たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

竜とそばかすの姫

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。 f:id:itoutsukushi:20210725162936j:plain

はじめに

細田守監督最新作「竜とそばかすの姫」の感想・考察を書きました。

個人的に、細田監督の作品は、余り観ておらず、かなり以前に「時をかける少女」をTVで観たという程度のため、他の細田監督作品との比較考察はありません。ただ、毎度賛否両論になる細田監督の作品という事で、興味を持って鑑賞しました。

率直な感想を述べると、ケチの付ける所が無いバランスよいエンタメ作品だと感じました。

以下、いつもの感想・考察になります。

下記の章を追記しました。

  • 本作の賛否両論についての考察<2021.7.29追記>

感想・考察

ネットとリアルの対比

ネットもリアルも否定しない今風なディレクション

ネット世界の描写はド派手。3DCGを活かして、立体的で精細。それでいてお城のシーンなどは不思議と調和のとれた色彩で嫌味が無い。絵としてはパンフォーカスな感じでノイズが無い鮮明なモノである。

一方、リアルワールドの描写は、従来からの手描きの作画、背景の領分であり、ある意味地味に描かれている。絵としてはフィルムで撮影した際の空気感を感じさせる、落ち着ける映像である。

このギャップをメリハリを付けて描くことが、本作のポイントになっている。

そして、本作は、どちらか一方を否定する事無く、ネットもリアルも両方とも肯定している点が今風である。

例えば、2007年のTVアニメ『電脳コイル』は、ネット(正確にはネットに繋がったAR:拡張現実)を子供が熱中するゲームの様な世界として描いた。作中の大人視点では、大切なのはリアル、ネットはいつか卒業すべきモノとして否定的に描かれていた。しかしながら、本作では誰もネット自体を否定しない。

本作のテーマで言えば、ネットの世界でも勇気は必要だし、リアルの世界でも勇気は必要である。その取っ掛かりをネット世界で変身する事で掴んだり、ネットの経験を元にリアルでの勇気にフィードバックしたり、二つの世界でアバターが違えども、同じ魂で繋がっている事で、ネットとリアルの良い相乗効果が望ましいとして描かれていた様に思う(というか、そう汲み取った)。

もはや、ネットは人類が掴んだ新しい生活必需品(=道具)という事であり、そのディレクションが今風だと思う。

ド派手な今風のネットワールド<U>

本作のネット社会は<U>と呼ばれている。ネットワークで接続された、個人のデバイスがその人に応じた拡張現実を提供する。繰り返される謳い文句は、<U>はもう一つの現実、<As>はもう一人のあなた。<U>はもう一つの人生をネットの中で提供する。つまり、変身願望を叶える事が出来るかも知れない世界である。ただし、<As>はリアルの身体の拡張現実であり、魂の部分は同一なのが大前提である。

よくよく、ディズニー映画の『美女と野獣』のオマージュという意見を見かけるが、私はこれさえも、ネットのインターナショナルなエンタメ性を具現化した表現だと想像している(ちなみに、私は『美女と野獣』は未鑑賞)。

すずは、リアルでは母の死がトラウマで人前で歌えなくなっていた。しかし、ヒロの招待により<U>に接続して、Belleに変身する事で歌う事が出来た。ヒロはBelleと歌をプロデュースし、プロ顔負けの立派な楽曲に仕立て上げ<U>の世界でバズらせる。ネット内の評価は、最初は取るに足らない感じから、批判的なモノ、好意的なモノが混ざり、次第に大きな渦を巻いて、賛否両論となる。ネットの世界で賛否両論は正常な状態。賛成100%は何か裏があるし、本当につまらなければ無視される。こうして、Belleは<U>の世界でライブで圧倒的な視聴者数をカウントする新たな歌姫となった。

ここまでの部分は、ネット世界で変身して魂を解放し成功するというサクセスストーリーになっている。なので、観ていて気持ちが良くて引き込まれる映像になっている。

その後、ネット内の狂暴な存在として竜が登場する。ネット内で破壊を繰り返し、ネット民のヘイトを溜める。そして、それを取り締まるジャスティスと名乗る自警団。いわゆる、「〇〇警察」や、行き過ぎた正義を振りかざし、ターゲットを身バレさせて攻撃する悪役として、現代のネットの風刺して描く。そして、なかなか捕まらない竜の存在についてネット民の関心が集まりつつあった。

ネットの世界は刺激的であり、サクセスストーリーもあり、様々な芸術やエンタメに触れる事が出来る。しかし、このようなノイズも多く、心休まらない感覚もある。だからと言って、本作はネットを風刺する事はあっても否定する事は無い。

