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はじめに
いじめが題材ということもあり、少々重いところもありますが、しっとりとした丁寧な作風の印象的でした。ラストの怒涛の謎の解き明かしと救いのある終わり方で、SNSでの良い評判も納得の良作です。
感想・考察
職人気質あふれる気をてらわない真面目なアニメーション
本作は題材からして、小中学生やその親世代をターゲットにしているところもあり、脚本的にも演出的にも難解さを排除したシンプルなアニメーションの味付けだったと思う。
序盤の孤城の引きのシーンや、終盤の狼が暴れたり光の階段をこころが駆け上がるダイナミックなシーンもあるが、基本的には閉じた空間における日常芝居に重きを置いた作風である。
いじめで心に傷を持つ女子中学生との対話するシーンが中心なので、そこを誠実に描かなければ全てが台無しになる。だから、作画の芝居も声の芝居も誠実。フリースクールの喜多嶋先生とこころの対話の一挙手一投足に「らしさ」を込める。
また、真田によるいじめの描写も重い。アニメによる記号的解釈ではなく、本当にいじめをしている時の息苦しさとその場の空気を感じさせるものである。いじめで攻撃する側は、ターゲットの心を折って壊れてゆくさまを快楽としている。ゲームで遊ぶように。しかも安全な場所から。先生には反省してますと軽くいなすが、本心であるはずもない。
これらの芝居は実写的な生身の人間寄りのディレクションであるが、これを不足なく分かりやすく描けるのが原恵一監督の凄みであろう。
孤城の役割
孤城やそのインテリアデザインのリアリティも本作のビジュアル面の強みであろう。アンティークな荘厳で重厚感ある空間が見事に描かれる。暖炉や本棚やオーブンや円盤形オルゴールなど、かなり再現度が高い。
孤城のルール自体が、集団セラピーのそれであるという下記の考察を見て、腑に落ちた。
孤城がアンティークな空間なのは、本作のトリック上の必要性もあるのだが、この空間自体がセラピー効果を持つものだったと思う。まず、テレビやスマホなどの外部からの刺激をシャットアウトし、広々とした静かで快適な空間でゆっくりと時間を過ごす事が精神的な治癒効果をもたらす。
だからこそ、孤城という空間の描き方にこれほどまでに拘らなければならない。これらのデザインは、前作「バースデー・ワンダーランド」にも参加していたイリヤ・クブシノブとのことで、今回も良い仕事をしている。
「いじめ」というセンシティブなテーマ
主人公のこころは、真田という女生徒のグループからいじめにあっていた。両親にも言えず、当初共稼ぎの母親はこころのずる休みに対して辛く当たっていた描写がある。しかし、あるタイミングから仕事よりもこころを最優先にし、学校とも毅然とした態度で戦ってくれた。こころの話を聴き、こころに無理強いせず、こころの気持ちに向き合い、こころに決定権を与えた。
いじめられた子供に対してのケアの大切さをドキュメンタリーさながらのリアリティで描く誠実さは前述の通り。あなたの子供がいじめにあったら、こころの母親のように対応できますか、と問いかけてくるような切実さがある。
いじめの加害者の真田は、徹底して悪として描き情状酌量の余地がない。原作小説では加害者の真田にもフェアに、という気遣いがあったとの事だが、本作ではこころの心情にフォーカスしてゆく作りゆえ、この描き方は正解だったと思う。中学生女子とはいえ、いじめの怖さが伝わってくる演出と芝居であった。
なお、孤城に招かれた7人だが、この小さなコミュニティ内でもウレシノに対して嘲笑しいじめの空気ができてしまう。いじめの被害者の集まりにも関わらず、というのがいじめの怖いところである。
ちなみに、召喚された7人の中でもっとも過去の時代から来たスバルは1985年。2023年に生きていれば52,3才である。本作では、いじめは2027年の未来までも続いており、いじめは無くならないという設定である。いじめはガンのように人間と表裏一体にあるため、天然痘ウィルスのように根絶することは難しいのだろう。
問題は、その根絶できない「いじめ」をどう向き合ってゆくか、みたいなドラマがあったように思う。
心の傷を持つ者に対して、相手の言葉に耳を傾け、一緒に戦うこと。そうして救われた人もまた、同じように人を救っゆける。この循環による希望が描かれたように思う。
ラストに向かって畳みかけてくる巧みな推理小説的な脚本
