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はじめに
私は山田尚子監督のファンなので、久しぶりの劇場作品を心待ちにして楽しみにしていました。
音楽+青春と聞いて、山田尚子濃度200%である事は納得ですが、珍しく文芸面を淡泊に感じました。妄想がてら、その辺りにも考えていました。
個人的には、これはこれで大好きな作品という感じです。
感想・考察
作品概要
山田尚子×吉田玲子×牛尾憲輔の最強タッグもこれで4作品目。前作の「平家物語」が2021年9月配信なので、約3年ぶりの新作である。
今回はなんと、天下の東宝配給で川村元気Pの参画という、新海誠の東宝三部作を大ヒットさせた強力なバックがついての劇場公開である。
私にとっての山田尚子監督作品の特徴は、
- 仕草で伝える女子の可愛らしさ
- 意図を持った映像作りができるストイックな映像作家
- そのための技術としての確かな、カメラ、レイアウト、実写譲りの編集テクニック
- 愛あるキャラクター造形の追い込み
という感じであるが、本作でもそれは炸裂していた。
シンプルな物語と静かなドラマ
物語自体は、高校生がバンドを組んで文化祭で演奏するという、書いてしまうと超シンプルな話である。
そして、特徴的だと思うのは「静かなドラマ」であるという事。一般的な映画が分かりやすい感情爆発で押してくるのとは真逆に、そういうところは比較的に淡々と描く。しかしながら、記号的に配置された何かにより、確かにドラマがあり、葛藤が透けて見えてくる作風である。
ただ、誤解して欲しくはないのだが、「静かなドラマ」であっても映画全体は雄弁に語り続け、映像に生ぬるさや退屈さはまったくない。山田尚子監督が得意とする感情の機微やユーモラスな仕草のカットに溢れ、100分間瞬きする暇もなく画面を凝視していた。これは、「リズと青い鳥」で体験した感覚とまったく同じである。
それにしても、過去の山田尚子監督作品と比べても、ずば抜けて静かなドラマである。このためには、演出の引き算が必要だと思うが、それは脚本レベルからの作り込みだったのかもしれない。
テーマ
罪と告解(きみとルイ)
本作のテーマは、罪と告解ではないかと思う。舞台は長崎、ミッション系スクールという事でキリスト教直結である。ちなみにカトリックの告解は、自分の罪を反省して、神と司祭に告白し、赦してもらうというモノ。告解≒懺悔と考えて良さそうだが、懺悔は仏教から来た言葉とのこと。
本作における、ルイときみの立場は非常に似ている。二人の相似点の比較を下記に示す。
項目 | きみ | ルイ |
---|---|---|
家族(同居人) | 祖母と二人暮らし | 母と二人暮らし |
兄 | 就職で長崎を出た | 死別? |
葛藤 | 聖歌隊OBの祖母の 期待に応えられなかった (本当の自分じゃない?) |
医者を継ぐように言われているが、 音楽に進みたい気持ちもある |
決断 | 自己判断で学校を退学 | こっそり音楽活動 |
自己否定要素 | 退学して良かったのか? | ー |
罪(=嘘) | 祖母に退学を内緒にしている (古本屋バイト、バンドも) |
母親にバンド活動を内緒にしている |
告解のキッカケ | 合宿でトツ子、ルイと共有 | 合宿でトツ子、きみと共有 |
告解 | 合宿後、祖母に打ち明けた | 合宿後、母に打ち明けた |
ルイときみは、自分を縛る家族に対して秘密を持ち嘘をつくという罪を犯し、罪悪感を感じながら生きていた。家族に大切にされているのを理解しているからこそ、裏切りたくないという優しさからきている。二人とも真面目である。
今時の若者は、表面上は器用でソツがない反面、失敗を嫌いストレスを抱えて生きているという。きみとルイはそんな現代の若者を象徴する美男美女であろう。
少し気になるのは、社交的に見えるのに親友がおらず悩みを抱え込む傾向があった点。まぁ、これは物語を駆動するために必要な設定だったのかもしれないが、ここまで孤立しているものなのだろうか。
本作では、しろねこ堂の活動を通して心を許せる友達と出会い、「合宿」で互いの好きと秘密を共有することで気持ちを整理して、本人から相手に打ち明けさせて解決させている。
問題に対する直接的な解決はそうなのだが、ここでは気の置けない親友的な部分が重要に思う。
しろねこ堂の練習中に、きみの楽曲「あるく」を聴いてルイがテルミンを乗せてくるシーンがある。歌に込められたきみの心情にルイが共感して音を重ねた形である。そこに、ルイ→きみへの肯定がある。画面上は青色と緑色が溶ける感じでもなく、結び合っていくイメージで描かれる。きみは罪を抱えている事で自己否定しているわけなので、一旦きみを肯定するところからメンタルを立て直してゆく。これは何もきみに限った事ではなく、3人ともがそういう関係である。そして、最終的にはもう一歩踏み込んで「合宿」の秘密を共有し合うところまで行ったから、本人の気持ちを整理出来た、という流れだと思う。
