たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

竜とそばかすの姫

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。 f:id:itoutsukushi:20210725162936j:plain

はじめに

細田守監督最新作「竜とそばかすの姫」の感想・考察を書きました。

個人的に、細田監督の作品は、余り観ておらず、かなり以前に「時をかける少女」をTVで観たという程度のため、他の細田監督との比較考察はありません。ただ、毎度賛否両論になる細田監督の作品という事で、興味を持って鑑賞しました。

率直な感想を述べると、ケチの付ける所が無いバランスよいエンタメ作品だと感じました。

以下、いつもの感想・考察になります。

下記の章を追記しました。

  • 本作の賛否両論についての考察<2021.7.29追記>

感想・考察

ネットとリアルの対比

ネットもリアルも否定しない今風なディレクション

ネット世界の描写はド派手。3DCGを活かして、立体的で精細。それでいてお城のシーンなどは不思議と調和のとれた色彩で嫌味が無い。絵としてはパンフォーカスな感じでノイズが無い鮮明なモノである。

一方、リアルワールドの描写は、従来からの手描きの作画、背景の領分であり、ある意味地味に描かれている。絵としてはフィルムで撮影した際の空気感を感じさせる、落ち着ける映像である。

このギャップをメリハリを付けて描くことが、本作のポイントになっている。

そして、本作は、どちらか一方を否定する事無く、ネットもリアルも両方とも肯定している点が今風である。

例えば、2007年のTVアニメ『電脳コイル』は、ネット(正確にはネットに繋がったAR:拡張現実)を子供が熱中するゲームの様な世界として描いた。作中の大人視点では、大切なのはリアル、ネットはいつか卒業すべきモノとして否定的に描かれていた。しかしながら、本作では誰もネット自体を否定しない。

本作のテーマで言えば、ネットの世界でも勇気は必要だし、リアルの世界でも勇気は必要である。その取っ掛かりをネット世界で変身する事で掴んだり、ネットの経験を元にリアルでの勇気にフィードバックしたり、二つの世界でアバターが違えども、同じ魂で繋がっている事で、ネットとリアルの良い相乗効果が望ましいとして描かれていた様に思う(というか、そう汲み取った)。

もはや、ネットは人類が掴んだ新しい生活必需品(=道具)という事であり、そのディレクションが今風だと思う。

ド派手な今風のネットワールド<U>

本作のネット社会は<U>と呼ばれている。ネットワークで接続された、個人のデバイスがその人に応じた拡張現実を提供する。繰り返される謳い文句は、<U>はもう一つの現実、ASはもう一人のあなた。<U>はもう一つの人生をネットの中で提供する。つまり、変身願望を叶える事が出来るかも知れない世界である。ただし、ASはリアルの身体の拡張現実であり、魂の部分は同一なのが大前提である。

よくよく、ディズニー映画の『美女と野獣』のオマージュという意見を見かけるが、私はこれさえも、ネットのインターナショナルなエンタメ性を具現化した表現だと想像している(ちなみに、私は『美女と野獣』は未鑑賞)。

すずは、リアルでは母の死がトラウマで人前で歌えなくなっていた。しかし、ヒロの招待により<U>に接続して、BELLEに変身する事で歌う事が出来た。ヒロはBELLEと歌をプロデュースし、プロ顔負けの立派な楽曲に仕立て上げ<U>の世界でバズらせる。ネット内の評価は、最初は取るに足らない感じから、批判的なモノ、好意的なモノが混ざり、次第に大きな渦を巻いて、賛否両論となる。ネットの世界で賛否両論は正常な状態。賛成100%は何か裏があるし、本当につまらなければ無視される。こうして、BELLEは<U>の世界でライブで圧倒的な視聴者数をカウントする新たな歌姫となった。

ここまでの部分は、ネット世界で変身して魂を解放し成功するというサクセスストーリーになっている。なので、観ていて気持ちが良くて引き込まれる映像になっている。

その後、ネット内の狂暴な存在として竜が登場する。ネット内で破壊を繰り返し、ネット民のヘイトを溜める。そして、それを取り締まるジャスティスと名乗る自警団。いわゆる、「〇〇警察」や、行き過ぎた正義を振りかざし、ターゲットを身バレさせて攻撃する悪役として、現代のネットの風刺して描く。そして、なかなか捕まらない竜の存在についてネット民の関心が集まりつつあった。

ネットの世界は刺激的であり、サクセスストーリーもあり、様々な芸術やエンタメに触れる事が出来る。しかし、このようなノイズも多く、心休まらない感覚もある。だからと言って、本作はネットを風刺する事はあっても否定する事は無い。

ネットとリアルの二つの世界を結ぶ「身バレ」のリスクの扱い

ネットの世界は匿名が基本である。しかし、ネット上の炎上案件でヘイトを溜めたアカウントに対して、リアルの個人情報を特定して公開し、リアル世界でその個人に嫌がらせをしたり迷惑行為をする。これが、いわゆる「身バレ」である。

本作では、この「身バレ」は2回使われた。

1つはヘイトを溜めた竜の攻撃する手段として。これは、先の説明通りである。

もう1つは、身バレした竜(=恵)の信用を取り戻すために自ら身バレして<U>の世界で「すず」の姿でBELLEの歌を歌ったところ。

これは、リアルでの接続を持つ必要性からの苦肉の策ではあったが、ネット内でもすずの容姿に対する落胆だけでなく、応援の声も混じり、その歌声自体はまごう事なきBELLEの歌声であり、ネット内の聴衆を釘付けにする巨大な渦となる。それは、リアル(の容姿)でも自信を持って歌う事が出来たすずのトラウマ克服の姿を描くと言う、物語のクライマックスとして重要なシーンである。

これにより、従来のBELLEという存在は、恐らく消滅してしまうのだろうと想像する。ネット民は、その意味を知らないが、その歌に感動する。また、ある者は、平凡な女子高生がこれだけの魅力を持つヒーローになれる事に感銘を受け勇気づけられる者も居る。でも、それはついでの事というのが押しつけがましくなくてよい。

地味とも言えるリアルワールドの表現

ネットのクライマックスに対して、リアルのクライマックスは、驚くほど地味に描かれる。

具体的には、恵と知の住所を特定して、すずが高知から川崎に向かい、父親の暴力から恵と知を守るシーンであるが、この部分は、映像的には驚くほど地味である。すずの恵と知を守るという意思の強さを目力で父親が気圧されるというシーンであるが、メラメラとしたオーラが透過光で滲み出て気迫を描く、というような非現実的な演出は一切ない。ネットの聴衆のような観客も居ない。

このシーンは坂道を横から撮影するシンプルで平板な構図を使っていた。他にも、川べりを歩きながら会話するシーンが多用されるが、そこも画面の中央を大きく川面が占有し、その中に人物を置くという平板な構図である。しかも、割と重要な心象描写のシーンでこの構図を使い、登場人物の向きも重要な意味を持つ。それは、舞台上で演劇をイメージさせたりする。ここも、立体的に見せていたネットとの対比と考えられる。

それから、リアルのシーンは必要以上に登場人物の顔に寄らずに、引きで撮影しているシーンが多い。この辺りも、リアルの芝居がダイナミックになり過ぎないようにするための工夫では無いかと考えている。

また、校内の中庭の周囲を囲う校舎と廊下。これは、コロシアムを連想させるものであり、二階廊下の観客が、中庭の舞台を観劇する事を連想させる。ただ、リアルでステージ上に居るのはルカであり、すずとヒロは一観客でしかないのだが、それがネット内ではひっくり返るというフリである。

映像自体は、細田節全開の線の細いキャラクター。背景は手描きの味わいがあるちょっとボケ気味のモノであり、ここも敢えてネットのようなクッキリ感を排除している。

総じて、リアルワールドは、ネットワールドと比較して意図的に地味に描かれていたと思う。もっと言えば、より実写的な映像を多用する事で、ネットの3DCGで描くダイナミックな世界と書き分けていたと思うし、そこは徹底していた。

物語・テーマ

本作は、母親の理不尽な死を受け止められず、10年間も悶々としてきた(=よりハッキリ言うなら母親を許せなかった)すずが、自らの体験を通して母親の気持ちを理解して、憑き物が落ちるという流れである。物語としては綺麗に成立している。

この10年間のすずを、父親も、ヒロも、しのぶも、合唱隊のおばさんたちも見守ってきた。特にヒロは、<U>の世界で自身の交友関係を使ってすずをBELLEとしてプロデュースし、すずの魂を解放した(ヒロ個人が楽しんでいた面は多分にあったが)。父親が電話で(グレずに)優しい子に育ってくれた、という裏には、こうした周囲の人間の力が有った事を想像させる。

一方、恵は父親からの虐待にあい、心に深い傷を負っていた。竜の城の女性の絵画のガラスのひび割れからすると、母親の事も憎んでいたのだろう。愛のない環境で、知を守る為に一人で孤独に戦ってきた。ありていに言えば、恵の救いはすずが合いの手を差し伸べ、父親から護る事で、孤独から救われるという事になる。

ただ、BELLEが竜に惹かれていった経緯というのは、ちょっと分かりにくく感じた。本質的には、すずが前足を負傷していた犬を飼っていた事と符合するのだが、すずは心に傷を負った弱者に対して敏感であり、救済する心を持っていて、その視点で直感的に竜の痛みを感じたから、というのが妥当だろう。その根底にすずの優しさがあり、その延長線上にすずの勇気がある。

テーマとしては繰り返し使われるモチーフで有り、物語としては非常にシンプルであると感じた。

それゆえ、難解ではないと思うが、より複雑なモノを好む観客からは、パンチが足りないと感じるのかもしれない。

個人的には、とっ散らかって投げっぱなしの作品よりも、綺麗に成立している物語を好むので、好印象しかない。

ディズニー調のデザインと歌唱の役割

本作が、細田守監督作品として挑戦的だなと思うのは、ネットワールドの映像を、ディズニーを連想させるデザインを多用してきた所にある。いわゆる、ジャパニメーションが培ってきた萌えの文法から外れたヒロインのデザインが本作のテイストの重要な役割を示す。

それは、パラダイスとしてのネットの具現化として、全世界共通知であるディズニーを基調とする事で、そこが夢の世界である事を直感的に分からせる事。それは、ターゲットをワールドワイドと考えた際に、より効果的なディレクションだと思う。

BELLEのデザインは明確なディズニーの文法で造られる。ロングドレスに引き締まったウエスト。大きな目と力強い唇。アイシャドウと口紅はしっかりと。誰が観てもお姫様というアイコンである。

そして、お姫様の歌唱も力強くてアナ雪を彷彿とさせる、誰もが凄みを感じる非常に出来の良い仕上がり。

本作がネットとリアルの二面性を持つ作品だからこそではあるが、このように大胆に従来の文法からかけ離れた作風を取り入れられた面はあると思う。しかし、それをソツなく仕上げているのは、何気に凄い実力なのではないかと思う。もしかしたら、人脈的にも作風的にも、今後の細田監督の作品に大きく影響するのかもしれない、などと想像していた。

ただ、理性では狙いは分かっていても、個人的にはディズニー調のお姫様というのはどうしてもケバく見えてしまって萌えられず…、という気持ちが有った事は正直に記しておく。

本作の賛否両論についての考察 <2021.7.29追記>

本作の脚本が駄目だ!と主張する意見をSNSで良く見かけたのが、個人的にケチを付ける所が無いと感じていたので、具体的に何が問題視されているか、ブログやYoutube動画の感想を漁ってみた。

否定派のポイントをざっくり整理するとこんな感じだと思う。

  • リアルのラストの虐待児童を助ける下りに違和感あり!
    • 女子高生1人が遠方の児童虐待の児童を助けに行く。
      • 危険。大人を付けるべき。
      • 虐待の父親が逃げ出すが、説得力(=論理)の無いご都合展開。
      • 児童虐待は社会問題。女子高生1人に任せる展開が不自然。

まあ、なるほど、主張は理解できるし、これを言われると反論は難しい。

しかしながら、私が鑑賞した際にこれらの違和感に捕らわれずに受け入れられた理由は、おそらく、本作がフィクション映画(=メッセージを含んだ寓話)であるという認識があるからだろう。

この一連のすずの無謀とも言える行動は、増水した川で子供を助けようとして亡くなってしまった母親の行動と重ねる事で、すずが母親の死を許す、という物語の構造になっている。なので、誰の助けもない状況下で、命懸けですず本人が弱者救済を選択する必然性があった。結果的に児童虐待の父親が現場から逃げ出すくだりはご都合展開と言えるが、これこそが寓話としての奇跡であり、物語としての救い(≒祈り)である。つまり、児童虐待という社会問題を切り口にしつつ、シンプルに主人公の成長を描く作風だった、と私は解釈している。

ここで一旦、否定派の意見を列挙すると、こんな感じである。

  • 否定派のご意見
    • ネットの<U>の世界ならまだしも、リアルの児童虐待をテーマにしているのだから、そこはファンタジーじゃ駄目でしょ。
    • これを観た子供が、間違った理解で現実社会で振舞ったら危険でしょ。
    • そこは、もう少し説得力を持って違和感無く描くのが良いエンタメでしょ。
    • 少なくとも大ヒットと言われる超メジャー映画だから、影響力は大きいでしょ。

否定派の根っこには、本作を寓話(=メッセージを伝える事を優先したお伽話)として許容できるか否かが分岐点に思う。これを整理すると、下記となる。

  • ラストの虐待児童の救出の感じ方
    • 肯定派は、本作は寓話、テーマは個人の成長、特に違和感は感じない
    • 否定派は、テーマの社会問題の解決が雑&ご都合展開、強く違和感を感じる(=本作を寓話とは思っていない)

では、ここまで来て本作は寓話か否かという議論になるが、そこはどちらが正解と言う話では無く、個人個人が自由に感じ取ればそれでイイ気がしている。つまり、本作は寓話か否かの議論は不毛だと思う。

さて、本作が寓話だとして、そのメッセージが何かについて、改めて考えてみたい。

否定派が指摘するご都合展開を使ってまで描いたモノは一体何だったのか? それは、誰も助けに行かない(≒行けない)状況で、リスクを承知で危険をかえりみず、弱者に手を伸ばし救済する事。それは、勇気と言ってもいいだろう。

ただ、母親は不幸にもその勇気で命を落としたが、そこに深い意味は無い。母親が死んで、すずが死ななかったのは物語の生んだ偶然(=運命)でしかない。

少し見方を変えると、たった一人で立ち向かう事については、周囲のノイズに流されず、自分の中にキチンとした価値観を持ち、行動する姿が描かれていた。この構図で対比になるのは、<U>の中で竜の心の痛みに気付いたBELLEだけが、竜の心配して庇った事と重なる。BELLE自身は、ネット内では賛否両論だが、竜は99%以上ヘイトを溜めている。ネット民が正義を振りかざして叩きたいターゲットである。そこに疑問を持ち、何故なのかと深掘りし、本当に否定すべき問題なのか? その裏に真実が潜んでいるのではないか? そういう問いかけを常に持ち続ける事の大切さをメッセージとしているのではないだろうか?

ここまで書くと気付く方もおられるだろうが、

  • 毎回賛否両論となる細田監督作品=本当に良いモノは賛否両論の巨大な渦になるという事
  • 寓話ゆえにツッコミどころ満載で酷評に耐える細田監督=ネット民からのヘイトを溜める竜

という感じで、<U>の世界は、細田監督作品のエンタメ感を描いたものであると言えるし、賛否両論は細田監督の芸風(=生き様)と言ってもいいかもしれない。

仮に、否定派が言う通り脚本家を別に立ててネガ要素を徹底的に排除した脚本が出来ても、メッセージ性や感動が弱くなるなら本末転倒である。また、監督は作品のディレクションを決定する権限を持っているのだから、そのような脚本は不採用になるから、細田監督以外に脚本を書かせれば良いという単純な話でもないだろう。

ブログ初稿公開後に、いろんな感想・考察を漁り、更に本作について考えを深めた形になったが、それはそれで非常に良い体験をしたと考えている。今回参考にさせていただいた中で良かったと思える感想・考察を幾つか列挙させていただくので、良ければご参照いただければと思う。

おわりに

私はキャラの心情と変化に筋が通っていて欲しいので、それが出来ていない作品の評価は下がります。本作は、寓話的ご都合展開が多いと言われていますが、キャラの心情をより大切に造られていると感じられるため、私にとっては逆に違和感無く観れました。

実際に私が鑑賞してみた本作の感想は、「特にケチを付ける所のないバランスが取れた作品であり、物語的にも綺麗に閉じていて不満無し。」というモノです。

強いて弱点を言うなら、本作は優等生過ぎると思います。もっと若くてギラギラした感じが欲しければ、『天気の子』などの新海誠監督作品の方がより好みに合うのだろうとは思いました。

ワンダーエッグ・プライオリティ 特別編

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はじめに

ワンダーエッグ・プライオリティ特別編の感想・考察です。

特にお気に入りのねいるに注力して、全12話+特別編を通して書きました。いつになく気合が入りかなりの長文になってしまいました。

感想・考察

各話イベント

シリーズ通してみて感じた各話の概要を整理する。

話数 イベント 備考
1話 アイがエッグに初挑戦 アイの贖罪は友達の小糸の自殺
2話 アイとねいるが友達になる ねいるの贖罪は妹の自殺
3話 アイがリカの夢の中で共闘 リカの贖罪はファンのちえみの自殺
4話 桃恵初登場。4人初顔合わせ 桃恵の贖罪は友達のハルカの自殺
5話 4人仲良し、ねいるは1人でもエッグ買う ねいるのハードボイルドな戦い
6話 アイが登校を決める アイが疑念モヤモヤを吹っ切り
7話 リカが母親と和解 リカが現実に向き合う
8話 - 総集編
9話 ねいるが寿と決別 ねいるが自身の人生を楽しむ
アイ達が人生の友達
10話 桃恵がクリア、パニック殺害 桃恵はエッグを後悔
11話 リカがクリア、マンネン殺害
裏アカ昔話、AIフリル、あずさ、ひまり
リカはエッグで復讐叶わず
12話 アイがクリア
ただしパラレルワールドの自分が死ぬ
アイがエロスの戦士になる発言
特別編 パラレルから来た小糸、ちえみ、ハルカ、寿は別人
ねいるがクリア
アイルが戻り、ねいるはエッグ世界に居残る
リカはねいるを無かった事にした
一度拒絶したが、アイはねいるを探し行く

設定

パラレルワールド(その1)

9話で、寿がパラレルワールドの存在を口にする。12話で、アカ裏アカがエッグの世界がパラレルワールドであり得たかも知れない可能性とのやり取りである事を明言する。特別編では、パラレルの寿が同じ世界に2人いられないと言う。

この命の総数は変わらない部分に着目すると、フリル達はゲームクリアして彫像を生き返らせた桃恵とリカからはワンダーアニマルの命を奪い、アイからはパラレルのアイの目玉(=命)を奪い、アイルの代わりにねいるを奪った。

パラレルワールドの仕掛けは、彫像から生き返った小糸、ちえみ、ハルカが別人になっていた事とも符合する。関わらなかったから自殺をしていない。そして、昔撮ったスマホの写真も消滅した。その意味で、アイ達が世界線を越えてしまったとも言える。

エッグでの戦いは非常に情念に依存したものであったが、アカ裏アカたちが用意した仕掛けは非常にドライで感情にいっさい関りを持たないモノ。人間の気持ちはどうでもいい物理法則で縛られている。だからこそ、少女の感情のエネルギーがパラレルワールドの組み替えに必要な燃料になっていた。

AI

作中に出てくるAIは、フリル、ハイフン、ドット、キララ(以下略)と、ねいるの合計5人。

まあ、ハイフンたちはフリルにとってのペットのようなものであろう。自我というよりフリルへの服従により生かされていたというか、フリルに恐怖支配されていたフシがある。

フリルは、アカ裏アカが作りし理想の娘のAI。永遠の14歳。不老不死であり、心の成長も止まっている。基本的に笑顔を絶やさない感じでプログラムされているが、愛する人の移り気に嫉妬して、浮気相手を殺害するという、負の感情も持って行動する。その残虐性を少女性と言ってもいいのかもしれない。ある意味、人間臭い。

さて、ねいるは、寿が造りしアイルの代替品のAI。ねいるの思考はロジカルで行動に迷いやブレが無い。大人であり男性的であると言ってもいい。その意味で、アイたちが持つ不安定な少女性とは対称的な存在である。コンクリートのように無機質で人間味は薄い。

このように、フリルとねいるは同じAIでありながら、対称的な存在である。

では、何故、寿はねいるをこのような人間味の薄いAIにしたのか? 

