たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

映画大好きポンポさん

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

劇場で観そびれていた「映画大好きポンポさん」がNetflixの配信に来たので鑑賞しました。

公開当時、ネタバレ感想動画なんかをちょくちょく観てしまっていたので、新鮮な感動や考察はないのですが、それでも、本作を観たときの気持ちの整理を兼ねて、いつもの感想・考察を書きました。

物語はシンプルですが、かなり技巧的でトリッキーな作りの、唯一無二な楽しい作品だったと思います。

  • ポンポさん恋愛映画説について(2023.2.25追記)

感想・考察

実写映画制作を描くアニメ映画、という構造

本作が描くのは、実写映画制作現場の人々をアニメで描くところが面白い。実際のハリウッドの現場はきっと世知辛いことばかりなのだろうが、本作の絵柄が持つポップさによりまるでプリキュアを観ているよなキッズ感溢れる世界観になっている事が特徴である。

私はこのリアルと逆行した世界観である理由は、より作品が持つテーマにリーチするのに都合がよいから、だと考えている。出てくる映画スタッフやアクターは良い人ばかり、みな良い作品を作るために惜しみなく協力してくれる。ジーン監督に横やりを入れる悪役は一人も居ない。ぽっと出の新人監督や新人女優を否定する者は誰も居ない。つまり、そこにリアリティおいても、そこがテーマではないし逆にノイズになる、という考えだろう。それゆえに、本作の世界をアニメ調(=非リアリティ)に描くのは理にかなっている。

散りばめられた映画作りのネタの宝石箱

本作で嬉々として語られる要素の一つに、映画作りのテクニックの部分があるだろう。

ジーン監督の「MEISTER」編集シーンで、演奏シーンの途中で控室のカットに繋ぎ、俳優の引きのショットで観客の関心を引き付け、最後にアップで俳優の感情の凄みを見せる…。みたいな事を解説しながら編集していた。映像自体がそうしたロジックの集積であり、映像ファンはそうした演出の意図も汲み取って映像を吸収してゆく。

本作のナタリーの登場シーンは、雨上がりの横断歩道を意気揚々と駆けてゆくヒロイン然としたカットであり、その輝きをジーンが目に焼き付けていた。このインパクトで登場するから、一発で彼女が魅力的なヒロインである事を観客は認識できる。その後、オーディション落選で意気消沈しすれ違うカットがあり、しばらく登場しない。再び、ポンポさんに呼び出されたショートカットのナタリーが現れ、今読んだシナリオのヒロインそのものという言葉とともに登場する。

面白いのは、その後時間を巻き戻し、田舎から女優を夢見て来たものの、工事現場の交通誘導などのバイトで生活に追われ、オーディションでは落ちまくり、行き詰まりを見せていたという下積みの背景を描く。そして、ポンポさんに大抜擢され、売れっ子女優のミスティアと共同生活させ、女優という仕事と体質に導いてゆく。ジーン主観の裏で動いていたナタリーのバックボーンを観客を飽きさせる事なく短時間で吸収させていた。

少し脱線するが、1977年の映画「スターウォーズ」には、冒頭にR2-D2C-3POが砂漠の中を淡々と歩くシーンがある。寂しさは十分に感じるものの、今時の映画ではあり得ない尺の無駄遣いをしていた。隔世の感がある。それくらい、時代は映像のテンポを要求し、情報を詰め込み、刺激的な快楽を摂取するモノとなってきた。

他にも、舞台(地方)が移動する際は、飛行機が画面の中央を横切りファスナーが開くように場面転換する。撮影中に良いカットが撮れたときに、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のようにモニタから稲妻が走り髪の毛が風圧でなびく。タイムラプスで時間経過を表現する。こうした編集の繋ぎやエフェクトも、もともとは実写世界で活用してきた技である。

本作は、こうした映画の仕掛けを愛しむための映画とも言える。とにもかくにも、洒落ている。

物語はシンプルなサクセスストーリー

本作を物語的に見ると、面白味は少ない。後述するテーマの部分に重きが置かれていると思う。

基本的に、無名だったジーンが初監督作品の「MEISTER」でニャカデミー監督賞、作品賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞、監督賞、作品賞を総なめし大成功を収める。

映画のスポンサーを申し出てくれたニャカデミー銀行にも融資に対しても十分すぎるリターンを返した。

この物語の中で葛藤のあるドラマを持つ人間は、ジーン監督と銀行員のアランの2人だけである。

ジーン監督は映像編集の中での自分にとって必要なシーンの追加撮影、取れ高の中から良いカットを捨てる痛みとの戦い。

アランは、夢を持てない者でも、夢を応援して戦える、という希望。

アランの融資のおかげで「MEISTER」は資金調達でき、挫せずに制作を続けられたという物語の繋ぎにもなっているし、非クリエイター側の希望を描いていたのだろう。

ただ、本作は葛藤をじっくり描くというよりは、テンポ感を大切にしているところもあり、それほどストレスフルな感じもなく、物語的な深みやコクはあまり感じない。アニメ調の楽しさ優先の作風ゆえ、というところもあるのだと思う。

「幸福は創造の敵」というパワーワード

「幸福は創造の敵」というパワーワードが本作のテーマの一つであろう。

クリエイターは、痛みを伴いながら、自分自身のを削って創作をしているのだと。

劇中映画の「MEISTER」の主人公のダルベールは、家族との幸せを失って音楽家としての名声を手に入れた。音楽に魅入られ、取り憑かれた、という事だろう。人としての幸せを失わなければ、芸術のその高みに到達できなかった。ダルベールの奥さんにとって、ダルベールのアリアは自分たち家族を捨ててまでダルベールが選んだ憎き相手であり、呪いの象徴である。物語の起点の部分に離婚のエピソードを入れたのはジーン監督の作品への自己投入であり、これにより「MEISTER」はジーン監督の分身となった。

ダルベールがコルトマンに土下座して復帰を依頼するシーンが、ジーン監督がポンポさんに土下座して追加撮影を依頼するシーンと重なる。このシーンで私は身震いがした。

もともとの「MEISTER」は、高齢の音楽家が周囲と上手く調和できず孤立して、田舎で少女との生活に癒され、音楽の情熱を取り戻して復帰する物語である。この文脈の中でダルベールの離婚(=幸福との決別=呪い)を挿入する意義は正直分らない。なぜなら、ダルベールは老害化した自分から人間性を取り戻す話であり、どちらかと言えば離婚で幸福を手放した事を否定する文脈に感じる。しかし、本作のテーマとしては、創作者は不幸やむなし、なので矛盾に感じてしまう。この辺りを冷静に考えて詰めてゆくと、狐につままれたような気になる。

それはともかく、同様のテーマを掲げた作品で「ブルーピリオド」というのもある。東京藝術大学を目指す入試生を描く漫画であるが、私はアニメを拝見した。藝大受験生の八虎は、予備校で絵が上手すぎる同級生を横目に技術面でもメンタル面でも猛特訓をしてゆくが、遥か上の実力の持ち主さえも何らかのコンプレックスを抱きながら自分自身を削りに削って絵を描いていた。入試なので周囲は全員ライバルであり競争である。そして、入学以降の方がより自分自身との対話を深めて、自分自身を削って創作してゆくのであろう。この作品でも、クリエイター=不幸が描かれていた。

しかし、今の時代、大切と思えるものを切り捨てて、何かを成そうという志の人は少数かもしれない。だったら、何かを成さなくてもいいから、大切なものを大切にしたい。むしろ、家族くらいは大切にしたいと思うのは当然の空気(=倫理観)だろう。だから、こういう人には本作は刺さらない。その意味で、ターゲットが絞られる。とは言え、本作は普通の人の日常でも、選択の連続で、人は何らかを切り捨てて痛みを伴いながら生きている。そういう人たちを肯定する、というのが本作のメッセージである。

そう考えた時に、本作により共感できるのは、今現在、何らかの都合上、何かを犠牲にしてしまった人たちへのエールと言えるのではないだろうか。

ジーン監督が痛みを伴って完成させた「MEISTER」はニャカデミー賞を総なめし、アリアを再演したダルベールは裏切った家族が演奏を聴いてくれて懐かしみを覚えた。創作物が大ヒットしたり、誰かの心に刺さり暖かく心を揺らした。そうした事が最大のご褒美という事なのだろう。

ポンポさん恋愛映画説について(2023.2.25)

これは、私の説でも何でもなくて、岡田斗司夫の切り抜き動画で見た論である。個人的には、この論に傾倒しているわけではないが、納得はできるものなので、備忘録として残す。なお、超意訳的な部分もあるので、正確な内容はリンク先を参照。

本作が最後まで飽きさせずに見れるのは、本作が恋愛映画のテンプレートに沿っていて、ジーン監督、ナタリー、ポンポさんの三角関係になっているとの事。

  • ナタリー→ ジーン:片想いしている。
  • ジーン→ポンポさん:片想いしている。
  • ポンポさん→ジーン、ナタリーに映画制作を与える女神。(=恋愛は持っていない)

ジーンをお見舞いに来るという事であれば、映画スタッフの誰もが心配して見舞いに来るが、ナタリーは心配のあまり編集室まで押しかけてジーンをサポートする。これは、女が男に惚れたと解釈していい。

しかし、ジーンは編集の修羅になっているので「恋愛も切る」。その代わりに、魂を映画(≒ポンポさん)に捧げているという解釈。ここを、直球で恋愛と言うか否かは、人によって解釈が異なるだろう。

しかし、ポンポさんはある意味人間ではない「映画の女神」というところもあり、特定の人間と男女交際するようタマじゃない。映画の女神として、映画に関わる人たちに、映画制作を与えてほどこす、という尊い立場にある。だから、ジーン監督を恋愛感情で好きになる事はない。もっと言えば、ジーン監督が編集作業に着手したとき、ニャカデミー賞授賞式、このときポンポさんはコルベット監督の新作映画のロケに出かけている。映画の女神はジーン監督だけをえこひいきする事はない。

という論である。

ここからは、私の解釈の補足。

終盤、ポンポさんはジーン監督の体調悪化に伴い、「MEISTER」の編集を他者に委ねようとするが、ジーン監督が命と引き換えに編集作業を終えた。つまり、ポンポさんにとってジーン監督は映画作りの仲間のうちの一人でしかなかった。

ジーンは最前列中央で、ポンポさんは中央右寄りの席で、たった二人で同じ映画を観ていた。その意味で二人は映画好きの共犯者であり、特別な赤い糸が有ったという解釈はできる。そして、ポンポさんは途中で席を立ってしまうという意味で、それらの映画に満足は出来ていなかった。

しかし、「MEISTER」終盤のダルベール指揮するオーケストラの演奏シーンで、少年と母親?とピアノのシーンを思い出し、ポンポさん自身があの頃の映画好きだった過去を思い出し、ポンポさん自身も救う、というシーンがくる。このシーンをダルベールの切り捨てた家族が演奏を聞いて懐かしさを感じるシーンと重なるという演出が憎い。つまり、ポンポさんもまた、仕事で両親にかまってもらえなかったという意味で、ダルベールの元妻や娘と同じ境遇にあり、ポンポさん自身の記憶に刺さった、という事だろう。

なにはともあれ、ジーン監督がポンポさんに映画で与えた感情、ポンポさんから引き出した感情というものがあり、その成果に対して、「監督になったじゃない。君の映画、大好きだぞ」と言葉を贈る。これは映画好きの共犯者としては最大級に嬉しい言葉であろう。

この映画好きの共犯者としての相互に与え合い、認め合う関係は、恋愛で言えば相思相愛である。しかしながら、ポンポさんは女神ゆえ、コルベット監督や他の監督の作品にも愛を注いでいるのだろう。その意味で、ポンポさんはジーン監督と一対一の唯一の関係ではないのだろう。その意味で、やはりジーン監督の片想いなのである。

ポンポさんとジーン監督の関係を恋愛感情というのはちょっと…、という感覚も分らないでもない。むしろ、個人的にも愛情というより仲間という意識が一般的だろうとは思う。しかし、その匂わせを含めての、感想・考察であっていいと、まぁ個人的には思う。

おわりに

評判通りの面白さでしたが、やはり文芸面で芸術=狂気となるべき部分が、ロジックで押しすぎていて、でもロジックだと家族大切にしましょうよ、になってしまうという矛盾があり、そこに少しだけモヤりました。

ただ、作画の可愛さや、凝った演出やカット割りで、唯一無二の作風を楽しめました。

ヤマノススメ Next Summit

はじめに

ヤマノススメ Next Summit」のいつもの長文の感想・考察です。

ちなみに、ヤマノススメの1期~3期は未視聴です。

女子高生×オヤジ趣味モノは、個人的に好きなのですがなぜか今までヤマノススメは見ていませんでした。縁あって、2023年1月にNetflixで一気に見ました。富士山登頂のシーンの迫力というか、非日常感にかなり引き込まれたと同時に、最後の富士登山リベンジではかなり感動しました。

登山≒人生と感じさせるテーマも良いと思いました。普通の日常モノであれば、ここまでのめり込まなかったと思います。

ただ、私が感じたような感想を的確に書いているブログはあまりないと思い、今回ブログに書き残す事にしました。

各話イベントリスト

とりあえず、各話サブタイトルとイベントを下記に示す。本作は、1クールの中でイベントがかなり多く備忘録の意味もあって整理した。

話数 サブタイトル イベント ED絵
1話 ヤマノススメぷりくえる
1st season春
あおい中学3年→高校1年
ひなた転入、約束の山
天覧山、楓、高尾山、ここな
4人で飯能河原キャンプ
あおいひなた幼少期と今
ED曲歌詞に合わせた絵
一歩先のひなた
着いてくるあおい
2話 走れ!ヤマガール
2nd season夏 前編
運動会あおいの手をひくひなた
吉田ルートで富士山登山
あおい八合目高山病でダウン
ひなたここな山頂ご来光
あおい高山病しんどい不甲斐ない
楓ふうか
運動会、暴れる長髪
3話 都内で登山!?
2nd season夏 後編
愛宕山、祈願=目標探し
あおい天覧山、頂上でひなた
多峯主山、また山に登りたい
あおい母ひなた父霧ヶ峰
4人で谷川岳、ほのか、ご来光
-
4話 夢にまでみた?フジ◯◯
3rd season秋
富士急ハイランド
あおいほのか伊香保温泉
ひなたここな赤城山
4人で瑞牆山テント泊、金峰山
ひなた脱落あおい付き添い
あおいひなた仲直り
ほのか兄、ほのかここな
ここなを撮るほのか
ここなの心のフィルム
5話 登山部からの挑戦!?
武甲山で愛のムチ?
小春、天覧山
あおい母と武甲山
あおい母視点の家族
父撮影の写真
6話 ひかりのデート大作戦!
みんなでホワイトクリスマス!
あおいひかり、名栗湖デート
ひなた宅クリパ、あおいバイト
ひかりあおい
荒幡の富士スマホ写真
7話 初日の出、どこで見る?
クラスメイトと山登り!
あおい父と日和田山
かすみみおゆりと高尾山
あおいひなた
かすみみおゆり
かすみあおいの交差
8話 パワースポットでバレンタイン?
スノーシューにチャレンジ!
ここなほのかと日出山
小春ほのかと赤城山、小沼
あおいほのか
黒斑山山頂写真
9話 渓流釣りって、人生?
ひなた一家と、いざ鎌倉
あおい父ここなひなた名栗川
ひなた父母あおい鎌倉ハイキング
ひなたここな鋸山
10話 新しい季節 1年最後クラスメイトと天覧山
2年クラス別々あおい自己紹介
楓ゆうか小春
水着、久須美ホルダー
11話 また会えたね!富士山 富士山登頂計画
須走ルートから登山開始
あおいひなたここな楓小春
一人ずつ加わる
12話 行こう!新しい頂きへ 本七合目軽い高山病宿泊
早朝出発、合流、ご来光
最高峰の気象観測所
未来のあおい宛にはがき
御殿場ルート下山
-

