たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

2026年春期アニメ感想総括

はじめに

今期はとりあえず4本完走。残り2本は後追いで見る予定です。

今期もなかなか力作が多かったと思いますが、爽快感があって気軽に楽しめる作品は少なかったので、断トツに良かったみたいな作品はありませんでした。

  • 上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花
  • あかね噺
  • とんがり帽子のアトリエ
  • 氷の城壁
  • 淡島百景(T.B.D.)
  • 春夏秋冬代行者(T.B.D.)

では、いつもの長文のアニメ感想総括です。

感想・考察

上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 嗜好品やサブカルを絡めてスタイリッシュに描く、JD百合の恋愛物語
    • アニメーションは各話ごとにスタッフの色が出る実験的なディレクション。
  • cons
    • そもそも恋愛物語であり、かなり激重で息苦しい要素もあり、この辺は好みが分かれるところかも

各話でテイストの異なる作画が話題となった、最新モードのJD百合アニメ。基本的に女性同士の恋愛をスタイリッシュに描く純文学的な作品という事になるが、今風の凝った作画や演出がアニメーションとしては印象的。お酒、たばこ、楽器、クルマ、映画、アート、文学など多岐にわたるアイテムがドラマ内の小物として登場し、哲学的な台詞や何気ない仕草が、ドラマに表情を添えてゆく。

原作はネット配信のチャンピオンクロス連載中の塀先生の漫画。アニメーション制作は「mono」のソワネ。監督は佐久間貴史。シリーズ構成は「mono」に続き米内山陽子。脚本は米内山陽子、白坂英晃、篠塚智子の3名体制。キャラクターデザインは吉成鋼。

少し前に「ヤマノススメ Next Summit」という作品があった。この作品と本作はアニメーションのテイストがかなり似ていたが、実際多くのクリエイターが両作品に携わっていたとの事。ED曲中に映し出されるストーリー仕立ての吉成鋼のイラストもスタイルを踏襲している。ちなみに、EDのストーリーは原作にないアニメオリジナルの補完エピソードが多く、しかもかなり情報量が多くこの90秒の物語だけでも考察しがいのある内容になっており毎週楽しみにしていた。

演出的にも各話尖った感じで楽しめた。印象に残ったところでは、5話のいぶきとかなでのドライブ回。花と色をキャラクターに置き換えて画面内に配置する事で感情や気持ちに落とし込み、花びらが舞うシーンで情感を表現していた。これは演出としてはベタで分かりやすくはあるが、美しい画面と相まって非常に効果的に使われていた。

また、10話では美術館のアートを使って人それぞれに解釈の解像度が異なること、予備知識なしでは異国の言葉を聞かされているような分からなさになること、こうした目の前に見えているモノがふんわりとしてしまって掴み切れない感覚を実際のアートを画面に取り入れて表現していた。これは、他者の恋愛感情の掴み切れなさをアートを鑑賞する人を使って表現する、という画期的な演出がなされていた。個人的には、この演出こそが本作の真骨頂ではないかと思う。

他にも、11話でショッピングセンター(?)内の巨大宙吊りマネキンの中を進む長く緩やかなエスカレーター(?)とか、ときおりシャフトっぽい演出が入ったりと、演出面でも作画同様さまざまなアプローチが見られた。演出面はアート回を除き、意図はかなり分かりやすく、前衛的ながら見ていて混乱する事は無かった。

続いて、文芸面について。本作のあらすじ的には、大学女子寮に入寮する上伊那ぼたんが、大学4年生の寮長の砺波いぶきと一緒にお酒を飲んだ事をきっかけに親密になってゆく。いぶきにとってお酒は好きだけど飲酒中のしゃっくりを見られるのが恥ずかしいから他者との飲酒を避けていた。しかし、ぼたんにだけは見られても平気、楽しく飲めるというのが全編に通底している。つまり、いぶきがぼたんだけを特別に受け入れた。これに対し、ぼたんはいぶきに百合としてどんどんのめり込んでゆく。旅先で一緒に露天風呂に入って友達の一線を越える発言とかある(ここでは関係を持ってないようだが…)。しかし、その後、友達以上の進展がない事にしだいに焦りを感じてくる。一緒に買い物に行っても、お酒以外で食いついてくることもなく、愛されている実感が持てない。いぶきが誘ってくれた旅行先のホテルでたまらず、ぼたんはいぶきに詰め寄ってしまうが、「準備ができてない」と保留されてしまう。この絶望感。この男女の修羅場みたいな感覚が生々しい。しかし、いぶきは以前約束していたピアスとニードル(穴あけ道具)を取り出しプロポーズし、二人はハッピーエンドで〆られる。という感じである。

もう1つのサブストーリーとしては、いぶきを好いていたかなでが二人の関係により負けヒロインとなり、明確な失恋を味わうという流れがある。ただし、かなでには夏に入寮した台湾人留学生の張景嵐とイイ感じの関係になってゆくという救済がある。

このあらすじをまとめていても感じるが、これはハーレクインロマンスのような恋愛小説である。そこにお酒やちょっとした哲学っぽさや映画やアートやバンドやファッションなどの子供の手の届かないところに置いてありそうな、大学生っぽくてちょっとカッコイイ感じのする要素を散りばめて味付けをしている。恋愛を扱っているから、恋愛のヤキモキしたもどかしさや、どうしようもない焦がれや、そういう要素が楽しめないと本作はキツく感じるのではないかと思う。どちらかと言えば、これは男性よりも女性向きなテーマの作品である。

繰り返しになるが、次に触れておきたいのが、嗜好品やサブカル要素について。本作には、お酒、たばこ、ファッションなどの嗜好品や、文学、映画、音楽、アートなどのサブカル要素が密接な関係を持って大量に登場する。これは、モラトリアムの出口にいる、大人だけど家庭などに縛られない自由な大学生を象徴するアイテムと言えるだろう。若さを表現していると言ってもいい。これらは、マスから見れば少数派で、知らなくても生活には困らない。だから、多数派の一般人たちはそれについての会話を聞いてもさっぱり分からない。一部の知る人だけわかるという、ちょっとした優越感。そういうモノに憧れがあり、ちょっとカッコいい。そうした雰囲気を漂わせており、それが大学生と切っても切れない関係性を持っている。ちなみに、こうした要素は逆に女性よりも男性向けである。

お酒についてもう少し言及するなら、マスブランドではなく、おしゃれな地酒を飲む。確かに、そういうお酒の方が美味い。そして、酔っぱらって少しいい気分になって地に足が着いていない状態が心地よい。これは、逆に地面に根の生えた中年と対照的である。さらに言えば、あかねとぼたんがシーシャという水タバコを吸うシーンもあった。合法だが、まるで非合法ドラッグを吸っているようなイメージで描かれた。この辺りも、少し退廃的な若者感を演出する。すべてのアイテムは、こうした大学生的な少し危うい若者を演出するために使われる。

これらの退廃的な若者というのは、昔から映画などのエンタメに登場したものだが、令和の現代においては、物分かりの良いお行儀のよい若者が増えてきたせいか、あまりエンタメの中でも見かけなくなってきた。本作では、こうした昔ながらの若者像を嗜好品やサブカルなどの文法を踏まえて描く芸風である。

話が長くなってしまったが、本作の特徴は、①嗜好品やサブカル要素で固めた、②スタイリッシュなアニメーションで描く、③激重の百合の恋愛物語という事になると思う。恋愛の楽しい部分だけでなく、振り向いてくれない切なさ、愛してくれない哀しさなど息苦しい面もかなり強く描く。それと理解すれば納得はできるが、そもそも恋愛物語が苦手だとか、恋愛に思い詰める女性の感情が重すぎると感じる人には、少々肌が合わない作品だと思う。かく言う私も、頭では理解していても、文芸に関しては少々重くて食傷気味だった、というのが率直な感想である。逆に、こういうのが大好物な人も少なからずいると思うので、そういう人は是非見て欲しい。

あかね噺

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 落語をバトル的に見せる王道ジャンプ作品としての面白さ
    • 主人公あかねの屈託のない性格の気持ち良さと、魅力的なサブキャラたち
  • cons
    • 難を言うなら、あまりにも王道過ぎる

落語家を目指すJKあかねの物語。1期は、JC時代に父親が真打昇進試験で家元に破門されたプロローグから始まり、JKで志ぐま師匠に弟子入りし、兄弟子たちとの交流を経てアマチュア落語家の可楽杯優勝までを描く。2期は、高校卒業し本格的に入門して前座を務めるところから再開される予定である。

原作は週刊少年ジャンプ連載中の原作末永裕樹先生、作画馬上鷹将先生の漫画。監督は渡辺歩、シリーズ構成・全話脚本は土屋理敬、アニメーション制作はゼクシズ。

まず、題材にしている落語から。王道のジャンプ漫画原作ということなのか、落語の高座をバトル的に見せる要素が強い。1話で観客のウケをエフェクトや効果音で勢いを視覚化している。演出やり過ぎでは?というのが1話の率直な感想であった。こういった作品で芸事やバトルの見せ方は、素のまま描き切るか、エフェクトをテンコ盛りにするかの二択だとしたら、本作は後者を選んでいる。確かに落語を生で出されても、観客のそれまでの知識や経験に依存するし難しいだろう。それよりは、同じ落語映像でも、ドッカーンとウケている観客の反応を演出した方が、劇としては伝わりやすい。本作がバトル物と考えればなおさらである。

それに、10話の寿限無ではあかねの高座では逆に観客がリラックスして聞いている事で芸のレベルの高さを表現するという演出だった。この結果から考えても、本作は過剰にも思える観客のウケのエフェクトは必然だった事が分かる。

次にキャラクターについて。本作はキャラクターが立っているので見ていて分かりやすい。個人的には4人の兄弟子たちが、それぞれの視点であかねに落語の基礎を教えてゆく流れが好きだった。また、とうのあかね自身も性格がサッパリしていて気持ちいい。その上で、素直さゆえの可愛さも感じる。可楽杯のライバルであった練馬屋からし、高良木ひかるも魅力的なキャラだったと思う。

とは言え、本作のキャラクターで重要なのは師匠の阿良川志ぐまと、ラスボスの阿良川一生の二人だと思う。志ぐま一門は家族同然のフレンドリーさで本当の親子のような面倒見の良さがあり、それに対して落語界の破壊神として描かれる一生の対比。あかねの父親の破門が物語の根源にあり、「落語が好き」というメンタルでやってきた父親を打ちのめした一生。その一生を自分の落語で見返す敵討ちのあかね、という構図である。

一生のキャラというのは一言で言えばパワハラ親父であろう。カリスマ性も権力もあるから、正論ぶって好き勝手できる。ただ、個人的にこうしたパワハラ親父というのは、自分が気に入らない相手をイジメるようにパワハラを愉しむ。だからあかねの父親の破門も単に気に入らない弱者にパワハラしただけのような気がしている。だいたい、試験の高座の掴みが弱かったとか、観客の応援に頼った落語だったとか、物は言いようで褒める事もけなす事もできる。ただ、パワハラ親父と言うのは、正論だったりで論理武装して安全圏からパワハラを行うものである(個人の感想です)。だから、一生というキャラクターに悪役として小者感を感じてしまった。悪役だったら、もっと根っからの悪役であって欲しい、というのは少し思ってしまった。

何はともあれ、キャラクターは全般的に魅力的に感じる。これまでは阿良川の流派の中だけだった物語は、落語界全体の話に広がってゆく。12話で見せたそれぞれの流派の家元も曲者感があり、キャラクターの広がりを期待させる。

アニメーションについては、少し触れたがとにかく演出が強い。そして、キャラクターの絵は良い意味でマンガのカットのようなポーズや表情の活かし方をしており、その絵の情報量が多い。逆に長尺の1カットとかヌルヌル動くようなアニメではない。しかし、その画風と演出がマッチしていて、なおかつ勢いがあるので、テンポよく見られる。基本がバトル物なので、そういう爽快感のある映像である。とは言え、12話に志ぐま師匠からの命名のときに頭を下げたまま後ずさりするあかね、みたいなアニメである事を生かした長尺のカットもあったので侮れない。

最後になってしまったが、落語のアニメという事でやはりキャラクターの声(=喋り)の芝居が重要になる。あかね役のCV長瀬アンナは、寿限無で観客にリラックスして聞き入ってもらうという芝居を、説得力を持って演じ切っていた(もちろん効果的な演出によるところも大きいが)。本作だけではないが、2026年の長瀬アンナの活躍には目覚ましいモノがあると感じた。

2期の前座編は2027年1月からとのことなので、それも楽しみである。

とんがり帽子のアトリエ

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 凝りに凝った設定や、ペン画テイストの妥協なきファンタジー世界創作
    • 主人公ココと大人たちの思惑の2重構造の物語で、幅広い視聴者層にリーチするところ
  • cons
    • エモさはあるが、リアルがゆえに少々息苦しさを伴う文芸
    • 作品のクオリティの高さは認めるが、真面目過ぎる

第一印象は和製ハリーポッター。ただし学生寮ではなく、師匠のところに泊まり込み修行する幼女たちという感じである。3人の女児に主人公のココが加わる流れだが、ちょっと意地悪そうなアガット、陽気なテティア、マイペースで頑固なリチェ。そして、魔法に対して強い憧れを持つ昨日まで部外者だったココ。それを見守るキーフリー先生。と言ったところが主な登場人物である。

この世界では一般人は魔法を使えない。魔法が使えるのは限られた一部の人間のみとされている。実は魔法は魔法陣を描く事で誰でも使える技なのだが、魔法が世界を壊した経緯もあり、魔法使いはその事を秘密にしなければならない。主人公ココは、1話の事件がキッカケで一般人ながら魔法の秘密を知り、一般人から魔法使いの世界に足を踏み入れた。だから、魔法使いの当たり前に対して、視聴者と同様のリアクションをする。その意味でもハリーポッターと同じ構造になっている。

少し書いただけでも色々と細かな設定が詰め込まれている事は伝わったのではないかと思うが、本作はマンガ原作が恐ろしく緻密な設定・考証で作り込まれており、そのクオリティを維持したアニメ作りになっている。キャラクターの線も多く、芝居的なデフォルメはあっても絵的な簡略化はされず、恐ろしく手間暇がかかるテイストに仕上がっている。

たとえば、背景美術で描かれる住宅や店舗などの建造物や街並みの細やかさ。写実的なだけでなく、巨鱗龍と一緒に閉じ込められた空は真っ黒で、建物は真っ白な幾何学的な高コントラストの世界。洞窟の中は過去の魔法により空間が捻じ曲げられ、鱗の様な道がくねくねしている変なトンネル。この辺りは、インクとペンで描かれた「不思議の国のアリス」の挿絵の様なテイストを感じさせる。

その上、キャラクターの作画や芝居はリアル寄りの丁寧なモノであり、やたらハイカロリーなのに、作画崩壊とは無縁の上質なクオリティで非の打ちどころがない。キャラの芝居もリアリティのある表情や仕草が中心でその辺りはかなり攻めている。

ここまでベタ褒めで来ているが、個人的には文芸面の評価は微妙に感じているところがある。本作の文芸の完成度は高いと思うが、正直見ていて気疲れするというか、重い。

幼き主人公のココの経験を物語にしてゆくのが文芸のメインだが、それとは別に大人たちの思惑や世界観に直結するイデオロギーの対立や世界の根幹に関わるような大きな物語の二重構造になっている。

まず、少女の成長という視点の物語。こちらは、魔法に憧れる一般人だったココが誤って使った魔法により母親が石化してしまい、母親を元に戻すためにキーフリー先生の元で魔法の修行をしてゆくというのが軸。その過程で、未熟さゆえにピンチに陥る事もあるが、魔法は人を幸せにするためのモノ(=傷つけたり不幸にしたりしない)というココの哲学があり、そのポジティブさで壁を乗り越えてゆく。たとえば、暴れる巨鱗龍を魔法で倒すのではなく、魔法で寝かしつけてその隙に逃げるだとか。銀彩症というハンデ(=劣等感)を持つタータに、魔法にちょっとした工夫を添える事でハンデを補い、本人に自信を持たせたり。こうしたココのちょっといい話はいくつもある。

次は、大人たちの思惑の物語。こちらは、大昔、魔法が世界を狂わせてしまったため、魔法使いと使える魔法を大幅に制限して管理した経緯があり、現在、魔法を管理しているのは魔警団と呼ばれる組織となっている。魔法の秘密を一般人に知られないようにするのが彼らの務めであり、ときに強引な介入や記憶操作を行ったりする。

これに対し、禁止魔法を開放すべきと考える過激派があり、そこの一人がつばあり帽である。彼らはココを使って、禁止魔法を世界に解き放とうと画策している。つばあり帽の悪役っぷりは徹底しており、ココに禁止魔法を使わせるために、友達のアガットを傷つけようとしたとか。無慈悲なテロリストと考えれば、そのくらいは朝飯前という感じである。

そして、その過激派を密かに追っているのがキーフリー先生。しかし、キーフリーは魔警団とも距離を取り、独自に捜査している感じである。つばあり帽たちに何らかの因縁を感じさせる。この時のキーフリーは普段の子供たちに見せる優しさとは裏腹に、寡黙でハードボイルド感溢れる表情を見せる。ココもその目的のために利用している側面がある。

