たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

響け!ユーフォニアム 3期 7話「なついろフェルマータ」

はじめに

ユーフォ3期7話をみて、京アニはかなり真由の扱いをいじってきたなー、というのが率直な感想でした。

原作小説では表裏のない真由ですが、京アニは真由の裏面を浮き彫りにしてきたことで、今後の物語の流れの変化と、真由という人間に対して久美子が攻略してゆくという要素が加味されたように思いました。

そうなってくると、京アニ版としての真由を改めて解釈し直してゆく必要があるので、一旦ブログとしてまとめてみました。

本ブログでは、基本的には京アニのユーフォ3期についての感想・考察としてまとめるつもりですが、私が原作既読者であり、最終楽章にかなり熱を上げてしまった人間として、どうしても記事に原作ネタバレが滲んでしまった場合はご了承ください。

  • 「真由が久美子大好きな理由」に1話の伏線の考察を追記<2024年5月29日>

感想・考察

真由視点

7話での真由の変化

真由⇔久美子のやりとりを各話ごとにまとめてみた。

Ep 久美子→真由 真由→久美子 備考
1話 演奏があすかを連想? シンパシー
2話 違和感 大好き 久美子に入部嫌じゃないか確認
3話 違和感 大好き 「たかが部活」発言
4話 - - (絡みなし)
5話 違和感
嘘ついてあがた祭り断る
麗奈と大吉山
大好き
あがた祭り誘う
帰路は一人
久美子に辞退したい確認
6話 違和感
拒絶する
大好き
拒絶され後ずさり
久美子に辞退したい確認
★拒絶されて何か壊れた??★
7話 拒絶した申し訳なさ
歩み寄り
プールに誘う
真由と一緒に写真

プールに行く
久美子に自分語り
真由の写真を破棄?
★真由ホラーモードON★
実力主義で全国金」は了解

この流れで見ると、1話~6話は、真由→久美子は大好きという一方的な片想い状態にあったと思う。

しかし、6話で大切な思い出(あすか先輩)に踏み込もうとした真由を久美子が拒絶した事で、真由の中の何かが壊れてしまい、7話以降に真由のキャラが変わったように感じた。

この真由の変化の象徴がプールでの久美子の会話シーン。まるでホラー映画を観ているような怖さを滲ませる演出、芝居になっていた。

壊れてしまった真由の変化だが、一つはプールでの真由の独白である。これまで、真由は表面で取り繕ったような対応しか見せていなかったが、久美子にだけサイコパス的な深層を覗かせる。しかし、なぜ「たいていのことはどっちでもいい」と思っている人間が、久美子にだけ独白するのか。この真由の自分語りについては、次節で考察をしてゆく。

もう一つは、オーディションに対する姿勢の変化。7話では「辞退したい」は封印され、久美子の主張する「全力を出して、上手い人が選ばれて、全国金をとる」に寄り添う姿勢を見せる。つまり、これまでは相手の立場を考えて申し訳ない、という気持ちのストッパーが壊れてしまった事を意味する。

真由が壊れてしまったのは、話の流れから6話で久美子が真由を拒絶した事がトリガーだったのではないかと想像する。

5話でも真由はあがた祭りの誘いを久美子に断られているが、そこには真由への否定のニュアンスはなかった。6話では久美子は自分の大切なモノ(あすか先輩)に触れられたくない気持ちが顔に出て、拒絶の気持ちが滲み出てしまった。真由は久美子に嫌われたくない好かれたい気持ちが強いと思われる。だから、久美子から否定され、あの場を後ずさりし、ある意味、精神的に追い詰められた。という線で私は解釈している。

真由の自分語りについての考察

7話のプールでの真由の自分語りの要点を整理したい。

  • (a) 真由の自己分析
    • (a-1) 真由は誰とでも仲良さそうに見えて、そうではない(≒誰からも好かれていない)
    • (a-2) 真由は自分が無い(≒相手が喜ぶことをする)
    • (a-3) 真由は好きとか嫌いとか無い、たいていの事はどっちでもいい(≒考え方に一貫性やポリシーがない)
  • (b) 固執する/しない
    • (b-1) 固執する人(久美子=普通の人)
    • (b-2) 固執しない人(真由=普通じゃない人)→このタイプの人の事を本気で好きになることは絶対にない

ここでは、まず(a)の真由の自己分析があり、次に(b)の全人類を固執する人/しない人に二分して、真由が(b2)に属していることを説明する。(a)⇔(b-2)の因果関係は厳密にはないのだが、真由は(b-2)に属するから(a)になるというロジックで考えているように思える。

それにしても、この自己分析は切な過ぎる。

自我がなく、自己主張がなく、周囲が望むことをするならば、他者とのぶつかり合いもない。

もしかしたら、転校するたびに新たな社会やコミュニティに入り馴染んでゆく必要があった真由にとっての処世術がこれなのかもしれない。しかし、それではカメレオンの迷彩色のように集団の中で埋没してしまい、誰からも観測されない存在になってしまう。まるで空気のように誰からも意識されない存在。

その意味では、対峙した人間や集団を写す鏡のような存在とも言えるかもしれない。

だが、実際には真由自身が一般人とは明確に異なるアイデンティティ(=個性)持つ事も揺るぎない事実である。それは真由のマイ楽器の銀色のユーフォであり、フィルムカメラである。真由はそれなりに固執している。この辺りに、真由の自分語りの矛盾が潜んでいると思う。

それはともかく、真由が自らを(b-2)属しており、自分が誰からも本気で好かれていないと語ったということは、裏を返せば本当は誰かに好かれたいという真由の声なき悲鳴なのではないか。その悲鳴は久美子に対して救済を求めているのではないか。私にはそのように感じられた。

さらに、真由がフィルムカメラで撮影する写真に複数人のスナップショットが多いのも、親友を作りたい真由の深層の願望が現れなのではないか。

つまり、真由は誰か一人から本気で好かれる事で、(b-2)→(b-1)に変化する。そして、逆説的に(a)のネガティブな性格も払拭できると考えているのではないか。真由に一番必要で、真由が一番欲しているモノは、誰か一人から注がれる特大の愛情・友情。それが物語的に真由が救済される方法な気がしてならない。

また、前述の通り、7話以降の真由は何かが壊れてしまっている。例え高度な演奏ができたとしても、真由の心は救済されない。ここで、部員のメンタルケア担当の黄前相談所の出番である。久美子は部長として真由の問題を解決する必要がある。

真由は久美子しか見えていないので、真由を大好きになる大役は十中八九、久美子にしか務まらない。釜屋つばめではダメなのである。しかし、残念ながら7話時点の久美子には真由に同情はすれど真由を好きではない。

久美子がどう変化し、どうアクションするかが肝であり、この真由の救済をどう描くかは作劇上の見せ場であろう。

真由が久美子大好きな理由

先の真由の自分語りのロジックなら、真由は他者に固執しないハズである。

しかし、真由は久美子が大好きで、久美子しか見えていないのではないように描かれている、と思う。しかし、その理由は今のところ明確に描かれていない。

一つはレベルの高いの演奏技術を持つユーフォニアム奏者というシンパシーである事は間違いないだろう。

アニメではうろ覚えになってしまったが、原作小説では久美子が小3の時に東京から転校してきたという点も転校生であることが共通点として書かれていた。

しかし、それだけでは、大好きで固執する理由としては弱い。

1話で真由が久美子と初対面した際に、見た瞬間に久美子と言い当てたのも気になる。真由の中の久美子情報は事前に滝先生の面談から聞いていた情報になると思うが、実際に対面するまでに数日経過しているので、その間にネットなどで北宇治吹部を調べる事も可能ではある。しかしながら、わざわざ1話に真由と滝先生の面談のシーンを入れてきていることから、これが伏線回収される可能性は高いと見ている。

いずれにせよ、この辺りはアニメスタッフの腕前拝見といったところである。

↓追記 2024年5月29日↓

1話の伏線について、なんとなく閃いてしまったので、追記しておく。

始業式の朝、久美子は3年生ミーティングの後、一人でユーフォを吹いてから、職員室に音楽室の鍵を届けに来た。

この時、奥の方で滝先生と面談していたのが真由である。おそらく、真由は職員室に来る前に久美子の演奏を聴いていた。曲はおそらく「響け!ユーフォニアム」だろう。そして、その曲と奏者に強い興味を持った。滝先生に曰く、奏者は黄前久美子部長とのこと。

この日の夕方、真由は駅近くの土手で「ムーンライト・セレナーデ」をユーフォで吹く。この曲は求愛の歌なので、真由から久美子へのプロポーズという意味であろう。そして、久美子はこの演奏を聴いていた。

真由→久美子が好きな気持ちは、恋に近いものだと考える。曲を聴き、演奏を聴いて惚れてしまった。恋愛なので、そこにロジックはない。ただ、恋に落ちた。

数日後、夜の校舎屋上で真由は「ムーンライト・セレナード」を吹く。そして、この数日間想い続けた久美子と対面する。やっと会えたその人は、想像通りの人だった。

1話の伏線は、こんな感じではないだろうか。

残念ながら、真由→久美子は大好きであっても、久美子→真由は警戒心しかないため、一方的な片想いのまま物語は進行してゆくという点が切ない。つまり、先のプロポーズは受け入れられなかった。5話のあがた祭りの時も、麗奈と一緒に遠くにいってしまう久美子を想い、松明の火の粉の上昇をフィルムカメラで一人撮影していた。6話のパーソナルスペースの久美子にガツガツ近寄って行ったのも「響け!ユーフォニアム」の曲に関心があったからだろうが、逆に踏み込まれたくない久美子に拒否られる。この拒絶で真由は久美子に嫌われていると自覚してしまい、ある意味折れてしまったのだろう。久美子は頑なにソリ演奏に対する本心を見せない。しかたなく、久美子が提唱する北宇治イズムに乗っ取りコンクールに挑むことで、久美子の気を引けるのであれば、そうするしかない…。

こうなってくると、真由と久美子のTrueEndは、「響け!ユーフォニアム」を一緒に吹く事で決着するのだろう。

とまぁ、こんな妄想をしていた。

↑追記 2024年5月29日↑

真由と奏の不思議な距離感

真由は周囲のすべての人にソツなく良い人であろうとするが、奏だけは真由に唯一突っかかって行く。

2話の感触だと、奏→真由に心を開いていないことは真由も重々理解していると感じた。台詞の端々で、もう少し仲良くしてくれないかな、という気持ちが出ている。しかし、それで真由にダメージが出ているわけでもなく、奏の猫パンチにしかなっていない。

6話の府大会オーディション前のユーフォ4人の練習練習の時の会話でも奏の調子は変わらない。

おそらく、真由は清良でもチクチク発言で周囲をヤキモキさせたのではないかと思う。過去に奏のように距離を取りつつ牽制してくる人間もたくさん見てきたと思われる。奏はあくまで、そうしたその他大勢のモブキャラであり、「たいていの事はどっちでもいい」に含まれるのだろう。

そうした雑魚キャラの攻撃にムキになる事もなく軽くいなして笑顔で返す。実に立派な大人な振る舞いではあるが、真由の自分語りを聞いた後では、複雑な気持ちになる。

今の奏は雑魚キャラ的にみられがちだが、奏は奏で諜報能力の高さや聡さはある。真由にクレームを入れ続ける事が出来る人間というのもそういないので、真由に魂のパンチの一撃が入る見せ場を期待したい。

そうでもしないと、真由と奏の和解というか、対等の関係というのは作れないような気もする。

真由のコンクールに対する優先度の変化

先に、真由の存在が組織に迎合して溶け込み、カメレオンのように目立たない存在になってゆくハズ……、という話をした。

しかし、実際の真由の北宇治での異物感は際立っていた。久美子や奏が感じた違和感はどこから来たものなのか?

1話から6話の真由は、久美子の居場所が奪われる事への気持ちを考えて、真由の行動がもたらす結果が久美子が喜ぶのか否かを気にしていた。久美子や奏の居場所を奪うことで嫌な気分にならないか。それは望まれない結末ではないか。

しかし、久美子は完全実力主義で上手い方が選ばれる事を望み、最終的に北宇治吹部が全国大会金を取る事こそが、最良の結末であると説明し続けてきた。

すこし脱線するが、真由は「嫌じゃないか?」と気持ちを質問し、久美子は「それが北宇治だから」と組織方針を回答しているために、会話が嚙み合っていない。だから、回答が得られていない真由は何度も同じ質問をしてしまう。真由にとっては全国大会金はどっちでもいい事であり、聞きたいのは久美子の気持ちである。

また、真由にとっては勝敗はどっちでもいい事なので、競争原理が働かない。京アニでは「上手くなりたい」「悔しくて死にそう」を擦れるほど使ってきているが、その気持ちが引っかからない。おそらく、今期もこの台詞は肝心なところで活用されてゆくと思うが、それを久美子だけでなく真由に言わせることができたなら、真由は久美子を理解できたことになるのだろう。

話を戻す。つまり、奏者としての久美子(高校最後の年に麗奈とソリを吹く)と、部長としての久美子(全国大会金)の喜びの、ベクトルが異なる二つの目標があることがポイントとなる。久美子の中では部長>奏者のプライオリティである。

  • (1) 全国大会金(≒上手い人が吹く)=〇、ソリ=〇(久美子)
  • (2) 全国大会金(≒上手い人が吹く)=〇、ソリ=×(真由)
  • (3) 全国大会金(≒上手い人が吹く)=×、ソリ=〇(久美子)
  • (4) 全国大会金(≒上手い人が吹く)=×、ソリ=×(真由)

対して、真由は全国大会金に興味はなく、奏者の久美子の立場を優先にしていた。上記の(2)(3)の順番が逆転している。そのプライオリティが、久美子や奏とのギャップになっていた。

7話では、真由が認識を改め、部長としての久美子を優先することに合意した、という流れである。

この7話までに、真由は自分の演奏で誰かのポジションを奪うことに対して久美子に何度も確認をしてきた。だから、オーディションで真由が久美子に勝つことで起きる事象は、久美子自身に責任がかかるようになっているので、真由が勝つと久美子は詰む。

CONTAX T2フィルムカメラ)と真由

他人の写真は撮影するのに、自分が写真に写るのも嫌だし、それを他人に渡すのも嫌。

7話で真由が自分語りをしているときに、北宇治のそれぞれのカップリングで写される仲睦まじきスナップショットが映像として流れる。固執しない真由が、お互いに固執している人間関係をファインダーを通してつぶさに観察する。という事であれば、真由がそれを欲しているのは演出的にも間違いないだろう。

真由が写真に写りたがらないのは、真由は自分が嫌いで、自分を見たくない、と解釈している。

ただ、7話で久美子がプールから帰る際に撮影した集合写真は、誰ともカップリングしない一人ぼっちの真由が写り込むことが辛いと解釈することもできるかもしれない。

7話のラストで、プールの写真の現像が上がり、お盆休み明けに写真をお披露目しているときに、教室の窓際で意味ありげに真由が久美子に見せる3枚の写真がある。いろいろ解釈の余地はあると思うが、

  1. クロアゲハ
    • →大きな変化の予兆
  2. ラッコ(のコースター)
    • →貝殻を割る
    • →痛めの愛情表現(営み中にオスがメスの鼻を噛む)
  3. 飛行機雲
    • →分断、分裂

なので、割と直球で関西大会のオーディションの事を示していると思う。

ただ、7話で真由自身も何かが壊れて大きな変化があり、自分の殻を破って、久美子との断絶を図った、という解釈の余地もなくはない。

それにしても、わざわざこの非人物写真を抜き出して、久美子の横で意味ありげに並べる真由は、意図的にやっているなら久美子に喧嘩を売っているようにしか見えないし、無意識で預言者としてやっているなら、かなりのオカルト能力の持ち主である(作劇的な演出です)。

ちなみに、「現像が失敗した」と真由は言ったが、今回のケースで言えば現像は、撮影済みのフィルムをネガフィルムにする事なので、最後の1コマだけダメになるというのは起きにくい。おそらくネガは大丈夫なので、持参してきていたネガフィルムを見れば、何が写っていたかは分かるはず。今後、その写真が劇中に登場するか否かは興味深いところです。

