ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。
はじめに
劇場で観そびれていた「映画大好きポンポさん」がNetflixの配信に来たので鑑賞しました。
公開当時、ネタバレ感想動画なんかをちょくちょく観てしまっていたので、新鮮な感動や考察はないのですが、それでも、本作を観たときの気持ちの整理を兼ねて、いつもの感想・考察を書きました。
物語はシンプルですが、かなり技巧的でトリッキーな作りの、唯一無二な楽しい作品だったと思います。
- ポンポさん恋愛映画説について(2023.2.25追記)
感想・考察
実写映画制作を描くアニメ映画、という構造
本作が描くのは、実写映画制作現場の人々をアニメで描くところが面白い。実際のハリウッドの現場はきっと世知辛いことばかりなのだろうが、本作の絵柄が持つポップさによりまるでプリキュアを観ているよなキッズ感溢れる世界観になっている事が特徴である。
私はこのリアルと逆行した世界観である理由は、より作品が持つテーマにリーチするのに都合がよいから、だと考えている。出てくる映画スタッフやアクターは良い人ばかり、みな良い作品を作るために惜しみなく協力してくれる。ジーン監督に横やりを入れる悪役は一人も居ない。ぽっと出の新人監督や新人女優を否定する者は誰も居ない。つまり、そこにリアリティおいても、そこがテーマではないし逆にノイズになる、という考えだろう。それゆえに、本作の世界をアニメ調(=非リアリティ)に描くのは理にかなっている。
散りばめられた映画作りのネタの宝石箱
本作で嬉々として語られる要素の一つに、映画作りのテクニックの部分があるだろう。
ジーン監督の「MEISTER」編集シーンで、演奏シーンの途中で控室のカットに繋ぎ、俳優の引きのショットで観客の関心を引き付け、最後にアップで俳優の感情の凄みを見せる…。みたいな事を解説しながら編集していた。映像自体がそうしたロジックの集積であり、映像ファンはそうした演出の意図も汲み取って映像を吸収してゆく。
本作のナタリーの登場シーンは、雨上がりの横断歩道を意気揚々と駆けてゆくヒロイン然としたカットであり、その輝きをジーンが目に焼き付けていた。このインパクトで登場するから、一発で彼女が魅力的なヒロインである事を観客は認識できる。その後、オーディション落選で意気消沈しすれ違うカットがあり、しばらく登場しない。再び、ポンポさんに呼び出されたショートカットのナタリーが現れ、今読んだシナリオのヒロインそのものという言葉とともに登場する。
面白いのは、その後時間を巻き戻し、田舎から女優を夢見て来たものの、工事現場の交通誘導などのバイトで生活に追われ、オーディションでは落ちまくり、行き詰まりを見せていたという下積みの背景を描く。そして、ポンポさんに大抜擢され、売れっ子女優のミスティアと共同生活させ、女優という仕事と体質に導いてゆく。ジーン主観の裏で動いていたナタリーのバックボーンを観客を飽きさせる事なく短時間で吸収させていた。
少し脱線するが、1977年の映画「スターウォーズ」には、冒頭にR2-D2とC-3POが砂漠の中を淡々と歩くシーンがある。寂しさは十分に感じるものの、今時の映画ではあり得ない尺の無駄遣いをしていた。隔世の感がある。それくらい、時代は映像のテンポを要求し、情報を詰め込み、刺激的な快楽を摂取するモノとなってきた。
他にも、舞台(地方)が移動する際は、飛行機が画面の中央を横切りファスナーが開くように場面転換する。撮影中に良いカットが撮れたときに、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のようにモニタから稲妻が走り髪の毛が風圧でなびく。タイムラプスで時間経過を表現する。こうした編集の繋ぎやエフェクトも、もともとは実写世界で活用してきた技である。
本作は、こうした映画の仕掛けを愛しむための映画とも言える。とにもかくにも、洒落ている。
物語はシンプルなサクセスストーリー
本作を物語的に見ると、面白味は少ない。後述するテーマの部分に重きが置かれていると思う。
