たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

君たちはどう生きるか(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

本作についてのいろんな考察ブログなどを読んでいましたが、イマイチもやもやする気持ちがあり、追加のブログ記事を書きました。

それは、簡単に言うと物語のロジックの有無です。別の言い方をすると、物語があるのになんかキツネに摘まれたような感覚に陥るところを気にしていました。結論から言うと、一部の物語のロジックは意図的に省いているように思いました。

それを整理するために、物語を構造的に序破急に分割し、プロセスが描かれるべき「破」のあらすじを整理して、何が描かれていたか、どんな感想を持ったかを細かく分解してゆきました。そして、分解した結果を最後にまとめています。

それと、最近のマイブームなのですが、マインドマップなどの図で表現が分かりやすそうなところは図を入れています。図を描くと時間はかかりますが、自分でも頭の整理ができるのでオススメです。

感想・考察

物語の構造

孤独な主人公の少年は、いくつかの思春期ゆえの問題を抱えていたが、ファンタジー世界での冒険を経て成長し、現実世界に戻ってくる。いわゆる「行きて帰りし物語」の構造である。序破急で言えば、次のようになるだろう。

  • 序=現実世界
  • 破=ファンタジー世界
  • 急=現実世界

アオサギが喋りだしたあたりは、現実世界とファンタジー世界の中間だと思うが、ここでは「破」に含めて考える。

ここで、物語の構造にならって、「序」の眞人の問題点と、「急」の解決状況についてマインドマップで整理する。

「序」での眞人の問題点の提示は、かなり細かく描かれていたと思う。実母ヒサコとの死別に無念と未練があり、継母ナツコへの戸惑いから家族として受け入れる事に戸惑いがあり、裕福な家庭環境や、それが原因での学友との喧嘩への不満があり。そして、最終的に「急」ではそれらの問題をクリアし受け入れる事ができるようになる。継母ナツコを母親として受け入れ、実母ヒサコとの死別を受け入れた。側頭部の傷が象徴する悪意については、罪を背負いつつ生きる事を受け入れた。ここだけを注目するならシンプルな物語と言えるだろう。

一般的な物語なら、「序」から「急」への主人公の少年の試練や成長を「破」でロジカルに描かれる事を期待するし、ここをいかにドラマチックに盛り上げるかが作家としての腕の見せ所であろう。しかし、本作の「破」は、宮﨑駿監督が得意な風刺や思想的な要素をふんだんに取り入れたアニメーションを見せつけられ、物語をロジカルに推進する情報には乏しい。もっと言うなら、本作は物語の頭と尻の側だけ用意して、物語の中身をまじめに作る気がないようにさえ感じる。だから、観客は狐につままれたようになり、「よく分からなかった」という感想が頻発するのではないだろうか。

しかしながら、本作の肝は、この「破」で描かれている事にあると思う。それは、大人視点の宮﨑駿監督の生き方、考え方を反映した情報になっていると思うので、ここを深掘りしないと考察としては意味はないと思う。

「破」の流れ(あらすじ)

膨大な情報量で「破」に描かれている事を「考えるな。感じろ」で拾って整理する事が、本作の理解に重要と考えているため、まずは、「破」の流れ(あらすじ)をフローチャート形式で列挙した。

図の説明だが、角丸長方形内が出来事(=イベント)で、吹き出しコメントがそこで描かれていたテーマについて私の主観で記載した。うろ覚えのため、より重要な出来事が盛れているかもしれないが、悪しからず。

途中、眞人が主に対峙したキャラクター毎に色塗りをしている。順番に水色=キリコ、ピンク色=ヒミ、灰色=ナツコ、紫色=大叔父である。

私は、キャラクター視点で考察するのは得意だが、本作はそれだけでなく設定周りの情報量が多い。そのため、まずは設定周りの気付き・感想を整理した後、キャラクター周りの考察に入って行く。

設定考察

塔の異世界(あるいは、生と死の間)

塔の異世界は、宇宙より飛来した隕石の超高度文明のテクノロジーでできており、それを用いて地球人である大叔父が世界の破綻を防ぐために世界を管理してきた。大叔父≒神と考えてよいだろう。

少し脱線するが、宇宙は11次元でできているという理論がある。人間が認知できる3次元に加えて時間やパラレルワールドや諸々の軸があるらしい。「地球外少年少女」というアニメ作品でも、人類を超越したAIが11次元的思考を用いてパラレルワールドや過去や未来の同時観測を行うという描写があった。本作でも「時の回廊」が眞人の少年時代とヒサコの少女時代と別々の扉で繋がっていた事を考えると、これが11次元的なテクノロジーだったのかもしれない。

過去と未来が同時観測しながら世界を保つという意味では、人間の短い一生を遥に超えた長期スパンでの視野が必要なのではないかと思う。そのスコープの中には親、子、孫と代々引き継がれてゆく生命の繋がり(=新陳代謝)もある。そして、人間が生まれて、生きて、死んでゆく流れがある。この文脈の中で死生観が語られる。