この、①魔警団、②過激派、③キーフリーの三者の思惑が交差する形だが、その先には仕組まれた運命のココの存在があり、ココとキーフリーの試練があるのだろう。

とここまで書けば普通に良作だと思うかもしれないが、たとえばココは未熟さゆえに自らピンチを作ってしまったりする。また、つばあり帽やキーフリーの企みの不透明さ、不穏さが不安定な世界に対するストレスとなって、見ていて疲れるのかなと想像している。

しかし、逆に言えば、主人公にチートや無双がないこと、世界の不均衡のストレスが描かれていることは、本作が狙っているリアリティある描写と切っても切り離せない。本作はファンタジーでありながらお花畑ではない。だからこそ、残酷な現実を生きる視聴者たちに共感が得られるのだろう。このようなストレスフルなアニメ作品の最右翼は「メイドインアビス」だろうか。個人的に救済ある物語に慣れ過ぎていたので、こうしたビターな味わいの作品がたまに来ると消化不良になってしまうのだろう。本作の文芸の好き嫌いは、この辺りで左右されると思う。

氷の城壁

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 中学時代の心の傷から他者との関わりを避ける小雪の再生のドラマと男女4人組の友情と恋愛の物語。
    • デフォルメキャラの笑い多めでシリアスになり過ぎずに楽しめる作風
  • cons
    • 特になし

他者と群れないクールなJKの小雪、親友の美姫、美姫の男友達で高身長で朗らかな陽太と誰にでも優しい湊。この4人が織りなす、恋愛要素多めの青春群像劇。

原作は「正反対の君と僕」の阿賀沢紅茶先生の漫画。アニメーション制作はスタジオKAI。監督はまんきゅう、シリーズ構成は中西やすひろ。脚本は中西やすひろ、鈴木悠太、大鹿優、下林渓+スタジオKAIとなっている。

本作は、文芸が肝な作品だと思うので、まず物語から。

小雪は中学生時代に嫌な事件があり、幼馴染の美姫を除いて他者との交流を遮断して生きてきた。それは、美姫の両親の離婚からくる自己否定をトリガーに、バスケ部で受けたいじめや、付き合っていた彼氏の態度の悪さとか、さまざまな要因が積み重なったモノであった。しかし、高校に入学して親友の美姫の男友達、陽太と湊の4人の交流が始まり、しだいに居心地の良さを感じてゆく。

序盤は、美姫が高校生活では猫を被って友達付き合いすることに自己嫌悪して立ち直るとか、小雪が中学時代にボタンをかけ間違えた根本原因は自分の自暴自棄であったことに向き合いメンタルを回復してゆくなど、傷を癒してゆくドラマがいくつか差し込まれており、そうしたメンタルケアがドラマの1つのテーマになっていたと思う。

もう1つは、4人の男女の人間関係。皆がそれぞれに心に傷を持っていたり、心に穴が開いていたりするのだが、そんな男女が時に相手を気遣って親しい関係を作ってゆく。しかし、好きの気持ちをひた隠しにしたり、思いがけずドキドキして好きを自覚したりと、しだいに恋愛に比重が移ってゆく。

小雪⇔湊の関係は、最初は湊が無遠慮に距離を縮めて来た事で、小雪が過去のトラウマから距離を取ってしまう。拒否されたと感じた湊は好意を抱きつつも踏み込めない。小雪の方もあるタイミングから湊が可愛くなり、最終的に好きだと自覚してしまうが、引っ込み思案で言い出せない。この二人は、相思相愛なのにデッドロックの関係である。

小雪⇔陽太の関係は、傍目にはカップルだが、共に両親の離婚で心に傷を負った者同士の共感があり、恋人とは異なる信頼関係で結ばれた友達関係である。

美姫⇔陽太は傍目には友達関係だが、陽太→美姫は好きの気持ちを内に秘めており、その気持ちは小雪しか知らない。

願わくば、この際どくも尊い関係が長く続いて欲しい。

しかし、表面張力で一杯だったコップの水は、ちょっとしたキッカケで溢れてこぼれてしまう。

13話で陽太の本心が美姫に勘付かれ、14話で疑惑の中で悩む美姫に陽太が告白するが、美姫は断る。陽太を最高の友達と信じていた美姫だが、陽太の気持ちを知ってしまった今、これまでの前提がすべて変わってしまい、今までの関係には戻れない。

桃香も小雪を牽制しつつ湊を奪おうと画策している。という不穏な状態で2期に続く。

本作では、誰しも順風満帆というわけではなく、何かしら悩みを抱えている。自分らしさを押し殺して生きる自分を責めていたり。両親の離婚と言う心の穴を抱えていたり。鍵師として距離を詰めるのが上手くて表層的な人付き合いで良しとしてきたが、それゆえに好きな人に対して距離を開けられてしまうとどうすればいいかわからないとか。そうした満たされない、渇望する何かを持って生きている若者たちを描く。みな、自分に向き合ってゆくドラマ作りが本作の醍醐味になっている。

また、物語のロジックを各話で刻んでゆくスタイルのシリーズ構成で、各話のラストに新たな展開を予感させるヒキを作っている点もシリーズ物としては良かった。

キャラクター的にはやはり小雪が魅力的に感じる。導入部では小雪は被害者なのだが、紐解いてゆくと、自分自身が両親の離婚でメンタル不調な時期があり、自分の罪の部分を直視する事で根本的な自己嫌悪の源を取り除いてゆく。そうした、他人だけに罪を押し付けず、変えられる自分のマインドの部分で立ち直って行くドラマが新鮮に感じた。

最後にアニメーションについてだが、本作はシリアス要素がかなり多いが、デフォルメされた頭身のコミカルなシーンも非常に多く、息苦しくなり過ぎないようにメリハリを持たせてバランスを取っている。主人公が内向的な性格だから、ひとり言的なシーンの多くをデフォルメキャラで喋らせていたりするが、普通に他のキャラとの会話でも使う。その辺りの可愛さがあるから、クールな性格の小雪でも楽しく見ていられる。この時の小雪(CV長瀬アンナ)の声のボソボソと喋る芝居も楽しい。まぁ、動きを堪能するタイプの作品ではないので、その観点で見ると一般的なレベルの作品になってしまうが、湊の性格を表現する際に「鍵師」という事で鎖と錠前を使ったり、演出的にはドラマを分かりやすく見せる事には長けていると感じた。また、本作はその作風ゆえに各キャラの心の声を喋る芝居がかなり多い。その意味では、漫画原作ではあるが小説的なテイストを感じるところもあった。

色々書いたが、心の傷とメンタルの回復を根底に扱いながら、恋愛青春モノとして丁寧に作っている印象で、独特のコミカル描写もあり、安定して楽しめた作品だった。

淡島百景(T.B.D.)

春夏秋冬代行者(T.B.D.)

おわりに

今期はランキングの付け方に悩みましたね。5つ星は「あかね噺」のみとしました。

上伊那ぼたんは、その作風もあって割と集中して観ていたのですが、恋愛モノとして真面目に作る姿勢が見えてから、これは疲れるタイプかも…、と思うようになり、実際に最終話では、愛されない女性の辛みみたいなところからのハッピーエンドで終わったので、かなり疲れた感じがありました。アニメーションとしての出来よりも、その文芸性に疲れた感じです。

似たように、とんがり帽子のアトリエも真面目過ぎる作風で疲れました。奥深さも感じますし、世界観や物語の構造を紐解いてゆくと、ディレクションはなんとなく分かるのですが、爽快感的なところが弱いと感じました。もっとも、これも、見る時期やメンタルや体調によって、楽しめるタイミングはあるのでしょうが。

上出来なアニメーションでも、作品的には乗れない感を今期は感じていました。

プリズム輪舞曲

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

見てからだいぶ時間が経過してしまいましたが、Netflixのオリジナルアニメ「プリズム輪舞曲」を見た感想・考察です。

少女漫画、青春群像劇、恋愛物語という懐かしいワードが並ぶ作風が特徴の本作、2Dアニメーションとしてもリッチで高品質な仕上がりになっており、また声の芝居も豪華な顔ぶれの安定感のドラマが味わえました。

早速、いつもの感想・考察に入ります。

感想・考察

Netflix独占配信のシリーズ物のオリジナルアニメーション

19世紀初頭のロンドン、英国の美術学校に留学した一条院りりと級友たちの青春群像劇であり、ずば抜けた才能の持ち主キット・チャーチとの恋愛模様もある。

本作はNetflix独占配信のオリジナルアニメである。配信開始は2026年1月。原作は「花より男子」の神尾葉子先生。連載漫画のアニメ化ではなく、企画を受けて脚本・プロットから携わる。また、全話脚本も手掛けている。そのおかげで、骨の髄まで少女漫画を感じさせる作風となっている。

制作はWIT STUDIO。「海賊王女」の中澤一登監督。この時点でアニメーションとしてのクオリティの高さは想像できる。

少し脱線するが、ここで「海賊王女」という作品に触れておきたい。

2021年作品で制作はProduction I.G。監督のクレジットは、ToyGerPROJECT、中澤一登、髙橋哲也、藤井サキとなっているが、中澤一登監督が原作、キャラクターデザイン原案、総作画監督、全話絵コンテも務めるというマルチ振りを発揮した。エグゼクティブプロデューサーのジェイソン・デマルコとサラ・ビクターはAdlut Swim(CARTOON NETWORK)とCrouncyrollのプロデューサーで北米資本。テイストは18世紀+海賊+宝探し+少女漫画風味という感じ。演出、作画、芝居、劇伴のすべてにおいて高クオリティな作品だった。しかし、本作の文芸面での評価は概ね低い。美少女を主人公にした冒険活劇は終盤、神的な存在に選ばれた「選択の巫女」という設定で①文明の継続、②リセットの究極の二択を迫られ、主人公は①を選択しこれまでの一切の記憶を失う。これまでの主人公の快活な設定も「選択の巫女」という運命の掌の上で転がされていただけで、大切な仲間のために自己犠牲を受け入れる。古典ではあるのかもしれないが、現代劇としてはいささか煮え切らない結末であった。これは、神に抗えない体質の北米資本の影響なのかもしれない、などと勘ぐったりもした。

だが、本作は文芸をベテラン少女漫画家が書き下ろす。もともと、海賊王女も時代的には18世紀の時代劇で少女漫画風味もあり、忍者なども登場する和風テイストもあった。今回は神尾葉子先生×中澤一登監督のマリアージュが非常に良い効果を出している。

先に強調しておくが、本作はアニメでごく真っ当に「少女漫画」をやるために作られた作品と言ってもいいだろう。だから、視聴者の好きも嫌いもすべてそこに依存すると思う。

繊細な絵柄で破綻なく動くキャラクター

キャラクターは繊細な線で構成され少女漫画感があるものだが、 パキッとしたアニメっぽさもあるデザインである。

主人公りりは、二十歳の呉服屋の一人娘だが、絵を描くことが大好きで英国の美術学校に留学するという勢いのあるキャラクターである。明朗快活で少々お転婆。ロンドンでの私服は洋服だが、黒髪ロングをポニーテイルで縛る。

本作は、お転婆で勢いがあるりりの行動が肝になるのだが、シリアス一辺倒ではなく適度に崩し絵のギャグが入ったりする。このコミカルもシリアスも原画的に破綻することは皆無でキッチリと品よく綺麗な仕上げ。

美術学校で仲間ができて群像劇としてドラマは進んでゆくが、出てくる4人の男子は全員イケメン。親友はそばかす眼鏡のフレンドリーな女子。この辺りのキャラクター配置も含めてザ・少女漫画なテイスト。あーこれこれ、という分かりやすい安心感がある。

ロマンスの相手となるキット。彼は美術学校の課題でも毎回1位を獲得する画家。彼との出会いは最悪。天才肌だが性格はぶっきらぼうで口は悪い。だが、彼の絵の魅力には惹かれっぱなしで尊敬している。りりは母親からの渡航条件として学校で 1番を取るという約束なので、彼と競って勝たなければならないライバルでもある。もう、これも少女漫画の鉄板とも言える設定である。

キャラクターの芝居の話をすると、キットの生活感がなく危うささえも感じさせる、地に足が着いていない感覚をCV内山昂輝が見事に怪演している。

また、りり役のCV種﨑敦美の芝居もハマっていた。コミカルなシーンから、シリアスにドラマを盛り上げるシーンでも大迫力の演技を披露してくれた。王道の主人公でありながら、浮ついた感じがまったくなく、本作のクオリティを底上げしていたと感じた。

見どころが多い背景美術の美しさ

個人的には背景美術は本作の大きな見どころである。

本作ではロンドンの石造りの荘厳な建築物の外観やアパートの外観や内装。そうした背景美術が凄く綺麗に描かれる。Netflixで全世界同時配信ということもあり、英国取材は入念に行われていたのだろうと思わせる。

ビックベンやオックスフォード大学を連想する美術学院などの建物は、まったく嘘を感じない。複雑な建造物で線も多いが、3DCGは使っていないという。また、室内の内装や装飾や住宅設備も、時代考証されて違和感がない。本当に美術スタッフの根気強さには頭が下がる。対照的に田園地帯などの自然は、ゆったりとしたのどかさを感じさせるものである。

美術にかける青春群像劇+りりとキットの恋愛物語

本作は、大きく二つの軸がある。1つは美術にかける青春群像劇。もう一つはりりとキットのラブロマンスである。それで、どちらがメインかと言えば前者の群像劇である。ラブロマンスも盛り上がるが、物語の軸としては恋愛よりも、美術にかける青春を重視した文芸になっている。もちろん、絵も恋愛も密接に関係しているのは承知で極論を言えば、キャラクターたちは恋愛を捨てて絵を取ることはあっても、絵を捨てて恋愛をとることはない。個人的には、好きになったら他は全部捨てる恋愛主軸の物語の方が好みではあるが、そうではないところが本作の理性であり、令和ナイズされたエンタメということなのだろう。昔の恋愛愛憎劇のようなドロドロ感、背徳感がないのがミソである。

青春群像劇として、りりの画家としての成長やサクセスストーリーもきちんと描かれており、半年以内に1番を取らなければ日本に帰らなければならない条件で渡航してきており、毎回独創的なスタイルで連続トップであり続けるキットという小憎らしいライバルがいて、そこに挑戦してゆくことになる。絵画ネタという事で日本の水墨画や、白一色で陰影のみで表現する独創的な発想で挑戦したりと、絵画ならではのネタもキッチリ物語に組み込まれていた。

また、英国の美術学校にいたりりと、彫刻家を勉強しに来た仏師の新之助も第一次世界大戦の影響で日本に帰国する。キットは凄腕外交官だった父親の仕事を一部引き継ぎ、船に乗って諸国を巡る仕事になり離れ離れに。この辺りはスケールの大きな物語の作りになっている。りりと新之助は婚約をしていたが、そこにフラっとキットらしき人物が横浜に寄港していたらしいという情報を得て、再会する三人。最後までは書かないが、ここでも恋愛のすれ違いや、芸術という夢の追いかけの思惑があり、これぞ恋愛物語という仕上がりになっている。しかし、前述の通り、恋愛が芸術の夢よりも優先されることはなく、その辺りは今風の上品さなのかな、と感じた。

おわりに

総じて、製作意図通りに、古き良き、少女漫画+青春群像劇+ラブロマンスを世界をまたにかけて壮大なスケールで描く大作だったと思いますし、十分以上に楽しんだ作品でした。軸となる物語や劇が古風ながらしっかりしている強みと、真面目な2Dアニメーションと、地に足の着いた声の芝居がイイ感じで融合した良作だったと思います。

ちなみに、2026年3月劇場公開の「パリに咲くエトワール」が、舞台は20世紀初頭のパリ、画家を目指すフジコとバレエの舞台を目指す千鶴の物語でした。実際に両作品とも見てみるとテイストはかなり違いがありますが、設定の被りを感じずにはいられません。実は「プリズム輪舞曲」も当初は舞台がパリだったのをロンドンに変更したとのことで、この変更は双方にとって本当に良かったなと思いました(変更理由は、本作の物語が階級社会を描く事から、英国の方が相応しいとのこと)。

いずれにせよ、本作はNetflixオリジナルアニメーションでも、このようなレトロな名作が誕生する素地を作ってくれたところにあると思います。これほどまでにレトロな作風はTVでは難しいでしょう。数打ち当たるという感じで、需要と供給がマッチしたケースなのかもしれませんが。直近のアニメ映画の「超かぐや姫!」がレトロと真逆の斬新な作風だと思いますが、こうしたさまざまな作風の作品が同時期に出てきていることが良い時代な気がします。

最終楽章 響け!ユーフォニアム 前編

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

TVシリーズ3期の総集編の前編を観て来たので、ちょっとした感想と後編への妄想を書き残しておこうと思う。

いつもの長文の考察と言うよりは、後編へ向けてのメモである。

感想・考察

TVシリーズ3期総集編としての観点で

前編は、121分で10話まで詰め込んだので、わりとキツキツかなと思ったが、変に引っかかるところもなくスムーズに情報が入ってくるように整理されていたように感じた。

これは個人的な感想だが、追加シーンや書き直しのシーンはわりとあったのに、TVシリーズ3期に対して追加された情報がないように感じた。もっと直接的に言うと、各キャラの行動ロジックにまったく変化はなく、そのまま後編で再オーディションができる状態である。その意味で、3期12話の顛末が後編で変更される事はないと直感した。

