たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

アリスとテレスのまぼろし工場

ネタバレ全開に付き、閲覧ご注意ください。

はじめに

岡田磨里監督脚本作品の第二弾。

冬の製鉄所の荘厳ささえ感じさせる侘しくも美しい背景や、垢ぬけていない絶妙なキャラデザや、熱のこもった絵や声の芝居など、現代のアニメーションの出来としては申し分ないと思います。

しかしながら、なぜか他の人の感想にあるような「感動」には至らなかったというか、私は涙腺が弱い方なのに泣けなかったというか、なんかこうドライに鑑賞してしまった、というのが率直な感想です。

いつもの岡田磨里作品だったなぁ、というのはありました。

なぜ、こう私が個人的に感動が抜けてしまったか、については少し考えてみましたが、あまり整理できませんでした。

感想・考察

設定

まぼろし」と「現実」

本作を理解するためには、見伏市の「まぼろし」の設定について整理しておく必要がある。

見伏市は1991年の大事故の発生とともに完全に隔離された「まぼろし」の世界ができる。その「まぼろし」の世界は、季節が流れず人間は年齢をとらないが、中の人間は変わらない日常を毎日繰り返し生活している。「まぼろし」は外部とは完全に遮断されているため、見伏市の外に出る事も、外部からの来訪者もない。

外部と遮断され、変わらない日々を何年も過ごす事になるのだから、普通に考えたら発狂するような話である。しかし、中の人間たちはその変わらない日常を維持し続けようとする。

それから、ときおり発生するヒビ割れ現象と、それを修復する神機狼の存在も説明せねばならない。

この世界は正宗の祖父が考えるには、見伏市の一番いい状態を神様が残しておきたかったから「まぼろし」を作ったというもの。中に閉じ込められた人間の魂はたまったものではないし、、神様は無慈悲である。

そして、中の人間が「まぼろし」の中で生きる希望を見失うと、ヒビ割れが発生し、「現実」の世界が垣間見えたりする。しかし、この世界を維持するために製鉄所の煙から変化した神機狼がそのヒビ割れを修復し、その人間は神機狼によって消滅させられる。つまり、「まぼろし」からのリタイアであるが、残された人間から見れば蒸発という事になる。

基本的に死ぬことはないので葬儀もない。妊婦もお腹の赤ちゃんも年齢を取らないので出産する事もない。生死がないから、狂っているとしか言いようがない。

ここで重要なのは、変化を望む者が消されているのではなく、「まぼろし」に居る事に絶望した者が消されているところである。物語序盤に変化しない事に務めていたが、それ自体がミスリードだった事が途中で分る。

岡田磨里恒例の成長や時間のギャップのモチーフ

岡田磨里作品では、今までも時間のギャップをテーマにしている作品が多い。

さよならの朝に約束の花をかざろう」では、人間よりもはるかに寿命の長いイオルフのマキアが人間に囲まれて生きてゆく事により、少女のまま老けないマキアと、成長し死んでゆく周囲の人間の対比の物語を描いた。

「空の青さを知る人よ」では、慎之介の13年前の無念の気持ちがそのまま実体化した「しんの」が登場し、年を取って変化した(=老いた)慎之介と、まだ少年のしんのの対比のドラマを描いた。

今回のまぼろし工場では、製鉄所の大事故の前で時が止まってしまった正宗たちの居る「まぼろし」自体が、「しんの」と同じように過去に捕らわれて進めなくなってしまった世界を表している。その時の止まってしまった世界に、成長する「五実」が迷い込む事によって、停滞していた正宗たちの心に変化をもたらすドラマという事ができるだろう。

過去作には片方だけが成長し変化してしまう侘しさのようなドラマがあったが、今回は主観が停滞側であることと成長するのが五実の幼少期だけなので、そのような人生の侘しさのニュアンスは弱い。逆に、凍り付いていた気持ちを再び燃やし直すための火種のように五実は扱われていたと思う。

テーマ

痛みを伴う変化≒生きる、というテーマ

本作のテーマは、

  • プラスであれマイナスであれ、変化してゆく事が「生きている」実感となる
  • 変化は痛みも伴うかもしれないが、それを恐れて変化しないのは、死んでいるのに近い

だったのではないかと思う。

ただ、「まぼろし」の世界は人間が暮らすにしては異常な世界である。季節が変わらないのは環境の差と考えられるかもしれないが、人間が年齢を取らないという事を悲観して絶望してしまうのは仕方がないかもしれない。本作は物語ゆえに、それでも主体的に考え変化を恐れずに前進する事を賞賛して描いていたと思う。