付録

付録A 久美子と真由のやり取り 抜粋

1話から7話までの、真由と久美子のやり取りについて、箇条書きでまとめる。

なお、会話が重要だと思う場面では、会話そのものをピックアップして記載する。

本来なら、記事を書く際のメモなのでブログに掲載する必要はないのだが、自分用の備忘録としても使えるので、今回は付録てして付けておくことにした。

  • 第1話
    • 始業式の日
      • 朝、真由は北宇治職員室で滝先生と面談
      • 夕方、真由は駅近くの土手でユーフォ吹く(ムーンライト・セレナーデ)
    • 吹部キックオフ(目標は「全国大会金」)
      • 夕方、真由は校舎屋上でユーフォ吹く(ムーンライト・セレナーデ)
        • 「もしかして、黄前久美子部長だったりしますか?」「あ、はい」「やっぱり!イメージ通りだ」「え」「あ、ごめんなさい、私、黒江真由といいます」
  • 第2話
    • 真由転入日
      • 真由、3年3組に転入、みんなとも挨拶
      • 階段踊り場、真由→久美子に入部してもいいか?確認
        • 「久美子ちゃんは嫌じゃない?やるならユーフォがいいんだけど」「迷惑だったらすぐ言ってね。私はいつでも辞めてかまわないから」「だって嫌じゃない、私のせいで誰かが楽器変わったりコンクールに出られなくなったりしたら」「私みんなと楽しく演奏したいから」
      • 奏真由面談
        • 「私合奏が好きだから」「小学校の頃はママって呼ばれてました」
      • 体育館サンフェス練習
        • 「(清良のジャージ)ズボラとも言う」「なんだか羨ましいな、久美子ちゃんと奏ちゃんの関係って」「私もそんんな風に仲良くなれればいいのに」「じゃあ、真由先輩って呼んで」
  • 第3話
    • サンフェス衣装合わせ
      • シャツが小さいので交換してもらう、緑輝が真由を動物に例えるとクラゲ。
    • サリー学校休みお見舞い
      • 「たかが部活なんだし」「あれ?私変なこと言った?」「私たまにこういうところあって、気にしないで」
  • 第4話
    • サンフェス当日
      • 弥生の衣装を裁縫で修理する
  • 第5話
    • 府大会オーディション説明
      • 音楽室
        • 「そのオーディションて、私もやるんですか?」
      • 低音パート練習
        • 「嫌っていうか、辞退できないのかな」「だって私も出る事になったら一枠埋まるわけでしょ?北宇治で長くやっている人が優先で出るべきだと思うんだよね」「まさか、でも清良では1年からいたし、頑張ったらみんな喜んでくれたし」 「それは、いっしょだよ北宇治でも」「本当に?」
      • 久美子パーソナルスペース(校舎の個人練縄張り)
        • 真由が久美子をあがた祭りを誘い、久美子が嘘をついて断る
        • 「ごめん、びっくりさせちゃった」「ごめんね、個人練習できそうな場所がなかなかなくて」「それより、ひとつ聞きたいんだけど……(溜め)、あがた祭りって何?」「久美子ちゃんは誰かといく約束とかしてるの?もし良かった一緒に行かない?」「ダメ…かな」「ごめん、ちょっと他の子と先約があって…」「そっか」「ごめんね、今度みんなで遊びに行こうよ、葉月ちゃんたちも一緒に誘って」「うん」
      • 久美子モノローグ
        • 「嘘をついてしまった」
      • 真由がトランペットパートで久美子とソリを合奏
    • あがた祭り
      • みんなの写真を撮る
        • 葉月、緑輝、美鈴、さつき、すずめ、弥生、佳穂、つばめ、真由
        • 秀一、ちかお、求、タイル、卓
      • ひとりで帰宅中に舞い上がる松明の火の粉の写真を撮る(火の粉は久美子と麗奈が遠ざかって行くイメージ)
  • 第6話
    • 低音パート練習(ここで真由が北宇治夏制服にチェンジ)
      • 真由、あがた祭り、修学旅行の写真を持参して見せる。真由の写真はない。自分が写真を撮られるのは好きじゃない。
      • 奏の発言に、真由「敵?」
      • 真由、またもや辞退発言
        • 「やっぱり、私辞退した方がいいんじゃないかな」「だって、ユーフォって2人くらいでしょ、ソリだってあるし、もし私が選ばれて、誰かが外れる事になったら申し訳ないというか」「そうかな、前にも言った通りだよ、北宇治でずっと吹いてきた人が押しのけて、私が吹くのは申し訳ないって意味だけど」「反対ではないけど、私が選ばれて喜ぶ人なんて本当にいるのかな」「いるよ」「誰?」「部員全員」「ごめん、久美子ちゃん部長だもんね」「部長は関係ない!ごめん」
    • 府大会オーディション
      • 順番待ち真由と久美子
        • 「何人選ばれるんだろうね、ユーフォ」「滝先生がどう判断するかだから」「だよね」
      • 真由の演奏はいつもどおり。久美子は演奏前に気合が入る。
    • 府大会オーディション発表
      • ユーフォは久美子、真由、奏がメンバー
        • 「ほんと良かった、私と久美子ちゃんの二人だけだったら、どうしようと思ったもん」「違うよ。ただ、この編成だとユーフォは2人くらいかなって思ってたから」
    • 久美子パーソナルスペース
      • 久美子の「響け!ユーフォニアム」演奏につられて真由が来る
        • 「ただ、素敵なユーフォの音が聴こえたから、久美子ちゃんかなーっと思って。何の曲。今吹いてた曲」「教えるほどじゃないというか、気まぐれで吹いてただけというか」「もしかして、久美子ちゃん作曲」「まさか。人から教えてもらった曲だよ」「そうなんだ、先輩?」「(久美子、困り顔で)まぁ」「あ、ごめん。邪魔だったよね。私も練習してくる」
      • 久美子モノローグ
        • 「なぜか言いたくなかった。自分の事を知られることに抵抗があった。特に…」
  • 第7話
    • 関西大会にむけての説明会のあと
      • 先日のこともあり真由に声をかける久美子。後輩に声をかけられ、結局、真由と会話できず。
    • 真由をプールに誘う久美子。真由はOK。
    • プールの木陰で久美子から真由に話しかける
      • 「水着おそろいでしょ、上下交換とかしていいな仲良くて」「真由ちゃんだってつばめちゃんと仲良しでしょ」「流石、部長さん、そんな事まで知ってるんだ」「いやいや、クラスでも見てるし、近くにすずめちゃんもいるし」「まぁ、そっか。元気あっていいよねすずめちゃん。誰とでもすぐ話して仲良くなれて」「真由ちゃんもそうじゃない?」「そんなことないよ」「じゃあ、どうなの」「どうなんだろ」
      • 「下級生もみんな真由ちゃんの事、大好きだーって言ってるよ、話しやすいし優しいし、ちゃんと教えてくれるし」「それは、そうした方がみんなが喜こんでくれるから」「ホントはしたくないってこと?」「どうなんだろ」「私ね、普通の人より自分が無いと思うんだ。好きとか嫌いとかあんまりなくて、たいていの事はどっちでもいいってゆーか
      • 黒江真由は中学の時の私(久美子)を思い出させる
      • 「私リズって欲張りだなぁ、って思っちゃうの。一緒に過ごしていた動物はたくさんいるのに、どうして青い鳥だけに固執するんだろうって」「でも、それって普通の人の見方じゃないんだろうなぁ、とも思う。普通の人はあんな風に何かに固執するんだよ。 久美子ちゃんだってそうでしょ。あの人が好き、こういうのが嫌いとか」「でも、それが無いと普通じゃない、ってのは極端じゃない?」「そうだね、でも私思うの。そういうのが全くない人の事を本気で好きになることは絶対にないって。だって私がそうだから
    • プールから帰る前
      • 久美子モノローグ
        • 「誰とでも上手に話せる、誰も悪く思わない。でも、それってなんか…」
      • 真由に集合写真に入れさせる久美子
    • 盆休み明け初日
      • 練習前にプールの写真を見せる。最後の集合写真のプリントはない。
        • 「久美子ちゃんは何で私を誘ってくれたんだろう。私と何か話したいことがあるのかなって、ずっと思ってて」「真由ちゃん、あのね」「オーディションはちゃんと吹くから心配しないで。久美子ちゃんはオーディションで一番上手い人が選ばれて、それで北宇治が最高の演奏をして金賞を取りたいんだよね。 それは分っているから」

おわりに

ユーフォ3期7話で、それまで原作小説から大きく逸脱していなかった黒江真由のキャラクターに対して、一気にアニオリ解釈を出してきたことで、原作既読勢の頭に混乱が生じているように、SNSを観測して感じた。

私も原作小説の黒江真由解釈をかなりカッチリ持っていたので、7話で軽いパニックになり次の月曜日も仕事に身が入らなかったくらいである。

言ってみれば、前半は安心させといて、後半の一球目で、超変化球を投げてきた京アニスタッフの剛腕ぶりというか、全て掌で転がされている感というか、こちらの闘争心が剥き出しになって本気モードになるというか。まぁ、いろいろと揺さぶられたことは間違いないです。

原作小説とここが違うとか、原作小説のここがいい、という話は思わなくもないですが、まだ完結していない作品でそれを書いてしまうと、京アニに失礼ではないかと思いますし、出来る限りアニメから得られた情報を元に今回のブログは書いたつもりです。

まずは、全力投球でくるユーフォ3期を全身全霊で見届けようと思います。

2024年冬期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2024年冬期のアニメ感想総括です。今期の視聴は下記の5本と少な目でした。

前回はフリーレンと薬屋の2強と書きましたが、個人的に今期はフリーレンの独走だったと言ってもイイと思うほど、フリーレンが突き抜けていた、というのが率直な感想でした。他の作品は相対的に分が悪かった。

感想・考察

葬送のフリーレン(2クール目)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 長寿フリーレンならではの「魔法と人間」「人間の時代」を捉えたスケールの大きなテーマ
    • 緩急自在で上品さとキレのある演出と、毎話の切れ目とその後の反転が絶妙なシリーズ構成
  • cons
    • 特になし

フリーレン全体の作風については、2023年秋期にて1クール目の感想を書いているので、よければこちらもご参照ください。

1クール目は、勇者ヒンメルの死をきっかけに弟子のフェルンとシュタルクを引き連れ人間を知る旅をする、という体裁のロードムービーだったが、2クール目は少し物語のテイストを変えてきた。

北方を旅するのに必要な一級魔法使いの資格を取得するため、フリーレンとフェルンが試験を受験することになるが、合格者ゼロとか死者が出るとか、色々物騒な雰囲気を漂わせていた。魔法使いキャラも大勢登場し、さしずめ天下一武闘会でも始まるのかと思ったら、あながち間違ってはいなかった。

2クール目のテーマは、ずばり「魔法と人間」である。

というわけで、まずは本作における「魔法」について整理してゆきたい。

前から魔法=科学技術のイメージを持っていたが、2クール目でもそれは変わらない。大昔から存在する魔法を魔族やエルフなどが培ってきた。

千年前、フランメは花を咲かせる魔法が好きだと言っていた。孤児のフリーレンを弟子にしたのもエルフの集落が魔族に襲われて全滅したからである。魔族の魔法は当時から攻撃用に使われていた。そして、フランメは宮廷魔法使いとなり人類の魔法利用促進に貢献した。

80年前に勇者一行が倒した魔族は、ゾルトラーク(=人を殺す魔法)を使い猛威を振るっていた。しかし、この80年の間にゾルトラークは一般攻撃魔法と呼ばれるほど人間の魔法使いに定着し、これに対する万全の防御魔法も人間に開発されていた。人類の魔法に対する適応力の高さが伺われる。

ゾルトラークに限らず魔法による攻撃は魔力として感じる事ができるので、それを感知して防御魔法を発動し防ぐ。防御魔法で自分の周囲全体を覆うことも可能だが、防御魔法は魔力消費が著しいため攻撃ポイントをスポット的に防御するのが教科書通りのやり方である。攻撃側は攻撃が速ければ速いほど防御の準備をする余裕がなくなるため、エネルギー量だけでなく、連打性や手数の多さが攻撃の強さになる。防御側は魔力探知をし続ける事で奇襲に備える。この流れの中で、攻撃も防御もスピードが求められるが、この撃ち合いはカンフー映画の組手を連想させる。フェルンの戦い方はすでにファンネルが飛び交いながらビームを撃つニュータイプ戦である。

これを応用してゆくと、相手が防御できない隙を狙って攻撃するという発想が出てくる。防御側で行う魔力探知も魔法であるから、攻撃側はその魔力探知を探知していれば、隙の有無は分る。複製体フリーレンのこのタイミングを狙うというのが25話での作戦である。

ちなみに、速さだけならフリーレンよりフェルンの方が速い。フリーレンがフェルンに特訓していたのは、魔力抑制と基礎鍛錬の2点だが、このストイックなまでの魔法スタイルが、のちの一級魔法使い選抜試験にも役立つ。

また、魔力エネルギーを直接ぶつけるよりも、近くにある物体に魔力を作用させて攻撃するスタイルが、人間の魔法使いの中で流行りだしたりする。カンネの水、ラヴィーネの氷、リヒターの大地みたいな魔法の使い方である。魔族は魔力というステータスに生きているため、こういう小技を磨く方向には行かないのだろう。ここは人間の知恵と捉えてよいのだろう。

魔法というのは何かとご都合的に扱われる事が多いと思うが、正直、ここまで魔力による戦闘の設定を詰めてくると、もはやSF考証的な精密さを感じる。こうした考証がハッキリしている事で現実には存在しない魔法の説得力が格段にアップする。これも作者の執念か何かなのか。

また、魔法の設定でおもしろいのは、魔法はイメージであり、イメージできない事は魔法でもできない、という根源的なルール。この設定は魔力の格付けを綿密に描いてきた本作の中にあっても例外的に感じるが、イメージを超えた魔法を許してしまったら作劇上収集がつかなくなるという背景があるのかもしれない。

劇中では逆に、強固なイメージがあれば相手の強力な防御魔法を打ち抜く、というのをやっていた。複製体ゼンゼをユーベルが倒したエピソードである。これは作劇的には面白いが、個人的にはなんとなく腑に落ちていない。1つあるとすれば、3年前にゼンゼの深層心理に恐怖を植え付けた時点で勝負はついていたというモノだが、複製体はオリジナルの気持ちはコピーしないという設定もあり、これも私の中で辻褄は合っていない。もっとも、この設定はもう少し擦られてゆく可能性があり、それまでの価値観の否定(=パラダイムシフト)になりかねない設定である。ただ、この辺りはいろいろと妄想でしかない。

次に人間について

2クール目の一級魔法使い選抜試験は、結果的にゼーリエとフリーレンの二人のエルフが人間たちを試す、という物語になっていたと思う。ゼーリエはストレートにその意味だが、フリーレンもまた、作劇的には同じ立ち位置に居た、というのが私の見立てである。

ゼーリエの「フリーレンを倒すのは、魔王か人間の魔法使い」「鍛錬を怠るな」という台詞。24話ではフリーレンとタッグを組んだフェルンが複製体フリーレンを惜しくも仕留め損なう。しかし、直前の作戦会議で(複製体の)フリーレンを倒せるかもしれないと発言するフェルンを見て、フリーレンは笑顔を見せた。これはフリーレンが弟子のフェルンの成長を喜ぶと同時に、人類の成長の可能性についても喜んでいたのであろう。

ゼーリエは50年前に大陸魔法協会を設立して優秀な人間の魔法使いの側近を従えている。千年前には人間に感心は無かったが、最近人間に興味を抱いたからこその変化であろう。口ではレルネンたち側近に辛辣な言葉を投げたりするが、弟子にした人間たちの好きな魔法は覚えているという。これは、ゼーリエほどの高みにいる孤独の中で、稚拙な人間を敵や害悪と考えずに、観察するのに興味深い対象として見ているからに他ならない。それは、「人間の時代」という言葉の通り、時代の変化、時代の風を楽しく感じているのだろう。

そして、一級魔法使い選抜試験の内容を順番に思い出して欲しい。受験者は老若男女の様々な魔法使いの人間たち。一次試験はチームに分かれて略奪、殺戮ありのハードな課題だった。しかし、二次試験は足を引っ張り合うメリットの無い迷宮ダンジョンのクリアである。そして、三次試験はゼーリエとの面談である。

この流れは人間社会の進化の願望に重ねることができる。つまり、昔は人種性別世代さまざまな人間が集まれば略奪や殺戮が行われた。そうした時代から、共同体の枠組みを壊して様々な人たちが協力し合いながら一つの目的を持って行動するという、理想的な平和な世界の提示である。そして、三次試験の合格者たちはみな、魔法(=ゼーリエ)に対する恐怖の感情に負けていないか、好奇心を抱いている者たちである。つまり、未来を向いている。ここまで来ると計算しつくされたストーリー構成である事に唸るしかない。こうした綿密な設計の積み重ねが、本作の心地よさの土台にある。

それにしても、フェルンが複製体フリーレンのとどめを刺すと見せかけた25話と、実はまだフリーレンは奥の手隠してましたでひっくり返る26話の話の区切りと展開が素晴らしい。魔王を倒したフリーレンがそこまで簡単に倒されるハズもなくというフリーレンの貫禄を感じられたし、話としての盛り上げ方が上手い。似た感じで27話はゼーリエはまだまだ人間は未熟で不合格者続出という空気を作りつつ、唯一フェルンだけが合格。しかし、続く28話では逆に合格者続出で、実はゼーリエもまたフリーレン同様に人間に興味を持ってました、と繋ぐのも、話の区切りと反転という意味では同様である。これを下手な作劇でやられると冷めてしまうものだが、不思議と見た後にお見事と言ってしまうのは、やはり見せ方の上手さだろう。本作のシリーズ構成・全話脚本は鈴木智尋だが、非情に丁寧な仕事に唸る。

それから、ゼーリエについて少し語っておきたいと思う。

ゼーリエの直感はだいたい正しい。そして、ゼーリエは賢くて強くて権力もあり、周囲の者を力でひれ伏せさせている。部下のレルネンに圧をかけることでフリーレンとの無益な殺生に発展する可能性もあった。ここまで書いて、私は昔職場に居たパワハラ部長を連想していた。こうした人間は「お前のためを思って」的な正義の枕詞でパワハラをするが、イジメと同じ快楽に溺れているというのがパワハラの本質だと思う。27話までは少なくとも私はそう解釈していた。

しかし、こんなゼーリエも実は人間に興味があり、死んでいった者も含めて弟子の事を少なからず好きであったというニュアンスを最終話の28話で見せる。これで、孤独だったゼーリエもまた不器用だけど愛のあるキャラとして肯定される。最後の最後に情報開示で反転させる流れの上手さは前述の通り。本作がゼーリエも救うところにキャラに対する愛が深さを感じた(反面、魔族の徹底した心無い悪役扱いも、これはこれで痺れる)。

最後になってしまったが、フリーレンについて。

フリーレンの最深層には魔力チートな最強フリーレンが存在し、その強大な力を抑制して穏やかな日常を過ごす表層のフリーレンが存在する。魔力抑制は、戦う相手に応じてパーシャルに抑制度合いを変化させる事が出来るのではないかと想像する。その意味で、本当に魔力開放したときの本気はまだ描かれていないのだろう。必要な時に爆発させるのではなく、必要な時はリストバンドの錘を外す、という感覚なのだろう。普段の方が鍛錬がキツイという設定は面白い。

フリーレンは強大な力を秘めていながら、権力や威厳には心底執着がない。そこが、ゼーリエとの最大の違いに感じる。フランメは魔法を普及させるために国家という権力におもねる面はあった。しかし、フリーレンには縛りがなく自由。自由というのは他人との繋がりもなかった。しかし、ヒンメルたちとの10年の冒険があり、今はフェルンとシュタルクと一緒に旅をしている。そこで、他人であるフェルンとシュタルクの面倒を見る事になる。ヒンメルたちとの10年の冒険ではフリーレンはまだ他人を世話していなかった。それが、この80年のフリーレンの変化であろう。

フリーレンは他人と接する際に、完全には分からない事がある前提で接してゆく。相手を否定することなく尊重する。この辺りもゼーリエとの違いであるが、世界に対して寛容であるとも言える。ザインはよっぽど他人の気持ちが読めるが、その辺りフリーレンは不器用だし、サイエンティストのような感覚も受ける。人生の尺が人間と違うから、人間の100年の変化のうねりが、フリーレンには目の前で起きた事のように客観的に把握できる。そう考えると、2クール目のテーマというのは、まさに長寿のフリーレンなら自然にそう感じるのではないか、と思えるジャストミートなテーマに思えてくる。その考えに至った原作者の発想の鋭さには驚くしかない。

色々書いてきたが、フリーレンは濃すぎずサッパリした絵柄、メリハリの効いた静と動の描写の気持ち良さ。何気に日常生活で本気を見せる芝居と動き。無駄の無い音楽。そういう様々な要素が心地よくチューニングされた作品だと思う。アニメーションとしてジブリ的にぐりぐり動かしておけばいいんだよ、というのに対抗できる上品さがあった。そして、人間ドラマの方も、誰もが言いたいことを思い通りに言っていいわけじゃないし、相手の気持ちに少しづつ寄り添うように少しづつ少しづつ距離を縮めて相手をゆっくり理解してゆく。でも、ゆっくりなだけで、それは確実に進んでいるという心地よさを味わえた。問題発生→解決という短絡的な話ではなく、情緒のある物語。それ自体が、効率化を極める現代では少なくなっていた気がした。

そういう意味で、懐かしくも、のんびり心地よい作風が、今の人たちにも染みたのだと思う。

薬屋のひとりごと(2クール目)

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 羅漢(モリアーティ教授役)という味のある悪役の登場により、羅漢vs猫猫の宿命の対決の分かりやすい構図が見えてきて面白くなってきた
    • 推理モノとして、適切で分かりやすい演出と、最後に収斂して盛り上がる伏線回収の話運び
  • cons
    • 美点と表裏一体ではあるが、気を抜くと分からなくなるほど複雑な設定

前期に1クール目の感想・考察も書いていますので、よければこちらも読んでみてください。

主要キャラが魅力的に描かれており、キャラ物としての強さが本作の強みなのは間違いない。猫猫の自らの出生や両親に対してもドライなくらい達観したところがある反面、毒物薬物に目がなく、突然3頭身キャラになり可愛さを振りまく。一見クールな壬氏の猫猫への片想いラブコメ要素の楽しさもある。この可愛さ楽しさで、横溝正史ばりの推理小説の毒々しさを中和するのが、令和時代のテイストなのだろう。

前期の1クール目の感想では、猫猫がホームズ役で壬氏がワトソン役と書いたが、2クール目の主役とも言える羅漢はモリアーティ教授役だった。羅漢と猫猫は血のつながった親子でありながら、一般的な親子の愛情の繋がりはなく、互いに敵でありライバルであり、といったニュアンスをはらんでいた。猫猫は羅漢の自覚無き策士としての才能に嫉妬し、羅漢は猫猫に馴れ馴れしくする壬氏を疎ましく思いつつも、猫猫に優しくする事無く距離を置いて接する。1クール目から続く陰謀のゲームを陰で駒を操って楽しむ。しかも、そのやり方は巧妙で尻尾を掴ませるような事はない。この猫猫と羅漢の対決の構図を提示した時点で、今後も続くシリーズものとしての骨太さを感じさせる。この辺りが本作の強みであろうし、すでに2期制作も発表されている。

肝心の推理モノとしての感触だが、個々のエピソードは比較的シンプル。中国歴史モノ風な舞台ゆえに、トリックもまた古典的であり、見ていて分かりやすいという面もあるだろう。そして、それらのエピソードが重層的に一点に収斂して繋がる怒涛の伏線回収は見事。このあたりの緻密さは、原作小説の出来の良さなのだろう。

