たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

おでかけシスターの映画を観たので、いつも通りの感想・考察を書きました。

映画とは言っても、ルックはTVシリーズのままで74分の比較的短い尺でしたので、OVAと言うべきなのかもしれません。本作もまた他の青ブタシリーズ同様に、地味ながら味わい深い良作だったと思います。

感想・考察

本作の位置づけと概要

原作小説(高校生編)は、下記の順番で出版されている。

No タイトル アニメ 備考
1 青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない 1~3話
2 青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない 4~6話
3 青春ブタ野郎はロジカルウィッチの夢を見ない 7~8話
4 青春ブタ野郎はシスコンアイドルの夢を見ない 9~10話
5 青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない 11~13話
6 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 劇場版ゆめみる(一部13話)
7 青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない 劇場版ゆめみる
8 青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない 劇場版おでかけ
9 青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない 劇場版ランドセル 2023年12月公開予定

青ブタ(高校生編)はハツコイ少女で咲太の問題のクライマックスを迎えて、いったん区切りが付く。おでかけシスターとランドセルガールは、その後に起きる後日談的な位置付けだと考えていいだろう。

本作は、記憶の戻った花楓が主人公であり、テーマは高校受験(=進路問題)である。

かえでから花楓へ

11話から13話の「おるすばん妹」の回は、花楓の記憶が戻り、かえでが喪失する物語だった。かえでの一番の理解者であった咲太の気が動転し、大人祥子が咲太を慰めた。

かえでと花楓が同時には存在することはなく、二人が出会うハズもない。しかし、かえでのノート(=記録)だけは花楓が受け取った。

花楓は思春期症候群のキッカケとなったいじめによるストレスも残っているから、急に中学校に復帰するわけにもいかない。2年前の記憶を失ったところから花楓は人生を継続(再開)する事になる。しかし、花楓にとって2年間のブランクがあり、その間に住居も家族の様子もすっかり変わってしまった。これは、浦島太郎が竜宮城から戻って来たみたいなものだろう。

母親が花楓の思春期症候群のせいでメンタル不調となり父親が面倒をみているため、親子別居になっていた。兄の咲太は気持ち悪いくらいに優しくなり、恋人の麻衣さんは美人なタレントだし、聡明な妹ののどかとも交流があり、みんなが親切にしてくれる。

なお、学力だけはかえでの勉強が引き継がれるというご都合設定はあり、なんとか中学卒業はできそうという状況下で、中学卒業後の進路選択が迫る。

花楓の葛藤

本作では、花楓にとって頑張り屋だったかえでがプレッシャーになっていた。

花楓がかえでの事を意識するのは自然なことだろう。作劇場はまったくの別人格だったが、もう一人の自分(自分の可能性)と考えると他人事ではない。花楓がかえでのノートを預かっていたのは、かえでの分まで生きるというニュアンスを含んでのことだろう。ある意味、かえでのノートが花楓の勇気になっていた。

ノートに書かれたかえでの文字は小学生みたいに稚拙である。その文字で細かく目標を書き込み、ステップアップしながらできる事を増やしてきた。花楓がどこまで知っていたかは分らないが、かえでが頑張り屋である事は十分に伝わる。なにせ、外出恐怖症なのはまったく同じなのだから。

だから花楓は、かえでの願いを受けて峰ヶ原高校に行きたいと願い、行かなければならないと思い込んだ。学力については受験勉強を必死で頑張った。周囲のみんなが勉強を手伝ってくれたおかげもある。これで不合格だとみんなに会わせる顔がない。

しかし、受験の願書提出でも手にあざが広がり、受験当日は昼休みに同じ中学の制服の受験生を見たら耐えられなくなり倒れてしまった。

花楓はかえでの願いに、咲太やみんなの期待に応えきれず裏切ってしまったという自己否定で動けなくなってしまった。

ちなみに、これはかえでが中学校に行きたいのに電柱が邪魔をして前に進めないというシーンと同じで、気持ちはやりたいが心が拒絶してできないパターンである。

花楓の問題点の整理

物語における花楓の問題点を下記に整理した。なお、水色が理想であり、ピンク色が現実である。

花楓のモチベーションの基本は、かえでの分まで生きたいというところにあったのではないかと思う。それを受けての峰ヶ原高校受験だが、学力的な問題は努力でなんとかなったが、本質的にいじめのトラウマを克服する事は努力ではできない。やりたい、けどできない。ここで挫折を味わうことになる。

そして、もう一つの選択肢である通信制高校への進学を選択する事になるが、ここで花楓にいくつかの気持ちの整理が必要になる。そこで、咲太は通信制高校に在学する現役アイドルの広川卯月から現場の声を聞かせる。

花楓の自己肯定感の低さの要因はいくつかある。目標の普通高校に行けなかった負け組というレッテルについては、通信制高校でも生き生きと現役アイドルをしている卯月の存在を見せ、高校で勝ち負けは決まらない事を理解してもらう。そして、いじめ被害者であった過去の自分に対しても、過去の自分があってこその現在であり、過去を否定せずに好きと肯定する。この2つは、今から訪れる高校時代の花楓を肯定するものでもあり、それは大人になった未来の花楓にとっても高校時代の花楓を「好き」と言える予感を示す言葉でもある。

そして、かえでの分まで生きたいという気持ちに対しては、かえでのための人生じゃなく、自尊心を持って花楓の人生を生きればいい事を理解してもらう。これもまた自己肯定感の低さからの脱却である。

作中では、通信制高校に対する説明会やプロモーションビデオでネガなイメージを払拭するための説明にかなりの尺をとっていたと思う。しかし、それらの長々とした説明よりも、卯月の言った「過去の自分も好き(=肯定)」という言葉が花楓の心を塗り替えていったように感じた。

少し深読みになってしまうが、これは直接的にはいじめられていた過去の花楓の肯定であり、さらにはかえでの肯定(=好き)でもあるように思う。入試当日、保健室で感情をぶちまけた花楓は、みんなが好いているのは頑張り屋のかえで、試験で失敗してしまう花楓はかえでのように愛されない(=否定)と考えてしまっていた。つまり、花楓はかえでに嫉妬し自分を蔑んだ。だから、今一度、かえでを肯定して好きになる事が必要なんじゃないか、と感じた。