ネットとリアルの二つの世界を結ぶ「身バレ」のリスクの扱い

ネットの世界は匿名が基本である。しかし、ネット上の炎上案件でヘイトを溜めたアカウントに対して、リアルの個人情報を特定して公開し、リアル世界でその個人に嫌がらせをしたり迷惑行為をする。これが、いわゆる「身バレ」である。本作では、アンベイルと呼ばれていた。

本作では、この「身バレ」は2回使われた。

1つはヘイトを溜めた竜の攻撃する手段として。これは、先の説明通りである。

もう1つは、身バレした竜(=恵)の信用を取り戻すために自ら身バレして<U>の世界で「すず」の姿でBelleの歌を歌ったところ。

これは、リアルでの接続を持つ必要性からの苦肉の策ではあったが、ネット内でもすずの容姿に対する落胆だけでなく、応援の声も混じり、その歌声自体はまごう事なきBelleの歌声であり、ネット内の聴衆を釘付けにする巨大な渦となる。それは、リアル(の容姿)でも自信を持って歌う事が出来たすずのトラウマ克服の姿を描くと言う、物語のクライマックスとして重要なシーンである。

これにより、従来のBelleという存在は、恐らく消滅してしまうのだろうと想像する。ネット民は、その意味を知らないが、その歌に感動する。また、ある者は、平凡な女子高生がこれだけの魅力を持つヒーローになれる事に感銘を受け勇気づけられる者も居る。でも、それはついでの事というのが押しつけがましくなくてよい。

私の記憶からは欠落していたようだが、最終的には、<U>の世界でBelleの姿で歌うシーンがあるとの事。だとするなら、身バレをしても<U>の世界で受け入れられた、という事であり、リアルとの接点をも飲みこんで<U>という市場がBelleを受け入れられた、という意味である。ヒロの言う、積み上げてきたモノを台無しにするという事と天秤にかけての、身バレだったが、その勇気に対する肯定しBelleの歌を望む声が、否定を上回った、という事だろう。もしかしたら、そこが本作に込めたネットへの希望なのかもしれない、などと想像した。<2021.8.3追記>

地味とも言えるリアルワールドの表現

ネットのクライマックスに対して、リアルのクライマックスは、驚くほど地味に描かれる。

具体的には、恵と知の住所を特定して、すずが高知から川崎に向かい、父親の暴力から恵と知を守るシーンであるが、この部分は、映像的には驚くほど地味である。すずの恵と知を守るという意思の強さを目力で父親が気圧されるというシーンであるが、メラメラとしたオーラが透過光で滲み出て気迫を描く、というような非現実的な演出は一切ない。ネットの聴衆のような観客も居ない。

このシーンは坂道を横から撮影するシンプルで平板な構図を使っていた。他にも、川べりを歩きながら会話するシーンが多用されるが、そこも画面の中央を大きく川面が占有し、その中に人物を置くという平板な構図である。しかも、割と重要な心象描写のシーンでこの構図を使い、登場人物の向きも重要な意味を持つ。それは、舞台上で演劇をイメージさせたりする。ここも、立体的に見せていたネットとの対比と考えられる。

それから、リアルのシーンは必要以上に登場人物の顔に寄らずに、引きで撮影しているシーンが多い。この辺りも、リアルの芝居がダイナミックになり過ぎないようにするための工夫では無いかと考えている。

また、校内の中庭の周囲を囲う校舎と廊下。これは、コロシアムを連想させるものであり、二階廊下の観客が、中庭の舞台を観劇する事を連想させる。ただ、リアルでステージ上に居るのはルカであり、すずとヒロは一観客でしかないのだが、それがネット内ではひっくり返るというフリである。

映像自体は、細田節全開の線の細いキャラクター。背景は手描きの味わいがあるちょっとボケ気味のモノであり、ここも敢えてネットのようなクッキリ感を排除している。

総じて、リアルワールドは、ネットワールドと比較して意図的に地味に描かれていたと思う。もっと言えば、より実写的な映像を多用する事で、ネットの3DCGで描くダイナミックな世界と書き分けていたと思うし、そこは徹底していた。

物語・テーマ

本作は、母親の理不尽な死を受け止められず、10年間も悶々としてきた(=よりハッキリ言うなら母親を許せなかった)すずが、自らの体験を通して母親の気持ちを理解して、憑き物が落ちるという流れである。物語としては綺麗に成立している。

