たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

天気の子(その3)

ネタバレ全開です。閲覧ご注意ください。

はじめに

天気の子は2回観て、(その2)を書いて力尽きていたのだけど、ラストの解釈と、気になったブログ記事があり少し考えていた事があったので、その辺についてまとめてみました。

よければ、こちら過去のブログになります。

考察

ラストの「大丈夫」の解釈

ラストの「大丈夫」についてだが、何が「大丈夫」なのか?

シチュエーション的には、以下の流れである。

  • 帆高は高校生活を保護観察付きで神津島で過ごす
  • 東京は水没したが夢物語の様に実感が無い
  • 高校を卒業し農工大に入るために上京
  • 冨美に「なんで謝るのさ」と言われる
    • 一般都民は天気の巫女は知らないので、東京水没で穂高陽菜を恨む人は居ない
  • 須賀に「自惚れんな、気にすんな」と言われる
    • 須賀は天気の巫女を知っているが、ガキの帆高が責任取る様な話じゃない
  • 陽菜は水没した東京に対しお祈りしている
    • 向こうの方で晴れ間が見える
  • 帆高は指輪を握り「大丈夫」の台詞

帆高は、意図せず陽菜と東京水没を天秤にかける事になったが、改めて、あの日、陽菜を助けて良かったと言いたかったのは間違いない。東京水没するくらいなら陽菜を救わなければ良かった、とは間違っても思っていない。

しかし、東京水没に対して、どうでも良いとは思っていなかったと私は考えている。大学生として農工大に入るという事は、社会のために生きる第一歩だろうし、そもそも帆高は社会を憎んでいたり、社会を壊そうとはしていない。たまたま、選択した結果が大事件になっただけで、それも東京水没を狙ってした事では無い。要するに帆高には悪意が無い。

だから、現状の東京水没を見て、不安な気持ちはあったと思うが、それでも「大丈夫」の台詞が言えたのは、大切な人である陽菜がまた帆高の太陽になってくれるから、帆高も陽菜を助けてゆけるから、お互いにその気持ちがある事を確認出来たから言えた言葉なのだと思う。具体的な施策や保証があっての「大丈夫」ではない。この気持ちがあれば、やっていけそうという「大丈夫」なのだと思う。

陽菜は天気の巫女の力は失っているのに、何を祈っていたのか?私は、今自分が生きている事への感謝、帆高との縁を感謝していたのだと思う。付け加えるなら、東京水没の犠牲者に対して弔いの気持ちもあったのかも知れない。間違っても晴れて欲しいとは祈ってはいないと思う。それは、今生きている事を否定する事になるから。

結果的に、ラストシーンは雲間からお日様が差すという明るい未来を垣間見せるような終わり方であった。これも、間違っても陽菜に天気の巫女の力が回復したとかではなく、言って見れば、製作側からのプレゼントなのではないかと思う。異常気象の長い周期でようやく回復周期に入ったのかもしれないし、たまたまかも知れない。

ちょっと明るく解釈しすぎかもしれないが、そういう風に感じた。

本作は社会を否定した子供の物語なのか?

たまたま、現代ビジネスさんのブログで下記のブログが気になった。

これらのブログは、本作の解釈が足りていないかな、と感じる部分もいくつかあったが、これらのブログの本質的な主張は「天気の子」という作品が、下記であると理解した。

  • 二人か?社会か?という二択しか提示していない事
  • 子供も大人も、ダメになった社会を改善しようとしていない事

よって、無責任な大丈夫=社会の劣化であり、ちっとも大丈夫では無い、という論調である。もう少し書いておくと、上記は、帆高や陽菜や須賀などの登場人物の行動への嫌悪感ではなく、「天気の子」という作品への嫌悪感である。ついでに書いておくと、似たような批評を書いている個人ブログも散見された。

先に私のスタンスを書いておくと、私は上記には賛同しない。

それは、先に書いたように、3年前の帆高は陽菜を助けるために社会が犠牲になった事をザマーミロと言っているわけでもなく、大人になる事を100%否定しているわけでもなく、今までの高校生という保護者の元での生活から少し離れ、下宿(?)しながら大学に通おうという状況である。家出して身寄りがないのとは状況が変わった。ただ、帆高は変に大人ぶる事はしない、というだけの事に思える。

そして、社会自体は、このような未曾有の自体にも対応しており、冨美のマンションの窓からは建造中のマンションがいくつも見受けられた。ことさらに社会のタフさは描いている。別にもののけ姫のように、みんなで社会を良くしてゆこう、などと台詞で言わないだけの話である。

勿論、帆高が陽菜も救って、東京水没も回避するような物語なら、おそらく「君の名は。」で一度やっていて、今度はそれをやりたくなかった、という話もインタビューで出ていて、意図的に、そのような災害回避のハッピーエンドを外しているのが本作の始まりである。

で、ここまで書いて、どうして、こういった的外れなブログ記事が散見されるのか、というのをしばらく考えていた。

帆高が陽菜を救った時というのは、確かに社会のルールを違反して、大切な陽菜のために、それだけを最優先に行動したが、その事に対する責任を背負っていない事に対する不満が、前述の様々な小さなエクスキューズがあるにも関わらず、頭ごなしに、子供の我がままを美談にしている浅はかな物語であり、前向きではない、と結論付けたくなるのではないだろうか?

制作側が用意したエクスキューズに気付かないのか、気付いていても原理主義まで行きつくと犯罪を犯しても良いという物語が生理的に受け付けないのか?問題に対する改善案のコミットが無ければダメなのか?

結局、上記のブログを書いた人の詳細は気持ちにはリーチ出来ていないのだけど、一つの映画で、こうも捉え方が様々に変わる作品という事の面白さと、その事さえも私にとってはエンタメになっているわけで、本作の奥深さについて、改めて凄いと思った次第である。

おわりに

興行収入も100億突破していますが、天気の子は、(内容はともかく)今でもブログに毎日書かれているようなコンテンツであり、本当にその作品の力強さと観客の多さに驚いています。おそらく、天気の子については、私のブログもこれが最後かと思います。

そうそう、帆高が陽菜にプレゼントした安物の指輪ですが、あの黄色い意志は、サンストーンというのだそうです。これは陽菜が穂高にとって太陽そのものだったら、と思います。本当に細かな所まで仕込んでる強コンテンツだな、と思いました。