咲太の動揺

今回の咲太の兄としての対応力、懐の深さには驚かされる。

咲太は注意深く、花楓の進路は花楓の意思を尊重しつつ受験勉強に集中させ、こっそりと通信制高校というバックアッププランも検討し情報収集と準備を進めていた。結果的にバックアッププランに進む事になるが、その際ものどかを通して卯月に現場の説明を依頼する。

いつも余裕で完璧すぎる兄を演じているが、唯一、咲太が驚き焦るシーンがあった。それは、本作のクライマックスとなる入試当日の保健室の花楓の叫びを聞くシーンである。花楓の峰ヶ原高校を第一志望にした理由が、かえでが願い事だったからという事に気付けなかった。その結果、花楓を追い込んでしまった。完全に盲点だったのだろう。

こうなる事が分っていたら、おそらく咲太はかえでのノートを花楓に渡さなかっただろう、という後悔に感じた。

普通の人である、花楓を主人公にしてくれたこと

本作は、青ブタシリーズの中でもトリッキーな思春期症候群を解決するための物語ではなく、誰にでも経験のあろう高校受験というイベントで、飛び道具なしで花楓のドラマを描き切ってくれた事が新しい。

ドラマとしては、花楓が願書を提出するシーン、入試当日の保健室のシーンの盛り上がりの演出の強いシーンもあるが、基本的には花楓の挫折と心のケアを真面目に描いていた事に好感を持てた。地味ながら心にしみる良作だったと思う。

これも青ブタシリーズという枠組みがあってからこそ、地味とも言えるテーマをアニメ化できたモノと思う。通常のオリジナルアニメでこのような企画が通ることはまずないだろう。その意味で、青ブタシリーズという作品と原作者、およびアニメスタッフには感謝しかない。

おわりに

それにしても、原作の鴨志田一先生のキャラ掘り下げの丁寧さには頭が下がります。かえでの問題が一段落して登場した花楓に、こんなドラマを作ってくれるとは。想像の上を超えてました。

アニメーションとしては従来通りの青ブタであり目新しさはなく、物語は地味だとは思いますが、丁寧なドラマ作りの良作だったと思います。

君たちはどう生きるか

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

他の人の考察とか目にする前に映画見ておかないと、という感じで公開7日目に駆け込みで観てきました。

2023年7月20日時点でまだパンフも無い、公式HPによる情報公開も無いで、何見てキャラ名とか確認すればいいの?という状況ではありますが、とりあえず鑑賞後に勢いで描いてゆきます。時間が経過したら、ブログのその2を書くかもしれません。

  • 「ヒミ」「眞人」その他一部を追記、修正。2023.7.21

感想・考察

テイスト

君たちはどう生きるか」というタイトルからして妙に説教臭い作品を想像していたが、どちらかと言えば、「崖の上のポニョ」や「千と千尋」に似た、現実世界からファンタジー世界に行って帰ってくる物語であった。今回の主人公は幼児でも少女でもなく、少年である。

現実世界の舞台は、太平洋戦争中に空襲にあった東京から疎開先の田舎(宇都宮らしい)。その屋敷の敷地内にある「塔」の中が不思議なパラレルワールドの接合点みたい(時の回廊)になっていて、色んな世界に繋がっている。

そして、その塔の中の世界自体が奇妙な世界で、海辺にある黄金の扉の何者かの墓。ちいさなヨットで漁をして死者(?)に魚を解体して売って生計を立てている女性(キリコ)。ペリカンセキセイインコが人を食べる。後で人間のタマゴ(?)だとわかる風船みたいなワラワラ。塔の最上階?に居る世界の管理人となる大叔父さま。セキセイインコはこの世界では勢力が強く大国を築いていたり。

キャラクター

ヒミ

(なんせ、情報がないので漢字が良くわからない。火の巫女という意味でヒミなのだろうか。)

眞人の母親らしい。

火を使う事ができるので浮上するワラワラを食べようとするペリカンを花火で焼き払った。

別のタイミングでセキセイインコに食べられそうになる眞人を救い家に連れて帰る。そこで、継母のナツコを連れて帰る目的を知り、わが子の眞人であると理解したと思われる。

また、大叔父さまの血筋のためか、塔の中にある無数のパラレルワールド扉(時の回廊)の接続先を理解していた。

ナツコの部屋に眞人を導いた事で、セキセイインコに捕らえられて大叔父さまとの交渉のネタに差し出される(大叔父さま=神なので、巫女を生贄にした感じだろうか)。

大叔父さまとの会話で、眞人は元の世界に戻すつもりがある事を知りホッとする。大叔父さまのもとに眞人と二人で向かうが、13個の積み石が壊された事で、この世界が崩壊すると分かったときに、眞人を元の世界に戻し、ヒミ自身は別のパラレルワールドに戻った。

おそらく、ヒミが戻った世界は、眞人の母親が1年間神隠しにあっていた時間で、キリコはその時に一緒に戻ってそのまま使用人になったのだろう。

そう考えると、ナツコを母親として認め連れ戻そうとする眞人に対する感情、妹のナツコがわが子の眞人を拒絶したことを、少女のヒミがどう感じたか?という問題につては色々深読みできる。

シンプルに少女にそれは酷だとも思えるし、この世界でペリカンたちを人間の卵と一緒に焼いていた事も考えると、ある程度達観した死生観を持っていても不思議ではないとも考えられる。実際には、その両方を持ち合わせた人間像だったのかな、と想像している。

元の世界に戻る際、眞人は、いずれ大火事(空襲)で死ぬ、と躊躇するが、ヒミは全く躊躇しなかった。ここに彼女の死生観があるような気がする。少なくとも、この空虚で冷たい世界で働いていたせいか、死に対する恐怖を持っているようには見えなかった。やはり、達観していたのだと思う。

元の世界に戻った眞人の母親は記憶を失っていたとの事なので、その事を眞人に語り継ぐ事もない。

↓2023.7.21追記↓

眞人が亡き母親の死に向き合い折り合いを付けるのも物語のポイントであろう。今回のヒミとの交流で母親という人物を知り、眞人が産める喜びがあるなら火災で死ぬのも厭わない(=火災で死ぬとしても無念じゃない)と言い、今度こそキッチリ別れの挨拶をした。これは、眞人が欲しがっていたモノそのものであろう。