死生観

本作は、母親の死別による眞人の未練、無念との向き合いがテーマになっている関係上、生とについてのモチーフが多く描かれている。

また、塔の異世界では、セキセイインコペリカンを頂点とした食物連鎖が形成されていた。

昔は、現代よりも人間はもっと簡単に死ぬし、死は身近に存在していたと思う。

たとえば、核家族ではなく近所付き合いもあったため身近に老人がいて、不定期に近所で葬式などもあっただろう。なにより、太平洋戦争中なので死の恐怖は身近だったと思われる。本作では、「ワレヲ学ブ者ハ死ス」のお墓だったり、ペリカンの最期を見届けて埋葬したりと、死者に対して敬意を表するモノとなっている。

死にゆく者がいれば、その一方で生まれ来る者もいる。本作では、ワラワラだったり、ナツコのお腹の中の赤ちゃんが生として描かれていた。再び昔の話になるが、赤ちゃんは妊娠しても死産で生まれなかったり、生まれても乳幼児期に亡くなったりするケースが多かった。原因は感染症や栄養不足や事故が多かったためである。この辺りは、浮上するワラワラがペリカンに食べられることが比喩になっていたと思う。ここでも、生と死が隣り合わせになっている。

そして、本作の塔の異世界では、鳥類を頂点にした食物連鎖が描かれており、ワラワラ(=人間)もペリカンに食べられていた。食べられる人間にしてみればたまったものではないが、人間もまた他の生物の命を頂戴して 生きている。自然界においては、食べる食べられるの連鎖の一環にすぎない。だから、食料を乱獲せずに、必要最低限の命を有難く頂く。この辺りは、キリコが深海魚の腹を眞人自身にさばかせて、それを調理して食べたシーンで描いていたのかなと思う。逆に言えば、そうした自然のサイクルを拒否すれば、自然界のバランスが変化して崩壊するのだろう。本作ではセキセイインコが大量に繁殖しており、それを捕食する生物がいないため、まるで人口爆発のような状況が発生し、塔の異世界のバランスは崩れかけていた。

ここで眞人の母親の死別に結びつけると、まずは死が珍しくないという事、そして生と死が隣り合わせな事、個体の死により自然界の循環が成立している事を理解しつつ、死を受け入れるという体験を淡々と描いていたように感じた。

木と石

木と石の対比はいろんな断面があり、実際のところ、人によって考察の解釈はまちまちになるだろう。

個人的には、石は宇宙から飛来した超高度文明のテクノロジー、木は地球文明のローテクや自然エネルギー、という技術の対比の意味合いが強いと感じた。

その他にも思いつく限りのワードで木と石を対比してみた。

項目
特徴 有機 無機物
キャラ 眞人、キリコ 大叔父
具体例 弓矢
キリコのヨット
キリコの住居(廃船)
墓(ワレヲ学ブ者ハ死ス)
積み木(積み石)
産屋
技術 地球文明
ローテクな道具
自然エネルギー
宇宙から飛来した超高度文明
(=魔法)
イメージ 温かい
柔らかい
メカ制御
道具を作れる
自然との循環
生(再生する)
冷たい
固い
電子制御
結晶(=高密度)
割れたら終わり
死(再生しない)
どこから 地球上 宇宙から飛来
(高度な文明)
善悪 悪意あり?

塔の異世界は、石と木の両方が存在していたと思う。

石は、宇宙より飛来した未知の技術でできていて、それ自体が塔の異世界全体になっている。具体的には、大叔父の積み木だとか、ナツコが居た産屋とか、大叔父の居場所に至るまでの台形の光る通路とか。未知の技術なのだが、石≒コンピューターのイメージもあり、産屋近くの通路で侵入者を拒絶するための火花は、電気的なスパークも連想させた。

しかし、おもしろいのは異世界にも海(?)や陸が存在し、セキセイインコペリカンや深海魚やワラワラなどの生物が生息しているところである。これらの一部は地球上の生物を大叔父が持ち込んだ。

その異世界で暮らしていたキリコは、木製のヨットを操り、巨大な木造の廃船の中で暮らしていた。これらの人間が地球文明で作る道具は木でできていた。また、眞人は現実世界で対アオサギ用にDIYで弓矢を作ったが、これも木である。

木と石の対比の重要なシーンとして、例の13個の積み木(積み石)のくだりがある。

最初の積み木のシーンは、大叔父が用意したいくつかの積み木に悪意が混入している事を眞人が発見して積み木を拒否する。木ではなく墓と同じ石だからダメとも言っていた。また、2回目の積み木のシーンは、悪意なきクリーンな積み木を13個用意されたが眞人自体が悪意を持っていると言う理屈で積み木を拒否している。つまり、どんな石(=技術)でも使う人によって悪になるし、そもそも人を悪に染める石(=技術)も存在するということになるかと思う。