この10年間のすずを、父親も、ヒロも、しのぶも、合唱隊のおばさんたちも見守ってきた。特にヒロは、<U>の世界で自身の交友関係を使ってすずをBelleとしてプロデュースし、すずの魂を解放した(ヒロ個人が楽しんでいた面は多分にあったが)。父親が電話で(グレずに)優しい子に育ってくれた、という裏には、こうした周囲の人間の力が有った事を想像させる。

一方、恵は父親からの虐待により、心に深い傷を負っていた。竜の城の女性の絵画のガラスのひび割れからすると、母親の事も憎んでいたのだろう。愛のない環境で、知を守る為に一人で孤独に戦ってきた。ありていに言えば、恵の救いはすずが愛の手を差し伸べ、父親から護る事で、孤独から救われるという事になる。

ただ、Belleが竜に惹かれていった経緯というのは、ちょっと分かりにくく感じた。本質的には、すずが前足を負傷していた犬を飼っていた事と符合するのだが、すずは心に傷を負った弱者に対して敏感であり、救済する心を持っていて、その視点で直感的に竜の痛みを感じたから、というのが妥当だろう。その根底にすずの優しさがあり、その延長線上にすずの勇気がある。

テーマとしては繰り返し使われるモチーフで有り、物語としては非常にシンプルであると感じた。

それゆえ、難解ではないと思うが、より複雑なモノを好む観客からは、パンチが足りないと感じるのかもしれない。

個人的には、とっ散らかって投げっぱなしの作品よりも、綺麗に成立している物語を好むので、好印象しかない。

ディズニー調のデザインと歌唱の役割

本作が、細田守監督作品として挑戦的だなと思うのは、ネットワールドの映像を、ディズニーを連想させるデザインを多用してきた所にある。いわゆる、ジャパニメーションが培ってきた萌えの文法から外れたヒロインのデザインが本作のテイストの重要な役割を示す。

それは、パラダイスとしてのネットの具現化として、全世界共通知であるディズニーを基調とする事で、そこが夢の世界である事を直感的に分からせる事。それは、ターゲットをワールドワイドと考えた際に、より効果的なディレクションだと思う。

Belleのデザインは明確なディズニーの文法で造られる。ロングドレスに引き締まったウエスト。大きな目と力強い唇。アイシャドウと口紅はしっかりと。誰が観てもお姫様というアイコンである。

そして、お姫様の歌唱も力強くてアナ雪を彷彿とさせる、誰もが凄みを感じる非常に出来の良い仕上がり。

本作がネットとリアルの二面性を持つ作品だからこそではあるが、このように大胆に従来の文法からかけ離れた作風を取り入れられた面はあると思う。しかし、それをソツなく仕上げているのは、何気に凄い実力なのではないかと思う。もしかしたら、人脈的にも作風的にも、今後の細田監督の作品に大きく影響するのかもしれない、などと想像していた。

ただ、理性では狙いは分かっていても、個人的にはディズニー調のお姫様というのはどうしてもケバく見えてしまって萌えられず…、という気持ちが有った事は正直に記しておく。

本作の賛否両論についての考察 <2021.7.29追記>

本作の脚本が駄目だ!と主張する意見をSNSで良く見かけたのが、個人的にケチを付ける所が無いと感じていたので、具体的に何が問題視されているか、ブログやYoutube動画の感想を漁ってみた。

否定派のポイントをざっくり整理するとこんな感じだと思う。

  • リアルのラストの虐待児童を助ける下りに違和感あり!
    • 女子高生1人が遠方の児童虐待の児童を助けに行く。
      • 危険。大人を付けるべき。
      • 虐待の父親が逃げ出すが、説得力(=論理)の無いご都合展開。
      • 児童虐待は社会問題。女子高生1人に任せる展開が不自然。

まあ、なるほど、主張は理解できるし、これを言われると反論は難しい。

しかしながら、私が鑑賞した際にこれらの違和感に捕らわれずに受け入れられた理由は、おそらく、本作がフィクション映画(=メッセージを含んだ寓話)であるという認識があるからだろう。

この一連のすずの無謀とも言える行動は、増水した川で子供を助けようとして亡くなってしまった母親の行動と重ねる事で、すずが母親の死を許す、という物語の構造になっている。なので、誰の助けもない状況下で、命懸けですず本人が弱者救済を選択する必然性があった。結果的に児童虐待の父親が現場から逃げ出すくだりはご都合展開と言えるが、これこそが寓話としての奇跡であり、物語としての救い(≒祈り)である。つまり、児童虐待という社会問題を切り口にしつつ、シンプルに主人公の成長を描く作風だった、と私は解釈している。