一方、ヒミからしても眞人を産むという仕事が一つ増えた。ワラワラ込みでペリカンを花火で燃やしていた事を考慮すると、生命を産む側になって育てられる喜びは人一倍ではないかと思う。昔は死産や赤ちゃんが大きくなる前に亡くなるケースはざらにあった。

つまり、眞人とヒミは、互いに欲するものを持ち帰ったという意味で、Win-Winの関係だったと思う。

↑2023.7.21追記↑

ナツコ

富豪の姉妹で、姉は眞人の母親。この場では分かりやすくするため、姉をヒミと記す。(ネットを見ているとどうも母親の名前はヒサコらしい)

父親は姉のヒミと結婚するが、ヒミが亡くなった後、妹のナツコと結婚する。姉妹の家が大富豪で、父親の事業(戦闘機のキャノピー作り)のためなのかもしれないし、当時はこんな話はざらだったのだろう。

映画では、ヒミが少女だったためそう感じてしまうのだが、ナツコの方が色気が濃い感じがした(演出意図は無いかもしれない)。姉妹で同じ人と結婚するというと、下世話だがどうしてもドロドロした愛憎劇を感じてしまう。

あの世界のナツコが寝ていた産屋で行われていた事が何だったのかは私には理解できなかったが、大叔父さまの血筋の子を産むための何らかの儀式だったのだろう。ここでの、眞人の拒絶=ヒミの拒絶で本心なのだろうが、儀式がナツコを過敏にしていたとも取れなくもない。

眞人から見れば、実母の存在とは別に、叔母を母として受け入るという儀式の当事者であり、それはナツコの側にも言える事である。ここで、眞人が「ナツコかあさん」と呼んだことで、ナツコも眞人を息子として扱っていたと思う。結果的に、母子として互いに受け入れた形だが、その障壁の乗り越えられた理由が何だったのかは、私にはちょっと理解が追いつかなかった。

あと、この姉妹の愛憎劇については、ご想像にお任せします、という感じだろう。

キリコ

不思議の塔の道連れとして連れて行かれてしまった使用人のキリコ。使用人の中でもタバコ好きでチョイ悪キャラである。

キリコは不思議の世界の中で漁をして魚を解体して生計を立てていた。この物語におけるキリコの役割は、眞人に対する大人側の生き方の見本であったと思う。そして、この世界ではみなそうなのだが、人間は一人で(ある意味、孤独に)生きている。

眞人は他者に心を閉ざしがちだが、一人で生き抜く術は持っていない。今回もキリコの助けがなければ、黄金扉の墓地で死にかけていた。

だから、大人が守りながら、生きる術を身につけさせる指南役が必要になる。眞人に漁を手伝わせ、代わりに寝床と食事を与えた。人形の婆やたち(使用人たち)も含めて、大人として眞人を守る。その「守られ」を眞人は理解する。

眞人が元の世界に戻ったときに、その庇護あっての自分という気付きである。

大叔父

このパラレルワールドの接合点の世界を管理し、積み石(見た目は積み木)で世界の均衡を一人で孤独に保つ。

元は人間(外国人)だったので、なぜこのような重責を担ってしまったのかは不明。ただ、大叔父さまでも、現状の世界の均衡を保つのは難しくなってきているらしい。同じ人が続けてやっていても、どこかで崩壊してしまうのは、古今東西在る話である。そこで、眞人にここの管理人を継いでもらおうとしていた。

しかし、眞人が元に世界に呼ばれている事を察してなのか、終盤では継がせることを諦めていた。最後にヒミと眞人が大叔父さまの元に訪れた際に、13個の積み石で新しい世界を創れと眞人に指示するが眞人には拒否られる。これで、この世界は崩壊して、パラレルワールド(時の回廊)の行き来も出来なくなる。

アオサギ

本作の不気味キャラ。突き詰めると、アオサギは眞人の汚いダークサイド部分だったと思う。

劇中、アオサギは眞人をつけ狙い嘲笑うような振る舞いをし続けた。母親を望む気持ちに付け込み、幻の母親を見せて溶かしたりした。

しかし、眞人がアオサギの羽の矢尻を付けた事で、眞人とアオサギが対等になる。この時点で、眞人はアオサギの恐怖に打ち勝っていたのだと思う。理性が自分自身の汚さを理解する。決して汚さを許容はしていなくても、理解することは第一歩である。

キリコの前で、アオサギは嘘つきか否かの話をした際に、「嘘」「本当」と意見が割れたシーンが興味深い。つまり同じ質問をしても逆の答えをする表と裏の関係にある。

そして、アオサギと折り合いをつけ、セキセイインコ相手にアオサギと共闘し始める。目的のためには、純粋な部分と卑怯な部分は折り合いを付けなければ、前に進めない事もあるのだろう。

ただ、アオサギはガラが悪いだけで本当に卑怯な事をやっていた訳ではないので、「悪」というわけではない。別の言い方をするなら、自分自身を嫌いな気持ち、と言い換えた方がイイかもしれない。

一般的に、さらに言えばジブリ作品としたときに、主人公は闇を持たないクリーンな存在である事が多いと思う。聖人とまではいかないが、ダークな面を持たないというか。本作のアオサギは、主人公のダーティーな部分を別キャラに置き換えて具現化してゆくところが、新鮮である。

アオサギも最終的には、現実の世界に戻り、普通の鳥に戻った。

眞人

本作の主人公の孤独な少年。

空襲の大火事で母親と死別。助けに駆けつけたかったが、大混乱で人ごみの中走ることもままならず、それが無念となっていた。

父親は事業に忙しく、眞人との交流時間は少ない。物事をお金で解決するなどの合理性はあっても、眞人の目線まで降りてきて会話する事が無い。母親が亡くなってからは、より一層その息苦しさがあったのだろう。