少し脱線するが、私は眞人が弓矢を作り出すシーンは、本作で唯一高揚感を持ってワクワクしたシーンである。アオサギを相手にやるか、やられるかの戦いを挑む。闘争本能と言ってもいい。そのために、人類が培ってきた科学と技術を使って武器を作り出す。材料は廃釘だったり、矢羽根はご飯粒の糊で矢尻に固定したり、工夫で用意する。自室で工作途中で試しに射った矢が壁に刺さるシーンなど、力強さとともに気持ち良さがあった(風切りの17番の魔法のおかげはあったが)。また、キリコのヨット操船シーンなどは、風や波の自然エネルギーの物理法則にのっとり自然な動きを再現しているだけでなく、道具が人間の神経と繋がっているかのような一体感の気持ち良さがあった。この辺りは、宮﨑駿監督の趣味趣向のように思う。

さて、木の技術は燃やせば灰となり自然に戻るし、生と死の循環にも通じる。これに対し、石の技術は生成するのも難しく、壊れたら元には戻せない。どちらかと言うと、作品内では木の技術に対して好意的に感じた。別の言い方をすれば、メカ好きのコンピューター嫌いみたいに感じた。ただこれは、シンプルに宮﨑駿監督の趣味性を反映しているような気もする。

産屋の謎、墓の謎

塔の異世界にあったナツコの居た産屋。

産屋は、出産の穢れを忌み、産婦を隔離するための小屋だが、今は病院で出産するので産屋の習慣はなくなった。神道では出産が不浄性を持つと考えられていたらしい。出産時だけでなく、産後もしばらくはこもって生活していたらしい。男子禁制だったとのこと。

本作では円形の石のベッドの上にナツコが白装束で横たわっていた。天上には大きな丸い輪で紙垂(しで)が撒きつけられており、なんらかの力で回転していた。見慣れない形の紙垂だと思ったが、これは伊勢流と呼ばれる実在する紙垂らしい。この辺りに日本の風習と石の超技術による謎の融合が見られる。

ヒミが先導してくれた産屋への道は、分岐のある洞窟を進んで辿り着く。途中で火花がスパークのように発生し、眞人とヒミの侵入を拒絶していた。

まず、1940年当時に産屋があったのはいいとしても、現実世界の人たちは塔の中の産屋はまったくの想定外であろう。なにせ、誰も塔自体近づかないし入れない。なのに、ナツコは一人で塔の産屋に向かったし、ヒミはナツコがここでお産する気であることを知っていた。牧一族の子供は、塔の産屋で生まれる事で何らかの特殊能力で組み込まれるのか、そのために大叔父にコントロールされて妊婦が塔の産屋に招かれているのか、その辺りは不明である。

関連して「ワレヲ学ブ者ハ死ス」の墓の存在にも触れておこう。

あの墓は柵で囲まれ金色の扉で墓地に出入りできるようになっていた。そして、敷地内にはストーンヘンジのような石の積み方で墓跡があり、その中の暗闇の中に何かが潜んでいるようだった。キリコは、墓地で騒がしくしたことで墓の主が出てくる恐れがあったため、お祓いで鎮めて何事もなくその場を収めた。何というか、墓に葬られている存在は死後も意思を持ち続け、いつか暴走してもおかしくないと言う雰囲気を醸し出していた。

塔の産屋の中には、その墓石の積み方と同様の積み方で石が祀られていたと思う。この墓も産屋も同様に石の超技術が使われている事を示していると思う。ここでもまた、生と死(=産屋と墓)の対比になっているのだが、どこまで意味があるかは分からない。

セキセイインコ帝国とペリカン

哺乳類と鳥類は他の爬虫類や魚類などに比べて脳が大きいらしい。鳥類は小脳が発達しており、飛ぶために空間認識力が高いとの事。さらに、鳥類の中でもカラスやインコは脳化指数が高く、犬や猫よりも賢いらしい。

塔の異世界にはセキセイインコペリカンが、大叔父により持ち込まれたと思われるが、異世界という環境に適合しつつ、人間の言葉を使ったり人間を食べたりする独自の進化を遂げた。

その中でも、セキセイインコは大量に繁殖して塔の異世界の中でも人口爆発的な問題を抱えている。帝国として統制されヒエラルキーの頂点に国王がいる。一般市民は目の前の事(=目の前の人間を食べること)しか考えておらず、自身の欲求に正直である。国王は少し思慮深いところがあるのかと思えば、実際には威厳を保つことが目的となってしまっていて、それは国王という席をキープし続けたい(=胡坐をかきたい)気持ちに見えた。セキセイインコの国王は大叔父(=神)と交渉し、神の力を手に入れよとしていたが、積み木で癇癪を起こして積み木を崩し世界を崩壊させた。結局、神をも恐れぬセキセイインコ(≒人間)が滅亡の引き金をひいた形である。