考えられる理由の1つは、プラティにおけるアカ裏アカのフリルの失敗の歴史から、AIに嫉妬などの感情を持たせる事を禁止するルールが出来て、それに従っているという可能性。1つは単純に寿独自のディレクションで、社長業務に不要な感情をワザとオミットしてデザインした可能性。この辺りは想像でしかない。

ただ、9話で寿と遊ぶようにエッグの世界で戦っていたねいるは、とても感情豊かで人間味があったと思うし、ねいるの部屋で昏睡状態になる前の寿とのやりとりの記憶から察するに、人間味をもった行動をしているように感じるし、寿個人がねいるの感情を否定する事はなく、むしろ肯定していた。その意味では、ねいるの感情は遅咲きの機能という事だったのだろうか。

ここで、フリルとねいるの対比を整理しておく。

項目 AI フリル AI ねいる 備考
制作者 アカ裏アカ 寿
目的 愛玩 理想の経営者?
方針 理想の14歳の娘 青沼アイルのコピー
特徴 無邪気・可愛さ・笑顔
感受性豊か
他人をいたわれない
(→結果、残虐)
論理的
無機質
自我が無かった
人間関係 アカ裏アカ(疑似親)
あずさ(疑似継母)
寿(生みの親、同士)
田辺秘書など(会社関係)
アイ達(友達関係)
フリルはネット経由で
全ての人を監視可
悩み 誰からも愛されない? 人間の感情を知りたい?
思いやれる人間になりたい?

シリーズ通してのねいるの気持ちの流れは、後述のキャラのところで詳細を記載するが、ねいるに足りないモノは人間としての自我であり、人間の気持ちに対する理解力である。対して、フリルに足りないものは他人からの愛なのだと思う。

パラレルワールド(その2)

ところでパラレルワールドでは同じ世界に同一人物は2人存在できないとの事だが、アイルとねいるは一応人間とAIの違いがあり、同じ世界に同時に存在しても良いように思われる。しかし、アイルの、あなたの居場所は無くなった、という台詞もあり、彼女たちもまた2人同時に存在できない雰囲気を匂わせている。

無論、アイルが自殺する前は2人は同時に存在していたハズではある。だが、当時のねいるの存在感が次第に強くなるにあたり、パラレルの同一人物的存在となり、例の法則が適用されたという可能性も考えられなくもない。実際、こちらの世界に残ったねいるは思考にブレが無く強い存在感を持っていた。しかし、ねいるは9話で自分の人生を楽しむ選択をした後、髪型を変えたりカントリーな住宅に暮らしたり、自分自身の生き方を持ち始めた事で、だんだん気持ちにブレが生じてゆく。自信を失いか弱い存在に変容してゆくねいる。

小糸やちえみやハルカがこっちの世界に戻ってきた時に、自殺の原因の根が存在しない人生の人間に入れ替わっていた事を考えると、アイルも以前のようにねいるに嫉妬して自殺した弱さを持たないキャラ変があってもおかしくない。

結果的に、弱くなったねいるはこの世界から消えて、相対的に強くなったアイルが戻ってきた。そのことが、やはりパラレルの法則を想像させずには居られない。もっとも、アイルの自殺の原因がねいるにあった以上、ねいるとの存在の交換はゲームクリア後の宿命だったのかもしれない。

エッグの世界

結局、エッグの世界とは何だったのか?

それは、パラレルワールドという仕掛けを用いた、生き死にが曖昧になった空間だったのかもしれない。三途の川の様な生と死の境界にある緩衝地帯みたいな。

彫像を生き返らせる(=他のパラレルワールドの同一人物と入れ替える)ためには、ゲームクリアが大前提であり、その後、ワンダーアニマル、もしくは人間の命を犠牲にする必要があった。このルールは、フリルの部下のハイフンたちが執行していたが、フリルが作ったルールというより、パラレルワールド自体が持つルールだったのではないかと想像する。

ちなみに、寿のケースだと、生命維持装置を停止して死亡した事で、他のパラレルの寿がこちらの世界に来た。その意味では、やはり、命の交換は発生している。

では、ゲームクリアとは何だったのか?

ゲームクリアが描かれたのは、桃恵とアイ。桃恵は、自分が男子に見られてチヤホヤされる事を喜びながら、女性として生きたいという矛盾を抱えて生きてきた。それが、薫の登場で女性として生きる自信を得て、コンプレックスを克服した時点でクリアとなった。アイは、沢木先生や小糸のモヤモヤ悩む事よりも目の前の母親を大切に生きる事、自殺してしまったパラレルの自分に自信を持たせられた時点でクリアとなった。

つまり、弱い自分を克服し強くなった(≒少女性からの脱却した)ことにより、ゲームクリアとなったと言える。しかし、エッグに挑戦できたのが14歳の少女だけだった事を考えると、大人になってしまった時点でゲームに参加できなくなるとも言える。これは、逆に言えば用済みになったから、ゲームクリアとしているとも考えられる。かくして、ご褒美としての彫像の生き返りと、代償としての命の差し出しが必要になった。

それなら、エッグ少女を救う戦いとは何だったのか?

ここは、正直良く分からない。以降は、大胆な仮説を立てての妄想である。

一度自殺してしまったエッグ少女のトラウマを克服させて生きたいと思わせる事は、死んでしまったifの世界から、死ななかった側のifの世界にパラレルの命のスワップが発生する事になると仮定する。その場合、本来死ぬ必然性の無かったパラレル世界のエッグ少女が、本人の意思とは別のところで死が発生する。これが、少女の正体不明の自殺であり、ひまりを自殺させたフリルの死の誘惑ではないか?と想像する。

アカ裏アカは、とりあえずこの仮説まで到達しているから、アイ達をエロスの戦士としてエッグに挑戦させ、パラレルの命のスワップを繰り返させていた。そうすることで、パラレル間の行き来の実績を多数つくり、パラレル間の移動の仕組みを調査・研究していたとか。だから、アイたちがエッグに挑戦してくれない事には、ひまりに近づく事は出来ない。

ただ、この仮説が正しいとしても、ひまりを生き返らせる(≒別の世界から連れてくる)ためには、彫像となったひまりを生き返らせるためのエロスの戦士が必要だし、そんな役を引き受けてくれる少女は見当たらない。この辺りで、私の妄想も行き詰まりである。

ちなみに、1話のエッグ少女のくるみは、以前エロスの戦士としてエッグに挑戦していた経験がありそうな口ぶりであった。くるみはエロスの戦士であっても、心臓、もしくは目を奪われるとエッグの世界から戻れなくなる(=死ぬ)という発言を残している。その場合、命が1つ余る。その命を誰かの生き返らせに使う事ができると仮定すると、アカ裏アカは真っ先にひまりを生き返らせに使いたいだろう。逆に、今は別の世界のアカ裏アカがひまりの生き返らせに成功しているから、こちらの世界にひまりは居ない、という状況なのかもしれない。

前述の通り、この辺りは完全に妄想である。が、エッグの戦いが、パラレルワールド間移動のための耕しになっていたというのは、設定としてアリではないかと思う。


キャラ

青沼ねいる(1話~12話)

時系列を追ってねいるについての感情をトレースして整理したい。

おそらく、青沼アイルが、ジャパン・プラティの優秀な遺伝子配合による試験管ベイビーであり、青沼コーポレーションの経営を任されるべく誕生したデザイナーズベイビーであると思われる。14歳の社長なので、優秀な人材である事には違いない。

そして、阿波野寿が、青沼アイルに似せて造ったAIがねいるである。

本編の前半のねいるを見ると分かるが、ねいるは博識で、状況分析に長け、非常にロジカルで迷いが無い。感情に振り回される事が無いとも言えるし、そういう感情が無かったとも言える。それは、社長業(=経営者)としてのチューニングされた特性の可能性が高い。もしかしたら、アカ裏アカのフリルの事例があるために、AIに感情をプログラムしない事がルール化されていた可能性もある。

ねいるは、青沼コーポレーションの本社ビルの地下9階の医療フロアの寿の部屋で一緒に暮らしていた。ベットは2個。9話の回想シーンで、散らかった本や論文を前に寿がねいるに何かを教える回想シーンがあった。何かあれば、寿がねいるにその都度講義をしていたのであろう。ねいるにとって寿は、生みの親であり、先生であり、同士であった。

ちなみに、2話でねいるの名刺が副社長になっていたのは、アイルが社長だったからと思われる。社長の判断よりも、副社長の方が、実に的確に経営のための判断を下す。その中で次第にアイルのストレスは蓄積されてゆく。そして、ある日突然、アイルはねいるの背中を斬りつけ、橋から飛び降り自殺した。この凶行の原因は、より完璧なねいるに対するアイルの嫉妬である(パラレルから来た寿談)。しかし、その「嫉妬」の感情がねいるには分からない。その理解できない不思議なモヤモヤをずっと抱えていた。そして、アイルを取り戻すべく、エッグの戦いに没入してゆく。

ここまで来て、やっと1話のアイとの出会いに至る。

2話で、ねいるは初見で地下庭園から興味津々で後を着いてくるアイをプロファイリングした。アイは今の自分が嫌いで変えたいから、怖わがりながらもエッグに挑戦している、と。そして、ねいる自身は、自分が大好きであり、自分が死なせた妹のためにエッグで戦っていると告げた。バスに乗る別れ際に、名刺を渡しつつ、エッグ購入日を奇数日偶数日で分けて二度と逢わないように提案してアイと別れる。ねいるにとってアイは特別な興味を抱く事のない凡人でしかなかった。

エッグでの戦いに身体を酷く痛めつけてICUで治療するねいる。そこに現れたのは、ねいるの身体を心配するアイであり、「欲張るからだよ。次、戻ったら、友だちになろう」 とスマホのSMS画面を見せて立ち去った。珍しく他人の優しさ気遣いを受けたねいる。

翌日、また見舞いに来たアイと病院の屋上で戯れの会話をする。友だちになったら何するの? (ナックに)行って何するの? それって楽しいの? ペットボトルのお茶のいい匂いを共有する2人。「たまにはいいかもね」とSMSにサムアップの画像を返信するねいる。驚くアイ。目を合わさず遠景を見ながら口元を緩めるねいる。この日、合理の極みだったねいるが、初めて非合理を許容し受け入れた。人生に無駄を受け入れた。この事が、後のねいるの変化のキッカケとなる。

3話で、病院のベッドの上で、アイが別のエッグの挑戦者のリカと遭遇した事をSMSで知る。翌日、アイがリカを連れて、エッグを土産に見舞いに来る。お調子者でちゃっかり者のリカに難色を示すねいる。その夜、「リカに気を付けろ」とSMSを送信する。図々しくて不誠実なリカをビジネスパートナーとして信頼できないと判断したのだろう。

4話で、退院の迎えに来たアイを自分の会社に案内し、ねいるは自分が社長だと告げる。このとき、アイが他人を信じすぐ許してしまう事について、ダメだけど素敵なところと言う。そういう子が居ないと私たちが救われない、とも。ここの「私たち」はエッグ挑戦者のことかもしれないし、ジャパン・プラティで造られたAIのことだったかもしれない。その後、ねいる、アイ、リカ、桃恵のエッグ仲間の4人が揃った。

5話は、ねいるのエッグでの戦いが描かれるとともに、個性の違う4人が友達になった事が描かれた。ねいるとリカと桃恵が、アイの家に遊びに行く。不慣れで緊張してお菓子をアイの母親に差し出し挨拶するねいる。リカの図々しさに呆れつつ、リカのくすぐりに屈して笑い出したり。小糸と沢木先生の下世話な話に付き合ったり、その後に4人で地下庭園まで歩いて行ったり、ゲーセンで遊んでみたり、地下庭園でピクニック気分でお菓子を食べたり。この日の経験全てが、これまでのねいるの人生に無縁だった、普通の14歳の少女の楽しい日常であった。

そして最後の最後にエッグを買うのを止めないか、と提案するリカ。リカの提案は普通に考えたら至極当然。最初は友だちや知人の自殺に責任感じてエッグへの挑戦を始めたが、自分の命を懸けてまで挑戦する事じゃないし、ましてや自分が死んだら身内が悲しむから、もうエッグを買うのを辞めないか?という提案である。

ただ、ねいるにとってはこの提案は響かない。肉親もおらず、大切な人といえば寿くらいだが、おそらく、この時点で既に寿は植物人間状態になっていた。ただ、自分のオリジナルのアイルという人間の気持ちを知りたい。そんな、ぽっかり空いた心の穴を埋めるために命を賭けて戦う。結果的に、アイたちもねいるに引っ張られるようにエッグを買い続ける事になる。サブタイトルの「笛を吹く少女」は、結果的にねいるがアイたちをエッグの戦いに先導していた事を意味していたのかもしれない。

6話は、母親と沢木先生の再婚の話にモヤモヤするアイに対して、ねいるは「オッカムの剃刀」「アイも先生が好き」と鋭いプロファイリングをしている。ここは、ねいるの分析力、本質を見抜く力が生かされた台詞であった。それと、この話でワンダーアニマルのピンキーを与えられ育て始めている。

7話は、誕生日のリカの母親への愚痴に、ねいるが「共依存」「断ち切らなきゃ何も変わらない」と強烈な分析結果をぶつけてリカを怒らせる。その事で「思った事を口にしてしまう。合理的に正しいと思った事を」「女性社会に向いていない」という台詞もあり、人間関係の難しさに困惑した様子を初めて見せる。リカがピンチを脱して帰還して戻ってきた時に、ねいるは「死なないで」の台詞があり、リカたちをかけがえのない存在として、素直な感情を伝えたのは、ねいるにとって精一杯の友情だったのだろう。

9話は、ねいると寿の決別の回。会社ビル地下9階のねいるの自室に、友だちとしてアイたちを招待するねいる。ここで、ジャパン・プラティとデザイナーズベイビーの話が登場。流石にAIである事は伏せている。リカたちにしてみれば、楽しく遊ぶためにたこ焼きパーティーやマニキュア塗りを楽しみにしてきたのに、ねいるが寿の生命維持装置を切る事についての話で口論になり、後味悪く退散する形に。ただ、寿と約束したねいるも、ボタンを押す事に手が震えて、結局一人でボタンが押せなかった。最終的には、アイとねいるが二人同時にボタンを押す事が出来た。

この話で重要なのは、尊厳死などでななく、個人的な夢も将来のビジョンも持たないねいるが、寿の言う通り自分の人生を楽しむ事ができるか? そのために、寿という過去と決別し、変化を受け入れられるか? というのがポイントだと思う。理性でボタンが押せるとリカたちに啖呵を切っていても、実際には変化を受け入れる事の怖さで手が震えていた。そこを飛び越えるための手助けをアイがした。

ラストで生前の寿と語らっていた時の本をスーツケースに詰め、モルモットのアダムも持ち出していたのは、放送当時は寿の遺品を処分するため、と考えていた。しかし、特別編を見た後では、湖畔のカントリー風な新居に引っ越すために持ち出すためだったと理解できる。

エッグの世界での寿とのやりとりで出てきた「パラレルワールド」「死の誘惑」のキーワードは、終盤で繰り返し出てくるが、「あどけない悲しみ」が特別編のねいるに直結していて今思うと切ない。

10話は、地下庭園に訪れたねいるは、三つ編みだった髪を降ろしてイメージチェンジして登場した。これは、アイルの髪型でもある。三つ編みは、合理的で邪魔にならない髪型で有り、会社に縛られているという意味でも、ねいるを象徴するアイデンティティであった。その固い縛りを捨てたところに、自分の人生を生きる変化を読み解ける。また、リカのラーメンの誘いに即答OKしたのも、ねいるの変化の現れである。

OA当時は、私はねいるのこの変化は喜ばしい事だと思っていたが、特別編を見た後では、見方が少し変わってくる。ねいるのブレの無い強さは、実はこの変化とともに失われつつあり、徐々にねいるに迷いが生じて、弱々しい印象に変化してゆく。

12話では、丘の上に4人集まって、ワンダーアニマルを殺されたリカと桃恵は別々の方向に去って行ってしまう。後悔していると告げた桃恵に、「自分で選んだんじゃないの?」と問いかけるも、「何で誘ったの!」と泣きながらアイに問い詰める桃恵。ねいるは当事者側でもあるから、立場的には微妙であり、終始寂し気な表情が印象的であった。アイの気持ちを察して、言葉少なに「一緒に帰ろ」とアイに寄り添ったのは、ねいるの優しさだったのだろう。

沢木先生と小糸にエッグの世界で対峙して生還したアイ。アイとねいるは2人で丘の上に腰かけて会話する。アイは、小糸から真実を聞きたいと思っていたが、そうではなくて、一人ぼっちだった私の友達になってくれた事で救われたから、その感謝の気持ちを伝えたかったのだという。途中の、ねいるの「嘘の友達でも?」という問いかけが切ない。この一連の会話は、そのまま特別編に効いてくる。

青沼ねいる(特別編)

そして、問題の特別編。

冒頭のエッグ世界での花火のシーンはねいるのゲームクリアを意味する。ねいるの居場所は無くなり、妄想(=人間になり自分の人生を楽しむ)は叶わないとアイルは断言。時系列シャッフルされているが、ここでフリルとの対峙があり、私と友達になれば人間になれると告げられる。

これが、ねいるに対する死の誘惑であり、ねいるはその誘惑に心を揺さぶられた。自分の人生を楽しみたい→人間になりたい→エッグの世界のフリルに確かめたい=死ぬ、という矛盾である。しかしながら、パラレルの旅人でもある寿の事例もあるから、死=人生の終わりとも限らないという概念もあるのだろう。最終的にねいるは、悩みぬいた末に、意を決してフリルに会いに行く決意を固める。

