たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

若おかみは小学生!(その2)

ネタバレ全開です。閲覧注意願います。

f:id:itoutsukushi:20181009215510p:plain f:id:itoutsukushi:20181009215450p:plain

はじめに

SNSやブログで他の人の感想などを見ていましたが、人によっては部分的に合わないとの否定的意見もあり、いくつか感じた事もあったので、考察・感想を追加します。

前回の記事は、あれはあれで一旦まとまったものなので、新規記事として起こします。

なお、これらの考察・感想は個人的なものですので、他の人には他の人なりの見方、受け取り方がある事は承知しています。なので、異論は認めます。こんな意見もあるのだな、程度に思っていただければ幸いです。

考察・感想

おっこについて

おっこは可哀そうな子なのか?

ネガ意見の中の一つに下記がありました。(内容はかなり意訳しています)

  • おっこは、まだ小学生なんだから、甘えが合っても良いし、無理に出来が良い子を演じる必要は無い。

この意見の裏には、自分自信をおっこの立場に置いたとき、おっこみたいに立派に振舞う事はできない、という気持ちがあるのだと思います。

確かに、クライマックスで両親の死を直視させられ、号泣し、その後に交通遺児の関織子ではなく、春の屋旅館の若おかみおっこである、と宣言して木瀬文太を迎え入れる、というのはちょっと考えると変化が激し過ぎる。そう思う気持ちも分からなくはない。

でも、私は観ていて、そうは感じませんでした。

それは、それまでにおっこに起きている事が丁寧に描写されている事があるから、おっこのその変化が、私にとっては納得できるものだったから、だと思います。

おっこが直視できなった両親の死

おっこは両親の死を直視する事ができませんでした。

だから、若おかみの仕事の忙しさの中に身を置き、両親の死を考えないようにしていたのではないかと思います。

本来なら、おっこの両親の代役を務めるのは祖母の峰子になりますが、おっこが若おかみの修行をする事になり、峰子は母親代理ではなく、仕事の先生として、おっこに向き合う事になります。先生兼母親代理としておっこに接するのが現実的でしょうが、仕事人間としておっこと接している風に描かれていたように思います。

これは、ちょっとした不幸でした。

峰子がおっこの若女将修行をストレートに喜ばず、曇った顔になってのは、この事も少し関係していたのかもしれない、と思いました。

また、両親が居ないという精神状態を支えたのは、ウリ坊、美陽、鈴鬼の3人だったと思います。彼らは一学期の通知表を見ながら、我々がおっこの世話をしないと、みたいな台詞を言っています。彼らはおっこの友達でもあり、保護者でもあったと思います。

例えば、ウリ坊は梅の香神社で行き倒れてる神田親子をみて、春の屋旅館の宿泊を誘ってみたらどうか?と提案したり、温泉で蛾が死んだのをみて、おっこに合掌させたり。

おっこは若女将として仕事をこなせるようになってゆきますが、こうして心を騙して積み重ねた事が、後の悲しみを大きくしたのだと思います。

おっこが若女将として得た成功体験

おっこはがむしゃらに若女将になろうと成長してゆきます。

初めは着物の着付けから、歩き方から、挨拶の仕方から、右も左も分からない状況でしたが、春に神田親子を迎え入れた時には、ある程度、若女将姿も様になってきていました。もの凄い吸収力です。

あかねに対してひねくれ者とケンカ腰になりましたが、母親の死を受け入れられないあかねの姿をみて、胸を締め付けられ、買ってこれなかったケーキの代わりに、自ら作った露天風呂プリンを食べてもらい、美味しいと言ってもらえました。