基本的に、無名だったジーンが初監督作品の「MEISTER」でニャカデミー監督賞、作品賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞、監督賞、作品賞を総なめし大成功を収める。
映画のスポンサーを申し出てくれたニャカデミー銀行にも融資に対しても十分すぎるリターンを返した。
この物語の中で葛藤のあるドラマを持つ人間は、ジーン監督と銀行員のアランの2人だけである。
ジーン監督は映像編集の中での自分にとって必要なシーンの追加撮影、取れ高の中から良いカットを捨てる痛みとの戦い。
アランは、夢を持てない者でも、夢を応援して戦える、という希望。
アランの融資のおかげで「MEISTER」は資金調達でき、挫せずに制作を続けられたという物語の繋ぎにもなっているし、非クリエイター側の希望を描いていたのだろう。
ただ、本作は葛藤をじっくり描くというよりは、テンポ感を大切にしているところもあり、それほどストレスフルな感じもなく、物語的な深みやコクはあまり感じない。アニメ調の楽しさ優先の作風ゆえ、というところもあるのだと思う。
「幸福は創造の敵」というパワーワード
「幸福は創造の敵」というパワーワードが本作のテーマの一つであろう。
クリエイターは、痛みを伴いながら、自分自身のを削って創作をしているのだと。
劇中映画の「MEISTER」の主人公のダルベールは、家族との幸せを失って音楽家としての名声を手に入れた。音楽に魅入られ、取り憑かれた、という事だろう。人としての幸せを失わなければ、芸術のその高みに到達できなかった。ダルベールの奥さんにとって、ダルベールのアリアは自分たち家族を捨ててまでダルベールが選んだ憎き相手であり、呪いの象徴である。物語の起点の部分に離婚のエピソードを入れたのはジーン監督の作品への自己投入であり、これにより「MEISTER」はジーン監督の分身となった。
ダルベールがコルトマンに土下座して復帰を依頼するシーンが、ジーン監督がポンポさんに土下座して追加撮影を依頼するシーンと重なる。このシーンで私は身震いがした。
もともとの「MEISTER」は、高齢の音楽家が周囲と上手く調和できず孤立して、田舎で少女との生活に癒され、音楽の情熱を取り戻して復帰する物語である。この文脈の中でダルベールの離婚(=幸福との決別=呪い)を挿入する意義は正直分らない。なぜなら、ダルベールは老害化した自分から人間性を取り戻す話であり、どちらかと言えば離婚で幸福を手放した事を否定する文脈に感じる。しかし、本作のテーマとしては、創作者は不幸やむなし、なので矛盾に感じてしまう。この辺りを冷静に考えて詰めてゆくと、狐につままれたような気になる。
それはともかく、同様のテーマを掲げた作品で「ブルーピリオド」というのもある。東京藝術大学を目指す入試生を描く漫画であるが、私はアニメを拝見した。藝大受験生の八虎は、予備校で絵が上手すぎる同級生を横目に技術面でもメンタル面でも猛特訓をしてゆくが、遥か上の実力の持ち主さえも何らかのコンプレックスを抱きながら自分自身を削りに削って絵を描いていた。入試なので周囲は全員ライバルであり競争である。そして、入学以降の方がより自分自身との対話を深めて、自分自身を削って創作してゆくのであろう。この作品でも、クリエイター=不幸が描かれていた。
しかし、今の時代、大切と思えるものを切り捨てて、何かを成そうという志の人は少数かもしれない。だったら、何かを成さなくてもいいから、大切なものを大切にしたい。むしろ、家族くらいは大切にしたいと思うのは当然の空気(=倫理観)だろう。だから、こういう人には本作は刺さらない。その意味で、ターゲットが絞られる。とは言え、本作は普通の人の日常でも、選択の連続で、人は何らかを切り捨てて痛みを伴いながら生きている。そういう人たちを肯定する、というのが本作のメッセージである。
そう考えた時に、本作により共感できるのは、今現在、何らかの都合上、何かを犠牲にしてしまった人たちへのエールと言えるのではないだろうか。