Aパートは、このゲームクリア後のねいるの寝起きのシーンで始まる。エッグの世界から生還し、ねいるの中の子供(=人間になりたい弱さ)と大人(=冷静に分析する強さ)の人格が分離して会話するが、完全に子供のペースである。ワガママに生きよう、ワガママは子供の特権、大人っぽいから不幸なのかも。団地の玄関前にモルモットのアダムを置いてアイに託した。枕井商店の前でガチャガチャを見つめてたら、偶然アイに遭遇し、和らいだ笑顔が浮かべるねいる。そのまま、「じゃあ、また」と挨拶を交わし別れた。ねいるは、バスの中からSMSでアイに、しばらくアダムの世話を頼む、と連絡。アイからの電話には出ない。ここでねいるは音信不通となり行方不明に。

このやり取りを考えると、ねいるはエッグの世界に行き、戻ってくる前提でいたと思う。ねいるにとってアイたち(=親友)はかけがえのない宝石である。エッグ無しでエッグの世界(≒三途の川)に入るには、自分自身が生と死の狭間に行く(=臨死体験をする)必要がある。寿の事例を考えると、アイルに押し出されたねいるは、別のパラレル世界で生かされる可能性が高く、その意味で戻って来れない可能性もあり得る。この「シュレーディンガーの猫」の様な精神状態のまま、アイとの別れは中途半端なままとなった。

その後、アイは小糸の改変を経験し、音信不通のねいるを心配して会社に乗り込み、アイルに知らない人扱いされている。世界が一斉に切り替わったと思える演出である。世界線が変わったためにスマホに小糸の写真も無い。だが4人で撮ったプリクラの写真は残っていたという事は、ねいるはまだ改変されていなかった。

カラオケを経て、田辺秘書に電話で呼び出され、湖畔のねいる自宅で寿と鑑賞するねいるの最期のエッグの夢。寿はねいるがAIだと告げ、リカはAIのねいるの存在を否定し、アイは言葉を失った。その夜、ねいるからの電話を取らずにスマホを投げたアイ。翌日、もしくは数日後の昼、アイは酷い事をしたと母親の膝の上で泣きじゃくる。

ねいるという存在は強くて強固だった。社長になるために造られたAIであり、卓越した分析力、判断力と、ブレない強い意志を持っていた。しかし、寿の遺言で自分の人生を楽しむ事を決め、髪を降ろした頃から、ねいるの存在は弱くて脆くなってゆく。社長としての存在は戻ってきたアイルがねいるを否定する事で消滅した。ねいるがAIと知らされたリカは、その場でねいるを否定した。アイはその事実を受け止められないまま、ねいるの電話を取らなかった。この瞬間、ねいるは誰からも必要とされなくなり、この世界のねいるは死んだのだと思う。アイは、自分の罪の重さを直感しているからこそ、後悔し、泣きじゃくったのだと思う。

ねいるからの最期の電話のシーンで映される、草むらに仰向けに横たわっていたねいるの姿。外傷は見受けられなかったが、とても薄幸な雰囲気を感じさせる演出だった。果たして、アイに残したかった言葉は何だったのか? 具体的な事は一切分からず、全て視聴者の妄想に任せる形である。

アイたちがこっちの世界で流されるように付き合いが自然消滅し、社会に順応してゆく事を成長というなら、ねいるは、ただ一人だけ逆行して少女化していった、という物語の余韻が、とてつもなく切ない。

大戸アイ(特別編)

転校してリカと桃恵とも自然消滅のくだりは、少女期を卒業し大人になってゆくという意味であり、こちらの世界の存在がより安定して強固になる事を意味する。言い換えれば、エッグの世界から遠ざかる。しかし、危険な少女期を乗り切って、より安定した大人に成長して、めでたしめでたし、とはならなかった。

「ねいるは人間になれたのかなあ」というねいると距離を取った台詞から、あの日確かに存在した友情の記憶を鮮明に思い出し、ねいるに会いに行く。ねいるへの贖罪とも違う、忘れていた親友に会う事で、自分にとって大切なモノと向き合いたい、という気持ちだと思う。

少女を描いた物語の結末は、少女を肯定した。だからこそ、儚くて強く、アンビバレントで奥深い。

田辺美咲

田辺秘書のスタンスは会社側の大人である。ねいるやアイルとは密着しているが、気持ちは距離をとっている。そして、エッグの世界に関しては、アカ裏アカの共犯者である。

当初、社長はアイルだったのであろうから、人間であるアイルに情があってもおかしくないとも思うし、ねいるの気持ちもよくよく察していた。そんな中で、結局、田辺はねいるをどうしたかったのか?というのが良く分からなかった。

もちろん、ねいるがエッグで戦う意味は、アイルを取り戻す事にある。しかし、そのためにねいるが飛ばされる事も知っていたハズ。

田辺がねいるの最期の夢を見せたかったのはアイであり、リカはついでである。ねいるがAIである事を知って、ねいるの悩みを共有させて、ねいるがこっちの世界に戻ってくるような事があれば、こんどはアイルが不安定になりかねない。その中で、敢えてリスクを取ってアイに伝える意味は何なのか? ねいるを不憫に思い、アイに力になって欲しいという同情なのか?

その辺りは、彼女のポーカーフェイスに隠されて、確かな事は何も分からず、妄想してください、という風に感じた。

特別編という肌触り

アクションは抜きの低コスト短納期の演出、作画?

私は、当初書き下ろされた時の11話12話と、総集編が決まった後の12話+特別編は、実は違う脚本なのでは無いか?と勘ぐっていた。

1つは、物語を〆るためには、アイの問題解決を最後にするのが望ましいが、特別編がラストだと、ねいるの問題になってしまう事。

もう1つは、特別編がワンエグにしては、アクションシーンが全くない、省リソース、低コスト、短納期向きな映像になっていた事。

もちろん、アクションシーンが無くても、キャラの表情や背景の美しさは申し分ないクオリティであったが、カタルシスという意味では全く盛り上がらない味付けを、最初からシリーズ構成時に設計するだろうか?

こうした違和感を強く感じていたので、仮説として11話と12話を入れ替えて、高度なパッチワークをした結果、説明不足と、迫力不足になってしまったのではないか? と妄想したりしていた(非現実的な妄想なのかもしれないが…)。

しかしながら、よくよく特別編を見なおしても、ねいるがAIだった衝撃の真実と、ねいるが消えてしまったという流れは、それまでのねいるの心情の変化からしても微塵も違和感が無く、はじめからキッチリ設計されたものと感じられる。仮に、順番が変わってしまったとしても、ねいるに関しては、終始一貫した物語であり、改悪されたところはないのであろうと想像する。

アイについても同様で、小糸や沢木先生に対して持つ疑念を疑念として払拭し、ノイズに負けず自己主張できるようになったという流れも、違和感は無い(多少、詰め込み過ぎた感はあったが)

キャラの心情重視の私としては、そこをキチンと結んでくれた事が嬉しく思う。

これについては、不本意ながら、総集編、および特別編という形にはなってしまったが、作品のテーマに対し、うやむやにすることなく形にしてきてくれたスタッフの誠意を強く感じる。

風呂敷を広げっぱなしのシリーズ構成?

風呂敷をひろげっぱなしと言えば、エッグの世界の設定周り、フリルという強キャラの結末、アカ裏アカのひまり生き返らせ作戦の結末、といったところか。

まあ、確かに、ぼんやりした抽象概念だったり、フリルという悪の放置だったり、アカ裏アカのマッドサイエンティストによるエロスの戦士にされる14歳の少女の犠牲者は無くなることはなないのか問題だったり、視聴者に対するストレスの原因が未解決なまま、安堵させることなく、ぶっつりと終わるイメージはある。何だかんだ言っても、視聴者はストレスから解放されて救われたい気持ちがある。

だから、風呂敷を広げっぱなし、という指摘に対しては、擁護出来ないと思う。

ただ、フリルとエッグの世界の件は、与えられた社会システムであり、その中でキャラが何をするかというドラマであり、最初から社会システムをどうこうするモノでは無いというスタンスはアリと言えばアリである。例えば、世界は昔、資本主義と共産主義と別れて争っていた。それゆえにイデオロギーによる国家の分断の悲劇が起きて、それがエンタメになる事は多々あった。その不幸な構造を改善すべき課題と感じていても、そこまでのスコープで問題解決を描く作品を私は知らない。本作もおそらく、そのシステムの中で、キャラがどんなストレスを受け、どう変化・対応してゆくかのドラマを描く事が主題であったと思うし、そこは逃げていなかったと思う。

その意味で繰り返しになるが、キャラの心情を組んだドラマを、シリーズを通して丁寧に積み上げてきた事に関しては、凄く高く評価している。特に本作の台詞は考え抜かれたモノであり、とくにアイたち4人の掛け合いの台詞は、非常にキャラにフィットしていた。

台詞の全てが脚本家の仕事とは限らないと思うが、上記だけでも本作の脚本のずば抜けた力を感じたのは間違いない。

その意味で、本作のシリーズ構成は、大胆な生け花的な荒っぽさがあり、万人に美しいものとは言えないが、肝心の細部は手抜きなく、とてもクセがあるシリーズ構成だったと思う。

おわりに

私はワンエグの中ではねいるが好きで、論理的でブレが無く少女性を持たないねいるが何故エッグで戦うのか、ずっと分からりませんでした。しかし、特別編で完結を観た事で、ある意味、ねいるが大人から少女に逆行して、脆く儚く消えていった、寂しくも切ない物語として理解する出来た様に思います。

ねいるのこの一連の変化について、あまり詳しく感想や考察をみかけないため、私なりにモヤモヤした部分を整理出来た事は非常に良かったと思います。

明確に描かず解釈に幅を持たせた作品だと思うので、解釈が違うという方もいると思いますが、いろんな解釈があるのだな程度に思ってもらえば幸いです。また、そうして考察して吐き出してゆくのが良い作品だとも思います。

スタッフの皆様には良い作品を生み出していただき、感謝しかありません。

2021年春期アニメ感想総括

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はじめに

2021年春期アニメ総括です。今回、最終回まで見た作品は下記。

今期は意外と、視聴本数は少なかった様に思います。やっぱり、これくらいの視聴本数が適度なのかもしれません。

感想・考察

やくならマグカップ

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 陶芸を題材にしつつ朝ドラテイストでシンプルまとめた文芸の上手さ
  • cons
    • 中部ローカルネタでその他地方民への置いてけぼり感

岐阜県多治見市の町おこしのフリーコミックが原作。前半15分がアニメ、後半15分がキャストによるご当地案内という例外的な構成。アニメ内にもご当地要素が満載なのだが、逆にノイズに感じないのは、物語が持つ素性の良さだと思う。商用エンタメ原作ではないことが、逆にのびのびとした文芸を造れるとしたら、皮肉だと思う。

主人公は東京から多治見に引っ越してきたばかりの高校1年生の姫乃。高校の陶芸部に入り、陶芸に打ち込む姿を朝ドラテイストで描く青春コメディドラマ。同じ部活に陶芸の英才教育の十子先輩、ひたすら明るい天才肌の三華、そして陶芸部ではないのにいつも一緒な隣人の直子。彼女たちのともに、秋の美濃焼コンテストに向けて作品を制作してゆく過程が描かれる。

東農地方は陶器の全国有数の生産地であり、多治見では陶芸はなじみ深い題材である。そして、陶芸は、創作であり、芸術品であり、実用品であり、その魅力の切り口の多さに触れつつ、ドラマに落とし込んでいる点が上手い。例えば、姫乃はコンテスト向けに作品造りに悩んでおり、自由であるがゆえの創作の苦しみを味わっている。十子先輩は基本的に実用品作りを好み、三華は楽しさを表現する事に注力しておりどちらかと言えば芸術寄りである。母親は芸術品も実用品もいかんなく才能を発揮していたが、姫乃は実用品寄りである。姫乃は最愛の父親に贈った不格好な茶碗の反応で、母親の作品や十子先輩の作品よりも劣っていたと感じ、父親を無条件に笑顔にする作品造りを目指すという、無意識のリベンジを誓う。作品でもてなす客が、不特定多数だったり特定の個人だったり、何があれば笑顔になるのか?という哲学にも似た奥深さを垣間見せてくれたと思う。

さて、姫乃の陶芸家としての実力だが、今は亡き天才的な陶芸家だった母親の才能を遺伝的に受け継ぎ、次々に周囲を驚かす名作を生み出す、という事は全くない。あくまで、平凡な女子高生が、陶芸作品を作ってゆくという初心者目線で物語は進む。途中、何が造りたいか自分でも分からないとか、無意識リベンジとか、母親の偉大な業績のプレッシャーから逃げたりとか、果報は寝て待てとか、釉薬選びは直感でいいとか、作品(=自分)が急に他人より見劣りして見え始めるとか、賞(=他人の評価)が欲しくなるとか、素人の創作活動あるある、で溢れている。その中で、姫乃自身が笑顔を忘れたり、仲間と笑顔を取り戻したりというドラマがあり、心地よく朝ドラテイストを味わうことが出来た。

本作の物語のオチも秀逸である。4話で、父親を喜ばせたいという呪いにもにた想いは、実際に創作物を作り、いろいろな行程を経て、コンテストに出品し、参加賞しか貰えず身の程を知ったという状況で、作品である陶器の座布団に父親が勝手に座って割ってしまう姿を見て、怒るでもなくうれし泣きする姫乃。無意識リベンジを達成できた喜びであるが、作品を壊された事よりも、その事実が欲しかったものであり勲章であるという事。笑いと涙を同時に表現した文芸面は見事であり、かなりの手練れに感じた。

考察的な部分ではあるが、父一人、娘一人の家族であり父親の愛情を一心に受けて育った姫乃は、4話で父親にプレゼントした自作の茶碗が、最高の茶碗ではなかった事にある種のヤキモチを焼いたのでは無いかと思う。母親の茶碗は仕方ないにしろ、十子先輩の茶碗の出来栄えが上だった事を認めざるおえない時、自分が父親にとって一番ではない瞬間を味わってしまった。もっと極端に言えば、父親の浮気を感じてしまったから、ここまで呪いの様にリベンジに拘ってしまったのではないかと想像している。勿論、父親は姫乃からプレゼントされた不格好な茶碗が嬉しくないわけない。そうした、ちょっとした姫乃の影の部分もある事が本作の味わになっている。

こうしたシンプルだけど味わいがあり、言語化するのが難しい感情は、最近のアニメではあまり味わえていない気がしている。アニメの製作委員会や、商用マンガやラノベの編集の売れるためのセオリーや、そうしたモノから一番遠い所にある作品のように感じる。地元宣伝を最優先に掲げながら、文芸面では自由というのが、皮肉でもあり、重要な事の様な気がする。

ここまで、ポジ意見ばかりだったが、最後にネガ意見をいくつか。

本作は、懐かし過ぎる中部ローカルネタで中部地方民以外を置いてけぼりにしたり、1話まるまる夢オチ回があったり、お遊びが過ぎる所もあったと思う(私はお隣愛知県出身の古のおタクなので、ネタにはついて行けたが)。

また、天才肌の三華の騒がしさが、ちょっと騒がしかった。本編内でも、仲の良い十子先輩と三華が、それが原因で喧嘩になるエピソードがあるのだが、スタッフとしては意図的にやっている部分であろう。

こうしたネガ意見も、全体のコメディ色と、文芸面の良さで許せてしまう、という作風だった。

実際に、あまりにも綺麗に1期が終わったので、2期やるの? と驚いてしまった。十子先輩と祖父の関係や、姫菜、刻四郎、草野の高校時代の三角関係や、姫乃に拘り続ける直子の秘密など、ネタはまだまだありそうなので、2期を緩く楽しみにしている。

オッド・タクシー

  • rating ★★★★★
  • pros
    • ミステリーサスペンスな超高密度シリーズ構成
    • プレスコによる独特の間を持つ絵画劇
  • cons
    • 特に無し

本作を一言で言えば、絵本のような動物デザインのキャラが、コントの様な会話劇で、高圧縮されたサスペンスミステリーを展開する作品。無数の伏線をばら撒き、終盤加速しながら最終回に向けて伏線回収してゆく流れに圧倒される。しかも、ラストは危機が迫るところで終わるという、なかなかのビターな展開に痺れる。

本作の特徴の一つとして、癖の強い各キャラの喋りによる会話劇がある。ボソボソと喋る主役のオッサンの花江夏樹。役同様にお笑い芸人やラッパー。芸人も多数起用。淡々としていながらも、コントの様にツッコみの入る会話に思わず微笑う。また、精神異常者の田中や、負けず嫌いすぎて生きにくくなっている二階堂なども、大量のモノローグを淡々と語らせる役どころには、実力派声優を起用しており、なかなかソツがない。また、本作は全編プレスコなので、演者のタイミングで喋りが進むというメリットが生きている。

喋りのコテコテさに比べて、絵作りはあっさり目。動画枚数を使って見せるというシーンは無い。作画カロリーは低めなのではないかと思うし、作風に合っている。

一見、演出も目立つところは少ないように感じるが、分かりにくい部分が無いのは美点だと思う。終盤の現金強奪作成の段取りなんかも、事前に視聴者に分かりやすく説明しているし、各シーンの見せ場なども適切に盛られており、映像を見ていてダレる部分が全くなかったので、総じて演出力、構成力は高かったのだと思う。

そして本作の最大の魅力は、此元和津也による超高密度なシリーズ構成・脚本。サスペンスミステリー+笑いの本作の脚本を作ったところ、全20話分くらいのボリュームになり、それを全13話に圧縮。削った部分の一部をYouTubeのオーディオドラマにしたとの事だが、こちらも通して聴いて盛り上がるような作りになっており、食材を無駄にしない。

シリーズ構成はミステリーとして破綻が無く、伏線がキッチリ回収されて行く快感があった。1話を観た時点で、その作風に絶対の安定感を感じた。しかも、それがロジカルなだけでなく、クセのあるキャラたちの感情もロジックに絡ませている点が上手い。誰もがどこか少し狂っていて、誰もが悲哀を持っている。そうした人間ドラマの感情面と、ミステリーのロジック面の掛け合わせが非常に巧に調理されている点が見事。

こうした作風なので、本作を観ているときは、パズルのピースがハマる時に微妙な興奮を覚えながら、ロジックを脳みそで楽しんでいた。エモさが爆発する事はなく、淡々と冷静に楽しんでいた。これは、唯一無二の視聴感覚だったと思う。

スーパーカブ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 台詞や劇伴の曲調に頼り過ぎない、リアリティ重視の挑戦的な映像
    • 人間嫌いなJK小熊をハードボイルド主人公に仕立てた作風の新しさ
    • 見ていてバイクに乗りたくなる
  • cons
    • イベント優先し過ぎで、キャラの心情に追従できない強引な展開

結論から言うと、個人的に文芸面にかなり不満が残る作品だった。その事を、順を追って説明する。

本作の最大の特徴は、台詞などの説明を極力排し、カメラが切り取った映像でキャラの心情を描くという挑戦的なディレクションにあったと思う。一般的なアニメ作品では、台詞はキャラの心情を的確に表現する事が多い。それにより、絵で描いた情報をより強固にしたり、絵で描けてない情報を補足したりする。しかし、実際の日常生活において、人間はそれほど的確で端的な会話をしていない。さらに、主人公の小熊は一人暮らしであること、基本的に人間嫌いで学校でも友達がほぼいない事から、小熊に説明的な台詞というのは逆に不自然になると考えられる。その事を強く意識した結果のディレクションなのだと思う。