キャラ | 年号 | 備考 |
---|---|---|
スバル | 1985年 | |
アキ | 1992年 | |
- | 1999年 | リオン姉病院で死亡 |
こころ/リオン | 2006年 | |
マサムネ | 2013年 | |
フウカ | 2020年 | |
ウレシノ | 2027年 |
本作は違う時代から雪科第五中学の不登校の者を寄せ集めてきて、孤城での集団セラピーを実施したという構図になっている。
仕掛け人となるリオン姉が亡くなるまでの1999年5月~2000年3月までが軸となる時間であろう。リオン姉もまた、雪科第五中学に通えなかった生徒である。リオンは姉と一緒に雪科第五中学に通いたかったという願いがあった。変則的ではあるが、中学そのものではなく、不登校の生徒を時空を超えて集めることで、もう1つの雪科第五中学を体験することになる。
スバルもそうだが、アキの髪を染める行為やマニキュアなどの化粧は、親や社会への反発を意味する。この辺りは時代を感じさせるモノがある。また、マサムネが熱狂していたゲームが、ウレシノの時代には映画化されて大ヒットしていた経緯など、ミステリーとしての巧みさを感じさせる。各キャラが連れてこられた年号差が7年である事も小中学校を通して面識を持たないための設定であろう。
リオンは、オオカミさま(=リオン姉)に孤城での記憶を失いたくないと懇願し、オオカミさまは、善処すると回答する。おそらく、記憶を残す代償として、リオンは姉がいた記憶を失ってしまう、という流れだったと思う。しかし、各キャラの孤城の記憶は、キャラごとに程度が違うような感覚を受けた。
それは、4月にこころとリオンが再会したときにこころの表情で薄っすらとした記憶に感じたし、逆にアキが喜多嶋先生となってこころやマサムネやフウカをフリースクールでケアしてゆく流れは、鮮明にアキに孤城の記憶が残っていた事を意味すると思う。スバルがマサムネのためにゲームを作るのも明確な記憶なのだろう。もしかしたら、未来に逢う人の事は記憶しているのかもしれない。この辺りの考察は曖昧である。
キャラクター
こころ(安西こころ)
原恵一監督の前作「バースデー・ワンダーランド」でもそうだったのだが、主人公のこころの目線で物語が描かれる。つまり、中学一年生女子のこころの感性に寄り添った映画となっている。
こころは、真田からいじめのターゲットとされてしまい、心の傷と家族にも言えない息苦しさを抱えていた。フリースクールに顔を出してみたものの、翌日以降もお腹が痛くて家から出られない。外出に対して極度のストレスがかかるという症状であった。
おそらく、喜多嶋先生が熱心に母親にアプローチし、心の傷を持つ生徒に対する接し方を的確に教えてくれたのだろう。そのおかげで、母親がこころに無理強いせず、学校側とも毅然とした態度で戦ってくれた事で、こころはかなり救われた。
孤城では、リオンに赤面することもあったが、他のみんなともちょうどいい距離感での関係を築けていた。
女子3人でのティータイムで、アキとフウカに自分がいじめのターゲットになっていた事を告白し、アキがこころを抱きしめた。みんながオープンにするわけではないが、各々が心の傷を持っていることは察していた。
これは、外出できなかったこころにしてみれば、孤城での集団セラピーがかなり効果的に効いていたと言ってもよいだろう。フリースクールも同等の効果なのかもしれないが、先生の指導ではなく、生徒同士が自主的にお互いにケアしあう良い関係の下地ができていた。
こころにとって、萌の存在も大きかった。仲良くなりたかった友達。3月に直接話して、今は真田からいじめのターゲットにされ戦っていたこと。そして、こころを巻き込まないために無視したことを打ち明ける。萌の凛とした態度と芯の強さへの尊敬。しかし、3月に転校してしまうとも。中学になってはじめてできた友達との別れは残念だが、萌はこころを勇気付けた。
オオカミに喰われたアキたちを助けるために、鍵を探し願いを叶えるという行動に出たこころ。おそらく、はじめて他人を助けるための勇気の行動である。願いの部屋で見る6人の心の傷。その痛みを共有し、みんなの力でアキを繋ぎとめた。この7人なら助け合えるかも、が実現した形である。
喜多嶋先生と母親の働きもあって、いじめグループと一緒のクラスにならないような配慮がされたこともあり、雪科第五中学への登校を選択したこころ。2年生になってリオンとの再会というサプライズなのだが、当人の記憶が残っていたのかは個人的にはよくわからなかった。しかしながら、好意的な仲間と一緒であるという明るい余韻を残して本作は〆る。