ここで、改めて、3期の各話リストを以下に示す。

話数 サブタイトル 概要
1話 あらたなユーフォニアム 4月新体制始動、全国金目標、
夕方校舎屋上真由登場
2話 さんかくシンコペーション 真由入部
3話 みずいろプレリュード サンフェス練習、沙里宅訪問
4話 きみとのエチュード サンフェス、求エピソード
5話 ふたりでトワイライト オーディション形式変更、あがたまつり
6話 ゆらぎのディゾナンス 梓雑談、第1回オーディション、京都府大会
7話 なついろフェルマータ 夏休み&プール
8話 なやめるオスティナート 合宿1日目、第2回オーディション
9話 ちぐはぐチューニング 部内ギスギス、部長失格発言
10話 つたえるアルペジオ あすか宅訪問、久美子演説、関西大会
11話 みらいへオーケストラ みぞれ音大演奏会、進路吹っ切り
12話 さいごのソリスト 再オーディション
13話 つながるメロディ 五日前:記念植樹、
三日前:久美子真由奏ユーフォ演奏、
二日前:大吉山久美子麗奈演奏、
全国大会、
吹部副顧問久美子

前編でオミットされていると感じる要素をいくつか列挙し整理しておきたい。

  • 月永求と川島緑輝関係のエピソード
  • 久美子の進路全般(ゼロではないが2時間の尺なので、コアの情報のみ残す)
  • プール、あがた祭り
  • 久美子麗奈の大吉山

この辺りが、バッサリ落とされるのは、まぁしかたなかろう。

個人的には、真由関連が整理されサッパリしたと感じた。TVシリーズの7話の部分は、ちょっと真由をホラー要素に振り過ぎていて、放送中は正直引っかかっていた部分である。久美子に対しプリントした3枚の写真を並べてみせるのは、ちょっと真由の神経が分からないと感じていた。他にも、TVシリーズの真由は、あだ名がクラゲだったり、いちいち喋る台詞にトゲが乗るような芝居だったと思うが、映画ではそうした誇張した表現は無くなった。この辺りでだいぶ角が取れて映画として観やすくなっていたと思う。

映画としての観点で

映画としての美点は、7.1チャンネルで録音された音響関係なのは間違いない。もともと吹奏楽のアニメなので音響が良い映画館との相性は良い。

しかも、関西大会の自由曲のシーンは回想シーンなしの楽器演奏シーンのみで構成されている。映画としての盛り上がりを考えると必要不可欠なシーンで、迫力の映像と音響を味わえる。

ストレスマックスな終盤の状況から、久美子が関西大会直前の、北宇治吹部部長としての腹を据えての演説と関西大会の演奏の盛り上がりで〆るので、映画としての流れも気持ちよく構成されていた。

久美子の葛藤

久美子のロールは吹部部長とユーフォ奏者の2つがある。前編では、部長としてのロールにキッチリ決着をつけた形であろう。

真由の登場による奏者としての立場の焦り。これが重なっていたからだいぶ複雑に追い込まれたように感じられたが、部長と奏者をいったん切り離して考えたことにより、部長として例の演説で吹部を立て直した。

残りは再オーディションに向けた奏者としてのケジメであり、その先に全国大会金賞という目標達成への物語がある。

ちなみに、この前半後半のロールの分割は、前編後編のポスターにもそのまんま表れていそう。

前編はツメツメだったと思うが、たしかにここまで描かなければ、物語が成立しないのも確か。納得の構成である。

黒江真由の人物像

3期(=本作)の真由のロジック、行動のポイントを下記に示す。

  • (1) 清良女子で、自分のせいで親友が音楽を辞めてトラウマになる
    • (オーディションや金賞はどうでもいい)
  • (2) 転入時は、久美子と仲良くなりたい
  • (3) 入部時は、久美子が嫌なら自分が吹部辞めてもいい
  • (4) オーディションの参加は義務か?辞退できないか?しつこく確認
    • → しかし、本気でオーディションで演奏し上手い人が選抜されるのが北宇治と聞かされ、従い続ける
  • (5) 合宿で久美子の本心はソロ吹きたいを再確認するが、以下略。
  • (6) 演奏=真由自身、演奏に嘘はつきたくない

真由の中での問題は、(1)と(6)がコンフリクトしている事だろう。客観的に考えるなら、人間関係が悪化するのが嫌なら退部すれば良い。しかし、真由は久美子が嫌と言わないので退部もできない、オーディションも辞退できない。その上、(6)があるから演奏を手抜きできない、というロジックになっていた。

久美子のメンタルも、真由のメンタルも耐えていたので、ある意味、チキンレースだったと言ってもいいだろう。

ちなみに3期12話の再オーディションでは、久美子と真由は腹を割って互いを知り、全力でオーディションを演奏し、その結果を受け止めた。それは映画の後編に含まれることになるはずである。

後編に向けての妄想

主軸は久美子⇔真由の関係性

さて、ここから先は、後編を考えたときの私の妄想なので、話半分に聞き流して欲しい。

前編では10話までなので、後編の11話から13話を繋ぐだけでせいぜい70分程度である。ただ、再オーディションの12話は、それじたい映画として乗せても過不足ない作りになっていると思う。オーディション演奏自体は録り直さなくても良いと思うが、録り直さないと断言する根拠もない。

予告編でも幼少期の真由のカットがあるので、やるなら真由の深掘りという事になるであろう。

その意味だと、7話のプールのシーンで真由と久美子が対峙するシーンがあった。その部分を後編に持ってきて部分的に活用する可能性もあるかもしれない。

真由というキャラクターは、TVシリーズでは計り知れない謎キャラとして描かれていた面もあり、12話ではじめて心の内のロジックが明かされた。それまで、計り知れないホラー感を演出していたりしたが、映画ではもうその必要もないから、真由を深掘りできるのであろう。

前述の真由の人物像で、(1)は清良女子に入ってからのトラウマと考えるのが普通であろう。高校入学まではもっと明るく音楽に接していた可能性が高いが、断言はできない。もしかしたら、コンクールや金賞にも多少なりとも関心はあったのかもしれない。そういうピュアな部分を丁寧に描く事で真由の悲劇性が増す。

(6)の部分も音楽にストイックに接する地の部分であり、ここも補完すべきポイントに思う。

ありそうなのは、演奏が上手い⇔仲良しになるが直結しているパターン。転校で友達との出会いと別れを繰り返す真由は、孤独の中で演奏に傾倒してゆくが、あるとき吹奏楽を通じて親友ができた。ユーフォニアム奏者としての他者と関わり、自らのアイデンティティを確立してゆく。しかし、せっかく仲良くなった親友とも離別のときは来る。本来、真由にとってユーフォニアムは希望であり、自尊心でなくてはならないと思う。

付け加えて言うなら、わざわざ転校先の北宇治高校にマイ楽器のユーフォニアムを持参し、日暮れてから「ムーンライト・セレナーデ」を屋上で吹くシーンも、真由視点で深掘りしてもいいのかもしれない。

これは一例だが、このような真由の内面を描くシーンを追加する事で、真由に親近感を持って接する映画にする事はできそうである。なにせ、本作のもう一人の主人公と言っても過言ではないキャラである。小川監督ならこの手の物語・ドラマの作り込みには全幅の信頼がおけるだろう。

もしかしたら、上映時間も90分くらいで十分かもしれない。

現時点で後編に期待していることは、だいたいこんなところである。

原作小説とアニメの真由の違い

詳しくは書かないが、原作小説の真由とアニメの真由のキャラクター造形には明確な違いがある。

原作小説の真由は、「他者に依存して自分をなくす」という部分がある。依存というより奉仕なのかもしれない。他者の顔色をうかがい、自分の考えは二の次で、言われたことをそのまま行動してしまう。やった事に対する罪悪感は薄いというか、それをあっけらかんとやる。

だから、オーディションで手を抜かずに演奏するのも久美子が言う通りにしているだけである。演奏=自分だとしても、アニメ版のように下手に演奏できないみたいな湿度はない。だからこそ、久美子や奏が何を言ってもパンチが効かない「怖さ」が肝になっていた。

これに対して、アニメ版の真由は常に耐え忍ぶ悲劇のヒロインであり、薄幸の美少女という味付けである。それは、3期も本作(映画の前編)でも一貫して変わりないロジックで動いており、そこがブレる事はないだろう。

なお、私はどちらかと言えば、原作小説ガチ勢なのだが、ユーフォは原作小説もアニメも違いを認めた上で、どちらも尊重するというスタンスである。

おわりに

本作は小川監督の手腕によるところが大きいと思うのだが、真由の得体の知れない「怖さ」の演出はより少なくなり、より見やすい映画になっていた。

後編PVには幼少期の真由のカットが登場することもあり、真由と言う人物の内面により寄り添ってゆく期待感がある。

もっと言えば、原作小説の真由はある意味ドライな感じだが、TVシリーズ3期では真由に人間味を加えるディレクションだったと思う。しかし、それは原作小説の久美子から見た真由の「怖さ」も両立させるディレクションだった。今回の映画は、そうした真由の「怖さ」の部分を極力減らし、より真由という人間性をクローズアップしてゆくディレクションに感じた。

その意味で、小川監督の描く真由の物語を後編に期待したい。

2026年冬期アニメ感想総括

はじめに

前回は3作品しか視聴できませんでしたが、今期は5本を完走し、少しずつペースは戻りつつあります。

その中で、今期は「違国日記」と「正反対の君と僕」の2作品の完成度の高さに圧倒されました。「死亡遊戯で飯を食う」も万人向けとは言えないものの考察しがいのある作品で、かなり楽しめた作品があったという感想です。

「【推しの子】」3期は、後追いで視聴予定です。 【推しの子】3期を追記しました。(2026.6.6追記)

  • 違国日記
  • 正反対の君と僕
  • 死亡遊戯で飯を食う
  • 綺麗にしてもらえますか?
  • MFゴースト(3期)
  • 【推しの子】(3期)(2026.6.6追記)

では、いつもの長文のアニメ感想総括です。

感想・考察

違国日記

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 深みある文芸作品を感じさせる、大人っぽい人間ドラマ
    • ときおり出てくる槙生の哲学的で文学的な語り口調と、無邪気さ溢れる朝の噛み合わない会話劇
    • 朝の物語として綺麗にまとめられたシリーズ構成、サブキャラにも人生を感じさせる群像劇
    • リッチすぎないアニメでも上品でクオリティの高い作品は作れることを証明
  • cons
    • 特になし

長文になりすぎたので別記事に切り出しました。下記ご参照ください。

正反対の君と僕

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 「ポップ+楽しい+エモい=圧倒的な多幸感」。これまでにないほど完成度の高いラブコメ作品
  • cons
    • 強いて言うなら、物語性(≒文芸性)は弱い

これまでもラブコメは星の数ほどあったと思うが、これほどまでに多幸感に溢れるラブコメはあっただろうか?

クラスでも陽キャで人気者の高校2年生女子高生の鈴木と、他者との絡みが苦手で物静かで真面目な谷の正反対カップルが付き合い始める1話。そして、13話かけてクリスマス手前までの期間のカップルのイチャイチャを描く。正反対だからお互いに理解できてないところがある。だけど、それが魅力であり他者への尊重がある。つまり、他者との違いを受け入れて、他者を肯定するのが基本。そこにラブコメを乗せる。相手の喜ぶことをしたいから、スマホでデートの下調べをする。そうした事がすべて嬉しい。このラブコメ描写はちょくちょくコミカルテイストなキャラで描かれ、ラブコメがシリアスになり過ぎない絶妙な塩梅で楽しめる。

基本的にクラスメイトも含めて登場人物は全員善人でストレスがない。鈴木⇔谷だけだとマンネリになる部分もあるので、山田(♂)⇔西(♀)と、平(♂)⇔東(♀)というカップルも描く。それぞれに、キュンキュンするラブコメになっている。キュンキュンする度合いで言えばエンタメの中でも過去最高と言える。

昔の恋愛モノは、三角関係や不倫など、恋愛と言う抑えきれない衝動のような感情が他者の幸せを壊すような、だからこそ尊さが増すというようなエンタメが多かったように思う。背徳感とでも言うのか。障害があるほど恋愛の炎は燃え盛る。そういうステレオタイプな時代が長かったように思う。それが令和に入り最近だと「その着せ替え人形は恋をする」「スキップとローファー」のような、誰も悲しまないラブコメが登場し出す。それは、否定され抑圧されてきた人たちが肯定され救われる優しい世界であり、だれの心も踏みにじらない恋愛のピュアな部分だけを抽出したエンタメである。つまり時代と共に背徳感は排除され、健全なエンタメに昇華されてゆく流れである。

しかし、本作にはコンプレックスと言えるほど抑圧された人は居ない。どこまで行ってもタイプの違う人間同士が互いを尊重し肯定し合う世界として描かれている。このハッピーな世界が本作の土台になっている点が大きい。厳密には否定的なキャラとして平がいるが、彼のツッコミには悪意がないし、中学時代の自己肯定感を引きずっているが高校ではニュートラルに近い状態。彼もまた自己肯定感の低い東とのイイ感じのエピソードもあり、上手くできている。

極論だが、本作を見ていると、リアルで国境や人種の違いで反発し争い合う世界が馬鹿馬鹿しくなってくる。なんで、こうできないのだろうという気にさえなってくる。そこまで思えるラブコメというのは生まれてはじめての体験であった。その意味で、本作はそのハッピーなテイストが他のエンタメ作品よりも一段抜きんでている。

原作は阿賀沢紅茶先生のジャンプ+連載中のマンガ。制作はラパントラック、監督は長友孝和、シリーズ構成は内海照子。音楽のtofubeatsはTVアニメでは珍しいかもしれない。

アニメーションとしてのルックはポップ。頻繁にデフォルメキャラが登場し、コミカルなガス抜きが行われつつ笑いも取る。とにかく、全編にコメディ要素が途切れる事がなく楽しめるのがベース。そこにエモいエピソードをトッピング。このバランス感覚が心地よい。tofubeatsの劇伴も目立ちすぎず寄り添う感じで心地よさを感じる。演出的に、放課後の吹奏楽部の練習音を居心地の悪さの演出に使うなど、いちいちオシャレな感じがした。色彩もかなりポップな味わい。総じて、映像として湿っぽさがまったくない。全編がポップ+楽しい+エモい=多幸感、みたいな作風である。

繰り返しになるが、本作はラブコメとして視聴後の多幸感は、頭一つ飛びぬけた印象を持つ良質のラブコメである。太鼓判が押せる良作のラブコメと言っていいだろう。

死亡遊戯で飯を食う

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 舞台演劇を連想させる、絵的な情報量を削ぎ落し、声の芝居を重視した唯一無二な演出の映像体験
    • 死を伴うゲームの中で「生きる」を見つける文芸性
  • cons
    • アニメ的な爽快感はなく、分かりにくさもあり、人を選ぶディレクション

独特の世界観で、人間の本能的な部分をダークに描く問題作。大がかりな仕掛けでの複数人参加の謎のゲーム。ルールやクリア条件はゲーム毎にまちまちだが、死者も出る過酷なゲーム。ただし、生き残れば賞金額も大きい。さまざまな目的でゲームに参加する少女たち。99回クリアを目標にゲームに挑み続ける主人公の幽鬼は、このゲームを通して何を見て、何を感じるのか。

1話を見たときに、この息苦しさはなんだろうという感じで観ていた。1話のラストもなかなか衝撃的であった。死者が出てメンタルが弱っていた金子(きんこ)を励ましていた幽鬼だが、ラストで躊躇なく金子を殺すという後味の悪さ。戦後の探偵小説などの文芸作品は、死が身近すぎたがゆえに、死を扱う事で生を描いていたという。そういう文芸作品に手触りが似ていると思った。

「義妹生活」の上野壮大監督が、本作でも唯一無二と言える独特のテイストのアニメに仕上げている。脚本は池田臨太郎。制作はスタジオディーン。強烈な個性を放つ美麗なキャラクターデザインは長田絵里。

特徴的なアニメーションについてだが、私は舞台演劇的な印象を強く持った。

全体的にアニメーションの動きは最小限。引きのシーンも結構多いが、顔のパーツ自体も描かずに絵の情報は抑制されている。背景美術も同様で、平面的で質感も抽象的である。それでいてキャラクターの心情をクローズアップする瞬間のカットは、美麗に書き込まれたキャラを大写しにしてメリハリを付ける。

絵で情報を抑制する代わりに、本作では声の芝居が占める部分が非常に大きい。グラデーションの深みあるニュアンスまで伝わる声の芝居であり、静かながら力強い意思を感じさせる。その強めの芝居でモノローグや、キャラクターの情念のぶつかり合いがあり、声の芝居だけでも迫力がある。

本作で登場する少女たちは、お人形のような雰囲気があり、ジブリアニメのような躍動感をまったく感じさせない。それは、主人公の幽鬼の性格に代表されるものであるが、他のキャラクターも同様である。このゲームでは死者も出るが、鮮血が飛び散るような描写にならないように、防腐処理という血液が白綿になるような設定でバイオレンス感を和らげている。こうした余分な情報を抑制するからこそ、内面に向き合う描写が際立つ。