本作のもう一つの主役は、原付のスーパーカブである。スーパーカブは、非常に信頼できるメカとして描かれる。主人公の小熊は人間嫌いであるが、それゆえに機械を信用する。小熊の中では、ある意味スーパーカブはヒーローとして神格化していると言っても過言ではない。本田技研工業の監修も入る公式お墨付き作品である。だから、スーパーカブを噓をつかずに描く事のプライオリティは高いし、リアリティを重視する。

例えば、深夜のコンビニでガス欠となり、いくらキックしてもエンジンがかからずに焦る小熊のシーンがある。キックすると、一瞬リアのランプが点灯するシーンには感心した。エンジン音、走行音は、本物そのもの。劇中に登場する取扱説明書までも忠実に再現される。そうした、バイクの細かな描写は大真面目に作り込まれる。

こうしたメカのリアリティに対して、ドラマも写実的になり、あたかも日常をカメラが切り取ったようなドキュメンタリータッチの映像になる。

主な登場人物は3名。ハードボイルド主人公な小熊、気のいい相棒の礼子、か弱いヒロインの椎。同じクラスのJK2年生である。

1話は、団地に一人暮らしの小熊は人間嫌いで他人との関りを持たず虚無的な生活を送っていた。しかし、ふとしたキッカケで手に入れたスーパーカブにより、エモーショナルな刺激を受け、少しづつ生きる輝きを持てるようになる。小熊にとってスーパーカブは、日常を楽しくするモノであり、行動力を拡張するモノである。最初は素うどんの状態だったスーパーカブだが、最終的には全部盛りの状態まで装備品が追加されて行く。箱や籠、レインスーツ、防寒用具としてハンドグローブ、ウィンドシールド、防寒着。また、小熊は自分でオイル交換したり、愛車の整備も怠らない。これは、スーパーカブがモノであり、手間をかけたらかけただけリターンがあると信じられるからできる事。面倒なモノは信用できる。

こんな小熊に礼子という仲間ができる。友達ではない点がミソである。礼子もまた郵政カブに乗るカブ信者であり、趣味仲間としての繋がりである。礼子は小熊に有益な情報とパーツを提供する。この件で礼子は損得度外視で趣味仲間のために動く。2人はカブの話以外はしない。バイクと言う共通の価値観で繋がる気楽な人間関係である。

2話3話は、小熊にとって他人であった礼子が、はじめての仲間になるまでの行程を描く。はじめから意気投合ではない。駐輪場でカブのシートに座りながら食べる弁当。最初は教室では素っ気なかった。礼子の大らかな性格が小熊に趣味を通じた社交性を持たせて行く。どこにだって行ける、という夢を共有しあう。

5話は、礼子の冒険者としての片鱗を垣間見せる回であった。夏休みに郵政カブで富士山登頂を目指す礼子。前例はないわけではないが、無謀。礼子は人間的にもメカ的にも、現状のスペックで目の前のハードル越えを挑戦する。ハードルを越える事が目的ではなく、礼子がカブに乗り限界を目指す事に意義がある。淡々と転倒を繰り返し、礼子もカブもボロボロになりながら、昨年よりも高い富士山中腹まで登りつめて限界を更新した礼子。この後、礼子は壊れた郵政カブから、ハンターカブに乗り換える。

そして、7話以降、後半に登場するヒロインが椎である。椎の家は裕福である。父親は道楽でドイツパンを焼いて商売しており、店は無国籍で雑多な海外製品に溢れている。父親が独英、母親が米、椎は伊という家族でも趣向がバラバラ。中でも、椎は最近自我が芽生えてきて、父親の押しつけではなく、自らのカラーとしてイタリアを積極的に選ぶ、という状況である。そして、椎の自転車はアレックスモールトンのAM-20。父親が椎にあてがった高級自転車である。

最初は、文化祭で椎が使う機材を校内に搬入する作業を小熊と礼子が手伝う所から、交流が始まる。その時に、椎は小熊とスーパーカブを頼りがいのあるヒーローとして認識する。さながら命の恩人のような扱いで。それ以来、椎は小熊と礼子に珈琲を差入れたり、父親の店でコーヒーを奢ったりする。

11話は、椎が冬の夜、無舗装の山道をモールトンで走行中に転倒し川に落下。携帯電話で小熊に連絡が入り、小熊が椎を救出して小熊のアパートでお風呂に入れさせ、礼子が壊れたモールトンを回収し、3人でカレーうどんを食べて一泊してゆくという流れ。この時に、椎は辛さから、小熊に「冬を消して」とすがるが、どうする事もできない小熊。しかし、春休みのタイミングで、3人とカブ2台で、冬から逃げて春を掴むために、山梨県いち早く桜咲く九州最南端の佐多岬まで、超ロングツーリングを敢行する。その後、水色のリトルカブを購入する椎。完。

物語的には、小熊の父親は離婚、母親も行方不明、一人暮らしをしてきた小熊は人間不信となっていた。そんな中で運命的な出会いをしたスーパーカブが、小熊の人生の輝きに灯をともした。そしてラストは、人間嫌いでモノと仲間しか信用しない小熊が、人懐っこい椎に触れ合い、他人に「何か」を与える事が出来た、という明るめの希望を示唆して終わる。

ここまでが、本作の好意的な解釈である。ここから先は、私が本作に抱く不満を記載する。

本作は、JKに似つかわしくない主人公小熊のハードボイルドな性格付けが最大の特徴である。人間不信ゆえに、信用できる仲間と、信頼性の高いメカだけを受け入れる。他人との関りは最低限。ときおり、美味いコーヒーを飲んで幸せに浸る。まあ、これは原作小説の読者層や、深夜アニメの視聴者層のターゲットを絞った戦略として、アリはアリだろう。

そして、小熊と対称的な存在として、ヒロイン椎が存在する。椎はか弱く、困難な障害があるときに、頼りがいのあるヒーローに救いを求める、というハードボイルド小説の構図である。しかしながら、こう言ってはなんだが、椎が小熊にすがる気持ちが全く分からない。機材を運搬してくれた恩はあるが、何故そこまで小熊に熱を入れるのか?

11話の大切なモールトンが破損したという状況から、椎の「冬を消して、春を連れて来て」の台詞がきて、最終的に小熊は「このままでは、3人とも冬に殺される」としてロングツーリング敢行するという流れ。これは、ハードボイルド小説によくあった、秘密を知ってしまったために当局の暗殺者からつけ狙われ、生き延びるための逃避行をやりたいだけ、なのではないかと思う。しかし、椎は生きて行けないほどの辛さを味わっているわけではなく、明日から前向きに体調を整えて店を好きに改造してゆくことに障害は無い。敢えて「春を連れてく」と泣きつくような障害でもないし、小熊に頼る事でも無い。小熊も小熊で調子に乗って「冬に殺される」とポエムじみた台詞を言う。

つまり、逃避行と言うイベントをやりたいがために、椎にも小熊にも強引な振舞いを強いているとしか思えないところに、個人的にかなり違和感を抱いている。キャラを尊重して考えた場合、そうはならんだろう、という行動であり極端すぎる。もちろん、シチュエーションを楽しむためのちょっとしたご都合展開と割り切れる人も居るだろう。しかし、私はキャラの行動原理を逸脱してしまうと、その作品を楽しめない性分なのである。

また、そうしてみた時に、椎は何故、冬の夜道をわざわざ危険な猫道をモールトンで走ったのか?再起不能となったモールトンは何故もっとタイヤとかひん曲がっていないのか?片道1500kmのロングツーリングの下道移動の苦行に耐えられるのか?とか、一部でリアリティを追求している割に、随分と雑な展開が気になってきたりもする。

いくつもアニメーションとして美点がありながら、私的にはこうした巨大な欠点があったために、どうしても最後までノリきれない部分が残る作品であった。

ゾンビランドサガR

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 不幸のどん底の主語を、さくらから佐賀県民に変えてのリベンジの物語
    • 毎回変化球なのに、不思議とゾンビランドサガであると認められる器の大きさ
  • cons
    • 逆に、主語を佐賀県民に変えた事で、熱さが薄まったように感じてしまった点

2019年秋期の1期から2年半、満を持しての2期であるが、個人的には1期ほど熱くなれなかったというのが正直な感想である。

1話で「Revenge」の映像を観たときに、あぁ、これぞフランシュシュと1期の積み上げがあるからこそのクオリティを感じた。特に1話ではフランシュシュに時間制限がある事が幸太郎により強調されていた。映像的にも、ぶっ飛んだ展開にしても、そこは1期の実績があるので、安心して観れると直感した。

前半は、2話サキ、3話4話純子愛、5話リリィときて、ここまでは1期の焼き直しであろう。6話のたえの強運回は、幸太郎の借金2千万円をチャラにするという展開でフランシュシュのイケイケを表現する。

7話は、舞々の超変化球回。舞々はフランシュシュに憧れてはいるが、ゾンビの覚悟を持てないから、フランシュシュ7号になり即卒業という超展開で度肝を抜いた。おそらく、舞々は藤子駒子とともに令和のアイドルになり、フランシュシュと対決するのではないか? と邪推していたが、そういう展開は無かった。

8話9話は、待望のゆうぎり回。明治に一度亡くなった佐賀の数奇な運命とともに描かれる、ゆうぎり、喜一、伊東の3人の若者の壮絶なドラマ。

11話は、集中豪雨災害により孤立する佐賀県民を、避難所で歌って元気づけるフランシュシュを描く。佐賀県民にとってもフランシュシュは、ゾンビだとしても、それをはねのける佐賀県のアイドルとしての信頼関係が描かれる。

12話は、災害復興中でインフラも麻痺していた佐賀で、無謀にも駅スタライブを決行し、佐賀県民、県外のファンが集い満席状態でフランシュシュのコンサートを成功させる。フランシュシュの不屈の魂が会場のみんなに伝搬し成功を収めた形である。

1期では、持っていないさくらが、幸太郎やフランシュシュに支えられて、何度でも立ち上がりやり直す事が力強く描かれた。2期では、持っていないのがさくらから佐賀県に主語が変わり、佐賀の自尊心を守る為、リベンジをする!という意識を、災害復興の佐賀県民と重ねて描いた。さくらとフランシュシュは、リベンジの象徴である。

ただ、これは1期と違い、2期の佐賀県民のリベンジの燃料というのが直感的に分かりにくく、どうしてもコンサートが成功したカタルシスを感じにくかった。不幸を背負っている佐賀という事を意識づけるためのゆうばりの8話9話であり、その後、リベンジの意味が変わるのだが、それにしても、主観が佐賀県民に移った事で、その情熱の濃度が薄まってしまった、という印象である。

同時に、幸太郎の余命の短さから、フランシュシュの幸太郎離れを予感させるシーンが随所に観られた。幸太郎がその場に居ない事で、フランシュシュも薄っすらゾンビメイク顔で描かれる事が多多かった。これは、幸太郎が居なくなるフラグなのだが、2期ではそこまでは触れられなかった。

最後の最後で、謎のUFO襲撃なので、3期やる気なのか? と勘ぐってしまうが、実際に幸太郎や舞々など今後の布石に思えるネタも散見されるので、可能性はありそうに思う。個人的には1期や、スタッフが多く重なる「体操ザムライ」のシリーズ構成の出来の良さを考えると、もう一声、何か感動が欲しかった、というのが率直な感想である。

ゴジラSP

  • rating ★★☆☆☆
  • pros
    • 仮想科学的なSF要素で、おぉ!となるところ
    • 人間ドラマを極力排した、ドライな展開の新しさ
  • cons

本作は、円城塔をシリーズ構成・脚本に置き、ゴジラTVシリーズでやるという難題に挑戦した意欲作であると思う。仮想科学的なSF要素を前面に押し出すところで、おぉ、と思う所はあったが、終わってみると、狐につままれたような決着で、全くカタルシスを感じなかった。

はじめに断っておくと、私は怪獣プロレスや、特撮オマージュネタとかに興味は無い。だから、そうした要素が多数出て来ても、個人的にはプラス査定にはならない(とは言え、マイナス査定にもしていないつもり)。

本作には、X-Fileの未知なる現象による事件がモルダーの知識や経験則で解明されたり、平成ガメラの様な怪獣が古代文明のガーディアンや破壊兵器だったりして謎解きされて行く過程で、おぉ!となる事を無意識に期待していたのかも知れない。

だから、MD5の「解けば分かる」が現実的に不可逆である事を説明するくだりが今風だなとか、紅塵が時間を超えて出力する事で計算能力を常識を超えて飛躍的に向上させるくだりに、おぉ!とかは感じた。

しかし、その先に、紅塵が大量に発生し、未来が不確定になり、世界の破滅が来る事に対して、ジェットジャガーを最強にするプロトコルを発動し破滅を防いだくだり。絵的にはジェットジャガーが巨大化して、青いツララで紅塵の象徴であるゴジラを機能停止させた。という流れに、んん?となってしまった。

過去からの置石を使って未来で救われるのであれば、一所懸命に破滅を防ごうと頑張っていたメイもユンも、ただ空騒ぎしていたという皮肉なのだと解釈した。でも、どうやって紅塵を一瞬にして消滅させたかのロジックや、特異点以降の未来予知が出来なかった理由は、私には分からなかった。いつもなら、SNSなどで考察を掘ることろだが、あまりにも不意打ち過ぎて、それすらする元気が起きなかったというのが正直な所。何回か見直せば、いろいろ紐解ける事もあるかもしれないが…。

ネガ意見ばかり、つらつら書いてしまったが、最後に本作に感じた事をいくつか。

本作は、人間ドラマを極力削り、感情や情動が事件を解決する事が無い、という世界を淡々と描いていた。その意味で、「シン・ゴジラ」とも違う。シンゴジは物語はシンプルだが、人間が持つ葛藤は随所に描かれていたし、人間が背負っているモノを描いていた。本作はそこを抜いて描いていた点が新しい。例えて言えば、作品全体が、スタートレックのスポックのような雰囲気である。敢えて、カタルシスを描かない、という姿勢が非常にクールに感じた。

主人公のメイとユンの2人の男女の描き方も面白かった。彼らは直接面会する事無く、今回の事件を深掘りできる仲間として、チャットを通じて情報交換しながら、互いに有益な情報を提供し合い、話を転がしてゆく。そこに、恋愛感情も同情も一切存在しない。先の話に通じるが、この辺りも非常にクール。

総じて、今までのエンタメの定石に捕らわれない作品造りが、本作が輝いていた点だと思う。

おわりに

今期は、シリーズ構成がクセのあるモノばかり試聴していたような気がします。

オッドタクシーは超過密サスペンスミステリーだったし、ゾンビランドサガRは各話の振れ幅が滅茶苦茶大きかったし、ゴジラSPは、物語やドラマなどで語れない不思議な手触りの作品でした。

そんな中で、スーパーカブは、女子高生でハードボイルド小説的な文法を用いた点が新しくもあり、従来のキャラクターの心情に追従するのが難しい作風で、私をかなり困惑させました。

また、やくならマグカップもは、ご当地宣伝アニメでありながら、意外にも文芸面で気持ち観られてという点で、ゆるく楽しく視聴できました。

今まで、アニメっぽいシリーズ構成に慣れ過ぎていたのかも知れない。来期もかげきしょうじょ!!やNIGHT HEAD 2014など、ドラマ畑のシリーズ構成作品も気になる様になってきており、観るのは疲れるけども、丁度面白い時期なのかも知れない、などと思いました。

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

ネタバレ全開に付き閲覧ご注意ください。

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はじめに

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観てきたので、いつもの感想・考察を書きました。

劇場版の評判を聞いて、1週間でTVシリーズを履修しての鑑賞です。なお、『ロンド・ロンド・ロンド』は未履修です。

劇場版は、迫力満点の勢いのある映像でありながら、その根底にはブレのない丁寧なキャラ描写が冴えている快作だと思います。

2021.6.26 外部リンク追記

感想・考察

大迫力に圧倒される強演出の快楽

本シリーズの最大の特徴は、少女達の激情(ドラマ)、アクション、歌の3つが密着して描かれている点にあり、その激しさ、迫力に圧倒される。

劇場版では、この迫力はTVシリーズよりも数段スケールUPしているが、例えるならガルパンの劇場版をイメージすると分かりやすいと思う。とにかく度肝を抜かれる。これで迫力不足という観客はまず居ないだろう。

主人公達は聖翔音楽学園で歌劇を学ぶ。歌、踊り、演劇を学び、舞台女優を目指している。そんな彼女たちが、体当たりで本気で芝居にぶつかってゆく姿を描く青春ドラマである。

本作の肝は、その青春ドラマが「レヴュー」と呼ばれる現実からかけ離れた舞台上で、演者たちが剣や刀や弓などの武器を持って、歌いながら戦うという不思議な設定である。この戦いでは、相手の上掛けの金ボタンを弾き飛ばせば勝者となり、敗者は勝者に何かを奪われる。教室や学生寮では仲良しでも、レヴューでは誰もが遠慮なく、トップスタァを目指して手加減無く戦う。むき出しの感情に直結したバトルアクションと、それを盛り上げる歌唱。本作は、きらら系を連想する日常アニメの面もゼロではないが、日常パートでもレヴューのようなジリジリとした葛藤が描かれる。

レヴューはTVシリーズでは、学園の地下にある固定の舞台でキャラに合わせて舞台背景が変わる感じであったが、劇場版では地下鉄が展開して舞台が出来上がったり、より凝ったギミックに驚かされる。しかも、映画館の音響設備で大音量で歌唱やSEを聞くので、その音圧で気圧される。

ダイナミックな比喩的表現

本作のもう一つの特徴が、ダイナミックな比喩的表現である。

本作では東京タワーは、華恋とひかりが幼少期に交わした、一緒にスタァライトの舞台に立つという約束(=運命)の象徴である。東京タワーが持つ巨大さ、鉄の硬さが、2人の約束になぞらえられる。TVシリーズのラストでは演劇の台本に従い華恋を突き放すひかりに対して、舞台上で東京タワーが舞台上横向きに刺さる事で、華恋の想いがひかりに届き刺さった、という視覚的演出を行う。劇場版の冒頭では、その東京タワーの上で華恋とひかりが戦い、東京タワーが滅茶苦茶に破壊されていた。これは無敵と思われた鉄の約束が、ひかりによって破棄された事を意味する。そして、映画のラストでは再び東京タワーで決闘をする。

他にもポジションゼロのT字マーク=トップスタァ、線路=人生、トマト=血肉、と言った具合で枚挙にいとまがない。

リアルで考えたら荒唐無稽で何のことか分からないが、演出意図を理解すれば、強いインパクトと共に心にスーッと染みてくる。

SNSで、本作が難解という意見も散見したが、私には、むしろ直接的で分かりやすい映像に感じた。そこには、突拍子も無いように見えても、混乱しない様に綿密に計算し尽くされた演出意図が存在している。

この演出手法は、多かれ少なかれ、映像作品では使われるものではあるが、その使い方が振り切っている。これが、本作にドラッグ効果をもたらしていると思う。

演劇(歌劇)が増幅する強演出

本作の演劇要素もまた、強演出に一役買っている。

もともと、舞台で生で芝居を演ずる演劇と、フィルムに焼き付けて再生する映像は、その性質により特徴が異なる。

映像は、観客の目に見えるモノを組み立てる。基本的に、実写は存在するモノを撮影するが、アニメは実在しないモノを描く。どちらも、編集により時系列を圧縮したり、煩雑に場面転換が出来たり、表現の制約が少なくより自由である。だからこそ、映像表現が難しいとも言える。