本作を語るについて、初めに構成について触れておかねばならない。

本作はヤマノススメの4期にあたる。1期は約10年前の5分間のショート枠であったが徐々に尺を伸ばしている。本作の1話~4話は、1期~3期の総集編となっており、本格的に4期に突入するのは5話以降となる。とはいえ、1話~4話の冒頭に新作のショートエピソードを挿入しており、古参ファンも楽しませる構成になっている。

30分枠と言っても、5話から9話は15分2話の2階建てであり、もともとコンパクトな話運びに違和感はない。終盤は富士登山リベンジに向けて、十分な尺をとりクライマックスを作り上げていた。余談ながら、11話12話は40分の劇場版とする構想も有った模様である。

タイトル 時間枠/話数 放送期間
1期 ヤマノススメ 5分枠/12話 2013年1月~3月
2期 ヤマノススメ セカンドシーズン 15分枠/24話 2014年7月~12月
OVA ヤマノススメ おもいでぷれぜんと 28分 2017年10月
3期 ヤマノススメ サードシーズン 15分枠/13話 2018年7月~12月
4期 ヤマノススメ Next Summit 30分枠/12話 2022年10月~12月

感想・考察

背景美術

女子高生×登山を描く作品ゆえに、背景美術はため息の出るような美しさである。本作の主役のひとつと言っても過言ではないだろう。

各山々の山頂の絶景だけでなく、木漏れ日の山道や、小川のせせらぎや、神社までの階段など道中の風景も柔らかく描く。当然ながら、登山によって晴天だけでなく、曇天や雨天などの天候の変化もある。ものすごいスピードで周囲を流れてゆく雲の中に立つシーンもあったり、絵葉書の様に静かな紅葉の湖畔のシーンもある。登山に限らず、日本の自然の様々な美しさを描いており、それだけでも福眼である。

作画

本作はキャラの動きが良く、見ていて気持ちがいい。キャラデザインの可愛さもあるが、動かすときに適度にデフォルメ化されたり、絵や動きが良いと思う。

各話によって作画のイメージが少々変わったりするが、これもアニメーターが生き生きと動かす事を優先してよいというディレクションだったかも知れない。そう考えると、これはこれで味があって良いと思えてしまう。もしかしたら、昔の古い絵柄と今風の絵柄を混合させるためにも、敢えてキャラの作画の幅を許容したのかもしれない。

本作の動きの良さは派手な身振り手振りだけでなく、実は疲れた体にムチ打って足を引きずるように登山道を登るシーンでも生かされている。時には金剛杖やトレッキングポールを使った面倒そうな動きもあるし、普通にランニングで走るシーンもある。本作は、ある意味、運動アニメーションの宝庫とも言えるだろう。

だからこそ、本作において作画力の高さはキャラの動きの芝居にリアリティを持たせるためには必要不可欠なのである。そして、それを見事に描いていると思う。

個人的には、OPや5話Aパート(登山部体験入部)の新しいイメージの作画が好みである。ちょっと暴走気味にクセをだしていたのは、7話Aパート(高尾山初詣)の団子シーン。これは、ちょっとコミカルに降り過ぎていた感があった。

キャスト

1期が10年前からというのもあるが、主要キャストはベテランぞろいであり、声の芝居は貫禄すら感じる。

本作では主人公のあおい(CV井口裕香)のモノローグや呟きが結構多い。あおいの日常でのふとした味わいや、登山中のしんどい気持ちを、声の芝居で積み重ねてゆく作風のため、非常に重要になる。また、あおいとひなた(CV阿澄佳奈)の子供っぽい言い争いのシーンなどもイイ味を出しており、演者による声の芝居は冴えている。

ただ、他のキャラ含めてキャラの声質のアニメ声っぽさが強く、少し古いと感じてしまうところがも正直に言えばあった。この辺りは、10年前から続くシリーズゆえに、一長一短というところか。

テーマ

本作がおもしろいのは、序盤の女子の友達関係から、終盤の富士登山を達成したあおいの人生感にテーマがシフトしてゆくところにあると思う。以下、そのことについて記す。

あおいとひなたのキャラの関係性

1話~4話(1期~3期総集編)

本作の楽しいポイントとして、あおいとひなたの気心の知れた親友だからこその「じゃれ合い」のようなやり取りがあると思う。女子がキャッキャウフフするアニメなので当然と言えばそうなのだが、あおいとひなたの距離感は本当に子供っぽいところが多い。だから、大人の私の視点からだと二匹の仔犬がじゃれ合っているように見える。そのかしましさが微笑ましい。

基本的には、快活なひなたが内弁慶なあおいをおちょくる→あおいがムキになるという構図が多い。この辺りの芝居は、CVの井口裕香さんと阿澄佳奈さんの芝居の良さが光る。

登山の友達には他に楓、ここな、ほのか、小春も登場するが、彼女たちとの距離感はここまで近くない(=砕けた感じにはならない)。

1話では、臆病で内向的でマイナス思考なあおいに対し、手を引っ張って外の世界に連れ出したり躊躇する背中を押すのがひなたというところからスタートしている。平たく言えば、ガールミーツガールであろう。

2話の高山病によるあおいの富士登山リタイアは二人の関係にも重苦しさを残した。あおいは、辛さや不甲斐なさのネガティブな思考で埋め尽くされて動けなくなったし、ひなたの事を考える余裕もなくなっていた。どん底と言ってもいいだろう。ひなたはここなと二人で登頂しご来光を拝むことができたが、あおいが一緒でなかったことにわだかまりが残った。もちろん、ひなたに非があるわけではないが、戻ってきてもあおいに声をかけらない。そんな日々がしばらく続く。

3話で、天覧山でメンタルも回復してきたあおいとひなたが偶然再会し、なんとはなしに仲直りし、また登山したいとあおいが告げる。この辺りの二人の子供っぽさのあるドラマが良い。

ひなたが良いなと思うのは、あおいの手を引いたり、背中を押したりはするが、決して無理強いしないところだと思う。もっと言えば、二人は互いを尊重し合う関係であり、変に拗れた共依存になっていないところが良い。

例外的には、4話でひなたのエピソードだろうか。ひなたは、あおいとすれ違いが多く、あおいが遠のいてしまうのではないかという不安を抱くが、あおいがそれを一蹴して一番の親友と返す。Next Summit全体で観れば、若干浮き気味にも思えるが、ここは12話に繋がるエピソードでもあるので、ここを残したディレクションは分からなくもない。

何はともあれ、まるで神社の狛犬のように、ここまでのあおいは常にひなたと一緒に行動していた。

5話~10話

ところが、新エピソードとなる5話の登山部の体験入部はあおい一人(付き添いは楓)で行ってきて、自分の登山をひとりで見つめ直す。このとき、ひなたは一人校門であおいの下校を待っていた。

6話では、年上のバイト仲間のひかりと名栗湖の失恋小旅行に付き合った。恋愛も知らないあおいだが、傷心のひかりの気持ちに寄り添って、気持ちを軽くしてあげる事ができた。ひかりが傷心だったことはひなたにも内緒である。

7話のかすみたちとの高尾山初詣では、ひなたがあおいにハッパをかけて登山をリードさせ、あおいがかすみにアドバイスしながら登るという成長を見せた。10話の1年生最後の日にクラスのみんなで天覧山に登る際にも、リーダーのあおいを見守り、背中を押したひなた。

2年のクラス替えでひなたと離れ離れになる事を心配していたあおいだが、見事に的中。しかし、かすみの助け舟もあり新しいクラスに悲観することなく滑りだすことができた。内弁慶のあおいも意外と世界は優しいと認識した。ここでは、心配性のあおいが、心配するよりやればなんとかなる、を体験したことに意味がある。と同時に、あおいのひなた依存からの脱却というニュアンスもあるだろう。そして、ひなたは最初から、あおいを信じていたから、あおいの事は心配してなかったと言う。

ここまでで、ひなたという人物が、いかにあおいの主体性を大切にして育ててきたかということがわかる。Next Summitは、あおいの富士登山リベンジと人生観に集約してゆく話なので、あおい自身が壁を乗り越える必要がある。そのためにひなたができることは、一緒にいてあおいが壁を乗り越えるのを応援して見守る。そして、万が一、何かあったら手助けする。

11話~12話

富士登山リベンジは、あおいが幹事となりみんなを誘い、あおいがリーダーとなって進む。なにせ、今回の富士登山リベンジはあおいが主人公なのである。とは言え、あおいは今回も高山病に対する恐怖があり、みんなの足を引っ張るのではないかと不安がる。いつものように、そんなあおいをひなたが元気づける。

あおいが本七合目で軽い高山病になっている事がわかり、ここに一泊して様子見するとなった。この時の付き添いを、間髪入れずにひなたが立候補する。今回、ひなたにとってはあおいと一緒にご来光を見る事に意味があるし、4話でリタイアしたひなたに付き添ってくれたあおいへのお返しでもある。

翌朝、覚悟を決めて山頂に向けて出発するあおいと寄り添うひなた。しんどそうなあおいの様子を見ながら適度に声をかける。あとはもう、あおい次第である。あおいのために荷物から削ったようかんが、あおいから差し出された皮肉を笑うひなたが良い。極限状態にありながら、ふと出てきた日常会話になごむ。

果たして、あおいとひなたは楓たちと合流し、今度こそみんなで一緒に ご来光を拝むことができた。

Next Summitでは終始、心配性のあおいと、それを見守るひなたという構図だった。私は、あおいとひなたではひなたの方が大人だな、と感じていて、それはアンバランスではないかと感じていた。

だが、あおいが日本最高峰の剣が峰から未来の自分宛に出すハガキには、ひなたとケンカばっかしてないでたまには素直になってひなたのいう事を聞きなさい、と書かれていた。これを、ひなた本人に言えないところが、あおいの子供っぽさではある。しかし、この手紙でひなたへの感謝の気持ちを表明したことで、ひなたとあおいの思いのバランスが取れたと思えたし、素直に上手い纏め方だなと感心した。

登山≒人生という深いテーマ

完敗の富士登山

臆病で内向的で、マイナス思考で友達も居ないあおいは、高校で再会した幼馴染のひなたに手を引っ張られる形で登山を始める。緩い登山から始まり、登山仲間の楓やここなも増えた。

しかし、高校1年の夏、富士登山に挑戦するも、八合目で高山病のためダウン。ひなたと一緒に山頂のご来光を見ることは叶わず下山した。この時、あおいは自分のふがいなさ、付き添ってくれた楓への申し訳なさ、なんでこうなってしまたのかという後悔、色んなモノに打ちひしがれてメンタルは完全に弱っていた。完全に他者の事を考える余裕を無くしてしまっていた。完全な敗北であった。

天覧山の標高は197m、高尾山の標高は599m、そして富士山の標高は3776mである。富士山はいつも遠くに見えていて、あおいにとっては憧れになっていた。しかし、登山をはじめて4か月の女子高生が挑戦するにはハードルが高すぎたという面もあるのだろう。早すぎた目標に対し、登山の厳しさがあおいの心に刻印された。

富士登山リベンジ

帰宅してしばらくの間は抜け殻みたいになっていたあおいも、しだいに復活してきて富士登山再挑戦をひなたと誓う。

話の流れとしては、11話であおいが富士登山リベンジを計画し登山口まで移動、12話で再挑戦という流れである。4期の新エピソードとなる5話以降で、10話までは、富士登山リベンジのためのトレーニングや地固めのイベントとなる。

おもしろいのは、登山の経験を積み、体力、忍耐力の向上という直接的なトレーニングのエピソードだけでなく、日常回も富士登山リベンジに繋がっているところだろう。この辺りは、シリーズ構成も兼ねる山本裕介監督の丁寧な仕事ぶりが伺える。

1つは、あおいやひなたの家族との関り。登山の中に出る人柄や、親から見るわが子への視点がおもしろい。渓流釣りでは、あおい父から渓流=人生との話も飛び出す。自然と対話する事が大事で、釣れない事も楽しめば良いのだと。

もう1つは、あおいのクラスメイトとの交流。人前に出たり仕切るのが苦手なあおいだが、リーダーとしてチームを任されミッションを遂行するという事も経験する。これは、苦手克服ということもあるが、富士登山リベンジの幹事となる経験にも生きてくる。

こうした色んな経験が富士登山リベンジの肥しになってゆく。

12話で軽い高山病になりながらも、今度こそは富士山頂でのご来光をみんなと一緒に拝むことができた。

登山≒人生という重ね合わせ

山頂でご来光を拝み、朝ご飯を食べた後に日本最高峰の剣が峰気象観測所に向かう。クライマックスのご来光の先にもまだ道があるというのが深い。

あおいは、登山中に「なぜ登山しているのか?」と何度も自分に問いかける。11話冒頭では、山頂からの絶景がご褒美となるからと答えている。これも間違いではないだろう。しかし、剣が峰の12話の気象観測所までの道のりで、極限状態のあおいは別の回答を出した。「いや、ただ足を前に出すだけ、一歩ずつ、一歩ずつ。」

つまり、自分で選んだ登山なら、登山中の辛さの考えることに意味はなく、進むか休むか戻るかの三択しかないこと。だから、気力があるなら、ただ一歩ずつ前進するだけであると。

もう、この時点で登山=人生になっている。ご褒美のために人生があるんじゃない。人生はただそこに存在し歩み続けるだけなのだと。

あおいは今回の富士登山でも、自分の弱さや、他人に迷惑をかけたら、という不安との戦いであった。しかし、この1年間にトレーニングを重ねフィジカル的にも人生経験でも十分な準備をしていた。あとは富士山という大舞台でその成果を出し切るだけ。最後のピースとは、成功体験=自信だったのだろう。

また、未来の自分宛に出したハガキは、臆病な未来の自分を鼓舞しつつ今よりは強くなってるハズだよね、という激励が書かれていた。あおいは下山途中に、過去から未来に進む自分自身の姿を垣間見る。これは、山頂という極限状態だからこそ感じられる感覚なのだろう。

下山したあおいは、苦しかった富士登山も終わってしまえばあっという間だったと言うが、これも真理だろう。苦しさから解放された平地では、人間はあぐらをかいてしまいがちである。だからこそ、山頂の自分宛てのハガキが、あおいにとってのトロフィー(=自信)になるのだろう。

本作は登山のストレスを努力や根性で乗り越えない。日頃の地道なトレーニングの積み重ねで、いつかそのうち壁を乗り越えてしまう。なぜ、乗り越えられたというロジックは、さして重要ではない。不安や恐怖は必要以上に怖がっても仕方ない。一歩一歩進む事が大切である。そんなメッセージに思えたし、不思議な勇気を貰えた気がした。

数多ある女子高生×オヤジ趣味モノの中でも、きちんと登山が物語やドラマに直結していた本作の作風はとても真摯に感じられた。キャッキャウフフの賑やかしだけでない、確かな深みを感じさせるものがあったと思う。