今度は疎開先で新しく継母となる叔母のナツコに会う。ナツコは美人で良くしてくれるが、眞人が心を閉ざしているので懐かない。

学校に行けば、都会から来たいけ好かない子供だとして嫌われ、取っ組み合いのケンカになる。その帰り道に自ら石で側頭部を殴り傷を作ったのは、これくらいしておけば学校に行かなくて済むと判断しての行動か?(なんとなく自傷行為とも違うように感じたので)

↓2023.7.21追記↓

自ら石で側頭部を傷つけた件については、ケンカ相手の生徒に対する制裁のためだったのかな、という気がしてきた。つまり、父親や学校には、傷跡が残りそうな障害事件とする事で、何らかの処罰を学校側から与えさせる。しかも、自分の裕福な家庭環境と親バカな父親を利用して自分の手は汚さずにである。卑怯にも程があるが、後に大叔父さまに側頭部の傷が眞人の「悪意」と言うのであれば、そうなのであろう。アオサギのところでも書いたが、眞人は聖人ではなく、醜いところも持っている。

↑2023.7.21追記↑

とにかく、他人と打ち解けず壁を作るバリアの固い子供に見えた。その原因が、愛の不足というのは分からなくもないが、それだけではない何かがあるような気がしてならない。が、それが何かは読み取れなかった。

この状態で奇妙なアオサギに遭遇し、DIYの弓矢で反撃を企てる。前述の通り、アオサギはもう一人の自分自身であるから、一言で言えば反抗期の行動と言っていいだろう。

母親が眞人に残した蔵書を読み、涙する眞人は、母親を強く欲していた事を意味するが、この状況で誰でもない母親一択になっているのが、眞人のマインドの根本的な問題であろう。

不思議の塔に向かったナツコを取り戻すために、再び不思議の塔に行き、アオサギと戦う。矢尻にアオサギの羽を使っている事で、なんらかの魔力が働き、アオサギの口ばしに穴を空けることが出来た。そして、大叔父さまのお告げにより、アオサギがナツコを連れ帰る案内人として指名され、凸凹コンビが出来る。

ここからは、不思議の世界の話になる。

そこで関わった人たちの話は、前述の通りである。

テーマ

テーマとしては、孤独な少年の心の成長を描いた、という感じだろう。

他人を拒絶する孤独な少年でスタートした物語は、不思議の世界の冒険での成長を経て、元の世界に戻るのがセオリーである。

  • 自分嫌いの部分は、アオサギとバディを組み共闘することで、自分自身の汚い部分を認める事が出来る。
  • 婆やたちのように、他人に見守れて生きている事を実感し感謝する。
  • 神格化した母親へのコンプレックスは、自分と同い年の母親と会話する事で、等身大の人間として受け入れ、神格化を解除する事が出来る。
  • 継母のナツコとは、事件を経て、大声で「ナツコかあさん」と言えた事で本音を双方のわだかまりを無くせた。
  • 何よりも、大叔父さま(=神)よりも、人間として生きる選択をした。

この経験があって、眞人はその後の人生を歩んでゆく事になる。これは、一言で「成長」と言ってもいいだろう。孤独な少年は、こうして社会に適合して行った、という感じで。

ただ、ここまで書いて、「君たちはどう生きるか」というタイトルを持ってきたときに、今の若者たちに向けたメッセージとしては、なんかパンチ力が無いというか何と言うか。

自分を認め、世間とも強調し、社会と繋がって生きよう、という綺麗ごとのメッセージである。あれだけクセのある老人である宮崎駿監督が若者にぶつけるなら、もっとロックなメッセージだろうと思っていたのだが、意外にもマイルドな作品に仕上がったなぁ、というのが率直な感想である。

おわりに

とりあえず、感想・考察を上げない事には、他の人の考察記事も見れないという事で、鑑賞後、4時間半で書いたブログ記事です。

宣伝なし、という事もあり一発理解どこまで行けるか、と心配もありましたが、いつも書くような内容は語り切った気がします。

これで、安心してネタバレ踏み込んでイケるぞ、と。

2023年春期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2023年春期のアニメ感想総括です。今期の視聴は下記の6本。

  • 【推しの子】
  • スキップとローファー
  • 私の百合はお仕事です!
  • この素晴らしき世界に爆焔を!
  • 山田くんとLv999の恋をする
  • ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP

最近は、チェックしやすいのはネトフリ配信されているもので、この中でも4作品がネトフリ視聴でした。そのせいか、未視聴の話題作も結構あるなぁ、とは思っています。

ところでネトフリでも「僕とロボコ」の1話から16話まで配信されており、視聴したらメチャ面白かったです。ネタが繋がっているのでブツ切りで観るより配信のように一気にみた方が楽しい。TVシリーズは放送終了しているので、残りもその内に配信に来ると思います。「僕とロボコ」はまたその時に書こうと思います。

感想・考察

【推しの子】

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
  • cons
    • 特になし

原作赤坂アカ先生、作画横槍メンゴ先生による原作漫画をアニメ化。製作は動画工房、監督は平牧大輔とくれば、「私に天使が舞い降りた!」「恋する小惑星」の拘り過ぎな職人気質とも言える作品を世に出してきた。シリーズ構成・全話脚本はエモさに定評のある田中仁。キャラクターデザインは平山寛菜と隙のない強力な布陣である。

1期の構成をザックリ整理すると下記の4パートになる。それぞれが、原作漫画1巻分となる。

概要 ポイント 備考
1話 プロローグ「幼年期」 星野アイの転生双子出産
星野アイ死亡
90分枠
劇場で先行公開
2話~4話 第2章「芸能界」 新星B小町にルビーとかな
5話~7話 第3章「恋愛リアリティショー編」 あかねのアイ憑依演技
8話~11話 第4章「ファーストステージ編」 新星B小町にMEMちょ
新星B小町デビュー  