ただ、本作はキャラクターの内面にフォーカスし余分な情報を削ぎ落してゆく作風ゆえに、ゲームの進行に関する重要な要素やルールの描写を抑えすぎて何が起きたか分かりにくい部分もあった。よく言えばそこまでストイックな作風、悪く言えば不親切である。

この辺りが、背景やカメラワークが制限され、台詞や表情によりキャラクターの心情やマインドに迫って行く舞台演劇に似ていると感じた部分である。物語やドラマが台詞の掛け合いやモノローグなどのテキストで進行してゆく。この手のテイストが大好きな人にはたまらないディレクションであろう。

さて、肝心の文芸性について。

主人公の幽鬼は「生きる」という実感をまったく感じさせない、生きているとも死んでいるとも分からないというキャラクターであった。リアルでは引きこもりで、外部との関わりを持たない。このゲームは賞金目的と言うよりもリアルに居場所がないため、たまたまやっている感じである。別に死にたいわけでもない。必然性があれば他者を殺すが、むやみに殺したいわけじゃない。ただ漂っているだけの存在であった。

最初のゲームは「ゴーストハウス(28回目)」。幽鬼は、なるべく死者を出さないように努めてきたが、最後のゲームクリア条件が3人だけ生き残るというルールだったことで、自分が励ましていた金子を躊躇なく殺す。作劇的にも息苦しいストレスがかかりっぱなしの演出で、最後に倫理観をぶっ壊す展開が来て、非常に後味が悪い展開だった。しかし、こういった理不尽が文芸性とも言える作風であり、これはこれで私は認めている。

次のゲームは「スクラップビル(10回目)」。ゲームの最後は生存者の中で誰が1人だけ役立たずかを投票して、一番票を集めた者が死んで残りの者はゲームクリアするルールが最後に発表される。序盤でルールを察した幽鬼はいち早く投票用紙を4枚集め、生存者全員の名前を書いて投票。ここでも、個人的な遺恨を残す事無くゲームをクリア。このゲームでのポイントは、リーダー格の御城(みしろ)のプライドを完全にへし折る、ある種の痛快さがあった。御城はリアルでも誰にも負けたくない自信家であった。ゲーム序盤では幽鬼を格下に位置づけて見下すが、途中で形成が逆転し、ゲーム途中で生存者からひとりはぐれていた。そこに幽鬼が現れ「謝れよ」と御城に迫るが、御城は幽鬼を切りつけて出口に向かう。しかし、最後の投票のやり取りで完全に幽鬼が格上だと認めて謝罪する。帰りの車中でその怒りを一人爆発させるほど悔しがった。この展開が熱い。幽鬼の中にある虚無感と御城の人間らしさの対比にもなっていた。

次のゲームは「ゴールデンバス(30回目)」。ゲームの規模が大きくなったことで、大きく2チームに分裂してチーム戦になるような展開になっていた。幽鬼は出遅れの弱小チーム側に入る事になるが、強豪チームには御城と彼女に忠誠を誓う狸狐(りこ)が居た。チーム戦で弱小チームは壊滅状態になるが、復讐心に燃える御城は、幽鬼を生き残らせて決闘を申し込む。嬉々として対決する御城だが、ふがいない幽鬼に対し怒りのような感情を覚えるが、ちょっとした事が原因で御城は自分の美しさに酔いながら死んでゆく。出口に待ち伏せていた狸狐は、幽鬼を虫けらのようにいたぶるが、ここでも幽鬼の一か八かの賭けで狸狐を倒し命拾いする。今までクールな印象だった幽鬼だが、このゲームでは無様。弱小チームの仲間の命の儚さ。それに対し御城や狸狐の異様なまでの執着心は気が狂っているともとれるが、それが生命力の様に感じさせた。

そして、次のゲームは「キャンドルウッズ(9回目)」。このゲームは大規模な鬼ごっこで、武器を持たされない「うさぎ」と武器を持った「切り株」に分かれて大量殺戮が行われる。ただし、「切り株」は5人殺せばゲームクリア。このゲームでもただの殺人狂の伽羅(きゃら)と彼女を慕う萌黄(もえぎ)がキーパーソンになる。萌黄はリアルで自分の弱さから伽羅に恐怖を抱きながらも崇拝してゆく。伽羅の理不尽なまでの狂暴性に憧れつつも、自身はそうは振舞えなかった普通の人である。ただ、伽羅に対する崇拝はもはや理屈を超えた愛になっていた。うさぎの幽鬼は切り株の萌黄を殺す。その後、殺人狂の伽羅と幽鬼が対峙する。無慈悲で圧倒的な強さの前に諦めそうになるが、最終的には幽鬼は伽羅を倒してゲームをクリアする。伽羅との対決中に、これまでのゲーム参加者が走馬灯のように思い出され、その人間性、生き様が通り過ぎてゆく。これを持って、ゲームにただ参加していた幽鬼は、彼女たちの「生きたい」を受け取り、幽鬼自身が生きるためにゲームの参加を続ける決意をする。このゲームで死別したと思われた白士師匠の目標を引き継いで。1クール完。

少々長くなったが、これが1クール全体の流れである。ちなみに、本作が扱うゲームの時系列はシャッフルされている。しかし、最終話の走馬灯のシーンはシリーズで扱った順番に未来のゲームの登場人物も含まれており、この結末が1クールのシリーズを見ている観客に向けて構成されていた。特殊なルールではあるが、そうしたディレクションもシリーズを1作品と理解するなら納得はできる。

シリーズ通してみると、意外と普通に「生きる」を肯定する物語になっており、破綻はしていない。1話の狂った世界の毒のある物語を期待していた人には肩透かしになったかもしれない。アニメ以外なら、もっと狂気に溢れるエンタメ作品もあるだろう。SNSの観測範囲では、そうしたテイストの改変を否定的にとらえる層も一定数いた。原作改変が必ずしも悪だとは私も思っていないが、この辺りは難しいところであろう。私はこの件について、どうこう意見するつもりはない。

ただ、本作が現代に溢れるシリーズアニメの中にあって、異質なディレクションで、映像に没入体験を作っていた事は評価したい。引き算とも言える美学と、声の芝居による生っぽい魂の芝居の復権である。実際に、私は幽鬼たちの激情を伴う芝居に痺れて見入っていた。「義妹生活」ともまた違った、唯一無二のテイストであった。似たようななろう系アニメ乱立のこの時代に、実験的かつ挑戦的な作品だった事は間違いない。万人におススメできる作品ではないと思うが、好きな人は大好きな作品と言えるだろう。

綺麗にしてもらえますか?

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 個人経営クリーニング業の美人店長金目さんの朝ドラヒロイン感が満喫できる
    • 地元客とのコミュニケーションとそこにまつわるささやかな人情ドラマだが、静けさと上品さのある作風
  • cons
    • (静けさある作風のため)激情やエモさ成分は少な目。

原作漫画は最近完結したばかりのはっとりみつる先生の連載漫画。制作はオクルトノボル。監督は大西健太。シリーズ構成は待田堂子。

熱海を舞台に2年前以前の記憶を無くした個人経営の美人クリーニング店長の金目綿花奈(きんめわかな)を主人公に繰り広げられる人情ドラマ。クリーニング業務に関しては顧客への気配りが徹底しており人柄の良さをうかがわせる反面、坂道の多い熱海の街を洗濯物のケースを抱えて走り回る快活さも持ち合わせ、視聴者に対する爽やかなお色気サービスも欠かさない。それでいて、どこか放っておけない危うさも内包しており、ヒロインとしての魅力度は高い。

当初は地元の年配のお客が多かったが、本作では高校生の石持毬祥(いしもちきゅうしょう)や双子の久里留と守大、小学生女児の那色、役所の観光課の初鮎羽果(はつあゆうか)などを交えながらドラマが紡がれてゆく。

そのドラマだが、そのテイストは物静かでささやかな日常の、ちょっと心が温まるモノであり、とにかく穏やか。それは劇伴のピアノソロ曲の軽やかな印象にも符合する。

たとえば、夏祭りで金目さんが置いてあった山車に登って、石持に覆いかぶさるように落下してお面越しの間接キスになるのだが、ちょっと気まずい感じになり、ドラマが劇的に進むわけでもない。石持は芯の強さがある人望厚い男なのだが、徐々に金目さんを意識してゆく1クール中の流れはあるものの、その儚き片想いを爆発させるようなこともなく、その心情はキープしたまま1クールが終了してしまう。一事が万事こうである。その少し切なさを帯びた心象風景が凍結されたような作風とでも言えばいいのか。

当初は、もう少し抑揚のあるドラマや、2年前に失った過去の記憶の謎にせまる物語を期待してしまったところもあり、その意味では肩透かしを食らった感じは否めない。でも、この静かさを重視したディレクションである事は中盤以降は理解できた。それ以降は、本作をゆったりとした気持ちで見ていた。ちょうど、リゾート地に行って美しい風景の中で何もせずにのんびり過ごすような癒しの感覚に似ているのかもしれない。

ラストは、記憶喪失の謎も恋愛の進展もなく、金目さんの日常の継続と周囲からの2周年の感謝の気持ちで1クールは〆られた。本作はこうした暖かいご近所付き合いの心地よさが永遠に続いてほしいというニュアンスにも感じられるシリーズ構成である。

さて、アニメーションとしては派手さはないが丁寧に描いているイメージがあったが、全体的に見たら突出したところがない、さりとて破綻もないという地味な印象である。金目さんCV鈴代紗弓の声の芝居の印象が強く、非常にマッチしていたと思う。

総じて、金目さんのヒロイン感を満喫しつつ、熱海の風景とともにゆっくりと味わう静かな人情ドラマという感じの作風だと感じた。とにもかくにも作品自体が癒しを表現していたと思う。

MFゴースト(3期)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 安定の公道レースバトルの迫力
    • レース以外にもラブコメ要素などを入れて飽きさせないドラマ作り
  • cons
    • 3期続くから慣れてしまってレースバトル自体の衝撃は総体的に弱くなったかも

「頭文字D」の世界を引き継ぐ、公道を使ったレースバトル。作品の概要についての説明はもう不要だろう。

3期は、第3戦目のザ・ペニンシュラ真鶴の途中から、夏休みを挟んで、第4戦のシーサイドダブルレーンの序盤まで。

第3戦は左手の痛みがスピリチュアルな事でなくなり、2速封印のハンデ解除と共に快進撃をする夏向の活躍が描かれた。個人的には、これまで理詰めでレースを運んできたが、この3戦だけは左手の故障とスピリチュアルで解決の部分が、非論理的でご都合主義に感じてしまった。半島コースが入り組んだ夏向が得意とするパートである事は理解するが、勝利のためのロジックが弱いような印象を持った。残念だと感じた部分は、それくらいか。

新潟帰省で夏向と恋の二人の好きな気持ちを膨らませたり、父親がレース中に他界して死に目に会えなかったドラマエピソードが挟まれる。恋愛に関連する夏向と相葉瞬のライバル宣言もあった。そして、今度はシリーズ終了後の夏向の英国帰国疑惑や、夏向の知り合いの英国人女性ドライバーエマの登場など、ベタではあるが群像劇としての仕掛けも少しずつ動きを見せる。この辺りの配置の手際よさは本作の良いスパイスになっている。

さて、第4戦は、ハイスピードコース+滝によるスリップ+ジャンプ台というコースであるが、序盤でトップスリーの沢渡、ベッケンバウアー、夏向のスピンにより大番狂わせ。夏向とベッケンバウアーは阿吽の呼吸で協力しながら上位に返り咲いてゆく、といういいところで3期は終わる。毎回この展開でもはやお約束と言えるでしょう。

コースが変わるたびにクルマもバージョンアップしてゆき戦闘力を増してゆく。レースをエンタメ作品として見せる手腕はもう円熟の域にあり、ある意味毎回安心して見られる。レース間のドラマパートもベタだと思いながらも楽しめている。本作はすでに、馴染みのラーメン屋になった感がある。

【推しの子】(3期)(2026.6.6追記)

作風については、1期2期から変わらず、安定した作画、劇に集中してゆくキャラ心情中心の強演出。ドヤーって決めてEDに入る各話構成の気持ち良さ。

物語としては、2期終わりから闇落ち感あったルビーの芸能界での躍進と暗躍、アイ殺しの真犯人と思しきカミキ・ヒカルにリーチしてゆくがゆえにアクアと決裂してゆくあかね、俳優としての焦りからスキャンダル記事を書かれそうになりパニックになるが自力で回復してゆく有馬かな、そして劇場映画『15年の嘘』で五反田監督とともに復讐劇を準備してゆくアクア。主演女優に選ばれて追い込まれ余裕を無くすルビーと前世の繋がりを確かめ合い支えてゆくアクア。

アクアが人並みの幸せを捨てて自らを復讐鬼に追い込んでいく様と、アクアの周囲のキャラの人間関係の反転が、3期の肝に感じた。牛歩ではないが、先の長い物語の続きを気長に待とうと思う。

おわりに

人を選ぶかもしれないが、唯一無二の個性的な作風だった「違国日記」がやはり今期はぶっちぎりだったように思います。ここまで個性的で唯一無二な作品という意味では、「チ。 ー地球の運動についてー」くらいでしょうか。非常に落ち着いた作風で、作品についてもまったく理解しきれた気はしませんが、それだけ深みを感じさせた作品だったと思います。

「正反対の君と僕」もクオリティや多幸感で言えば、従来のラブコメのそれを数段上回るキュンキュン、ニヤニヤがありました。今期はこの2作品の底力がすごかった。

あとは「死亡遊戯で飯を食う」も独特のテイストで、舞台演劇を見るような斬新な感覚がありました。

個人的には、4月を通り越して、26年7月に期待作が集中していることもあり楽しみは尽きません。

違国日記

はじめに

とりあえず、2026年冬期アニメ感想総括ブログを書き始めたものの「違国日記」だけで大量の文章になってしまったため、単独ブログ記事にすることにしました。

本作は、情報量が多く、槙生の台詞に代表される文芸作品のような味わいが持ち味で、軸となる朝の物語だけでなく、各サブキャラの断片のドラマも非常に魅力的な作品だったと思います。それでいて、クールで何杯でも食べられる感じです。

本作は、2026年冬期アニメのエポックメイキングなアニメ作品だったと思います。

感想・考察

概要

小説家の高代槙生と姪の田汲朝の同居生活を独特のタッチで描く人間ドラマ。

両親の交通事故死により、叔母の槙生に引き取られる朝。槙生は独身の女性小説家で繊細な部分もあるが基本的に人付き合いは苦手。ごく親しい友人との交流しかない。朝に対して慎重かつ思慮深い言葉づかいで、一方的な決めつけをしないように対話を進めてゆく。しかし、これまでの家族とも考え方が違うため、朝の思考が追いつかない。互いにしっくりしない違和感を持ちつつも、ベタベタではない距離感の不思議な心地よさを覚えてゆくような、二人の交流の物語である。ちょっとエッセイみたいな感覚もある。

原作はヤマシタトモコ先生の完結済みの連載漫画。全11巻中の7巻までがアニメ化された。監督の大城美幸は「夏目友人帳」で絵コンテ・演出・作画監督を務めていた。シリーズ構成・全話脚本の喜安浩平は演者や舞台演出も経験があり、テレビドラマ、実写映画、舞台など幅広いジャンルの脚本を手掛けている。音楽は牛尾憲輔。「夏目友人帳」などを手掛けてきた朱花がアニメーション制作を担当している。

アニメーション

まずはアニメーションについて。

漫画原作のキャラクターのイメージを踏襲し、ルックは線が細くて全体的にクールな印象。槙生は小説家なので小難しい台詞が多く、差し込まれる日常風景や人間関係が大人っぽく、漫画原作なのに小説などの文芸作品の貫禄がある。逆に朝は快活な中学生女子という感じで、この二人のギャップのある会話劇が多いのが特徴。そして、槙生(CV沢城みゆき)と朝(CV森風子)の声の芝居が非常に良い。

槙生は非常に繊細さを持ったキャラクターで、親しい友人を除き基本的にコミュニケーションが苦手な人嫌いである。また、小説家をやっているだけあって、哲学的な表現の切り口が多彩である。会話の中でもときおり哲学的な語り口調になる。この時の台詞は、活字にして読んでいたら心地良さそうに思う文章であり、らしさがある。ちょっと中二病感もある。反面、普段の日常会話はたどたどしい。この哲学的な語り口調が本作の特徴となっており、このあたりは非常に繊細な演技が光っていた。

逆に朝は槙生のことを「槙生ちゃん」と呼ぶ。年齢の割に幼さが残る印象である。会話自体も子供っぽさがあり無邪気な印象。ただ、両親と死別した境遇を最初は理解できない。朝はそのまま中学を卒業して高校に通い始める。その過程で、勝手に死んでしまった両親に対する怒りの発露や、理不尽な自分の境遇の受け入れなどの激しい感情表現もある。日常の飄々とした雰囲気と、感情的な表現の振れ幅の大きい役を見事にこなしていた。