反面、本作のドラマ自体に繊細さはあまりない。推理モノにありがちなトリック優先のために、極端な強感情で物語を強引に進めてゆく感覚である。しかしながら、ここもまた時代劇という味付けに救われているように思う。

たとえば、24話の羅漢と鳳仙のエピソードはドラマとしては推理モノ故の極端な感情であったと思う。羅漢が他人に無関心すぎるとか、頭脳が良すぎるとか、ゲームで対等の相手だけを好きになったとか、感情のロジックとしてはそうなのだろうと想像はできるが、ちょっと常人の域は超えている。鳳仙の方も羅漢が好きになったのはいいが、落ちぶれたあと、疎遠になった羅漢の気を引くために自分の娘の小指を切り落とし郵送するなど、メンタルが壊れてしまった狂人である。この手の狂気を丁寧に描くことが本作の肝ではないため、このあたりは読後感も考慮して記号的に描かれる。これもまた、推理モノとしての文法であろう。

それにしても、SNSで観測した感じでは羅漢には鳳仙が美人に見えて身受けした流れで、美しい、泣けたという感想が多かったように思う。しかし、私はある種のグロテスクさの方を強く感じた。羅漢についてはもっと早期の段階で鳳仙を何とかすべきだったし、鳳仙については今回の件で内面がまったく描かれていないため本人が喜んでいるのか、怒り心頭なのか、もう何も感じないほどに壊れてしまったか、そういう事はすべて視聴者の想像に委ねている。原作者の中ではこの辺りの正解もあるのだろうが、それを描いても物語にプラスにならないから、オミットしたということであろう。

ちなみに、この件に対する猫猫の反応だが、身受け相手は鳳仙ではなく梅梅を選んでもらいたかった、という台詞はドライすぎる本心だと思えた。しかし、城壁で一人で身受けの送り出しの舞を踊るシーンでは挿入歌の歌詞の内容も相まって二人を祝福するような、ある意味皮肉な演出になっている。この辺りの演出は、猫猫のドライすぎる印象を和らげる効果があったと思うし、美しくも複雑な味わいを出していた本作の美点の好例であろう。

それにしても、薬物中毒の猫猫の自分の身の上に対してまでも超ドライな感覚、悪役としての羅漢の異様さ、壬氏の女子にモテモテの美形なのに謎に猫猫に片想いすぎるところ。これ全部、シャーロックホームズのキャラに置き換えるとシックリくるので、その意味では古典の引用へのリスペクトと言えるかもしれない。にしても、猫猫と羅漢が実は親子関係というのも設定としてはおもしろい。これを下敷きにして三頭身キャラなどで推理モノのストレスを軽減させる作風が、本作の新しさだったのではないかと思う。

ダンジョン飯(1クール目)

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 練りに練られた感のある世界観や数々の設定に唸らされる
    • 2Dアニメの魅力たっぷりで、表情やポーズの表現が豊かなアニメーションの芝居
    • キャラが立っている(特にマルシル)
    • 全体的に綺麗ごとじゃなくてザラ付いた感じのする文芸
  • cons
    • 特になし

原作漫画の九井諒子先生は、このアニメで存在をはじめて知った。漫画家というよりイラストレーターという趣の絵である。緻密で生き生きとしたタッチで人物や小物や建物や風景を描く。それも、ただ画力があるというよりも、カメラの角度や人物のポーズのバリエーションが多いし、描かれるものすべてにおいて設定・考証が検討しつくされている雰囲気で隙がない。例えて言うなら鳥山明先生や、士郎正宗先生の密度感である。

こんな原作をアニメ化すると絵の勢いが消えてしまうのがオチだが、本作はそこに力を入れており、実際のところキャラの描写はそのタッチも芝居も他のアニメ作品と比べて一段も二段もレベルが高い。個人的には最近のTRIGGER作品はなんとなくあざとさを感じていて敬遠気味だったのだが、本作では色んな意味で作品世界を大切にした絵柄で、一皮むけた感じである。3DCGアニメの人気作も珍しくない時代に、この2D手描き作画の味わいは、非常に魅力的である。

監督は宮島善博、シリーズ構成はうえのきみこ、脚本はうえのきみこ、樋口七海、佐藤裕の3人体制。

本作は地下ダンジョンに挑むパーティーが、倒した魔物などを食して冒険を進めるという、一風変わった切り口である。アニメの料理作画のクオリティはここ10年でかなり向上したと思うが、本作でもご多幸に漏れず飯が美味そうに描かれる。ただ、食材が地下迷宮の魔物だったりするので、ある種のゲテモノ食いにはなるのだが、作画的には至極真っ当なごちそうになるところがおもしろい。

冒険者たちが長期間におよぶ冒険の途中で、何をどう食べているのかという素朴な疑問に真っ向から応えてゆくスタイルは、すでにSFと言ってもいいだろう。食材を地下ダンジョン内の魔物などで補うだけでも着目点が鋭いが、その延長線上で魔物たちも弱肉強食の食物連鎖があり、というところまでエコシステムを考えてゆくところがおもしろい。そして、時には冒険者たちも魔物たちの食材となるというシビアさである。この辺りの設定の練り方=世界観の作り方がやはり上手い。

その逆に、物語の軸はシンプルで、下層部で冒険中に炎龍の餌食になったかもしれないファリンを救出すべく、兄の勇者ライオス、鍵師のチルチャック、エルフで魔法使いのマルシル、途中で加わったドワーフのセンシの4人組が地下ダンジョンを冒険する。だが、どのキャラも味わい深い個性を持っており存在感が強く、キャラの楽しさだけで見てゆける作風である。どのキャラも自分を持った大人であり、人間関係も温すぎず熱すぎずで心地よい。

個人的にはやはりマルシルのキャラが冴えていて好みである。色気少な目の残念美少女のポジションだが、萌えキャラ的なあざとさがなく必死さや真面目さが滲み出てきて、推しではなくキャラを好きになる。いや、もっと言えばセンシもチルチャックも、自分とは全然違うタイプだが、他人として尊重したくなるタイプのサブキャラだと思う。

テーマも勧善懲悪や正義の押し売りではないところが大人風である。ダンジョン内での先頭も作戦通りに進まなかったり、急に登場する敵に対してとっさに無茶な行動で偶然仕留めるなど、非スマートな泥臭くザラついた作風である。しかも、一度炎龍に食われて骨しか残っていなかったファリンを黒魔術で蘇生させるなど、かなり趣味が悪くて何でもありかい!という感じもするが、不思議と野暮なツッコミを入れる気にならない設定としての説得力がある。この辺りは、原作譲りの美点なのだろう。

総じて、肩に力を入れない感じで、適度にハラハラしつつ、設定や世界観をよく考えてるなと感心して楽しく見ていた。食べ物で言えば、きちんと作られた上質なハンバーガー、という感じの良作に思う。

メタリックルージュ

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • ノスタルジーさえ感じる、由緒正しい古典的SFテイスト
    • 主人公のルジュが可愛かった
  • cons
    • 良く出来てはいるが突き抜けた感なし、と感じてしまったこと

SF変身ヒーローをベースにした女性バディ物。古典的SFオマージュ多めのノスタルジーあるテイストが特徴。

総監督の出渕裕と制作のBONESが原作のオリジナルアニメ。このタッグはラーゼフォンの再来である。シリーズ構成は出渕裕、 根本歳三の両名。キャラデザ、総作画監督川元利浩

ベースは「ブレードランナー」で、ネアンと呼ばれる奴隷扱いの人造人間がいる未来世界。設定は古典SFで観たようなものばかり。アジモフコードにより人類に反抗できないネアン。しかし、インモータルナインと呼ばれる一部の初期型のネアンは自由を求めて人類に反旗を翻そうとする。それを阻止する形で登場する主人公のルジュとナオミだが、精神年齢10歳のルジュもまた、ネアンでありながら自由意思でネアンと人間の自由を保障しようと考えて行動するようになる。といった感じの作品である。

ネアンという超技術を実現させたのは地球人に友好的な宇宙人の「来訪者」の技術だが、その後の地球人に好戦的な宇宙人の「簒奪者」とのパワーバランスの設定もあり、世界観のスケールは大きい。実は「来訪者」は移住のために地球人に作らせたネアンを労働力として金星テラフォーミングを計画しており、「簒奪者」はネアンの制御を横取りして金星を強奪するという背景らしいが、そちらは裏設定程度にしか触れられない。

本作は、ネアン同士の肉弾戦のアクションも多いが、それらは3DCGではなく2D手描き作画との事。もちろん、メカには3DCGも使っており、アクションシーンはカッコいい。1話を見たときは洋画っぽいであり、ブレードランナーを連想させる色彩設計や歌手のサラの雰囲気や会話劇も大人っぽいと感じた。ただ、この辺りの洒落た雰囲気作りは、徐々に尻すぼみになっていく。

ルジュ(CV宮本侑芽)とナオミ(CV黒沢ともよ)のバディのかけ合いは本作のウリの一つであろう。個人的にルジュは非常に好きなキャラである。見た目が17歳、精神年齢が10歳というところで自我を形成してゆく物語からくる必然性もあったし、シンプルに擦れてない可愛さを感じられた。ナオミも軽口ながら頼れるバックアップ役で、ナオミ自身もルジュと同様に自分が何に生きるのかというテーマもあったと思う。二人が時には喧嘩をしながらも本音でぶつかってゆく、というのがドラマの見せ場である。

とまぁ、アウトラインとしてはこんなところであるが、本作を観終えての率直な感想は、いろいろとパンチ力不足だった、である。

肝であるネアンの自由だが、ネアンが完全な機械なら種として認める必要はないだろうし、種として認めるなら倫理的な判断が必要になる。ただ、ネアンに自由を与えてしまうと人類が駆逐されかねないため、アジモフコードという仕組みで人間に服従させた。ネアン誕生の背後には来訪者の思惑が絡んでいるというのも、よく練られていると思う。しかし、ネアン⇔人間の違い(子孫の作り方、成長するしない、寿命)の違いが不明確なまま(一部隠ぺいされたまま)話が進行する上に、最後はネアンにウィルスを送り込み暴走させるくだりもあった。そうしたディレクションもあり、機械か新種の人類なのかは最後までスッキリと見れなかった。

ラストはルジュはコードイブを発動させ全ネアンのアジモフコードを解除する。この革命により世界が混沌に落ちるか、人間とネアンの平和的共存が実現するか。その先は描かず視聴者の想像にお任せするスタイルである。言葉通り一心同体となったルジュとナオミは、簒奪者との戦争に身を投じて地球を守るが、物語はそこで〆る。好き嫌いはあるだろうが、この辺りの結論無き〆方は割と好きではある。

しかし、これが重要なのだが、作劇的にもテンポ感やドラマの盛り上げ不足に感じた。言ってみれば、新海誠作品のような脚本や演出のゴリゴリの勢いがない。特にキャラの感情に視聴者が着いてゆけるだけの爆薬と燃料が不足している。

一事が万事、出来は悪くないが突き抜けてない、という雰囲気に終始していたと感じてしまったことは率直に残念であった。

最後になってしまったが、DAZBEEさんのED曲の「Scarlet」は映像も含めて素直にセンスが良くてカッコいいと思った。

勇気爆発バーンブレイバーン

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 唯一無二の、リアルロボと勇者ロボのクレイジーな融合(良くも悪くも)
    • 子供向け番組を大人の視点で茶化す部分も多いが、シリアスでは泣かせにもくる実力派の演出
  • cons
    • 個人的には、最後は茶化しではなく、シリアスで〆て欲しかった

原作はCygamesでプロデューサーは竹中信広とくれば、ゾンサガやアキバ冥途戦争などのイカれた設定ながら、濃厚なドラマで魅せる作品が多い印象である。これまでゾンビ×アイドル、メイド×任侠モノと来て、今度はリアルロボ×勇者ロボという組み合わせである。

制作はCygamesPicture。監督はロボの代名詞とも言える大張正己。今回は主役メカデザインと音響監督も兼ねており気合たっぷりである。シリーズ構成は軍事考証も兼ねる小柳啓伍

さて、1話は完璧なリアルロボとしてスタート。各国から集結した人型起動兵器の合同演習模擬もなかなかカッコいい。しかし、後半で宇宙人の侵略になすすべもなく蹂躙されてゆく地球側の描写はストレスフル。ここで突如、喋るヒーローロボのブレイバーンが空から降ってきて、イサミを搭乗させて大暴れ。必殺技を大声で叫びながら、巨大な剣を振り回し、敵のザコメカと塔(=母艦)を撃破する。地球の兵器では手も足もでない相手を、未知の力でなぎ倒してゆく流れは、かなり爽快感があった。これまでの勇者ロボの文法を、そのままアニメでやってカッコいいと感じさせるのは、演出のセンスの良さであろう。

しかし、2話では人の話をまったく聞かないブレイバーンの気持ち悪さと、コックピット内で全裸ヘタレになるイサミのギャップで脳がバグる。とにもかくにも、ブレイバーンの歪んだ口元がキャラのキモさを爆発させる。1話で決まった勇者文法は、2話では子供番組を大人が茶化しながら笑いに昇華する、おふざけモードを明確に打ち出す。これは、子供向け特撮番組を見ながらお約束を楽しむ大人、という構図である。

この時点で、文芸面に2つのディレクションの可能性が考えられた。1つは、純粋に友情・勇気・信頼をシリアスに描く人間ドラマ。もう1つは子供向け番組のお約束を大人視点で茶化しながら笑うコメディ。視聴者は、まずここで脳がバグる。

普通に考えれば、勇者ロボの化身とも言える大張監督自身がそんな茶化しをするのだろうか?という疑問もあったし、ゾンサガもアキバ冥途戦争もギャグを入れつつ軸はシリアスだった。なので、私は、軸はシリアスに決めてくれるのだろうという期待値で視聴していたが、それは間違いだったことは最終話で明確になる。

最終回の12話。一度はすべてを失い卑屈になったイサミだったが、ブレイバーンの中で亡くなったはずのスミスと一体化してブレイバーンは黄金化、そして大型ロボに合体変形してゆく。ルルも裸になってスペルビアも黄金化してブレイバーンの刃となり、残存ATFの全軍と共にラスボスを倒す、というお約束全部載せの形で〆る。テーマとしては「みんなの勇気を一つに重ねて強敵を倒す」という熱血にはなるが、悪ふざけ>>>シリアスという比率である。つまり、シリアスをスパイスにしつつも軸は子供向け番組を大人が茶化す。この茶化しは、ED曲の映像に代表されるBLっぽさや、主人公イサミのヘタレ⇔ヒーローのギャップにも当てはまる。

なお、本作の映像のクオリティは高い。勇者ロボ文法のレイアウトで描かれて爽快感のあるアクションシーン、リアルロボのディティールのカッコ良さ。音響面では硬質感あるSEも映像の爽快感にプラスになっていた。そして、地球側の軍事力の無力さ、敵のデスドライヴスの絶望的で圧倒的強さ、それを凌駕してゆくブレイバーンの強さを、説得力ある演出で見せつける。また、人間ドラマもしっかり目の演出で描けており、たとえばイサミとスミスがボクシングで気持ちを交え合う話はシリアス寄りの良エピソードだったと思うし、大人ルルの意識が過去のルルに戻りスペルビアと一体化するシーンは盛大に茶化しつつもルルの思いに自然と泣けてきた。こうしたバトルシーンや激情のドラマを説得力を持って映像で伝えてくるのは事実であり、スタッフの力量の高さが伺える。

おそらく、本作のメインディッシュは勇者ロボの勢いあるカッコ良さではあるが、それ以外の情報は料理を飽きさせないためのサイドディッシュだったのではないかと思う。つまり、最初から勇者ロボ100%の子供向け番組路線で行くと、大人の視聴者は付いてこない。シリアス、子供向け番組に対する大人目線のおちょくり、BL風味、やけに可愛い女子キャラなどを融合する事で、大人を飽きさせずに引き留めるテクだったと考えられる。その結果、私の脳はバグり、これは一体何なんだと混乱しつつ、作品の「狂気」に引き付けられてしまう。この辺りのさじ加減はお見事だったと言うしかない。

しかしながら、私自身はこのノリと勢いを楽しんでおきながら、最終回の勝利のための繊細なドラマを放棄してしまったという意味で本作の文芸の評価は低い。イサミのヘタレからヒーローへのギャップは、ロジック不在のギャグに振っていたと思うが、こうした部分にシリアスなドラマがあって欲しかった、という思いがある。

とは言え、私のように肩ひじを張らずに、何も考えずに勇者ロボのノスタルジーと爽快感、ノリと勢いのギャグを楽しめればよいという視聴者にはハマるディレクションだったと思う。

兎にも角にも、本作は変化球中の変化球だったと思う。この一皿一皿の強烈な味付けの料理を並べたディナーを理性を持って真面目に造っていたことが最高に「狂気」だったのかもしれない。

おわりに

今期は、視聴完走本数が少なく、他にも見ておくべき作品はあったような気はするのですが、視聴スタイルがネトフリ寄りになっている事もあいまって、ネトフリに来てないと見にくい状況が発生していました。それに、「君の名は。」とか「すずめの戸締まり」とかが配信に入ってくると、ついそれらを見てしまったり。

その意味では、少数精鋭の作品を観たつもりではありましたが、意外と当初期待よりも右下がりな作品もやっぱりあって…、という感じでした。

そんな中でやっぱりフリーレンが頭二つ抜き出た感じで楽しめました。読むのが面倒なくらい長文のブログ感想文になっていますが、やっぱり見てて素直にドヤっ!という楽しさがありましたし、大満足でした。

薬屋は1クール目は大絶賛でしたが、やはり推理モノ故の人間の汚い面の掘り下げやら、ダークな本質がより目立った感覚で、フリーレンの染みる感じのドラマの心地よさに軍配が挙がったという感じです。なんか複雑すぎた。

今期の超絶変化球で剛速球はブレイバーンだと思います。色々書きましたが、やはりクセの強さと破壊力は一見の価値ありで、今の時期に見れて良かったとは思いました。

メタリックルージュは、古典的SF設定と、少し大人っぽさある1話の作風は率直に好みだったのですが、映像としての勢いある迫力(コクやキレ)が弱く、物語はあってもドラマに雑味あり、なんなら物語の〆も綿密さがないので、演出と文芸に不満アリ、という感じでした。

ダンジョン飯は、TRIGGERの新境地とも言える雰囲気もあり、難しすぎない物語で、気持ちの良い2D作画と、説得力ある設定・考証が持ち味の、楽しさが多い作品で楽しめました。引き続き2クール目も楽しみな作品です。

最近は次第にブログを書くのが遅くなっています。昔に比べて、作品を観る集中力が落ちたかな…。

2023年秋期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2023年秋期のアニメ感想総括です。今期の視聴は下記の9本。意外と多かった。

  • 葬送のフリーレン(1クール目)
  • 薬屋のひとりごと(1クール目)
  • 経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。
  • MFゴースト
  • オーバーテイク!
  • 16bitセンセーション ANOTHER LAYER
  • 新しい上司はど天然
  • 呪術廻戦(2期)
  • スパイファミリー(2期)

今期はフリーレンと薬屋の二強でした。この2作品は、2クールものでまだ最終回を迎えていませんが、クールの切れ目で前後編的に分けられる内容なので感想に加えています。

感想・考察

葬送のフリーレン(1クール目)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 敢えて行間を開け、侘しさを感じさせる、俳句のような大人の味わい
    • 時空を超えて交差する記憶と感情の、奥ゆかしさのあるエッセイのような作劇
    • 静と動の両方をキッチリ描ききるアニメーション
  • cons
    • 特になし

原作は少年サンデー連作中の漫画で、原作は山田鐘人、作画はアベツカサ。アニメ制作はマッドハウス。監督はぼざろの斎藤圭一郎。シリーズ構成・全話脚本は鈴木智尋。音楽のEvan Callは「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」なども手掛ける荘厳な作品が得意な印象である。