共感覚という試練(トツ子)
この二人に対し、トツ子の罪と告解の捉え方は難しい。
一旦、トツ子の問題と解決を整理してみた。
- 幼少期に大好きなバレエを上手く踊れずに諦めた(=好きを手放した)
- →ライブ後にジゼルを最後まで踊れた(=好きを取り戻した)
- 人の色は見えるのに、自分の色が見えない(=自己否定、=自分探し)
- →ジゼルを踊れた事で、自分の赤色が見えた(=自己肯定)
トツ子の共感覚の視覚は、スクリーンを通して絵画のような色彩感覚の美しさを観客に伝えてくる。これは本作の醍醐味の1つであろう。
そして、共感覚の影響なのか、トツ子には少し発達障害気味なところがあたっと思う。トツ子は子供っぽい性格が強調されており、ポジティブに明るくて元気な子として描かれているように見えた。
しかし、トツ子にとっての共感覚は「普通」の他人との差異であり、ある種の恐怖心だとかの気持ちの引っかかりを持っていたと思う。つまり、トツ子にとって共感覚はギフトなだけでなく、コンプレックスの意味が強かったのだと思われる。共感覚=試練である。
幼少期に実家のバレエ教室でジゼルが踊りきれなかったが、これが最初のコンプレックスとして描かれた。親元を離れて遠くのミッション系スクールで寮暮らししているという事は、通常の学校では生きずらく不憫すぎたから、わざわざ入学させたと考えるのが自然である。帰省したとき、母親は学校からの連絡があった際に、場合によってはトツ子を叱らねばならないと思っていたという台詞があったが、トツ子の突飛な行動に少なからず心配があったのだろう。
トツ子はなぜ、一人で礼拝堂で祈るのか。それは、トツ子自身が何か失敗したときに、自分が他人と違うことについて神様に問いかける、もっと言えば自己否定して神様に謝ってしまうクセが付いていたからではないだろうか。
シスター日吉子は、いつもトツ子を気にかけていた。印象的だったシーンは、大雪で連絡船が運航停止になり長崎に戻ってこれなくなったときに、トツ子にかける言葉を色々考え抜いて「合宿」と伝えたシーン。これは、トツ子が失敗で自分を否定してしまうから、否定させないように言い訳をトツ子に与えたのだと考えている。
トツ子の問題(=罪)は、その自己肯定感の低さと考えると筋は通る。だから、合宿での告解も踊り切れなかったジゼルの話になる。
ライブシーン後に、感突にひとり庭園でジゼルを踊り切るトツ子のシーンであるが、その終盤に自分の色が鮮やかな赤色で見えた。
ここの解釈は難しいが、私はこう思う。
トツ子の自分の色が見えない件は自己肯定の低さなので、最後に自分の色が見えたのは自己肯定できた事を意味する。なぜ、自己肯定できたかと言えば、幼少期に好きだったバレエを踊りきれず手放してしまったが、それを踊りきる事ができたから。バレエの事は唐突に感じるかもしれないが、奉仕活動期間中に実家に戻って子供たちのバレエを見て自分の過去を思い出し、クリスマス合宿でバレエが好きだった事をきみとルイに告解(=共有)した。
トツ子は不器用な子なので、なかなか大きな事を完成できない。しかし、今回のライブは楽器初心者でありながら、作詞作曲も演奏もしなければならない。練習中にトツ子の「できるかな」の台詞にルイの「ここシール貼っておくね」の返しがあるが、一人じゃなくてきみとルイも手伝ってくれるからこそやりきれたところはあると思う。このライブの成功体験がトツ子の自信に繋がってくるのではないか。
校庭でジゼルを踊るシーンの劇伴はピアノで始まりテルミンが加わる。クリスマス合宿の日にルイが演奏してくれたように、トツ子の心を導いてくれているように感じた。こうしてジゼルを一人で踊りきる直前に太陽にかざした手が鮮やかな赤色に見える。ちなみに、太陽は「水金地火木土天アーメン」の歌詞の中ではきみを意味する。
トツ子にとって個性ある鮮やかな色は、それだけ魅力的な人間である事を意味する。トツ子自身の色が鮮やかな赤色という事で、他人と違いのある自分も魅力的な人間であると少し自己肯定できた、ということではないだろうか。
バンド物・音楽物の映画
山田尚子監督は、やはり80年代くらいの音楽やテクノミュージックに執着があるのだろうか。
たまこまーけっとにはラジカセが重要なアイテムとして登場するが、本作のラストもラジカセの生録シーンであった。ユーフォ1期のマーチングの曲はYMOの「ライディーン」を選曲したのも山田尚子監督である。
打ち込みゆえのルイの音楽のテクノ感。DTMの基本があるからデジタルなハズなのに、音源はモーグ社のテルミンやアナログシンセや、生音のサンプリングに凝っていた。高校生のルイが自腹で音楽をやる前提があるため、ジャンク的な中古楽器をルイが持ってくるのは理にかなっているのだが、令和時代にあまりにもアナログ感が強い。