音楽は牛尾憲輔に期待する通りの劇伴であり、息苦しさの表現や、違国の不思議な感覚を丁寧に表現していたと思う。

演出面で言えば、日常芝居が多く淡々とした感じのシーンが多い。ただ、前述の通り、槙生が小難しい言葉で喋るので、そこで少し文芸作品的な格調の高さを感じさせてくれるところはある。槙生と笠町の大人の男女の関係性や、槙生の高校時代からの友人4人組など大人の会話も多い。一方、朝の学校の付き合いもあり、高校生らしい価値観の会話にも溢れている。群像劇的に飽きずに見られる構造はできていたと思う。

本作では、登場人物が日常の中で突然知らない人たちに囲まれているような疎外感を覚えたときに、異国の砂漠などの背景が差し込まれる演出がある。しかも状況により異国風景も少しずつ変わる。このあたりの表現も独特だが、この演出は終盤まで効果的に使われていた。

これらの要素が巧みに融合し、淡々とした日常風景をベースとし、時に感情発露の爆発があるという感じでメリハリがあり、それでいてくど過ぎない塩梅の映像になっている。

作風・テイスト

本作最大の特徴は、槙生と朝の会話劇にあると思う。槙生はコミュニケーション能力が低く、ごく親しい人以外との会話はテンパりがちである。私生活ではたどたどしい会話がデフォルトである。しかし、本業の小説家であるため、ときおり活字を読んでいるかのような哲学的な発言がスラスラ出て来る。とりあえずここでは、この状態を「執筆モード」と表現する。この執筆モードは、朝に対して言葉を選び真摯に対応するためであり、他者との会話ではこういう喋り方はしない。もっと砕けた感じである。こうした高尚な部分があることで大人向けで品格を感じさせる作風になっている。一方、朝は素朴な子供で、槙生が言っていることの分からなさを素直に口にする。凸凹コンビの会話ではあるのだが、朝がかしこまらずに素直なところが可愛くて、その会話が心地よい。物語に直結しないくだらない会話パートもある。ちょっとした実写映画みたいな感じなのだが、アニメであることでよりライトな印象を受ける。

序盤に朝は、母親だったらなんて言ったかを槙生に訊ねることがあった。良く思っていなかった姉のことだし本人ではないから、自分で考えて、と返していた。この時の朝は、母娘が母親の言うとおりにするのが正解という意識だが、自分で正解を見つけなければならない。もっとも槙生としては、他人を自分が染めてしまうことが嫌で、少しでも自分色に染まらないような会話を慎重にしていたのだと思う。とりあえず日記を書いてみたらどう、という提案も自分を客観視するための助言になっていたと思う。槙生は個人を尊重することを重視していた。

朝は高校に通い始めて、学校での新しい人付き合いができる。さまざまなタイプの人たちがさまざまな考えで動いている。親友のえみりとの会話でも、恋愛について茶化したり、触れられたくないと反発されたり本当にさまざまである。人間社会は複雑でカオスなのだが、その一つひとつを納得するまで理解することはできない。他者との違いはあって当然である。

ここで、槙生の執筆モードの話に少し戻るが、槙生は作家なので何通りかのキャラの切り口を持っていると思う。世界の複雑さを作家の内部に内包していると言ってもいいのかもしれない。だから、序盤で朝に助言したことが、終盤での助言では反転していることもある。7話で朝が大切な人を亡くした気持ちを槙生が共感してくれなかったが、槙生の作品内のキャラが共感してくれていたみたいな話もあった。1人の人間でも、時と場合によって切り口は違うとも言えるし、何通りかの人間を演じることはできても、本質的には分からないのかもしれない。

本作では、そうしたさまざまな人間の複雑さが、丹念に描かれていたような気がする。そして、日常にはそういう会話が溢れているし、それが当たり前である。物語のように必要なものだけが必要なタイミングで提供される訳ではない。リアリティと言ってもいいかもしれない。たとえば、槙生と笠町の恋愛パートは、本作の本題である朝の成長には直結しないテーマである。それでも脇役である笠町にとっては重要なドラマであり、本作ではその断面だけを魅力的に見せる。群像劇と言ってもいいのかもしれない。誰もが自分自身の人生を、自分自身の価値観で過ごしている。本作では、その世界を肯定し魅力的に描いていると感じた。

キャラクター

田汲朝(たくみあさ)

本作の主人公は、朝と槙生の二人で、それぞれに物語があったと思うが、ほぼ朝の物語が軸になっていたと感じた。

朝は、ある日突然両親と死別。にわかにはその状況を受け入れられない。その朝が少しずつ状況を受け入れ、自己を持ち、未来に歩み出してゆくというのがアウトライン。これについては、実に丁寧に描かれていった。

最初は槙生に引き取られても、槙生の友人たちとの大人の会話を聞きながら、違国に来た不思議な感覚で過ごす。3話で卒業式前に両親の死が中学校に知れわたり、朝が親友のえみりに逆切れするシーンがあった。普段はもっと幼い感じなのに、急に感情的な芝居が入ってギャップに驚く。この情緒不安定な感覚を淡々と描く。母親の日記を読んでも、勝手に死んだと怒りが湧いてくる。同居人の槙生に母親を重ね、この気持ちに寄り添って欲しいのに、槙生には分からないと突き放される。自分自身でなんとかしなければいけない孤独。そんなときに、槙生の小説の主人公が同じ境遇で、朝の孤独に寄り添ってくれたことではじめて大泣きしてこの状況を受け入れられた。

ここからは、朝は自己の内面に向き合ってゆく。朝は高校に入り、新たなクラスメイトや軽音楽部の部員たちと交友してゆくことになる。えみりは少し派手なグループに属してゆくが、朝が恋愛話を振っても不機嫌な顔をする。学校で目立つ野球部員や、医大を目指す千世たちも不満や怒りを抱えていた。この社会には、さまざまな価値観の人間がいて、その中で足掻きながら生きている。では、朝自身はどんなアイデンティティを持ち、何を主張するのか。そもそも主張したいことなんてあるのか、私みたいな地味な人間が主張して目立ってもいいのか。これについては、槙生の友人から、自身の経験の枠からはみ出ていいんだという助言をもらう。

12話では少しずつメンタルが回復してきた朝が押入れに秘密基地のような空間を作っていた。これは、自己に向き合い自己形成をし始めたことを意味する。そして、槙生からの宿題になっていた両親の命日のイベントは、両親の誕生日を祝いたいと言う。これも、両親の死別を後悔ではなく肯定してゆく前向きさを意味するのだろう。

最終話となる13話で、朝は千世と同じ電車に乗り合わせ少し会話する。千世は医大女性減点問題に怒りを覚えしばらく登校していなかった。そんな千世が朝の境遇について絶望してないのか尋ねる。朝は「(人生)終わってない、生きてるから!」と強く返事をし、明日の校庭ライブを聞きに来て、と伝える。翌日、朝は軽音楽部の校庭ライブでOP曲「ソナーレ」を歌唱する。ソナーレの歌詞は、迷って停滞していた人が、前向きに未来に進みだすというニュアンスである。朝はこれを千世へのエールとして贈り、千世はこれを受け取った。つまり、もう朝自身もすでに両親の死別という過去に捕らわれず未来を歩き出していた、という作劇である。

ラストは、10年後の朝とえみりが、久しぶりに槙生に会うために外から電話をかけるというシーンで〆る。10年後には朝は槙生の元から巣立ち、疎遠ではあるがときどき交流はしているという依存しない距離感である。26歳の女性として普通に自立し、社会に溶け込んだ姿に安心感を覚える。

本作は朝の物語として、非常にきれいに上手く整理された物語になっており、非常に美しい構成だったと思う。

高代槙生(こうだいまきお)

槙生の物語だが、こちらは朝に比べてふわっとした輪郭である。

仲が悪かった姉の娘を引き取ることで、否応なく姉の存在に触れてゆくことになるが、最終的には許せなかった姉を許すというのが1つの物語になっていた。こちらはあくまでサイドディッシュだったのだと思う。

姉の実里は世間的にはキッチリした人という印象で世間体を気にするタイプに思えた。槙生は内面に向かうタイプの不器用な性格だから、ちゃんとできていないことについて実里から否定され嫌味を言われた。槙生は自尊心を傷つけられストレスを蓄積し、姉妹は疎遠になっていった。もちろん、これは槙生主観であり、交通事故死した姉の主観がどうだったかは分からない。

槙生は親戚連中の冷えた態度に思わず朝を引き取るが、自分は子育ての経験もない。もともと人付き合いが苦手でごく限られた友人くらいしか交流がなく、思春期の見ず知らずの中学生を引き取ること自体、思い切った行動であった。前述の朝の物語でも触れたが、当初は両親の死別の実感を持てずにいた。そんな朝に対し、槙生は朝にあれこれ指示するのではなく、朝に自分でいろいろと考えさせるように仕向けてゆく。もちろん、槙生は朝の人生の責任を負うまでのことはない、という認識は少なからずあったのかと思う。しかし、どちらかと言えば、槙生自身が世間の当たり前を押し付けられて苦しんで生きてきた過去の経緯があるから、それを他人に押し付けたくないという気持ちが強かったのではないかと思う。

こうして考えてみると、哲学的に内面に向かってゆく思考は作家が得意とするところかもしれない。大人になる儀式としては荒療治だったかもしれないが、朝の成長を促すには効果的だったのかもしれないとも思う。槙生は孤独に慣れ過ぎていたし、朝は家族に甘えることに慣れ過ぎていた。

基本的な部分では槙生は小説家として生きてゆく上で、恋人だった笠町とも少し距離を取りつつ、自分に密着してくる人が居ない世界を構築して、自由に生きていた。その意味では、槙生の生き方というのは完成していた。しかし、朝を引き取ることで否応なしに姉の実里と向き合うことを迫られる。

前述の通り槙生は姉が嫌いである。それを記憶の奥底に沈め封印していた。遺品整理に田汲家を訪れ荷物を整理する。ときおり、過去のイメージの姉から乖離する痕跡を見つけては困惑したりする。ふとしたタイミングで、姉が冷笑する姿が浮かぶ。姉はあれからどんな人生を送り、何を考えて娘を育てて来たのだろう。故人に対して思惑をめぐらしても、推理小説の名探偵のように違和感を解明してしまうようなことはない。モヤモヤした雰囲気のまま時間は過ぎる。それ自体が解決することはない。終盤はこのような姉のイメージが出て来ることも少なくなっていった。

両親の一周忌が近づいてきたときに、槙生は朝に対して、朝が周忌でやりたいことを決めておいて欲しいと頼む。数日後の朝は、生前その頃に行われていた両親同時の誕生祝いをしたい提案する。槙生は非常に良い提案だと返事をする。なんとなく、ここに躊躇の気持ちがあったようにも見えた演出だった。槙生と朝はちゃんと誕生日のケーキを買って二人で祝った。

槙生の人生に姉を祝う行事が加わった。それが何の意味があるのかは分からない。

ただ、朝が立派に自立してくれたことに対して、姉が15年間朝を育てあげたことに対して、感謝と尊敬の気持ちがあった。朝は実里と槙生の二人で育てた子供と言ってもいいだろう。1クール通して、はじめて姉を讃えた瞬間があり、物語としては姉妹の不仲の解消が提示されたように見えた。

槙生の物語は、朝の物語と比べてサイドディッシュである。エッセイのように繊細なドラマゆえ、物語としてハッキリと因果応報が描かれることがなく、ふんわりとした断片で語られる。槙生と実里の姉妹のわだかまりが完全に解消した!などと明言することはない。しかし、槙生の気持ちが一瞬姉を受け入れたということが、槙生のちょっとした救済になる。むしろ、はっきり描かないし言わないことが、本作の上品さ、心地よさなのだと思う。

楢えみり(ならえみり)

えみりは(少なくとも)中学時代からの朝の親友である。3話では内緒にしていた朝の両親の交通死亡事故が、えみりの母親経由で学校に知れわたってしまったことで、朝がえみりに激昂した。その後、朝は槙生の高校時代の友人の手紙のやり取りを聞き、朝はえみりと仲直りする。

えみりはちょくちょく槙生宅に遊びに来ていた。槙生はえみりの百合属性を見抜いてさりげなくDVDで自分らしさを大切にすればよいと助言する。こういうマイノリティの配慮ができるのは槙生ならではである。後日、他校の女子生徒との百合描写が出て来る。私は当初、えみり→朝の恋愛なのかと思っていたが、そうではなかった。えみりは朝に恋愛話を茶化され気味に聞かれたことについて不快感をあらわにしていた。えみりの百合は秘めたる関係である。

10話でえみりが朝との友人関係を「縛り」に感じているというエピソードが出て来る。普通に仲の良い友達であり、えみりが朝の支えになっていたのは間違いない。しかし、友達をやめるほどでもない。えみりと朝の交友関係は普通に続いてゆく。

最終回の13話では、校庭ライブの朝の歌唱を聞き普通に応援し、朝の歌唱動画をネットにアップしていた。

10年後も交友関係は続いており、久しぶりに喫茶店で再会し、槙生にも会いたいから連絡を取ってほしいと朝にせがんだ。

こうしてみると、えみりが朝と友達を終了したい気持ちと、継続しなければならない気持ちのせめぎ合いは、継続する側に倒れたことになる。大人になるまでに疎遠になるチャンスはあっただろうが継続していたということは、義務感から解放され、素直な気持ちで朝の友人で居られる関係に戻ったということだろう。

えみりの「縛り」の心の葛藤は、あってもなくても、主題である朝の物語は成立する。しかも、その「縛り」がどう解決したかのプロセスも描かずに、結果だけ描いてしまう。

こういったサブキャラの単発的で収斂しない葛藤も差し込んでくるところが本作の最大の特徴であり、群像劇の深みを感じさせるところである。

高代美里(こうだいみさと)

美里は槙生の姉であり、性格は正反対である。槙生が他者とのコミュニケーションが苦手で内面に向かってゆくのと反対に、美里は外面である社会規範を重要視していた。自分ができて当たり前だから、槙生のできなさを否定した。そのことで姉妹関係は疎遠になっていった。槙生にとって美里はトラウマであったが、美里にとって槙生はどのような存在だったのか。槙生がマイノリティながら小説家として確実に生きてゆく姿はどう見えていたのか。故人となってしまった今、それを知るすべはない。

中盤で実は美里が事実婚であったことが判明する。事実婚は、未婚の母→父親が子供を認知→裁判所に申し立てて戸籍を母親から父親に移動する。だから、戸籍上は美里の苗字は高代のままであり、一方で朝の苗字は田汲となっている。

どうしてこうなってしまったのか。父親は美里に対する愛はない。愛がないのにどうして関係を持ってしまったのか。愛がないのにどうして生んでしまったのか。でき婚というのもあるから、それを期待していたけど、男性に結婚を拒否されるなんてことがあるのか。よっぽど美里が嫌いなのか。このあたりはサッパリ分からない。ただ、普通でないことに美里自身が耐え切れない日々を送っていた。

だから、唯一、朝を愛する存在として3年日記に「朝、お母さんはあなたの事が大好きです」と記した。大人になったときに備えて、いずれ判明するであろう事実婚でゴメンという謝罪の気持ちからか。自分の分も幸せになって欲しいという祈りなのか。朝を一番愛していたのは私であるという押し売りなのか。いずれにせよ、ハッピーなだけの母親が何かを書き残すような必然性はないだろう。

結局、3年日記にはどこまで書かれていたのかは分からないし、朝が事実婚のことを知ったのかも分からない。そのことが、本作における朝の物語にあってもなくても良い事実であった。つまり、本作の軸となる朝の物語に、すべての人のドラマが直結するわけではなく、さまざまなドラマがときに交差し、ときに交わらずに群像劇が紡がれてゆく。言い換えるなら他人の人生にはドライである。本作は、そうしたディレクションで作られている。だからこそ、多層的かつリアリティを感じるのだと思う。

笠町信吾(かさまちしんご)

笠町はいい男である。本来、書くべきことはたくさんあるのだろうが、1点だけ。

父親が押し付けた「男社会の洗礼」を降りたときに、自由になれた気がする話。ジェンダー的に「男は嫌だね」と言う女性的な視点に基づいた作品と思うのは早計である。女性の偏見というのは、どちらかというと実里が担当していた。笠町が社会規範から外れて自由になれたのは、槙生のおかげもある。つまり、ジェンダーとは無関係に個人の自由を尊重する話になり、自分が何を大切に思うか、という話に帰結する。

笠町もまた、朝のドラマに直結しないが、テーマとしてはゆるく関連している。繰り返しになるが、これが本作の心地よき群像劇のディレクションだと私は思っている。

雑感的なもの

風味重視のスパイスカレー

何人かのキャラクターの物語・ドラマについて書いてきたが、ここまで書いてきて思うことがある。

通常のエンタメ作品の場合、主人公の主軸となる物語があって、そこに必要なサブキャラのエピソードを物語のために乗っけて来る。サブキャラの分までドラマを差し込むと、主軸となる物語がぼやけてしまうので、必要最小限にしてゆくことが多い。しかし、本作は違う。サブキャラのドラマは主軸となる物語の近くをかすめてゆくが、物語に直接インパクトは与えない。

私はいつも物語やテーマを要約しながら感想・考察ブログを練って書くことが多い。本作はキャラ毎にそこを拾っていたら情報過多で書き切れないし、ネタは必ずしも収斂してゆかないので、途中で広範囲に拾ってゆくのは諦めた。それくらい魅力的なエピソードが多い。だからこそ、群像劇として輝いている。