アニメーションの感触としてはスッキリしたルックで、どちらかと言えばリアル寄りだとは思うが、陰影なども比較的サッパリしており、キャラクターの絵はシンプルな印象を受ける。本作は静かなシーンが多く、止め絵も多用されるが、ここぞというシーンは良く動く。それがアクションだけでなく、なんとなく上着を羽織るとかそういう日常芝居で動かしてくるので侮れない。総じて、静と動のメリハリを付けた作画だと言えよう。最近、アニメーションがリッチか否かとか、リッチならいいってもんじゃないとか書くことが多いが、本作はTVアニメのコストも考慮していい塩梅な仕上げと言えるかもしれない。

美術設定は考証を重ねたものであり、背景画のタッチも心地よい。ロードムービーで移動してゆくため、通過してしまう土地や建物をデザインしても使い回せないし、膨大な量の美術設定が必要になるが、そこに妥協はない。全てのモノがそれらしい意味を持って形を成している。

フリーレン(CV種﨑敦美)はエルフで、千年以上生きている長寿キャラだが、喋りが異常に遅い。私が想像するに、ゾウが長寿で体内時計の進みがゆっくりなのと同様、フリーレンも体内時計がゆっくり進んでいるからとだと解釈している。では、フリーレン以外のキャラが早口かと言えばそうでもない。本作は全体的にゆったりした静かな芝居が多い。もちろん、芝居の速度は絵コンテの時点で計算し尽くされたものであり、シリーズを通して一貫している。

前置きが長くなったが、本作の物語やテーマについて触れてゆこう。

物語としては、これまで人間に興味を持てなかったフリーレンが人間(主にヒンメル)を知ろうとする物語が軸になっている。フリーレンが他人と深く関わらないのは、人間の寿命が短すぎて、すぐに死別してしまうからだろう。

フリーレンは、集落が魔族に襲われ孤児となったところをフランメに拾われた。生き延びる処世術として普段から魔力を外に出さずに不意打ちするスタイルを叩き込まれる。フランメの死後、魔力を封印したまま千年が過ぎ、ヒンメルに仲間として誘われて魔王を討伐した。心を許した人は限りなく少なく、次にヒンメルに拾われるまでの間も孤独に生きていたのだろう。しかしながら、エルフにも家族や愛情は必要であろうし、それなしで生きるというのは、いささかハードボイルドが過ぎる。

ヒンメル達との魔王討伐の旅は、人間なら喜怒哀楽諸々の感情が刺激されてしかるべきであろうが、フリーレンが持つ心のバリアゆえにコンクリートの無表情を崩さない。劇中では、ヒンメルからフリーレンへの異性愛を匂わせていたし、晩年まで独身を貫いていたが、もちろんフリーレンには通じない。そして、月日が経過してヒンメルの葬式で、フリーレンは何故だか涙が溢れてきて「もっと人間を知りたい」という気持ちになった。

おそらくフリーレンはヒンメルのその気持ちに向き合い、なんらかの回答を返すべきだったのだろう。その言葉は「ありがとう」だったかもしれないし、「ごめんなさい」だったかもしれない。意思疎通できなかった後悔が、天国のヒンメルと会話するための旅にフリーレンをいざなう。旅の仲間は、うぶで真面目な魔法使いのフェルン、自信を失くした勇者のシュタルク、あとはチョイ悪オヤジ僧侶のザイン。魔王討伐の旅路の追想となる旅で、フリーレンは過去からのメッセージを拾い集めながら、ヒンメルの気持ちに寄り添いに行く、という感じか。

ある日入手した情報により、記憶の中の当事者の分からなかった感情が理解できたり、行動の意味が変わってしまう事があるが、本作にはこうしたエピソードが多い。フリーレンの場合、適当に選んだ指輪をヒンメルに買ってもらった記憶があり、シュタルクがフェルンに同じ意匠のブレスレットを贈った事実があり、ザインからその意匠の「鏡蓮華」の意味が久遠の愛である事を伝えられ、あのときのヒンメルはプロポーズだった可能性を理解するとか。この辺りの記憶のピタゴラスイッチの仕掛けが凝っている。

またその前提として、本作の作劇はキャラクターに対して奥ゆかしさがある。AさんがBさんを好きだとして、ストレートに好きと言ったらおしまいなのである。好きと言えない状況で別の言葉を使って好きを表現するが、その好きが伝わらなかったりする。その伝わらなさが本作の肝である。それは、SNSで気持ちをぶちまける令和時代とは真逆の奥ゆかしさなのかもしれない。だから、本作に懐かしさを感じるのかもしれない。

本作はあまり白黒はっきりつけず、行間をたっぷり設け、侘しさを味わう作風と考える。もっと言えば、俳句のような味わいである。ただ、こうした作風の作品は近年少なくなっていたと思う。

本作の人気の高さを考えると、この作風は令和時代にもウケていると考えてよいだろう。しかも、若者も見ているということなので、年寄り専用というわけでもない。それは、先のSNS時代のエンタメの反動とも言えるかもしれない。個人的にはこうした作風は大歓迎なので、もっとこうした作品が増えてくれればとも思う。

薬屋のひとりごと(1クール目)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • シリアスな推理物、猫猫⇔壬氏のコメディ、女性中心の時代劇など色んな要素をイイ感じに融合したカラフルさ
  • cons
    • 特になし

大雑把に言えば、世界観は中国風歴史物で、中身は探偵ミステリー。ホームズ役が後宮で働く侍女の猫猫(まおまお)、ワトソン役が壬氏(じんし)と捉えるとキャラ配置が分かりやすい(ワトソン役と言うには、ちょっと無理があるかもしれないが)。後宮と花街という表と裏の女性社会の光と影のドラマがあり事件がある。猫猫は優れた洞察力と薬学知識で事件の謎を紐解く。こう書くと、本作が本格ミステリー物みたいに思われるかもしれないが、猫猫の薬物オタクゆえの奇行や猫猫⇔壬氏とのコメディ要素も多く、気楽なテイストで入って行ける。

日向夏先生のライトノベルがあり、キャラクター原案しのとうこ先生、作画ねこくらげ先生のコミカライズからのアニメ化である。アニメ制作は、TOHO animation STUDIOとOLM。監督、シリーズ構成は「魔法使いの嫁」の長沼範裕。脚本は柿原優子、千葉美鈴、小川ひとみ、彩奈ゆにこの4名体制で、女性っぽさの強みを生かした作風となっている。

主人公の猫猫は後宮の17歳の下級女官のそばかす少女だが、もともと後宮の裏にある花街の薬師で、異様なまでに薬や毒に関心が強く、死なない程度に自ら毒を試して快楽にひたっていたという妙な性癖がある。梨花(りふぁ)妃の事件の謎を解いたことから壬氏に目を付けられ、玉葉(ぎょくよう)妃の侍女の仕事に移動して、壬氏の知恵袋的に活用される。

猫猫の面白さの一つは心の声として本音を喋ってくれるところにある。例えば、身分が低い相手の依頼に断れるはずもないと嫌味を言ったり、後宮内に生えている薬草を見つけては歓喜の声をあげたり、という具合である。もともと身分も低く、分相応に波風立てず目立たぬように振舞うポリシーなので外に出す口数は少ないが、心の中の本音は饒舌である。こういうときは二頭身キャラになったり、内面の可愛さ可笑しさがキッチリ視聴者に伝わる演出になっている。

また、無知ゆえに梨花妃を死なせかけた侍女に、普段は感情を表に出さない猫猫が大声で食ってかかるシーンがあり、その迫力に驚いた。助けられる命を粗末にする事に対する怒りである。この辺りは、CV悠木碧の演技力の幅に唸らされる。

こうした正義感とは別に、憶測で当事者の事情さえも見透かしてしまうため、敢えて未解決事件のままとしてしまう事もあった。憶測でモノを言ってはいけないのである。真実を暴かないことが救いになるという優しさである。

猫猫は基本的に群れたりせず一匹狼であり、そこはハードボイルド要素でもある。自身の出生についても謎である。そばかすも花街時代から女子力をワザと落とすためにやっている事で、そばかすを落とし化粧をすると見違える。養父は元宦官だったりで、どこかの妃の娘である可能性があったりする。

壬氏は後宮を管理する宦官なのだが、美女のようなイケメンで後宮の女子に人気がある。猫猫を知恵袋として使いはじめ、事件の調査に派遣したりする。壬氏が徐々に猫猫がお気に入り(片想い)になってゆく流れだが、猫猫からは毎回つれなくあしらわれる。この、壬氏→猫猫の一方通行のやり取りもまた、コメディとしての見どころとなっている。

事件により猫猫を解雇するか否かで猫猫に(嫌われないために)真摯に向き合おうとするシリアスな芝居と、その後に宴会の席で猫猫と再開したときの嬉しさからくる粘着質な芝居のギャップが可笑しい。

こちらも出生に関しての謎があり、途中で後宮を去った阿多(あーどぅお)妃と容姿が似ている。猫猫の憶測では、阿多妃が自分の子供と皇后の子をすり替え、その後に蜂蜜で亡くなった子供は皇后の子という可能性を示唆していた。ただ、ここは私の妄想だが、容姿が似ているなら阿多妃の息子が壬氏という疑惑が出てもよさそうなものだが……。

後宮も花街も「花園」であり「鳥籠」。因果を背負い、縛られた女性の悲哀があり、行きつく先に事件が起きるというシリアスなドラマが軸にある。そこに猫猫⇔壬氏のラブコメや二頭身キャラのライト感覚をラッピングした作風になっている。女性キャラ不在の劇にならぬためだと思うが、女性脚本家たちによる、重くなり過ぎない明るめで芯のあるシナリオも上手くできている。

最期になってしまったが、アニメーションのルックとしては、少女漫画寄りで分かりやすいキャラクターデザインをしており、作画も綺麗で芝居も丁寧でクオリティは十分以上。衣装は上級王妃は派手で複雑だが下女や男性の服装はシンプルなデザインで、色つかいはややビビット寄りだがキャラの属性などで設計されていて見やすい。背景美術は、後宮の広大な空間や建造物を感じさせたり、季節を丁寧に切り取ったりが上手い。総じて、こうした設定的な設計は良く出来ていたと思う。そして演出面では、推理中や何かヒントに気付くシーンは、その意図が誤解なく通じるように絵コンテや劇伴が作り込まれており、ミステリー物として基本を押さえた丁寧な演出だった点も評価したい。

ただ、事件の因果関係の説明が割と複雑で各話に小事件が散っていたところもあり、全体像が掴み切れずに後で観なおした部分もあった。この辺りは、私が漢語のキャラ名だと暗記が苦手というところもあったと思う。

総じて、推理物とコメディと女性中心の時代劇をイイ感じで融合させつつ、それぞれの要素が粗末になっていないところはお見事。演出も推理物のセオリーを守りつつ、コメディ多めで楽しさも詰め込む。色んな要素が割と素のまま入って美味しい作品だと思う。

経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • ベタ過ぎる王道のラブコメだが、不思議と胸やけはしない(個人の感想)
    • 嫌味のなく月愛(ノア)の可愛さを描く脚本
  • cons
    • アニメーション映像としては非リッチ

略所は「キミゼロ」。原作は長岡マキ子先生によるライトノベルのラブコメ。アニメーション制作はENGI。監督は大庭秀昭で、シリーズ構成は福田裕子が務める。

本作は、陽キャでギャルの月愛(ルナ)と陰キャのオタク男子の龍斗(リュウト)の考え方や価値観の違う二人が、恋人として付き合い始めお互いを大切にし大好きになってゆく過程を描く、ベタ過ぎるほどのラブコメである。

世間的な評価は高くない方だと思うが、個人的には脚本が丁寧で私好みだった。恋愛の綺麗なところをイイ感じでドラマに落とし込んできていると思う。

かく言う私も、低予算アニメという先入観で観ていたため、期待せずに1話を見ていたのだが、ラストのシーンで主人公の月愛の内面の素朴さからくる屈託のない可愛さが描けていてウルっと来てしまった。もしかしたら1話だけのまぐれかもしれないと思いつつ2話を見て、この脚本の丁寧さに確信が持てた。

こう言ってはなんだが、本作はアニメーションとしてはリッチとは言えない。夕方のデートの帰り道で二人以外誰も歩いていないとか、突然スポーツカーが1台だけ走ってくるとか、もう少しなんとかならんかと思うシーンも無くはない。がしかし、これも主題以外はバッサリ割り切るという潔いディレクションに思えた。つまり、このシーンなら二人の会話や気持ちに集中するために、敢えて他にノイズになる要素を描かない。もちろん、コスト面でも有利というのも大きな理由であろう。

とりあえず、本作のあらすじと良かった点について。

龍斗が奥手で女子に慣れていないのは良くある設定であろう。月愛の素直な可愛さは誰もが認めるところではあるが、こと恋愛関係に関しては来る男子を拒まず付き合い、肉体関係含めて男子に尽くし2か月以内に飽きられて捨てられる、というのを繰り返しており、これはこれで問題のあるキャラ設定である。平たく言えば、恋人は大勢いたが恋愛を知らずに生きてきた。

1話の最後で、とりあえず恋人になった龍斗が月愛とのエッチのチャンスを逃した事で、プラトニックな恋愛から始める事になる。実際には龍斗はエッチに未練があったのに、エッチは月愛がエッチしたくなってからでいいと言ってしまう。月愛は紳士的な龍斗の対応に、恋人として大切にされている事を感じ嬉しくなる。この時の月愛が嫌味なく可愛い。

その後のお付き合いも、プレゼントやデートを通じて少しづつ恋愛を育んでゆく。途中で海愛(マリア)が登場して三角関係的な紆余曲折やすれ違いがあるものの、ホンモノの「好き」を確かなものにしてゆく。

物語の途中で月愛は、龍斗がデートで体験する「初めて」を喜びつつも、色々と経験済みな月愛自身の「初めて」を龍斗に提供できない事を悲しみ、お祭りのデート中に泣き出してしまう。私は、この感性は持ち合わせていなかったので驚くと同時に、女子を可愛く描くのが上手い脚本だと感じた。

もっとも、この気持ちについては最終話のラストで親友の笑琉(ニコル)から「月愛にとっての初めての恋」だと告げられて、「私でもリュートにあげられる「初めて」があったんだ」の台詞で〆られる。上出来である。

他で粗さを感じない事もないが、この辺りの月愛の心情の描き方が上手く、ここはシリーズ構成と脚本の福田裕子さんの功績が大きいのではないかと想像する。

ちなみに、全話放送後の原作者の長岡マキ子先生のアニメスタッフに対する謝辞のツイートを下記に引用させていただく。途中に、原作者とシリーズ構成が意気投合という記載もあり、納得しかない。

と、ここまで女子っぽさが描けている脚本の良さを語ってきたが、あくまでベタなラブコメの範疇の作品なので、そこが楽しめない人は全くフックがない作品になってしまうだろう。

小説であれば文章表現や文体で伝えるところを映像に置換してこそのアニメーションであるが、昨今のリッチすぎるTVアニメーションだけがもてはやされる状況というのも、何か違うような気がする。作品のコアとも言える文芸面で輝きを感じた作品であれば、そこをキチンと評価したい。

MFゴースト

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 頭文字D」から継承する熱きレースバトルの楽しさ
    • その上、万人受けするように徹底的に「頭文字D」のネガ要素を潰して改善している
  • cons

言わずと知れた「頭文字D」の世界で繰り広げられる次世代のレースバトル。時代に合わせて設定が色々と今風にアップデートされている。ただ題名が変わっただけの作品じゃなく、従来の頭文字Dのエンタメ作品としての欠点がイチイチ改善されているので、まずはその点について説明する。

頭文字Dは、タイマン峠バトルゆえに、物語が単調でワンパターンになりやすい。また、ライバルキャラも順番に登場するため、群像劇のようなドラマの幅は出しにくいという欠点があった。

そこで、本作ではタイマンの峠バトルから、公道をクローズドコースにしての合法レースに設定が変わった。もともと峠バトルは違法な危険行為なので、これは今風のディレクションであろう。しかも、箱根、小田原の道路をニュルブルクリンクのような全長40kmのクローズドなロングコースとして周回させるというスケールの大きさにロマンがある。私などは神奈川県在住なので、実際にドライブして見覚えがある道路で次々とバトルが繰り広げられるだけでテンションが上がる。そして、ロングコースを複数の特徴あるセクターに分割して周回させることで、バトルの見せ場やポイントを分かりやすくしつつ、緩急をつけ飽きさせない作りになっている。

各車両の位置は個別にドローンが追跡して運営が把握するため、レース中の先行車や後続車との差をリアルタイムに秒単位で観測できる。セコンドブースでは車両情報もモニタリングしながら必要な情報を通話でドライバーにインプットする、という仕組みである。例えば、夏向のハチロクは非力のためダウンヒルでスピードを稼いでも、その後のストレートで追い抜かれる。その辺りの駆け引きも、先行車や後続車と何秒差という表現で分かりやすく工夫している。

キャラクターについても、神フィフティーンと呼ばれる上位ランカーを登場させ、先頭、第2、第3グループと並行してバトルを描くことで群像劇を展開しやすくなっている。頭文字Dはタイマンバトルゆえにドラマ運びは単調になりがちだったが、これで飽きさせず各キャラに無駄なくスポットライトを当てられる。

また、ヒロインである恋の視点を多く描く事も特徴である。恋から見る夏向への恋心はラブコメ的なにぎやかし要素でもあり、MFGエンジェルスとしてバイトする際の恥じらいや同僚との会話など、女性客にも共感しやすい要素を取り入れてきている。

このような改善点は原作漫画時点で綿密に計算されたものだろうが、ことごとくアニメとしてもプラスの追い風になっている。

次にアニメーションとしての出来について。

キャラ作画は丁寧で破綻することがない。この辺りはキャラクターデザインの恩田尚之作画監督の力量が伺えるところである。

もちろん、本作の肝である3DCGで描かれるレースバトルのカッコ良さは健在である。1回のレースでタイヤのグリップを100%使い切るという戦略をアニメーション映像で説得力を持って描けている。スタート直後にタイヤを温めるためにわざとテールスライドしたり、終盤のグリップが無くなってきた相葉のGT-Rの挙動が不安定になるなど、台詞による補足説明はあるが、絵自体でその事を分からせる。また、ときおりボンネット内のエンジンが咆哮するカットとか、サスペンションがストロークして有効に働いているカットとか挿入されるのも良い。こういう地道さが映像の出来の良さに繋がる。レースバトルの映像化については、すでに円熟の域に達していると言えよう。

レース中の芝居だが、クールな夏向(CV内田雄馬)に対しセコンド役の緒方(CV畠中祐)がいい味を出している。緒方は視聴者視点で夏向の凄さに付き合ってゆく事になるので、緒方の驚きや喜び、非力な車両に対するハンデキャップの辛さを生で伝えるための演技力が重要になる。また、ヒロインの恋には実力派声優の佐倉綾音を起用しているが、恋の位置づけ、芝居の多さからすると納得のキャスティングである。

本作の物語は、性能の劣る車両が無双して高価な高性能車に勝ち進んでゆくという、王道中の王道展開である。そして、そのカギとなる夏向の卓越した能力の秘密が徐々にあらわになってゆく流れや、きちんとロジックあるバトルの模様など、ストーリー作りも綿密である。また、謎めいた「グリップウェイトレシオ」のレギュレーションの意味も断片的には夏向の台詞でヒントは提示されてはいるが、まだまだ謎に包まれている。原作漫画は2023年10月時点で既刊18巻だが、アニメ1期は5巻までとストックもまだ多く、物語序盤という感じであるため先が楽しみである。

音楽は、頭文字Dの新劇場版からの続投となる土橋安騎夫ユーロビート主体を踏襲するが、流石に古く今風ではないと思うので、脱ユーロビートしても良かったと思う。

総じて、頭文字Dから継承する熱きレースバトルのドラマ、初心者にも何が起きているか分かりやすい表現力、夏向と恋のラブコメ要素を入れるなど隙がなく、ハッピーでより万人が楽しめるエンタメ作品に仕上がっていたと思う。

オーバーテイク!