この辺りは、人間社会を強烈に風刺した擬人化だろう。それは、東映漫画映画などで培ってきた作風に通ずるものがある。

ペリカンもまた、塔の異世界での環境変化にともない、仕方なく人間(含むワラワラ)を食べて生きていた。ヒミの火に焼かれて眞人と対話したペリカンは、死に際に眞人に毅然とした態度で対話する。そして、眞人はペリカンの亡骸を埋葬した。

このシーンはおそらく、食物連鎖の上下とは無関係に、どの動物も自身の寿命を全うするために生きているのであり、命の重さに差はないのだという事だろう。皮肉にも、ペリカンが火に殺されたという意味では、ペリカンの死と母親の死は重なるモノである。そのペリカンの死に際の言葉を聞いて埋葬した事実は、ある意味母親の死と疑似的に向き合えたというニュアンスもあったかもしれない。

それにしても、なぜペリカンだったのだろうか。ペリカンで連想するコウノトリは赤ちゃんを運んでくるイメージだが、本作では真逆なのは皮肉か。もしくは、アオサギを使う前提があって、鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属なのでペリカンを選んだのかもしれない、などと妄想した。

死者とワラワラ

眞人が塔の異世界で最初に落とされた海で遠くに浮かんでいた無数の帆船。それに乗っていた影のような人は死者だとキリコは言う。死者は殺生ができず、キリコが捕らえた魚の分け前を頂戴していた。

小さく白くふわふわしたワラワラもまた、キリコが捕らえた魚を食べて天に向かって螺旋状に上昇し、人間として生まれるとの事。

死者と生まれる前の人間が同時に存在するという意味で、この世界を単純に黄泉の国とは言えない。

もしかしたら、死者がなんらかの経緯でワラワラに変化するのかもしれないが、これは妄想でしかない。

キャラクター考察

眞人とアオサギ

私は、アオサギは眞人のダークな部分の写し鏡じゃないかと思う。

そう考える1番の理由は、キリコのところで、二人は「全てのアオサギは嘘つきか?」の同じ質問に真逆の回答をしたから。1つの事象が二面性を持つ事を描いているが、その二面性は眞人の人格にも言える事だろう。

アオサギは、確実に眞人の心の弱みを的確に攻めてきていたと思う。母親の生存をほのめかしたのも、眞人の心にあった疑念や無念の形の現れであろう。母親が寝そべっている姿の幻を見せて溶かしたりしたのは、眞人に対する心理的な攻撃である。このような心の奥底にため込んだ気持ちを発露させるが、結果的にそれが成長につながっている。

眞人はアオサギを脅威と捉えて、DIYで弓矢を作り対抗した。アオサギの羽(風切りの7番)を矢尻に仕込んだ事で矢に魔力が生じてアオサギに的中できた。風切りの羽というのは鳥が飛ぶのに必要な羽で、その羽が抜かれてしまった鳥は飛ぶことができなくなる、という要の羽である。そうした逆転があって眞人はアオサギより優位に立つことができた。この時点で、眞人は自分の弱さに向き合い、乗り越えたように思えた。

また、キリコの棲む廃船でアオサギは眞人と再会して、ナツコ探しや、ヒミ救出の相棒として働く。もともとアオサギは自分の中の嫌なヤツだったので、アオサギとバディを組んでミッションをこなすという事は、自分の嫌いな面も認めて生きる事に他ならない。

つまり、アオサギは自分の弱さ、嫌な部分を認めて生きてゆくという「成長」を促進するキャラクターだったと私は考えている。

ところで、アオサギは最初から眞人を塔に連れ込もうとしていたし、結果的に眞人を大叔父のところに連れて行ったので、やはり大叔父の駒としてコントロールされ動いていたと思われるフシがある。全ては大叔父の手の内にあったという事だろう。

個人的には、眞人がアオサギを倒せたのが「風切りの7番」を拾った偶然であったこと、その後の眞人とアオサギの協調体制がすんなり進み過ぎた事に、拍子抜けしたというか、もう少しロジカルにドラマを描いて欲しい気もした。

眞人と大叔父

大叔父は、塔の異世界を管理するが、それは過去から未来の地球を管理する事を意味していたと思う。大叔父=神である。

もともと大叔父は地球人(外国人?)だったが、宇宙より飛来した隕石に取りつかれたように引き込まれ、世界のバランスの均衡を図る大役を務めた。何が彼をそうさせたかの説明はない。

一人でやり続けていても、いつかは上手くいかなくなる。我々の地球上の世界も、さまざまな仕組みで均衡をとってきたものであろうが、ときどきに決定的な変化点があり、レギュレーションを変更して継続してゆく。まるで、ラーメン屋の秘伝のスープのように。

少し話が脱線するが、許して欲しい。

第二次世界大戦が終了後、ナチスドイツのファシズムが台頭し、カリスマ性のある指導者が登場すると独裁者の暴走が起きやすい事が分った。その後、社会主義と資本主義の2大イデオロギーの冷戦の開始するわけだが、なぜ2大イデオロギー体制だったのか? 