ジーン監督が痛みを伴って完成させた「MEISTER」はニャカデミー賞を総なめし、アリアを再演したダルベールは裏切った家族が演奏を聴いてくれて懐かしみを覚えた。創作物が大ヒットしたり、誰かの心に刺さり暖かく心を揺らした。そうした事が最大のご褒美という事なのだろう。
ポンポさん恋愛映画説について(2023.2.25)
これは、私の説でも何でもなくて、岡田斗司夫の切り抜き動画で見た論である。個人的には、この論に傾倒しているわけではないが、納得はできるものなので、備忘録として残す。なお、超意訳的な部分もあるので、正確な内容はリンク先を参照。
本作が最後まで飽きさせずに見れるのは、本作が恋愛映画のテンプレートに沿っていて、ジーン監督、ナタリー、ポンポさんの三角関係になっているとの事。
ジーンをお見舞いに来るという事であれば、映画スタッフの誰もが心配して見舞いに来るが、ナタリーは心配のあまり編集室まで押しかけてジーンをサポートする。これは、女が男に惚れたと解釈していい。
しかし、ジーンは編集の修羅になっているので「恋愛も切る」。その代わりに、魂を映画(≒ポンポさん)に捧げているという解釈。ここを、直球で恋愛と言うか否かは、人によって解釈が異なるだろう。
しかし、ポンポさんはある意味人間ではない「映画の女神」というところもあり、特定の人間と男女交際するようタマじゃない。映画の女神として、映画に関わる人たちに、映画制作を与えてほどこす、という尊い立場にある。だから、ジーン監督を恋愛感情で好きになる事はない。もっと言えば、ジーン監督が編集作業に着手したとき、ニャカデミー賞授賞式、このときポンポさんはコルベット監督の新作映画のロケに出かけている。映画の女神はジーン監督だけをえこひいきする事はない。
という論である。
ここからは、私の解釈の補足。
終盤、ポンポさんはジーン監督の体調悪化に伴い、「MEISTER」の編集を他者に委ねようとするが、ジーン監督が命と引き換えに編集作業を終えた。つまり、ポンポさんにとってジーン監督は映画作りの仲間のうちの一人でしかなかった。
ジーンは最前列中央で、ポンポさんは中央右寄りの席で、たった二人で同じ映画を観ていた。その意味で二人は映画好きの共犯者であり、特別な赤い糸が有ったという解釈はできる。そして、ポンポさんは途中で席を立ってしまうという意味で、それらの映画に満足は出来ていなかった。
しかし、「MEISTER」終盤のダルベール指揮するオーケストラの演奏シーンで、少年と母親?とピアノのシーンを思い出し、ポンポさん自身があの頃の映画好きだった過去を思い出し、ポンポさん自身も救う、というシーンがくる。このシーンをダルベールの切り捨てた家族が演奏を聞いて懐かしさを感じるシーンと重なるという演出が憎い。つまり、ポンポさんもまた、仕事で両親にかまってもらえなかったという意味で、ダルベールの元妻や娘と同じ境遇にあり、ポンポさん自身の記憶に刺さった、という事だろう。
なにはともあれ、ジーン監督がポンポさんに映画で与えた感情、ポンポさんから引き出した感情というものがあり、その成果に対して、「監督になったじゃない。君の映画、大好きだぞ」と言葉を贈る。これは映画好きの共犯者としては最大級に嬉しい言葉であろう。
この映画好きの共犯者としての相互に与え合い、認め合う関係は、恋愛で言えば相思相愛である。しかしながら、ポンポさんは女神ゆえ、コルベット監督や他の監督の作品にも愛を注いでいるのだろう。その意味で、ポンポさんはジーン監督と一対一の唯一の関係ではないのだろう。その意味で、やはりジーン監督の片想いなのである。
ポンポさんとジーン監督の関係を恋愛感情というのはちょっと…、という感覚も分らないでもない。むしろ、個人的にも愛情というより仲間という意識が一般的だろうとは思う。しかし、その匂わせを含めての、感想・考察であっていいと、まぁ個人的には思う。
おわりに
評判通りの面白さでしたが、やはり文芸面で芸術=狂気となるべき部分が、ロジックで押しすぎていて、でもロジックだと家族大切にしましょうよ、になってしまうという矛盾があり、そこに少しだけモヤりました。
ただ、作画の可愛さや、凝った演出やカット割りで、唯一無二の作風を楽しめました。