正直、あおいの富士登山リベンジが成功したところまでで、Next Summitはヤマノススメの物語としてやっと綺麗に完結したと思う。ここまで、あおいたちを連れてきたアニメスタッフの愛を感じさせる良作だったと思う。

OP/ED

OP曲「思いのち晴れ」は、かなり軽快なイメージの作風で、OPとしては正統派である。登山を扱うアニメとは思えない、軽快な動きが堪能できる、観ていて楽しい映像である。

ED曲「扉を開けてベルを鳴らそう」は、マーチ(行進曲)になっていて、一歩一歩前進する本作のイメージそのものである。

EDの原画は、吉成鋼さんが担当しているが、イメージボードがそのままアニメーションになったような味わいの作風が印象的である。そして、各話で絵が変わっており、原作漫画からのエピソードを90秒で見せていたりするので、それだけでかなり内容の濃い映像になっている。話数によっては、曲のテンポに合わせて静止画を切り替えたりしてすべてを動かしているわけではないが、それがまた味わいになっている。

参考

おわりに

ブログを書くにあたり何度か見直していますが、個人的にかなり好きな作品になりました。

賑やかしだけでない、ずっしりとしたテーマがあり、文芸的な良さをしみじみと感じました。それを、脚本家でなく山本監督自身がシリーズ構成をしたところに感心しました。

綺麗に完結しているとは思いますが、5期やれるなら作りたいという事を対談動画でも話されていましたし、ラストも「またいつか…ヤッホー!」でしたので、ゆるく5期を待とうかな、と思いました。

かがみの孤城

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

原恵一監督の映画「かがみの孤城」についての感想・考察です。

いじめが題材ということもあり、少々重いところもありますが、しっとりとした丁寧な作風の印象的でした。ラストの怒涛の謎の解き明かしと救いのある終わり方で、SNSでの良い評判も納得の良作です。

感想・考察

職人気質あふれる気をてらわない真面目なアニメーション

本作は題材からして、小中学生やその親世代をターゲットにしているところもあり、脚本的にも演出的にも難解さを排除したシンプルなアニメーションの味付けだったと思う。

序盤の孤城の引きのシーンや、終盤の狼が暴れたり光の階段をこころが駆け上がるダイナミックなシーンもあるが、基本的には閉じた空間における日常芝居に重きを置いた作風である。

いじめで心に傷を持つ女子中学生との対話するシーンが中心なので、そこを誠実に描かなければ全てが台無しになる。だから、作画の芝居も声の芝居も誠実。フリースクールの喜多嶋先生とこころの対話の一挙手一投足に「らしさ」を込める。

また、真田によるいじめの描写も重い。アニメによる記号的解釈ではなく、本当にいじめをしている時の息苦しさとその場の空気を感じさせるものである。いじめで攻撃する側は、ターゲットの心を折って壊れてゆくさまを快楽としている。ゲームで遊ぶように。しかも安全な場所から。先生には反省してますと軽くいなすが、本心であるはずもない。

これらの芝居は実写的な生身の人間寄りのディレクションであるが、これを不足なく分かりやすく描けるのが原恵一監督の凄みであろう。

孤城の役割

孤城やそのインテリアデザインのリアリティも本作のビジュアル面の強みであろう。アンティークな荘厳で重厚感ある空間が見事に描かれる。暖炉や本棚やオーブンや円盤形オルゴールなど、かなり再現度が高い。

孤城のルール自体が、集団セラピーのそれであるという下記の考察を見て、腑に落ちた。

孤城がアンティークな空間なのは、本作のトリック上の必要性もあるのだが、この空間自体がセラピー効果を持つものだったと思う。まず、テレビやスマホなどの外部からの刺激をシャットアウトし、広々とした静かで快適な空間でゆっくりと時間を過ごす事が精神的な治癒効果をもたらす。

だからこそ、孤城という空間の描き方にこれほどまでに拘らなければならない。これらのデザインは、前作「バースデー・ワンダーランド」にも参加していたイリヤ・クブシノブとのことで、今回も良い仕事をしている。

「いじめ」というセンシティブなテーマ

主人公のこころは、真田という女生徒のグループからいじめにあっていた。両親にも言えず、当初共稼ぎの母親はこころのずる休みに対して辛く当たっていた描写がある。しかし、あるタイミングから仕事よりもこころを最優先にし、学校とも毅然とした態度で戦ってくれた。こころの話を聴き、こころに無理強いせず、こころの気持ちに向き合い、こころに決定権を与えた。

いじめられた子供に対してのケアの大切さをドキュメンタリーさながらのリアリティで描く誠実さは前述の通り。あなたの子供がいじめにあったら、こころの母親のように対応できますか、と問いかけてくるような切実さがある。

いじめの加害者の真田は、徹底して悪として描き情状酌量の余地がない。原作小説では加害者の真田にもフェアに、という気遣いがあったとの事だが、本作ではこころの心情にフォーカスしてゆく作りゆえ、この描き方は正解だったと思う。中学生女子とはいえ、いじめの怖さが伝わってくる演出と芝居であった。

なお、孤城に招かれた7人だが、この小さなコミュニティ内でもウレシノに対して嘲笑しいじめの空気ができてしまう。いじめの被害者の集まりにも関わらず、というのがいじめの怖いところである。

ちなみに、召喚された7人の中でもっとも過去の時代から来たスバルは1985年。2023年に生きていれば52,3才である。本作では、いじめは2027年の未来までも続いており、いじめは無くならないという設定である。いじめはガンのように人間と表裏一体にあるため、天然痘ウィルスのように根絶することは難しいのだろう。

問題は、その根絶できない「いじめ」をどう向き合ってゆくか、みたいなドラマがあったように思う。

心の傷を持つ者に対して、相手の言葉に耳を傾け、一緒に戦うこと。そうして救われた人もまた、同じように人を救っゆける。この循環による希望が描かれたように思う。

ラストに向かって畳みかけてくる巧みな推理小説的な脚本

キャラ 年号 備考
スバル 1985年
アキ 1992年
- 1999年 リオン姉病院で死亡
こころ/リオン 2006年
マサムネ 2013年
フウカ 2020年
ウレシノ 2027年

本作は違う時代から雪科第五中学の不登校の者を寄せ集めてきて、孤城での集団セラピーを実施したという構図になっている。

仕掛け人となるリオン姉が亡くなるまでの1999年5月~2000年3月までが軸となる時間であろう。リオン姉もまた、雪科第五中学に通えなかった生徒である。リオンは姉と一緒に雪科第五中学に通いたかったという願いがあった。変則的ではあるが、中学そのものではなく、不登校の生徒を時空を超えて集めることで、もう1つの雪科第五中学を体験することになる。

スバルもそうだが、アキの髪を染める行為やマニキュアなどの化粧は、親や社会への反発を意味する。この辺りは時代を感じさせるモノがある。また、マサムネが熱狂していたゲームが、ウレシノの時代には映画化されて大ヒットしていた経緯など、ミステリーとしての巧みさを感じさせる。各キャラが連れてこられた年号差が7年である事も小中学校を通して面識を持たないための設定であろう。

リオンは、オオカミさま(=リオン姉)に孤城での記憶を失いたくないと懇願し、オオカミさまは、善処すると回答する。おそらく、記憶を残す代償として、リオンは姉がいた記憶を失ってしまう、という流れだったと思う。しかし、各キャラの孤城の記憶は、キャラごとに程度が違うような感覚を受けた。

それは、4月にこころとリオンが再会したときにこころの表情で薄っすらとした記憶に感じたし、逆にアキが喜多嶋先生となってこころやマサムネやフウカをフリースクールでケアしてゆく流れは、鮮明にアキに孤城の記憶が残っていた事を意味すると思う。スバルがマサムネのためにゲームを作るのも明確な記憶なのだろう。もしかしたら、未来に逢う人の事は記憶しているのかもしれない。この辺りの考察は曖昧である。

キャラクター

こころ(安西こころ)

原恵一監督の前作「バースデー・ワンダーランド」でもそうだったのだが、主人公のこころの目線で物語が描かれる。つまり、中学一年生女子のこころの感性に寄り添った映画となっている。

こころは、真田からいじめのターゲットとされてしまい、心の傷と家族にも言えない息苦しさを抱えていた。フリースクールに顔を出してみたものの、翌日以降もお腹が痛くて家から出られない。外出に対して極度のストレスがかかるという症状であった。

おそらく、喜多嶋先生が熱心に母親にアプローチし、心の傷を持つ生徒に対する接し方を的確に教えてくれたのだろう。そのおかげで、母親がこころに無理強いせず、学校側とも毅然とした態度で戦ってくれた事で、こころはかなり救われた。

孤城では、リオンに赤面することもあったが、他のみんなともちょうどいい距離感での関係を築けていた。

女子3人でのティータイムで、アキとフウカに自分がいじめのターゲットになっていた事を告白し、アキがこころを抱きしめた。みんながオープンにするわけではないが、各々が心の傷を持っていることは察していた。

これは、外出できなかったこころにしてみれば、孤城での集団セラピーがかなり効果的に効いていたと言ってもよいだろう。フリースクールも同等の効果なのかもしれないが、先生の指導ではなく、生徒同士が自主的にお互いにケアしあう良い関係の下地ができていた。

こころにとって、萌の存在も大きかった。仲良くなりたかった友達。3月に直接話して、今は真田からいじめのターゲットにされ戦っていたこと。そして、こころを巻き込まないために無視したことを打ち明ける。萌の凛とした態度と芯の強さへの尊敬。しかし、3月に転校してしまうとも。中学になってはじめてできた友達との別れは残念だが、萌はこころを勇気付けた。

オオカミに喰われたアキたちを助けるために、鍵を探し願いを叶えるという行動に出たこころ。おそらく、はじめて他人を助けるための勇気の行動である。願いの部屋で見る6人の心の傷。その痛みを共有し、みんなの力でアキを繋ぎとめた。この7人なら助け合えるかも、が実現した形である。

喜多嶋先生と母親の働きもあって、いじめグループと一緒のクラスにならないような配慮がされたこともあり、雪科第五中学への登校を選択したこころ。2年生になってリオンとの再会というサプライズなのだが、当人の記憶が残っていたのかは個人的にはよくわからなかった。しかしながら、好意的な仲間と一緒であるという明るい余韻を残して本作は〆る。

一度は完全に心を閉ざしてしまったこころ。喜多嶋先生の誠実な対応とたゆまぬ努力、母親が味方になってくれたこと、孤城の友達との心のリハビリ、萌という共感し尊敬できる親友。こうした幾重ものヘルプと自尊心の回復があり、やっと登校できるまでに復帰できた。そして、自らも手を伸ばす側に立てるという事も。

そうした弱者への救いがこの物語には有ったと思うし、本作の鑑賞後の心地よい余韻になっていたと思う。

アキ(井上晶子)/喜多嶋先生

アキが最後に直面した問題は、義父によるレイプ未遂。母親は不在がち、面倒を見てくれていた祖母の死別と不幸な条件が重なった。彼氏も遠ざかった。恐怖から家に帰れず、17時を過ぎても孤城に居残ってしまい、オオカミに喰われた。

孤城に残るということは、現実の世界を捨てることであり、自殺と同義であろう。それを引き留めたのがこころであり、こころはアキの命の恩人である。

こころがいじめのターゲットになり孤独に戦っていたことは、女子3人のティータイムの告白で知っていた。このときアキは、こころを抱きしめている。

だから、アキは現実世界に戻ったとき、未来に出会うこころを救うために、いじめ被害者へのケアについて知識を身に着けて準備した。14年後に喜多嶋先生として、こころを救うために。

知っていたからこそ、根気強くこころの母親を説得してケアの仕方を教えて、学校側とも一緒に戦った。喜多嶋先生の静かだけど誠実なまなざし。全てはこころへの恩返しだったと言える。この時空を超えた救済の循環の物語が良かった。

オオカミさま/リオン姉

病床のリオン姉がリオンのために叶えた願いは、姉と一緒に雪科第五中学に通うというものであり、それを具現化したのがかがみの孤城であったと思う。

孤城でのルール設定は、その願いとは直結していないかもしれないが、これは物語のための設定なのかな、と個人的には割り切っている。鍵探しのヒントになる絵が、萌の家に飾られていた事の因果関係も不明だが、原作小説にはもう少し細かな補足があるのかもしれない。

孤城ではオオカミさまとして、ゲームの進行役となった。なぜ、もっと直接、素顔でリオンと接しなかったのか、そのあたりの心情や設定もまた不明である。

ただ、いつでも孤城にオオカミさまとして現れたことから、ずっと孤城の様子は監視出来ていて、リオンの事もずっと見続けていたのだろう。弟の成長と友達との交流。

リオンは最後にオオカミさま=姉であることを理解し、願いを使ってしまったけどみんなとの記憶は無くさないで欲しいと懇願する。姉からの返事は、善処する、である。明確には書かれていないが、おそらくリオンは記憶を有したまま、現実世界で雪科第五中学に転入してきたものと思われるが、その代償として姉の記憶を失うという切ないオチがついた。

参考

備忘録として、いくつかの原恵一監督のインタビュー記事のリンクを下記に列挙しておく。

おわりに

今回のブログは、いろいろとタイミングもあり難産で時間がかかりました。

原恵一監督の作品の丁寧さと誠実さは、前作「バースデー・ワンダーランド」で理解していましたが、今回は物語然とした脚本の良さもあり、映画のお手本とも言える出来栄えだったと思います。

とにもかくにも、主人公こころの心に寄り添うのが上手い。切なくも救いのあるラストで、鑑賞後もじわじわと暖かさが染みる感じの作品だと思いました。

2022年秋期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2022年秋期のアニメ感想総括です。今期観た作品は、下記5本。

  • ぼっち・ざ・ろっく!
  • Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-
  • アキバ冥途戦争
  • うる星やつら
  • SPI×FAMILY(2クール目)

後追いで観たので、下記を追加

感想・考察

ぼっち・ざ・ろっく!