資本主義は個人や企業が財産を所有し、市場競争で利益追求をしてゆくが、資本家に富が集中するという現象が発生していた。これに対するカウンターとして社会主義が登場する。社会主義の説明の前に、その思想のコアにある共産主義について触れておかねばばらない。共産主義は財産を共有し生産物を均等に配分する、平等な社会を理想とする。これに対し社会主義は、全ての資本を国家が管理する。利益の分配を国が管理するか否かが社会主義共産主義の違いである。

もともと、資本主義による資本家への富の集中や貧富の差の問題意識はあったし、利益追求による個人や企業が力を持ちすぎてバランスを世界のバランスを欠くというリスクは持っていた。第二次世界大戦後、資本主義一強にしてしまうとそれはそれで不安である。だから、カウンターとしての社会主義と競わせて、どちらが理想の世界を作るかを試していたかのようにも考えられる。では誰が、というと国家の枠を超えて世界を司る「神」的な存在か。まぁ、陰謀説みたいな話ではあるが。

冷戦時代は、朝鮮半島ベトナムでこの二大イデオロギーの代理戦争が行われた。これらの戦争は本当に必要だったのだろうか?

ご存じの通り、1991年ソビエト連邦の崩壊とともに社会主義は消滅する。競争がないため、生産のクオリティが上がらず資本主義国家との競争に負けてしまうという面もあっただろう。しかし、根本的な問題は、国家が資本を管理するというが、しょせん国家も人間の集まりなので、その一部の人間が権力を握って腐ってしまうと、恐怖の独裁政治になってしまう。そして国家に反逆する者が密告されれば処刑されてしまう。誰もが本音とは異なる殺されないための建前を身に着け、二層の気持ちを持って生活する。普段は建前で生活し、本音は地下活動で。エンタメ作品は検閲があるから、表面上は社会主義万歳と見えるようにしておくが、社会主義に対する痛烈な皮肉を織り交ぜる。分る人には分る、ささやかな抵抗である。社会主義は、国家にも国民にも過大なストレスを与えていたと思う。

陰謀論みたいなのを前提に書いていて恐縮だが、歴史の教科書も国家の都合よい視点で書かれるため、教科書が書いていないところをどう読み取ってゆくか?というのは、大切なことにも思う。多くの人間は目の前の生活に追われ、こうした視点を持たなくても生きてゆけるであろうし、そう仕向けられているのかもしれない。しかし、こうしたマクロな視点を持って世界を観る事に少なからず意義はあるだろう。

ここでは、冷戦時代の二大イデオロギーの話をしたが、世界にはこうした「神」による操作に思われるような事は、近代の歴史でもちょくちょく存在する。大叔父がやっていた仕事は、この「神」のような仕事であったのだろう。この、神のパッチワークもいずれ破綻する時が来る。それは、社会主義が属人的であったために崩壊した事とも通じるのかもしれない。

大叔父は眞人を試し、眞人を後継者にしようとした。2度積み木を勧めていたが2度とも断られている。1回目は、悪意ある積み木が混入していたから。2回目は、眞人自身が「悪」を抱えているから。悪意があると積み木は崩れるから、後継者にはなれないときっぱり断る。大叔父は、途中で眞人が現実社会に未練がある事を理解し半ば諦めていた。それは、ナツコと母子関係を築け、現実社会に戻る意思を見せていたからかもしれない。いずれにせよ、眞人は「神」になるよりも、普通の人間の幸せを掴みたいと願った。

神が世界の均衡を保つべきと考えていた大叔父の意思はここで途切れる。世界はまた、人間がコントロールしない成り行き任せの世界に切り替わった。これが、人類にとって災いなのか否かは分らないが、なるようにしかならない。

もしくは、大叔父自身も人間が「神」を演じることに無理がある事に気づいていたフシはある。眞人の言葉を拡張するなら、どんな石(=技術)であっても、使う人間の悪意をゼロにする事はできないから、石を使ったバランスコントロールなんて誰も出来ないという解釈になるのかもしれない。

ここで、宮崎駿監督の話を出すと、インタビューなどを拝見するに、こうした大局観のある視点で自分たちの住む社会を良くしたい、という意識を持って生きてきたのだろうとは思う。しかし、自分も老人となり、若い人たちがこの意識を持たなければ、何とかなるものも、何ともならなくなる。そうした意識が、本作の大叔父に反映されていた可能性はあると思う。兎にも角にも、そういう視点を持つ事が第一歩である。活動するか否か、どう活動するか、はその次の話であるし、活動自体の是非もあろう。

