たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

窓ぎわのトットちゃん

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

映画「窓ぎわのトットちゃん」の感想・考察です。

日本人なら誰もが知るタレントの黒柳徹子さんの自伝的小説であり、戦後最大のベストセラーが42年越しに初めて映画化されました。しかも、実写映画ではなく、アニメ映画として。

制作のシンエイ動画さんの仕事は実に真摯で、隅々まで気持ち良く動く丁寧なアニメーションや、柔らかな水彩調でありながら細部まで書き込まれた背景美術、迫力ある音響など、手抜きを一切感じない映像に仕上がっていました。

主軸の自由奔放で元気な女の子の物語だけでなく、戦争がその幸せを奪ってゆくドラマがあるため、軽快さと重厚感の両方が味わえる作りになっており、非常に見応えがありました。

感想・考察

本作のキーワード

最近のマイブームで、あらかじめキーワードをマインドマップで作っておくとブログを書きやすい。本作のキーワードを書き出したものを下記に示す。

私の中の黒柳徹子さん

日本人で黒柳徹子さんを知らない人は少ないだろう。私の記憶では、TBSの「ザ・ベストテン」くらいに遡るが、玉ねぎ頭が印象的な早口おばさん、というのがファーストコンタクトだったかもしれない。とにかく、アクが強い人だと思っていた。

それからもっと年月が経過して、ある日健康ランド?に「窓ぎわのトットちゃん」が置いてあり、それを序盤だけ読んだ。とても、引き込まれる内容で、みずみずしさもあり楽しく読めた。その昔、ベストセラーになっていた事は知っていたが、これは読まれるハズだわ、と思った。(この序盤だけというのがミソで、映画でこんなに戦争描いていたとは思わなかったので驚くと同時に、知らずに観て良かったのかもと思った)

そこから、彼女に興味を持ち、文庫本のエッセイや、岩合光昭さんとの共著であるパンダ本なんかを買って読んだりもした。黒柳徹子さんは、その昔は美人で非常にモテたイケイケ女性だったらしい。アイドルという言葉もない時代だったが、当時その言葉があればまさに、アイドルと呼ばれる存在だった。持ち前の自由奔放で天真爛漫でタレントとして活躍していったのだろうが、芸能界で生き残っているからには、それだけではない芯の強さも持ち合わせているのだろう、と感じさせるエッセイであった。

黒柳徹子さんのパンダ好きは有名である。彼女は映画の通り、裕福な家庭に育ったが、まだ日本人が見た事がないパンダという動物にとても関心を持ち続けていて、アメリカの動物園で初めて見たときはとても感激した、というような事がパンダ本に書いてあったと思う(うろ覚えですみません)。映画でも最後に、一風変わったパンダのシュタイフのぬいぐるみが出てくるが、まぎれもなく彼女が子供の頃に持っていたモノであろう。

劇中で、トットちゃんがスパイになりたい、という台詞があったが、ある意味、本当にスパイをしていてもおかしくないくらい、浮世離れした雰囲気を持つタレントという印象を持っていた。

トットちゃんのキャラクター

劇中のトットちゃんは、自由奔放で天真爛漫。だけど、集中力が無く、多動性なところがあり、妄想癖もある。

実際は聡明な子で、根は思いやりのある優しい子であり、決して他者を否定しない。この辺りはトモエ学園の指導方針とも重なる部分である。

トットちゃんがトモエ学園に来て初見の校長先生にありったけのおしゃべりをして、最後に「私、変な子みたいなの(うろ覚え)」と言うシーンで、トットちゃんが過去に否定された事実があって、それに対する不可解さと悲しさを感じていた事が分る。校長先生はトットちゃんのそのトゲも抜いて、全肯定して受け入れるところがミソである。

もう一つ、トットちゃんは楽しい事が好きで楽しい事ばかり考えて、悲観的には考えない。常にパワフルでポジティブ全開でカラっとしている。そして、腕っぷしも男子に負けないが、非暴力を貫く。

後で触れるが、そのポジティブさは、戦時中の陰鬱な時代の空気と対照的である。ある意味、天敵の関係にあることが本作の肝になっている。

それから、CVを担当した大野りりあなさんの迫力ある演技も、トットちゃんを魅力的に見せてくれることにかなり貢献していたと思う。まさに、当たり役である。

描かれたモノ

はみ出し者のトットちゃんと差別

トットちゃんは、尋常小学校から追い出されたはみ出し者である。

劇中は戦時下だから、規律(=命令)に従う人間を量産を目的とするところは多分にあったのであろう。トットちゃんの個性は、その社会常識の範疇を逸脱し、欠陥品の烙印を押されてしまう。おそらく、当時の人々の多くは、その事に何の疑問も抱かなかったのであろう。