レトロ音楽にする理由は、風化しにくいとか、音楽にノスタルジーや温かみを含ませる意図を感じる。
それにしても、ルイの足踏み式オルガンもマニアックだが、テルミンというのは意外なところを攻めてきた。私は名前は知っている程度だったが、こうしてググってみたのははじめてかもしれない。基本は音程と音量を調節する電子楽器で、その間はアナログで変化してゆくので、ピアノのように音階が切れている楽器ではなく、ヴィオラや二胡のような弦楽器に近い。個人的には、哀愁漂うボーカルを連想した。私なんかでは、体系や服装で音程が変わってしまうような不便な楽器をどのようにチューニングするのかも分からない。半田ごてさえ扱ってしまうルイの器用さに驚くばかりだが、パッシブに音程を調整するであろうテルミンを演奏できるだけでも、ルイの耳は相当良さそうな感じである。
楽器はともかく、素人バンドとしてのハイレベルすぎない演奏がそれっぽくて良い。
最近のTVアニメではガールズバンドでプロ顔向けの演奏技術と楽曲で、知識のない私としては何がどうすごいのか理解が追いつかないというか、プロの楽曲を聴いても「ふーん」としかならない(演奏技術が高すぎてどれくらい凄いのか理解できない)。
個人的な話で恐縮だが、音楽知識を何ももたない私が1年前から一人でウクレレを弾き始めてジャカジャカやっているのだが、これがとても楽しい。たとえば、左手でミュートやスライドするというのも、はじめて理解したくらいの素人である。そういう初歩的なレベルで素人は十分楽しい。だから、高校生素人バンドがプロの売れ筋の楽曲みたいなオリ曲を作る方が不自然とさえ思っていたし、初歩的な知識でついてゆける程度の曲のアニメがあったら良いなと思っていた。その意味で、本作は非常にタイムリーに素人バンド映画として登場してくれた。
しかも、文化財的な価値のある教会が練習スペースになっていて、ちゃんとアンプに繋いで音を出しての演奏ができる環境がある。教会だから讃美歌を歌える想定で音響的にも大音量で迷惑にならない環境だから理にかなっている。バンドだから当然だが、ライブを意識してちゃんとアンプで鳴らして音を合わせるできる事は非常に重要である。
本作のディレクションで面白いのは、ルイはともかく素人のトツ子やきみが音に触れて感動してゆくというか、音楽の初期衝動についてはドラマチックに描いていない点がある。前述の通り、本作はドラマが静かなのでこの辺りの練習であったであろう興奮や熱中については全く描かれない。
演奏のエモさの爆発は全て本番である聖バレンタイン祭のライブシーンのクライマックスに持ってきている。これは、観客自身がこのライブに参加して音楽を浴びて欲しいというディレクションに他ならない。つまり、観客に音楽を体験させるという明確な意図をもって作られている。
個人的な曲の好みについてだが、楽曲的にはやはり「水金地火木土天アーメン」がノリノリで大好きである。作品内でトツ子がどういう視点で作詞作曲したかわかるシーンがあるが、回転=バレエ=楽しいというバックボーンや、単調なフレーズのループ(=ぐるぐる回る)でノリやすいとか、独特な歌詞もトツ子の感性ならではだとか、いろいろ納得感があった。「反省文」のロックっぽい騒がしさで掴み、「あるく」の讃美歌のような抑えめの曲でためてからの「水金地火木土天アーメン」の爆発力のすさまじさにやられた。
3曲とも作詞山田尚子、作曲牛尾憲輔である。歌詞も曲も、素人バンドのしろねこ堂の3人を感じさせるものであり、この辺りの拘りは徹底している。
ちなみに、これらの曲は大変お気に入りで、しばらくサブスクで繰り返し聴いていたのだが、「水金地火木土天アーメン」の色々と単調にならないように音を丁寧に変えていたり混ぜていた。その意味で、トツ子の脳内にあるイメージの編曲への落とし込みがもはや素人の仕事ではないな、と感じた。つまり、ここはもうルイの仕事を逸脱して、透けて見える牛尾さん拘りを感じてしまった(これは非Live Versionの編曲の話で、Live Versionの方はもっと素朴は編曲だったと後で気付いた)。
トツ子が美しく感じる色
トツ子が共感覚で見る人の色だが、ざっくり人ごとに整理する。
No. | 人 | 色 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | きみ | 澄んだ青■ | |
2 | ルイ | 澄んだ緑■ | |
3 | トツ子 | 澄んだ赤■ | |
4 | シスター日吉子 | 澄んだ黄色■ | 赤+緑?、注意? |
5 | その他大勢 | さまざまな中間色… |
トツ子の共感覚で人の色が見える設定だが、その人の何が色になって見えるのだろうか、というのを漠然と考えていた。
人が人を見て感じるモノとして、オーラ、気迫、気品、物腰の柔らかさ、隙の無さといった言語化、数値化しにくい気配があるが、これが色として見えるのだろうか?