演劇は、映像に比べて制約が多い。舞台という空間。ライブという時間。演者という動かせるもの。そして、観客と舞台の物理的距離。しかしながら、演劇が映像に劣ったエンターテインメントとは思わない。これらの制約を生かしながらも、より面白くするための演出技術が培なってきた歴史がある(当時は制約とも思っていなかっただろうが)。例えば、俳優の演技はオーバーアクションで声量も大きい。これは、舞台と観客との距離から生まれたものであるが、歴史と共に様式美といえるまでに定着したスタイルと言える。逆に、エッセイの様な自然な日常を舞台にしたモノはあまり見かけない。登場人物の心情を拡大表現したような作風が多く、それに合わせて脚本や演出が作り上げられてゆく。

時代は、演劇から映像にシフトしたが、どちらが優れているという事ではなく、どちらも独自の良さがある。

さて、本題に戻るが、本作がテーマにしている演劇とキャラの激情を描く作風は非常に相性が良い。というのも、一般的な映像作品で激情を扱うと、逆に観客がついてこれずシラケてしまうケースがしばしばある。しかし、芝居が大袈裟になりがちな演劇をモチーフにしているため、その違和感は軽減される。例えば、日常離れしたクサい台詞でも演劇というフィルターを通す事で、カッコ良く見える。芝居が持つ様式美の様なモノがあり、その型にはめてゆく事になるが、その型が気持ちいい。その上、アニメーションとしてのバトルシーンは外連味たっぷり。カット割りは普通のアニメの文法であり、映像的にもマイナスは無い。その意味で、本作は演劇と映像のいいとこどりの作風とも言える。

本作の考察を拝見していると、日常と非日常(=芝居)の境界線が曖昧になる話が出るが、個人的には本作は、そうした芝居が作った別人格、というのは感じない。日常もレヴューで戦っている時も、全て同一人格のキャラに見えている。その点は妙なトリックは使っていなくて見易く感情移入できる。ただ、劇場版のまひるの様に、人格は同じでもレヴュー中に極端なホラーになったり、そうした意外な程の幅の広さに活用されている感じである。

2021.6.26追記

舞台オタクの方が、いかに劇場版スタァライトが舞台の文法を用いて、舞台+映像の奇跡であるかを、具体的に詳細に熱く語るブログがあり、勝手ながらリンクを張らせていただいた。私が上記に書いている演劇+映像をより具体的に感じられる非常に良いブログであり、読んで頂きたい記事です。

とてもシンプルな物語

本作は、いわゆる強演出な作風だが、逆に物語はシンプルである。高校3年生になり、進路(=人生の次の舞台)と真剣に向き合い歩んでゆく、というもの。

劇場版という事もあり、TVシリーズのファンが持つ各キャラの印象を周到し、TVシリーズを思い出せるような作りになっている。例えば、大場ななは、TVシリーズ同様、一見温厚だが実は一番の暴れん坊というイメージを尊重する。その意味では、本作はファンムービーであるのは間違いない。

しかし、TVシリーズが作って来た各キャラの問題の落としどころを、生温い予定調和と、ことごとく否定して、その先を描いている点が過激であり面白い。詳細は、後述の各キャラのところで記載するが、劇場版をしゃぶり尽くすには、TVシリーズの履修は必須であると、個人的には思う。

逆にTVシリーズは物語にトリッキーに仕掛けを持った、凝ったシリーズ構成になっている。それは、劇中劇のスタァライトが持つ物語と、華恋とひかりの物語を重ねながら、劇中劇が持つ物語を破壊して、その先を描くという力強さにあった。つまり、TVシリーズも劇場版もそれぞれ違った良さがある。その意味で、両方を味わいたい作品ではある。

キャラクター

大場ななvs真矢クロ純那双葉香子まひる

本作の一番の暴れん坊、大場なながクール過ぎて、ハードボイルド過ぎて、イカれ過ぎてて痺れる。

ななの願望により、TVシリーズでループし続けていた第99回聖翔祭。8話ではひかりが、9話では華恋がななのボタンを飛ばしてループを諦めさせる。これは、華恋とひかりの約束(=運命)の煌めきがななに勝ったという展開。この時、ななは、より良い進化と次の舞台を受け入れた。

しかし、進路を決めていた6人は、定年間近のサラリーマンみたいに守りに入っていた事に腹を立てていたのだと思う。それは、TVシリーズで進化を受けて停滞を否定した事と矛盾しない。今、この時を、このメンツで煌めきたいという強い願望。ななは物語の着火剤として非常に有効に機能していた。

花柳香子vs石動双葉

ここは完全に浮気疑惑の夫婦喧嘩。

6話では、最近素っ気ないと怒る香子に対し、一番近くで煌めきが見たいのは変わってないから、となだめる形で双葉が繋ぎとめた。

しかし、劇場版では、双葉はクロの助言もあり新国立第一歌劇団への入団を希望する。これが香子にしてみたら裏切りなのだが、喧々諤々の末、双葉の入団を認め、双葉が京都に戻ってくる事を待つ事を決心する香子。

その口論のやりとりが、双葉の表向きの綺麗ごとめいた言い訳を聞いてもびくともせず、私から逃げてんじゃないの? 的な嫌味を直球でぶつける本気度が面白い。レヴュー中のシーン毎に喧嘩の優劣が入れ替わる、丁々発止のカンフー映画のような口喧嘩の脚本が見事。

神楽ひかりvs露崎まひる

闇落ちまひるのホラー映画な恐怖。

5話で、まひるは自分には何も無いと思い込んでいたが、自分なりの輝きがある事を自覚して舞台少女を続ける事ができた。

劇場版では、突然ひかりが自主退学して姿をくらましてしまうので、その事で抜け殻になってしまった華恋の事を気遣わないわけがない。朗らか一辺倒に見えていたそのスタイルも否定し、ホラーでドスを利かせてひかるを説得するギャップに、一皮むけたまひるの本気を見た気がした。

華恋から逃げたひかりに、華恋に向き合えと助言できるところが、まひるならではの面倒見の良さの強さでもある。ひかりに嫉妬した過去もあった。華恋とひかりを身近で1年間見続けてきたまひるならではの立ち回りだった。

大場ななvs星見純那

この二人はルームメイトであり、9話で華恋に負けてループ終了してしまった時に、偉人の格言と自分の格言でななを慰めたのが純那である。

大学文学部進学という、言い訳ばかりで舞台少女を遠のけていた純那にかなりの苛立ちをぶつけ、蔑んだなな。ななの正論ながら狂気の悪役っぷりが冴える。このレヴューで偉人の格言と自分の格言をななにぶつけるが、その言葉が心に届かないと一刀両断される純那。純那に、殺して見せろ!と言われても、止めを刺さずに立ち去ろうとするなな。今思えば、その凌辱こそが純那を奮い立たせるための、ななが与えし試練だったのかもしれない。最終的に純那は、ななの脇差で舞台を叩き切り、復活する事が出来た。

その戦いは、ロジックを持たない本能と魂の叫びであり、その事が純那の脱皮だったのかもしれない。

天堂真矢vs西條クロディーヌ

(ななは例外として、)負け知らずで常にトップだった真矢。そして、常に2番手で真矢の後塵を拝していたクロ。TVシリーズで印象的だったのは、10話で華恋ひかり組に負けた時、フランス語で真矢は負けていない、と擁護するシーン。自分の敗北よりも真矢がトップに居ない事の方が重大問題であり、真矢を倒すのが自分以外という事を認められなかった。重度の真矢依存と言っても差し支えないだろう。

劇場版では、戦う前から、アニマル将棋で真矢の敗北の言葉を口にしており、二人の勝敗をひっくり返す勢いを予感させていた。実際にクロが勝利を掴んだ事がとても痛快だった。

真矢クロの戦いは、優劣を逆転しながら幾つかのターンをこなしてゆくドキドキ、ハラハラのクライムアクション。悪魔のクロに対し真矢の天使なのだが、真矢自身が空っぽの器である事が、何者にでもなれる柔軟性と言う最大の強みとして勝利を掴んだかのように見えた。しかし、その優等生ぶった余裕が逆に命取りになる。強くなるためには一度負けておく必要がある、というのは「頭文字D」の拓海の父親、文太の言葉だが、真矢のその尖った鼻をへし折る役をクロが演じきった。努力の天才真矢を努力で打ち負かしたクロ。劇場版ではなんとなくクロの肩の力が抜けていた感じがして、真矢への固執、依存が薄まっていた印象を受けた。そのしなやかさがクロの成長だったのかも知れない。

神楽ひかりvs愛城華恋

ループの張本人ななを倒したのは、華恋とひかりの2人でスタァライトの舞台に立つという約束(=運命)だったし、英語原本のスタァライトの別れの悲劇を上書きし、2人が一緒に居られる様に物語を書き換えたのも華恋がもつ約束への渇望だった。華恋の燃料の全ては約束であったが、その約束自体の重さというのはTVシリーズでは描かれていなかった。劇場版では、その部分が補足、強化された形である。

華恋は携帯ゲーム機で遊ぶ少し引っ込み思案な普通の子供であった。5歳のときに華恋はひかりは出会う。華恋は、しだいにひかりに心を開いてゆく。ひかりは、華恋が他の子供と一緒に携帯ゲーム機で遊んでいる姿を見て、演劇のチケットを渡す。そこで見たスタァライトの衝撃。ひかりと華恋はここで約束(=運命)をし、東京タワーは2人の約束の象徴となった。

その後、ひかりの所属する劇団アネモネに入団するが、ひかりはロンドンに引っ越し離れ離れに。置き去りにされた華恋は、その約束だけを胸に芝居に打ち込み児童演劇で主役を務めるなどの活躍を残す。約束が最優先であり、そのために一般的な生徒達が放課後にだらだらと過ごす時間は犠牲にした。他人からはストイックでカッコよく見られた華恋だが、ひかり本人からの連絡はない(親からの連絡はある)ため、ひかりがどのように過ごしているか分からない。もしかしたら約束を忘れてしまっているかも知れない、という不安を抱きながらも、演劇に打ち込むしか出来なかった。「神楽ひかり」を何度か検索しようとして止めている。ひかりからの連絡を待つからだが、時が立ちすぎていて不安になる。ついにスマホで検索してしまうが、ひかりはロンドンの王立演劇学院に居るらしい。共に頑張っている事はここで知る。ここまでで、白馬に乗った王子様を待つ乙女の完成である。

あの約束の日、華恋が煌めいてしまった事は、ひかりが仕掛けた事であり、ひかりが責任を取るべきではないか? と思えてしまう。華恋が一般人として生きるレールから、舞台少女としてのレールにポイントを切り替えたのは間違いなくひかりである。

また、華恋の空っぽさも強調されていた様に思う。本作では演劇の天才真矢が、何色にも染まっていない=何者にもなれるから強い、というニュアンスの描かれ方をしていたが、これが華恋にも共通すると感じた。だからこそ華恋は強いのではないだろうか。

果たして、高校1年の5月14日、ひかりが転入してきて第100回のスタァライトをひかりと華恋は共演する事が出来た。これがTVシリーズである。

しかし、ひかりは理由を告げずに聖翔音楽学園から姿を消す。その時に劇場版の冒頭のレヴューがあり華恋が負けた。そして、ひかりと一緒という進路を見失った。

劇場版の冒頭で、ひかりが逃げた理由は、まひるとのレヴューの中でひかりの口から語られる。「ファンになってしまうのが怖かったから」と。この台詞は意味深である。ファン=好きになる=ライバルで居られなくなる、という意味だと思うが、恋愛になぞらえて恋に落ちてしまう事への歯止めに思えなくもない。あるいは、自信家のひかりのプライドが許さなかったのか。いずれにせよ、ひかりは保身に走って華恋から逃げた。

取り残された華恋は行き先を見失う。皆が進路を決める時期に進路希望は白紙のまま。列車に乗り、運命の赤い糸に手繰り寄せられ砂漠の東京タワーに辿り着く。

一方、ひかりもロンドン地下鉄から、運命の赤い糸に手繰り寄せられ、途中ひまりに負かされて、砂漠の東京タワーに辿り着く。

未来をかけて向き合う2人。演者としての自信に満ち溢れているドヤ顔のひかりに対し、不安顔の華恋。幼少期に観た2人だけの約束のスタァライトの再演。しかし、突き放すように戦いを挑むひかりを前に、舞台の重圧で潰れて死んでしまう華恋。どうすんのこれ? と思いながらも、落下、ポジゼロ人形化、再生産、で生き返る華恋。やっと言えた最後の台詞は、ひかりに勝ちたい。

離れ離れでありながら、狛犬の様に一対の存在であったひかりと華恋。とくに華恋はこれまでひかりにすがって生きて来た。その共依存を断ち切り、真剣勝負のライバルとして未来を開けた事の清々しさ。

TVシリーズは東京タワーの鉄の約束(=運命)の力の強さが牽引してきた物語ではあったが、その約束に対する思い入れが具体的に描かれない事を惜しいと感じていた。記号の強さに対して、その理由の説明が弱かったと率直に感じていた。それは、TVシリーズを詰め込み過ぎたために描ききれなかった2人の背景。劇場版でそこを補完し、サラっと、でも力強く描いてくれたことが非常に嬉しかったし良かった。

参考情報

古川監督のインタビュー記事が良すぎたので、リンクを列挙しておく。

キリンが「分かります」と言いながら実は分かっていない件。キリン=観客なわけだが、他人事には思えなくて、TVアニメを見る時に先の展開を考察しながら見てる自分が「分かります」になっている。実際には、自分の先読みは50%も当たらないし、考察屋、批評家=キリンだと感じてた。

劇場版=ヤンキーマンガの件も感じてて、この感想に書こうとしていたら、書いてる途中でインタビュー記事が先に出てしまった。

TVシリーズでは、華恋の描きが足りず、舞台で華恋役の小山百代さんも悩んでいた、という下りが非常に印象的。製作したアニメが演者にストレスを与え続け、それを解放するために続編の劇場版のディレクションが決まる下りがジーンとくる。

おわりに

私としては、1月の「ジョゼと虎と魚たち」「ウルフウォーカー」から、5ヶ月ぶりの映画鑑賞でしたが、非常に満足度が高い作品でした。

強演出作品は、脚本の善し悪しに関わらずノリで観れてしまうモノですが、リピーターがそれなりに居るという事は、ドラマ=キャラ描写がブレなく筋が通っている脚本である事の証左でもあると思います。

劇場版が公開されてから、TVシリーズを履修したにわか組ではありますが、当時何故この作品を見ていなかったのが不思議な気持ちです。

99期生の9人は全員好きですし、何より華恋とひかりをキチンと描いてくれた事が、とても嬉しく思いました。

アサルトリリィBOUQUET

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

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はじめに

2020年10月~12月に放送されていた「アサルトリリィBOUQUET」の感想・考察ブログです。

本作は、百合+美少女バトルアクションという、ありそうで無かった要素の組み合わせですが、文芸、演出、作画、音響など高次元にバランスよく、それでいて下世話な感じが無く、総じて上品にまとめられた作品だと思います。

なお、本作は、2021年1月から稼働しているソシャゲ「アサルトリリィ Last Bullet」の宣伝の役割もあり、ソシャゲアニメとしての位置付けもありましたし、さらに、放送前からキャストによる舞台も公演されていたり、さまざまなメディア展開がありました。

今回、本作の見所や、物語、テーマを整理しようとしたら、結構な長文になってしまいましたが、以下、いつもの感想・考察です。

  • 「アサルトリリィとシグルリの対比」を追加(2021.5.8追記)

感想・考察

基本は、百合×バトルアクション

本作の基本は、王道とも言える美少女バトルアクションである。

巨大な武器を手に未知の敵ヒュージと戦う、リリィと呼ばれる美少女たち。リリィはマギと言う未知のテクノロジーを使う事で、巨大な武器を手に、制服姿のまま、驚異的な身体能力で、無機質なヒュージを相手に戦闘する。マギという設定のおかげで細かな事を気にせずに、より直感的な迫力ある美少女バトルアクションの絵面を楽しむ事ができる、という作風である。

もう一つ、本作の重要な要素に百合モノという側面がある。

リリィたちはある意味隔離された全寮制の女子高で生活しているため、そこは秘密の花園的な展開である。強くて美しくて気品ある上級生に対し、下級生の人気が集まる。そんなテンプレ展開の人気の上級生に夢結、夢結に憧れて白百合女学院に入学してきた新米リリィの梨璃という、鉄板の構図でのスタートである。例えるなら、「エースをねらえ!」のお蝶夫人岡ひろみがダブルスペアを組む、といえば分かりやすいか。

白百合女学院にはシュッツエンゲルと呼ばれる、上級生と下級生がペアを組む際に婚約にも似た契約を交わすという、という百合感溢れる設定がある。

夢結は、シュッツエンゲルの契約を交わした上級生の美鈴を、ヒュージとの戦闘で失っている。そのトラウマがあるから、夢結は誰ともペアを組もうとしない。慕う梨璃、突き放す夢結という片想いの構図が物語の開始。その後、シュッツエンゲルの契約を交わし、共に戦う中で夢結の過去のトラウマを解放し、互いに強く支え合う関係を築き上げて行く、というのが物語の軸である。

他にも、 神琳×雨嘉やミリアム×百由など、百合要素には事書かない。この辺りは、ソシャゲ的なキャラの厚みを感じる。

後半にアニメオリジナルを感じるシリーズ構成

本作は、下記の四部構成に分けられると思う。

話数 梨璃 夢結
第1部 1話~3話 出会い 甲州撤退戦の真実
(ミステリードラマ仕立て)
第2部 4話~6話 一柳隊(レギオン)結成 因縁のダインスレイフ回収
第3部 7話~9話 結梨の誕生から死別
第4部 10話~12話 リリィたちの解放 美鈴の呪いとの対峙

本作の物語には、大きく2つの軸がある。1つは、梨璃の白百合女学院のリリィたちの解放の物語。もう1つは、美玲の残留思念に悩まされ続ける夢結のトラウマ克服のドラマである。この2つの軸がある事が、本作の流れを複雑に見せている。

また、ソシャゲが控えていたコンテンツであるために、前半でキャラや世界観や設定などの紹介を手堅く済ませ、後半でアニメオリジナルの文芸要素を入れてきたように感じた。

個人的には後半の結梨関連とラストのリリィたちの解放は、美少女バトルモノとしては、割と思い切ったテーマを扱っており、アニメで観れて良かったと思う。

夢結のドラマは、ルームメイトに見えていた美鈴が実は夢結にしか見えない幻影だったとか、夢結のショックが多すぎて記憶が混乱していたのかと思われていた事が、実は美玲自身に記憶改竄能力があったとか、視聴者の観点も揺るがす設定を使い、斬新なサスペンス仕立てのトリッキーなドラマ運びで凝っていたと思う。