本作を語るにあたり、まず、本作の看板とも言える星野アイについて触れておきたい。

16歳で未婚の母として双子を出産し、20歳で自宅で変質者に刺殺されて生涯を終えた星野アイ。身寄りがなく愛された事のないアイが、嘘の愛をファンに注ぐことで、いつか本当の愛を手に入れるという希望を求めていた。アイドルとしてのカリスマ的な人気をさらに神格化してゆくアイであったが、その作り物の笑顔を指摘され凹むこともあった。しかし、わが子のアクアとルビーに対する笑顔が自然な笑顔なのだとの気付きがあり、その光と闇の両端を「愛」で繋いで嘘を本当にしてゆく。それほどまでして、アイドルとしての生き方と、人間としての幸せの両方を強欲に求めた。芸能界には光と闇があるが、ここで描かれているアイには闇がなく聖母のような清らかさだけを感じさせる。そこに闇があったか否かの真実は本人が墓場に持って行ってしまった。

YOASHOBIのOP曲「アイドル」は1話の星野アイをテーマにしたものだが、アイドル曲としての明るさと、神秘的な恐ろしさを併せ持つ多面性のある楽曲で、星野アイというキャラの複雑さを良く表現していた。それはキャラデザインにも言える事で、両目に大きく描かれる巨大な星マークの輝きが、ただならぬカリスマ性を表現する。紫色を基調としたビジュアルも徹底している。紫色というと私はそこはかとなく狂気を連想するのだが、ネットで紫色を調べたところ、気品、ロマンス、神秘、神聖、エキゾチックとどれも星野アイを連想させるものである。SNSでも、星野アイのファンアートもこの瞳の巨大な星マークと紫色を踏襲して拡散されてゆく。兎にも角にも星野アイは本作の象徴的存在となる。

2話以降は、双子の長男アクアが星野アイ殺害事件の復讐のために父親を探すという、ミステリー小説的なテイストの物語が縦軸となる。並行して、双子の長女ルビーが憧れのアイドルを目指して新星B小町で活躍してゆく奮闘劇も描かれる。そして3話毎に漫画原作1巻分で完結する芸能界の光と影をテーマにしたサスペンスドラマ形式の物語が横軸として紡がれてゆく。

さて、アニメーション的な感想についてだが、緻密で描き込まれた作画の強さ、ハッタリの効いた演出とレイアウトの強さが印象的であり、流石は動画工房という感じのリッチな映像である。作画カロリーの高いアイドルのステージシーンもあるが、他のアイドルアニメと比べても見劣りするところもない。

「転生」を設定に取り込んだり、エピローグの原作1巻分を1話90分で構成するなど、目新しい要素が多い。また、推理小説的な謎解きをベースとしているから、妙に細かな数字や芸能界のうんちくをネタとして差し込んできて、ルポルタージュを思わせる情報が巧みに開示されてゆく。そのうえ、各キャラの感情を激しく描くドラマが強い。毎回「ドヤッ!」と決めてくる演出力の高めのシーンにED曲を重ねてくる「引き」の強さもある。視聴者はアクアの正義感に寄り添いながら、不遇な扱いを受けるストレスフルなヒロインを救済する物語に、古の「火曜サスペンス劇場」を見ているような感覚になる。私も食事中に視聴して、画面に釘付けになり、すっかり箸が止まってしまっていた事が何度もあった。こうした作風のTVアニメは今まで在りそうで無かったと思う。

逆に、本作には日常エッセイのような繊細で慈悲深い味わいは苦手だとか、各章はアクア探偵がストレスフルなヒロインを救済する勧善懲悪的な物語のテンプレになりやすいとか、縦軸となるアクアの父親捜しの物語の進捗が牛歩だとか、視聴者の好みが分かれてしまう要素も無くはない。

しかしながら、その原作漫画の面白さを損なうことなくTVアニメ化する事は前人未到の挑戦であり、このビッグバジェット感あるタイトルを期待以上に仕上げてきたことについて、アニメスタッフには感謝と脱帽しかない。

スキップとローファー

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 軽快なルックと緻密なドラマが心地よい青春群像劇
    • 美津未ちゃん可愛い
  • cons
    • 特になし

カジュアルで軽快なルックが印象的でありながら、重すぎず軽すぎない絶妙なドラマが心に沁みる、心地よさのある青春群像劇。

原作は月刊アフタヌーンにて好評連載中の高松美咲先生のマンガ。制作はP.A.WORKS。監督とシリーズ構成は出合小都美で「夏目友人帳」「ローリング☆ガールズ」で監督を務めていた。脚本は米内山陽子、篠塚智子、日高勝郎の3名体制。米内山は「パリピ孔明」などでP.A.WORKSとの仕事の繋がりがある。

本作のポイントは2点あると考えている。1つは、美津未のある種の破天荒さがもたらす痛快な友情ドラマ。もう1つは、美津未の初恋の初々しい恋愛ドラマ。

美津未は石川県能登半島の突端のド田舎から東京に転校してきた女子高生。見た目はモブっぽくて主人公らしくない、という第一印象から入る事になる。田舎育ちで、温かい家庭環境と友達に恵まれ、心は健全。頭脳は明晰で将来の夢は政治家。超一流のT大合格を目指して高校から東京の進学校に入学。入学式当日に迷子になり遅刻、答辞を読んだ後でゲロるという最悪の第一印象からのスタート。ここまで来て、これはドカベンのいわきだと思った。いわゆる破天荒な大物タイプで、女性版いわきとでも言うか。しかし、これは半分当たっていたが、半分はいい意味で裏切られる。

美津未の級友たちは東京育ちで人間関係に疲れて擦れている。しかし、人口少ない田舎育ちの美津未は人間の悪意にまったく気付かない。鈍感と言ってもいい。結果的に極度のお人好しになっている。だから、ミカの下心や裏のある行動も気にならない。人の悪い所は見えず、人の良い所だけを記憶する。男友達の志摩でさえ、こんな純真な娘だと、これからの人生付け込まれて辛くならないかと余計な心配をしてしまう。しかし、美津未と付き合いを続けてゆくと、美津未の行動がキッカケとなって、喉に刺さった魚の骨が取れたみたいにスッキリとして気持ちが軽くなる。結月と誠は美女とダサ女のお互いのコンプレックスは解消するし、ミカはネガばかり見ていて気にしている自分の小者さに気付いてしまう。