他の人のブログを読んでいて、ド直球だった解釈である。

  • 過去の辛い事件から目をそらしてもダメで、過去の痛みに向き合わなければ前に勧めないし、進んで欲しい(過去の辛い事件=3.11、京アニ事件)。

これは、今の時代に扱うテーマとしては、ジャストミートなテーマであろう。

まぼろし」の中で変化する/しないに戸惑う人々

はじめははっきりしない「まぼろし」の設定は劇中で徐々に明かされゆくが、その状況に応じて人々の対応も変化してゆく。

当初は、人々は極力現状維持に務めている。おそらく、ヒビ割れ現象で人間が蒸発する事があり、人々を不安にさせないために、このような指導がされたのではないかと思う。

そして、正宗のクラスメイトの園田の消失を経て、佐上が神様を引き合いに出して何らかのバチがあったたのだという言説を持ち出す。度重なる超常現象に理由付けが必要だったのだろう。

その後、正宗と五実が目撃した真夏の「現実」世界の目撃を経て、「まぼろし」世界が「現実」から切り離された置いてけぼりになった世界である事を正宗の叔父の時宗が説明する。これにより、「まぼろし」内の人間は「現実」に戻る事もなく、ある意味「生きても」いない事を自覚する。

ここまでで、もう何年この1991年の冬を繰り返してきたのか分からない。「現実」の世界で垣間見えた正宗と睦実の風貌から考えると30歳くらいには見えたので、ざっと16年は経過していたのかもしれないし、「現実」と「まぼろし」の1日の進み具合が同じとも限らないので詳しい事は言えない。ただ、いつかは戻れると信じていた拠り所が一気に崩れてしまった。その意味では、もう暴動が起きても不思議じゃないが、やはり現代日本だけあってそこまでの混乱にはならなかった。しかし、仙波のように生きる意味を見失い神機狼に消されてしまった者も多発した。

もともと、佐上は変化をさせずに「まぼろし」をずっと維持させたい考えだった。時宗は、この「まぼろし」の茶番を終わらせる側だったが、変化すると同時に「まぼろし」で生きるための悪あがきを模索しはじめる。溶鉱炉に火を入れ神機狼を呼び出しひび割れを修復する。火事場の馬鹿力と言ってよいだろう。そんな中、正宗と睦実は五実をトンネルを通じて「現実」に返すために、とある作戦を決行する。

ここから先は、映画のクライマックスのアクションシーンとなり、正宗や睦実の友人たちも味方だったり敵だったりと、各々が主体性を持って自分の信じる行動をとる。それこそが、停滞していた世界で生きる活気を取り戻した実感なのだと、スクリーンから伝わってくるような気がした。

この見伏市民たちのマインドの流れは、色んな断面があり、色んな比喩に当てはめる事ができるだろう。

例えば、閉そく感があり突破できない壁を感じている人は、このラストの躍動感溢れる展開に、先が見えなくとも、もがいてこその人生というテーマを感じるかもしれない。

例えば、「まぼろし」の中の人間は死んだ人間なので、死んでも本人が望めば生きる事は叶うのだ、というメッセージを感じるかもしれない。

あるいは、神様が見伏市の一番良い所を残したという仮説だが、良かった過去にすがっていてもダメで、良くなるにしろ悪くなるにしろ人間には変化が必要なのだという教訓を感じたかもしれない。

この辺りは、観る人によって感じ方は変わると思うが、こうした解釈がワンパターンにならない深みを感じさせるところは、本作の美点であろう。

キャラクター

主要人物相関図

ここでは、主要人物の3人の相関図で、互いの関係を整理しておく。

主人公の正宗は、見た目に女子っぽさのある中学二年生の男子。素行不良という感じでもないが、自分確認票は一切提出しなかったところに、反骨精神も持ち合わせている事を伺わせる。

ヒロインの佐上睦実は、不良っぽさもある、掴みどころのない謎の美少女であり、正宗のクラスメイト。妙に正宗に突っかかっている所があり、正宗にパンツを見せて挑発したり、色々と奇怪な行動や言動が多い。

母子家庭だったところ、母親と佐上が再婚した。母親は一切登場しないが、「まぼろし」の前か後かに居なくなっている? 義理の父親の佐上にはかなり辛辣な態度をとっている雰囲気を伺わせていた。本作の肝は、睦実のマインドの捻じれ方にあると思うが、そこにリーチするにはかなりの妄想が必要になる。

さて、もう一人のヒロインの五実だが、彼女は「現実」から迷い込んだ正宗と睦実の一人娘のさきである。5歳の時に迷い込み、現状の見た目から察するに10歳くらいに見えたので、「まぼろし」で約5年間暮らしていたと仮定する。暮らしていたといっても、森の狼に育てられた少女みたいに、言葉を話すこともなく、服装も汚らしく野生児のような雰囲気だった。彼女は「まぼろし」の中で唯一成長する存在であったため、「まぼろし」の崩壊を恐れた佐上が、第五高炉に幽閉されていた。