おっこは、お客様ごとにおもてなしがあり、おもてなしによりお客様が笑顔になる、という仕事の喜びを感じ始めます。

グローリーに対しても、浴衣を着せたり、調子に乗って簡易ファッションショーみたいに振舞ったり。

お客様を見て、お客様ごとのおもてなしをする事で、お客様に笑顔になってもらう。そうした事が実感を持って分かってきました。

また、それだけでなく、お客様から嬉しいプレゼントもありました。

グローリーは、両親の死に対するおっこの抑圧を察していたのので、ストレス発散の為に、オープンカーでドライブしたり、洋服を爆買いしたりしました。さらには別れ際に名刺を渡していますが、これは困ったことがあったら、いつでも頼ってくれという意味です。

また、あかねの父親の書いた雑誌記事が評判になり、春の屋旅館を訪れる客が増加します。

こうした、嬉しいお返しがあり、若おかみとしての仕事の喜びを十分に感じる事が出来ていたともいます。

この成功体験は、両親の死と向き合えない事で加速した所は皮肉です。

両親の死を直視した瞬間のおっこ

木瀬文太の告白により、あの日あの時の交通事故で反対車線から飛び込んできたトラックの運転手だったことが分かった瞬間、おっこは両親の死を受け止められず、その場を泣きながら逃げて、外に出ます。

「帰りたい」「一人にしないで」と叫びは、とても大きな悲しみ。おっこは、それまで泣いていない。それまで蓄積された涙が一斉に溢れました。

泣くと言う行為は、自分ではどうしようもない時に涙が溢れてくる。両親の死という、どうしようもない事を、現実として突きつけられた事により溢れてきた涙。

でも、その悲しみは、グローリーの抱擁により受け止められます。グローリーは抑圧されたおっこの悲しみがいつか決壊する事を知っていた。だから、おっこの悲しみを受け止める心の準備も出来ていた。

その後、グローリーはウリ坊や美陽や鈴鬼の事、両親の事を、グローリーに話します。そして、グローリーはその幽霊話を真剣に聞きます。今まで一人で胸の中にしまってきた抑圧、それをグローリーと共有する。

グローリーは、おっこは一人じゃないと言います。

今までおっこは、悲しみを自分の内に閉じ込めて直視しないという意味で、一人でした。でも、グローリーと今回の事を共有し、気持ちを外に出す事が出来た。

この時点で、おっこは、悲しみの抑圧というマイナス状態から、その悲しみを受け入れるというゼロ状態になったのだと思います。

交通遺児の関織子から、若おかみのおっこへ

グローリーが悲しみを受け止めてくれた事で、おっこも冷静さを取り戻します。そして、若おかみという立場に頭を切り替えて行きます。

木瀬文太は、自分の事故でご両親を死なせた関織子の宿には、辛くて泊まれない、と言います。

しかし、おっこは、私は関織子ではなく、春の屋旅館の若おかみのおっこ、と言います。

これまでも、おっこはお客様をおもてなし、癒し、励まし、回復させてきた。文太の心の傷は、自分が交通事故の加害者で、関織子の両親の命を奪ってしまったという、良心の呵責。だから、おっこは文太を赦し、文太の心の傷を治癒しようとしたのだと思います。

これは、おっこの心からのおもてなしの表れだと思いました。

こうしたおっこの成長を見たときに、おっこが見えない所でまた抑圧が続いていて苦しんでいるとか、無理に背伸びして大人ぶっているとか、そうは感じませんでした。

それは、この日に至るまでの、おっこの若おかみとしての喜びと、グローリーに受け止めてもらった涙が、おっこの気持ちを昇華させているからだと思います。

木瀬文太について

文太を春の屋旅館に留まらせたのは良かったのか?