君たちはどう生きるか」というタイトルから察するに、こういう前振りあって、という気がしないでもない。この辺りは、眞人の成長物語とは別次元のテーマである。

平成時代の「千と千尋」は、これからの時代、少年少女たちが生きるのは大変だろうけど、まぁ頑張ろうや、という感じだった。令和時代の「君たちはどう生きるか」は、こうした大局観をチラ見せしつつも強要する事はない。気にするのもしないのもあなた次第という突き放したテイストになっている。まぁ、この年になって老人の説教みたいになってもなぁ、みたいな感覚だったのかもしれない。

眞人とキリコ

キリコが教えてくれたのは、自立した大人の生き方、働き方だったのかなと思う。子供に大人の背中を見せてゆくスタイルである。本来、これは父親の仕事なのだろう。

農家の子供なら家の手伝いをするのは当然だったが、父親は事業家で裕福な家庭に育っていたので、眞人は労働を知らないのだろう。その意味でも眞人はブルジョアに対するコンプレックスがあったのかもしれない。キリコは眞人を一人前として労働させ、その対価としての食事と寝床を提供した。

また、キリコは眞人に食用の深海魚を直接解体させた。これは、自分が活きるため自分の血肉のために他者の命を頂くという体験である。そして、人間もまた食物連鎖の上位層のペリカンに食べられると言う。平たく言えば、命の尊さを眞人に体験させた。

それから、婆さんたちの人形が眞人のお守りになっていたのも印象深い。眞人は頑なで自分一人で背負ってしまう傾向があると思うが、実は大人が子供を心配して守っていることを描いていたと思う。

兎にも角にも、お坊ちゃまだった眞人に基礎的な生活力(=バイタリティ)を身に着けさせることが、眞人が自立し成長するために必要な最低限のマインドであるからこそ、塔の異世界で最初に対峙するのがキリコであったのだと思う。

眞人とナツコ

眞人の母親は病院火災で死別し家族に女性は居ない。なんとなくだが、眞人は女性に対する免疫が少なかったのではなかろうか。そこに登場する継母であり、美人で色香漂う妖艶な女性がナツコである。

眞人が持つナツコへの葛藤を下記の図に示す。

眞人からしてみたら、実母ヒサコの死別を受け入れていないのだから、ナツコが継母となる=ヒサコの死を認めて受け入れる事になるため、まずそこが辛い。

その上、女性慣れしていないのに目の前に魅力あふれる女性が現れればドキドキすることもあろう。人力タクシーでナツコのお腹ごしに身ごもっている赤ちゃんを触らせたのは、命の実感、義理兄の実感を持ってもらうためだったのであろうが、眞人は女性への照れが出ていた。

一方、ナツコにかかるストレスは過大なモノがあったと思う。ナツコのストレスについて下記の図に示す。

もともと、夫は事業優先で家を不在にしがちである。だから、家の中の事はナツコに負担がかかっていた様に見受けた。ここで気になるのは、牧一族でナツコ以外の人間を見かけないところである。使用人のお婆さん、お爺さんは何にも抱えているのに、ナツコの両親や兄弟は登場しない。その理由は分らないが、文字通り、ナツコが牧一族を支えている形である。

ナツコの抱える問題の1つに、連れ子である眞人の存在がある。務めて気さくに対応しているが、年ごろの気難しさゆえ心を開かず、何を考えているか分らない。本来であれば、父親とのコミュニケーションでガス抜きができていればよいのだが、それもなさそう。学校に行けば側頭部に大けがをして帰宅する。

そうこうしていると、酷いつわりでダウンしてしまい、家の事も回せない。いや、もともと妊婦が家を回す事などできないからこそ、産屋に籠もって俗世を経つという側面もあったのだろう。それでも、見舞いに顔を出した眞人の頭の傷を見て、お姉さんに申し訳ない、という気持ちになってしまう。

分らないのは、ナツコが塔の中(の産屋)に赴いた理由である。ナツコ自身が妊婦としての体調とメンタルを整えるために一時的に産屋に入ったのかと思ったが、どうもこれは違いそうである。というのも、ヒミの台詞では、ナツコは産屋で赤ちゃんを産むつもり、というのがあった。ナツコは現実世界ではなく、このまま塔の中の産屋で出産するつもりだった事になる。

眞人とナツコのわだかまりは、産屋で「ナツコ母さん」と呼び、ナツコがそれを受け入れた事で解消する。

ただし、その直前のやりとりで産屋に姿を表した眞人にナツコはブチ切れて「大っ嫌い!」と拒否する。これは積み重なったストレスが爆発したという事もあるだろうが、妊婦が赤ちゃんを守ろうとする母性本能が強く出た形にも思えた。この態度に眞人も面食らってはじめて「ナツコ母さん」と呼び、双方の和解が成立して、抱擁となった。

眞人にしてみれば、母親と認めた事により息子と母親の関係にシフトして、年上の女性に対する憧れは急速にしぼんでゆく事になるだろう。

ただし、ここでも問題定期に対する解決のロジックが希薄で説得力が薄いと感じてしまう。鬼の形相で怒っていたナツコが、お母さんと呼ばれただけで急に眞人を迎え入れる、というのが唐突に思う。だがしかし、この部分はおそらく意図的なのだろう。