しかも本作は、これだけの情報量を割と淡泊に流してゆく。そして、演出的な圧は弱い。だからクールに見えるし、何度見てもくどくない。

ここで、本作とスタッフの重なりも多い「夏目友人帳」と比較しておきたい。もともと私は「夏目友人帳」が好きである。冬枯れした雰囲気の大人の文芸性、敢えて動かさず崩壊しない作画、ドライにいい話を描く作風が滋味深い。ただ、本作はより情報量の多い現代劇であり、作画も良い意味でメリハリがあり、エッセイのような軽快感がある。

インドのスパイスカレーは風味重視で旨味(=コク)は少ない。スパイスの香りの心地よさと何杯でも食べられるさっぱりさが特徴である。だから、インドのスパイスカレーは翌日旨くなる(味が馴染む)ということはないらしい。「夏目友人帳」が精進料理とするなら、本作は風味重視のインドのスパイスカレーだと思う。

SNSでまちまちの反応

ちなみに、SNSを観測した感じでは概ね好評。おもしろいのは感想がまちまちで視聴者の感じ方もさまざまに感じた。中には言語化できない、と正直に書いているものもある。

繰り返しになるが、本作はサブキャラも含めて断面が多い。槙生の執筆モードの哲学的な台詞も、断面が多くそのときどきに切り口が違ったりする。だから、そういうイベント列挙や断面だけ切り取って共感しても、なんというか枝葉末節に囚われ、作品全体を見ていないような感想になりがちなのだと思う。そのおかげで、金太郎飴のように判を押したような感想にはならず、バラバラな感想に溢れる。もっとも感想なのだからそれでいいと言えばいい。

アニメ感想・考察を書く者として、この現象は非常に興味深かった。個人的には朝の物語が1クールの軸になると早い段階で理解したし、各話の刻み方や話運びは非常に精密に練られていた。しかし、そうしたところに触れる人は少ない。やはり全体像を語る人が少ないと思う。しかしながら、全体像を語っているだけでは、本作の魅力を語り尽くしたことにはならない。サブキャラの完結しない断面だけのドラマもまた本作の魅力なのだから。この複雑さこそが強みであり、深みであろう。

本作は、私がこれまで見て来たTVアニメとは一線を画す異次元の作風である。圧倒的に物語とドラマの情報量が多く、大人っぽくて複雑で味わいがある。それでいて、くどくなくサッパリ味で何杯でもいける。

決して、アニメーションとしてリッチではない点も評価したい。私は常々、アニメーションの楽しさやクオリティはビッグバジェットで殴り掛かるのではなく、限られた予算の中でも丁寧に作られた作品こそ評価されるべき、という考えを持っている。

本作は、2026年のエポックメイキングなアニメ作品として残るのだと思う。

おわりに

思いがけず、長文になりましたが、このブログ記事でも書き尽くしたという感触はまだありません。できれば、いろんな人の「違国日記」のレビューや批評を読みたい気持ちですが、そうした文章自体がどれくらい書かれるのだろうという気もちょっとしています。

いずれにせよ、本作はこれまでのアニメ作品と比べても異質で、とても好きな作品となりました。

パリに咲くエトワール(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

3回目の鑑賞を経て、またSNSの感想などを見たり書いたりしているうちに、ブログとして書き残しておきたい事が溜まってきたので、このタイミングで(その2)のブログを更新します。

ネタとしては少々ランダム気味でまとまりはなく、ブログ記事としては散漫なところはありますが、ご容赦を。

1回目の感想ブログは、下記になりますので合わせてお読みいただければと思います。

感想・考察

フジコと千鶴の関係性

フジコ→千鶴(千鶴の成功と裏腹に、凹んでゆくフジコのメンタル)

フジコと千鶴はかけがえのない大切な友人である。たが、いい友人関係だからこそ、相手に心配をかけたくなかったり遠慮したりする部分があったのだと思う。

ときおり差し込まれる月のカットは、フジコの画家としてのやる気のバロメーターだと思われる。物語序盤、千鶴と再会する前にフジコの部屋から夜空の月が見えるカットがあるのだが、この時点ですでに満月の90%くらいになっていた。多分、パリに来て割と早い段階で画家としての自信が揺らぎ始めていたのではないかと想像する。叔父の「絵だけじゃ食べてゆけないだろ」という台詞も、何も言い返せずにダメージを食らっていた。

フジコは千鶴がバレエをやりたがっている事を知り、千鶴の夢の実現を後押しする。フジコは夢を実現するために胸はずませてパリに来た。ただでさえ、世話好きのフジコのことだから他人の夢の実現を放っておけるはずもない。オルガにバレエを指導してもらう段取りをつけ、指導中もクロッキーとメモで資料を残し、できる限りの手助けをする。

千鶴のバレエは上達著しく、戦争の影響でオペラ座付属バレエ学校の追加募集を聞き、受験を意思表明した。オルガはここで「夢は残酷。受からなかったらキッパリ諦めて」と千鶴に言う。ここでフジコは、不合格でバレエを辞めなければいけないリスクがあるなら受験しなくてもいいんだよ、みたいな事を言う。つまり、好きな事を続けるために挑戦しない選択肢をフジコは無意識に選んでいる。しかし、千鶴は夢に妥協がなく真っすぐなので果敢に挑戦してゆく。この時点でフジコと千鶴のギャップは大きく、千鶴が眩し過ぎたに違いない。フジコにとってオルガの言葉は呪いである(後にルスランの助言で呪いは解かれる)。

受験の日、レストランの厨房に挨拶に来た千鶴だが、手が汚れていて千鶴に触れられなかったのは、千鶴が眩し過ぎて自分で境界線を引いてしまったということもあるのではないか。

かくして千鶴は付属バレエ学校に合格。路上で千鶴に抱き着くフジコだが、ルスランが千鶴に合格祝いにスズランの花を贈るときに「えっ」と軽く驚く。フランスではスズランは「愛の告白」のニュアンスを含むため、ルスランが千鶴に惚れていたとフジコは解釈したというシーンである。ただ、無意識にフジコ⇔千鶴を比較して、自己肯定感を低めていったのではないかと想像する。

矢島も涼しい顔をしながら、けっこうなダメージをフジコに与えてる。最初に来たときに帰国しないフジコに、「そのうちに」と言っている者は何も成し遂げないとか、矢島は千鶴の才能を褒めるがフジコは千鶴を応援するからとパリ滞在を許される。これも才能の有無をキッパリと突きつけた形である。

薙刀教室の収入だけでは生活できなくなりバレエも続けられなくなるから千鶴も働くと言っても、フジコは大丈夫と取り合わない。このときのカットは、階段の前を上がって行くフジコの後ろ姿で表情は見せない演出。

薙刀教室で発表会に参加しようという話をしたときも、失敗したときの事を気にして挑戦したがらず、マメ蔵とじゃれて唯一意思表示しない。あとでそのことをルスランに問いただされた時に「私できてなかった?」という台詞。気持ちの上では、輝いている千鶴に心配かけたくない。昔は自然に世話好きで応援ができていた。しかし、今は自己否定が強く失敗を恐れすぎて、無理やりでも明るく振舞い応援していたつもりが、そこに綻びが出てしまったということだろう。

ここで、ルスランがフジコのメンタルがどん底である事に気付き、その後の助言でフジコのメンタルは回復してゆく。

ここまで書けばわかると思うが、千鶴の才能を発揮すればするほど、フジコは勝手にメンタルが凹み自己否定してゆく構図になっていた。初回鑑賞時は、第一次世界大戦がはじまって画面のトーンも暗くなったので、フジコの不調に気付かない。しかし、2回目以降の鑑賞では、フジコのメンタルが凹んでいる断片を事細かく描かれているのが、手に取るようにわかる。観れば観るほどフジコの心の痛みが見えてくる。このトラップを仕掛けたクリエイターはそうとう意地悪だと思うと同時に、すごいと言わざるを得ない。

千鶴→フジコ(フジコへの感謝)

ここまではフジコ主観で書いてきたが、千鶴視点についても触れておきたい。

フジコはルスランが屋根裏部屋に来てフジコが絵を描いていない事を指摘しフジコが号泣したとき、寝ていた千鶴も騒ぎで目を覚ます。その後もどんどん片づけられてゆく画材に気付かないはずもない。

フジコに甘えていた部分がゼロだとは思わない。だが、フジコの絵の時間のためにも千鶴も働くと言ってもフジコは取り合わず、千鶴の負担を排除しようとする。もっとも、この時のフジコは絵から逃避の意味合いが強いのだが。

夜中にフジコに「絵を描いてもいいんだよ」とフジコに言葉をかけるが、フジコは無言。千鶴については、このシーンがあるからフジコに対する感謝と謝罪になっていて、薄情な人間ではない事がわかる。だが、フジコの心の壁は分厚い壁に閉ざされ腹を割ることはない。実際に才能ある成功者が挫折した人に無邪気に頑張ろうと励ましても嫌味にしかならない。この互いに遠慮しながら、本音までリーチしないようにお茶を濁す感覚はよくわかる。この切なさがドラマとして効いてくる。

ルスランの助言後、フジコのメンタルがどん底から回復しはじめるタイミングで挿入歌の「étoile」が流れる。薙刀の練習やバレエの練習に励むシーンの後に、フジコと千鶴の楽しい晩餐のシーンが挟まる。脚が折れた椅子は修理され、最初にアパルトマンに千鶴が来た日を連想させる楽しい食事風景である。ここで、二人の関係は元の関係に戻ってゆくような演出に感じた。

フジコのおかげで楽しいから、ルスランも同じ気持ちじゃないかなという言葉に千鶴の、フジコへの気持ちのすべてがあると思う。専門外だから絵の事をとやかくは言えない。だけどかけがえのない親友という気持ちは間違いはない。

ラストは「フジコがまた絵を描いてくれて嬉しい」との台詞が染みる。自分も大変だったが、手助けしたくてもできないもどかしさを感じさせるドラマだったと思う。

枠を軽やかに飛び越えてゆく千鶴の可能性

千鶴が象徴していたのは、国籍、民族の枠を飛び越えて、古きもの、新しきものを融合してゆく未来の希望だったのかもしれない。

千鶴は園井道場の跡取り娘として薙刀をキッチリ叩き込まれる。薙刀は武道だから精神鍛錬的な要素が強いが、もともと敵に勝つための武術である。

その後、オルガの元でロシアバレエを習うが、薙刀とバレエが反対の動きをするのでそこでまず苦労する。異文化の芸術・芸能に触れてゆくから、たぶん土台が違う。違うけど、オルガは千鶴がベースに持つ「凛とした佇まい」を千鶴の最大限の武器として認めている。

その次の段階として、バレエの舞台に立つ夢の実現のために、パリオペラ座付属バレエ学校に入学する。ここでは、リズムの取り方が違うという問題を指摘され、フジコやルスランの協力を得ながら問題点の理解と克服に挑む。また、ラストでは周囲というか全体との調和が重要である事に気付きを得る。思えば、薙刀も個人どうしの対戦であり、オルガ指導のバレエもソロプレイであった。武術の薙刀、大胆さのロシアバレエと考えるなら、緻密さのフランスバレエと比較して個人が目立ち過ぎるのはダメなのは理解できる。

もともと、ロシアバレエはフランスバレエと同じ源流から途中で分岐したものである。宮廷バレエを伝統に基づき伝承してきたフランスバレエを保守と言うなら、ダイナミックで美しく見せる演技を取り込んで来たロシアバレエは革新である。当時、ロシアバレエの勢いは強く、フランスバレエは押され気味。墓守の老人も序盤で語っていたが、フランスバレエは公演回数が減少し衰退を匂わせる台詞があった。かつては、パリで革新的なロシアバレエの花を咲かせようとしたオルガと、フランスバレエを守りたいアンヌの間で何らかの衝突や因縁があったのだろう。そして今は第一次世界大戦の影響で、人材も減少しいつ公演が凍結されるかもわからない危機的状況に迫られている。そうした背景もあり、かつては対立したオルガとアンヌの間を、過去の因縁を持たない千鶴は軽々と飛び越えてゆく。

オペラ座公演の朝、母親が縁談を持って千鶴を無理やり連れ帰ろうとする。ここは若林が「無茶」と言う通り、無茶展開ではあるのだが、ここは千鶴の決意のドラマになっていた。このシーンの意味としては、母親は千鶴にバレエを捨てて薙刀を選ばせようとする。薙刀が本分でありバレエは遊びだと。しかし、千鶴は拒絶する。二足のわらじでバレエも薙刀も手放さない。だから、無茶だと思いながらも二刀流で戦い、両手が塞がっていたことから咄嗟にバレエのハイキックが出て母親を一瞬驚かせた。

要するに、千鶴の両立の覚悟を見せるドラマである。思えば、マチルダにはフランスバレエのためにならないから薙刀は邪魔という忠告があった。棒術のカウフマンからもバレエのせいで薙刀が弱くなったと指摘された。しかし、千鶴は片方が足を引っ張るから切り捨てたり憎んだりするような事はしない。すべてを受け入れる。だからこそ、薙刀⇔ロシアバレエ⇔フランスバレエの境界を飛び越えつつも、そのすべてを肯定する。

ここからは拡大解釈かもしれないが、最終的にパリのオペラ座公演では、まず箱であるガルニエ宮の建築そのものが荘厳な雰囲気をまとい、舞台装置とそれを作ったり操作したりするスタッフがいて、舞台を演出するスタッフの指導のもとバレリーナがバレエを踊り、生のオーケストラが音楽を添える。現代の映画のような総合芸術であろうが、奏者も演者もすべて生だからタイミングを合わせは至難の業であろう。千鶴は言ってみれば、その歯車の1つとして機能して、宇宙的な壮大な芸術作品を完成させる。

現実世界ではさまざまな壁が乱立している。国境、民族、ジェンダー。本作では触れられなかったが宗教なんてものもある。千鶴が偏見をものともせずに最終的に調和していった世界は、ある種の祈りにも似た、未来への希望を感じさせるものがあった。

ついでに、マチルダについてもここで触れておこうと思う。マチルダもアンヌ先生同様にフランスバレエの伝統を守る事に必死である。おそらく、フランスバレエ一筋なのであろう。マチルダが取り巻きと一緒に千鶴の薙刀発表会を見て、すぐに怪訝な顔をして帰るシーンがある。このシーンの解釈は難しいが、本質的なところでは、千鶴を笑顔にするコミュニティの存在を知りヤキモチを妬いたのではないかと思う。

千鶴は生徒たちを相手にカッコよく薙刀無双していた。このときの千鶴は墓守の老人の対戦が終わりフジコとの対戦をしていた。千鶴が終始笑顔だったのが印象的である。劇中のマチルダはいつも澄ましており笑顔を見せない。マチルダ本人に笑顔の余裕さえなかったのかもしれない。しかし、今までバレエでは見たことがなかった千鶴の笑顔と、それを楽しめる薙刀とコミュニティの存在を知り、羨ましさを感じたのではないか。もちろん、マチルダは千鶴の無双=バレエの調和を乱すという事も一瞬で見抜いただろう。しかし、千鶴に不可欠なコミュニティを何の権利で否定できるのか。その辺りの迷いも含んだ難しい表情だったように思う。後に自分のどこがダメかを聞きまわる千鶴に、悪目立ちし過ぎ、薙刀が邪魔してる、と助言できたのもこの日見たことからの分析であろう。バレエに関してはとことんまでストイックな性格である。

これは妄想気味の考察ゆえ異論は認める。いずれにせよ、このような短いシーンでキャラを積み上げてゆく上品で精密な作風は、本作の醍醐味だと思う。

ED曲中のフジコの6作品について

ED曲中に映し出されるフジコが描いたと思われる絵画6作品についての考察であるが、情報不足で全然考察しきれなかった。

作品のタイトルを下記に示す。

No. タイトル メモ
1 花に愁ひつつも笑みし日々 帰国直前のアパルトマン中庭の大団円
2 されども思ふままに生き来たりしなり
3 アミアン
4 Vous êtes partout 「あなたはどこにでも居る」
5
6 巴里に咲くエトワール オペラ座で踊る千鶴

これらの絵画はED曲中の登場順である。作品の時系列もランダムになっているような気がする。1番目と6番目の作品は、映画の繋ぎとオチになっているので、そこだけ順番は必然である。

絵画自体は、下記のリンク先のグッズの画像で識別できる。並びも上記リスト順番と一致しているので、合わせて参照いただきたい。

1. 花に愁ひつつも笑みし日々

場面としては、帰国前のアパルトマン中庭の大団円を描いているのは劇中で示されている。

タイトルの「花」は実力派の画家たちを意味するのが普通であろうが、私はここに千鶴も含まれていたのではないかと感じた。

フジコはメンタルが凹んでいた時は、無理やり明るく振舞っていたのではないかと解釈しているので、「笑みし日々」も楽しさだけでなく辛さも重なるように感じる事もできる。

絵画のタイトルは詩と同様に意味を多重に乗せる事ができるところもあり、その意味でも深みのあるタイトルに思う。

2. されども思ふままに生き来たりしなり

この絵と5番目の絵は、何を描いたモノかさっぱり分からない。

剣(サーベル)を持った男たちが丘の様なところに立ち、朝日か夕日を浴びて空が光っている。第一次世界大戦では武器は小銃だったので、それ以前の戦争を描いモノかもしれない。後述の「アミアン」も戦地に赴いて直接描いた絵ではなさそうなので、何かフランスでの有名な出来事を絵画にしたのかもしれないが、この辺りはまったく想像がつかなかった。