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 緩い、可愛い、カッコいい、心にしみる、熱い、なんでも有りの幕の内弁当感
    • 実験的、かつ多彩な表現力で楽しませてくれたギャグパート
    • 精密なだけでなく、その上にドラマも乗せてくる圧巻の演奏パート
    • 全体を通して美しさを感じるストーリー構成
  • cons
    • 特になし

本作を一言で表現するなら、きらら×バンド×陰キャコミュ障。コミュ障のぼっちが得意のギターを片手にバンド活動を通して少しづつバンド仲間たちと不器用ながらもコミュニケーションしてゆく、という感じの4コママンガ原作のアニメ。大半はコミュ障がらみのギャグだが、ガチなバンド演奏シーンや、しんみりする良いシーンもあり、色々と見どころが多い作風である。

制作はCloveWorks。プロデューサーは梅原翔太。監督は斎藤圭一郎。キャラクターデザイン・作画総監督はけろりら。シリーズ構成・全話脚本は吉田恵里香

本作の最大の特徴は、ぼっちのコミュ障ゆえの奇行をギャグとして昇華しているところだろう。

ぼっちは陰キャで友達が一人も居ない。ネットではギターヒーローとしての側面もあるが、リアルでその事を知る者は居ない。友達が欲しい、でも小心者で人前では何も言えなくなり、結局流されてしまうという悪循環。そんなぼっちのテンパっている姿やフリーズしている姿がギャグとして拾われてゆく。時には福笑いのように顔面が崩れてしまったり、ときには実写の風船が割れるシーンやダム放流シーンを挿入したり、劇画調のツチノコになったり、着ぐるみの承認欲求モンスターになったり。ゾートロープ(ストップモーションアニメーション)という手間がかかる実写撮影方法はコスパで考えれば割が合わないとさえ思える技法も取り込む。これらの特殊な表現は、ぼっちの内面のパニック状態やストレスがかかり過ぎてフリーズ寸前の非ノーマル状態に応用される。これらの表現は演出的な意図でもあるのだが、その表現の徹底的な多彩ぶりが可笑しいところまで昇華している。

ここで1つポイントなのは、ぼっちを否定するニュアンスを乗せない点だろう。結束バンドやSTARRYの面々もぼっちの奇行にツッコミは入れるが、その事でぼっちを馬鹿にしたり、拒絶したりはしない。その辺りは今風の配慮かと思う。

そして、ぼっちは孤独な現状が良いとは決して思っておらず、バンドで有名になるという夢と同時にバンド仲間を大切に思っている気持ちに気付いてゆく。より繋がりたいし、バンドを続けたいし、結束バンドとして有名になりたい。変わりたいという気持ちがあるから、生じるギャグにさえ若干の切なさも帯びてくる。

本作の2つ目の特徴は、ライブシーン映像の精密さにある。

実際に楽器を演奏してモーションキャプチャーで作っているようだが、演者(=奏者)からキャラの芝居(=動き)を意識しているため、運指からちょっとした仕草に至るまで違和感がない。ここまでは当然と言えば当然なのであるが、本作はその上で演奏内にドラマ要素を盛り込んできている点が凄い。

8話の初ライブシーンでは1曲目の演奏が緊張のためズタボロだったところ、ぼっちが奮起していきなりギターソロを演奏しはじめて空気を切り替えて、2曲目の演奏に突入し観客にもウケたという流れ。これは演奏を聴いても(=見ても)1曲目はダメで2曲目でハマっているというのが分かるという表現力の凄み。

また、12話の文化祭ライブシーンでは、ぼっちの機材トラブルを察して、郁代のギターで間奏を誤魔化し、ぼっちが対応できると踏んだ時点で間奏をもう一周分リズム隊の虹夏とリョウが伸ばして、そこにぼっちのボトルネック奏法が入るという超胸阿熱連携プレイを演奏シーンにドラマとして乗せるのである。

こうしたドラマさえも演奏の映像のみで理解させるというストイックさである。

そして楽曲はプロが結束バンドならこうだろうという曲作りゆえに、高校生らしからぬプロ並みの完成度である。もちろん、昨今のアニソン(挿入歌)の文法にならって歌詞は作品世界とリンクしている。ここまで来れば、神曲なのは当然とも言える。この辺りは、ANIPLEXの作品作りへの執念というか本気度が分かる。

本作の3つ目の特徴として、絶妙なシリーズ構成についても触れておきたい。

前述のとおり、ぼっちは一人ぼっちな孤独な存在ではあるが、他者を求める(=友達を欲する)内面がはっきり描かれており、物語上の問題点とゴールはこの点を注目する事になる。

本作は、この他者を求める気持ちに対して、時間をかけてゆっくりとぼっちの心を開いてゆく過程を描くことになるのだが、その1クールのシリーズ構成の各話の刻み方とゴールの設定が絶妙である。

本作は、前述の通りギャグシーンが多い。それは、8話までで原作マンガ1巻分というペース配分にも大きく起因しているのだが、本編の進みの遅さに対してギャグシーンの尺を伸ばして隙間を埋めるディレクションになっていたと思う。その事もあって、ドラマ部分は各話極薄となるが、それを各話終わり頃にちょっとイイ感じで挿入してくる。

ざっくりした流れで言えば、1話で虹夏がぼっちを無理やり結束バンドの助っ人奏者として引き入れたという形だろう。ギター演奏はボロボロでも敢えて引き留めたのは、虹夏が夢を焦っていた事、ぼっちが流されやすい性格である事を理解してのことだろう。その後、ライブハウスのバイト、ボーカル勧誘、郁代のギター先生、作詞、チケットノルマとぼっちにとっては不慣れなイベントが続くが、この経験を通してぼっちの中での結束バンドの関りは特別なものになってゆく。バンドを続けて4人で有名になりたい、そう願うほどに。

オーディション演奏も初ライブ演奏も、その気持ちを演奏に乗せて結束バンドのピンチを救い、虹夏からも感謝され、郁代からも羨望のまなざしを受けた。12話の文化祭ライブ演奏では逆に郁代、虹夏、リョウのナイスアシストにより、ぼっちがピンチで諦めずに人前で演奏を繋ぐという、ぼっちの成功体験が描かれる。これは、8話と12話のヘルプの逆転になっている。

その後、新しいギターを購入し、一歩踏み出した事によるぼっちにとっての新しい世界の予感が描かれたところで〆る。最後のED曲はアジカンの「転がる岩、君に朝が降る」というのは上出来である。

本作は、ずっとこのラストに向かってゆっくりとシリーズ構成が組まれてきたものであり、やはり12話の脚本は至高だと思う。

シリーズ構成と全話脚本は吉田恵里香だが、実写ドラマで向田邦子賞も受賞しているとのこと。アニメの脚本もやられているようだが失礼ながら存じ上げていなかった。今後の活躍も楽しみな脚本家が増えて嬉しいばかりである。

Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 萌えあざとくないのに可愛い、強度の強いキャラクター
    • 敢えて、電動工具を扱う緊張感を描いた誠意ある作風
  • cons
    • キャラ強度が高すぎて物語が多少弱く感じたこと
    • せるふのキャラ造形に全ての皺寄せが来ていたように感じたこと

ズバリ、女子高生×DIYという組み合わせの本作だが、個人的にはキャラデザが萌え絵ではない点が新しいと感じた。DIYという事で、舞台となる新潟県三条市と工具のメーカーの高儀が協賛しているため、工具の描き方はガチである。

制作はPINE JAM、監督は「かげきしょうじょ!!」の米田和弘、シリーズ構成・全話脚本は筆保一幸という座組。

本作の特徴は、なんと言ってもキャラクターデザインと作画にあると言っても過言ではないだろう。ひと頃は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」に代表される複雑で線の多いキャラデザインが目立っていたように思うが、本作のキャラクターデザインは真逆で線や色が少ない。それゆえ、簡素で作画コストはかからないとは思うのだが、逆に線も色も少ないため、緊張感を持った線で表現しなければチープになってしまう難しさがあると思う。その点、本作はシリーズを通してもう作画に安っぽさは感じず、動きも軽快で心地よいものだったと思う。線が少ないとは書いたが、もう一つの主役である工具やスニーカーなどの靴は細かく描き込まれていて、メリハリをつけている。

テーマについては、DIYという生き方を扱っている。既製品の押し付けではなく、自分の欲しいものを自分で作ったり手に入れたりする。そして、DIY部に集まってきた部員たちは、その集まり、場所自体も心地よいものに改造してゆく。ときには、費用不足や部材破棄などのトラブルもあるが、DIYで作った小物を売ってこづかいを稼ぎ、周囲の協力も得ながら乗り越えてゆく。という感じの流れである。

DIY自体は、スキー板ベンチやDIY部の表札にはじまり、売り物の貝殻アクセサリーやタブレットスタンドを経て、最終的にツリーハウス作りに挑む。ツリーハウスはともかく、女子高生にも工作できるレベルのDIYが描かれるが、DIY監修もあってのリアリティだろう。ツリーハウスという高めの目標を設定してからは、さまざまな試練に遭遇しつつ、くじけそうになっても諦めず誰一人欠ける事なく全員でやりきって目標達成する喜びを描いた。遠い道のりに見えても、諦めずに望みを形にしてゆけば必ず手に入るという肯定の物語である。

文芸面は、ごちうさシリーズも手がける筆保一幸という事もあり、女子の関係性の描き方は見事。無神経なせるふに振り回され拗ねていたぷりん。ジョブ子に共存する明晰な頭脳と幼児性。自分らしさを求めてアウェイで居場所を勝ち取り続けなければならなかった、しー。引っ込み思案なたくみん。面倒見がよく、見た目と裏腹に少女趣味な部長のくれい。物語に負けない強みのあるキャラ作りで、逆に言えばキャラが物語に食われる事無く、自由にキャラを泳がせていたような良い印象を持った。

と、ここまではよくある女子高生部活モノであるが、本作が尖っているのは、なんといっても主人公せるふのキャラ付けだろう。せるふはAHDHと思われる性質を持っており、集中力が低く複数の仕事を並行にこなせない。また、不器用で工具を上手く扱えない。キャラデザインとしていつも半分シャツがスカートから出てる。事あるごとに妄想の世界に入り込む。こんな調子なので、自転車に乗っては電柱にぶつったり、ケガでばんそうこうが絶えない。ただ、せるふは誰にでも躊躇なくぶつかってゆける強さがある。また、せるふが描く絵は独創的で絵画としても魅力的。学年3位で成績優秀。細かな事を言えば、AHDHでも忘れない手順を確立すればシャツくらいしまえる。この性格で成績優秀は無理筋ではないかとも思うが、この設定はせるふを哀れにし過ぎないチューニングなのではないかと勘ぐっている。いずれにせよ、このようなキャラの扱いはセンシティブになるが、本作では主人公というのが攻めている。

これに関連して、せるふが電動工具を使う際に、不器用な者が工具を使う危なっかしさを描く。電動工具があればハッピーでなんでも作れちゃう、みたいなお気楽な描き方ではない点がなかなか渋い。そのせいで、工作シーンはいつもちょっとした緊張感を漂わせていたと思う。最初にせるふの危なっかしさをを見たくれいは、せるふに危険な工具を使わせず、仕上げのネジ閉めをさせたりしていた。主人公の技能が一番低いという作品はなかなか存在しない。

10話でせるふにスポットライトが当たる。結局、小物も売れてない、DIYも完成させられないという負い目。今度こそDIY部員の前で豚小屋を完成させると意気込むも、結局DIY部員たちの協力を得て、なんとか完成という流れ。工作できなくても、イメージ図などで役に立っているとして丸く収める。多様性というか、できない事を否定せず受け入れるという流れなのだが、このあたりは今時のエンタメだなと思う。部長のくれいは12話のツリーハウスの完成のネジ締めをせるふに任せた。せるふの存在あってこそのDIY部であり、達成感の共有である。

本作は、DIY意外にもせるふとぷりんの関係性の物語があった。なにかと出来ないせるふに対して、ぷりんがやや怒り気味に食いついてくるツンデレ設定なのだが、ぷりんはせるふの事をいつも心配しているのに、せるふはいつもの調子で親心子知らず的な対応。そして、この関係性の原因が12話で明かされる。中学入学の際、何でも一人でできるようになりたいからと、せるふがぷりんの世話焼きを拒否した事。しかも、せるふはその事自体も覚えていない。ただ、小学生のときのウィンドチャイムの事は大事だから引き出しにしまっていたと聞き、せるふがぷりんを大切に思っている事がやっとフィードバックされた形。せるふの言葉はいつもその瞬間の本当の気持ちだろうが、忘れてしまうという意味で移ろいやすい。しかし、大切に保管していたという事実は揺るがない証拠なのである。こうして、素直になったぷりんと、いつものせるふは3年3か月のプチ喧嘩期間を経て、もとの親友に戻ったという綺麗な帰結。

他のDIY部員たちも個性派揃いで色々書きたいところもあるが、キリがないのこのへんで。

ここからは少しネガ意見を。

本作は1話で人生をDIYするというテーマを掲げていたが、最終回まで見てそこまで人生を改造していた印象は持たなかった。多分、これが描かれたのはしーの回。しーはアジアのどこかの国のお姫様設定だが、おてんば娘でしきたりなどが肌に合わず日本へ来た。しかし、湯々女高専でも破天荒なしーは浮き気味だったのであろう。しーは、日本に飛び出してきたこと、わざわざ自分の肌に合いそうなDIY部を見つけて仲間になったこと。そういう意味で、レールを逸脱し絶えず人生を改造してきたと言える。個人的に不満なのは、しー意外は別に人生まではDIYしていないと思うし、文芸にそのあたりを期待してしまったのは、筋違いだったのかもしれない。いずれにせよ、本作は物語のために全ての要素がキッチリハマるという作りではなく、強度の強いキャラを適度に泳がせて作っていた感がある。ジョブ子のステイ先がせるふ宅ではなく、ぷりん宅な点もちょっとした変化球に感じる(それもまた本作の魅力ではあるのだが)。そういう意味で思わせぶりな「人生のDIY」テーマを期待してしまったせいか、その部分が弱いという印象を持ってしまった。

それともう1つ。挑戦的ではあるが、色んな意味でせるふのキャラ造形に皺寄せが来てしまった印象を受けた。1話をみたときには、シャツがしまえないキャラデザと工具を扱えない設定でせりふは発達障害か何かだと思った。絵画の才能を発揮するところではサヴァン症候群も連想した。集中力がなく夢想癖である描写も出てきて、AHDHかもしれないとなった。AHDHは知恵遅れではないし、チェックリストなど注意すればシャツくらいしまえる。そうこうしているとせるふが学年3位の成績である事が判明し、うーんとなる。せるふのキャラ造形の根幹は、工具をまともに扱えない人を登場させる事で工具の危険性も同時に描きたかったからではないか、と想像している。そこをベースにぷりんのツンデレの関係性に発展させる。こう考えると、せるふの症状自体はリアリティを持ったものではなく作劇優先なのかな、とも思う。せるふというキャラを追い込むときに、個人的にはその雑味がノイズに感じてしまった。

とはいえオリジナル作品で脚本自体は萌え要素満載だし、しーは語尾に「にゃ」を付けているのに、萌えや媚びのあざとさは感じさせない、気持ちよく可愛さのある今風のテイストに仕上がった点は大いに評価したい。DIY自体の魅力や知識も伝えるというミッションも達成しつつ、バランスの良い仕上がりになった作品だったと思う。

アキバ冥途戦争

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 異色のメイド×任侠モノのとんでも設定とシリアス×ギャグの味の濃い目の演出
    • 人間ドラマの泥臭さや大河ドラマ的な物語感のあるシリーズ構成・脚本
    • コンプラ的に時代に逆行する挑戦的なネタを、リスペクトと熱意を持って令和時代に作り切った
  • cons
    • ギャグがかってはいるがバイオレンスシーンが多めで見る人を選ぶところがある

異色のメイド×任侠モノ(=萌えと暴力)のオリジナルアニメ。制作はCygamesとP.A.WORKS。プロデューサーは「ゾンビランドサガ」の竹中信広で、とんでも企画を匂わせる。監督は青ブタの増井壮一。シリーズ構成の比企能博はアニメの脚本は初との事。

本作のエンタメとしての軸は、昭和の任侠モノの緊張感と切迫感のシリアスさを、ふりふりのメイド服を着たメイドが繰り広げるというコミカルさのギャップにある。お笑いの基本となる緊張と緩和と考えてよいと思うが、ドラマ部分が切実であるほど、メイド接客などが皮肉な笑いに増幅される構造である。この任侠モノをリスペクトする肯定と、ギャグとして消化する否定が同居する絶妙のラインの上に成立している。