ただ、これらはその人が気張っているのか、リラックスしているのかでも変化するから、少し違う気もする。
きみの青色は、学校在学中の取り繕った清楚な気配の色ではないかと想像したが、退学後の古本屋のバイト中やバンド活動中も青かったので、もしかしたら、きみの内面から滲み出てくるオーラみたいなものかもしれない。きみは「凛とした」というしなやかな力強さや「楚々」という清らかで美しいという言葉が当てはまりそうではある。
ルイの緑色は、「物腰の柔らかさ」「優しさ」がはやり近いのかと思う。
シスター日吉子の黄色は、「厳格さ」「優しさ」だろうか。
と、まぁ、ここまで書いて、何かの法則で色が決まると言うより、トツ子主観のその人に対する感情が色味を決めるのではないか、という気がしてきた。色はトツ子からみたその人への憧れだったり尊敬だったりの評価というか、好意のバロメーターというか。もっと言えば、演出的な都合の良い設定でいいのではないかと。
きみに対してはおそらく、「気品」のようなものにトツ子が衝撃的な憧れを抱いてしまい、鮮やかな青色に見えた。ルイ「優しさ」も、シスター日吉子「厳格さ」も同様である。
この設定は、言葉の説明なしに直感で演出できる点が優れているし、観客が言語化しにくい事象が増えるため、エンタメとしての複雑度というか厚みが増すという副次的なメリットもあると思う。
そうやって考えてみると、多くの生徒たちは原色ではない中間色に見えていたわけで、それが一般の人との距離だったのであろう。
たとえば、寮の同室の3人。悪い人たちではないし仲良くしていたが、ちょっと掴みどころがないトツ子に対して、無理強いする事もなく、妄想癖の傾向があるトツ子を自由にさせているところがある。そんなときは、トツ子抜きで3人で駄弁っていたりする。トツ子が発達障害的なニュアンスも持っているからと言って、変に甘やかすこともなければ、突き放す事もない。適度な距離感を持って接しているように見受けた。つまり、トツ子⇔同室の3人の感性の周波数には多少のズレが生じている。
しかし、これがきみとルイならちょっと違う。しろねこ堂の3人は、完全に周波数が合っており和音にしたときに綺麗に響くような関係性になっていた、と解釈した。
細かな事を言えば、親しくなってから色が鮮やかになるなら分からなくもないが、初対面で周波数が合うか否かは普通は分からないハズである。しかし、そこを飛び越える設定として便利に活用されているのだろうなと、私は許容している。
物語の構造
誰も他者否定しない優しい世界
本作が「静かなドラマ」という事を書いたが、実際のところの物語のディレクションについて考えていた。とりあえず、箇条書きで整理したものを、下記に示す。
- 本作は、自己否定を肯定する話
- 実は、3人が他人から否定されるシーンは存在しない。否定しているのは自分自身だけ。
- 自己否定要素
- (a-1) トツ子は、人が色で見えるのを内緒にしていること
- (a-2) トツ子は、ジゼルを踊り切れなかったこと(=やり遂げられない自分)
- (a-3) トツ子は、自分の色が見えないこと
- (a-4) きみは、退学してしまったことをうじうじ悩んでること
- 自己否定要素
- 3人はお互いに否定せずに肯定する。
- シスター日吉子は若者を否定せず肯定する。
- 厳密にはネガティブ思考をポジティブ思考に切り替えさせる(=救い)
- だから、若者の自己否定を肯定してゆく物語になっている
- 実は、3人が他人から否定されるシーンは存在しない。否定しているのは自分自身だけ。
- 罪(=嘘)は告解して赦してもらう
- 嘘はキリスト教の罪
- 告解は罪を神と司祭に報告して、反省して、赦しを請う
- 罪要素
- (b-1) きみは、祖母に退学したことを内緒にしている(=嘘)
- (b-2) ルイは、母に音楽活動していることを内緒にしている(=嘘)
- 合宿=告解
- 合宿直後、きみとルイは嘘をついてしまった祖母、母に謝罪→赦し
- 罪要素
物語のロジックとして分かりやすいのは、きみとルイの嘘の部分であろう。こちらは、大人の観客からすれば、いつまでも黙っていられるものでもなく腹を括って相手に相談するべき、となる事案であろう。また、問題解決のトリガーが3人の合宿で告白しあって共有したことになる。一応、ロジカルだが、ドラマ性は弱い。ここは思春期の少年少女特有の言い出せない迷いである事を理解しないと、薄っぺらい物語との感想を抱く人もいるだろう。