「窓ぎわのトットちゃん」が出版されたのは1981年である。高度経済成長期も終わり、受験戦争が過熱し、TVでは「3年B組金八先生」の第2シーズンが放送されていた。「校内暴力」「登校拒否」などという言葉が使われ始めた時期である。長らく続いた戦後教育も、時代の潮流の変化の中で、教育現場に何らかのしわ寄せがきていたのかもしれない。

そうした子供たちが信じられなくなる時代背景の中、子供たちに押し付けて叱るのではなく、子供たちの目線に降りて子供を救って伸ばすというトモエ学園の先進的な教育方針は、それまでの教育のアンチテーゼであり、相当のインパクトを社会に与えたのだろう。戦後最大のベストセラーになった事実が、この時代にこの物語が欲せられていたことを意味していたと思う。

そこから時代はバブル崩壊を経て、義務教育の現場では1990年代後半から「学級崩壊」という言葉が出始めてくるのは、皮肉めいたものがある。2002年からは、それまでの詰め込み教育からゆとり教育に切り替わり、歌謡曲では「世界に一つだけの花」がヒットした。周囲と違うからと排除される風習は、徐々に個性を尊重する社会通念に置き換わっていった面はあったと思う。

しかし、2023年の現代でもダイバーシティという言葉は使われ、欧米のエンタメやCMでも人種やLGBTQなど、さまざまな差別に対する配慮がなされている。もちろん日本も例外ではない。こう言った差別の問題は、そう簡単には撲滅できるものではなく、時代と共により細かな差別が見えて来て、そう簡単にはなくならないものかもしれない。

その意味で、「他者を否定せず受け入れる」、「みんな一緒」というトモエ学園の寛容な精神は、いつの時代どこの世界でも通用する普遍的なテーマなのかもしれない。

トットちゃんから見えた「戦争」という社会情勢

黒柳徹子さんは戦争反対、平和貢献の人なので、本作が戦争に対するメッセージを持つ事に対して異論はない。

しかし、個人的には本作の主軸は「差別しないこと」の方にあると感じた。「窓ぎわのトットちゃん」の小説というエンタメ作品の中においては、やはりトモエ学園と小林先生への感謝の気持ちが土台であり幹であったと感じた事は記しておきたい。

本作の戦争描写だが、幸せな生活にじわじわと近づいて、楽しみを奪い、笑顔を奪い、悲しみを押し付けてくる。お国のためという正義の押し売りで国民に我慢を強いる。その結果、自由は奪われ、息苦しい生活の中で疲弊し、メンタルは削られてゆく、という描き方だったと思う。

また、同調圧力という意味で、規格外なトモエ学園や、西洋志向の黒柳家に対する風当たりを強くしたのも戦争の影響であろう。この辺りは、マイノリティの迫害とも言うべき差別のテーマにも直結してくる。

しかしながら、トットちゃんは子供なので、戦争の不条理の中にいても戦争を憎むという描写が出てこない。小林先生が人目のない所で大石先生を叱っていて驚いたように、大人の世界という子供に見せない世界があり、その中で子供が生かされている事はなんとなく知っている。だから、戦時下という状況を、戦時下だからという説明で納得して過ごしていたのだろうと思うし、それが当時のトットちゃんのリアルであろう。

下手な反戦映画だと、ここで悲惨な生活や飢え死にしてゆく人々の悲壮感を描いて同情を誘ったりするところ、本作ではそこをトットちゃん視点で淡々と描くことでドライに仕上がっている点を評価したい。個人や組織の悪役を設定する方がエンタメとしては分かりやすいが、むしろそうした明確な悪役がはっきりしない事が戦争の恐怖であると言えよう。その意味で、本作はとてもクレバーな反戦映画だと思う。

突然訪れた、死別の悲しみ

本作のクライマックスは、親友の泰明ちゃんとの死別である。

本作の前半は生きる喜び楽しみに満ちた構成になっている。中盤で登場する縁日のヒヨコの死は、物語転換のフラグである。

そして、突如訪れる泰明ちゃんとの死別。それまで一緒に遊び励まし合ってきた描写があるからこそ、かけがえのない親友の喪失のショックの大きさに打ちひしがれる。教会の葬儀で泰明ちゃんの棺桶に椿の花を添えて、居ても立っても居られずに走りだし、トモエ学園まで来てしまう。追いかけてきた校長先生は「アンクル・トムの小屋」を泣いているトットちゃんに手渡し直すのだが、遺品を受け取る=死を受け入れ遺志を継ぐという儀式に思えた。