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • あおきえい監督によるエモエモ演出な人間ドラマ
    • 軽快な青春ドラマと、重厚で挑戦的な震災テーマの共存
  • cons
    • 重箱の隅なのだが、個人的に一部に作劇優先の強引さを感じてしまったこと

F4レースを舞台に弱小チームの若きレーサー朝雛遥と、偶然関わったフォトグラファ眞賀孝哉の交流を軸に描かれる人間ドラマ。ベースのテイストはコミカルで軽快な芝居だが、肝心なシリアスな部分では右ストレートのようなパンチ力のある重厚な芝居を入れてくる。今期の話題作である。

制作はTROYCA、監督のあおきえいはエモさに定評がある。オリジナルアニメで原作はKADOKAWAとTROYCA。シリーズ構成はアイドリッシュセブンの関根アユミ、スーパーバイザーに高山カツヒコで、脚本も基本2名体制だが一部の話はあおきえいが連名となっている。

まず、本作はアニメーションとしての出来が良い。志村貴子原案のシャープなキャラクターデザインをアニメ映えする形に落とし込み、作画も綺麗。車両やコースは3DCGで描かれるが、グッと車両に回り込んで寄るといった3DCGならではのカメラワークだけでなく、レース中継などで馴染みのある望遠レンズで撮影したような映像やパドックなどの自然でリアリティを感じるシーンなども多く活用されている。つまり、迫力とリアリティの両面から絵作りされており、それが目立ちすぎることなく適切なディレクションで使われているという意味で、かなり好感触である。

一般人にはなじみの薄いF4レースの世界だが、詳細かつ分かりやすく描かれ、F4の現場の雰囲気や緊迫感が伝わってくるような映像の仕上がりはお見事。

さて、本作のドラマについてだが、若手ドライバーの熱き戦いのドラマだけでなく、考哉の震災のトラウマの乗り越えがあり、後者の方がメインになっていると感じた。

東日本大震災津波の直前、ファインダー越しに死の絶望の目をした少女の目を見てしまい、それ以降人物写真が撮れなくなってしまった考哉。その回復の原動力になったのが、試合に負けて悔し泣きしている遥の泣き顔を後ろから撮影できてしまったことをキッカケとなり遥を応援し始める。そして、誰かを応援する事で自分自身も鼓舞され前に進める、というロジックである。

個人的に、この「応援する」ことが自分を救う、というのは良く分かる。以前は、推し活で再現なく課金する気持ちは分らないと思っていたが、最近とあるVtuberにハマって推し活的な応援をしていた。具体的には、配信を見てコメントを書き投げ銭をしたり、X(旧Twitter)をリポスト+いいね+返信する。さらにハマればグッズ購入などにエスカレートしてゆくのであろう。兎にも角にも、相手を部分的にでも支えている実感が推し活の原動力になっていて、応援する側もそれで幸福感に浸れるのだと思う。つまり、考哉は遥を推し活する事で、考哉自信に幸福感を与え、トラウマの傷を癒しゆくのである。見過ごされがちだが、「推し活」が壊れたメンタルを治癒するという観点は、なかなか新しい切り口だと感じた。

個人的に好きなのは6話。レースという舞台では一つ間違えば命を失う事もある。天候が不安定なレース当日、考哉は事故死を恐れてレインタイヤを勧めたが、遥はスリックタイヤでレースで賭けに出る。序盤は晴れ間にも恵まれ好調だったが、天気は突然土砂降りに。冷静さを失いかける遥だったが、考哉の助言が頭をよぎり慎重にペースダウンする。しかし、直後に早月が接触事故を起こし重症を負う。ファインダー越しにコックピットの早月を覗いた考哉には、早月にあの日の少女の目がダブって見えた(幻影が見えた)。考哉は遥の命を救ったが、考哉自身はまた人物写真が撮れなくなった、という流れである。この話は、レースとドラマのスリリングな展開の末に救えるはずの命が救えた安堵感が良かったのだが、最後の最後で早月の事故で考哉のトラウマが再発するというパンチ力もあり、観ている私も相当心揺さぶられた。

本作で一番エモかったのは、やはり9話であろう。疾走した考哉は福島に来ていた。追いかけてきた遥は考哉が人物写真が撮れなくなった本当の原因に知る。考哉は、震災直前に親しくしていた正三(前述の少女の祖父)の余命がない事を知り、病院に面会に来たのだが、そこで正三が持っていたスマホに写る正三と少女と考哉の笑顔の写真を見せられ「これからも一杯撮れ」と告げられる。そして、正三は後日息を引き取る。物語的には、罪を背負い続けていた考哉は、少女の遺族である正三のの言葉と写真の中の笑顔に救われた、という流れである。これは、考哉が再浮上するために必要な、足枷を外す儀式だったと考えてよいだろう。

最終回の12話では、人物写真が撮れなかった考哉が、F4の試合で優勝した遥や故障からの復帰戦で2位を勝ち取った早月たちの笑顔を自然に撮影できた、というところで〆る。

TVシリーズのオリジナルアニメとしては、かなり震災からの復帰という重厚なテーマを扱っており、そのチャレンジング精神には拍手を送りたい。

しかしながら、個人的に感じたネガ意見をいくつかあり、最後にその辺りに触れておく。

1つは、考哉のトラウマが12話で解消する流れの脚本だが、考哉の心に寄り添うよりも、作劇を優先してしまっている感じがしたこと。

1話から遥たちを撮影する事で徐々に復活してきた考哉だが、6話で再び早月の死線を覗いて人物撮影できなくなった。12話で笑顔を撮影できたとしても、そのうちまた誰かの死線を覗いてしまったら考哉はトラウマに悩まされるだろう。一度壊れた心は、壊れる前の健康な状態に戻る事はなく、大切に扱ってゆくしかないのだと思う。その意味で、少しづつ小さな笑顔から撮れてゆくという地味なエンドでも良かったのではないか。

もちろん、遥の優勝は超嬉しい出来事だし、正三の言葉が約束として考哉の背中を後押ししていたことも理解する。 しかし、考哉は以前も一度人物写真が撮れるようになったが、メンタル的にキツい状況に出くわして再び撮れなくなった経緯がある。それを考えると、ふたたび人物写真が撮れたとぐらいで考哉の問題が解決したとは言えない気がする。もちろん、大団円のハッピーエンドありきの作劇で〆たい気持ちは分らなくもないが、その意味で〆方が文芸的に真摯でない気がした。

何故こんな神経質になっているのかと言うと、テーマが震災だから。震災というテーマがあまりに重すぎて、真摯にキャラに寄り添って欲しいという私の願望と、作劇的な後味の良さを天秤にかけて、後者が優先された事が違和感に感じているのだと自己分析している。

この辺りは、あおきえい監督の意向が強いのだろうと考える。もともとコミカル主体でありながら、ドラマ部分は剛速球を投げ込むエモエモの作風が得意な監督だと思う。強いドラマ(≒演出)が得意で作劇優先する傾向があるため、物語(≒脚本)に皺寄せが来ているのではないか、と妄想している。

もう1つは、人死にを見てメンタル病んでいる36歳中年男性に、17歳の男子高校生がそこまで馴れ馴れしく近づけるのか?という部分。

個人的に遥の考哉に対するマインドが掴みにくい。推し活で例えれば、遥が地下アイドル、考哉が熱心なファンという構図であろう。考哉はスポンサーを貢いで小牧モータースの活動に大きく貢献したし、一緒に活動するという仲間でもあった。とはいえ、熱心なファンが疾走したとして、36歳の中年男性の留守宅に侵入したり旅先まで追いかけたりを、17歳の男子高校生がするのだろうか。遥が大人ならまだ話はわかるのだが、17歳の男子高校生の遥にそこまで考哉の人生を背負い込ませなくたくない気がした。

もちろん、互いの信頼関係があれば理不尽でもないのは理解するが、その距離感はエモさ優先のBL風味的な味付けに使われているのではないか、という意地悪な見方もできなくはない。つまらない事を言えば、このケースなら事件に巻き込まれるリスクも考慮して警察に任せるべき案件のように思う。

ちなみに、福島に押しかけて来て考哉と行動を共にした遥は、考哉に偉そうな助言をするでもなく、傍に寄り添って行動していたところについては、非常に良いと感じた。問題を抱えた人間は、ただ信頼できる人が傍にいてくれるだけで救いになると思う。

ネガ意見を2つほど書いたが、これらはキャラの心情や一般的な対処方法よりも、作劇のエモさを優先した部分であろう事は理解するし、実際に私自身もエモさに痺れた。物語には気まぐれという要因もあるから、偶然そうなったという展開なら許せるのだが、作劇優先が鼻に着くと急に冷めてしまのは私の悪い癖である。多くの人は重箱の隅をつつくような話をしているという自覚もある。その意味で文芸以外に非の打ちどころはないが、文芸面で満点は付けられない、というのが私の感想である。

16bitセンセーション ANOTHER LAYER

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 懐古ネタアニメと思いきや、サクセスストーリー、タイムリープ、近未来SF、純愛などごった煮感ある挑戦的な物語
    • クリエイター賛歌という通底するテーマ
  • cons
    • 逆説的になるが、人によっては個々の物語の詰めが甘く、取っ散らかっているだけに感じるかも

原作漫画は同人誌発で商業版の単行本も発行されており、原案はみつみ美里甘露樹、作画は若木民喜となっている。本作はその原作漫画の設定を活用しつつ、原作にはない主人公やタイムリープ設定などを大幅に追加した物語となっている。シリーズ構成にあたる役割だと思われる「アナザーレイヤー・メインストーリー」は若木民喜高橋龍也。脚本は高橋龍也雑破業東出祐一郎森瀬繚大槻涼樹の5名でみなゲームライターとしての経験を持つ。

タイムリープで過去の秋葉原に移動したコノハが当時の黎明期のゲームメーカーでゲーム作り体験してゆく、過去の秋葉原や開発環境やゲーム業界を詳細に描く古のオタク向け歴史アニメかと思いきや、サクセスストーリーや、タイムリープの未来改変、創作についての哲学的なテーマ、近未来SFアクション、時代を超えた純愛などの、ごった煮で進行し、最後の最期で中年?と美少女の恋愛のTRUE ENDで〆るという美少女ゲーム賛歌なシリーズ構成だった。

私もマイコンと呼ばれる時代からのコンピューターに興味を持って関わってきた古のオタクなので、過去のコンピューター周りのあるあるネタで喜んだ。16ビット色の画像作りのノウハウや、フロッピーディスクが出て着るだけで懐かしさがこみ上げる。ただ、1話2話時点ではこの懐古ネタに終始していたので、この調子だと物語が軽薄になり過ぎると感じたが、結果的にそれは杞憂だった。

個人的には8話の1985年の守とエコーの回が、哲学的なテーマを持っていて好きである。これは10話11話のAIが生産性を向上させたとしてもそれだけでは凡作しかならず、情熱があってこそ名作が生まれるという後半の流れに直結している。その意味ではクリエイター賛歌というか、2023年のAI生成物に対する温度感を作劇に上手く取り込んでいたと思う。本作はたまたま美少女ゲームの黎明期から衰退までの歴史を描いていたが、このクリエイター賛歌というテーマはどのようなジャンルのクリエイターにも響くのものであろう。

そして、美少女ゲームと言えば、純愛が報われたり報われなかったりで終わる。その文法にならって本作でも最後は、美少女のコノハとナイスミドルとなった守の年の差カップルの純愛に結論を出す形である。男性キャラが、美少女ゲーム黎明期を体験したナイスミドル世代というのが、高齢視聴者層にミートした設定に思う。

繰り返しになるが、文芸面ではごった煮感が強く、個々のエピソードも駆け足気味ではあったが、通底するクリエイター賛歌としてのテーゼもあり、御膳のお弁当のようにカラフルな物語も楽しめた。とは言え、人によっては個々の物語の詰めが甘く、取っ散らかっていたという感想もあるだろう。

設定については、前半の秋葉原の考証は徹底していた点は執念すら感じた。ゲームのタイトルやパッケージは肝だけにオリジナルを使う徹底ぶりである。しかし、その反動と言ってはなんだが近未来設定の水槽内の奴隷クリエイターの辺りは、どうしても雑な印象になってしまう点は惜しい。アニメーションとしてのビジュアルの出来は平均点といったところ。

声の芝居だが、コノハ(CV古賀葵)の声が作中でもハイテンションでキンキンのアニメ声、アニメ芝居を徹底していたのが印象的である。他のキャラクターはもう少しナチュラル寄りの芝居のため、一人だけ浮いていて違和感すら感じた。正直、この芝居の意図は良くは分からなかったのだが、このクセ強のアイデンティティのおかげで、世界観がどんどん変わって行く流れの中にあってコノハの声と芝居をみるだけで妙な安心感を感じられた。もしかしたら、そうした狙いがあったのかもしれない。

総じて、アクロバティックにいくつかの物語を継ぎ足した構成により、先の展開が読めずに振り回されていたところもあったが、個人的にはこれらの超展開も楽しめた。このごった煮展開の部分で作品の好き嫌いは分れる作品に思う。

新しい上司はど天然

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 緩くて優しくて微笑ましい、癒しのコメディ
    • BL味はあるが、1クールを通して切なさも感じさせる上品な文芸
  • cons
    • 特になし

いちかわ暖先生のX(旧)Twitter発のWeb連載漫画のアニメ化。制作はA1-PICTURE、監督は阿部記之、シリーズ構成は横谷昌宏。

パワハラ被害でメンタルを壊した桃瀬が、転職先の会社で優しくて天然ボケなところもある上司の白崎に癒されてゆく緩いコメディ。その他に、かまちょの青山課長、同じくパワハラ被害で後から転職してきた金城の4人がメインキャラ。全員イケメンでBL味はあるが、あくまで匂わせレベルなので気軽に楽しめる。

とは言え、桃瀬自体はパワハラの傷が完治したとは言えない状況で、ときおり前の会社のパワハラ上司の陰に怯えていたりするところは生々しくもあり、物語やドラマの中盤の推進力になっている。

ギャグは緩めで白崎の天然を見ては桃瀬が癒されていく流れであるが、桃瀬と白崎の繊細な感情のドラマも描かれており、文芸的にも悪くない。

桃瀬はそんな白崎を小馬鹿にすることもなく、白崎は桃瀬を会社の駒としてではなく、一人の人間の成長を促す部下思いの理想の上司の振る舞いであり、会社における理想の人間関係に視聴者は心地よさを感じる。

とくに白崎は前の会社のパワハラ上司から桃瀬を守ったり、男気のある頼もしさもある。その勢いで、桃瀬は白崎のマンションに同居し始める。しかし、桃瀬は白崎に甘えてばかりもおれず、自分で部屋を探さねばという気持ちと、白崎との生活の心地良さの間の葛藤のドラマもある。この気持ちは白崎も同様で、うまく言葉を交わせないもどかしさが切ない。1クールとしてはイイ感じにオチがついて終わりも綺麗だった。

BL味と書いてしまうとアレだが、要は同性愛のエンタメが好みな層、寛容な層、拒絶ぎみな層と色々とあると思うが、明示的にせずに「匂わせ」に留める事でBL味をフックにして広範囲の視聴者層を取り込む潮流なので、明確にBLか否かを議論する気はない。しかし、本作のパワハラ被害者と癒しというテーマにおいては、男女関係や女女関係よりも、より男男関係の方が適切に思うし、設定的に強引だとも思わない。

派手に動く作風ではないとは言え、作画面は安定。ゆっくりめのテンポで芝居を回して癒しのギャグのジャブを撃ちつつ、かけるべきところではストレスを与えて緩急をつける的確な演出。激しさはないが、癒されつつも、ちょっといい感じも味わえる良作だったと思う。

呪術廻戦(2期)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 芝居のカッコ良さ(脚本、演出、レイアウト、声の演技などなど)を極めて映像スタイル
    • 苦すぎる、救いのない物語
  • cons
    • キャラや設定が多すぎて覚えきれず、怒涛のアクションで気圧されるので、毎回「呪術疲れ」になる

2期は「懐玉・玉折」「渋谷事変」の2編で、前者が前期譚、後者が1期の続きという構成である。

「懐玉・玉折」は、五条悟と夏油傑の高専時代を描くが、爽やかな青春ドラマということもなく、いつも通りの救いのない苦みと、アクションのカッコ良さを極めてゆく作風である。「渋谷事変」は新宿で五条悟が封印され、呪術師や呪霊のオールスター大乱闘の上、多くの主要キャラが容赦なく死に、日本の首都機能が消失して大混乱に陥るというスケールの大きな物語。テイストは前者と全く同様で、そこに全くブレはない。

アクション中心に語られがちだが、脚本、演出、レイアウト、声の演技も含めて、芝居の良さが光る。例えば、七海の最期のシーンは、渋谷の地下鉄ホームで無数の改造人間と戦う七海だが、七海の脳内では爽やかなマレーシアの海岸で疲れを癒すような映像が流れているが、実際の現場は血の海の地獄である。そして、最後に「虎杖君、後は頼みます」という台詞の直後に真人に殺される。七海(CV津田健次郎)の声も、劇伴も、脳内と現実の交互に入れ替わる映像も、レイアウトもカット割りも、すべたがカッコいい。これはほんの一例だが、こうした物語に救いは無いのにカッコいい芝居が積み重なって出来ているのが、本作の凄みだと思う。

息つく暇もないアクションだが、各キャラの背負っているモノや術の設定などは細かく考え込まれており、設定や因果関係の作り込みが半端ない。とはいえ、キャラや設定が多すぎてストロボ的に登場するので、そのキャラのバックボーンや前回の行動を覚えきれずに、目の前の圧倒的な映像に押し流されてしまう。私は全体の物語がどう流れてゆくなというのを着目するタイプなので、本作のようにジェットコースターに乗せられているような作風だと、深く味わえなくて勿体なく思ってしまう。

視聴後は毎回、ドッと疲れてしまうので、これを「呪術疲れ」と命名したい。

このような作品の情報量が多すぎて把握しきれないというのは悔しくもあるが、今の若年層は楽しめているのだろうか。もしくは、ただ私自身が老けただけ、という事なのかもしれない。

スパイファミリー(2期)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • すでに名探偵コナンのような長寿コンテンツ化した、鉄板の安心感
    • 相変わらず、非の打ちどころがないリッチなアニメーション
  • cons
    • 大人向けのエモいドラマはもう期待できそうにない

実は2期はスタッフィングに変更があった。監督は1期の古橋一浩に、2期から原田孝宏が加わった。シリーズ構成は監督兼任だった古橋一浩から大御所の大河内一楼となり、副シリーズ構成に1期で脚本を担当していた谷村大四郎、久尾歩。谷村は豪華客船編の脚本担当を中心に構成したと思われるし、大河内は劇場版の脚本との繋がりを意識しての配置だったのかもしれない。

毎回繰り返しになるが、アニメーション的なクオリティはリッチで非の打ち所がない。ヨルのアクションシーンなどアニメ絵なのに重さや痛みが伝わってくる生の感覚が味わえる。おそらく、時代設定もあり、生身っぽいアクションで仕立たてるディレクションなのであろう。こういうアクションは原画だけでなく動画も重要だが、この滑らかさは映画並みのクオリティである。

1期当初はシリアスなドラマも行けそうな雰囲気があったが途中からすぐにお子様ウケする路線にドップリ浸かっていた感覚であった。2期は1期の延長線上のライトな感覚で始まりつつ、冷戦時代の社会の厳しさもドラマに組み込みつつ、5話かけて豪華客船のヨルのドラマをメインに添えたり、シリアス要素にテコ入れした手触りがあった。おそらく、劇場版とのブリッジとしての構成なのだろう。などとと言いつつ、最後の37話では大型犬のボンドのコメディでお口直しをして2期を〆るところは、なかなか憎い構成である。