眞人とヒミ

ヒミは若かりし頃の眞人の母親のヒサコであった。

とりあえず、混乱しやすい眞人とヒサコに関するイベントの年号と年齢を下記の表に示す。なお、この年号や年齢は実際には不明な部分が多いが、眞人の年齢は12歳、ヒサコが23歳で眞人を産んだものと仮定する。

西暦 和暦 イベント ヒサコ 眞人
1922年? 大正11年 ヒサコが1ヶ月間神隠しにあう
その間、塔の中でヒミとして過ごす
15歳 -
1930年? 昭和5年 ヒサコが眞人を産む 23歳? -
1937年 昭和12年 君たちはどう生きるか」が出版
ヒサコが眞人に「君たちはどう生きるか」の本を残す
30歳? 7歳?
1942年? 昭和17年 病院火災でヒサコ死亡 35歳? 10歳?
1944年 昭和19年 疎開先に引っ越し(サイパン陥落) - 12歳?

ところで、本作は年号の整合性はあまり重視していないようにも思う。その最たるものは、ヒサコが病院火災で死亡したのは空襲による火災か否かである。東京空襲は1945年だから、ヒサコの病院火災は空襲ではない、という言説がある。しかし、冒頭のカットは明確に空襲警報であったし、空襲自体はオブラートに包みながらも匂わせていた、と感じた。だから、年号の整合性自体は、突き詰める意味は無いのかもしれない。

ラストで元の時間に戻ったときに記憶は消滅してしまうという話だったので、そうなのだろう。眞人に「君たちはどう生きるか」の本を残したのは昭和12年の初版の年である。その年は、ヒミが戻ってきて15年くらい、眞人を産んで7年くらいの頃と思われる。

まず、ヒミは火を使ってこの世に人間として生まれるべきワラワラを捕食するペンギンを焼き払った。このシーンは、食物連鎖の生と死を同時に扱いつつ、ワラワラが全滅しないようにワラワラ自体も犠牲にしながら、命の誕生をコントロールする。ヒミの火は一部に死をもたらすが、一部の生を担保した。つまり、ヒミの火はただ殺すための道具ではない、という事である。

次に、ヒミはセキセイインコに喰われそうになっている眞人を火を通じて救う。妹のナツコが産屋に来ていた事は知っていて、継母のナツコを探していた事から、眞人がナツコの連れ子である事を知る。

成り行きでナツコの産屋に眞人を案内するが、産屋が眞人とヒミの接近を拒むように通路内に火花が走る。もともと、産屋は男子禁制なので眞人が拒否されるのは当然だが、ヒミも拒否されていたのは道案内した時点で同罪だからだろうか。このとき、ヒミは産屋には入らず入り口手前で待機した。

ところで、ヒミが眞人の事を我が子である事に気付いたタイミングは明確にはされていないと思う。産屋で気絶する直前には、ナツコと連れ子を返してと懇願し、火花の怒りを受けて気絶するので、この時点ではまだ知らなかった可能性が高い。最終的に自分の時間に戻るときには息子と理解していたので、この間のどこかに思う。

ヒサコが神隠しに合っていたのが大正11年と仮定すると、この時代は第一次世界大戦も集結し世界中が混沌とし激動のうねりの中にあった。日本は戦勝国ではあったものの、軍縮に伴う戦後恐慌により経済も混乱。そんな状況で大正12年には関東大震災が日本を襲うが、これはヒサコの神隠しの前か後かはハッキリしない。いずれにせよ見通しの効かない時代に、我が子が現実世界を生きるために、勇気をもって行動してくれている(妹を救ってくれた)姿を見て安心したのではないだろうか。

言い忘れていたが、塔の異世界に紛れ込む=現実逃避という面が少なからずあると思う。眞人もナツコもその根拠は十分にあった。ならば、ヒミも現実世界の何かから逃避してしばらく家出していた可能性も十分にある。しかし、ヒミも塔の異世界の崩壊とともに、最終的には現実世界に躊躇なく戻る。それは、現実世界に希望が持てたからと解釈して良いのだろう。つまり、ヒミもまた、眞人との出会いにより救われているのである。

一方、眞人は母親の死に際に合えず、無念や未練が残っていた。そのことについて、下記の図に示す。

ヒミは15歳だったので、眞人から見れば甘えたい母親の距離感よりもはるかに近い、同世代のお姉さんという年齢設定である。その態度や仕草からは、聡明さや快活さが伺える。不思議なことに、ヒミには女の子としての媚びがなく、男子がドキッとしてしまうような、いたいけな美少女感はない。だから、眞人にとってはヒミという女の子を自然な浸透圧で友達として受け入れる事ができる。しかも、洋風な自家製トーストとジャムは母親のぬくもりそのものである。これにより、母親との交流の実績ができるとともに、神格化した母親像を解体し、寄り身近な存在として感じる事ができたのではないかと思う。