それから、美玲の愛しすぎて呪いをかけるくだりとか、なかなか高尚な文学的雰囲気も漂わせていた点は私好みであった。

美麗な作画、切れのよい演出

本作は、総じてバランスよく出来が良いが、全編で作画が安定していたと思う。キャラは可愛く描かれ、アクションは迫力満点。

シャフト味がある、と簡単には表現したくないが、レイアウト的にも情緒を表現したり、迫力を表現したり、意図が明確でセンスがあったと思う。

演出も、美玲絡みのサスペンス調の緊張感や、一柳隊のほっこりする緩くてテンポの良いシーンや、海中のヒュージネストに降下して、帰還するシーンのファンタジー感など、どんな球種も自在に的確に投げ込んでみせてくれていた。

個人的に好きな話数は5話、8話、12話。

5話は、夢結が梨璃の誕生日プレゼントを買ってくる話であり、日常回なのだが、いわゆるシャフトっぽい心象風景的な、日常感の薄い背景美術で、不器用な夢結がシルトである梨璃のために能動的にアクションするという、ツンデレ初期の心の変化を独特の雰囲気で描いていた。百合百合しい日常回。個人的に、夢結が好きなので、特に印象に残っている。

8話は、戦闘競技会を通して、結梨がリリィとして急成長する回だが、終始コミカルに描かれる競技シーンが、各々のレアスキルなどの説明もこなしながら、かなりの高密度で、キャラを引き立てながら、楽しく描かれる。かと思えば、終盤の結梨のアクション作画の凄さに持っていかれた。かなりの手練れた演出だと感じた。また、8話の特殊EDは、一柳隊(含む結梨)の10人が私服で過ごしているという多幸感溢れるもので、特にお気に入りである。

12話は、Aパートの戦闘シーン全部良い。特に全員で繋ぐノインヴェルト戦術。ここもかなりの高密度で、テンポよく子気味良い。台詞もカットをまたいで別のキャラに繋ぐイメージでかなりの高圧縮をかけているが、状況を的確に盛り上げながら繋いでゆくカット割りに、観てるこちらも盛り上がる。

今回、盛り上がる部分だけをピックアップして書いているが、全体的に、ストレスのかかるシーンも、しんみりくるシーンも、ギャグのシーンも、的確に高レベルにこなしていた感じがあり、満足度はかなり高かった。

テーマ・物語

ギオン(=チーム)という強さ

リリィはレギオンというチームを組んで戦う事で強くなる。

その象徴的な必殺技として、ノインヴェルト戦術と呼ばれる、9人のリリィが魔法球(マギスフィア)をパスしながらマギの力を上重ねして敵に叩きこむ技がある。これは、ビジュアル的にも分かりやすくチームの熱い団結を演出する。

主人公の梨璃は、リーダーとなってレギオンの要員を集め、一柳隊を結成する。集まったリリィたちは梨璃に好意的で、その信頼感でリーダーに体を預けて戦う。

中には楓のように、普段から梨璃への片思いや、夢結へのライバル心を表に出す者もいるが、戦闘中はみな協力して力を合わせてヒュージと戦う。

メンバーがチームメイトに依存しているのではなく、個人個人が自立した存在である事がミソである。そういった、私情を超えたチームワークの信頼感が、本作の気持ち良さの一つだと思う。

リリィたちが抱える悲哀

8話で結梨が一柳隊のメンバーの匂いをかぎ、「みんなも悲しい匂いがする」というシーン。結梨の「リリィは何故戦うの?」の問いに「みんなを守るため」「誰だって怯えながら暮らしたくない」というのが梨璃と夢結の回答であるが、それはリリィたちの犠牲の上に平和が成立している事を意味する。

それだけでなく、リリィそれぞれに事情があり、死神として呪われた悲しみ、祖国を奪われた悲しみ、強化リリィとして人体実験を受け精神的なトラウマを抱えて生きる悲しみなど、さまざまな悲しみを背負っている。

そうした傷を抱えながらも、リリィたちは命懸けでヒュージと戦う。

さらに言えば、リリィは人間に恐れられ疎まれる側面もあり、ヒュージという敵がいなくなったら軍事利用されるのではないかと不安を抱くリリィもいる。

その意味で、リリィはどこまで行っても束縛され、その犠牲を受け入れざるを得ない、悲哀に満ちた存在として描かれる。

結梨のアイデンティティと差別

人間とヒュージは50年間も争い続けており、敵対関係は当然のものとなった。ヒュージの研究は続けられていたが、人間と対話が成立する兆しもなく、時間は経過した。

リリィはマギの力でヒュージ化した人間であり、人間とヒュージの中間に位置する。それゆえに、リリィは人類に唯一のヒュージからの防衛手段として頼られる一方で、一部の人間はその力を恐れ、疎ましく思っている。それゆえに、人間→リリィは分断のリスクを背負っている。

7話で登場した結梨は逆に、人造リリィと呼ばれるヒュージが人間化したものであり、こちらもヒュージとリリィの中間に位置する。ただし、その出生経緯からヒュージとみなされ、白百合女学院もリリィとして保護する事が出来なかった。最終的には、結梨=人間の証明が間に合い政府への引き渡しは阻止できたが、一つ間違えば敵とみなしていた危うさがあった。

敵対するグループ間にあって中性的な存在が、両者から疎まれる。それは、リリィも人造リリィも同じ。例えるなら、敵対国の間に生まれた二世や、敵国から戻った帰国子女のようなものであろう。同じ人間なのに敵とみなして拒絶する事の危うさ。

結梨自身は、人間にもヒュージにも属さないとしたら、自分は一体何者なのか? という不安を覚え、自分はリリィでありたいと強く願い、リリィとして認められたい一心でヒュージを倒すが、相打ちとなり戦死する。せっかく、戦闘直前に人間として認められるに至ったのに、リリィとして生き急いだ結梨の人生は無慈悲に幕を閉じた。

結梨の件は、こうした差別やアイデンティティがテーマがあったと思う。

結梨の死は、強引なお涙頂戴ドラマ展開とか、ソシャゲがあるのでアニメ独自キャラしか殺せなかったとか、そういった否定的な意見もSNSで散見した。まあ、そういう見方も間違いではないだろうが、12話の梨璃のリリィ解放の流れの中では、絶対必要なエピソードだったと思う。

美鈴→夢結←梨璃の三角関係のドラマ

美鈴の呪いのくだりは、脚本、演出的にかなりトリッキーなサスペンス仕立てとなっており、新情報が分かる度に、ドキドキ、ハラハラしながら観ていたが、一旦ここに整理してみたい。

話数 美鈴関連のメモ
3話 甲州撤退戦の真実は、
(1)結夢がルナトラ発動
(2)美鈴に致命傷
(3)美鈴がダインスレイフの契約と術式書き換え
(4)美鈴ダインスレイフ持ってヒュージに突進
(5)美鈴ヒュージに串刺し
6話 美鈴のリリィだけがマギに操られない発言(結夢回想)
ヒュージからダインスレイフ回収
10話 墓前の結夢の前に美鈴幻影再登場
11話 美鈴のカリスマ上位スキルのラプラス疑惑(百由仮説)
6話でダインスレイフを回収後、鎌倉のヒュージの行動が狂暴化した(百由分析)
美玲のソメイヨシノ=ヒュージ=リリィ論(結夢回想)
美玲の結夢の存在だけが生きる意味発言(結夢回想)
美玲の愛しすぎて傷付けてしまいそうになったら殺してくれ発言(結夢回想)
12話 ヒュージがルナティックトランサーに似た波形を放出
美鈴は結夢が好き過ぎて自分を呪った(梨璃が感じた美鈴の残留思念)
美鈴はヒュージを暴走させる意図は無かった(梨璃が感じた美鈴の残留思念)

夢結が幻影によりかなり錯乱していたという状況もあり、まずはその辺りをマイナスして美鈴視点のポイントを整理する。

12話で梨璃がダインスレイフから読み取った美鈴の残留思念が真実なら、美鈴は夢結を愛しすぎて自分自身を呪ったが、夢結を呪ってはいない。美玲がダインスレイフの契約と術式を変更した目的は夢結を守るためであり、後のヒュージの異常行動の意図は無かった。

しかしながら、本来マギの操り人形であるヒュージが、6話のヒュージはマギを操り、9話11話のヒュージは海底のヒュージネストからマギを吸い取って狂暴化していた。この件については、想像だが、ダインスレイフに宿りし美玲のマギが、海底のヒュージネストに伝搬し、蓄積され、ヒュージに影響を及ぼした可能性が有る。

ちなみに、この仮説は12話で梨璃と夢結の帰還を守った結梨の幻にも当てはまる。9話のヒュージと結梨は相打ちになったが、ヒュージを通してか、グングニルが回収されたのか、何らかの手段で、海底のヒュージネストに結梨のマギが蓄積され、最後に作られたヒュージを結梨の意志がコントロールして帰還を守り、ヒュージ自体は海岸に骨格だけ残った。

最終的に鎌倉のヒュージネストは殲滅されたので、これでマギを操るヒュージの狂暴化はリセットされたと思われる。

話を美鈴と夢結に戻し、本作のドラマの軸となる、錯乱した夢結の葛藤のポイントを整理する。

夢結は甲州撤退戦で美鈴殺しの疑惑をかけられていた。美鈴の幻影に苦しみ、その心は氷のように冷たく硬貨していた。

3話で戦闘中に梨璃と刃を突き合わせる事でルナティックトランサーが解除。甲州撤退戦でルナティックトランサー発動中の意識が無い時に夢結が美鈴をダインスレイフで指していた記憶が戻り、その夜自室で一人涙を流し、その事実に向き合った。それを同室の祀に目撃され、それ以降、美鈴の幻影は出ない。

6話で因縁のダインスレイフを咥え込んだヒュージとの戦いで、夢結が再びルナティックトランサー発動。自分の醜さ弱さを梨璃に吐き出し、何度でも守ると梨璃に言われて戦線復帰し、一柳隊初のノインヴェルト戦術でヒュージ撃退。

10話Cパートと11話で再び美玲の幻影登場。何故このタイミングなのかは不明だが、百由がダインスレイフを解析して徹夜で対ヒュージ用のウィルスを作っていた事が、美鈴のマギが結夢にアクセスしやすい状況を作ったのかもしれない。6話までは自分の過失を攻めていた夢結だが、今度は離れられない美鈴の呪いとの戦い。美鈴が記憶改竄能力をもちえたという情報もあり、疑念の渦に巻き込まれ自分を見失い、呪いを自分一人で解決するともがく。

12話で美鈴のダインスレイフを手にルナティックトランサー発動して梨璃を守る夢結。お互いに、パートナーを守るために自分勝手に暴走しないで!との痴話げんかを経て、最終的に再び二人が協力してヒュージを倒す。ここで夫婦の絆がより深まったという演出だったと思う。

こうしてみると、美鈴→夢結←梨璃の三角関係のドラマとも言えなくない。美鈴が死してなお夢結をガラスのケースに閉じ込めて縛り付けようとしていたか? 美鈴は梨璃に嫉妬していたか? がポイントになると思うが、この辺りの詳細は分からない。ただ、12話の戦闘を経て、自分一人だけでなくパートナーを信頼して行動できるようになった事で、夢結の過去は吹っ切れたとも言えるし、ネスト殲滅からの帰還の時に美鈴は幻影を見せなかった事で、美鈴は身を引いたとも考えられる。この辺りは、曖昧な余韻を楽しむところなのであろう。

本作が百合を特徴としている事、好き過ぎて自分が怖くなり自分自身を呪うという文学的な雰囲気、それをサスペンスタッチで描いてきた部分では野心的で凝っていたと思う。それゆえに、夢結の感情に寄り添うのに若干難易度の高さを感じないでもなかった。この作風は私好みだが、好き嫌いは別れそうに感じた。

梨璃による、リリィたちの救済と解放

娘同然だった結梨の喪失により、梨璃は失意のどん底に落ちる。それを救ったのが一柳隊や百合ヶ丘女学院のリリィたちだった。四葉のクローバーの髪飾りはリリィたちの梨璃を気遣う気持ちの象徴となり、梨璃はそれを受け取る。そして、梨璃はもう誰一人としてリリィを失いたくない気持ちを強くする。

11話で自分のCHARMだけ機能する状況下で、夢結と女学院のリリィたちを守るため、単身でヒュージに立ち向かう。本来、制御不能になるルナティックトランサー発動後の夢結が、自制心を持って梨璃の助太刀に来る展開が熱い。さらに、女学院のリリィ全員によるノインヴェルト戦術でヒュージを倒すシーンでさらに高まる。そして、その代償にリリィたちが持つCHARMが全て壊れるという展開は、リリィたちの戦闘からの解放を示唆する。

12話Bパートの海底のヒュージネスト破壊作戦は、夢結と梨璃の2人でヒュージと対峙する旅となった。鎌倉のヒュージを殲滅し、因縁のダインスレイフを深海に沈めた。帰路は亡くなった結梨の魂に見守られながら、由比ガ浜の海岸に帰還する。

こうして、梨璃とリリィたちによる、リリィの戦いからの解放を描いた。

梨璃のレアスキルは、カリスマの上位スキルのラプラス(?)。人間とヒュージや、人間と人間の理解し合えない断絶が悲劇を生むものだとしたら、梨璃の力は分かり合ってしまう能力だったのかも知れない。相手の気持ちを知り、梨璃の無欲で犠牲を出したくない気持ちが伝搬する事で起きた奇跡。

それは、ご都合主義とも言えなくも無いが、梨璃やリリィたちの悲哀を描いてきた物語の結末としては、こうありたいという祈りとシンクロし、気持ち良く見られた結末であったと思う。

余談(メタ考察)

美少女キャラの犠牲の上の平和と、美少女キャラの幸せ

メタ的は話をするが、アサルトリリィというコンテンツは、美少女バトルアクションというファン向けの要素を前面に押し出しており、フィギュアも小説もソシャゲもそれを中心にして売り出すというコンテンツである。

しかし、アニメーションというエンタメにおいて、令和の時代に、みんなのために自己犠牲で死と隣り合わせで戦う、という設定や物語自体が、受け入れられにくい時代になってきているという側面があるように思う。

特に、ソシャゲという事であれば、キャラを好きになってもらうのが一番の燃料なので、キャラクターの個性こそ尊重するが、キャラクターを虐げたり、物語の都合で戦死するような事は、マイナスという事もあるだろう。大好きになってもらったキャラクターたちをないがしろに出来ないし、いつまでも愛して欲しい。キャラを肯定して欲しい。

その意味で、リリィたちを戦争から解放し救済する、というストーリー自体は、個人的には非常に良かった。私もキャラ寄りに作品を観てしまう傾向があるので、物語の都合でキャラクターが悲惨な目に遭うのは心が痛む。一柳隊の9人は全員気に入ってしまっているので、なおさらである。

しかし、本能として、美少女バトルアクションという映像が好きな事も、本作を観て再認識した。

だから、本作は、前提としての美少女バトルアクションモノの文芸面を上手く処理して現代にマッチさせている、という点で見事だと思うし、評価したい。

しかしながら、美少女キャラを自己犠牲の戦争に参加させている時点でどうか? という潮流もあるだろう。

まどマギは、大義名分ではなく、個人の願いを叶える契約履行という、ある意味自己責任で命懸けで魔女と戦う。ガルパンはチームで敵と戦うが、生命の危険は無く、試合後は敵とも和気あいあいである。その意味で、ガンダムみたいに主人公が命懸けで敵と戦うアニメは、近年まれというか、直ぐには思いつかない。

(後で気付いたが、2021年10月に放送予定のマヴラブは、美少女オンリーではないが、死と隣り合わせの兵士を描いている作品かと思うが、ただしこの作品も原作の起源は古い)

この先、美少女バトルアクションは、どのように進化するのか? それとも、退化して消滅するのか? その辺りを興味深く思っている。

アサルトリリィとシグルリの対比 (2021.5.8追記)

ブログを一旦、公開した後、同時期に放送されていたシグルリ(戦翼のシグルドリーヴァ)が、がっつり戦う美少女の犠牲を描く作風であった事を思い出したので、本作についても触れておこうと思う。

戦う美少女の犠牲の上に勝ち取る平和、という観点でのシグルリのポイントを整理する。

  • 人類 vs 圧倒的な強さを持つ北欧神話の神オーディン の戦い
  • ルールは神であるオーディンが決める(=無理ゲー)
  • オーディンは、ピラーとよばれる無機質なメカを出現させ人類と戦わせる
  • 何故か、美少女(ワルキューレ)とレシプロ戦闘機(英霊機)だけが、ピラーに対抗できる唯一の戦力という設定
  • 美少女だけでなく、通常の軍隊も戦闘する(オッサンたちがジェット戦闘機で護衛する)
  • 人類は虫けらのように死んでゆく。美少女もたびたび戦死する

圧倒的不利という状況で、戦わなければ人類滅亡という状況下を設定し、美少女だけが敵に対抗できる手段という事では、美少女バトルモノのテンプレ通りである。

アサルトリリィとの違いをピックアップすると、下記となると思う。

項目 アサルトリリィ シグルリ
戦況 侵略を食い止めている(防衛)
人類の平和を守る
既に壊滅状態
人類の平和を勝ち取る
死の描写 死の描写は最小限 死は当然でありふれてる
人類→美少女 一部の人間から疎まれる 英雄として人気者
美少女の成り立ち 敵の技術で武装(&改造) 敵(神)が選抜
一般人 ほぼ描かれない 共に戦い死にゆく姿を描く

一般的に美少女アニメは、美少女以外の登場人物をあまり描かないというディレクションが主流であり、それは気持ち良いモノだけで満たされたい視聴者にとって美少女以外の登場人物がノイズになる、という発想からきていると思われる。そのため、美少女だけの閉じた社会だけか、その社会と限られた範囲での外部を描くことになる。アサルトリリィもその文脈で作られている。

しかし、シグルリはその鉄板の法則から大きく外して作られている。美少女以外の一般人(軍人、民間人)を描き、その中に生きる頼られるヒーローキャラとして描いている。

シグルリの世界では人類が絶滅の危機に瀕しているが、ワルキューレだけを戦わせたり、責任を負わせるものではない。ワルキューレが特殊な能力を持っているからといって特別な悲しみを持つわけではない。ワルキューレの悲哀=人類の悲哀である点が、アサルトリリィとは決定的に異なる。

無理ゲーとも言える神との戦いなので、人類の勝てる可能性は0%ではないかと思ってしまう。しかし、人類とワルキューレはその可能性を0.0001%くらいはある、という事を信じて絶対に諦めずに戦う。

戦うたびに、人類側には甚大な被害。ワルキューレも大切で大好きな先輩を失い、戦意を喪失してしまう後輩ワルキューレもいる。そうして、数を減らしながら生き残る人類の傷と絶望は、深く大きく広がってゆき、戦う事を諦めそうになる。自己犠牲の戦死が嫌だから戦わなくても良いというロジックは、戦わなくても世界が存続するケースが前提であり、ここでは戦わない事も死を選択する事と同義である。だから、この無理ゲーの中、戦えるものは無駄死に覚悟でも、未来を信じて戦いを挑む。

物語としては、弱点が無いと思われた神の側が、実は一度滅んでおり、神の家族を失くない為に茶番を組んで滅びの戦いを人類に代行させ、滅ぶ前である事を演じていたかったみたいな、過去に拘り摂理を捻じ曲げる的な、神様の拗れた個人的感情みたいな事が分かってくる。

