりの中に、フランシュシュというキャラクターを当て込んだという逆の発想の作りになっていたと思います。

多くのTVシリーズのアニメ映画で、TVシリーズの世界観の延長線上で音響だけ少し良くしようとかなりがちかと思います。しかし、本作は映画という事で土台の部分を変えて来た、みたいな大胆さが肝です。それでいて、フランシュシュの映画と納得できる。その意味で、ちょっとした革新的なやり方だったのかなとも思いますし、ゾンビランドサガだからこそ許される作風だったのかもしれません。