また、塔が崩壊して元の時代に戻る別れ際に、戻ってしまえば病院火災で死ぬ運命があると知らされても、眞人を産む幸せがあればいいと断言して戻る。これは、眞人に対する全肯定である。その上、病院火災で死ぬことに無念や未練を抱かないと確約したようなものであり、これが眞人の中の母親を成仏させる。

ここで、ヒミがペリカンを焼くシーンとの関連性が思い出される。一部の命を守るために、一部の命を犠牲にしてきたヒミならではの死生観である。また、それまで病院火災の火は恐ろしいものであったが、ヒミが火を扱っていたことから、それが一方的に恐ろしくて苦しいものではなく、ヒサコ自身が笑って火と同化したイメージを連想させてくれた。

かくして、眞人の母親との別れが完了し、ようやく前に一歩進むことができる。ここに関しては、アオサギやナツコの時と違い、物語のロジックが明確に観客に提示されていたと思う。

再び、物語の展開のロジックについての考察

本作において、物語のガワが「序」と「急」によって問題提示と解決が描かれている事は明解あり、そのプロセスは「破」で描かれている情報を汲み取る必要がある事を、考察の最初に書いた。

さて、一通り「破」の情報を汲み取ってみて、問題点と結論とそのプロセスを整理したものを下記の図に示す。

要約すると、本作の問題提起と解決の間を繋ぐロジックのいくつかは明示的に描かれていない。具体的には、下記2点である。

  • 眞人と継母ナツコの和解のプロセス
  • 眞人とアオサギの対決は「風切りの7番」で偶然勝てた(=ラッキー)
  • 眞人とアオサギの憎悪の関係が、訳もなくすんなり仲間になった

物語の展開をロジカルに描かない事について、私が常々思っている事があるので、ここで触れておきたい。

「成長」を描くためには、それなりのロジックを持って物語を描くのが一般的だと思うが、本作にはそうしたディティールが不足しており不親切だと思う。

たとえば、自転車がスーパーカーと競争して勝つという物語で、なんの説明もなく絵的に自転車がスーパーカーを追い抜くようなものなので、もう少しロジカルに説明して欲しいし、それがプロの仕事であろう。最低限の問題提起と解決が用意されているので物語が無いとは言わないが、途中のロジックが無いので余りにも説得力を持たない。

いやいや、そんなはずはない。映像を見れば台詞無きロジックはきちんと描かれており、それを見抜く目がないだけだ、と主張する人もいるかもしれない。が、私は本作については断じてノーだと思う。意図的にロジックを抜いている複数箇所がある以上、おそらく作為的なモノだと思う。たとえば、観客に考察させて話題や関心を稼ぐというビジネスモデルもあるだろう。ならば、匂わせや誘導というのがあって、100%断言はできないが、そうも取れると描く。本作のロジックが無い部分は、その手がかりすらない。その意味では、究極の考察エンタメと言えなくもない。何せ納得するプロセスに到達するためには、作品内ではなく観客の意識の中から答えをひねり出す必要がある。観客によって十人十色の評価になるのも、そのせいだろう。

もっとも、問題点の解決は必ずロジカルに行われるとは限らない、という主張もある。たとえば、なかなか出来なかった逆上がりがふとしたキッカケでできた、みたいな。これは、ちょっとした気付きがあるか、ないかなので、ここにロジックはない。ただ、本作はこのケースには該当しないだろう。

宮﨑駿監督は、絵コンテで頭から描いてゆくというが、流石に大枠のプロットはある程度決めて創作してゆくだと想像する。だから、問題提起と解決という物語のガワだけあれば、観客の気持ちはとりあえず納得できる、映画として最低限の担保である。しかし、実際に「破」のパートを作る際に、そのロジカルな部分を形成しきれなかったのではないか。塔の異世界に宮﨑駿監督のイマジネーションをつぎ込む事を最優先していたら、ロジックを作る尺が無くなったのかもしれないし、もともと宮﨑駿監督はロジックにはそれほど関心がないのかもしれない。などと、いろいろと勘ぐりたくもなる。

本作に対する好き嫌いは、このあたりのディレクションを許容できるか否かにかかっていると思う。このディレクションは、個人的には許容できなくはないが、ちょっと、あんまりだなとは思う。

おわりに

ちょっと文章量も執筆時間も私にしては長くなりすぎました。

かなり脱線気味に書いたぶぶんもありますが、私が本作に抱いていた違和感みたいなものは、かなり整理して自分では納得できたような気がします。

私は、宮﨑駿監督は好きですが、全肯定というわけではありませんし、気になった部分を言語化できたのは良かったと思います。

それから、個人的には作品に向き合いたいので、宮﨑駿監督語り、ジブリ語りみたいな話は極力少なくしているのですが、いろんな人のブログを読んで、多くの人はそれが書きたいし読みたいのだな、と思いました。