物語の途中で、この3人は互いを意識して異性として好きになったり嫉妬したりする。しかしながら、彼らは時代を飛び越えての人間関係で、父親⇔娘で好きになったり、母親→娘に嫉妬したりという、アンモラルな要素も持ち合わせているところが岡田磨里風味である。ただ、そこに全面に押し出しているわけではないので、そこまで気持ち悪い感じはない。

菊入正宗

正宗を見ていて、男子が女子を好きになるキッカケと、好きというフラグが経ってしまうタイミングみたいなのを考えていた。

睦実の容姿は女子としては可愛いの範疇に収まるのだろうが、性格がキツイ。キツイがパンツを見せびらかしたりして挑発してきて、睦実から気を引こうとしている部分があった。

そうこうしていて、五実の世話、園田の消失、睦実と五実の同居と色々なイベントが起きて睦実との距離が縮まって行く。向こうから嫌いだという言葉も出てくるし、こちらも釈然としない。だけど、気になってしまう。男子としては、普通の器量の女子なら、身近に一緒に行動するだけで、ちょっと好きになったりするものではなかろうか。

その意味では、五実の世話をしていて、小動物のような自由奔放さを好きになる、というのも分らなくはない。なにせ、「まぼろし」の世界では成長しながら生きる人間が居ない。

睦実に対して好きのフラグが経ってしまってから、「現実」で夫婦となっていてその子供を今預かっているとなると、それはそれでモヤモヤするものだろう。原→新田の公開告白に触発されて、睦実に告白するも「現実」の大人になった睦実と同一人物な訳じゃないと一度は拒否られる。立ち去ろうとする睦実を追いかけて、押し倒して同意の上でキスをする。

恋愛の衝動が「まぼろし」の中で凍り付いていた二人の心を溶かすと同時に、それを目撃した五実の心を傷つける皮肉な展開。

五実を「現実」に戻すのは「現実」の正宗と睦実夫妻の覇気の無さを知ってしまった事もあるが、もともと正宗の父親の昭宗の果たせなかった意思を引き継ぐ意味もある。未来のある五実は「まぼろし」という過去に縛られてはいけない。

普通なら正宗の無茶で大胆な行動を青春と片づけられてしまうところだが、「まぼろし」という閉塞感のある設定があるからこそ、それを乗り越える大きなドラマとなりうる。そういった構造的な上手さもあるな、と感じた。

五実

五実はシンプルである。動物的な本能で自由奔放に行動した事から、「まぼろし」の中での「生きる」をけん引したキャラクターだったと言えるだろう。

睦実からは言葉を与えられなかったが、世話をしてくれた睦実に対する「好き」はあったし、途中から世話をしてくれた正宗に対しても「好き」はあった。睦実はそれを異性に対する「好き」と言っていたが、個人的には異性を意識した「好き」と明言した訳ではないような気がしていた。

正宗と睦実の駐車場での抱擁とキスを見かけてショックを受ける。「好き」であった二人がイチャイチャしている。「仲間外れ」という台詞であったが、動物的な激しいスキンシップに衝撃を覚えた。直感的にこれが愛し合う事だと分ったのかもしれない。そして、正宗と睦実を嫌悪して二人から離れた。

正宗と睦実は狂った「まぼろし」の世界から本来の「現実」に戻す事を画策する。佐上が五実を花嫁衣装にした経緯は忘れてしまったが、花嫁衣装は両親の元から旅立つ衣装である。

いよいよ「現実」に戻る直前に、睦実が「正宗の心は私のモノ」的な発言をし、五実は心底寂しそうな顔をしたので、やはり正宗を異性として「好き」だったのかも知れない。

睦実は、未来の可能性という何でも手に居られらる五実に対して、敢えて心の傷を1つだけ残した。その負の感情も歳月が経てば切ない良い思い出となる、というようなエンディングだったように思う。

五実は正宗と睦実の事を、「まぼろし」に取り残された両親であった事は、大人になって製鉄所跡地に来て確信したのかもしれないし、そこはご想像にお任せというところだろう。

佐上睦実

本作の肝は、佐上睦実のキャラクター造形にあると言っても過言ではないと思う。

不思議な雰囲気をまとった謎多き少女だが、物語が正宗視点な事もあり睦実の内面が事細かに描かれることはなく、正宗同様に睦実の行動に驚かされながら映画を見進めてゆくことになる。

そうは言っても、睦実の存在感というか、本当に居そうな感覚は確かにあった。岡田磨里作品の傾向としてキャラが生っぽい感覚。物語で切り取られない部分も、確かに生きているという感覚。この辺りは声の芝居(CV上田麗奈)の力添えも大きい。