1話は、平和ボケした視聴者をふるい落とすところから始まる。なりゆきでライバル系列のメイド喫茶に殴りこんでしまったなごみと嵐子だが、嵐子がピストルを取り出し相手の店長を射殺する。そのまま乱闘になるが嵐子は冷静さを保ったまま、次々とメイドを射殺して二人は自店に戻る。その際に、嵐子はオタ芸のペンライトのごとくピストルを振り回して乱射するという狂気の映像である。これは本作がギャグ作品であることを伝えるための、視聴者への強烈な先制パンチであるが、令和の映像にしてはさすがにジョークがキツイ。令和時代に人が虫けらの様に射殺されてゆくエンタメというのは少ない。正直、個人的には1話を見終えて後頭部を殴打されたようなめまいを覚えた。

しかし、2話を見たときに、この違和感が少しづつ面白さに変わって行く感覚があった。資金繰りに困るとんとことん店長が闇金に手を出し借金返済のためにメイドたちがカジノに訪れる。一人づつ身ぐるみはがされてゆくメイドたちだが、勝負師ゆめちがポーカーのイカサマを見破って啖呵を吐く。一瞬たじろぐディーラーとギャンブル相手。しかし、開いたカードは勝ちに届かず。結局、その場にいた闇金屋を射殺、その場は乱闘、乱射となり、最期はガス爆発でビルを吹っ飛ばしてとんずら。無茶苦茶な展開だが、底辺メイドという理不尽な状況の中で、ストレスの根源となる悪役を射殺してしまうことに、ある種の禁断のエンタメの快楽のようなものを感じた。

時代設定の1999年(23年前)というのも絶妙だと思う。現代劇だとアウトだが、時代劇であると考えるなら、雑魚メイドが次々に射殺される展開も西部劇やチャンバラ的に許容されるギリギリのラインでのディレクションである。この時代劇感がなければ本作は成立しなかっただろう。

本作のもう1つの肝は、メイドたちがアキバという限定した地域に縛られている事である。アキバの理不尽な弱肉強食のルールが辛すぎるなら逃げてもいい、というのが今時のエンタメ感覚なのだろうが、本作がそうではないところも昭和テイストである。実際のところ、古今東西人間社会で多かれ少なかれストレスを受けながらも社会に守られて生きているし、その社会から飛び出す事は難しい。日本が嫌だからといって実際に海外移住できる人は少ない。本作の10話では、嵐子とヒットマンが駆け落ちしてカタギとして暮らすという選択肢が提示されるが、思いがけない御徒町の行動によりそのチャンスは潰されてしまう。途中下車できない呪われたメイド人生の悲哀を演出した回だったと思う。

本作では、アキバのメイド喫茶暴力団組織という対比の中で、個性的なメイドたちの強烈な生き様が紡がれてゆく。各キャラの暴力、仁義、愛、カネのパラメーターを整理してまとめるとこんな感じか。

メイド 暴力 仁義 カネ メモ 最期
美千代 - - - 嵐子の優しさにほだされる 凪の指示で御徒町に射殺される
× × 暴力とカネによる恐怖政治
愛は信用できない
つきちゃん残党メイドに射殺される
御徒町に竹槍を投げつけられる
嵐子 - 愛するものを守るためだけに戦う つきちゃん残党メイドに刺殺される
御徒町 - - - メイド人生を踏み外し
日陰者として生きる
愛美 × - 危険な武闘派として、
メイドリアン代表宇垣に射殺される
ねるら × - 姉妹愛 なごみを庇って裏切ったとして、
愛美に射殺される
なごみ × × - あくまでも非暴力
一度はメイドから逃げ忍者に
-

◎:最重要、〇:重要、×:重要ではない、-:不確定

凪は孤児であり、愛を信じず武力だけを信用した孤独な存在である。部下である系列店から金を貢がせ、従わない者は容赦なく殺す。暴力と恐怖政治でケダモノランドグループを作り、ライバル系列であるメイドリアングループも吸収合併し、弱肉強食のアキバで頂点に立った。美千代の暗殺を指図したのも、11話で嵐子を直属の部下にしようとした事も、大好きな人が思い通りにならなかった凪のひねくれた愛情だったのかもしれない。

嵐子は凪とは逆に暴力を嫌っていたが、1995年に勤め先のメイド喫茶の店長が目の前で射殺された事で、自分が大切なものを守るために暴力が必要な事を思い知る。そして、1999年に嵐子はムショを出てアキバに戻り、メイド喫茶とんとことんのメイドとして再び働きだす。かなりの武闘派ではあるが、嵐子のポリシーは専守防衛。大切なものを守るためだけに戦う。寡黙で不器用な高倉健と言った役どころである。

なごみはメイドに憧れて上京したが、理不尽だらけの暴力まみれの現実のアキバに失望し翻弄されつつも、とんとことんのメイドとしての生き方を模索してゆく。6話で姉妹の契りを交わしたねるらが落とし前をつけて愛美に殺された事をきっかけに、非暴力の生き方を貫こうとする。実際にはきれいごとだけでなく、メイドを辞めようと思ったり、復讐のために暴力を振るったり、さまざまな紆余曲折な経験を経てラストに着地する。

物語的には、アキバ社会の大きな渦に呑まれたメイドたちの大河ドラマ側という側面もあった。愛に対するトラウマからアキバに暴力とカネで君臨してゆく凪。仁義を重んじて凪に戦いを挑むも身内から射殺される愛美。これをキッカケに事実上の独裁者となる凪。しかし凪も嵐子を刺殺したチンピラメイドの射殺されあっけない幕切れとなる。エピローグから察するに、アキバの暴力はその後ゆっくりと消滅していったのだろう。本作は、キャラものの日常系のとは正反対の、諸行無常や栄枯盛衰を感じさせる骨太な物語があったと思う。

これまで書いてきて事と矛盾するように思われるかもしれないが、本作は一見無茶苦茶に見えて、実際には殺した人もまた殺されるというような因果応報があり、個人的には割とすんなり物語や人間模様を受け入れる事ができた。なんというか、狂気の中にある、ある種の切なさや哀愁を感じさせる物語に感じた。この辺りは、この手のストーリーの文法やお約束のようなモノがあり、それに馴染んでるかどうかで感触が変わるのかもしれない。

昔、萩原健一主演の「傷だらけの天使」というTVドラマがあった。かなり泥臭さのある作風だったが、本作のも同様の手触りを感じた。その後登場する松田優作主演の「探偵物語」ともちょっと違う。後者も泥臭さはあるが、時代とともにスタイリッシュなカッコよさが含まれていたのだが、前者は情けないまでにカッコ悪さを含んでいる。本作の制作陣には、そうしたダサくなってしまった泥臭さに対するリスペクトを強く感じる。ただ、今の時代に馬鹿正直に泥臭さい物語を作っても受け入れられはしないのでメイド萌えという要素を入れつつギャグとして見やすいチューニングにしているが、その泥臭さいシリアスな芯の部分をちゃんと残しているところが本作の良さだと思う。

うる星やつら(1/4クール)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • ラムちゃんという唯一無二のキャラクターの可愛さ
    • 新キャストの違和感の無さ
  • cons
    • 昭和を残したリバイバルなためか、どうしても突き抜け感、パンチ力は弱めに感じてしまうところ

原作は、言わずと知れた高橋留美子先生の傑作マンガ。1981年から1986年にTVアニメが放送され人気を博したが、小学館創業100周年記念として、約40年の時を経て令和の現代にリメイクされた。

制作はdavid production。監督は髙橋秀弥、木村泰大の二名体制、シリーズディレクターは亀井隆広。シリーズ構成は安定の柿原優子。キャラクターデザインは「映像県には手を出すな」が印象的だった浅野直之

個人的には、昭和版のうる星やつらもしっかり見てきており、当時からラムちゃんが可愛いとドハマりしていた。古のオタクの中では押井守監督を抜きに語れない作品となっており、劇場版の「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」は名作として認知されている方が多い。半面、原作マンガのテイストから乖離してしまった面もあった。

少し脱線するが、個人的に一番気に入っていたTVアニメのうる星やつらは、スタジオぴえろスタジオディーンに制作が切り替わった最初の回である、第107話「異次元空間 ダーリンはどこだっちゃ!?」。どこか少しづつキャラがブレてる異次元空間に迷い込んだラムちゃんがあたるを見失い、やっと探し当てたあたるが妙に優しすぎて違和感を感じ、このあたるは違うからと元の世界に戻ってくる話。

昭和版ではアニメオリジナル要素で暴走気味のところもあったが、令和版では原作マンガに忠実に寄せてきている。40年の時を経て社会情勢、生活様式コンプライアンスも大幅に変化している。時代設定、ギャグが当時のままでの映像化ゆえに、時代のギャップに違和感が炸裂するかとも身構えたが、個人的にはノスタルジー込みで、昭和時代を描く時代劇と理解して楽しめている。

シリーズ構成的には、あたるとラムの二人の恋愛関係を軸にエピソードを整理した感じが手堅い。この辺りは、シリーズ構成の柿原優子さんの手腕であろう。宇宙タクシーとかテンちゃんとか恋愛以外のバラエティ要素を削り、恋愛物語としてみたときのノイズを軽減している。1クールのあたるの心情は、1話でラムが押しかけ女房として居座り、5話でラムのいじらしさ可愛さに気付き、10話でラムが出てゆき戻らないことを本気で寂しがる、という流れをポイントを押さえて描いている。対してラムは、5話や10話で稀に見せるあたるの優しさを噛みしめながら、あたるの腕を握ってゆくという構図である。

あたるとラムの恋愛を語るときに、どうしても昭和について語る必然性に迫られる。あたるとラムの関係は恋愛結婚ではなく見合い結婚と考えてよいだろう。相手のことを良く知らない者どうしが、ある日いきなり夫婦として暮らす(高校生と宇宙人ゆえにハチャメチャではあるが)。あたるにしてみれば、相手はイイ女が惚れてくれるのは嬉しいが、拘束がキツイ。自由を求める男と、束縛する女という構図である。昭和の女性の歌謡曲の歌詞を聴くと、驚くほど男に置いてけぼりにされたという歌詞が多い。ウーマンリブという言葉もあったが、女は男の後ろに付いて尽くすという時代の名残が昭和後期にも多少あったのだと思う。また、あたるとラムは恋愛の末の結婚ではなく見合い結婚のようなものであろう。結婚→恋愛の順番である。結婚してから可愛さを知る。この辺りの結婚=縛りの概念も昭和テイストを感じずにはいられない。

恐らく、しのぶは典型的な日本人女性であり、ラムはしのぶのカウンターになる女性だったのだろう。スタイル抜群、耐え忍ばない、目尻は上がっていて強気(≒気持ちに正直に行動)。そんな昭和感のない女性が惚れてくれるのだから読者は嬉しいのだが、それではギャグが成立しないので男は逃げる。ただ、ラムの幼馴染の弁天やお雪は恋愛からも解放されているし、ランちゃんや了子のような拗らせキャラもいて、既に昭和のテンプレートから外れたキャラも多数いた。それがその時代に新しかったし、SFでもあったが、今となっては古典である。

これらのキャラの対比で見えてくるのだが、ラムが特殊なのは、見た目の非昭和感の軽快感とは裏腹に、恋愛に一途という可愛さがあるというところにあると思う。つまり、昭和の女性への押し付けの価値観からは解放されているが、恋愛部分だけは男に尽くすという昭和感(=男にとっての都合の良さ)が残っている。変わりゆく時代の中で生まれたキャラには間違いないが、後にも先にもラムのようなタイプのヒロインはおらず、唯一無二のキャラだと思う。それゆえに、令和時代でも古びる事無くラムは輝いて見える。

アニメーション的には、リッチすぎるという事もなく、作画もソツがなく、演出も多少緩めで見やすい感じのディレクションである。10話の「君去りし後」は紅葉を効果的に演出に使っており、時折ハッとさせられるが、基本は緩く楽しむ感じの作品である。まだ残り3クール分残っているので、この先ダレそうな予感もあるが、緩く楽しんでゆきたい。

SPI×FAMILY(2クール目)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 子供から大人まで幅広い年齢層に受け入れられる間口の広いディレクション
    • リッチで安定感あるアニメーション
  • cons
    • 子供でも理解できる分かりやすさで作られるため、それが少し物足りないと感じてしまうことも

製作に東宝集英社WIT STUDIO、CloverWorksなどが名を連ねる高予算感ある作品。春秋の分割2クールとして放送されたが、2期と劇場版の制作がすでに発表されている。

本作の設定やあらすじの説明の必要もないだろう。シリアスな設定ではあるが、基本はコメディ色が強く、ドラマ部分も悪くない。子供から大人まで幅広い年齢層に受け入れられる作風が持ち味。作画も動くところは良く動き、作画崩壊とも無縁。文芸も人間ドラマよりやギャグよりの脚本の振れ幅はあるものの、どちらもストレスなくバランスよく見られる。全方位に安心感と上質感を漂わせる優等生アニメである。ただ、それゆえに物足りないと感じる部分も正直ある。

1期2クール目は、大型犬のボンドがフォージャー家に加わり、さらに賑やかに。序盤の学生運動の爆弾事件のサスペンスや、新キャラフィオナとロイドのテニス界のハチャメチャながら熱量の高い回がある一方、フランキーの暗号解読などの息抜き回や、ベッキーとアーニャのデーパート回などの緩くもちょっとイイ話など、シリーズ通しての物語のバリエーションの多さが特徴だったと思う。

個人的には、23話、24話のヨルが切なかった。フィオナの登場により、ヨルは妻役、母親役の座を奪われるのではないかという疑念を抱く。そして、殺し屋を続ける事が第一目的だったのに、いつのまにか家族を続けけたい気持ちが勝っていたと自覚してしまう。二人でバーに出かけとき、ロイドはヨルの恋愛感情を察知し、任務としてハニートラップでヨルの心を操作しようとするが泥酔したヨルに蹴とばされ失敗。恋愛感情は誤解だったと再認識する。その後、公園のベンチでロイドがヨルに優しい言葉をかける。作劇上はいいシーンなのだが、ヨルは惚れているのにロイドは惚れていない事実が浮彫になる。勿論、恋愛に現を抜かしていたらスパイ失格なのだが、ロイドが優しければ優しいほどヨルが哀れに思えてしまうので、ロイドがヨルに惚れているところをどこかで描いて欲しいと思った。

物語的には、オペレーション<梟>のターゲットであるデズモンドとロイドのイーデン校での接触で1期を終了する。デズモンドの底知れない悪役感を印象付ける演出は見事。ただ、そこまでのストーリー運びは、この大筋とは関係ない小さな物語で埋められてゆくため、進展は牛歩のごとく遅い。これも、フォージャー家の関係性を大きく変化させず、長寿人気番組を狙う上での戦略なのであろう。

1クールアニメが大量生産されるなか、こうした長期戦略を見越した設計をされたTVアニメーションに挑戦する事の意義は大きいと思う。東宝がスポンサーに入っている事も含めて、劇場版は当初からの戦略であろう。アニメ映画の興行収入として考えたときに、「名探偵コナン」などの小学生向けの作品の方が圧倒的に興行収入成績が良い。本作が、アーニャの面白さを全面に押し出していることも、スパイミッションを子供にも分かりやすく丁寧に描いている事も、観客層を広くとるための戦略であろう。興行収入は作品の良し悪しとは直結しないため関心が薄いが、個人的には本作がどこまでウケるのかは関心を持って見守っている。