ここで大切なのは美津未は、誰の欠点も否定せず美点だけを肯定し、周囲の人間は自分のダメなところに気付いて勝手に反省して人生を前向きに改善してゆく点にある。つまり、美津未は説教せずに他人を変える。多くの視聴者はリアルな生活で説教されていると思うので、エンタメ内での説教はもうゴメン、という気持ちなのかもしれない。この否定しないけど前向きに周囲の人が改善されてゆく作風が気持ちいい。美津未がいわきと違ったのは、図々しさや迷惑さはなく、周囲に気を使える健気な女子であったところである。

級友の中でもラスボス的な存在だったのは男友達の志摩だったと思う。子役時代から他人の期待に器用に応えつつ、芸能界のスキャンダルに巻き込まれて誹謗中傷もされ、心がボロボロに傷ついてしまったからこそ、他人とは深く関わらず表層だけの付き合いで流してきた。他者に傷つけられないように近づかず距離を取る、これは自衛手段である。そんな中で美津未だけは、下心のない真っすぐな気持ちで志摩の心に浸透してくる。無遠慮という訳でもなく、邪心のない素朴さで。はじめは面白いと思っていただけだったが、志摩はふと気付いてしまう。負債だけを背負って後ろ向きに生きるだけが人生ではない。他人を肯定し、後ろを向かずに前進し、楽しい希望を見続ける人生を美津未は実践しているのだと。12話文化祭で義弟との遠慮しがちだった距離を縮め、兼近先輩の芝居に嫉妬(≒向上心)を自覚し、過去に閉じ込められずに未来を歩みたいと梨々花に直談判し、痛くても辛くても前進して喜びたいと願った。いつもは美津未が言う「また明日」を、志摩から言えたことが、彼の前進する未来を暗示しつつ1クールの物語を〆る。上出来である。

もう1つの恋愛ドラマだが、これは美津未と志摩の6話の階段のやりとりのエモさに尽きる。イイ感じに友達関係にあった美津未と志摩だが、志摩のずる休みの話題で気まずい雰囲気になる。翌日放課後には仲直りする。美津未が導いた本心は「志摩君が居ないとつまんないから登校して」であり、ここでも否定ではなく肯定で返す。これを受けて志摩は恥ずかしさで走り去ろうとする美津未を引き留め、志摩の本心の「美津未は噂話を聞かないで(=ネガに染まらないで)」を返す。和解により緊張の糸がほぐれ急に大笑いする志摩にキュンとなって赤面し下校する美津未。急に恋愛を意識してしまう美津未が可愛い。私はこの志摩が美津未を引き留めるシーンが好きで、人に干渉したくないはずの志摩が、美津未への愛しさが爆発しての反射的な引き留めであり、女子を抱きしめたい男心を感じさせる良き演出だったと思う。

もう1つ大好きなのは、10話の体育館横で志摩と美津未が演劇のダンスを踊るシーン。美津未は浅野との宿題をすっぽかしてし空回りしていたところを志摩が気を利かせて気分転換させる。美津未も志摩の大人な対応を察して、志摩の前で泣いてしまう。美津未は演劇の脚本についても悲劇と決めつけずポジティブな結末の可能性残したものと捉えていた。その打たれ強さ立ち直りの速さに志摩も一目を置いてしまう。これは12話の志摩の変化に繋がる重要なポイントであると思う。その後に二人のダンスのシーンになるのだが美津未の赤面っぷりが相変わらず可愛い。

本作は美津未が無自覚に他人を改善してゆくだけでなく、美津未自身も気を使って悩みながら青春を謳歌していくことで、美津未を好きになれる構造になっている。

最後にアニメーションとしての総括だが、本作の脚本と演出は非常に密度が高くテンポが良い。心情の変化をマンガ的な1カットで確実に繋ぎ、台詞もワザとらしくなく日常感に溢れている。その精密さが本作の真骨頂であろう。それには、キャラの作画、背景、色彩設計、レイアウトなどの絵作りの気持ち良さが相当効いていると思う。ストレスなく見られる気楽さとエモい感動を両立していて、幅広い視聴層におススメできる作品となっている。

この素晴らしき世界に爆焔を!

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • めぐみんとゆんゆんが大人の世界に一歩踏み出すまでの、おバカで緩めの青春コメディ
  • cons
    • アニメーションとしては非リッチであり、ギャグやテンポの切れ味や、作画などのクオリティはもう一声欲しい

この素晴らしい世界に祝福を!」のスピンオフ。今回の主役は紅魔族のめぐみんとゆんゆん。めぐみんがカズマ達とパーティを組むまでの前日譚となっている。

ちなみに、私は今まで「このすば」は未履修であり、本シリーズに触れるのは本作がはじめてとなる。それゆえに、感想に過去作との比較やバイアスは含まれない点をご承知おきいただきたい。

作画、絵コンテのテンポ感、演出の盛り上げなどなど、本作はアニメーションとしてはリッチとは言えないと思う。勿論リッチな方が視聴者としては有難いが、敢えて映像表現のコストを押さえて、原作小説の持ち味である会話劇を中心に魅せてゆくというディレクションと考えれば、これはこれでありだろう。

物語としては、めぐみんが紅魔の里で魔法学園で同級生と過ごし、里を離れて半人前の魔法使いとして働き出し、カズマ達のパーティに入るまでの前期譚となっている。この流れの中で親友であるゆんゆんとの緩めのコメディとドラマが持ち味である。

本作を一言で表現するのは難しい。

めぐみんが爆裂魔法だけに固執して他の魔法を覚えない理由は、幼少期に目撃した爆裂魔法の圧倒的なパワーに魅せられ強い憧れを抱いたから。そして、めぐみんの家は家族愛には恵まれつつも貧乏で、両親は仕事で不在がち。家では可愛い妹の面倒をみながら慎ましく暮らす。魔法学校でのめぐみんは、成績は優秀ながら少々中二病的な変人の側面を見せつつ、学級内にも馴染みながら、自分のスタイルにブレずに生きてきた。

そんなめぐみんに対し、相方となるゆんゆんがいい味出していた。ひねくれ過ぎるめぐみんに対し、お人好しすぎる真面目な優等生のゆんゆん。腐れ縁の幼馴染であり、口を開けばどうでもいい事で口論になるが、お互いに心の底では相手を気遣い心配する。二人の口喧嘩は子供のじゃれ合いのようなモノなのだが、子供だからこそ許容される。