さらに、見えずらいのは、自己否定を肯定するというロジック。
- トツ子
- (a-1) 人が色で見えるのを内緒にしていること
- →合宿で告白し、ルイが肯定する
- (a-2) ジゼルを踊り切れなかったこと(=やり遂げられない自分)
- →ライブ後、なぜか踊り切れた(=肯定)
- (a-3) 自分の色が見えないこと
- →ジゼルを踊り切る直前に赤色が見えた(=肯定)
- (a-1) 人が色で見えるのを内緒にしていること
- きみ
- (a-4) 退学してしまったことをうじうじ悩んでること
- →ライブにて、クラスメイトから今も慕われていた(=肯定)
- →ライブにて、学校のみんながノリノリで楽しんでくれた(=肯定)
- (a-4) 退学してしまったことをうじうじ悩んでること
きみの場合、他者がきみを肯定するのでまだ分かりやすい。
しかし、トツ子の場合、(a-2)(a-3)は明確なロジックを持って解決しているわけではなく、合宿を経てなんとなく解消してしまう感じである。厳密には、(a-1)の肯定がトリガーになり、ライブの成功がトツ子に自信を与え、(a-2)(a-3)が解決するという流れにはなっているので、玉突き的なロジックはあるとは思う。
ここまで書くと、物語的な構造は明確にあるが、非常に淡いから、人によっては物語が無いと感じてしまうだろう。もっとも、敢えてこの極淡泊な物語を採用する理由は、山田尚子監督の真骨頂である「演出」の気持ち良さを際立たせるためにあると、私は考えている。物語が濃すぎると、繊細な淡い演出が吹っ飛んでしまう。もう一つ言えるのは、本作が音楽映画として、それ以外を抑揚を押さえて、いざ音楽の時に音を爆発させるという演出のメリハリを強くだせる、というメリットもある。
それでも、ここまでシンプルながら形よく物語を作り出しているのは、吉田玲子脚本の真骨頂だと思う。
少し脱線するが、本作はきみとルイの感情を爆発させたり、バンド活動をエモく書いたりすれば、それなりに今風で熱くるしい物語は作れるだけのバックボーンを持っていると感じた。しかし、そうしたバックボーンとなるキャラ設定は極限まで削ぎ落されているし、エモさも極限まで引き算して作られているような感触がある。これは完全に私の妄想でしかないが、まるで企画段階では、青春映画の大作のようなプロットをチラつかせておいて、その実はストイックなまでに大作感を排除して、好きな演出を詰め込んで作った。そんな風にさえ思う。
ここで、今一度、一般的な映画にあって、本作に無いモノを列挙する。
- 他者からの否定(=他者への否定)
- 強すぎる演出
- 恋愛(一応、きみ⇔ルイは恋愛だろうが、極淡)
- 努力・根性・勝利
- 暴力・セックス
- 父親
- 同性愛
それから、少し思うのは、物語の枠だけ取ると、音楽との結合度が思いのほか薄いという点。きみやルイが音楽好きなのはともかく、トツ子に至っては音楽への執着はそんなにない。普通なら音楽が問題を解決してもおかしくないところ、敢えて音楽には責務を乗せず、自由でいさせる。では楽曲は何と紐づいているかというと、物語ではなくキャラクターと紐づいている。その自由さが心地よい。
キャラクター
影平ルイ
長崎の五島の久賀島に開業医の母親と暮らす好青年。将来は、この地で家業の医者を継ぐ予定。
ルイの見た目の印象は、物腰が柔らかで繊細で、他人に優しい。
母は久賀島の開業医で忙しく、状況に応じて食事はルイが簡単なモノを作ったりもする。
一瞬映る入学式の兄らしき家族写真。父親は写っていない。現在、兄が病院を継ぐ話はないので、死別の可能性を連想させる。
レトロなモノが好きなのだろう。長崎に行ったときは中古レコードや中古楽器を買ったりする。島でシンセサイザーとマイクと長椅子を「ご自由にお持ちください」と持ち帰る。ときおり、半田ごてを持って電子工作する。スマホじゃなくてガラケーを使う。
それにしても、音楽に興味があるとは言え、離島で一人内緒でやっている事なのでほとんど独学なのだろう。キーボード演奏やDTMはもちろん、果てはテルミンまで独学というのはセンスがすごい。器用さが半端ないし、知識の守備範囲が広すぎる。
私は、医者か音楽かの二択とまでは思っていなくて、仕事は医者、趣味は音楽という二股路線を目指せばいいじゃない、と思っていたけが、それは母親に心配をかけるから音楽に現を抜かしている事は内緒にしていたという事だろうが、そのあたりがストイックというか自由が利かないな、とか思ってしまった。