2期はヨルの活躍にスポットが当たっていたと思う。ヨルは豪華客船での亡命者保護の任務の途中、フォージャー家を考えて気持ちが浮ついていた。しかし、任務の途中でふっきれて、家族を守るために任務に徹するという心境の変化があった。これはある意味、与えられたいから与えたいに変化したとも言えるし、フォージャー家に対して「恋」から「愛」にシフトしたとも言える。ヨルにとって家族がより大事なモノになったという事で、そろそろロイドの家族愛も描いてほしいところである。

それはともかく、相変わらず物語的な進展はなく、2期の始めと終わりでキャラの関係性の変化も全くなかった。これは名探偵コナンのような長寿コンテンツ化が狙いなのだろう。もともと、エモいドラマも作れる題材だとは思うが、ここまで来るとそういう展開はなく、個人的には多少残念とも思うが、それは仕方がない事であろう。

おわりに

フリーレンと薬屋は、個人的にはいくつかの共通点があると感じています。

この2作品は、文芸の良さを感じているのですが、なんと言うか因果応報が明確でゴールがある話というよりも、思わせぶりな余白や余韻を楽しむ作風とでもいうか。

フリーレンで言えば、時空を超えたエピソードの交差があったりしますが、それらはたまたま接触しただけで、何かの問題を作為的に解決したりはしない。ドラマもありますが、どちらかと言うと物語性が強い。どちらかと言えば日常寄りの俳句のような味わい。ふと思ったのですが、同じ週刊サンデー連載でもあったあだち充先生の漫画にも近い感覚です。最近のエンタメはエモさに振って、ワビサビを味わう作風は減ってきていたのかと思います。

薬屋で言えば、シリアスの重さを二頭身キャラのコミカルさでかき消してはいますが、探偵ミステリーをベースにした丁寧な推理物の演出(=文法)で作られているため、昔懐かしいハードボイルドな感覚は大切にしていると感じています。これもまた、令和の最近は少なくなってきた感覚です。

つまり、両作品とも昔懐かしのテイストをキッチリと入れつつ、ストレスフルには耐えられない、今時の令和の人にもなじめるようなテイストに仕上がっている事がポイントなのかな、と感じました。

そして、両作品ともコミック原作ではありますが、原作と絵の作者が別人というところ。つまり、文芸は文芸の専門家が書いている、というのがミソだったのかなと想像しています。そして、なぜか日テレ発信というのも一緒。

それから、オーバーテイク!は、出来の良さは認めるものの、個人的には重箱の隅的なところで引っかかりがあって、イマイチ高評価から外ししています。

逆にキミゼロは、世間で評価されてなさに比べて、個人的に高評価にしています。非リッチでもなかなか楽しめた作品だったのですが、評価している人が少ない……。

こうした、世間の評価とのずれが出る作品は、なんだかんだ言って、他の人の評価も読んでみたいと思わせてくれる作品です。

窓ぎわのトットちゃん

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

映画「窓ぎわのトットちゃん」の感想・考察です。

日本人なら誰もが知るタレントの黒柳徹子さんの自伝的小説であり、戦後最大のベストセラーが42年越しに初めて映画化されました。しかも、実写映画ではなく、アニメ映画として。

制作のシンエイ動画さんの仕事は実に真摯で、隅々まで気持ち良く動く丁寧なアニメーションや、柔らかな水彩調でありながら細部まで書き込まれた背景美術、迫力ある音響など、手抜きを一切感じない映像に仕上がっていました。

主軸の自由奔放で元気な女の子の物語だけでなく、戦争がその幸せを奪ってゆくドラマがあるため、軽快さと重厚感の両方が味わえる作りになっており、非常に見応えがありました。

感想・考察

本作のキーワード

最近のマイブームで、あらかじめキーワードをマインドマップで作っておくとブログを書きやすい。本作のキーワードを書き出したものを下記に示す。

私の中の黒柳徹子さん

日本人で黒柳徹子さんを知らない人は少ないだろう。私の記憶では、TBSの「ザ・ベストテン」くらいに遡るが、玉ねぎ頭が印象的な早口おばさん、というのがファーストコンタクトだったかもしれない。とにかく、アクが強い人だと思っていた。

それからもっと年月が経過して、ある日健康ランド?に「窓ぎわのトットちゃん」が置いてあり、それを序盤だけ読んだ。とても、引き込まれる内容で、みずみずしさもあり楽しく読めた。その昔、ベストセラーになっていた事は知っていたが、これは読まれるハズだわ、と思った。(この序盤だけというのがミソで、映画でこんなに戦争描いていたとは思わなかったので驚くと同時に、知らずに観て良かったのかもと思った)

そこから、彼女に興味を持ち、文庫本のエッセイや、岩合光昭さんとの共著であるパンダ本なんかを買って読んだりもした。黒柳徹子さんは、その昔は美人で非常にモテたイケイケ女性だったらしい。アイドルという言葉もない時代だったが、当時その言葉があればまさに、アイドルと呼ばれる存在だった。持ち前の自由奔放で天真爛漫でタレントとして活躍していったのだろうが、芸能界で生き残っているからには、それだけではない芯の強さも持ち合わせているのだろう、と感じさせるエッセイであった。

黒柳徹子さんのパンダ好きは有名である。彼女は映画の通り、裕福な家庭に育ったが、まだ日本人が見た事がないパンダという動物にとても関心を持ち続けていて、アメリカの動物園で初めて見たときはとても感激した、というような事がパンダ本に書いてあったと思う(うろ覚えですみません)。映画でも最後に、一風変わったパンダのシュタイフのぬいぐるみが出てくるが、まぎれもなく彼女が子供の頃に持っていたモノであろう。

劇中で、トットちゃんがスパイになりたい、という台詞があったが、ある意味、本当にスパイをしていてもおかしくないくらい、浮世離れした雰囲気を持つタレントという印象を持っていた。

トットちゃんのキャラクター

劇中のトットちゃんは、自由奔放で天真爛漫。だけど、集中力が無く、多動性なところがあり、妄想癖もある。

実際は聡明な子で、根は思いやりのある優しい子であり、決して他者を否定しない。この辺りはトモエ学園の指導方針とも重なる部分である。

トットちゃんがトモエ学園に来て初見の校長先生にありったけのおしゃべりをして、最後に「私、変な子みたいなの(うろ覚え)」と言うシーンで、トットちゃんが過去に否定された事実があって、それに対する不可解さと悲しさを感じていた事が分る。校長先生はトットちゃんのそのトゲも抜いて、全肯定して受け入れるところがミソである。

もう一つ、トットちゃんは楽しい事が好きで楽しい事ばかり考えて、悲観的には考えない。常にパワフルでポジティブ全開でカラっとしている。そして、腕っぷしも男子に負けないが、非暴力を貫く。

後で触れるが、そのポジティブさは、戦時中の陰鬱な時代の空気と対照的である。ある意味、天敵の関係にあることが本作の肝になっている。

それから、CVを担当した大野りりあなさんの迫力ある演技も、トットちゃんを魅力的に見せてくれることにかなり貢献していたと思う。まさに、当たり役である。

描かれたモノ

はみ出し者のトットちゃんと差別

トットちゃんは、尋常小学校から追い出されたはみ出し者である。

劇中は戦時下だから、規律(=命令)に従う人間を量産を目的とするところは多分にあったのであろう。トットちゃんの個性は、その社会常識の範疇を逸脱し、欠陥品の烙印を押されてしまう。おそらく、当時の人々の多くは、その事に何の疑問も抱かなかったのであろう。

「窓ぎわのトットちゃん」が出版されたのは1981年である。高度経済成長期も終わり、受験戦争が過熱し、TVでは「3年B組金八先生」の第2シーズンが放送されていた。「校内暴力」「登校拒否」などという言葉が使われ始めた時期である。長らく続いた戦後教育も、時代の潮流の変化の中で、教育現場に何らかのしわ寄せがきていたのかもしれない。

そうした子供たちが信じられなくなる時代背景の中、子供たちに押し付けて叱るのではなく、子供たちの目線に降りて子供を救って伸ばすというトモエ学園の先進的な教育方針は、それまでの教育のアンチテーゼであり、相当のインパクトを社会に与えたのだろう。戦後最大のベストセラーになった事実が、この時代にこの物語が欲せられていたことを意味していたと思う。

そこから時代はバブル崩壊を経て、義務教育の現場では1990年代後半から「学級崩壊」という言葉が出始めてくるのは、皮肉めいたものがある。2002年からは、それまでの詰め込み教育からゆとり教育に切り替わり、歌謡曲では「世界に一つだけの花」がヒットした。周囲と違うからと排除される風習は、徐々に個性を尊重する社会通念に置き換わっていった面はあったと思う。

しかし、2023年の現代でもダイバーシティという言葉は使われ、欧米のエンタメやCMでも人種やLGBTQなど、さまざまな差別に対する配慮がなされている。もちろん日本も例外ではない。こう言った差別の問題は、そう簡単には撲滅できるものではなく、時代と共により細かな差別が見えて来て、そう簡単にはなくならないものかもしれない。

その意味で、「他者を否定せず受け入れる」、「みんな一緒」というトモエ学園の寛容な精神は、いつの時代どこの世界でも通用する普遍的なテーマなのかもしれない。

トットちゃんから見えた「戦争」という社会情勢

黒柳徹子さんは戦争反対、平和貢献の人なので、本作が戦争に対するメッセージを持つ事に対して異論はない。

しかし、個人的には本作の主軸は「差別しないこと」の方にあると感じた。「窓ぎわのトットちゃん」の小説というエンタメ作品の中においては、やはりトモエ学園と小林先生への感謝の気持ちが土台であり幹であったと感じた事は記しておきたい。

本作の戦争描写だが、幸せな生活にじわじわと近づいて、楽しみを奪い、笑顔を奪い、悲しみを押し付けてくる。お国のためという正義の押し売りで国民に我慢を強いる。その結果、自由は奪われ、息苦しい生活の中で疲弊し、メンタルは削られてゆく、という描き方だったと思う。

また、同調圧力という意味で、規格外なトモエ学園や、西洋志向の黒柳家に対する風当たりを強くしたのも戦争の影響であろう。この辺りは、マイノリティの迫害とも言うべき差別のテーマにも直結してくる。

しかしながら、トットちゃんは子供なので、戦争の不条理の中にいても戦争を憎むという描写が出てこない。小林先生が人目のない所で大石先生を叱っていて驚いたように、大人の世界という子供に見せない世界があり、その中で子供が生かされている事はなんとなく知っている。だから、戦時下という状況を、戦時下だからという説明で納得して過ごしていたのだろうと思うし、それが当時のトットちゃんのリアルであろう。

下手な反戦映画だと、ここで悲惨な生活や飢え死にしてゆく人々の悲壮感を描いて同情を誘ったりするところ、本作ではそこをトットちゃん視点で淡々と描くことでドライに仕上がっている点を評価したい。個人や組織の悪役を設定する方がエンタメとしては分かりやすいが、むしろそうした明確な悪役がはっきりしない事が戦争の恐怖であると言えよう。その意味で、本作はとてもクレバーな反戦映画だと思う。

突然訪れた、死別の悲しみ

本作のクライマックスは、親友の泰明ちゃんとの死別である。

本作の前半は生きる喜び楽しみに満ちた構成になっている。中盤で登場する縁日のヒヨコの死は、物語転換のフラグである。

そして、突如訪れる泰明ちゃんとの死別。それまで一緒に遊び励まし合ってきた描写があるからこそ、かけがえのない親友の喪失のショックの大きさに打ちひしがれる。教会の葬儀で泰明ちゃんの棺桶に椿の花を添えて、居ても立っても居られずに走りだし、トモエ学園まで来てしまう。追いかけてきた校長先生は「アンクル・トムの小屋」を泣いているトットちゃんに手渡し直すのだが、遺品を受け取る=死を受け入れ遺志を継ぐという儀式に思えた。

本作がズルいというか巧みだと思うのは、このトットちゃんの悲しみに国民の戦争の悲しみを重ねて、悲しみの主語をすり変えてくるところである。

この、トットちゃんが駆け抜ける一連のシーンで、ガスマスクを被った子供の戦争ごっこや、負傷したり遺骨になった帰還兵や、出兵を送り出す行進などのシーンを重ねてくる。それまで意識しなかった、戦争の悲しみや痛みが、大きな悲しみとなって一気に観客の心になだれ込んでくる。このシーンはアニメーションとしての出来もよく、演出としても秀逸である。

「アンクル・トムの小屋」の奴隷社会にあっても尊厳を持って生きるというテーマ。主語がトットちゃんから「国民」に変わる事で、トットちゃんが尊厳を持って生きるという意味から、国民が「戦争」という不条理で見えない大きな力に自尊心を持って抗う意味に変化する。それは、軍歌の演奏を拒んだ父親や、空襲で燃えてしまったトモエ学園を目の前に何度でも立ち上がる気概を見せた小林先生の尊厳にも重なるものだろう。

印象的な「よくかめよ」を軍人に咎めらえるシーン

個人的に強烈に印象に残ったシーンは、雨降る街角でトットちゃんと泰明ちゃんが余りの空腹のためにトモエ学園で教わった「噛めよ、噛めよ、噛めよ」と歌っていたところ、急に軍人に「そんな、いやしい歌を歌うもんじゃない(うろ覚え)」と咎められるシーン。

SNSなどの感想を見ると、実はこの「よくかめよ」という歌は、英語の童謡である「Raw Raw Raw Your Boat」の替え歌らしく、洋楽を口ずさんでいた事が軍人のカンに触った、という解釈もできそうである。

だとしても、いやしい=意地汚いだから、やっぱり「食べる」ことを咎めた台詞にしか思えない。しかも、その軍人は食堂に入って何か食べていた風だった。子供に八つ当たりが強すぎるとも思えたし、その軍人や社会に余裕がないからという描写ととりあえず解釈した。

それにしても、その後、泰明ちゃんが水たまりを踏みしめる音で音楽を奏でてトットちゃんを励ますシーンは本当によく出来ている。嫌味な軍人に対する憎しみではなく、音楽という楽しさで上書きしてゆくことを泰明ちゃんが教えてくれた。これは、トットちゃんのラストシーンにも繋がっているし、本作のテーマそのものと言ってもいいだろう。

車窓から見えたチンドン屋のラストシーン

ラストは疎開先の青森に向かう汽車の中でチンドン屋を見つけるシーンで〆られる。

汽車の中の乗客はみな疲弊しており、まだ赤ちゃんの妹は泣きじゃくり、トットちゃんは仕方なく列車の連結器の所まで妹を抱えて移動してくる。そして、車窓からチンドン屋を見つけて扉を開いてよく見る。妹は泣き止み、トットちゃんはまた汽車の扉を閉める。

誰も居ない林檎畑に、物語冒頭と同じチンドン屋であったことから、幻が見えたという演出に思える。それは、戦争で真っ先に失われた「楽しさ」の象徴であり、その「楽しさ」こそが生きるためにかけがえのない大切な希望である。トットちゃんにそれが見えた事が、未来への希望を示唆し、本作の心地よい余韻になっている。

なにせ、我々観客は、戦後トットちゃんがTVを通して文化や娯楽を大衆に届けてゆく未来を知っているのだから。

おわりに

実は、見終わった直後は、トットちゃんと戦争という二大要素が直結していない感じがして、戦争というテーマがとってつけた感があるな、と思いました。

それは、物語の中でトットちゃんが戦争をどうにかできる立場になく、戦争を状況としてしか受け入れられないため、トットちゃんと戦争の関係性が疎であると感じたからでした。

しかし、ブログで感想・考察を整理してゆくと、多少強引ながら、しっかりと戦争に対して、自尊心を持って流されずに生きようというテーマや、戦後全てを失った後からの復興で、「楽しさ」を原動力にして生きてゆける未来の示唆があり、非常に練られた作品に思いました。

この辺りは、脚本も担当している八鍬新之介監督の丁寧な仕事ぶりが伺えるところだと思いました。

北極百貨店のコンシェルジュさん

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

PVを観て、洒落た絵柄やキレのある動きが気になっていた作品でしたが、ちょっと重めのテーマもありつつ、最後は気持ち良く観終える事ができました。

とにかく、秋乃や動物たちが可愛いいとか、秋乃の新米コンシェルジュ奮闘記としても観れますが、今回は絶滅というテーマについて深掘りした感想・考察を書きました。

感想・考察

原作漫画について

西村ツチカ先生による原作漫画は、1巻が2017年に、2巻が2020年に出版されており、2022年3月には文化庁メディア芸術祭にて「第25回マンガ部門優秀賞」を受賞している。

なんと言っても絵柄が独特でレトロな雰囲気が心地よい。お客様の動物たちは欧米の小説の挿絵に出てくるようなインク画のテイストで描かれており、百貨店の人間もシンプルなシルエットでシュッとして描かれておりカッコ良くて可愛い。建物などの構造物や陳列される商品棚なども細かく描いたり、大胆なレイアウトを多用したり、マンガというよりもイラスト的で見ていて飽きない味わいがある。

また、単行本の先頭にウィリアムモリスの壁紙を思わせる装飾デザインを1ページ入れたり、昔のフランスのイラスト風のポスターの絵を入れたりとなかなかに洒落ている。

私は高野文子先生の漫画を連想した。ちなみに、西村ツチカ先生は男性である。

コミカルでカッコ可愛いルックのアニメーション

本作の最大の武器は、この原作由来のルックにあると言っても過言ではないだろう。

ルックについては細かな説明よりも、とりあえずこのPVをご覧いただいた方が早い。

キャラクターは、人間と動物に大きく分けられ、それぞれに特徴的にデフォルメされる。

人間のキャラクターは、原作漫画の線をさらにシンプルでシュッとしたラインに整えてきた印象である。キレのある動きと相まって、さらにカッコ可愛くなっている。

動物のキャラクターは、アニメーションゆえにインク画タッチとまではいかないが、人間とはちょっと違って、目に憂いを含んだ虚ろな表情を感じたのが印象的だった。

背景画はカラフルで、建造物などにみる精密さと、絵本のようなシンプルさが合わさった感じで、作品のファンタジー感に寄り添ったテイスト。

アニメーションとしての動きもキレキレ。コミカルなシーンが多いから、キレのある動きにがより楽しくさせるし、テンポも気持ち良い。動きの良さは、2Dアニメーションのベテラン職人の丁寧な仕事であろう。板津監督自信もアニメーター出身なので、このあたりは何度見ても飽きないクオリティになっている。

テーマ

「絶滅」と北極百貨店が存在する意味

「絶滅」とは、その生物種が地球上から完全にいなくなること。

生物種とは「生物分類上の基本単位」のこと。ある生物種の始まりは祖先種からの変異で誕生するのだろう。そして、子孫を残して、増やしてゆく事で生物種は存続できる。しかし、外敵や環境に適合できず自然淘汰されて子孫を残せない状況が発生すると、その生物種は絶滅する。

本作で登場する絶滅種について、下記の表に示す。

No.1 絶滅種 備考
1 ワライフクロウ 人間により移入されたフェレットなどに捕食された
2 ウミベミンク 毛皮目的で人間に乱獲された
3 ニホンオオカミ 絶滅は複合要因と思われる
4 バーバリライオン 見世物目的で人間に乱獲された
5 カリブモンクアザラシ 脂肪から油を取るため人間に乱獲された
6 ゴクラクインコ 鑑賞用に人間に乱獲された(飼育も困難だった)
7 ケナガマンモス マンモスの代表、別名ウーリーマンモス
8 オオウミガラス 北極にいたペンギン似の鳥
肉、卵、羽毛、脂肪目的で人間に乱獲された
人間を怖がらず捕獲しやすかった

本作で登場した絶滅種は、人間の乱獲が原因で絶滅に至ったものが多い。そして、北極百貨店の名前は、オーナーのオオウミガラスに因んだネーミングという事に気付く。

人間だけが絶滅の原因ではないが、人間の欲望により絶滅させられた絶滅種の動物たちを、消費主義の人間の欲望の象徴である百貨店でもてなす、というのが北極百貨店のコンセプトである。それは、せめてもの人間の贖罪であり、絶滅種への供養の意味があるのだろう。

物語

絶滅種たちの接客の流れ(おさらい)