これに対して、人類の強みは、小さな個人の小さな命が尽きても、残された者がその死を弔い思いを引き継ぎ積み重ねるという継承と、死にゆく命に対して生まれ来る命があり、その新陳代謝で未来に繋ぐ、という2点である事を描く。そして、必要なのはゴキブリの様にしぶとく、諦めない心であると。

神の側の事情を知れば、過去に拘るという心の弱さがあり、未来永劫続くものなどない、というルール違反をしている事から、人類側の勝機が見えてくる。最終的には、苦しい戦いの果てに、人類の存続を勝ち取る事ができる、という流れで結ぶ。

シグルリのロジックは、昭和時代の古い展開とも言えるが、この物語の流れは納得はできるし、アリはアリである。

こうしてみると、シグルリは美少女バトルアクションアニメの中で、カウンター的な要素を持っていたとも言える。それは、選ばれし美少女が戦わない=美少女も人類も滅亡するというハードな二択設定と、美少女たちだけに責任を負わせないこと、この2点で従来の美少女の犠牲の悲哀を軽減していた事である。

ただ、令和時代において、このロジックは例外的でもある。また、視聴者の中には、この無理ゲー感溢れるストレスフルな展開に疲れてしまい、途中で視聴を中止してしまうケースもあっただろう。

シグルリは美少女バトルアクションの一つの回答である。今後、数は少ないだろうが他の回答も出てくる事を期待しつつ、そうした作品を楽しみに観て行きたい。

おわりに

個人的に、2020年秋期のアニメは豊作で、作品も視聴カロリーを使う作品が多かったのだが、本作をいつもの感想・考察で書くには、物語の掴み切れていないところを、掴み直す必要もあり、ブログの更新タイミングがかなり遅れてしまいました。

実際に、物語・テーマだけ整理しようとしても、かなりの分量になりましたので、この大型連休の間に書けて良かったです。

改めて、観直したりしていましたが、百合の一本調子で終わらせるには勿体ないほど、カラフルな作品だと思います。観て楽しめる要素満載なので、「美少女バトルアクション」に抵抗なければ、是非観ていただきたい作品です。

のんのんびより のんすとっぷ

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ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

のんのんびより のんすとっぷ」の感想・考察です。

ちなみに、私は1期2期は未試聴で、劇場版の「ばけーしょん」から履修済みです。なお、原作漫画は未履修です。(1期4話のみ、3期10話との関連もあり視聴しています)

緩い日常アニメと思いきや、終盤の感動回で打ちのめされました。3期はシリーズの完結を描く事もあり、その意味でも感慨深いものがありました。かなりの良作ですので、オススメです。

感想・考察

作風

本作は、田舎を舞台にした子供たち視点のノスタルジー溢れるドラマである。ジャンルで言えば、日常コメディ+人情ドラマという感じ。とにかく、気負いなく楽しく観れる。

原作のあっと先生によるキャラが可愛いくて良いのだが、本作の最大の特徴は、ゆっくりと時間が流れる田舎の日常を描いている点にある。特に田舎の風景・自然は背景美術により丁寧に描かれ、演出のテンポもゆったりしている。その、緩い時間を共有できるのが、本作の最大の強みである。

各話

各話イベント一覧

話数 タイトル イベント
1話 カエルの歌を吹いた 5月、セロテープ人形、人見知りあかね登場、笛の練習、あかねとれんげの繋がり
2話 蛍が大人っぽかった? 6月、トマト苗植え、あかねと夏美小鞠蛍の繋がり、クッキー作り、甘えん坊蛍
3話 昔からこうだった 7月、ひかげ夏海盆栽割り、喧嘩、幼少期、コムソーマンごっこ、秘密基地、心配して夏海を迎えに来たひかげ、和解
4話 トマトを届けるサンタになった 8月、トマト収穫、配達、しおり登場、駄菓子屋と手錠、コスモス刑事ごっこ
5話 すごいものを作った 8月、自由研究、来訪日間違いあかね、れんげあかね遊ぶ、怪談小鞠ぐるみ
6話 みんなでキャンプに行った 8月、キャンプ、テント設営、黒蜜カブト虫、肝試し、ひかげ夏海の宿題ボイコット
7話 ハラハラする秋だった 9月?、授業参観、焦る夏海、燃え尽きる夏海、しおりに翻弄されるれんげ、蟹の水槽
8話 先輩はもうすぐ受験だった 10月?、大学受験このみ、縁日、このみ越谷家お泊り、ふすま破り、外であかね演奏会、あかね富士見家お泊り
9話 おししいごはんを作った 11月?、怖がり小鞠、イタチ、不器用編み物、夕食カレー
10話 寒くなったりあったかくなったりした 正月、お年玉騒動、寒中コント、ほのかれんげ再会、今度は言えたバイバイ
11話 酔っぱらって思い出した 2月?、中あて(ドッチボール)、赤ちゃんれんげの世話する楓、宮内家で酔いつぶれる楓、楓の布団を直すれんげ
12話 また桜が咲いた 3月、卒業式、みんなで土手滑り、かすみ生まれる、4月、かすみれんげ指切り、新生活

10話について

10話のほのかとれんげの絡みは、1期4話のアンサーである。

1期4話は、夏休みにたまたま帰省したほのかとれんげの交流を描く。れんげとほのかは同じ年で意気投合。翌日も遊ぶ約束をして丸一日二人で遊ぶ。その翌日も遊ぶ約束をしたが、ほのかの父親の都合で急に家に帰ってしまい、れんげは1週間不貞腐れて過ごす。そんなある日、ほのかから手紙と二人が写る写真が送られてきて、れんげも絵を描いて返事を返す、という話。

ちなみに、この話は、劇場版の夏海とあおいの関係にも符合する。沖縄旅行で出会った民宿の娘のあおい。同じ年で時間制限付きという点では全く同じ。夏海は最終日の朝、一人涙する姿をれんげに見られている。無言で送迎バスに乗り込もうとする夏海に対して、れんげが挨拶を即す。夏海からあおにに別れの挨拶。見送るあおい。そして、旅先から日常に戻った時にれんげが夏海にプレゼントしたのは、ほのかとれんげのツーショットの写真と同様の、夏海とあおいのツーショットの絵だった。

これを踏まえて3期10話では、ほのかが帰る日の朝、駄菓子と髪留めを交換し、キチンと別れの言葉を交わして別れる。1期4話と違い、タイムリミットが近づく切なさと、その切なさに向き合うれんげの姿が描かれる。

こうした、過去シリーズのネタも絡めての話は、過去シリーズを知る者には、2倍、3倍にパンチ力が増して効いてくる。

そして、この事は、3期が物語完結である事を考えると、考えすぎかもしれないが、作品と視聴者の別れにも重なると思う。過去エピソードを活用しつつ、3期完結を連想させるシリーズ構成の凄みを感じる。

11話について

11話は、3期の中で最大級の泣きポイントだったと思うし、実際、多くの視聴者もラストで涙腺崩壊した事と思う。

11話が例外的なのは、子供視点ではなく、大人視点でドラマを描いている点にある。これは、不意打ちで右ストレートをくらったくらいの威力があった。

楓はれんげに対して過保護である。れんげが赤ちゃんの頃から面倒を見続け、保護し続ける事が当たり前だった。

それは、年長者が年下の子の面倒を見るというコミュニティ内の暗黙のルールであったし、義務と言い換えてもいいかもしれない。

さらに、一穂の話では、楓はコミュニティ内で荒れていた時期があり、そんな時にれんげの面倒を見る事で、心に潤いを取り戻し、軌道を外れる事無く現在に至ったという経緯が語られる。楓がれんげの面倒を見る事は、実は楓のメンタルケアの上でも有効であり、コミュニティ内の良き循環となっていた。

しかし、れんげ本人は成長している。妹分のしおりの面倒をみたり、気遣ったり、姉貴分としての自覚を持ち始めている。そして、れんげが楓の布団をかけ直してポンポンと布団を叩いて出て行くラストシーン。

楓が酒に酔いつぶれていたから、泣きやすい状況にあったという事もあるだろう。

楓の気持ちは複雑で、れんげの初めての優しさに感動したとか、世話していたれんげから世話されて、れんげの成長を感慨深く思ったとか寂しさ感じたとか、いろいろと考えられはするけども、これだけでは無く、もっと色んな感情があったのかもしれない。

ただ言えるのは、子供の成長を目の当たりにして、巻き戻らない時の流れの重みを実感して涙するというのは、童心には分からない大人だから分かる感覚であり、繰り返しになるがその意味で11話は本シリーズでは例外なのである。

そして、その巻き戻らない時の重みというのは、そのまま12話に引き継がれるテーマである。11話のこのエピソードが12話の心の準備回になっているという点で、ここでもシリーズ構成の上手さに唸らされる。

それにしても、ある意味、鉄板のお約束である楓のれんげに対する過保護設定を、れんげ依存からの脱却を示唆して解放するというのが、本当に目から鱗で、凄く良かった。

12話について

12話というのは、本作にとって最大のケジメである。これまでループし続けていた、いわゆる「サザエさん時空」を解放させての堂々のシリーズ完結となった。

3期で重要な役割を果たしていたのが、新キャラのしおりとあかねである。

旭丘分校コミュニティの閉じた時空において、しおりは代替わりで新規に参入する者として時間の繋がりを示し、あかねは隣町からの外部から参入する者としての空間の繋がりを示す。3期では、丁寧に2人を旭丘分校コミュニティに干渉させて、サザエさん時空の解放を描き上げた。

Aパートの土手滑り。夏海、れんげと楓、しおりと蛍、小鞠とあかね、ひかげ、このみ。従来のコミュニティに、しおりとあかねも参加して前進する未来を示唆するシーンだと思う。

このみがこの1年を振り返り「なんか、長かったと言うか、短かったと言うか」という台詞。この1年は、3期1クールで描いた1年でもあり、1期放送開始からの7年でもあり、視聴者の心情にも重なる。

アバンの卓の卒業、Bパートのしおりの入学。年度が切り替わり、また新しい日常が始まる。いつもと同じ道じゃなくて、いつも少し違う道。

そして、れんげとかすみ(生まれたてのしおりの妹)が一緒に登校する6年越しの約束は、こうして未来永劫続く季節と年度の螺旋の時の流れ予感させる。

水は一つ所に留まると濁るが、流れる水はきれい。これで視聴者は本シリーズとはお別れになるのだが、新学期が始まり、年度が切り替わる事で物語の完結を示すということが、これほどまでに清々しく、これほどまでに美しく、心に響くとは思わなかった。

その他の諸々について

3話は、ひかげと夏海の喧嘩と和解を、過去回想を交えて描く。夏海の悪乗りに酷い目にあいながらも、幼少期の夏海の「ごめんなさい」があるから、今も続いている二人の関係。ひかげの良さを丁寧に描く回は、ここしかないので非常に良かった。

9話は、小鞠の可愛さ全開回だった。怖がりで不器用で、しっかりしたい気持ちとは裏腹に失敗ばかり。カレー作りで肉じゃがを使う発想に有頂天になるところとが最高に面白かったが、自分から母親に手伝ってと頼むくだりと、その後の母親のケアが微笑ましくて良かった。

2話と5話で蛍がいじられているが、大人っぽさを演じている蛍の子供っぽさや、小鞠フェチの可笑しさがネタになるという事で、3期ではお笑いに徹した感がある。

れんげは3期でも最重要キャラであったと思う。ラストの台詞を言うために3期の1年を積み上げるという大役をこなした。妹分のれんげの登場により、年長者としての責任を自覚する下りは、1クールの中で丁寧にしおりを織り込んで描いた事で、ごく自然な形で見えていた。

れんげ関連でちょっと笑ってしまったのは、9話のしおりとの哲学めいたやり取り。れんげのロジックは視聴者にも明快だが、しおりの言動は幼児のそれで非論理的な飛躍で展開されるため、れんげが翻弄されると言うくだりが馬鹿馬鹿しくてよかった。

「終わらない日常の終わり」

「終わらない日常の終わり」は、3期放送に直前に、原作漫画が2月末で連載終了する事をアナウンスした時のコピーである。おそらく、3期と原作漫画の連載終了は、かなり前から綿密に同期をとって物語の完結を練り上げてきたのだろう。このコピーを見たとき、私はこのカッコ良さに痺れた。

本シリーズが、大人のノスタルジーに触れてゆく作風である事を考えると、過去に囚われて後ろ向きな印象を受けなくもない。しかし、3期12話では、過去を受けて未来を生きるために、昨日と少し違う今日を全力で生きる、というメッセージを伝えてくる。日常=同じ毎日の繰り返しという考え方を否定し、日常=巻き戻らない変化する毎日の積み上げであり、だからこそ日常を大切にすべきなのだと主張する。

つまり、日常の終わり=変化を受け入れ前進するというニュアンスが近いのかと思う。これは、2期のループを否定する考え方と言っても良いだろう。

3期12話が年度上がりを描く事で物語の完結を描くという事の美しさは、3期単発では表現しえないテーマである。原作漫画が11年以上も連載されていた事、2期のサザエさん時空と、2期から3期のインターバル期間があった事を利用してのシリーズ構成であり、その意味で見事という言葉しか出てこない。シリーズ構成の吉田玲子さん、監督の 川面真也さんに最大限の拍手を送りたい。

おわりに

私は「はいふり」が好きなのですが、本作も、あっと先生原案のキャラクターで吉田玲子脚本のアニメであり、個人的にこの布陣に弱い事が判明しました。

1期から7年も経過していますが、その間のアニメーション技術の進化を取り込むという事よりも、当初と同じ質感を維持していてくれているのではないか、という映像の肌触りの感触を変えていないところに好感を持ちました。(劇場版は、流石の映像クオリティという面はありましたが)

どうせ、大人のノスタルジーに訴えかける癒し系のアレでしょ、という先入観を捨てて、緩い笑いと極上のドラマを楽しんで観て欲しい作品です。

2021年冬期アニメ感想総括

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はじめに

2021年冬期アニメ総括です。今回、最終回まで見た作品は下記。

コロナの反動でアニメの本数も増えた今期ですが、今期も色んなテイストの作品をばらけて見る事ができました。

今期は「ワンダーエッグ・プライオリティ」にドハマりしていましたが、その他の作品も味濃いめで、楽しめました。

感想・考察

ワンダーエッグ・プライオリティ

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 14歳の少女の痛み危うさを繊細、かつ濃密に描く脚本、演出、作画、芝居
    • 考察向きの含みを持たせた独特の世界観と設定
    • バトルアクションの爽快感ある作画
    • 趣があり、クセになる劇伴
  • cons
    • 制作上の問題で1話取りこぼし、続きを6月の特別版にて完結という状況

本作は、制作遅延により8話で総集編を挟み、放送枠から押し出された最終話を特別編として6月末に放送されることがアナウンスされている。その意味では、4月時点では未完の作品である事を明記しておきたい。

本来なら、未完の作品の評価は保留にするところであるが、個人的にこのクールで一番ハマった作品で有る事、12話で主人公のアイについて、一応の決着を付けている事から、本ブログに記載する事とした。

本作の見所は、やはり野島伸司のシリーズ構成と脚本。14歳の少女を繊細かつドラマチック描く。これまでの実写ドラマの過去作と比べても、期待を裏切らない出来栄えだったと思う。むしろ、1話時点では実写ドラマ寄りと感じた作風も、回が進むにつれてアニメならではの爽快感や見易さも出てきて、いい感じに実写ドラマとアニメの風味を融合していた。

例えば、ねいるが社長なのも実写ドラマなら大ブーイングの超設定だが、アニメなのでそこに引っかかり過ぎずに観れてしまう。逆に、アイの部屋やポマンダーの設定の緻密さが、実写ドラマ顔負けのリアリティを感じさせる。こうしたさじ加減が上手い作風だと感じた。

とにかく、作画と声の芝居が丁寧で、演出のキレの良さも感じた。重めのテーマゆえにストレスフルなシーンも多いが、逆に、4人の雑談やアクション作画の軽快さとも両立しており、こうした緩急の使い方が上手い。

各話のアクションシーンはとても丁寧で躍動感がある。アイたちも派手に吹っ飛ばされたりしながら、嫌悪感だらけのワンダーキラーを叩き切るシーンは、かなりの爽快感を味わえる。

私のお気に入りは、5話でリカが、アイに「悪役やってやってんだ!友だちなら出来たじゃんか!」と言うシーン。この時の目の見開き方や、口元の力の入り方が、従来の静止画の記号だけで伝える演技とは違って、完全に実写ドラマ的な芝居だったし、とても新鮮に感じた。

劇伴も印象的だった。時に女子の会話の賑やかさを軽快に、時にシリアスな展開のストレスフルな心情を重厚に、幅広く聴かせてくれた。最近の作品で近い感覚を持ったのは「安達としまむら」や「リズと青い鳥」。ちょっとクセになりそうな心地良さがあった。

作品のテーマは、子供でも大人でもない、思春期の14歳の少女の自殺を題材にしている。自殺の原因となるトラウマは、イジメ、体罰、痴漢、援助交際、ナルシスト、霊感、新興宗教、レイプなど。

物語的には、こうした自殺した少女のトラウマを退治しながら、自身が自殺に関与してしまった少女を生き返らせるため、自身の罪を償いやコンプレックス克服のために戦い続ける、というのが基本。

しかし、終盤は、自分自身の戦いから、フリルという絶対悪のラスボスとの対決の構図が見えてくる。

果たして、12話ではアイがかつての弱かったアイ自身を救うった事で、フリルと戦う決意を固める。しかし、その直後に救われたはずのもう一人のアイの左目を奪われる(多分、死を意味する)。エッグの戦いから戻ったアイは、もう一人のアイに感謝と謝罪をし、ここで12話は終わる。

12話時点でフリルの問題やねいるの妹など謎だらけだとしても、アイのドラマに一応の決着を付け、物語を一旦閉じた点については誠意を感じた。

個人的にお気に入りは9話と11話。

9話はねいると寿の回。ねいるはエッグの運営側との繋がりもあり、戦う理由が他の3人と明確に違うが、その真意は謎。ねいるは他の3人と違って曖昧な少女性を持たず、論理的な思考でブレが無い。そんな無敵のねいるだが、唯一心を許せる同士であり、親友でもある植物人間の寿への依存が弱点として描かれる。ある意味、会社人間で将来の夢も持たないねいるが、寿と決別し、自分の人生を歩み始める。10話の髪型の変化と、リカへのラーメンOK即答は、その変化の表れ。この変化が特別編でどう効いてくるのか、楽しみ。

11話は完全に1本のホラー映画だった。裏アカの独白で進められるフリルのあずさ殺害とひまりの自殺。エッグの世界の経緯と、継続する恐怖の余韻。ここでも、裏アカたちの尻拭いをアイが押し付けられるという、身勝手な大人と犠牲となる少女の構図が効いている。永遠の14歳の少女フリルの、愛する人の移り気を憎み、浮気相手を殺し、精神的ダメージを与える残虐さ。物語的には、怪物となったフリルの暴走を止める必要があると思う。

特別編を待つ間に、気にしているポイントを整理しておこう。

フリルが普通の人間と違うのは、心の痛みを感じた時に、それはそれと割り切ったり、その痛みを乗り越えたり、次に前に進む事が出来ない点にある。ねいるは寿との別れで前に進み、アイは沢木先生や小糸の死の疑念を捨て、目の前の大切な人間を信じる事で前に進んだ。フリルが持っていないモノをねいるもアイも持っている。そこが二人の強みであろう。フリルという絶対悪のラスボスをどう倒すのか?ハッピーエンドなのか、ビターエンドなのか?楽しみは3か月後という事で…。