ここで一旦、否定派の意見を列挙すると、こんな感じである。

  • 否定派のご意見
    • ネットの<U>の世界ならまだしも、リアルの児童虐待をテーマにしているのだから、そこはファンタジーじゃ駄目でしょ。
    • これを観た子供が、間違った理解で現実社会で振舞ったら危険でしょ。
    • そこは、もう少し説得力を持って違和感無く描くのが良いエンタメでしょ。
    • 少なくとも大ヒットと言われる超メジャー映画だから、影響力は大きいでしょ。

否定派の根っこには、本作を寓話(=メッセージを伝える事を優先したお伽話)として許容できるか否かが分岐点に思う。これを整理すると、下記となる。

  • ラストの虐待児童の救出の感じ方
    • 肯定派は、本作は寓話、テーマは個人の成長、特に違和感は感じない
    • 否定派は、テーマの社会問題の解決が雑&ご都合展開、強く違和感を感じる(=本作を寓話とは思っていない)

では、ここまで来て本作は寓話か否かという議論になるが、そこはどちらが正解と言う話では無く、個人個人が自由に感じ取ればそれでイイ気がしている。つまり、本作は寓話か否かの議論は不毛だと思う。

さて、本作が寓話だとして、そのメッセージが何かについて、改めて考えてみたい。

否定派が指摘するご都合展開を使ってまで描いたモノは一体何だったのか? それは、誰も助けに行かない(≒行けない)状況で、リスクを承知で危険をかえりみず、弱者に手を伸ばし救済する事。それは、勇気と言ってもいいだろう。

ただ、母親は不幸にもその勇気で命を落としたが、そこに深い意味は無い。母親が死んで、すずが死ななかったのは物語の生んだ偶然(=運命)でしかない。

少し見方を変えると、たった一人で立ち向かう事については、周囲のノイズに流されず、自分の中にキチンとした価値観を持ち、行動する姿が描かれていた。この構図で対比になるのは、<U>の中で竜の心の痛みに気付いたBelleだけが、竜の心配して庇った事と重なる。Belle自身は、ネット内では賛否両論だが、竜は99%以上ヘイトを溜めており、ネット民が正義を振りかざして叩きたいターゲットである。そこに疑問を持ち、何故なのかと深掘りし、本当に否定すべき問題なのか? その裏に真実が潜んでいるのではないか? そういう問いかけを常に持ち続ける事の大切さをメッセージとしているのではないだろうか?

本作では、しのぶも合唱隊のおばさん達も助言はするが、すずの代わりに行動する事は無い。あくまで、すず自身が責任を取る形で、他の誰でもないすず自身が選択するのだという事が描かれていた。何も選択しないことではなく、選択する勇気。他人のせいにしない勇気。その辺りは若者に向けた本作のメッセージではないかと思う。

ここまで書くと気付く方もおられるだろうが、

  • 毎回賛否両論となる細田監督作品=本当に良いモノは賛否両論の巨大な渦になるという事
  • 寓話ゆえにツッコミどころ満載で酷評に耐える細田監督=ネット民からのヘイトを溜める竜

という感じで、<U>の世界は、細田監督作品のエンタメ感を描いたものであるとも言えるし、もはや、賛否両論は細田監督の芸風(=生き様)と言ってもいいかもしれない。

仮に、否定派が言う通り脚本家を別に立ててネガ要素を徹底的に排除した脚本が出来ても、メッセージ性や感動が弱くなるなら本末転倒である。また、監督は作品のディレクションを決定する権限を持っているのだから、そのような脚本は不採用になるから、細田監督以外に脚本を書かせれば良いという単純な話でもないだろう。

ブログ初稿公開後に、いろんな感想・考察を漁り、更に本作について考えを深めた形になったが、それはそれで非常に良い体験をしたと考えている。今回参考にさせていただいた中で良かったと思える感想・考察を幾つか列挙させていただくので、良ければご参照いただければと思う。

おわりに

私はキャラの心情と変化に筋が通っていて欲しいので、それが出来ていない作品の評価は下がります。本作は、寓話的ご都合展開が多いと言われていますが、キャラの心情をより大切に造られていると感じられるため、私にとっては逆に違和感無く観れました。なので、私が鑑賞してみた本作の感想は、「特にケチを付ける所のないバランスが取れた作品であり、物語的にも綺麗に閉じていて不満無し。」というモノです。

強いて弱点を言うなら、本作は優等生過ぎると思います。もっと若くてギラギラした感じが欲しければ、『天気の子』などの新海誠監督作品の方がより好みに合うのだろうとは思いました。