タイトルも「それでも、私は自分の好きなように生きて来たのだ」というニュアンスで、タイトルからの深掘りもできず。

ただ、画面的には明るさもあり、なんらかのポジティブな絵画ではないかと感じさせる。しかし、そこに何の意味があるかは分からない。

3. アミアン

アミアンは、第一次世界大戦の末期、1918年にドイツ軍の猛進撃を受けた戦地である。フジコのモデルと思われる藤田嗣治も「アッツ島の玉砕」という戦場絵画を制作しており、その繋がりを連想させる。

しかし、本作を良く見ると、第一次世界大戦の特徴である塹壕戦を描きつつ、マークI戦車や火炎放射器などの兵器が描かれているのは良いのだが、左上にパリ砲と呼ばれる長距離砲が描かれている。

当初はフジコがフランスにトンボ返りして現地で戦場を見て描いたのかと想像していたが、色々見てゆくとそうではない事が分かって来た。

パリ砲の射程距離は130kmであり、前線の後方30kmの位置に配置されたた。つまり、塹壕戦の最前線からパリ砲が見えるはずはない。また、戦後ドイツ軍はパリ砲を解体していたため、連合国軍はパリ砲を拝むことはできなかったらしい。つまり、この絵画は第一次世界大戦の戦場をリアルに描いた作品ではなく、資料をもとに第一次世界大戦を象徴する要素を散りばめて描かれた回顧録的な絵画なのではないかと思われる。

もっと言えば、映画的に第一次世界大戦という辛い戦争があった、という史実をフジコの絵画作品という体裁で観客に共有するために差し込まれたのではないかと思う。

4. Vous êtes partout(「あなたはどこにでも居る」)

暗い世界を走る人たちとスカーフを付けたマメ蔵らしき犬、と言った印象である。

私はなんとなく、この絵画の雰囲気が、大正12年(西暦1923)の関東大震災で逃げ惑う人たちのような気がしてならない。フジコの実家は神田大明神の近くである。

柴犬の寿命としては15年程度なので、マメ蔵だとしたら老犬、もしかしたらマメ蔵の子供かもしれない。

第一次世界大戦とくれば、関東大震災がモチーフの絵画があってもおかしくないだろう。直感的に他の絵画のタイトルが日本語で、本作がフランス語という事を考慮すると、他はフランスを舞台にした絵画、これだけ日本を舞台にした絵画、という解釈だが間違っているかもしれない。

タイトルの意味も謎である。関東大震災でも無数の人命が簡単に失われた。あなたはどこにでも居るは、タイトルとしては逆に感じる。亡くなったあの人はどこにも居ない、と考えるのが普通であろう。

5. 紹

始めは、何か強力な爆発を感じたのだが、タイトル「紹」のニュアンスとしては「繋がり」を意味するらしいので、爆発ではないのかもしれない。

映画のラストでは、調和によりパリオペラ座の宇宙的なスケール感を感じられるという考察をしてみたが、本作もそうしたニュアンスを持つのかもしれない。

色はバラバラで、非常に抽象的なモチーフである。それらが中心の何かと繋がってゆく感覚とでも言えばいいのか。

ただ、個人的には、国籍や民族や宗教の多様性ある違いを、中央集中的に従属させる事は危惧を感じる。バラバラの多様性がカオスの様になっている方が、状態としては健全なのではないだろうか。

それに、この絵画はフジコが生きたであろう人生の中で、どんな事件と結びつくのかも分からない……。

6. 巴里に咲くエトワール

オペラ座での千鶴を描いた絵画である事は、劇中で示されている。フジコのインスピレーションの復活を祝う絵画とも言える。

画面が概ね暗いのは、メンタルどん底から這い上がって来たときに描いた絵であることも影響しているのではないかと思う。

もともとフジコは色鮮やかで軽快な絵を描きたいと思ってパリに来た。しかし、画家としての挫折を味わったからこその渋みある絵画に仕上がったのではないかと思う。

フジコ6作品総括

考察は書いてみたが、特に2番目と5番目については、何を描いているか見当もつかなかった。考察としてはボケボケであろう。

ただ、リアルにフジコが画家として描いた意味を問うものでは無く、フジコの生きた時代のイベントをザックリ観客に伝えるための絵であり、リアルなフジコ視点の画家としての主張などは深く考える必要はない気がしてる。それは3番目の「アミアン」がリアルを伴う絵画ではない事からそう判断できる。

ただ、5番目の「紹」は絵画自体が明るく希望を感じさせる絵なので、フジコの生きた時代も暗い事ばかりじゃなくポジティブな事もあったのだと言いたいのだと思う。それが、何かは結局わからずじまいであったが……。

夢(=エトワール)の救済と私のウクレレ

最後になるが、本作は千鶴やルスランやフジコたち天才が夢を追う物語に見えてしまうかもしれないが、実は一般人の私たちの夢も応援していると感じた部分があったので、そこについて触れておきたい。

まず、夢=エトワールの話をする前に、少し自分語りをしておきたい。

私はすでにいい年のオッサンではあるが、3年くらい前のある日、突然ウクレレで弾き語りをやりたくなって、YouTube動画を見ながら独学でウクレレで始めた。なお、私は音楽のズブの素人である。

きっかけは、当時よく視聴していたVtuberのカラオケ歌枠配信であった。最新の曲、少し前のボカロ曲、懐メロなどを大量に浴びていたら、歌が恋しくなって自分でも歌いたくなってきた。ちょうど家に妻が買った使われていないソプラノウクレレがあり、せっかくなのでそれを使って弾き語りができるのではないかと閃いた。幸いYouTubeには初心者向けウクレレ教材動画もあり、それらを見漁った。たった4つのコードで「踊るポンポコリン」を弾こう!みたいな動画をみながら、見よう見まねで演奏してみて、嬉しくて楽しくてハイ状態になった。この原体験がこれまでウクレレを続けて来た原動力になっている。

やっていれば少しづつでも知識も増え上達もするが、人前で弾き語りするほど歌も演奏も上手くなりたいとは思っていない。好きな歌を歌える程度のことができれば十分。テクニックがあればできる事も増えて楽しみも増すが、趣味として嗜む程度である。良く見ているYouTubeチャンネルの人は、下手でも楽しければいい、他人との比較はダメ、出来ない事は伸びしろ=楽しみ、というポジティブ思考なのだが、少しルスランの台詞を連想させる。

だいぶ横道にそれたが、つまり私にとってのウクレレはフジコの見たインスピレーションの妖精と同じである。妖精は子供でも大人でも見えるし、夢は誰でも持てるのだと思う。

劇中では、ルスランがオリジナル曲をフジコにプレゼントして助言するシーンの次に、挿入歌「étoile」が流れるシーンがある。フジコがどん底から回復し始めるシーンであり、私はこのシーンがすごく好きなのだが、YouTubeに動画が公開されているので下記に引用させていただく。

この挿入歌のシーンでは、薙刀の発表会に向けて各自トレーニングする姿が映し出される。発表会もまた薙刀教室の人たちにとっての目標(夢)と言える。その目標に向かって努力する。フジコもその目標をクリアしてゆき小さな成功体験を積むというプロセスになっていた。

墓守の老人モランは「失敗しても目標に向かって努力し、挑戦した事は経験になります」と言う。エンゾはトマに「どっかで踏ん張んなきゃ逃げ続けだ。わかるか、若者よ」と言う。これは、直接フジコに言う台詞ではないが、映画的にはフジコに対する応援になっている。そして、この励ましは観客への応援にもなっている。

終盤は映画的にフジコの画家としての再生を描いてゆくのだが、本作は安全圏内から無責任にフジコを応援するのではなく、フジコと一緒に頑張る姿を挿入することで、周囲がフジコを励ます構図になっている。もちろん、トマや他の生徒たちも互いに励まし励まされる関係にある。このコミュニティの有難さを描く事に意味がある。そして、気持ちとしては、観客もこの応援の輪に入っているのである。だからこそ、フジコのラストの成功を一緒に喜ぶことができるのだと思っている。

そして、ルスランがフジコにした助言。千鶴と競争するためにパリに来たの? 自分だけの絵を描けばいい、それもダメなら他のことでもいい。これらの言葉は、趣味程度の夢であっても救われるし、なんなら今の趣味が合っていなくても、他の趣味で夢を見つけて夢だけは持った方が良い、という意味に取れる。だからこそ、才能を持ったプロの夢だけでなく、趣味の夢を持つ我々も救われるメッセージになっていたと思う。

ひるがえって、私が良く見ているYouTubeチャンネルのウクレレの先生が言っていることと、ルスランの助言が強く重なって見えた。その生き方自体が、私のマインドを救ってくれていると思う。だからこそ、本作を見た後に、頑張ろうと思えるのだと思う。

おわりに

本作、1度目の鑑賞では、後半の不穏さは戦争のせいかと思わせて、実はフジコのメンタルが凹みまくっていたという驚かせの演出になっていたので、2回目の鑑賞では、かなりその細かな伏線となる演出も拾えて、本作の緻密さを再認識することになりました。

SNSもよく観測していましたが、初週の興行収入の低さから危機感をもっていた事もあり、パリの棒術使いなどのフックや、口コミで持ち直した感があり、少しホッとしたりもしましたが、やはり、最寄りの映画館でも上映回数は激減しており、観に行くなら今のうち、という状況には変わり有りません。

考察記事を書きながら、やはり本作は吉田玲子脚本作品である事を強く再認識しました。その系統が好きな人には非常におススメな作品となります。後、1回くらいは観たいな、と思ってます。

パリに咲くエトワール

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

私は吉田玲子脚本が大好きなので、期待して完成披露試写会に応募して鑑賞し、公開後は自腹で鑑賞しましたが、なかなかの良作でした。

ジブリ風味の朝ドラヒロイン的なアニメーションではありますが、地に足がついた脚本、演出、映像で「夢を追う」少女たちのドラマを味わえました。極悪人もいないし、最後は大団円で安心して観れる作品です。

今回ブログを書くために、いくつかの要素をネットで調べたりしたのですが、調べれば調べるほど、細部まで真摯に作り込まれた、誠実なエンタメ作品であると感じました。

では、早速いつもの感想・考察になります。

感想・考察

概要

制作はアルボアニメーション。監督谷口悟朗、脚本吉田玲子。キャラクター原案は「魔女の宅急便」の近藤勝也、キャラクターデザインは山下祐。配給は松竹である。

舞台は1912年のパリ。画家になる夢を抱き、叔父を頼りにパリに渡航し一人暮らしを始めるフジコ。そこで薙刀の名手である千鶴と偶然再会する。千鶴が憧れるバレリーナになる夢を実現するために、背中を押し応援するフジコ。女性だから、東洋人だからというハンデの中でも夢を諦めず互いに支え合って前進してゆく二人の女の子の物語である。

ちなみに、谷口悟朗監督でアクション作画監督やメカデザインのスタッフがいたため、当初は隠しロボアニメでは?と騒がれたが、そんなことはなく骨太な世界名作劇場的な作品である。

アニメーション

試写会で谷口悟朗監督が話していた、本作の企画方針のお話が印象的だった。

「普通の事を普通にやって、真っ当に作ったモノしか伝わらない何かがあるハズだ。(今回は)それをちょっと信じようと」

鑑賞後、私はこれを「全方位に手抜きせずに作った」という意味だと解釈した。斜に構えず、PVのイメージそのままの王道のドラマ、物語である。

音は当時から存在する音で作ったということで重厚感のある音響が印象に残る。演奏に使うピアノも当時から存在するモデルを使ったり、木製の扉を開いたり木の床を歩いて軋む音など、本当に重厚感を感じさせる。また、絵画がテーマなだけあって背景美術も非常に重厚感のある迫力を感じさせるもの。よくある水彩的な淡い背景とは明確に異なり、どっしりとした塗りを感じさせる背景である。

キャラクターの芝居も良く動く。とくにバレエと薙刀のアクションはそれぞれにアクション作画監督が存在し、それぞれ動きに氣が込められているというか、自然で滑らかな動きを堪能できる。

オペラ座の電灯、街角のガス灯、部屋のランプ。そうしたアナログめいた時代の質感に溢れた映像になっており、時代考証にも抜かりがない。1912年は大正元年。その古めかしさに温かみを感じさせる映像になっていたと思う。

キャラクターは快活で明るかったり稽古の厳しいシーンもあるが、舞台や出て来るモノが非常に落ち着きを感じさせる。その意味で、悪目立ちしている要素がない。この辺りのバランスもかなり気を遣ったところではないかと思う。デジタルデトックスではないが、個人的には心地よささえ感じさせてくれた。

ちなみに、本作でのファンタジー要素は、幼少期からフジコに見えていた妖精のみ。非現実的なアクションと言うなら、終盤で叔父の運転するクルマのコメディ寄りのアクションくらいしかない。基本的にチートの爽快感はなく、アニメ映画として非常に実直な絵作りと作劇である。

テーマ

園井千鶴の夢の実現(=バレエ)

千鶴のバレエの夢の実現は、本作の物語の軸になるものであり、丁寧に描かれた。

幼少期に見たバレエへの強烈な憧憬がありながら、道場の跡取りを決められていたため、バレエをする発想は1ミリもない。パリで偶然再会したフジコは、夢=実現するモノというスタンスなので、千鶴のバレエの夢も当然のように応援し背中を押す。そして、フジコの導きによりバレエをはじめる決心をする。社会の常識よりも素直な自分の気持ちに従う。こうした自由が無かった時代ゆえ、両親にも言えず内緒でバレエをはじめた。

途中、両親が日本に引き上げる際に、単身パリに残りバレエを続ける決心を見せ、両親からも無理やり承諾を得る。後日、縁談を持って帰国を迫る母親との対立など、母親=伝統と格式という保守要素と戦い続けた。また、バレエ団では東洋人は異質。その偏見とも戦う。いろいろと障壁が多い夢である。

バレエの先生にしごかれる千鶴。オルガやオペラ座付属学校の先生が厳しく指導しているシーンが目立つが、教え子への愛情も透けて見える演出。悪役令嬢ポジションのマチルダさえも千鶴に敬意を払う。厳しくても悪役はいない作風ではあるが、やはり芸事の道の現場の険しさはキッチリと描く。

バレエを習い始めた千鶴は「二兎を追う者は一兎をも得ず」となりそうな不安も描かれた。薙刀や流派の違うバレエのクセが双方の足を引っ張り合うがゆえの難しさである。千鶴は最後までこれに悩まされていた。さらに夢の実現、仕事、生活(お金)などのバランスでも悩まされている姿も描いた。人生は好きな事だけやっていればいい、というわけにはいかない。このような複雑さとバランス感覚は、本作の誠実さだと思う。

それから、忘れてはならないのがフジコの応援とヘルプ。行き詰ったらすぐ相談に乗って打開策や解決案を模索する。へこたれている時間が短い。これを、アパルトマンの住人たちも含めてコミュニティ内に広げてゆくところが良いと思った。終盤は、千鶴自身が周囲に相談を持ち掛けるようになっていた。夢の実現と言うのは一人孤独に行ってもできるのかもしれないが、やはり否定や無視にさらされたメンタルでは耐え切れない。同じ道を行くライバルではなく、気にかけてくれる仲間が居る事が心強さに繋がる。

そして、最終的には帰国直前に、念願のオペラ座でのバレエ公演の舞台に立ち、夢を実現する。両親からも認められ肯定される大団円である。

作劇的には、師匠の指導やライバルたちとの切磋琢磨、そして仲間の応援とメンタルケア、この両面があって夢が実現できたという構造になっていたと思う。

ここでオルガについても触れておきたい。オルガはパリの地でオペラ座という夢に手を伸ばしたが、残念ながら届かなかった過去を持つ。そのオルガが千鶴をバレリーナとして育てる。自分ができるロシアバレエを仕込み、そこからフランスバレエに挑戦する道筋を立てた。単純に千鶴の素質に惚れたからか、過去の自分と重ねて夢を託したかったからなのかは分からない。ただ、バレエ学校の募集で不合格で夢に手が届かなかったときはキッパリ諦めさせるまでの責任だと考えていた。チャンスは何度も来ないし、ここまで夢見させた責任もオルガは背負っていたのだろう。結果、千鶴は見事バレエ学校に合格し、オルガは千鶴を送り出す。

ちなみに、その学校の先生アンヌとオルガの間には、過去の因縁を匂わせる演出もあった。千鶴がバレエ学校で壁にぶつかってオルガに助けを求めても、流派が違うからと冷たく突き放すオルガ。そもそも、正確さのフランスバレエと美しさのロシアバレエでは根本的なメソッドの違いがあり、ロシアバレエの正解はフランスバレエの正解ではない。オルガはフランスバレエを知ってはいても精通しているわけではない。しかし、冷たく突き放す中にも千鶴にヒントとなる言葉を与えて遠巻きに見守るなどの描写を挟んできてグッとくる。オルガの指導は常に厳しさを伴っていたが、こうしたところにも誠実で、千鶴に対して愛情を感じさせてくれるものがあったと思う。

継田フジコの夢の実現(=画家)