私から同性視点でルイを見ると、なんと言うか女子2名に対して距離が近いというか、本当に女子に同化していると感じてしまう。私がオッサンなだけかも知れないが。
奉仕活動期間の一ヶ月ぶりの練習再開で、抱き着いたり飛び跳ねたり。クリスマスの雪で急遽、簡易的な寝具を協会に運び込んで、自分自身も宿泊するとか、直球の嬉しさ優しさだけで行動しているのだろうけど、裏が無いのが眩しすぎてしまう(トツ子ときみも警戒心が無いが)。そういう感想を書くこと自体が野暮なのだろう。
受験生とバンドという二足のわらじを履きつつ、それを見事にこなす。しろねこ堂のライブはルイのディレクションや下準備がなければ成立しないものだったと思う。
卒業とともに船出して久賀島を離れるが、荷物にはテルミンもあったので、医大生でも音楽も並行してゆくのだろう。楽器の運搬は慎重になるイメージだが、テルミンぐらいになるとチューニングもクソもないのか紙袋で運搬というのが可笑しい。
きみ→ルイの恋愛は明確だったが、ルイ→きみの恋愛はあっても微かに感じた。楽器を持っていく以上、向こうでもバンドを組む可能性なきにしもあらず。どこに行っても絶対にモテると思うが、今度は是非とも男子の友達も作って欲しい。
作永きみ
祖母と二人暮らし。両親とは離れて暮らすが、理由は不明。兄はこの春に就職して長崎から離れた。
本作は春服から始まる。きみが退学→バンドを結成→夏休み→修学旅行(寮の無断宿泊)→奉仕活動1か月→クリスマス合宿→聖バレンタイン祭→ルイ卒業の流れだったと思う。
ギターは兄が置いていったモノで、きみはギター初心者。特徴的なフード付きジャンパーも兄のモノだった可能性が高い。この状況から考えると、本作が始まる1 、2か月前に兄は長崎を出たと思われる。兄の残したモノを使うという事は、兄に対する憧れがかなり強かったと思われるし、兄のようになりたいという願望が垣間見える。兄はお盆休みも帰ってこなかったので、長崎のすぐ近くではなさそう。ギターももう使わないから妹に譲ったと考えるのが自然であろう。なんと言うか、兄は物理的にも精神的にも遠くに離れて行ってしまった。
一方、きみはミッション系スクールで聖歌隊のホープで、みんなに慕われる人気者であった。OBで同じく聖歌隊だった祖母の期待を背負っていたが、そこまで立派じゃない(=期待が大きすぎて応えられない)というストレスがあって学校を退学。きみの退学に関して何らかの事件があったのか否かは不明だが、事件なら保護者に連絡が行くハズなので、おそらく自主退学だったのだろう。
きみが退学するまでの間、学校生活に耐えてきたのは、兄の存在が大きかった可能性がある。兄がきみを直接何かから守っていたのか、きみのガスを抜いていたのか、その辺りは分からない。しかし、兄が遠くに去って行ってしまったため、きみは何かがオーバーフローして糸がプツンと切れたように、勢いで退学してしまったのではないか。
序盤でギター練習を聖歌隊の讃美歌でするシーンがあり、音楽のベースが讃美歌の合唱にあった事がわかる。ライブ2曲目の「あるく」には、讃美歌の歌唱を感じた。「あるく」の歌詞は、人を照らす灯りになりたい的な歌詞なのだが、うろ覚えだが古本屋で書いていた「あるく」の歌詞はもっとネガティブなものだったような気がしたのだが、どうだろう……。
祖母との関係だが、きみに非常に良くしてくれる。だからこそ余計に、祖母が悲しませたくない。祖母自体はパートで働いており、坂道に面した小さな戸建て住宅に住んでいる。必要以上に裕福というわけでもない(もっとも、両親からの仕送りがあるのかも知れないが)。
きみの罪は祖母に嘘(学校を退学したのに、まだ通学しているようにみせかけた)をついていた事。退学しているから関係ないかもしれないが、キリスト教徒であれば嘘は罪なので告解(≒懺悔)して反省しなければならないところである。この罪(=嘘)については、クリスマスの合宿後、すぐに祖母に嘘をついていたことを謝罪しており、そのまま和解できたのだろう。
ただ、一方で勝手に退学した件についても、よかったのか否かで悩んでいた。具体的には聖バレンタイン祭の控室で舞台上に上がる直前までうじうじ悩んでいた自分を責めていた。もう少し言うと、学校から逃げてしまった自分にライブをやる資格はない、とライブ直前まで控室で悩んでいた。これがきみの自己否定。しかし、これは久しぶりに再会した友達がきみを喜んで歓迎してくれたことで、きみは赦されて肯定されることで救われた。