繰り返しになるが、めぐみんというキャラはひねくれていて、極端な行動にでる突飛なタイプゆえ、感情移入しにくいところがある。爆裂魔法一択という極端さ、冒険(=爆裂魔法の魔法使いの人)への憧れの強さ、そこを理解しないとめぐみんには共感しにくい。周囲の大人たちも極端な馬鹿が多いため、相対的にめぐみんなりのロジカルさも垣間見せてるのだが、いつも詰めが甘くてそこもギャグになる。

ゆんゆんは、めぐみんに常識的な立場でツッコミを入れる相方役であるため、一般的な視聴者はゆんゆんに感情移入しやすい。しかし、ゆんゆん自体もまだ子供で甘々なので、めぐみんから見ても放っておけない存在として描かれる。二人は半人前で互いの拙さを庇い合う関係にあると言えるだろう。

私は、紅魔の里の魔法学校=高校生活、クエストをこなして報酬を得る=社会人生活という感覚で捉えていた。だから、これはめぐみんとゆんゆんの高校時代と、卒業後に本格的にギルドに就職するまでのアルバイター的な半社会人生活を、馬鹿やって過ごした青春モノとして捉えている。二人で、幼馴染の馴れ合いで依存してきた人生に、一旦区切りをつけてそれぞれの道に一歩を踏み出す。それは、少しの戻れない郷愁と、大きな未来への希望(≒野望)という成長を描いていたと感じた。このザワザワする思春期の不安定感を描けていたことが、本作の文芸面の味わいになっていると思う。

ちなみに、こうは書いたが、カズマ達のギルドに入ったときのめぐみんは13歳との事。JK卒業しているくらいの感覚だったのだが、現役JCの年齢という事で、想像以上に若かった。ただし、現代日本社会とは異なるファンタジー社会なので、この辺は設定次第であろう。

総じて、本作を好きになれるか否かは、めぐみん、ゆんゆんというキャラが好きになれるかにかかっていると思う。私は、この二人の緩くて甘々な関係が好きだし、ゆんゆんの優しくもポンコツな所に惚れていた。最終回ではちょっとした寂しさを覚えつつも、独特の味わいを楽しめた作品であった。

私の百合はお仕事です!

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 複雑にからむ女女感情の百合ドラマを、各キャラにフォーカスしながら紐解いてゆく、シリアス多めの作風。
    • キャラに絶妙にマッチしているキャスト陣の声と芝居
  • cons
    • 物語の流れに合わせた女女感情をロジカルに整理するだけに終わってしまった感があり、エモさ、爆発力不足に感じた文芸。

舞台は架空の百合百合しい女学園をテーマにしたイメージ喫茶店。制服姿の女学院の生徒たちがホールで給仕をするが、百合姉妹などの設定もあり小芝居込みの接客で喫茶店の客をもてなす。もちろん、実際には普通の高校に通うJKアルバイトなので、キッチンでは素のJK、ホールでの接客中はリーベ女学院の生徒を役として演じているというのがポイントである。

また、主人公の陽芽は「外面」という人当たりの良いキャラを日常的に演じ続けているという設定があり、舞台設定と共に「本音」と「建て前」の二面性の中でのすれ違いが本作の醍醐味である。それゆえ、4人の主要人物の女女感情が複雑で分かりにくいため、人間相関図にポイントを整理しつつ、各キャラについて深掘りしてまとめる。

陽芽は小柄で金髪ロングが特徴。愛想のいい「外面」(=嘘)の天才であるが、その本質は臆病者で他人から攻撃されたくないという自衛の心理が働いている。反面、周囲から孤立してしまった者を庇いつつ、心を開く優しさも持ち合わせる。これまで外面を外して本音を話したのは、小学生の時の美月、中学生のときの果乃子の二人だけ。この二人は外面を外して本音で付き合える親友と呼べる関係だった。結果的に、この二人から重めの愛情を受ける事になるのだが、陽芽自身は友情としか思っていないので愛情に気付く事も愛情を返すこともない。それが本作の物語のすべての駆動力になっている。

美月は高身長の黒髪ロングと巨乳が特徴。姉役として陽芽とシュヴェスターを組む。美月は本質的に頑固で周囲と衝突しがちである。小学生の時にそれでクラスで孤立していたところ、陽芽が心を開いて親友となった。しかし、ある日、陽芽が自分に嘘をついていたと勘違いして、陽芽が嘘つきと言いふらして絶交した。美月は天性のツンで攻撃力が高い。そして、リーベ女学園の新人アルバイトが陽芽である事にいち早く気付き、鈍感で無神経な陽芽に辛く当たる。結局6話で、小学生の時の事件は誤解である事を理解し、陽芽と和解して、再びシュヴェスターとして再出発する。もともと陽芽への大好きが突き抜けて反転し大嫌いになった形なのでデレツンと言える状況だったのだが、ここに来てやっとツンデレとなった。この6話は、唯一捻じれが解消されるカタルシスある回であり、本作の中では秀逸なエピソードだったと思う。

果乃子は大人しそうな青髪の眼鏡女子。思った事を他人に言えずに飲み込んでしまう弱気な性格であり、そのせいで頼まれごとを断れない。中学生のとき、そんな果乃子を見て不憫に思った陽芽が親友になってくれた。陽芽の外面は二人だけの秘密である。唯一の親友であり理解者であるという気持ちが、果乃子の陽芽への愛情を膨らませてゆく。しかし、ヤンデレになって恋愛の告白をしてしまえば、ドン引きされ、現状の尊い関係が壊れてしまうというリスクは理解している。果乃子が他人に意見を言えないのは、今に始まった事ではない。むしろ、この状態が永久に続けばいいと考えていた。陽芽と同じ高校に進学し、陽芽を追いかける形でリーベ女学園のアルバイトに入る。そこで陽芽と美月の仲直りにより、陽芽の唯一の親友というポジションが危ぶまれ心がチクチク痛む。その上、果乃子→陽芽の恋心について純加が妙にからんでくる。あまりのしつこさに泣きながら陽芽の外面の秘密を純加に漏らしてしまい、陽芽に対する恋心と現状維持が望みであり、邪魔しないでと頼む。純加が秘密を知ってしまったことから共犯者的な関係となり、最終的には純加とシュヴェスターを組む。