今一度、本作の物語の流れについて、絶滅種のお客様ごとに振り返って整理してみよう。

本作は、この流れの通り、起承転結の四部構成に分けられると考えていいだろう。

起は、ワライフクロウの老夫婦とウミベミンクの父娘である。ここでは、危なっかしいながらも秋乃のファインプレイにより適切な商品を販売することで、無事にお客を喜ばせる事ができた。天敵であるフェレットがワライフクロウを喜ばせたい、というのはちょっとした皮肉である。

承は、ニホンオオカミとバーバリライオンのカップルである。ここは、秋乃が「コンシェルジュの辞書にノーは無し」と無理難題に挑んでゆくところであるが、個人で解決できない問題をレストランスタッフや香水コーナーの常連客などの協力プレイでクリアしてゆく。つまり、横の繋がりである。さらにポイントとしては、婚約成立や、カップル成立をアシストしている点で、絶滅種に対して子孫を残す手助けをしているところに意味がある。また、ワライフクロウから始まった絶滅種のお客様がどんどん若くなっているのも、絶滅種の動物たちが若々しさを取り戻してゆくような印象を受ける演出だと思う。

転は、カリブモンクアザラシ(文句アザラシ?)の女性である。彼女はクレーマー客として大暴れして秋乃を困らせ、土下座させようとした。すかさず、先輩の森が毅然とした態度でクレーマー客を追い返して事なきを得たが、秋乃はトキワからお客様のワガママを助長しクレーマー客にしたのは秋乃の手落ちと責められる。実はこのシーン、他者の都合にお構いなく一方的に欲望を振りかざしたという意味で、絶滅種から人間へのしっぺ返しになっている。

ここで、三代目オーナーのエルルが、北極百貨店もそろそろ変わるべき時が来たのかも知れない、と考えていたことに繋がってくる。そして、本作は「絶滅」というキーワードをモチーフに、他者を排除せず、他者と共存し続けてゆくにはどうしたら良いか?という大きなテーマにリーチしてゆく。

決は、ゴクラクインコの母娘と、ウーリーとねこである。

ゴクラクインコの母親は、1コインで百貨店の楽しさを買って帰りたい、と秋乃に無茶なお願いをする。プライスを超えた喜びの提供という難題である。秋乃の出した解答は、バーバリライオンのカップルに北境百貨店の楽しさを存分に伝える動画作成の依頼である。なお、バーバリライオンは、北極百貨店への恩返しの意味がある。つまり、商品を売るのではなく、相手に喜びを提供するというマインドでの変化である。ちなみに、この撮影を秋乃が行ったら秋乃は百貨店店員としては失格(クビ)だろう。この秋乃のマインドが他の動物たちに伝搬してゆく事がポイントである。これは生物種を超えた横の繋がりである。

ねこは彫像家として尊敬するウーリーの氷の彫像を壊してしまう。ウーリーはかなり前に亡くした妻への喪失感を持ち続けていたが、壊れた氷の彫像が妻のお気に入りだったことがさらに不運である。ウーリーは亡くなった妻の思い出さえ、だんだん失われてゆくという悲しみに打ちひしがれる。ここで、パティシエだったねこは謝罪として、ウーリーと妻の形を模したお菓子を彼に贈る。これを受けてウーリーは妻との思い出を鮮やかに蘇らせ、凍てつく心を少しだけ氷解させた。つまり、消えてゆく(=絶滅)の悲しさの中にあっても、思いがあれば心の中に生き続けるという救いである。そして、これは尊敬する師匠と弟子の繋がりでもあり、すなわち過去から未来への繋がりでもある。別の言い方をすれば、受け継がれる事で持続可能な世界(=絶滅せずに済んだ世界)である。

北極百貨店の未来の形

まず、エルルと秋乃のキャラクターの立ち位置を再確認しておく。

エルル(オオウミガラス)は北極百貨店のオーナーであり、絶滅種の象徴である。

人間のエゴが動物たちを絶滅させたのであり、その消費社会というエゴの象徴が百貨店である。北極百貨店は、店員が人間でお客様が絶滅種という逆転の構図で、人間に絶滅種への罪滅ぼしさせる、というのがコンセプトであった。それはエルルの先々代が始めた事であったが、エルル自体は北極百貨店の未来について考える事があった。

それには、おそらく2つのポイントがある。1つは、今回のカリブモンクアザラシのように欲望で人間を傷つけてしまったら、報復合戦の堂々巡りになってしまうという矛盾をはらんでいること。もう1つは、時代を経て人間が欲望のままに乱獲するようなことはなくなり、もう十分に反省して罪滅ぼしをしてきたということ。

そんな中で、エルルは人間の秋乃の存在に注目する。従来のコンシェルジュの仕事は、お客さの本当のニーズを引き出してサービスを提供し商品を売る事にあった。新米の秋乃もそれにならって、お客様に笑顔で帰ってもらうべく奮闘する。しかし、秋乃のがむしゃらな行動はコンシェルジュの仕事の枠を超えて、百貨店の他の店員やお客様も巻き込んで、お客様を笑顔にするためにさらに踏み込んだ行動をしてゆく。

ゴクラクインコの要望に1コインで対応するために、北極百貨店で廃番の香水を提供したバーバリライオンのカップルに、北極百貨店の楽しそうな雰囲気をスマホカメラで撮影してもらう。動物たちの種を超えたギブ(与える)の伝搬が、動物たちを笑顔にしてゆくという好循環を秋乃が構築してゆく。これは、かつての人間や今回のカリブモンクアザラシの一方的なテイク(=強奪)の排除を意味する。

エルルは、秋乃を見て、新しい時代の北極百貨店の未来を感じたのだろう。本来飛べないオオウミガラスも、時代の変化に順応して変わらなければならない自覚を持って、百貨店の上階からジャンプした。それは、人間の罪を赦し、北極百貨店のコンセプト自体も変えてゆく、という決意に感じた。

このような物語の〆方は、全員が善人である前提の甘い話に感じるかもしれない。しかし、物語というのはこうした救いがあってのものであろうし、これは私好みの展開であった。

音楽

とりあえず、PVで聴いた北極百貨店のサウンドロゴが、頭に残って離れない心地よさがあった。音楽はtofubeatsだが、劇伴全体としてみても、変に音だけが主張するということもなく、作品にマッチしていたと思う。

主題歌の「Gift」は、作曲編曲をtofubeats、作詞と歌唱をMyukが担当している。

今回の曲は明るくて楽しい雰囲気だが、Myukさんはもともと渋めのアコギでカッコ良く弾き語りをするシンガーの印象が強い。YouTubeチャンネルにオリジナル曲や、カバー曲の再生リストがあるので、興味を持った方は、是非聴いて欲しい。

おわりに

本作は、まずルックが好きすぎたところから入ったのですが、以外にも「絶滅」と「共存・共生」というテーマを抱えたちょっと良い話であり、そこが気に入りました。多くの人が気持ち良く観終えられる良作だと思います。

是非とも多くの人に観ていただいて、ヒットして欲しい映画だと思いました。

2023年夏期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2023年春期のアニメ感想総括です。今期の視聴は下記の4本。

  • BanG Dream! It’s MyGO!!!!!
  • わたしの幸せな結婚
  • デキる猫は今日も憂鬱
  • 僕とロボコ

視聴アニメ本数が毎期少なくなっているような気がする…。

実は「ゴールデンカムイ」とか「呪術廻戦」などもNETFLIXで観ていたりするが、こちらは過去作品というのもあり、こうした定期のアニメ感想総括からは省きます。

今期はなんだかんだ言って「MyGO!!!!」が話題だったような気がします。

なお、「僕とロボコ」の放送時期は2022年12月~2023年6月なので厳密には春アニメなのですが、NETFLIXが遅れて17話~28話を配信したので、夏アニメにカウントしています。

感想・考察

BanG Dream! It’s MyGO!!!!!

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • こじれ気味の女子の関係性をド直球に描く重めの青春群像ドラマ
    • ライブ映像が肝のアイドル・バンド物の中で、楽曲、脚本、演出の三位一体の融合レベルの高さ
    • ミステリー仕立てで飽きさせないシリーズ構成
  • cons
    • こじれ気味の女子の感情を描くため、こってり度が高く濃い目の味付け

ブシロードの伝家の宝刀「バンドリ」の最新作であるが、バンド同士が仲良しだった過去作品群とは違い、地続きの世界でありながら次世代の「MyGO!!!!!」というバンド結成までをフォーカスして描く。

監督の柿本広大、シリーズ構成の綾名ゆにこ、制作サンジゲンは、はバンドリ2期以降の鉄板の座組だが、今回はシリーズ構成も映像も楽曲も新機軸を入れて攻めている。従来のバンドリから一皮むけて、バンドアニメ、アイドルアニメの1つの到達点になったと言えるかもしれない。

従来のバンドリは、キラキラ、友情、楽しさみたいなのがベースにあって、その中で友好関係や信頼関係があったり、という感じだったと思う。「音楽」って音を楽しむって書くんだよ!みたいな。無論、ハッピーだけでは物語は成立しないので、トラブルが発生したりバンド解散の危機はあるものの、総じてプラス側の範疇で振れていただけであったと思う。しかし、本作の「MyGO!!!!!」は、ギスギスしてメンバー同士が傷つけ合いながら最終的にバンドとして成立するまでの、マイナススタートからゼロ着地の物語である点が新しい。

もともとは、中学時代に結成した「CRYCHIC」が初ライブ後、言い出しっぺの祥子により突然解散。辛すぎた解散だったが新たにバンドをやり直そうとする橙、ミーハーで素人だがバンドで人生をやり直したい愛音、単純に橙が大好きな立希、CRYCHICKをやり直したいそよ、気まぐれで野良猫みたいな楽奈。それぞれの思惑が交錯し、時に本気で相手を傷つけ、それでも必死にもがきながら生きる。

9話で絶望的にバラバラになった後、10話の「詩超絆(うたことば)」で橙の詩と各々の演奏により、それぞれの心の底から湧き出るこのメンツでバンドがしたいという感情が爆発する。そこはもう、台詞のロジックじゃなくて感情の爆発。これを楽曲の歌詞と歌声と演奏の映像に、そのまま物語とドラマを乗っけてくる演出が凄い。最初は橙の独唱からはじまり、楽奈のギター、立希のドラム、愛音のギターが順番に添えられ、最期にそよのベースが加わる。そして、奏者たちはそれぞれの表情で泣きながら演奏する。演奏が楽しくて泣く、演奏が嬉しくて泣く、わけわかんないけど心に刺さっちゃってわめくように泣く。

順番に楽器が演奏に加わってくる流れも10話の流れそのものだし、歌詞は10話までの傷ついてきた経緯と離れたくない気持ちをダイレクトに伝えてくる。これ以上、分断して傷つきたくない橙の心の叫びを、屁理屈で分らせるのではなく、詩と演奏で分らせる。私は脚本のロジックをいつも気にしているのだが、このライブシーンの破壊力の前にはロジックが些末な事のように思えてくる。それくらいインパクトがあった。思うに、脚本だけで「そよが涙しながら演奏に加わる」などと無責任に書けるものではないだろう。楽曲制作や、ライブステージの雰囲気、演奏シーンのレイアウトやカットワーク、そうした要素が全て足並みを揃える必要がある。この辺りのバンドを魅せる総合力の高い演出が本作の凄みであろう。ある意味、遊びが全く無い、ガチガチの作りである。

キャラクター的には主人公の橙のアスペルガー症候群と思われるキャラ付けが攻めていた。直近では、「Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-」も主人公が発達障がいを思わせるキャラ付けであったが、実は成績は優秀だとか、コミカルな作風ゆえにシリアスなキャラ付けはしていなかった。その点、本作の橙はどこから見ても、アスペルガー症候群と思われる行動パターンや仕草で破綻がない。

メンバーは、こいつとは分かり合えない部分を持ちつつも、トータル演奏してゆく仲間としては認めることで合意形成が出来ており、ミーハーな愛音にそよが嫌味を言ったりなどのテンプレ茶番劇みたいのは入るが、それはそれでリアルな距離感にも感じる。キャラクターが重要なソシャゲとの連携もあり、各キャラ毎に明確なキャラ付けが必要という背景もあるのだろう。その意味で、「MyGO!!!!!」のキャラ付けは11話で一度固まったと言っても良いだろう。

文芸面では、ミステリー仕立てというか、いくつかの謎を提示しつつ、少しづつ謎を解決しながら次の謎を提示するというスタイルで、飽きさせないストリー構成になっていた点もバンドリとしては新しい。そして、祥子が総合プロデュースする「Ave Mujica」というライバルらしき仮面バンドの存在を披露して、2期に続く流れである。こちらのバンドも、富豪から没落した祥子の狙いが分らず、集められたメンバーも今を捨て、仮面を付けて役を演じるような世界観重視のクセの強いバンドである。メンバーも知り合いが多いとはいえ、和気あいあいというよりもビジネスライク。「MyGO!!!!!」とは違った意味で、特に祥子にドロドロ、ギスギスしたモノを感じる。橙からの和解を拒否した祥子のメンタルが気になるところである。

総じて、謎を残しつつ視聴者の関心を弾き続けたシリーズ構成、安定したキャラの濃さ、百合味ある女女の関係性、痛々しい心の叫びのような楽曲群と歌唱、フルコーラスの迫力の演奏シーンなどなど見どころが多かった。単純に脚本、楽曲、3DCGレイアウト作画などが、個別に良い仕事をしているだけでなく、これらが密接にリンクしながら協業して最終的なゴールに向かって練り上げられていた、と感じられたところが本作の凄みだったと思う。

わたしの幸せな結婚

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 懐かしささえ感じるベタな恋愛メロドラマで、それが全然ブレないところ
    • リッチな映像と音楽、直球な演出
  • cons
    • 若干、異能(超能力)設定が分かりにくかったように思う

大正時代風の逆境冷遇ヒロインのメロドラマかと思いきや、「異能」と呼ばれる超能力設定により超能力バトル物としても楽しめる、一粒で二度美味しい作りになっている。恋愛メロドラマ部分が肝であり手を抜かないところが本作の美点である。

原作は、顎木あくみ先生によるなろう系小説。制作は「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」「メイドインアビス」のキネマシトラス、監督は久保田雄大。シリーズ構成は脚本と兼ねて佐藤亜美、大西雄仁、豊田百香の3人体制。音楽は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のエバン・コールというのは個人的にポイントが高い。

本作は、制作がキネマシトラスという事もあり、十分以上にリッチで美麗な作画・撮影で安心してみていられる。が、本作の強みはやはり、丁寧かつやや強めで分かりやすい演出にあると感じた。勧善懲悪な作風なので、憎たらしい相手を憎たらしく描くという意味で、本作のディレクションは分かりやすくベタなのが良い。

本作は、主人公の美世の感情の変化を丁寧に描く。美世は斎森家で常に否定され続け味方もおらず自己肯定感ゼロでのスタートである。清霞の元に嫁に出されて、徐々に人間性を取り戻し、一度は清霞とも誤解ですれ違うが最終的に美世が清霞を繋ぎとめるという流れ。声の演技は流石のCV上田麗奈で、当初のか細い声などボリュームを上げなければ聞き取れないような音量で、音響監督もかなり攻めていた。

総じて、絵コンテも作画、声の芝居も真面目にメロドラマを作っており、あまり深く考える必要もなく、ある種の心地よさと安心感を持って観ていた。

デキる猫は今日も憂鬱

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 軽い笑いと、たった一人の親愛な人への思いとの、笑いとしんみりの緩急のバランス
  • cons
    • 特になし

今期のダメ人間甘やかし枠。これまでは、ロリ少女などが社畜男性を甘やかしてきたが、今度は巨大黒猫が社畜OLを甘やかす。

まずもって、基本はコメディで楽しく観られる。小ネタのジャブを打ってくる感じだが、ジャブの応酬という感じではなく、若干パンチが散漫気味ではある。

巨大黒猫の諭吉は、人間よりも大きいくらいのサイズで二足歩行しエプロンを着て家事を完全にこなし買い物にも出かける。そして、子猫の時に拾って世話してくれたお礼に、ダメ主人公の幸来(ふく)のアパートで世話をする。諭吉が家事をこなす前、幸来は社畜OLとして汚部屋で暮らし毎日フラフラの状態だった。諭吉が家を掃除整頓して綺麗にし、きちんとした食事を作り、ちゃんと休ませ(寝かせ)る事で、今では幸来は社内では仕事ができるしっかり者として認定されている。それどころか、周囲の女子は幸来が好きになったりの百合っぽい部分もある。

きちんと生きるためには、身の回りの事をきちんとさえすれば自ずと正されるという話でもあるが、分かっていてもそれが出来ないからこそのファンタジーである。

本作が良いなと思うのは、甘やかし契約関係にある諭吉は拾ってもらったという恩返しから始まるが、諭吉も幸来もお互いに大切な存在という相思相愛的な部分がある事。とは言え、甘やかしすぎず、時に厳しく接し、やれやれと結局世話をするような距離感である。

やはり、主題歌の「憂う門には福来たる」ではないが、普通の幸せさえも遠く感じてしまう息苦しい世の中に対する救済的なテーマがあると思う。たった一人の大切な人に思い思われる事に帰結するというのが、本当に切実である。

最期になってしまったが、アニメーションとしての出来はなかなか綺麗で良い。制作のGoHandsの実力もなかなかだが、幸来の利き手が時々逆になったり、ちょっとしたところが色々と惜しい感じである。通勤電車やオフィスの3DCGも凝った感じも特徴に感じた。

総じて、そこそこ笑えたし、大切な人を大切にしたい気持ちが通底していて、地味に心地よく観れた佳作だったと思う。

僕とロボコ

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 1話3分の超ショートアニメという制約による、ハイテンション、ハイテンポの勢いで笑える不条理ギャグ
    • ロボコの可愛さ(非萌え)
    • 意外としっかりしたドラマ作りがされている脚本(バラつきあり)
  • cons
    • 特になし

1話3分のショートアニメのハイテンションなギャグアニメ。原作は宮崎周平先生による少年ジャンプ連載漫画。

察しの良い人なら大地丙太郎監督で3分のショートアニメと聴いて「信長の忍び」を連想する人も居るだろう。本作の詰め込み度合、ハイテンション感はまさにそれと同じで、ハイテンポなギャグの応酬でかなり笑えた。それから、本作はかなりの部分にジャンプ漫画などのパロディを入れているのだが、元ネタが分らなくてもまったく問題なく楽しめた。シンプルに馬鹿笑いしたい人は一度観ていただきたい。

実は私は、NETFLIXで観たのだが、4話パック×7本=全28話となっており、全部観ても84分である。TV放送でブツ切りで観るよりも配信で連続してみる方が、笑いのツボを持続できる分だけ効果的に笑えるので、おススメである。

本作のキャラ配置だが、基本的に「ドラえもん」のまんまである。猫型ロボットの代わりに、オーダーメイド(メイド型ロボ)が居候するが、まん丸で愛嬌のあるブス顔、膝小僧の出っ張りがリアル、そして最強というキャラ付けが可笑しい。

主人公の凡人、友達のガチゴリラ、モツオ、円などのキャラのテイストはモチーフにしている作品そのものだが、暴力や金持ち自慢と見せかけて実はイイ奴というオチなのが新しい。この辺りは令和テイストの優しさでストレスなく気持ち良く観られる。

コンパクトにまとめながらも脚本の巧みさも感じる話もある。たとえば私が好きな15話のメイコ回。メイコはモツオの家のオーダーメイドだが、周囲のみんなを笑顔にするロボコに憧れがあった。多忙を極めるモツオだが父の嫌がらせで友達と遊べない事を嘆いているところを、ロボコを見習ってモツオの尻をひっぱたいて元気づけるというギャグシーン。メイコは普通のオーダーメイドだから規格内の行動しかできないところ、ロボコのように弾けてご主人様を励ませたというメイコの問題解決(=成長)の物語になっている。3分しかないからこそ、この辺りの情報の交通整理は大変だと思うが、これも過密カット割りで説明しているおかげで成立している。