と、ここまでがプロファイリング。
あとは、ルイとの恋愛感情について少しまとめておく。はじめて顔を赤らめたタイミングは、1か月の奉仕活動後に久賀島に訪れてルイがトツ子ときみに抱きついて来たとき。ルイはきみの「あるく」にテルミンの音を重ねてきみの気持ちに寄り添ってくれた。クリスマスプレゼントのスノードームを買う際、トツ子はきみの恋愛のときめきの色を見る。卒業したルイが船出したとき、防波堤の上をダッシュで追いかけて、「頑張ってー!」と大声で叫んだ。普段の芝居が抑制が効いているので、はじめて衝動を爆発させたシーンで青春を強く感じさせた。「大好き」とか言えないとことが、きみである。
個人的なきみの印象だが、当初、きみの外見に引っ張られて、「凛としてクール」な印象できみをみていた。しかし、その実は、結構うじうじ悩んでたり、恋する乙女なところもあり、結構なギャップがあった。その意味で、ビジュアルのせいで勝手にイメージを作られてしまうというのを、観客の私も行っていた。この辺りのキャラクターデザインのディレクションは巧みだったと思う。
その弱さあるきみを含めて捉えると、きみはなかなか魅力的なキャラに思えてくる。劇中でその弱さを受け止めた(=受け入れた)のがトツ子であり、ルイだったのであろう。
日暮トツ子
本作の主人公で、いかにも山田尚子監督が好きそうな、可愛いがいっぱい詰まったキャラというのが第一印象。
柔らかさを強調したデザインでそばかす顔。シュッとしたきみとは対照的。性格は朗らかで仕草も柔らかい。それでいて、少し天然なところもあり悪意がない。その意味で、個人的にトツ子は「たまこまーけっと」のたまこを連想させるところがある。健気で前向きで、はたから見ているとふわふわしていて、少し危なっかしいけど放っておけない的な可愛さ。
しかしながら、その一面だけでは終わらせず、トツ子にはトツ子の不安や悩みに対するドラマが静かに描かれていたところが、本作の肝だと思う。
物語序盤にトツ子はきみの青色をみて、突然きみに憧れはじめる。きみの青色が異常なくらい綺麗だったという事なのだろう。トツ子→きみがいかに好きになってしまったかを説明なしに観客に伝えるという意味で非常に優れた演出だったと思う。トツ子→きみは恋愛ではないが、この感覚は恋に落ちるのと同じだろうから理屈はない。そうした憧れだったり嬉しさだったり驚きの表情をトツ子は見せる。意味もなく廊下の長椅子に座って本を開いてきみをチラ見する姿が可愛い。
関連するが、ルイへのクリスマスプレゼントを購入する際にきみが見せたまばゆい色の輝き。金色やプラチナの紙吹雪のような躍動する色を見るが、それがスノードームの雪に重なる。この時トツ子は、きみ→ルイの恋愛であることを直感するが、トツ子自信はまだ恋愛を理解できず、驚きながら見ていたのは興味深い。
しろねこ堂で3人が出会い「バンド始めませんか」というシーン。この時、トツ子はテンパっていた感じはあったが、その言葉を口にする前に、何か神様が降りてきたようにも感じられた。この演出の意図は正確には分からないが、物語推進に必要なバンド結成をくどくどとした説明なしにイベント消化できるという演出的な裏技の一面もあったのだろう。ここは完全に妄想だが、トツ子自身が憑依体質でときおり何かに憑依されていたのかもしれない。
トツ子は地学の授業中に夢うつつの中で「水金地火木土天アーメン」の歌を思いつく。このとき、瞳が上に移動して白目をむいて居眠りに突入してゆくシーンがラリっている様でヤバさがあった。しかしながら、このトツ子の楽しい感覚を確かな説得力を持ってアニメーション映像に落とし込む演出力がすごい。それにしても、この曲の歌詞はヤバい。きみに一目惚れして、惑星が宇宙でくるくる回って、麺類を食べる、しか言ってない。他の2曲と違って思想がないところがかなり好きである。
とつ子はきみに対して前のめり過ぎるくらいに描かれる。きみの修学旅行のアリバイ作りのために自分の、修学旅行を放棄して誰も居ない寮できみと二人だけの修学旅行を楽しむ。実家の母親の言葉ではないが、他人のためにここまで踏み込むトツ子というのが今までではあり得なかったのだろう。基本は従順で自分から規則違反を起こすタイプではないのだろうが、トツ子がときおり普通とは違うぶっ飛んだ感覚で人様に迷惑をかけるリスクについては、この母親の言葉からうかがい知れる。