ただ、そうしたリアリティを感じつつも、睦実がなぜ時に攻撃的になったり、なぜ五実に対してペットを育てるような世話の仕方をしたのかのマインドは掴みにくく、最期まで睦実の内面に深く踏み入れられなかった。その意味では、睦実は観客にもガードが固い。そんなわけで、とりあえず、睦実のプロファイリングで頭を整理しつつ、感想・考察を下記進めたい。

まず、睦実の周辺人物についての整理である。

基本的に、睦実は男を毛嫌いしている。離婚した父親、母親の再婚とともに義理の父親となった佐上がロクな人間ではなかったのだろう。母親の男運の無さにも呆れていたのかもしれない。

義理の父親というと義理の娘に対する性的暴力を想像してしまうが、佐上の気弱な性格や、睦実の反抗的なキツイ口調などから察するに、そこまでの事は無かったのだろう。ただ、ダメな男に振り回されてしまう母親に対する憤りのようなモノもあったのかも知れない。

佐上の言いつけで五実の世話をしていた訳だが、クソ野郎とは思いつつも従っていたという事実は、結局頼らなければ生きてゆけないという自覚はあったのだろう。その意味では、屈服であり、鬱屈したものが蓄積していたのかもしれない。記号的にはロングスカートはスケバンやヤンキーであり、別の言い方をすれば、愛に飢えていた。

五実の世話をする際に、人間としてではなくペットを育てるようにしていたのは、五実が人間として成長させないという佐上の指示であったからだと想像する。そのために言葉も与えず、知能は上がらず、野生児のように育っていった。

それから、五実を世話する際に冷たく距離をとっていた事については、情が湧いて「愛してしまうかもしれない」ことを恐れたから、という台詞があった。愛される事を知らない少女は、愛し方も知らなかったのか。それでも、手編みのダボダボのセーターを五実に与えたというのは、五実を思いやる気持ちの現れであり、睦実の変化だったのだろう。五実を虐待する事無く、育ててゆく過程で、睦実の荒んだ内面のケアがされていった側面はあったかもしれない。

睦実が正宗の気を引くためにパンツを見せたり、試すように挑発したりしたのは、異性として意識した事の現れである。異性として正宗を選んだ理由については、やはり現実世界の未来の夫である事を知って意識してしまった可能性は高いと思う。相手の事を知りたいから、五実の世話を手伝わせ、正宗の事を知ろうとした。

とにかく、他者に対して疑り深く、心を開かない。やたらと男を毛嫌いしているように見えた。

正宗には興味を持っていて、パンツを餌におびき寄せたり、五実の世話役を手分けさせたり、共犯者として巻き込みつつ正宗自体を品定めしていた。それもこれも、正宗の事が気になる存在だったからだろうが、正宗が「現実」での夫で、五実が自分たちの娘である事はいつから知っていたのだろう。

五実が正宗に対して心を開いてゆくのを見て、五実が変化して「まぼろし」が壊れないか心配するが、本心では少なからず五実に対する嫉妬もあったのだろう。それにしても、時代をまたがっているとはいえ、将来の夫と未来からきた娘の関係に嫉妬するというのは複雑で凝った設定だが、この辺りも岡田磨里節が冴えるところである。

正宗とのキスのシーンは、正宗の気持ちとほぼ同じだろう。最初は嫌いな所が目立っていた相手だが、一緒に行動するうちに気になりだして、好きになってしまう。そて、その気持ちが大きくなり止められなくなる。

ラストで機関車に乗って「現実」に五実を送り届けるシーン。電車を降りるまでの時間が長い。その後、「正宗の心は私のモノ」的な発言で五実の心に詰め後を残しつつ、ギリギリまで「現実」に戻る五実を見送った。もしかしたら、あの時間は「現実」世界について行こうかという躊躇だったのだろうか。

最終的には、正宗と抱き合って土手を転がり落ちてくるが、睦実がそれを選択した事が生きたいという意思を示していた、と思う。

おわりに

色々と気付くところを書いてきましたが、いざ本作の感想はというと、それがあまり書けませんでした。

物語のロジックは分りますし、変に引っかかる所もありませんでしたが、本作の「まぼろし」の設定と睦実の気持ちに振り回されないようにロデオにしがみ付く気持ちで鑑賞してたらか、非常にドライな感じで見終わりました。つまり、他の感想でちらほら見かける「感動した」という感覚はなかったというのが率直な感想です。

また、鑑賞後も「まぼろし」の中の正宗や睦実は身体的な成長は無いわけで、彼らはどのようなマインドでこれから先どうなるのだろう、という気持ちも後から湧いてきました。

ただ、岡田磨里脚本の色恋のドラマは、不思議と肝が座っているというか、キャラの気持ちを理解しきれなくてもキャラとして違和感を持たずに受け入れられる安心感がありました。ぶっちゃけ人間関係なんて相手を見透かしきった付き合いなんてありませんから、それをリアルに感じられるのだと思います。

結果、いつもの岡田磨里作品だったな、という感覚でした。