文太で気になった意見は下記。

  • 春の屋旅館に引き留めたのは、文太の気持ちを無視しており、接客としてNG

いたたまれない、文太の気持ち

文太はおっこが飛び出して戻ってきたときにこんな風に言います。

「何といったらいいか。勘弁してくれ」

ここで文太が謝罪の言葉を言わないのですが、それは文太自身も交通事故の被害者で、むしろ文太自身には過失は殆どなく、回避できない事象だったからに違いありません。(もちろん、自動車保険的には、文太は加害者ですが)だから、文太も謝れないのです。

先ほどまでもてなしてくれていた若おかみが、自分が交通事故で両親を死なせてしまった関織子で、その子は両親の死を思い出し、大泣きして外に飛び出していってしまった。

しかも、自分は意識不明の重体からなんとか生還し、家族3人で旅館に泊まっているという罪悪感。

文太のなんとも、いたたまれない気持ちはよく分かる。

その場は、翔太が春の屋旅館に留まると駄々をこねていた事、グローリーが雪が降ってきたらみんな中に入りましょう、と催促した事から、その流れに春の屋旅館にとどまる事になりましたが、この時の文太は困った顔をしていました。

また、この時の文太の渋い表情というのは、物語と芝居を作るうえで非常に自然だと思いました。文太が間髪入れずにおっこを受け入れたら、逆に嘘くさい。その辺りのディレクションと演技は凄いな、と思いました。

文太がおっこの事をどうとらえるか?

花の湯温泉の湯は誰も拒まない、は憎しみ憎しまれた心の傷も癒します。

おっこが取った行動は、キリスト教でよく言われる「赦し」だと思います。その人が犯した罪を風化して忘れるのではなく、罪憎んで人を憎まずとし、その人自体を赦す。この赦しにより、罪を犯した相手も救われる。

この「赦し」の概念が無いと、今回のおっこの行動は素直に受け入れられないと思います。

おっこは両親の死を受け入れられなかっただけで、文太を憎んでいた描写ではありませんでした。また、前述の通り、おっこは両親の死を先ほど受け入れる事が出来たと思います。

だから、その事が、おもてなしを通じて、文太に通じれば、文太も救われるのでは無いかと思いました。

残念ながら、今回そのような描写はありません。単に尺が足りなかったのか?含みを持たせたのか?

だけど、文太への救いというのは、見えない所であったのだと、そう思いたいです。

関峰子について

迅速な峰子の対応

木瀬一家を秋好旅館に移す手配をしたのは、おそらく女将の峰子だと思います。

木瀬文太が娘夫婦を交通事故で死なせてしまった当人という事は、宿帳と新聞記事の突き合わせで分かりました。

おっこが外に飛び出した事で、おっこがそれを知った事を察したのだと思います。

おっこがこの状態では接客は無理だし、お客様の気持ちも察すると、春の屋旅館に留まるのは無理だと判断したのでしょう。

おっこが外に居た時間がどれくらいの長さだったのか、峰子は速やかに秋好旅館に連絡し、車をまわしてもらい、木瀬一家に荷物をまとめてもらいました。

おっこの復帰後の峰子の対応

おっこが若女将のおっことして木瀬一家をもてなすと宣言した後、笑顔で木瀬一家を迎え入れる側に回りました。

峰子にも「赦し」の心が無ければ、木瀬文太を受け入れる事は出来ません。峰子もおっこと同様に文太に対して「赦し」はしていた、という事だと思いました。

むしろ、おっこの精神状態を考えて、木瀬一家に迷惑をかける可能性を一番心配していたのだと思います。

花の湯温泉のお湯は誰も拒まない。その精神を長く引き継いできた。そういう事だと思いました。

それにしても、物語だからかも知れませんが、随分とおっこの事を仕事仲間として信頼しているのだと思いました。

本来であれば、唯一の血の繋がりかも知れない祖母という立場にありながら、家族ではなく、仕事仲間として接する描写しか見せなかった峰子。

プロフェッショナルという事かもしれませんし、キャラ立て上の話かもしれませんが、厳しい人だな、と感じました。

おわりに

本作のクライマックスのシーンについて、少しばかりの心の引っ掛かりを感じて、ずっと考えていました。その一つの到達が、今回のブログです。

様々な人が、様々な印象を持って、このシーンを観ていたと思います。

想像、妄想、多々ありますが、その一つの受け取り方として、こんな風にみていた人もいるのだという事を感じていただければ幸いです。