ヤマノススメ Next Summit (2023年1月7日 追記)

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 動きが良くて可愛いキャラ作画
    • 人生=登山と思わせる、思ったよりも深くて大人っぽい脚本
  • cons
    • キャストの声質が、ちょっと萌え方向にくどく感じた(物語が大人っぽいので相対的に)

女子高生×登山。あおいとひなたを中心に、楓、ここな、ほのかの5人の交流を通して、彼女たちの登山を美しい風景と共に描く。親しき友人たちとともに一歩一歩踏みしめながら山を歩き、時にはヘトヘトになって、到達点の景色や達成感を味わう。ちょっと登山=人生みたいな哲学も感じさせる作風である。

本作の一番の強みは、可愛らしいキャラデザインと、キャラ作画力の高さにある。キャラデザインのテイストとしては、エロ美少女マンガ雑誌の「LO」をちょっと連想させるものであり、妙な色気というかエロさがある(作風自体は健全です!)。このキャラが時にコミカルに、時に外連味たっぷりに、実に気持ちよく動く。各話の作画監督で若干テイストが違ったりもするが、アニメーターに生き生きと動かしてもらう事を最重要視したディレクションなのだろう。もちろん、この動きの表現力は勾配のキツイ坂道を進むときや、登山中にバテバテになって足を引きずって歩くシーンなどにも効いてくる。その意味で、キャラの動きの芝居は本作の最重要項目である。

そして、本作のもう一つの主役である美しい風景。登山という事で、木々の間を抜けるけものみちや見晴らしの良い山頂。時にガスってたり、雨天だったり、勢いよく流れる雲海の中だったり。紅葉、雪山、新緑。穏やかさ、険しさ、さまざまな表情を見せる自然を美しく切り取り映像に落とし込む。

本作は文芸がなかなか良いと思うが、その前に、本作の構成について少し触れておかなけばならない。本シリーズは短編アニメとして1期~3期まで制作されており、4期であるNext Summitでは1話から4話がその再編集となっている。4期として新規に制作したのは5話以降。1期放送終了から9年半経っているが、映像を繋いでみても違和感が出ないように作られている。

そういった背景から、4話まではあおい⇔ひなたの関係をコンパクトに描くため余裕(=遊び)がなく、面白さに深みが出せていなかった。また、2期3期は脚本にふでやすかずゆきが参加しているが、どうも女子の関係性(あおい⇔ひなた)を分かりやすくテンプレ的に扱ってしまっていたように思う。5話以降の脚本は基本的に監督でもある山本裕介が担当しており、本シリーズの強みを生かした、しっとりした脚本に仕上がっていたと思う。それは、尺に余裕ができた事と、キャッチーな要素なしにあおいという内気な人物の成長物語に軸を絞れた事が大きいと思う。

2話で、あおいは富士登山中に高山病にかかり、山頂のご来光を拝むことなく下山した経験がある。一緒に行ったひなたとここなはご来光を拝めたが、自分は足を引っ張ってしまったという自責の念が残っていた。トラウマというと言い過ぎかもしれないが、近場で登山したときに遠くに見える富士山を見るたびに、リベンジの気持ちを暖めていた。5話以降の物語としては夏秋冬春と駆け抜けて、11話12話で夏休みに再度富士登山に挑む流れである。あおいは今回も軽い高山病の症状が出るが、無理せずいったん小屋で休んで、無事翌朝ご来光をみんなで拝むことができた。このストーリーの流れで努力や根性を持ち出さないところがイイと思った。準備して一歩一歩確実に前進してゆけば目標に到達できる(=成長する)というメッセージに感じた。一言で行ってしまえば、登山=人生なのだが、それほどステレオタイプじゃなくて、もっと深みがある大人っぽい脚本だと思う。

あおいは、登山中に苦しくなると、なんで私今登山をしているのだろう、と自問自答していた。苦労した後でご褒美の目的地の絶景を見るため、とも言えなくはない。しかし、辛くても前に足を踏み出し続けなければならないのが人生なのだろう。そして、人生は登山が続くから、未来の自分にも今の気持ちをエールとして送ったのだろう。〆としては上出来である。

もちろん、5話~9話の秋冬春の季節を過ごす間に、あおいの成長があるわけだが、そのあたりの脚本も味わいがある。群馬の新しい友人との出会い。失恋したバイト先の女性とのデート。ひなたベッタリだった内弁慶なあおいのひなた意外の級友との交流。そうした一つ一つの経験が、あおいの成長の肥しとなっていた。女子グループの交流なので、ごく微量の百合の匂わせはあるが、その匂いは限りなく薄い。そういう媚びてないところがいい。

最後に少しだけネガ意見。

媚びていないとは書いたが、10年前の作風に寄せている所もあり、キャストの声質はちょっと古いというか萌え方向にクドイ感じもした。物語の大人っぽさからすると、ちょっとリアル寄りでも良かったかな、とも思った。

おわりに

今期は、「ぼっち・ざ・。ろっく!」が一番ハマりました、やっぱり。梅原P作品は信頼できます。1話時点で良い作品になる手応えありましたが、5話、8話のライブシーンは期待通りだったし、12話はそれを超えてたし、ラストに繋がるまでのシリーズ構成も見事でした。

DIY!!とアキバ冥途戦争も、アニオリ作品ならではの安定感とぶっ飛び感の両極端を味わえました。ちょっと、情報量が多かったですね。

THE FIRST SLAM DUNK

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

映画の表現力が凄い、と噂の「THE FIRST SLAM DUNK」の感想です。

ちなみに、私はマンガの「SLAM DUNK」は未読。TVアニメはかなり昔に少し見てた、くらいな感じで湘北スタメン5人くらいは知っているけど、山王とか全く知らないという状態です。もっと言えば、バスケに限らずスポーツ全般疎いです。

そんな私が本作を観ての感想ですが、その迫力に大満足の出来栄えでした。なんかこう、スカッとしたい人にはおススメの映画です。

  • スタッフインタビュー(2023年1月4日追記)

感想・考察

構成は、試合+ドラマパート+etc

今回の主人公はリョータ。試合は湘北vs山王戦の1試合に焦点を絞り、それと並行する形でリョータのバックボーンとなるドラマパートが交互に紡がれてゆく構成である。

スポーツ物の典型とも言えるが、2時間の映画で試合が終わることもあり、間延びする事なく緊張感が続きっぱなしという感じであった。勿論、交互に入るドラマパートで息継ぎをしているわけだが、こちらはこちらで、リョータの行き詰まりの共有によりストレスフルである。

リョータの物語も一本筋の通った気持ちが良いものであったが、やはり3DCGキャラによるバスケットボールの試合の迫力が本作の目玉であろう。

3DCGの圧巻の表現力

いきなり余談になってしまうが、2020年にYouTubeにて「OBSOLETE」という3DCGアニメーションがあった。ゴツい米国海兵隊の軍人と彼らが搭乗する戦術用の小型ロボットが3DCGで描かれていたが、本作のキャラはそのテイストに近い。なお、ドラマパートでは、幼少期だったり、ユニフォーム以外の服装だったりのシーンは2Dアニメで描かれるというハイブリッド構成である。

とにかく、スポーツする人物の描写が緻密さに驚く。全身を汗が滴り、肩で息をする。シューズなどの静的なディテールはもちろんの事、動的な表現もピカイチである。ダンクシュートの瞬間、リング際の敵味方のボールの奪い合い、スリーポイントシュートの静かで美しい軌跡、ゾーンプレスで覆いかぶさる選手の圧力。ボールと身体、そしてユニフォームの動きさえもまったく違和感のない自然な動きで表現しきる。それが、コート内の選手10人分もれなく描かれる点が凄い。カメラに映っている全てのモノがその緊張感と迫力を持っているというのは、絵作りをいかにコントロールしているか、という事に他ならない。

無論、これは3DCGなら誰でもできるというわけではない。3DCGは本来、モデルを作り配置し空間を切り取るカメラを設置し、全てのものを動かして、物理法則を演算(=シミュレート)して、なめらかで違和感の無い映像を作るのが得意という方法である。人物の動きに関してはモーションキャプチャーという実際の人物の動きを3DCGに取り込む手法でリアルな動きを出せるため、本作でもその手法は使われている。

そうだとしても3DCGは、本来物体として存在しない選手の気合や気迫を描く術ではないのだが、本作の映像からはそれを感じさせる映像に仕上がっている点が凄い。それこそが、井上雄彦先生が漫画家として描いてきたノウハウの調合があるのだろう。選手、ボール、床、リングなどを切り取ってレイアウトを決める上流工程から、ダッシュする際に重ねる効果線(正確な名前が分からないけど物体が高速に移動した事を表現するマンガ表現の平行線)などの下流工程まで、さまざまな工夫がみられる。これこそが、漫画原作者でもあり、監督である井上雄彦だからこその仕事なのだと思う。

後でインタビュー記事などをチェックして、全カット井上雄彦先生がレタッチを入れているというのを聞いて本当にびっくりした。キャラが生きた状態までレタッチして確認しないと仕上がらないという。とてつもない手間暇をかけた手作りアニメであった。こんな作り方なら、続編の映画なんて絶対無理だろう。

3DCGのシーンで特に印象に残っているのが、試合に負けた山王の沢北が廊下で悔し泣きするシーン。鼻や口元の震えがリアルな悔しさ。この動きが繊細過ぎて通常の2D作画では動かさないところである。この辺りの演出は、実写的にも感じた。

試合=いかに相手の心を折るかの圧力のかけ合い

本作が、バスケットボールの試合中継映像と違い、映画である事の意味は、試合中の選手たちの丁寧な心理描写にある。

強豪高の山王は、試合前半は拮抗した試合運びをする。そして、後半戦でいきなり点差を付けて湘北の選手たちの心を折りに来るという戦略である。その際の山王の監督の立膝姿(=本気モード)が怖いとまで思わせる。どう頑張っても、ゾーンプレスの壁を抜けない、シュートの際にブロックの壁が立ちふさがる、走ろうと思っても体が重い。やっとの事で点を入れても3倍返しで点を取られる。この絶望感が映像として映画館の観客にも伝わってくる。

ちなみに、山王の選手たちの私の第一印象は禅寺の修行僧である。涼しい顔してるからこそ怖い。

赤木なんかは、試合中に倒れた際、なぜか嫌味な先輩の嫌味な言葉を思い出してメンタルが弱り、このまま動かなければ楽になるかも…的な事を考えたり。今回、赤木(=ゴリ)は強靭なイメージとは裏腹に、普通の人の持つ弱さが強調されていた。

この空気を突破してゆくのが、バスケットボールの常識が通用しない桜木と、その使い方をわきまえている安西先生。そして、あの有名な台詞の「諦めたら、そこで試合終了です」。

桜木の突飛な行動と驚異の身体能力に困惑した山王からポイントを取得するが、これを契機にすぐに試合の流れが変わるほど簡単じゃない。そこからも苦しいのだけど、湘北の選手の心に少しづつ火がついてゆくのが分かる。いつまでたっても心が完全に折れない打たれ強さに、山王の選手もだんだん不安になってくる。もちろん、湘北の新しい戦略に気付いたら、すぐに的確な対処方法で対応してくる。だけど、湘北だけが一方的に玉のような汗をかいていた、という状況から山王も汗の量が同じように増えてきた。そうした、緻密な圧のかけ合い、競り合いみたいな描写が異常に上手い。

試合パートとドラマパートは交互に挿入されるが、2時間の映画で試合シーンはのべ1時間程度であろうか。緩急の緩はドラマパートで補うという事もあるだろうが、試合のシーンの手に汗握る緊張感は全く途切れなかったのが凄いとしか言いようがない。

試合運びは王道とも言えるが、だからこそ緊張感や説得力を持たせるには、かなりのディテールと時間経過のコントロールが必要なわけで、その積み上げの確かさこそが本作の真骨頂であろう。

リョータが男になるまでの物語

リョータの身の上というのは、マンガでも描かれておらず初公開となるが、そこに全く違和感がない(原作者自身が書くのだから、間違いがないのは当然かもしれないけど)。

平たく言えば、本作の物語は、リョータが男になる話である。

沖縄で宮城家の次男として生まれたリョータ。兄のソータと妹の3人兄弟である。父親が早くに亡くなり、ソータが父親代わりとなるが、そのソータも海難事故で亡くなる。ソータは小学校のバスケットボールの選手として活躍しており、ショータも兄に憧れバスケットボールの選手になったが、兄ほどは上手くはプレイできず、出来の良い兄、出来の悪い自分というコンプレックスとともに生きてきた。

グレ気味なこともあって、神奈川に引っ越しても不良に目をつけられたりで、一人で過ごすことが多かった。でも、バスケだけは続けた。高校で三井たち不良グループと喧嘩し、バスケも辞めてしまおうかと自暴自棄に。その後、バイク事故で入院。母親をまた悲しませてしまう。

母親はソータの死別の悲しみをずっと引きずっているとリョータは考えていたが、実はそうではなく、可愛かったリョータがグレた事を悲しんでいた。

誕生日のケーキのところでの妹の台詞。リョータはソータが亡くなった年齢はとっくに超えているとか、ソータの写真を出して飾ろうとか、物語上のポイントとなる台詞である。リョータが母親宛の手紙に書きかけて消した、自分なんかが生きていてごめんなさい、という自己否定が辛い。

この母親とリョータの気まずい距離は、インターハイでから帰ってきて、砂浜で母親の隣に座るときの距離にも現れていた。試合はどうだったと言われ、強かった、怖かったと片言で返事する。母親は近づき、大きくなったね、とリョータの二の腕に手を回し、緊張をほぐすように肩をたたく。お互いに話しにくさを感じていた母息子の久しぶりのぎこちない会話。多分、はじめて母親を喜ばせることができた瞬間だったのだろう。

ソータの夢でもあった山王の試合に勝ったから、ソータを乗り越えたとも言えるが、多分、そういう事じゃない。母親から見て、リョータが立派な男になった事が、この物語のゴールだったのだと思う。

比較的コンパクトな物語ではあるが、母親とリョータの心の距離感や、言葉に出来ない複雑な心情を的確なアイテムとともに配置した感覚。一昔前の質の高い文芸を感じさせる脚本だったと思う。

スタッフインタビュー(2023年1月4日追記)

公式にて、監督をはじめ、スタッフの方々のインタビュー音声があったので、リンクを貼っておく。

今までのアニメの常識を覆す作り方にいろいろ驚かされますが、こんな裏話がタダで聴けるのは非常にありがたい。音声コンテンツなのも個人的にうれしい。

2023年1月4日時点で19本ですが、まだまだ追加されていく模様です。

おわりに

映画による体験がエンタメとしての真骨頂であるというなら、本作の試合のシーンの迫力はまさにエンタメでした。

一つ笑い話ですが、一緒に観ていた奥さんが、桜木のダブルドリブルのシーンで笑っていたんです。あまりに緊張してみていたので、桜木の緊張緩和のギャグのシーンもカチカチになって観ていた自分が可笑しくなって、15秒くらい笑いのツボに入っていました。