本作がズルいというか巧みだと思うのは、このトットちゃんの悲しみに国民の戦争の悲しみを重ねて、悲しみの主語をすり変えてくるところである。

この、トットちゃんが駆け抜ける一連のシーンで、ガスマスクを被った子供の戦争ごっこや、負傷したり遺骨になった帰還兵や、出兵を送り出す行進などのシーンを重ねてくる。それまで意識しなかった、戦争の悲しみや痛みが、大きな悲しみとなって一気に観客の心になだれ込んでくる。このシーンはアニメーションとしての出来もよく、演出としても秀逸である。

「アンクル・トムの小屋」の奴隷社会にあっても尊厳を持って生きるというテーマ。主語がトットちゃんから「国民」に変わる事で、トットちゃんが尊厳を持って生きるという意味から、国民が「戦争」という不条理で見えない大きな力に自尊心を持って抗う意味に変化する。それは、軍歌の演奏を拒んだ父親や、空襲で燃えてしまったトモエ学園を目の前に何度でも立ち上がる気概を見せた小林先生の尊厳にも重なるものだろう。

印象的な「よくかめよ」を軍人に咎めらえるシーン

個人的に強烈に印象に残ったシーンは、雨降る街角でトットちゃんと泰明ちゃんが余りの空腹のためにトモエ学園で教わった「噛めよ、噛めよ、噛めよ」と歌っていたところ、急に軍人に「そんな、いやしい歌を歌うもんじゃない(うろ覚え)」と咎められるシーン。

SNSなどの感想を見ると、実はこの「よくかめよ」という歌は、英語の童謡である「Raw Raw Raw Your Boat」の替え歌らしく、洋楽を口ずさんでいた事が軍人のカンに触った、という解釈もできそうである。

だとしても、いやしい=意地汚いだから、やっぱり「食べる」ことを咎めた台詞にしか思えない。しかも、その軍人は食堂に入って何か食べていた風だった。子供に八つ当たりが強すぎるとも思えたし、その軍人や社会に余裕がないからという描写ととりあえず解釈した。

それにしても、その後、泰明ちゃんが水たまりを踏みしめる音で音楽を奏でてトットちゃんを励ますシーンは本当によく出来ている。嫌味な軍人に対する憎しみではなく、音楽という楽しさで上書きしてゆくことを泰明ちゃんが教えてくれた。これは、トットちゃんのラストシーンにも繋がっているし、本作のテーマそのものと言ってもいいだろう。

車窓から見えたチンドン屋のラストシーン

ラストは疎開先の青森に向かう汽車の中でチンドン屋を見つけるシーンで〆られる。

汽車の中の乗客はみな疲弊しており、まだ赤ちゃんの妹は泣きじゃくり、トットちゃんは仕方なく列車の連結器の所まで妹を抱えて移動してくる。そして、車窓からチンドン屋を見つけて扉を開いてよく見る。妹は泣き止み、トットちゃんはまた汽車の扉を閉める。

誰も居ない林檎畑に、物語冒頭と同じチンドン屋であったことから、幻が見えたという演出に思える。それは、戦争で真っ先に失われた「楽しさ」の象徴であり、その「楽しさ」こそが生きるためにかけがえのない大切な希望である。トットちゃんにそれが見えた事が、未来への希望を示唆し、本作の心地よい余韻になっている。

なにせ、我々観客は、戦後トットちゃんがTVを通して文化や娯楽を大衆に届けてゆく未来を知っているのだから。

おわりに

実は、見終わった直後は、トットちゃんと戦争という二大要素が直結していない感じがして、戦争というテーマがとってつけた感があるな、と思いました。

それは、物語の中でトットちゃんが戦争をどうにかできる立場になく、戦争を状況としてしか受け入れられないため、トットちゃんと戦争の関係性が疎であると感じたからでした。

しかし、ブログで感想・考察を整理してゆくと、多少強引ながら、しっかりと戦争に対して、自尊心を持って流されずに生きようというテーマや、戦後全てを失った後からの復興で、「楽しさ」を原動力にして生きてゆける未来の示唆があり、非常に練られた作品に思いました。

この辺りは、脚本も担当している八鍬新之介監督の丁寧な仕事ぶりが伺えるところだと思いました。