合宿の時に告白した秘密(≒罪)は、幼児期にバレエ教室で踊り切れなかったジゼルだった。ラストではジゼルを一人で踊り切るシーンがあるので、それに対する回答である事は間違いない。しかし、なぜトツ子はそれほどまでに踊り切れなかった自分を後悔するのか。ここの理由は正直分からない。
初心者のトツ子がライブで3曲演奏するだけでも、かなりハードルは高いと思う。練習中にトツ子の「できるかな?」にルイの「シール貼っておく」という台詞が入ったりして、トツ子にとっての演奏の大変さが伺われる。3曲目「水金地火木土天アーメン」はループなので演奏はそれほど難易度は高くないだろうが、1曲目の「反省文」はメロディーをたどたどしく指一本で演奏していたからかなり緊張していたのではないだろうか(どうもこれは、初心者だからではなく、そういう正しい弾き方の模様)。だが、このライブの成功体験がトツ子の自信になった可能性はある。楽器でもなんでもそうだが壁が存在しても、基礎練の継続や、しばらく他の練習して戻ってきたときにできるようになる事はよくある。その意味では、ジゼルは出来ない自分への呪いで、ラストでその呪いが解けたのかな、と思った。
シスター日吉子
シスター日吉子は、不器用な若者の立場を理解して気持ちを察しつつ、若者を導くという役割。本作で一番、ロジカルで、正しさを持った人間だったと思う。
シスター日吉子は、常に迷える子羊を見守り、ネガティブな方向に考えがちなところをポジティブに引っ張っていく。端的に言えば、子供を否定せずに肯定していた。
前述の「合宿」にした件も、寮への対応で宿泊織り込み済みの予定だったことにして、トツ子の無断外泊を回避したのだろう。
トツ子の奉仕作業にきみを一緒にさせたのも、二人が一緒に居られる時間をプレゼントするためのファインプレイであろうが、部外者に奉仕活動を命令するのも権限を越えているような気はするが、子供たちのためを最優先に行動できる人である。
シスター日吉子の一番のシーンはやはり、古本屋できみを聖バレンタイン祭のライブ出演に誘ったところ。少しタイミングが早かっただけで卒業生(=OB)だから、出場できると説得した。きみは、学校に対して後ろめたい気持ちがあるから、親しかった友達と会話したり、今の元気な自分を見てもらったりで、その気持ちを払拭して、前を向いて欲しい、という気持ちだったのではないかと思う。だからこそ、トツ子に声をかけるのではなく、きみに声をかけなければならなかった。もちろん、きみがOBだとか、後でわかるルイが男子だとかの問題も含めて、シスター日吉子がネゴったのは間違いないだろう。
讃美歌しか歌えないこの学校で、ロックの魂(=祈り)も讃美歌になり得るという強引な解釈が好きだが、それも「God almighty +」(=黒歴史)というかつて来た道というのも上手い。
ライブで大盛り上がりのタイミングで、ひとり勝ち誇った風に後ろ向きに歩いて去って行く姿が渋かった。彼女もまた、かつて聖バレンタイン祭でライブ演奏をしたのかどうかは分からないが、昔の自分とバンド仲間の事を思い出していたのではないかと思う。
別のところまで歩いてゆき一人踊っていたので、人前ではシスターとしてハメをはずさない大人の建前は崩さず、心では音楽を祝福しライブを楽しむ熱さを垣間見せるという、最後の最後までカッコいいところを見せてくれた。
ライブ楽曲(Live Version)
牛尾憲輔のサントラがサブスクで出ていますが、これも非常に良い。Live曲はいつもリピートしています。YouTube動画も出ているので、再生リストとその曲へのリンクを貼っておきます。
おわりに
書いてみれば、思いのほか長文となってしまいました。一度かなりのところまで書いたのですが、途中で違和感だらけになってしまったため、2回目視聴後に全面的に書き直しました。なので、今回のブログはかなり難産でした。
多分、今回は吉田玲子脚本を褒めている人は少数だと思いますが、個人的にはここまで物語を淡くしても、軸として凛とした部分が残るというか、そういうものが浮き出てくる脚本であったと、高く評価します。
思えば、「聲の形」くらいから、次はもっと楽しい山田尚子監督作品を観てみたいと思っていて、やっとそういう作品が出て来たなぁ、というのをふと思いました。
今はもう、感謝しかありません。アーメン。