逆に言うと、それくらい試合の圧が強かった、という事です。

私は、Dolby-Cinemaで観ました。高くなりますが、音響も良い環境で観る方がおススメです。

新年一発目に鑑賞した映画としては、非常に満足度の高いというか、気分よく映画館を出てこれました。

ちなみに、奥さんも大満足でした。

ぼっち・ざ・ろっく! 1話~8話

はじめに

「ぼっち・ざ・ろっく!」がかなり面白い。

1話から8話まで視聴した時点の感想です。原作漫画は未読です。

8話は原作漫画1巻のラストの話という事で、最終回的な綺麗な〆になっていますので、一旦ここまでで感想・考察ブログを書きなぐりました。

感想・考察

作風

可愛い、カッコいい、緩い、心にしみる、なんでも有りの幕の内弁当

原作がきらら4コマなので緩くて可愛いのは当然なのだが、1話の終盤にイイ感じのシーンが入ってジーンと来たり、演奏シーンが凄くカッコ良かったりと色々と楽しませてくれる要素が多い。

そもそも、重度のコミュ障で今までただの一人も友達が居ないという、主人公ぼっちのキャラ設定のエッジが効きすぎている。そして、誰とも絡まない押入れの中では「ギターヒーロー」として技巧派のギタリストという二面性がなお面白い。この設定により、素人スタートでギター上達してゆくドラマという時間のかかる作劇から決別している。

ぼっちは深層心理では他者を求めているが、他者に傷つけられるかもしれないリスクに怯えてストレスを蓄積し、バリアを張って他者に飛び込めず距離を開けている。そのくせ、他者から優しく声をかけてもらうのを待っているという、小動物的なゆるゆるな可愛さもある。そんなぼっちの心の呟きや叫びのボケやツッコミがイチイチ面白い。コミュ障ゆえにストレスをため、それを笑いに転化する。この緩急が本作の笑いの基本である。視聴者は、小心者のぼっちの弱さを笑いながらも、ぼっちにも寄り添って見てゆくことになる。

基本の劇伴はゆるいモノだったりするので、視聴者にも緩い笑いである事は十分伝わってくる。

そして、バンド演奏シーンは非常に力が入っている。後述するが、バンド曲がカッコいいと思える出来栄えで、なおかつ分りやすくドラマと直結している。ここは、ある意味、ぼっちという小市民がギターヒーローに変身する爽快感がある。

そして、各話の終盤には、ちょっとイイ感じのシーンが入る。8話の虹夏とぼっちの会話は最たるモノである。4話のリョウの「個性を捨てたら死んでるのと同じ」という台詞でありのままのぼっちを肯定するシーンも好きだし、何なら2話の「また明日」の台詞でぼっちが虹夏とリョウと関わり続ける意思を見せた事にもちょっとジーンときてた。

まず、私が本作で気に入っている点を列挙する形となったが、より詳細なポイントを引き続き述べてゆく。

有り余る「余白」に力を込める

本作は、原作漫画の1巻の内容を1話~8話にかけて映像化している。原作漫画の消費速度としては遅い方だと思う。その分、原作を深く解釈し、アニメーションとしてデコレーションを大幅に乗せてゆく作りになっていると思う。

ぼっちという人間のドラマとして書き出すと脚本的にはかなりコンパクトになるだろう。本作は、その分、ギャグを引き延ばしている感じだと思う。そのギャグに使う尺の長さや映像表現の多彩さに力が入りすぎていて、それさえも笑いに転化する。

それは、ぼっちの妄想が暴走するシーンに顕著に現れる。ぼっちのテンパってる時の内面を画風を変えて極端に描いたり、時に実写映像を挿入したり、それもゾートロープと呼ばれる実写アニメーションだったり、人生ゲームを模した盤面を作り駒を動かす実写のシーンをいれたり。とにかく、飽きさせずにあれやこれやの手法をトライしてくる。

5話のオーディション後にぼっちがゲロを吐くが実写のダム放流シーンが映し出される。それも、30秒かけて4基のダムを映す。昨今のツメツメの絵コンテでは考えられない贅沢な尺の使い方である。

普通はこんな多彩な表現を本編中で一瞬だけ使うために実写アニメを作ったりはしないだろう。こうした無駄とも思える余白にも全力投球で投げ込んでくるスタッフには頭が下がるし、笑わせられるだけでなく敬意まで感じてしまう。

バンド演奏とドラマの直結

私自身は、バンドやバンド曲に詳しい訳ではないので、詳細は他の方にお任せするが、本作のバンド演奏シーンがアニメーションとしての出来が良いことは分る。百聞は一見にしかずと思うので、何はともあれ公式で公開されているバンド演奏シーンを貼り付けておく。

個人的には、あまりロックバンドの楽曲を興味を持って聞いてこなかった。ド素人ゆえに演奏テクの凄い凄くないの違いも分らないという感じだった。

しかし、以前ハマった「響け!ユーフォニアム」というアニメ作品で、生楽器の音の聞き分けの楽しさみたいなのを少し覚えて、吹奏楽あるあるなどの話も聞きかじり、少しづつ興味を持てたという事もあった。

結束バンドは、打ち込みとかもない完全に生バンドゆえに、曲で鳴っている音は全て楽器の生演奏である。ギター奏法などの知識はないが、原作側の解説動画などを見ると理解度がUPするので、良ければ合わせて見てもらいたい。

私が凄いなと思ったのは、8話の1曲目のダメダメ感が視覚的な演出だけでなく、音だけでもヒシヒシと伝わってきたところ。そして、2曲目で挽回して、見事に決めるところ。この落差を映像と音響だけで視聴者に信じさせる。その本気度がロックである。

他のアニメ作品だと「響け!ユーフォニアム」の吹奏楽部の演奏の上達具合や、「シャインポスト」のTiNgSのダンス技術の違いが、映像や音響でダイレクトに表現されていた。こうした肝心なところをハッタリでなく、分らせるというところがストイックでカッコいいし、見てて鳥肌が立つ。もう、こうした事が当たり前に描かれているから麻痺しているけれども、楽器演奏やダンスの映像と音楽を合わせつつ、上手下手や緊張感を映像で伝えるというのは、かなり高レベルな表現であり、アニメーションを作る上で難易度がかなり高い。

激しすぎる緩急がもたらす快楽

繰り返しになるが、本作は色んな意味で緩急の落差が激しい作りになっている。

  • 作品の風味
    • ギャグ(この中にも、ゆるいのからハードまでの緩急あり) …体感70%
    • シリアス(ライブの緊張感、カッコ良さ) …体感15%
    • ドラマ(ちょっといい感じのぼっち成長ドラマ) …体感15%
  • ぼっちの側面
    • ギターヒーローのぼっち(動画配信の人気者)
    • 学校のぼっち(極端なコミュ障、郁代の練習相手)
    • 結束バンドのぼっち(極端なコミュ障、初バイト、作詞担当、初ライブのヒーロー)

本作は、とにもかくにも小心者のぼっちが、他者との関わりに極度のストレスを感じて繰り出されるギャグシーンを緩く楽しむ部分がベースである。それが途絶える事無く、作品全体の70%を占めている。なおかつ、それはイイ感じのドラマやシリアスなシーンの後にも挿入され、緊張感を緩和する作りになっている。

そのギャグシーンにもグラデーションがあり、特にぼっちが極端なストレスによりフリーズしてしまう際の描写がハードである。絵柄が変わったり、時には実写になったり、しおれて呪いの因子がぼっちの部屋に充満して遊びに来ていた虹夏と郁代も呪いで倒れる、という暴走気味のギャグシーンがある。こうした突き抜けたギャグシーンは視聴者にもストレスを与えており、ゆるいギャグシーンで緩和される。

また、本作が、ライブシーンやイイ感じのドラマばかりであったら、ここまでウケなかったのではないかと思う。ライブシーンはここぞという所で入るので、メリハリをもって効果的に作劇にスパイスを与える。ベースにあるぼっちの成長ドラマを毎話途切れることなく終盤に薄く的確に入れる事で、ちょっとイイ感じの余韻に浸れる。このあたりのさじ加減が絶妙で心地よい。

筋の通ったストーリー構成と脚本

話数 ぼっちイベント
1話 高校友達ゼロ、虹夏から助っ人ギター依頼、完熟マンゴー演奏(ド下手)
2話 ライブハウスバイト開始、初接客、「また明日」
3話 ぼっち→郁代を勧誘、逃げたギター、ぼっち→郁代を引き留め、ぼっち→郁代ギター練習
4話 ぼっち→郁代ギター練習、アー写、作詞難航、個性捨てたら死んでるのと同じ、歌詞完成、アー写貼りまくり
5話 オーディション、前日気を遣う虹夏、(結束バンドを)ここで終わわせたくない、合格、チケットノルマ5枚
6話 チケットノルマ5枚、きくり登場、路上ライブ、ファン1号2号を見て演奏、客の笑顔、ノルマ達成
7話 虹夏郁代→ぼっち宅訪問、ぼっち思考に慣れる虹夏、ぼっちに歩調を合わせる虹夏
8話 初ライブ台風、1曲目で折れるメンバー、2曲目でぼっちギター炸裂、虹夏→ぼっち感謝、結束バンドで有名になりたい

ぼっちがバンドを始めたかったのは、ギタリストとして有名になるステップであったと思う。しかし、虹夏に無理やり結束バンドに引き込まれ、流されるままにバイト、ボーカル勧誘、ギター先生、作詞、チケットノルマ、と慣れないことをこなしてきて、ぼっちの生活自体は他者との関りを持つ特別なモノに変化していった。もちろん、はじめは無理やりでキツめのイベントが多く感じていたが、次第に結束バンドの一員として、結束バンドとして有名になりたいという夢に変化してゆく。その流れが、毎話わずかながら丁寧にドラマを紡いでいるという点で、本作のシリーズ構成は信頼できる。

また、郁代のギター上達など、時間経過で変化を表す描写も丁寧に入れている。

本作のドラマが、各話の終盤に薄く挿入されている点も狙いであろう。前半のギャグで引き付けて笑わせて、最後に少しだけいい話を持ってくる。視聴者もこのテンプレートに慣れてなじんでくるので、各話見やすい。

シリーズ構成、全話脚本は、吉田恵里香。実写ドラマの脚本家という事だが、私は本作が初めてだが、かなりツボを押さえた脚本だなと感じた。

キャラクター・ワンポイント

後藤ひとり

基本、陰キャでコミュ障なのだが、ぼっちがイイのはネクラじゃないところではないかと思う。

  • 陰キャ → 極度の心配性
  • コミュ障 → 傷つきたくない、褒めてもらいたい。

という表現になっていると思う。このテイストが令和時代というか、念がこもっていなくていい。

虹夏に引っ張りこまれて、はじめて結束バンドに関わってゆくが、無理やり連れてこられた事がぼっちにとって良かったのだろう。そのまま拒否れずに流されるようにバンドとしての様々な体験をしてゆくうちに、結束バンドで有名になりたいという気持ちが芽生えてゆく。

ぼっちにとっては、逆に虹夏が白馬の王子様に見えてのではないかと思う。

伊地知虹夏

無理やりぼっちを結束バンドに引き入れて引き留めた、というのが実情であろう。だから、5話でオーディション前日に辛そうな表情で帰宅するぼっちに気を使って声をかけた。ぼっち自身はバンドをやりたいと言っていたが、結束バンドのスタイルはぼっちの意向に沿ったものなのか?

虹夏は結束バンド作りを焦っている側面があり、それゆえに熱くなり過ぎるときがあると。

虹夏はぼっちの事を測りかねていたところがあったと思う。しかし、7話のぼっち宅訪問でぼっちは裏表なくぼっちである事を理解し受け入れられたのだと思う。だから、ぼっちの気持ちに少し寄り添うことができ、ぼっちに歩調を合わせられるようになった。

ただ、何もかもが新米バンドとしての自分たちを、常にブレイクし一歩前に進めてくれたぼっちを、虹夏のヒーローと感謝した。姉の分まで結束バンドを盛り上げるという夢を支えてくれて、そして演奏もカッコいい。ぼっちの事を頼もしくも嬉しく思ったのだと思う。

山田リョウ

基本マイペースだが、それゆえに個人を尊重し無理強いしない。そこは虹夏とバランスが取れているところである。

リョウは4話の台詞が全てだと思う。個性を捨てたら死んでるのも同じ。バラバラの個性がぶつかり合って結束バンドの色になる。名言だと思う。

喜多郁代

郁代は、ぼっちの対照的な存在で面白い。ぼっちを恐れておらず、悪意無く、ポジティブにどんどん入り込んでくるからぼっちとコミュニケーションが成立しているのだろう。

ポジティブ過ぎてねじが飛んでいるところも見受けられるが、一度結束バンドから逃げたことで自分を責めており、罪滅ぼしではないが、今度こそ諦めずに何か成し遂げたい気持ちが伺える。

そのポジティブさは理解するが、前回バンドから逃げたというのは、かなりのストレスだったのであろう。ただ、ポジティブゆえに自己防衛のために逃げる事ができた点も、ぼっちと対象的である。

おわりに

勢いで書きましたが、2022年秋期アニメで一番ハマっている作品です。

本作の魅力の断面が多すぎて、とっちらかった感じもありますが、好きな気持ちを吐き出す事ができてスッキリしました。

多くの配信サイトで配信されているため、今からでも視聴できる環境は結構あると思いますので、興味があれば是非。

見る人によって、ゆるくも、ピーキーにも見れる、奥行きのある作品だと思います。

ちまたの噂では12話は文化祭ライブまででは、という事ですがもう一山あるのか、このままゆるく行くのか、残り4話も楽しみです。

すずめの戸締まり(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

本作は紛れもなく震災映画ですが、自分が昨年見た2作品と比べて何が違ったかを整理したいと思い、書き記してみました。基本的には、物語で何を語っているかに興味があります。

それから、本作の福島の描き方について、ちょっと気になって考えていたので、後半はその事について書きました。

過去に書いたブログ記事もありますので、よければこれらもみていただければと思います。

後半、大幅に記事を追記しました。(2022.12.1追記)

「喪失と廃墟と福島原発事故」を追記しました。(2022.12.12追記)

感想・考察

他の震災アニメ映画との比較

「岬のマヨイガ

本作は、「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」という被災地支援の企画の一環として制作されている。平たく言えば、被災地に観光客を呼び込むための復興支援的な趣旨である。原作小説は柏葉幸子、脚本は吉田玲子、監督は川面真也

本作は3.11の岩手の被災現場にいた女子高生ユイと女子小学生ひよりを、妖怪たちと縁のある老婆キワが癒してゆく物語であった。

震災によるPTSDを癒すには、働く食べる寝ること、気持ちよく過ごせる住宅があること、そして家族と呼べる無償の愛があること。こうしたテーマだったと思う。

ユイは父親からの暴力、ひよりは両親との死別という辛いトラウマがある。二人は被災地に暮らしていた訳ではないが偶然トラウマから逃げて被災地に居たという設定である。

被災地では地震によりアガメという妖怪の封印が外れてしまう。アガメは人々の不安を具現化した妖怪であるから、震災により疲労困憊した被災者たちの負の気持ちを吸収して巨大化してゆく。キワが妖怪たちと戦うが太刀打ちできない。そこにユイとひよりが加勢しアガメを倒す、というファンタジー形式の物語になっている。

本作では、被災者の悲しさ辛さを癒してゆく事に注力した脚本であり、そのために辛さと乗り越えを描くという作風である。

「フラ・フラダンス」

こちらも「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」の企画。本作はいわき市の「スパリゾートハワイアンズ」を舞台にしたオリジナルアニメで、脚本は同じく吉田玲子、監督は水島精二