フジコの夢は画家になる事だが、千鶴との対比で一度挫折を経験する作劇となっていた。

千鶴のバレエは選抜でオペラ座の舞台に立つという競争があり成功を表現しやすいが、基本的に絵画は競争ではないこと、作品の質の向上(=画家としての成長)を具体的に表現しにくいという面もあったのだろう。この辺りの理由から、本作では思いきってフジコが絵画で成長する過程は省かれ、終盤でフジコの挫折が判明する作劇になっていたのだと想像する。

幼少期から絵を描くのが好きで筆は速い。目の前の対象への憧れが、妖精のような形で現れて空を自由に舞う。本作における唯一のファンタジー要素であり、夢見がちなフジコのメンタルを象徴する存在であったと思う。これがフジコの原動力になっていた。

フジコの両親は女性は嫁いで家庭に入るものという古風な考えで、画家など夢物語にしか思っていない。この状況で叔父を頼りに家を飛び出して単身パリで一人暮らしを始めるフジコ。行動力がありフットワークが軽い。

フジコは基本的に憧れたモノが妖精になって見えるので、千鶴のバレエもルスランのピアノもそう見えた。だから、キラキラした憧れに共感し、その背中を押して全力で応援する。困っていたら相談にのり助け舟を出す。一人で解決しないときは周囲の協力を乞う。そのポジティブさが特徴である。

前半、フジコが暮らすアパルトマンの部屋が可愛い。いかにも女子が住みたい!と憧れる感じが出ている。アパルトマンの住人たちとも自然に溶け込んでゆく。この辺りは順風満帆で朝ドラのヒロイン的な明るさである。

しかし、第一次世界大戦の勃発とともに状況は少しずつ変化。叔父が事業に失敗し夜逃げ。アパルトマンは家賃が払えずモンマルトルの屋根裏のボロ部屋に引っ越し。レストランの厨房で皿洗いなどのバイト。急に生活は苦しくなる。千鶴がパリに単身残る決意をしたときには、千鶴も同じアパートで同居を始める。もちろん千鶴の応援や手助けは欠かさない。二人の生活が行き詰まると、薙刀教室を始め生徒を集める。こっちの運用面でもいろいろとアイディアを出し、手を尽くす。こうしたところは叔父に似ていて、行動力あるバイタリティの持ち主として描かれた。辛くても暗い顔をしない。太陽の様な女の子である。

だが、モンマルトルに引っ越して以来、絵が描けなくなっていた。モンマルトルと言えば、エコール・ド・パリと呼ばれる新時代の画家たちが集まっていた場所である。彼らとの交流こそ描かれなかったが、フジコはそこで、新時代の画家たちの才能にうちのめされ、絵が描けなくなっていた。その事に気付いたのは、たまたま部屋に来たルスランだった。

絵が描けなくなっていたフジコだったが、日本に帰国する直前、オペラ座で観た千鶴のバレエの舞台にインスピレーションを得て、フジコならではの筆の力強いタッチで絵を描いた。その絵には、浮世絵の雲母摺(きらずり)という表現技法を活用する独創性もあった。これが好評を博し、名実ともに画家となった。

フジコが味わった挫折感。ロジカルな新世代の画法が次々と登場し、従来の作風では置いてけぼりになる。膨らむ劣等感。感受性だけでは追いつけない、遠い領域に思えてくる。今思えば、薙刀教室などに便宜を図っていたのも、厳しい現実から目を背けるためだったのかもしれない。この時のフジコは、悩みを一人で抱えていて誰にも相談していない。これは順調に夢の実現に近づく千鶴を見ていたからこそ、余計に言えなかった側面もあるのだろう。他人の相談にのれても、他人に相談できなかった。この事が本作の肝な気がしてならない。

本作では、第一次世界大戦の戦前と戦中で二人を取り巻く状況が大きく変化するが、これは叔父や両親の庇護のもと好きな事に没頭していった前半を学生時代、仕送りもなく自活しなければならなかった後半を社会人時代に例える事もできるだろう。現代の若者でも夢はあるが、資金や時間を捻出できず業務多忙で疲労困憊、先に夢にリーチしてゆく仲間たちを横目に、何もできていない自分を責めたり諦めたり、というのは普通にあるだろう。その意味でフジコの悩みは普遍的なテーマでもあり、共感できるものである。

解決のための糸口はルスランとの対話だったと思う。スランプ中のルスランを救ってくれたのがフジコだったと感謝の言葉があった。周囲の天才たちとの比較で落ち込むのではなく、自分だけの音楽を作ればいいのだと気づかせてくれたのがフジコだと。このことがルスランからフジコへの恩返しとなる。そして、エモさが炸裂した千鶴のバレエで筆を持つ気力を持てた。結果的にこれが千鶴からフジコへの恩返しとなった。

後半に妖精が登場しないのはフジコの絵画への絶望を意味していたが、オペラ座のバレエ鑑賞のときにやっとインスピレーションの妖精が復活する。パリに来たばかりのフジコは色鮮やかで軽やかな絵を描きたいと言っていたが、フジコが描いた絵画のタッチはモノクロで力強い印象を受けた。これはフジコの精神的な成長があり、浮ついた気持ちではなく、地に足が着いた本物の画家になったのだと解釈した。

最終的には救われるフジコの夢ではあったが、挫折を描いたからこそ、安易に到達しない夢の尊さが感じられた作劇になっていたと思う。また、フジコが救った他者の夢の実現が、フジコの夢の実現に帰結し循環しているところが良いなと思った。

孤立させないミニマルなコミュニティと応援

千鶴の両親も帰国し、パリでフジコと千鶴が二人で暮らし始めたときに、生活費を稼ぐために薙刀教室を始める。第一次世界大戦は当初これほど長引くとは思われていなかったが、戦争は終わる気配を見せず、前線の戦死者数は増え続ける。パリの市民も戦場になるかもしれない不安に見舞われる。要するに、女性や老人や子供や外国人などがパリの街に残された人々であり、そのコミュニティがそのまま薙刀教室という事になるだろう。というか、もともと千鶴やフジコを助けるために知り合いが生徒になってくれたという経緯というか、困ったときはお互い様である。

薙刀教室は本格的な武道教室というより習い事レベルであったが、これだけ多様な人間の集団が互いを否定せずに、互いを助け合う関係が描かれていた。

皆の練習がダレて来たときに、薙刀で発表会に出場するという目標を設定し、練習に励もうという話が出る。墓守の老人の提案だが、過去の銀行マン時代に全力で取り組んで生きてきた経験から、薙刀教室のみんなにもその達成感を味わってもらいたい、との提案である。これは、そのまま千鶴の生き方に重なる。作劇的には、フジコが失敗を気にしてノッて来ない事、その事をルスランが気付く、という流れだった。その後、ルスランがフジコに助言する流れは、前述の通りである。

発表会では、意気地なしで逃げ腰の男の子が、背中を押してくれた男性がいたから、薙刀発表会の舞台を逃げずに挑戦できた。ルスランの助言もあり、フジ子もこの時にはだいぶ前向きになっていた。薙刀の対戦自体、対戦相手との交流である。千鶴は発表会の舞台でも、対戦相手一人一人と対話するように、薙刀を振るう。薙刀教室は、こうした孤立させないコミュニティとして描かれていたと思う。

リアルに考えると、当時のパリでこのように偏見なく多種多様な人間が分け隔てなく認め合ってコミュニティを形成する事は難しかったのかもしれないとも想像する。今の方がはるかにダイバーシティの認識は進んでいる。これは絵空事、綺麗ごとかもしれない。しかしながら、だからこそ現代の映画(物語)として、この孤立させないミニマルなコミュニティと助け合いの精神はテーゼとして輝くのかもしれない。

ちなみに、私はこの中のキャラクターでは墓守の老人が好きである。私自身も徐々に老人に近づいてきたというのもあるが、高齢でも好きな事に挑戦できるところに共感を感じるし、誰にも偏見を持たずに接する。私もこんな素直な老人になりたいものである。

その他雑感

フジコの応援は「推し活」だったのか?

フジコが他人を応援したのは「推し活」だったのか?というのは、少し思う所があり記しておきたい。結論から言えば、フジコの応援は「推し活」ではなかったと考えている。

「推し活」の定義も曖昧かも知れないが、アイドルなどの自分が好きな「推し」に、時間やお金を費やして熱狂的に応援する活動と言えばよいのか。個人的には「推し活」には崇拝的なところがある事、そして時間やお金などのリソースを費やす事自体が目的になっているところがあると思う。それは、「推し」のために「推し」に貢いでビジネス的に貢献し喜びを感じる。ビジネスと熱狂が肝である。

しかし、フジコの場合、「推し」という崇拝相手ではなく周囲の人の夢を平等に応援していた。また、応援に浪費もない。あくまで建設的に、相手の夢を追いかける障害を乗り越えるお手伝いをしていた。この辺りは「推し活」とは明確に違う点であろう。フジコは自分が夢を追いかけるのと同様に、他人が夢を追いかける事が好きなのである。

とは言え、「推し活」が弱っているメンタルを救うという側面はある。フジコが絵画で自信を失くしていたときに、他人の夢を追いかける手伝いをしたことは、メンタル的には救いにはなっていたのかも知れない。

ところで、他人を応援することがフジコの夢の実現の足かせになっていたかというと、それはノーだろう。前述の通り、描けなくなった原因は、画家としての自信喪失である。最終的には、フジコはインスピレーションが戻って来て画家として成功する。しかし、この解決の細かなロジックは描かれず、オペラ座のバレエの衝撃で描けた、という作劇になっている。

つまり、1910年代に拘っている本作が当時存在しない「推し活」を風刺として描いているとは思えないし、フジコのケースはシンプルに他人を応援する事の良さを描いていたというのが私の見解である。

第一次世界大戦について

劇中でフジコたちがパリに滞在したのが1912年から1916年12月。第一次世界大戦は1914年7月から1918年11月である。

作劇的には、第一次世界大戦が勃発した頃から、フジコは落ちぶれて生活が苦しくなる。ただし、フジコが絵が描けなくなる原因と第一次世界大戦は直接関係しない。あくまで、戦争による社会の不安と、フジコたちが夢を追う事の困難が重なって見えるような演出として使われていた、と理解している。戦争が主題ではないこともあり、本作では第一次世界大戦の終戦までは描かれずに物語は〆られる。

ちなみに、第一次世界大戦では塹壕戦という新しいスタイルの戦闘が発明された。他にも毒ガス、火炎放射器、戦車、戦闘機なども新たに登場した概念である。これまで戦争は鍛えられた貴族同士が戦うモノであったが、第一次世界大戦では産業革命的に武器が大量生産され、民間から兵士を徴兵し大量の戦死者を出した。これ以降、戦争に対するスタイルが一変してしまった。

本作のエンディングのスタッフロールでは、画家として成功したフジコが描いたと思しき絵画が添えられる。その中に、塹壕戦のマークI戦車や火炎放射器が描かれていたのが印象的である。

少し脱線するが、第一次世界大戦の終戦間際にスペイン風邪が大流行し世界中に大量の死者を出した。もちろんパリも例外ではない。2026年現在の我々は新型コロナウィルス感染症のパンデミックを体験しているので、もしかしたら本作でもスペイン風邪をテーマにしてくるかもしれないと勘ぐっていた。しかし、蓋を開けてみるとそんな事はなく、スペイン風邪が流行する前にフジコたちは帰国していた。

戦争も感染症も本作の「夢を実現する」テーマから外れる要素なので、このディレクションは納得である。

藤田嗣治について

主人公の継田フジコの名前は、エコール・ド・パリで有名になった日本人画家の藤田嗣治(ふじたつぐはる)をモチーフにしている事は間違いないだろう。

藤田は1913年に27歳でパリに住み始める。絵は売れず、開戦により日本からの仕送りが途絶え貧困を極めたが、1917年頃から絵が売れ始め、パリの売れっ子画家になり成功する。藤田は裸婦を描く際に「乳白色の肌」と呼ばれる独自の技法を用いて絵画を描いた。

フジコが「巴里に咲くエトワール」を描いたのは1916年12月である。

作中には当時のパリの画家たちの名画がいくつか登場するが、その中に藤田の絵はない。おそらく、「ガメラ」の作中に亀が登場しないのと同様に、本作には藤田嗣治は存在していないのであろう。

舞台のパリについて

20世紀初頭のパリの街並みは、本作のもう1つの主役と言ってもいいだろう。

作中には現在も存在するパリの建物や施設が多数登場するため、ちょっとしたパリ観光気分が味わえる。これは、パリ好きな人にはたまらないであろう。舞台がパリに集中しているため聖地巡礼をしたら楽しそうである。これは製作側も狙ってのことだと思う。ただし、海外旅行かつ円安でハードルは高い。

ちなみに、公式HPでは聖地巡礼に役立つ簡易マップが公開されている。

私も一度だけパリ観光旅行に行った事があるが、私のおススメはオルセー美術館である。作中に本美術館は登場しないが、オルセー駅舎を後日美術館にしたものである。フランスの絵画の歴史が展示されており、作中の名画もいくつか本物が鑑賞できる。絵画の知識はあった方が良いが、そうでない私にも十分に楽しめた。なお、第一次世界大戦以降の作品はルーブル美術館の方に展示されているらしい。

薙刀について

千鶴の薙刀がカッコいい。

薙刀の歴史は古く、少なくとも平安時代にはすでに強力な武器として活躍していた。有名なところだと牛若丸と戦った武蔵坊弁慶は薙刀使いだった。「江戸時代から自衛術や精神修養の手段として嗜まれるようになり、明治時代には女性の武芸・武道として流行し、教育現場などを通じて広く浸透していった」との事。太平洋戦争の戦後5年間はGHQにより薙刀は禁止された。近年では武道・競技としての「なぎなた」となっている。競技は剣道のような防具を付けた試合競技と、決められた型を二人一組で「しかけ」「応じ」してゆく演武競技がある。

とまぁ、私もYouTube動画を漁って見ていただけのニワカなので、そちらを直接見ていただいた方がが勉強になると思う。

ちなみに、薙刀に立ち向かった三人組の一人がステッキを使った格闘術を使っていたが、おそらく「カヌ・ド・コンバ(Canne de combat)」だと思う。

もともと、19世紀のフランスで護身術として流行していたらしいが、第一次世界大戦で実践者が大量に戦死したため衰退したらしい。なお、パリで薙刀道場を開いていた場所はこの棒術の練習場にもなっていた。こちらも、現在ではスポーツ競技としてカヌ・ド・コンバが行われているとの事。カヌ(Canne)は杖を意味する。

薙刀が2m以上あるのに対し、カヌは1m弱なので、リーチは圧倒的に不利。軽いので回転させて遠心力を使ったりするが、動きはかなり速い。薙刀は素早く畳み込まれるように攻められるのは苦手なので、勝機があるならそこだろうが、懐に入り込めるかどうかが、まず問題。

どうやらフランスではキックボクシング、杖、レスリングの距離感の異なる三種類の格闘技からなる総合格闘術として、サバットと呼ぶらしい。カヌ・ド・コンバも、三人組の大男のフランス式キックボクシングもそこに含まれる。ちなみに、レスリングは危険な技が多く、競技としては姿を消したとのこと。

他にも掘れば色んな動画が出て来て知見が深まるハズ。くしくも、19世紀に流行り、戦後一度廃れて、近年ではスポーツとして親しまれている日仏武術対決になっている点はおもしろい。薙刀もカヌ・ド・コンバも現代のスポーツではなく、100年前の当時の武術の形に拘っているように感じた。

これらの格闘技に対しても十分に考証して、違和感のない設定や動きを映画に込めるのは大変な労力だろうが、そこを妥協しない姿勢には頭が下がる。

バレエについて

バレエは流石に門外漢過ぎるので少しだけ。

本作では足先指先まで気を使って作画しているとの事で、そこにも魂が宿っていたと思う。ロシアバレエとフランスバレエの違いがドラマ上ポイントになっており、そこも描き分けなければいけない。その辺りも少し気になったので、そこだけは少し掘ってみた。

確かに、オルガはいきなり前後開脚180度をやっていたが、それはロシア流儀らしい。この辺りも動画を良く見て、ふたたび映画を観ると、バレエの違いが分かるかもしれない。

おわりに

「キラキラした夢を追いかける」というテーマは手垢がついてやり尽くされたというか、失敗したくない若者像からしたらリスクを取らないとか、ちょっと時代からは遅れたテーマな感じがしていました。しかし、本作はそこを真っ向勝負で描いていて素直にすごいな、と思いました。だからこそ、元気づけられる映画なのかもと。

本作は、19世紀パリ、絵画、バレエ、薙刀、第一次世界大戦などなど多彩な要素が詰め込まれていますが、ブログを書きながらそれぞれのネタに対して絵作り、音作りなど誠実に作り込んだ作品という印象が深まりました。調べれば、調べるほど全方位でちゃんとしている。その意味では、非常に贅沢なアニメ映画だったと思います。

文芸面では変革の時代のうねり、その中で夢のきらめきを全力で追いかける若者たちの情熱を描いた作品でもあり、誰よりもポジティブだったフジコの挫折感も含めて、よいドラマが描かれていたと思います。最後は大団円でしたが、若者たちが新しい学校や社会に旅立ってゆく今の季節にピッタリだと思いました。