ゲキドル

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 粗削りながら、毎度の超展開で細かな欠点を許せてしまう豪快な作風
  • cons
    • 色んな要素詰め込み過ぎゆえの、消化不良気味の雑多感
    • キャラの心情の変化などが大味で、きめ細かさに欠ける演出

本作は、欠点を指摘しようと思えばいくらでも指摘できるが、その豪快な超展開で全て許せてしまうという、不思議な魅力を持つ作品だった。いくつかある欠点も、作風や設定により、まあ楽しめれば細かい事はいいか、となってしまう豪快さが本作の強みである。

本作は、要素を詰め込み過ぎているせいか、物語の流れを不自然に感じる事が多々あった。イベントが突然発生し、それがその後の流れにあまり有効に生かされない。脈略が無く感突に過ぎ去る印象を受けた。

演劇、(地下)アイドル、百合、サイコパス、ドールとシアステの洗脳システム、ド根性の弱小劇団と大手劇団の対決、竹崎の世界征服、かをるの謎の過去、時空犯罪、5年前の世界同時都市消滅の真相、歴史改変、と目まぐるしいまでの超展開を詰め込み過ぎて、消化不良な感じが否めない。上手いシリーズ構成ならこれらの要素の中でどれか一つを軸にして1クール通貫のテーマとし、周辺の要素をシームレスに絡めてくるのだろうが、本作にはそうした一気通貫の軸が見えにくい。

例えば、あいりがせりあを好きでキスまでしてしまうのに、百合が炸裂するわけでもなく、普通の友達の距離に収まったまま、せりあの成長を思う良き仲間的なポジションで進行する。また、Jrアイドル時代のヌード写真撮影会の黒歴史を嫌悪して落ち込んだり、それが吹っ切れたりのドラマはある。しかし、それが物語に収斂する感じも無く、散漫なエモさアピールで終わってしまう。こうしたチグハクした感じは、せりあにもいずみにもあり、結果的にエピソードが積み重なっていかないし、キャラの行動が感突で何のために? という違和感を感じるシーンが多く、正直、見易くはなかった。

しかし、最後まで観終えると、逆に、この分かりにくさが超展開を楽しむための高度な演出ではないのか? とさえ思えてくる。

また、本作はキャラの心情の変化が感突で、滑らかさに欠ける様に感じていた。例えば、いずみがAITに復帰する際に、繭璃と和春が猛反対する。理由は憧れていたいずみのAIT裏切りの気持ちが強く残っていたからだが、その気持ちも突然だし、無口な和春がまくし立てて喋り本音で話す事でわだかまりが解けるのも、展開としては分かるが強引とも感じた。ドラマとしては成立するのだが、その変化にスムーズさが無く、大味に感じるのは演出の弱さだと思う。

しかし、こうした粗削りの演出や芝居も、テーマが演劇と思えば、ある種の大袈裟でデフォルメされた分かりやすい芝居というディレクションなのかも、と許せてしまう。

さらに、本作は当初からキャラが暗さを抱えた作風。ここも令和の現代において率直に違和感を感じた。あいりのJrアイドル時代の黒歴史、せりあの身代わりにありすを殺してしまった罪悪感、過去の恋と任務のどちらも選べなかった優柔不断な自分を責めるかをる、AITを去った事に関するいずみの申し訳なさ、そして機械ゆえに自分を持たない人形であるドールの空虚さ、竹崎の歪んだ正義などなど。あいりやせりあは前半でその気持ちを吹っ切ってゆく物語があるが、それにしたって、全員ここまで負の暗さというのは、令和にしては重苦しい。

しかし、これらの抑圧されて鬱屈した人格というのは、5年前の同時都市消失事件の影響で捻じれ曲がった世界が、キャラに落とした影だったのかも知れないな、と考えるとメタ的な演出だったととれなくもない。

こんな具合で、当初ノリ切れなかった違和感は、継続して見てゆくうちに作品の持ち味として馴染み、最終的にはディレクションなんじゃないかとさえ思えてきた。

さて、ポジ意見までの前置きが長くなったが、本作の肝は、こうした負の暗さの中でも少女達の生きる力、活力が未来を造るというシンプルで力強いメッセージにあると思う。しかも、せいあ、あいり、いずみは演劇と言う舞台で、分からず屋を相手に、本音の自分を全力でぶつけあってるだけであり、世界を救う気なんてさらさらない。これを、当事者だったかをるではなく、かをるの教え子であるせりあ達がやる事に意味がある。

かをるの中途半端な自分を責める気持ちも、ドールの何かを演じ続ける悲哀も、争いの無い世界を目指したかった竹崎も、全てエンリ(梓)に利用され、かをるの後悔が最後のピタゴラスイッチのボタンを押す仕掛けは痺れた。しかしながら、そんな黒幕の計算を嘲笑うかのように、その野望を少女達の痴話喧嘩が阻止した上に、鬱屈した過去も改変してやり直してしまう痛快さ。この12話の気持ち良さがあるから、正直今までの事を許せてしまう。

それにしたって、5年前のミキ、響子、梓の分岐点の事件を、AITが特異点となってせりな、あいり、いずみが再現するという理屈も、よく考えてみれば無茶設定。せりな達が自己解釈で役に近づこうとしていた時点で不確定要素である。エンリにしてみれば、それまでの綿密な計画と比べて、いくらなんでもリスクあり過ぎだろう、という突っ込みを入れるところである。しかしながら、好きになってしまえば、この超展開も楽しくなり、「あばたもえくぼ」と許せてしまう。

繰り返しになるが、本作はそうした憎めなさのある、不思議な作品だと思う。

ちなみに、本作は1話から8話までの演劇ベースのプロットがあって、その後に9話~12話を追加したとの事。途中までの暗さを引き継いで最後にひっくり返すシリーズ構成の豪快な荒業ぶりは、拍手を贈りたい。

Pui Pui モルカー

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 見ているだけで楽しくなるモルカーの可愛さ
  • cons
    • 特になし

今期の覇権は本作だったのかもしれない。見ているだけでハッピーになれる楽しい作風だった。

モルカーは、人間を乗せて移動できる自動車でもあり、個性的な生き物でもある。人間と共生していて人間の移動に用いられるが、モルカー自身にも意思があり、自由がある。

本作は1話3分弱の短編ストップモーションアニメである。アニメーターはモルカーの人形に動きと表情を付ける。今までの人形アニメーションでも動物をモチーフにした作品は数多くあるが、モルカーはモルモットのフォルムで、可動部分が、目、口元、足(タイヤ?)くらいに限られている点が興味深い。

例えば、ひつじのショーンなどは、人間的な芝居をするために手足が長く、マグカップで飲み物を飲むという動作があるとする。しかし、モルカーはそうした人間の仕草はなく、目もと口元の表情の芝居と4足歩行?での動作に限定されている。食事は口元をむしゃむしゃさせると目の前のニンジンが小さくなってゆく、と言う感じ。

自由度が少ない分だけ、芝居の幅も狭まるわけだが、逆にその事により、モルカーと言う存在をモルカーとして受け入れてしまえるデザインの妙がある。

つまり、視聴者はモルカーをモルカーそのものとして認知して見ている。そこが、この作品の凄いところだと思う。その意味で、モルカーは発明なのだと思う。

本作のスタートは、自動車が人間をイライラさせたり、傷付けたりするストレスフルな存在としたときに、自動車が小動物みたいに可愛かったら楽しいだろう、というような発想だったのだろう。

全12話中の序盤は、人間が原因でモルカーが過大なストレスを受けつつも、その可愛さゆえの超展開で爽快感を味わう、という風刺の効いた作風かと思っていた。

しかし、中盤からモルカー自身がスパイアクションをしたり、宝探しの冒険をしたりと映画オマージュの自由な行動にシフトする。原始時代にタイムスリップして楽しい歴史改変を行う。痛車ペイントでイメージが違うと悲しむも、魔法少女的な力でヒーローになる。深夜にモルカーどうしが集まってパーティーをする。

つまり、モルカーは人間にこき使われる道具ではなく、自由な存在として描かれる。それは、社会や学校で窮屈で抑圧された生き方をしてい者からすれば、楽しく生きる事を尊重する憧れの存在(=ヒーロー)であるとも言える。

そして、12話では、モルカーは仕事に疲れた人間をベッドに寝かしつけるというケアもしている。この世界の住宅は、ビルトインガレージとなっていて、人間とモルカーは同じ部屋で生活している。道路沿いの公衆トイレには人間のトイレの横にモルカー用のトイレがある。人間とモルカーは共生しているのである。このフレンドリーな共生の設定も凝っていて楽しい。

令和の現代であれば、こうした映像は3DCGだけでも作れそうだが、実体のある人形の手作り感の溢れるアナクロな映像である事が肝だったのだと思う。ふと考えると超絶苦労の上に成り立つ映像だと思うが、視聴中はそんな事を意識せずに楽しく観れてしまう。

本作の見里朝希監督の次回作として、WIT STUDIOでのストップモーションアニメ「Candy Caries」の製作が発表されている。アクリル板に描いた絵をコマ撮りするようなポップで不思議な映像が印象的。だいぶ先になるかもしれないが、こちらも楽しみである。

ホリミヤ

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 全体的にライトに見せかけて、しっかりと青春の痛み切なさを「切り取る」脚本と演出
    • 繊細で巧みなキャラデザのライン
  • cons
    • 芯はあるのに、全体的に薄味なため、しっかり見るには疲れる作風

本作を一言で表現するのは難しい。堀と宮村のカップルの恋愛を主軸に描く、青春ラブストーリー群像劇とでも言おうか。でも、本作の本当のアイデンティティは、中学時代にイジメられて人との関りを避け、自分だけの小さな空間に収まっていた宮村が、堀達の陽キャラに触れて、心を開いて行く未来というところにあったと思う。だから、惚れた腫れたの浮いた話だけではない重さ、シャープさが本作の魅力だったと思う。

本作はラブコメに分類されるだろうが、一般的なラブコメとは少し違った印象を受けた。

堀と宮村のメインカップルのラブストーリーは迷いが無い直球である。高校2年の夏頃から互いを意識し合い、妙な浸透圧で互いに引き合う。寝ている堀に対しての宮村の「好き」の告白に対し、嬉し過ぎて一瞬受け止めきれずに翌日学校をずる休みするとか、雨の降る鬱屈した日に初キスをするとか、付き合い始めたら始めたで、宮村に近づく男を敵視する堀だとか、宮村に滅茶苦茶にして欲しいとM気を出す堀とか、卒業の先が見えずに不安になる堀とか、すぐさま結婚しようと返す宮村とか、最終的にはずっと一緒に居ようと宣言する初詣とか。二人が恋人になり、これから先も一緒に歩んでゆくという恋愛の成長の過程を1クール使って丁寧に描いてきた。これだけで王道と言えなくもない。

しかも、周囲のキャラの恋愛や友愛の感情も青春群像劇として描いてゆく。そこには、片想いや、三角関係や、兄妹愛や、男同士の友情などなど。

特に、表裏の無い爽やか男子の石川と、地味女の河野、強く主張できない吉川の、微妙過ぎる三角関係が切なさ爆発であった。そもそも石川は堀に未練があり、彼女を募集していない状態で、河野や吉川が石川を好きになる。吉川は石川と近しい付き合いなのに、好きという言葉を切り出せないズルさ。遠巻きに見ているだけでなく、クッキーで好きをアピールするのに石川に振り向いてもらえない河野。最終的に石川は、吉川と友だちから始めるという選択をする。好きと言う気持ちがあっても、直通しない切なさ。白黒ハッキリさせてしまう事に対する怖さ。

さらにこれに、河野を応援する綾崎、吉川に告白してフラれる柳、そういう人間関係の連鎖が広がりを持って描かれて行く。

本作は、こうした感情をスナップショットのように切り取る事に長けている。細くて繊細なキャラのライン。印象的な色使い。心情吐露はキャラのアップで、心情に合わせた影をキャラに付け、心情を語らせるという演出が効いていた(余談ながら、作画カロリーの省力化を熟考した演出だったと思う)。

そして、シリアスで重くなりそうな空気を軽めのギャグで換気してゆく。最初は、このライトなギャグが中心かと思っていたが、ギャグはシリアスに対する箸休めだったのだと思う。そのギャグもシリアスなネタがあるから効いてくる。

本作が「切り取る」事に長けている反面、個々のエピソードが散漫で、物語としてのパンチが弱いとも感じた。この「切り取り」は群像劇が同時並行的に進行しており、しかもネタが1話挟んで続いたりするので、どんなキャラだっけ? みたいになる事もあった。本作はエピソードの積み重ね(特に堀と宮村)なのに、そのエピソードが視聴者の中で積み重なりにくいというデメリットである。

その意味で、本作は毎話毎話、そのギャグの軽さに流されているだけではダメで、見る人の本気度が試される作風だったと思う。

本作は12話で、未来もずっと一緒という所で、一旦綺麗に終わる。そして、13話で、周囲に壁を作り小さな箱の中に入ったままのパラレルワールドの宮村との対峙を持って終わる。高校生活で堀と出会えて堀と恋人になれた事、それに付随して色んな人間との関りが持てた事、その幸せに対する感謝の気持ち。宮村は閉じこもっていた過去の自分を見ないようにしていた(=過去の否定)という事になるが、そうではなくて、そうした閉じこもった自分も肯定して前に進む。本作が最後に詰め込んできたのは、自分を好きになる事、だったと思う。

以上のように、本作は気を抜いてみると、ストレスなく流してみる事が出来てしまう。しかし、芯の部分は、意外としっかりした恋愛ドラマであり、自己肯定の物語である。ただ、繰り返しになるが、そこにフォーカスして見るには多少気合が必要な作風で、率直な感想を言えば、ちょっと疲れる作品であった。

のんのんびより のんすとっぷ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 変わらず絶好調な、ゆったした童心のドラマ
    • 世代をクロスした交流と、その代替わりを感じさせる幕引きの脚本の美しさ
  • cons
    • 特になし

はじめに断っておくと、私は1期2期未視聴、映画の「ばけーしょん」は履修済み、3期は、1話、9話~12話の視聴である。

私は「ばけーしょん」を観たときに、本作は、過疎地の分校を中心に、子供が感じた心をそのまま映像にする作風であり、永遠のこども心を描く作品なのかと思っていた。

描かれる事は、大人からすれば、しょーもない事とも言える事かもしれないが、ゆっくりと時間が流れる田舎生活のなかで、田舎の風景、自然を感じながら、大人も子供も密接して暮す事に意味があり、その一つ一つが贅沢な体験である。

本作は、オジサンがそのノスタルジーを強く感じながら見る作品だと理解していた。

9話では、小鞠と夏美の姉妹の関係。そのどんくささを妹の夏海にいじられている姉の小鞠が、出来る自分になりたくて夕食を造り始めるが、上手くいかなくなったときの不安やテンパっている様子が可笑しい。大人からすれば、様々な経験から料理をステップアップさせて行ったり、出来なければ諦めてしまうところ、無計画に挑戦してしまう所が子供である。しかも、妹の夏海の手前、意地を張る。しかし、失敗しそうな絶望感の中、母親が手助けをする。今度は小鞠から母親に手伝ってとお願いする。その、一瞬の戸惑いと、完成した時の喜び。子供に成功体験を与えて伸ばす。そうした、子供と大人の繋がりと思いやりが描かれた。

10話では、正月のあるひ日、表で夏海とれんげとひかげの吹雪の中のコント。そもそも大人なら馬鹿馬鹿しくてそんなことはしないが、ハイテンションな子供の無茶さ加減が可笑しい。冬休みに実家に帰省してきた幼馴染のほのかとれんげの再会。2日間限定というタイムリミットがあるから楽しく遊んでいても別れが気になる。別れ際に、駄菓子とバイバイの言葉を言って別れる。今度は言えた、というのは引っ越しの時には別れに行かなかったのだろう。成長と言うには大袈裟ではある。しかし、別れが切なくても、その切なさに向かうというのが、ある意味、勇気なのだろう。大人であれば、ちょっとした出会いと別れが、こんなに切なくなることはなくなってくる。旧知の友とあって、酒でも酌み交わしながら語らい、そして自分の生活に戻る。離れたくない、とまでは思わない。

11話の、楓が夜に宮内家に来て飲んだくれてしまう話はグッときた。赤ちゃんのれんげの面倒を見てきたつもりが、れんげ自体は年下の子に対して、年上の自覚を持ちはじめている。ゆったりした時間の中で誰もが成長している。楓がコタツで飲み潰れてしまう体たらくを自覚しつつ、れんげの前ではしっかり者でいたい。しかし、横になっている楓の布団をかけなしてくれたれんげの優しさに、思わずすすり泣いてしまう楓。いつまでも子供と思っていたのに、ふいに感じてしまう成長。この回は、過疎地であるがゆえに、広く世代をクロスした繋がりのある社会で、ゆったりとした時間の中でも、確実に人々が成長してゆく事を描いた。恐らく、11話は多くの視聴者を泣かせたと思う。この5,6年の時間の重さは、無論、れんげ自身には無い。大人だからこそ感じる、子供の成長の時間の経過の重さであり、のんのんびよりという作品の中で特別なエピソードであった。

12話では、いよいよ春となり、卓は卒業し、しおりが入学した。しおりにも妹が産まれ、れんげは一緒に学校に行く7年越しの未来の約束をする。季節と年の螺旋の時間は、ゆっくりだが確実に進む。これは11話の成長の流れを受けている。「終わらない日常の終わり」というのが放送直前の原作完結を発表した時のキャッチコピーだが、本作は終わるのではなく、世代変わりして繋がる物語として描かれる。夏海にとってはいつも同じ毎日だが、れんげにとっては初めての後輩と一緒の通学であり、昨日とは違う今日なのである。ちょうど、映画と3期の違いとも言える。きっと、1期からのファンは感無量だったであろう。

もしかして12話が4月で終わるなら、1話も4月はじまり? と想像して観てみたら、1話は5月始まりであった。9話で登場した、あかねが人見知りを直したいために、このみに呼ばれて田舎に来る話であった。高校1年生のあかねと小学1年生の世代を超えた交流。他人にノーガードな、れんげの素直過ぎる態度が、あかねの壁を崩す。1話から、すでに、こうした世代を超えた関りを明示的に描いていた事もあり、3期のテーマだったのかも、と感じた。

本作は、こうした、ゆっくりした時間の中で、こうしたちょっとしたイイ感じのエピソードを散りばめて、それでいて1話の中で無駄なく物語が描かれる所が気持ち良い作風。良質なドラマに、ほっこりする演出。4期は無いだろうが、これもケジメであろう。事実上の完結に安心できる作品だったと思う。

おわりに

今期は、良いと分かっていながら、ゆるキャン△2期と、SHOW BY ROCK!! STARS!! は、最後まで視聴出来なかったのは、ひとえにワンエグにハマり過ぎていたからです。

それでも、11話は絶対にオススメと聞いて、のんのんびよりを観れたのはかなり良かった。

2021年春期も、気になるアニメタイトルは多いけど、今期くらいに控え目になりそう。

とにかく、久々に、1クール分の総括ブログが更新できて良かった。