一度は完全に心を閉ざしてしまったこころ。喜多嶋先生の誠実な対応とたゆまぬ努力、母親が味方になってくれたこと、孤城の友達との心のリハビリ、萌という共感し尊敬できる親友。こうした幾重ものヘルプと自尊心の回復があり、やっと登校できるまでに復帰できた。そして、自らも手を伸ばす側に立てるという事も。
そうした弱者への救いがこの物語には有ったと思うし、本作の鑑賞後の心地よい余韻になっていたと思う。
アキ(井上晶子)/喜多嶋先生
アキが最後に直面した問題は、義父によるレイプ未遂。母親は不在がち、面倒を見てくれていた祖母の死別と不幸な条件が重なった。彼氏も遠ざかった。恐怖から家に帰れず、17時を過ぎても孤城に居残ってしまい、オオカミに喰われた。
孤城に残るということは、現実の世界を捨てることであり、自殺と同義であろう。それを引き留めたのがこころであり、こころはアキの命の恩人である。
こころがいじめのターゲットになり孤独に戦っていたことは、女子3人のティータイムの告白で知っていた。このときアキは、こころを抱きしめている。
だから、アキは現実世界に戻ったとき、未来に出会うこころを救うために、いじめ被害者へのケアについて知識を身に着けて準備した。14年後に喜多嶋先生として、こころを救うために。
知っていたからこそ、根気強くこころの母親を説得してケアの仕方を教えて、学校側とも一緒に戦った。喜多嶋先生の静かだけど誠実なまなざし。全てはこころへの恩返しだったと言える。この時空を超えた救済の循環の物語が良かった。
オオカミさま/リオン姉
病床のリオン姉がリオンのために叶えた願いは、姉と一緒に雪科第五中学に通うというものであり、それを具現化したのがかがみの孤城であったと思う。
孤城でのルール設定は、その願いとは直結していないかもしれないが、これは物語のための設定なのかな、と個人的には割り切っている。鍵探しのヒントになる絵が、萌の家に飾られていた事の因果関係も不明だが、原作小説にはもう少し細かな補足があるのかもしれない。
孤城ではオオカミさまとして、ゲームの進行役となった。なぜ、もっと直接、素顔でリオンと接しなかったのか、そのあたりの心情や設定もまた不明である。
ただ、いつでも孤城にオオカミさまとして現れたことから、ずっと孤城の様子は監視出来ていて、リオンの事もずっと見続けていたのだろう。弟の成長と友達との交流。
リオンは最後にオオカミさま=姉であることを理解し、願いを使ってしまったけどみんなとの記憶は無くさないで欲しいと懇願する。姉からの返事は、善処する、である。明確には書かれていないが、おそらくリオンは記憶を有したまま、現実世界で雪科第五中学に転入してきたものと思われるが、その代償として姉の記憶を失うという切ないオチがついた。
参考
備忘録として、いくつかの原恵一監督のインタビュー記事のリンクを下記に列挙しておく。
- 物語の先に“救済”を──映画『かがみの孤城』原恵一監督が語る作品に込めた想い|Bezzy[ベジー]|アーティストをもっと好きになるエンタメメディア
- 『かがみの孤城』原恵一監督インタビュー 「居場所がないのは当たり前」と教えてあげたい | CINEMAS+
- 【原恵一監督インタビュー】映画『かがみの孤城』“綺麗事”だけを見せない自分らしさ×別れと出会いを経て完成した“強い作品”
- 『かがみの孤城』原恵一監督単独インタビュー「声には人柄がはっきりと現れる」|entax(エンタックス)
- ベストセラー小説「かがみの孤城」に挑んだアニメ監督・原恵一に訊く
- 原恵一と辻村深月が語り合う、藤子・F・不二雄から学んだ“ファンタジーと日常”「ものづくりはバトンリレー」|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS
おわりに
今回のブログは、いろいろとタイミングもあり難産で時間がかかりました。
原恵一監督の作品の丁寧さと誠実さは、前作「バースデー・ワンダーランド」で理解していましたが、今回は物語然とした脚本の良さもあり、映画のお手本とも言える出来栄えだったと思います。
とにもかくにも、主人公こころの心に寄り添うのが上手い。切なくも救いのあるラストで、鑑賞後もじわじわと暖かさが染みる感じの作品だと思いました。