震災10年後に「スパリゾートハワイアンズ」に入社した5人のダンサーの1年間の成長を描くお仕事モノという体裁であるが、主人公の1年と、福島の10年を重ねる形で描かれる。

3.11で亡くなった姉の真理。10年後、思いがけず、高校を卒業してダンサーとして就職する妹の日羽。同期入社の5人チームを組むが、何も持たない日羽はゼロスタートで訓練は辛く厳しい。デビュー当日に痛恨のミスがあり動画配信でも嘲笑され、どん底からのスタート。辛さの中でもチームメイトとの暖かい交流、職場の憧れの先輩の励ましが支えになる。少しづつ自尊心を取り戻し、自分らしいフラを踊れるようになってゆく日羽たち。

補足しておくと、動画配信のくだりは、放射能事故の風評被害の暗喩であろう。これは、福島ならではである。

本作では、苦労を耐えて自尊心を取り戻してきた事への敬意を示す作風で、未来への希望で結ぶ

「すずめの戸締まり」

紹介した二作と異なり、こちらは震災復興のスポンサーはない。

すずめは、4歳のときに3.11で母親を失う。常世で彷徨い母親を探すが見つからない。受け入れられない現実は、数ページにわたる黒塗りの絵日記に象徴されていた。そして生きるため、その悲しい現実に鍵をかけた。

すずめは常世に足を半分突っ込んだせいなのか、自分自身の生死に無頓着なところがあった。

道中で千果(大家族)やルミ(母子家庭)とふれあいや援助に感謝する。千果は小学校の廃坑、ルミが神戸育ちであれば28年前の阪神淡路大震災の被災者で、二人は閉じた記憶があってもポジティブに生きている、という見本である。

また、草太と一緒に旅することで草太に惚れてゆく。東京では草太が要石としてミミズを抑え込んで常世に閉じ込められてしまう。その際、草太の無念を知り、できるなら自分が代わりたい、とさえ考える。ここは母親の死別の繰り返しになっている。

しかし、その後のドライブを経て、草太と一緒に生きたい、に変わる。最終的には要石の役割は草太からダイジンに戻され、草太+すずめ+ダイジン+サダイジンの協力でミミズを封じ込める事ができた。

ラストで17歳のすずめは4歳のすずめに再会し、これからの人生を人を好きになったりしながら生きられると励まし、三本足の椅子を手渡す。これにより4歳のすずめは常世から現世に戻った。この言葉は同時に17歳のすずめの未来への励ましでもある。

本作の震災映画としてのメッセージは非常にミニマルである。それは、人生辛いことがあってもそれだけじゃない。素敵な人生を歩める(大切な人たちとの交流いや恋愛がある)んだ、という未来を肯定することにある。

そして、他の2作品と比べて本作が決定的に違う点が1つある。それは、主人公が受けたストレス(悲しさ辛さ悔しさ)でお涙頂戴することなく、被災者のハンデキャップや努力を美化することなく、それらを描かないというディレクション。本当にシンプルに未来の肯定だけをする点にある。これにより、他の2作品と違って説教臭さが全くない。

ここは一般的な映画と比較するとあっさりし過ぎて、もっと攻めた演出を期待する人もいるかもしれない。しかしながら、大ヒットが約束されている大衆娯楽映画として被災者も含めた多くの観客が観る前提で、万人に受け入れられるラインがここまで、というディレクションだったのではないかと想像する。

3.11の描き方

すずめの東日本大震災の体験(2022.12.1追記)

3.11の記憶というのは人それぞれであり、被災者の中でもグラデーションの幅が大きいものだと思う。当時、私の職場は東京で、自宅は神奈川県であった。この時は日本の一大事だと思ったし、ただならぬ不安はあったがどうすることもできず、という感じだった。私には関東東北に親戚はおらず直接的な悲しみや苦痛を味わっていない。正直なところ、この一大事をどこか他人事のように見ていた部分が大きかったと思う。

実際に被災者や被災現場に居た方々の「すずめの戸締まり」の感想を動画配信やブログで拝見していると、思い出して胸が苦しくなったという感じの感想が多い。

震災描写についての解説と、その映像を見たときの感情をつぶさに綴っている良記事があったので下記にリンクを参照していただければと思う。ブログ内に、震災10年後に3.11当時を振り返ったブログ記事へのリンクもあり、非常に読み応えがある。

またこの方は、身近に死別した人は居なかったとの事だが、その日避難する際に吹雪きでメンタルが大幅に削られた事を思い出して、映画に集中できなくなったとの事。

私自身は、その日吹雪いていた事も記憶になかった。これくらい、観客の体験、記憶に依存して心の抉り量が変わる。これは、SNSで感想を漁って、はじめて実感した。

あらかじめ言っておくが、被災者の心をえぐるので震災描写はまだ早いとか言うつもりは毛頭ない。

すずめと芹澤のギャップと福島原発事故

東日本大震災とくれば、必ずセットで語らなければならない福島第一原子力発電所事故。本作では放射能という言葉も使われないし、言及もされないが、画面にはそれ関係のモノは登場する。

芹澤とすずめの「ここってこんなに綺麗だったんだな」「え?ここがきれい??」の会話は被災者以外と被災者のギャップを示す。私も含め多くの観客は芹澤と同じ被災者以外であろう。

ドライブ途中に反対車線ですれ違う汚染土壌運搬車両。延々と続く帰還困難区域のフェンス。丘の上から遠巻きに見える福島第一原子力発電所

しかし、これらは作品内では全く説明されず、知らなくても本筋の物語には全く影響しない。

説明すると、福島の汚染土壌や廃棄物は、福島第一原子力発電所の周辺の土地に中間貯蔵施設を作り、そこに貯蔵される。用地は民地の大半は買収契約済だが、一部はまだ交渉中である。福島の各地から黒い袋に詰められた汚染土が、緑色のゼッケンを付けた汚染土壌運搬車両(=トラック)で運ばれてくる。

新海誠監督は、その今の福島の日常風景を切り取り、「すずめの戸締まり」のフィルムに残した。この事が、本作の最大の震災映画としての狙いであり、功績だったのではいか、と想像している。

知らなければ何もひっかからない。知っていればその意味が分る。知らずとも気になった人がいれば、今回の私のように調べて、その事実の一端を知る。ネットで検索すれば偏ったモノも含めて色々な情報が出てくる。いずれにせよ、この施設は日本の負債を象徴するのは間違いない。

そして、本作にはこうした原発事故に対するイデオロギーは存在しない。自然災害ではなく人災とか、事故の責任の所在とか、今回の施設に対してとか、何か主義主張を押し付けることもない。ただ、フィルムに存在を残したい、という意図に思えた。それは、本作がそうしたドキュメンタリー作品ではなく、大衆娯楽作品だからだと思う。

ここから先は、私の妄想だと思ってもらいたい。

しかし、これらのアイテムを描かずに作ることは可能だと思うが、そうはしなかった事に何か無言の主張を感じる。本作のスポンサーは東宝である。妙なイデオロギーが混入すれば、国家検閲こそないが、東宝映画の作品としては、ダメ出しが出るのかもしれない。

本作が「天気の子」のように青臭い若者のギラツキ感やセンチメンタリズムを感じさせない、ある意味優等生的な物語になっている事とも符合する。平たく言えば、本作がアニメーション映画として映像的な気持ちよさに振り切る事とバーターに、震災後の今の福島の風景をフィルムに残した。そう勘ぐれなくもない気がしている。

この福島の風景こそが、本作のロック魂なのかもしれない。

ちなみに、私もこうしたニュースには無関心な方であり、私自身もイデオロギーはなく、どうこう意見があるものではない。エンタメ作品が何かを描く。その意味を考えたい、といつも考えている。

大衆娯楽映画と震災映画(2022.12.1追記)

少し話が脱線するが、最近のエンタメ作品は観客に変なストレスを与えないという潮流にある気がする。

一例をあげると、「その着せ替え人形は恋をする」のラブコメは三角関係や浮気などが全くなく、主人公カップルのエロいが健全な男女交際を描く。「スパイ×ファミリー」は本来、非情なスパイを描きながら、超能力少女のコメディ色を前面に押し出して気軽に楽しめる作風になっている。なんというか、怨念や邪念のようなモノを極力排除する傾向にあると感じている。

新海誠監督の前作「天気の子」では、穂高が世界と陽菜の二択で苦悩し、陽菜を選択する。これも主人公の葛藤であり、エスカレートすれば執念になる。しかし、本作「すずめの戸締まり」では主人公のや迷いや「念」を感じない。端的に言えば、毒が無くて、とても爽やかな。前半の超高速展開、ジブリっぽさ、女性主人公、明確な悪役の不在、そういったものを含めて行儀のよい大衆娯楽作品感がある。動きの良さ、背景美術の暖かさ綺麗さも含めて、映像の快楽で観客をグイっと引き込んでいると思う。

3.11描写に関しては観客の中の記憶に依存して感情が変わるため、私のような非被災者は、それこそ毒が全くない楽しい部分だけが残る。

本作は、震災映画として、3.11の当時に被災現場の雰囲気や、現在の福島の姿フィルムに記録した。そこに、震災で亡くなったひとの無念(負の念)を描かない。乗り越えてきた辛さも描かない。説教臭さはない。ドキュメンタリー映像のようなイデオロギーもない。静かに3.11を風景としてフィルムに落とし込んだ。

思想的なモノを描けば収集のつかない嫌悪感の押収になるだろう。東日本大震災福島第一原子力発電所事故に対しての変なメッセージを織り込まなかった事こそが、大ヒットが約束された大衆娯楽映画作品の本作としてのディレクションだったのではないかと思う。

これをもって、新海誠監督の震災映画が腑抜けているとか言う批評家もいるかもしれないが、私はそうは思わない。フィルムに残り、数年毎にTVでOAされるであろう大衆娯楽映画である本作は、その都度普段映画を観ない人の心にもリーチしていくのだろう。被災経験の有無に関わらず。そして、苦しい事があっても人間に未来は訪れるのだというメッセージを残して。

喪失と廃墟と福島原発事故(2022.12.12)

新海誠監督は「喪失」を描き続けていると言う人は多い。では、本作では「喪失」はどう扱われたのか?

廃墟=人々から忘れられた場所である。そこには建造物などが残骸として残っており、後片付けして更地にできなかった土地であり、言わば神様に返し忘れた土地である。まずはシンプルに廃墟=喪失ではないかと思う。

ただ更地にすれば神様に返却した事になるのか?というのもちょっと違う気はする。人手が入った土地というのは、林業にしろ田畑にしろ、自然に見えて人工的に整備された土地であり、人手がかかっている事で美しく感じるものである。本当に手つかずの土地というのは原生林しかなく、放置する事でそこまで戻るというのも時間がかかるものだと思うが、更地にすればいずれは自然のままに神様に返っては行くという想定であろう。

そのような廃墟に後ろ戸が出現し、そこからミミズが出てきて大地震を起こす。神道的によりストレートに言うなら、神様から借りた土地を好き勝手使って、使えなくなったからゴミ同然に放置していたら、神罰が下って災いとなる、という感じか。しかしながら、それを地震の原因としているところは、ファンタジー要素と言ってもいいのかもしれない。

更に、後ろ戸を閉じる際に、以前そこに生きていた人たちの生活の声が聞こえるという現象を描く。しかし、その声は成仏できなかった地縛霊という事でもなく、念がこもっているわけではない。朽ちてしまったその土地を憂いているわけではなく、その先朽ちる事を考えてもいなかった当時の生きる人の声である。それは、今生きている人の中にある記憶や記録と言い換えてもいいかもしれない。しかし、本作では残された人々の思いが弱くなると、災いの後ろ戸が開くという設定になっており、そこを閉じ師が担っている構造である。

この部分の設定がは非ロジカルだと考えている。当時、そこで生活していた人の声を聞く=記憶・記録が弱くなる→神罰が下る、の部分は神様視点で考えたときに何のメリットもない。ただし、これ自体はクライマックスの3.11乗り越えの作劇上の意味はあり、そのための設定かなと理解している。

ここまでを整理すると、こんな感じか。

SNSの感想で、地震という天災を人間が防げる設定だとすると、その人間のミス(もしくは人間社会のミス)という解釈となり、それは如何なものか、という感想を見かけた。個人的にはこの感想に対しては否定的で、閉じ師の一存で災難を防げるというのは思い上がりもいいところで、閉じ師の力が及ばないほどの巨大ミミズで関東大震災も起きたのだろうし、そこはやはり人間には及ばない、神様の持つ絶対領域というものがあるのだと思う。

ただ、3.11は廃墟がトリガーになっていた訳ではなく、人間が土地を使っている状態で発生した。その意味で、このフローチャートには沿わない。むしろ、3.11から12年後の今、被災地はまだ基礎のみを残して人が住まない土地(≒廃墟)になっている事、そこで生活していた人たちの声を草太とすずめが聞く事(=人間の記憶・記録に残す事)で常世のミミズの封じ込めに成功する。その意味では、ちょっとしたパラドックスになっていて、12年前の東日本大震災の抑え込みはなく、12年後の今のすずめの気持ちを鎮める戦いになっていたように思う。作劇上、ここを勢いで見せている感じがして、ちょっとした引っかかりを覚える。

しかしながら、この流れも、私は明日のすずめ、という台詞の感動を通すための流れなので、アリといえばアリだろう。この絶対的な未来の肯定は、当事者以外の台詞では説得力を持たず、本人だからこそ許されるモノであろう。

改めて、喪失を考えると、(a)存在していたものが消失した、(b)その消失を観測する者がいること、の2点があって初めて観測者に喪失が生じる。

喪失したモノと喪失を感じる者を列挙すると下記になると思う。

  • 廃墟に対する、閉じ師(本来は廃棄した人たち)
  • 3.11被災地に対する、すずめ

ただし、本作では手に入らなかった喪失をセンチメンタリズムたっぷりに感傷的に描くのではなく、喪失のその先に力強く歩みだす事をテーマに描いていたように思う。

と、ここまでは一般的な映画の解釈。しかしながら、個人的に喪失で引っかかっている点が1点残っている。それが、福島第一原子力発電所事故である。

前述の通り、事故現場周辺は、帰還困難区域として人も住めない土地となっている。中間貯蔵施設を作り汚染土壌を集積する。廃墟ではない。しかし、人が住めなくなった土地であり、神様に返却したくても返却できない土地となっている。果たして、この土地で生活していた人の声を聞き、後ろ戸を閉じる閉じ師は居るのだろうか。あくまで個人的な妄想ではあるが、その神様と人間の間のルールをも超えてしまったところに、喪失を込めているような気がしないでもない。この皮肉がフィルムに残る。それが、本作の意義のように思える。

繰り返しになるが、私自身は何のイデオロギーも持たず、この件をどうこう主張するものではない。

参考

参考までに、今回ブログ執筆にあたり、ネットで検索して読んだ情報を下記に示す。

おわりに

ちょっと、偏ったブログになったと思いますが、本作の大衆娯楽映画と3.11震災映画としての両面をみたときに、なんとなくザラついた違和感を感じて、そのことがしばらく引っかかっていて、それをまとめてみました。

書いたことで、なんとなくスッキリしたような気がします。色々と考えさせられる作品だと思いました。