ビジュアル面の基本は子供向け作品のそれだが、ギャグの元ネタなどに合わせて絵のタッチを劇画調やオカルト風味に変えたりと、芸が細かい。

色々と真面目に悪ふざけしている本作だが、2014年冬には劇場版を公開するとの事。本作の詰め込みは3分のショートアニメだから成立したものだが、劇場版の長尺で脚本やテンポ感はどうするのか? 想像がつかないことだらけだが、これはこれで楽しみにしている。

おわりに

今期はあまりアニメを観ていませんでした。そんな中で、「MyGO!!!!!」は出涸らし感のある女子バンド物というジャンルで、まだまだ視聴者を引っ張る作品の作り方があるのだな、と新しさが感じられました。

「僕とロボコ」は、3分間ショート枠ギャグアニメとして素直に馬鹿笑いできた作品でおススメです。ギャグアニメで素直に馬鹿笑いできる作品は少ないが、こうした詰め込み型ギャグのテンポ感がギャグアニメの1つのスタンダードになってきている感がありました。

最近、アニメ視聴をNETFLIXに依存している部分が多く、作品的に偏りが出ていると個人的には感じています。もう少し、知られざる佳作を見たいという気持ちもあり、秋期アニメは大作が多い時期でもありますが、その辺りのバランスを取れたらいいなと思いました。

アリスとテレスのまぼろし工場

ネタバレ全開に付き、閲覧ご注意ください。

はじめに

岡田磨里監督脚本作品の第二弾。

冬の製鉄所の荘厳ささえ感じさせる侘しくも美しい背景や、垢ぬけていない絶妙なキャラデザや、熱のこもった絵や声の芝居など、現代のアニメーションの出来としては申し分ないと思います。

しかしながら、なぜか他の人の感想にあるような「感動」には至らなかったというか、私は涙腺が弱い方なのに泣けなかったというか、なんかこうドライに鑑賞してしまった、というのが率直な感想です。

いつもの岡田磨里作品だったなぁ、というのはありました。

なぜ、こう私が個人的に感動が抜けてしまったか、については少し考えてみましたが、あまり整理できませんでした。

感想・考察

設定

まぼろし」と「現実」

本作を理解するためには、見伏市の「まぼろし」の設定について整理しておく必要がある。

見伏市は1991年の大事故の発生とともに完全に隔離された「まぼろし」の世界ができる。その「まぼろし」の世界は、季節が流れず人間は年齢をとらないが、中の人間は変わらない日常を毎日繰り返し生活している。「まぼろし」は外部とは完全に遮断されているため、見伏市の外に出る事も、外部からの来訪者もない。

外部と遮断され、変わらない日々を何年も過ごす事になるのだから、普通に考えたら発狂するような話である。しかし、中の人間たちはその変わらない日常を維持し続けようとする。

それから、ときおり発生するヒビ割れ現象と、それを修復する神機狼の存在も説明せねばならない。

この世界は正宗の祖父が考えるには、見伏市の一番いい状態を神様が残しておきたかったから「まぼろし」を作ったというもの。中に閉じ込められた人間の魂はたまったものではないし、、神様は無慈悲である。

そして、中の人間が「まぼろし」の中で生きる希望を見失うと、ヒビ割れが発生し、「現実」の世界が垣間見えたりする。しかし、この世界を維持するために製鉄所の煙から変化した神機狼がそのヒビ割れを修復し、その人間は神機狼によって消滅させられる。つまり、「まぼろし」からのリタイアであるが、残された人間から見れば蒸発という事になる。

基本的に死ぬことはないので葬儀もない。妊婦もお腹の赤ちゃんも年齢を取らないので出産する事もない。生死がないから、狂っているとしか言いようがない。

ここで重要なのは、変化を望む者が消されているのではなく、「まぼろし」に居る事に絶望した者が消されているところである。物語序盤に変化しない事に務めていたが、それ自体がミスリードだった事が途中で分る。

岡田磨里恒例の成長や時間のギャップのモチーフ

岡田磨里作品では、今までも時間のギャップをテーマにしている作品が多い。

さよならの朝に約束の花をかざろう」では、人間よりもはるかに寿命の長いイオルフのマキアが人間に囲まれて生きてゆく事により、少女のまま老けないマキアと、成長し死んでゆく周囲の人間の対比の物語を描いた。

「空の青さを知る人よ」では、慎之介の13年前の無念の気持ちがそのまま実体化した「しんの」が登場し、年を取って変化した(=老いた)慎之介と、まだ少年のしんのの対比のドラマを描いた。

今回のまぼろし工場では、製鉄所の大事故の前で時が止まってしまった正宗たちの居る「まぼろし」自体が、「しんの」と同じように過去に捕らわれて進めなくなってしまった世界を表している。その時の止まってしまった世界に、成長する「五実」が迷い込む事によって、停滞していた正宗たちの心に変化をもたらすドラマという事ができるだろう。

過去作には片方だけが成長し変化してしまう侘しさのようなドラマがあったが、今回は主観が停滞側であることと成長するのが五実の幼少期だけなので、そのような人生の侘しさのニュアンスは弱い。逆に、凍り付いていた気持ちを再び燃やし直すための火種のように五実は扱われていたと思う。

テーマ

痛みを伴う変化≒生きる、というテーマ

本作のテーマは、

  • プラスであれマイナスであれ、変化してゆく事が「生きている」実感となる
  • 変化は痛みも伴うかもしれないが、それを恐れて変化しないのは、死んでいるのに近い

だったのではないかと思う。

ただ、「まぼろし」の世界は人間が暮らすにしては異常な世界である。季節が変わらないのは環境の差と考えられるかもしれないが、人間が年齢を取らないという事を悲観して絶望してしまうのは仕方がないかもしれない。本作は物語ゆえに、それでも主体的に考え変化を恐れずに前進する事を賞賛して描いていたと思う。

他の人のブログを読んでいて、ド直球だった解釈である。

  • 過去の辛い事件から目をそらしてもダメで、過去の痛みに向き合わなければ前に勧めないし、進んで欲しい(過去の辛い事件=3.11、京アニ事件)。

これは、今の時代に扱うテーマとしては、ジャストミートなテーマであろう。

まぼろし」の中で変化する/しないに戸惑う人々

はじめははっきりしない「まぼろし」の設定は劇中で徐々に明かされゆくが、その状況に応じて人々の対応も変化してゆく。

当初は、人々は極力現状維持に務めている。おそらく、ヒビ割れ現象で人間が蒸発する事があり、人々を不安にさせないために、このような指導がされたのではないかと思う。

そして、正宗のクラスメイトの園田の消失を経て、佐上が神様を引き合いに出して何らかのバチがあったたのだという言説を持ち出す。度重なる超常現象に理由付けが必要だったのだろう。

その後、正宗と五実が目撃した真夏の「現実」世界の目撃を経て、「まぼろし」世界が「現実」から切り離された置いてけぼりになった世界である事を正宗の叔父の時宗が説明する。これにより、「まぼろし」内の人間は「現実」に戻る事もなく、ある意味「生きても」いない事を自覚する。

ここまでで、もう何年この1991年の冬を繰り返してきたのか分からない。「現実」の世界で垣間見えた正宗と睦実の風貌から考えると30歳くらいには見えたので、ざっと16年は経過していたのかもしれないし、「現実」と「まぼろし」の1日の進み具合が同じとも限らないので詳しい事は言えない。ただ、いつかは戻れると信じていた拠り所が一気に崩れてしまった。その意味では、もう暴動が起きても不思議じゃないが、やはり現代日本だけあってそこまでの混乱にはならなかった。しかし、仙波のように生きる意味を見失い神機狼に消されてしまった者も多発した。

もともと、佐上は変化をさせずに「まぼろし」をずっと維持させたい考えだった。時宗は、この「まぼろし」の茶番を終わらせる側だったが、変化すると同時に「まぼろし」で生きるための悪あがきを模索しはじめる。溶鉱炉に火を入れ神機狼を呼び出しひび割れを修復する。火事場の馬鹿力と言ってよいだろう。そんな中、正宗と睦実は五実をトンネルを通じて「現実」に返すために、とある作戦を決行する。

ここから先は、映画のクライマックスのアクションシーンとなり、正宗や睦実の友人たちも味方だったり敵だったりと、各々が主体性を持って自分の信じる行動をとる。それこそが、停滞していた世界で生きる活気を取り戻した実感なのだと、スクリーンから伝わってくるような気がした。

この見伏市民たちのマインドの流れは、色んな断面があり、色んな比喩に当てはめる事ができるだろう。

例えば、閉そく感があり突破できない壁を感じている人は、このラストの躍動感溢れる展開に、先が見えなくとも、もがいてこその人生というテーマを感じるかもしれない。

例えば、「まぼろし」の中の人間は死んだ人間なので、死んでも本人が望めば生きる事は叶うのだ、というメッセージを感じるかもしれない。

あるいは、神様が見伏市の一番良い所を残したという仮説だが、良かった過去にすがっていてもダメで、良くなるにしろ悪くなるにしろ人間には変化が必要なのだという教訓を感じたかもしれない。

この辺りは、観る人によって感じ方は変わると思うが、こうした解釈がワンパターンにならない深みを感じさせるところは、本作の美点であろう。

キャラクター

主要人物相関図

ここでは、主要人物の3人の相関図で、互いの関係を整理しておく。

主人公の正宗は、見た目に女子っぽさのある中学二年生の男子。素行不良という感じでもないが、自分確認票は一切提出しなかったところに、反骨精神も持ち合わせている事を伺わせる。

ヒロインの佐上睦実は、不良っぽさもある、掴みどころのない謎の美少女であり、正宗のクラスメイト。妙に正宗に突っかかっている所があり、正宗にパンツを見せて挑発したり、色々と奇怪な行動や言動が多い。

母子家庭だったところ、母親と佐上が再婚した。母親は一切登場しないが、「まぼろし」の前か後かに居なくなっている? 義理の父親の佐上にはかなり辛辣な態度をとっている雰囲気を伺わせていた。本作の肝は、睦実のマインドの捻じれ方にあると思うが、そこにリーチするにはかなりの妄想が必要になる。

さて、もう一人のヒロインの五実だが、彼女は「現実」から迷い込んだ正宗と睦実の一人娘のさきである。5歳の時に迷い込み、現状の見た目から察するに10歳くらいに見えたので、「まぼろし」で約5年間暮らしていたと仮定する。暮らしていたといっても、森の狼に育てられた少女みたいに、言葉を話すこともなく、服装も汚らしく野生児のような雰囲気だった。彼女は「まぼろし」の中で唯一成長する存在であったため、「まぼろし」の崩壊を恐れた佐上が、第五高炉に幽閉されていた。

物語の途中で、この3人は互いを意識して異性として好きになったり嫉妬したりする。しかしながら、彼らは時代を飛び越えての人間関係で、父親⇔娘で好きになったり、母親→娘に嫉妬したりという、アンモラルな要素も持ち合わせているところが岡田磨里風味である。ただ、そこに全面に押し出しているわけではないので、そこまで気持ち悪い感じはない。

菊入正宗

正宗を見ていて、男子が女子を好きになるキッカケと、好きというフラグが経ってしまうタイミングみたいなのを考えていた。

睦実の容姿は女子としては可愛いの範疇に収まるのだろうが、性格がキツイ。キツイがパンツを見せびらかしたりして挑発してきて、睦実から気を引こうとしている部分があった。

そうこうしていて、五実の世話、園田の消失、睦実と五実の同居と色々なイベントが起きて睦実との距離が縮まって行く。向こうから嫌いだという言葉も出てくるし、こちらも釈然としない。だけど、気になってしまう。男子としては、普通の器量の女子なら、身近に一緒に行動するだけで、ちょっと好きになったりするものではなかろうか。

その意味では、五実の世話をしていて、小動物のような自由奔放さを好きになる、というのも分らなくはない。なにせ、「まぼろし」の世界では成長しながら生きる人間が居ない。

睦実に対して好きのフラグが経ってしまってから、「現実」で夫婦となっていてその子供を今預かっているとなると、それはそれでモヤモヤするものだろう。原→新田の公開告白に触発されて、睦実に告白するも「現実」の大人になった睦実と同一人物な訳じゃないと一度は拒否られる。立ち去ろうとする睦実を追いかけて、押し倒して同意の上でキスをする。

恋愛の衝動が「まぼろし」の中で凍り付いていた二人の心を溶かすと同時に、それを目撃した五実の心を傷つける皮肉な展開。

五実を「現実」に戻すのは「現実」の正宗と睦実夫妻の覇気の無さを知ってしまった事もあるが、もともと正宗の父親の昭宗の果たせなかった意思を引き継ぐ意味もある。未来のある五実は「まぼろし」という過去に縛られてはいけない。

普通なら正宗の無茶で大胆な行動を青春と片づけられてしまうところだが、「まぼろし」という閉塞感のある設定があるからこそ、それを乗り越える大きなドラマとなりうる。そういった構造的な上手さもあるな、と感じた。

五実

五実はシンプルである。動物的な本能で自由奔放に行動した事から、「まぼろし」の中での「生きる」をけん引したキャラクターだったと言えるだろう。

睦実からは言葉を与えられなかったが、世話をしてくれた睦実に対する「好き」はあったし、途中から世話をしてくれた正宗に対しても「好き」はあった。睦実はそれを異性に対する「好き」と言っていたが、個人的には異性を意識した「好き」と明言した訳ではないような気がしていた。

正宗と睦実の駐車場での抱擁とキスを見かけてショックを受ける。「好き」であった二人がイチャイチャしている。「仲間外れ」という台詞であったが、動物的な激しいスキンシップに衝撃を覚えた。直感的にこれが愛し合う事だと分ったのかもしれない。そして、正宗と睦実を嫌悪して二人から離れた。

正宗と睦実は狂った「まぼろし」の世界から本来の「現実」に戻す事を画策する。佐上が五実を花嫁衣装にした経緯は忘れてしまったが、花嫁衣装は両親の元から旅立つ衣装である。

いよいよ「現実」に戻る直前に、睦実が「正宗の心は私のモノ」的な発言をし、五実は心底寂しそうな顔をしたので、やはり正宗を異性として「好き」だったのかも知れない。

睦実は、未来の可能性という何でも手に居られらる五実に対して、敢えて心の傷を1つだけ残した。その負の感情も歳月が経てば切ない良い思い出となる、というようなエンディングだったように思う。

五実は正宗と睦実の事を、「まぼろし」に取り残された両親であった事は、大人になって製鉄所跡地に来て確信したのかもしれないし、そこはご想像にお任せというところだろう。

佐上睦実

本作の肝は、佐上睦実のキャラクター造形にあると言っても過言ではないと思う。

不思議な雰囲気をまとった謎多き少女だが、物語が正宗視点な事もあり睦実の内面が事細かに描かれることはなく、正宗同様に睦実の行動に驚かされながら映画を見進めてゆくことになる。

そうは言っても、睦実の存在感というか、本当に居そうな感覚は確かにあった。岡田磨里作品の傾向としてキャラが生っぽい感覚。物語で切り取られない部分も、確かに生きているという感覚。この辺りは声の芝居(CV上田麗奈)の力添えも大きい。

ただ、そうしたリアリティを感じつつも、睦実がなぜ時に攻撃的になったり、なぜ五実に対してペットを育てるような世話の仕方をしたのかのマインドは掴みにくく、最期まで睦実の内面に深く踏み入れられなかった。その意味では、睦実は観客にもガードが固い。そんなわけで、とりあえず、睦実のプロファイリングで頭を整理しつつ、感想・考察を下記進めたい。

まず、睦実の周辺人物についての整理である。

基本的に、睦実は男を毛嫌いしている。離婚した父親、母親の再婚とともに義理の父親となった佐上がロクな人間ではなかったのだろう。母親の男運の無さにも呆れていたのかもしれない。

義理の父親というと義理の娘に対する性的暴力を想像してしまうが、佐上の気弱な性格や、睦実の反抗的なキツイ口調などから察するに、そこまでの事は無かったのだろう。ただ、ダメな男に振り回されてしまう母親に対する憤りのようなモノもあったのかも知れない。

佐上の言いつけで五実の世話をしていた訳だが、クソ野郎とは思いつつも従っていたという事実は、結局頼らなければ生きてゆけないという自覚はあったのだろう。その意味では、屈服であり、鬱屈したものが蓄積していたのかもしれない。記号的にはロングスカートはスケバンやヤンキーであり、別の言い方をすれば、愛に飢えていた。

五実の世話をする際に、人間としてではなくペットを育てるようにしていたのは、五実が人間として成長させないという佐上の指示であったからだと想像する。そのために言葉も与えず、知能は上がらず、野生児のように育っていった。

それから、五実を世話する際に冷たく距離をとっていた事については、情が湧いて「愛してしまうかもしれない」ことを恐れたから、という台詞があった。愛される事を知らない少女は、愛し方も知らなかったのか。それでも、手編みのダボダボのセーターを五実に与えたというのは、五実を思いやる気持ちの現れであり、睦実の変化だったのだろう。五実を虐待する事無く、育ててゆく過程で、睦実の荒んだ内面のケアがされていった側面はあったかもしれない。

睦実が正宗の気を引くためにパンツを見せたり、試すように挑発したりしたのは、異性として意識した事の現れである。異性として正宗を選んだ理由については、やはり現実世界の未来の夫である事を知って意識してしまった可能性は高いと思う。相手の事を知りたいから、五実の世話を手伝わせ、正宗の事を知ろうとした。

とにかく、他者に対して疑り深く、心を開かない。やたらと男を毛嫌いしているように見えた。

正宗には興味を持っていて、パンツを餌におびき寄せたり、五実の世話役を手分けさせたり、共犯者として巻き込みつつ正宗自体を品定めしていた。それもこれも、正宗の事が気になる存在だったからだろうが、正宗が「現実」での夫で、五実が自分たちの娘である事はいつから知っていたのだろう。

五実が正宗に対して心を開いてゆくのを見て、五実が変化して「まぼろし」が壊れないか心配するが、本心では少なからず五実に対する嫉妬もあったのだろう。それにしても、時代をまたがっているとはいえ、将来の夫と未来からきた娘の関係に嫉妬するというのは複雑で凝った設定だが、この辺りも岡田磨里節が冴えるところである。

正宗とのキスのシーンは、正宗の気持ちとほぼ同じだろう。最初は嫌いな所が目立っていた相手だが、一緒に行動するうちに気になりだして、好きになってしまう。そて、その気持ちが大きくなり止められなくなる。

ラストで機関車に乗って「現実」に五実を送り届けるシーン。電車を降りるまでの時間が長い。その後、「正宗の心は私のモノ」的な発言で五実の心に詰め後を残しつつ、ギリギリまで「現実」に戻る五実を見送った。もしかしたら、あの時間は「現実」世界について行こうかという躊躇だったのだろうか。

最終的には、正宗と抱き合って土手を転がり落ちてくるが、睦実がそれを選択した事が生きたいという意思を示していた、と思う。

おわりに

色々と気付くところを書いてきましたが、いざ本作の感想はというと、それがあまり書けませんでした。

物語のロジックは分りますし、変に引っかかる所もありませんでしたが、本作の「まぼろし」の設定と睦実の気持ちに振り回されないようにロデオにしがみ付く気持ちで鑑賞してたらか、非常にドライな感じで見終わりました。つまり、他の感想でちらほら見かける「感動した」という感覚はなかったというのが率直な感想です。

また、鑑賞後も「まぼろし」の中の正宗や睦実は身体的な成長は無いわけで、彼らはどのようなマインドでこれから先どうなるのだろう、という気持ちも後から湧いてきました。

ただ、岡田磨里脚本の色恋のドラマは、不思議と肝が座っているというか、キャラの気持ちを理解しきれなくてもキャラとして違和感を持たずに受け入れられる安心感がありました。ぶっちゃけ人間関係なんて相手を見透かしきった付き合いなんてありませんから、それをリアルに感じられるのだと思います。

結果、いつもの岡田磨里作品だったな、という感覚でした。