純加はサロンでは眼鏡をかけてインテリ風に見えるが普段はヤンキー。過去にシュヴェスターの妹が他のサロン係にガチ百合で寝取られサロンが崩壊したという事件があり、サロンに恋愛を持ち込む事に批判的である。別の言い方をするなら、恋愛に疎く、恋愛に溺れ狂ってしまう人には共感できない。果乃子→陽芽の恋愛に気付き、果乃子にサロン内での恋愛を辞めさせようとするが、本人は片想いで見ているだけだから放っておいてと拒絶される。この時点で議論がかみ合っていないのだが、そうこうしているうちに、果乃子の恋愛の必死さ息苦しさに同情し、彼女を苦しみから救いたいと考えるようになる。最終的には、果乃子とシュヴェスターと組むが、果乃子としてはあくまで利害一致という打算的な関係であり、純加への好きは存在しないところに切なさがある。

以上が各キャラのドラマのポイントだが、原作漫画は連載中であり、物語はまだ続いているため、更なる変化があるのであろう。1クール12話の中では、前半を陽芽⇔美月、後半を果乃子⇔純加で推理小説的に各キャラの心情を紐解いていく形式で構成されており見応えがあった。全体的にトーンは重めな作風だが、12話だけはコメディー回となっており、本作の本来のコメディ色を強調したお口直し回となっていた。

と、ここまで書いてやっと感想に入る。本作は物語の流れにのせるためのキャラクターの性格やすれ違いのロジックが凝っているのは理解するが、そのせいでキャラのエモさや分かりやすさが損なわれていて爆発力に欠ける印象を持った。言い方を変えるとロジック好きな私でさえも、ロジックを追うだけで手一杯となり観ていて疲れてしまう。これは、脚本と演出の両方の問題だと思う。原作漫画は未読だが、おそらくもう少しコメディ色が強くて楽しさのある漫画なのではないかと想像する。

キャストはベテランから中堅まで手堅く揃えており、各キャラとも声の相性は抜群に良い。とくに主人公の陽芽役の毒づいた本音シーンなどは、絵柄のギャップ同様にコミカルで、小倉唯さんの快演が光る。

作画面、演出面は尖ったところはなく、平均点レベルという感じ。キャラクターデザインは原作漫画のコミカルで勢いのある絵柄を上手く落とし込んでいると思う。

本作の肝となる文芸面は、6話のみが陽芽⇔美月のすれ違いの解消のカタルシスがあるものの、全編を通してすれ違いの息苦しさが溢れていて爽快感はない。百合的な深みがあったかと言えば、最低限のロジカルさを担保するのに精いっぱいで、エモさは余り感じされず期待外れだった、というのが正直なところである。

山田くんとLv999の恋をする

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 女性視点のふわふわ感ある王道のゆったりしたラブストーリー
    • コミカルなデフォルメと、心情描写多めのシリアスなシーンの緩急のメリハリ
  • cons
    • 好みの問題でしかないが、私には多少甘すぎたかも。

制作はマッドハウス、監督は浅香守生とくれば「カードキャプターさくら」「ちょびっツ」がすぐに思い浮かぶが、2015年には「俺物語!!」もあり、切ないラブストーリーに強い監督というイメージであり、本作で手腕を振るっている。シリーズ構成・全話脚本は中西やすひろが押さえる。

物語は、最近失恋した美人女子大生の茜と不愛想なイケメン高校生の山田が、ネットゲームとリアルでの交流しつつ、互いに意識し合いながらも奥手(?)ゆえに進展しないラブストーリー寄りのラブコメという感じである。

映像面では、リアルワールドの美男美女の描写と、時折見せるデフォルメキャラやバックで花がくるくる回るコミカルさのギャップが楽しい。しかし、恋愛描写寄りのシリアスなシーンになってくると映像的にもキラキラしたイメージで描かれ、レイアウトや台詞の間も大胆に変えて少女漫画的な演出をアニメに大きく取り込んでいる。昨今は詰め詰めのアニメが多いので、こうしたゆったりしたディレクションもたまには良いなと思わせる。

茜の方は男に尽くしがちなイメージだが、妙に隙が多くて大丈夫かと思う反面、親しくなったら徹底的に優しい。個人的にはダメ女と言うほどでもない美女だから茜は普通にモテるだろうとしか思えなかった。

山田の方は恋愛感情が分らず、恋愛で寄ってきた女子の気持ちを返せずに悲しませてきた経緯があり、周囲も諦めている。この山田がいかに茜に惚れてカップルになるか?というのがポイントになる。

途中でルリ姫と山田の恋人関係疑惑や、山田のクラスメイトの橘が登場して山田に振られるのイベントはあるが、中盤で視聴者には相思相愛を確信させており、自分から告白できない茜の恋愛心情のフワフワ感を楽しむ作風なのかと感じた。

総じて、王道のラブストーリーを女性視点でふわふわ見せる事に注力した作風であり、浅香守生監督のディレクションは適切に効いてたと思う。物語に意外性は少ないが、茜役の水瀬いのりはハマり役だったと思う。

好みが分かれる題材だとは思うが、私はヤキモキしながらも、このタイミングで橘攻めてくるかー、などと言いつつ緩く楽しんだ。

ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 臨場感たっぷりで迫力満点で盛り上がるレースシン
    • 全4話というコンパクトさゆえの、明確なテーマとスッキリしたストーリー構成
  • cons
    • 特になし

今となってはCygamesの大人気ソシャゲであるウマ娘のアニメで、全4話構成でYouTube配信された点が新しい。制作はCygamesPicture、監督は廖程芝、シリーズ構成・シリーズディレクターは小針哲也。なお、制作スタジオKAI、監督及川啓ウマ娘のTVアニメとは別系統で制作されている。

ちなみに、私はTVアニメのウマ娘1期2期は未視聴であり、これが初ウマ娘である。

本作では三強と呼ばれた、トプロ(ナリタトップロード)、アヤベ(アドマイヤベガ)、オペラー(テイエムオペラオー)の1999年クラッシック三冠レースにかける熱い戦いの物語である。それぞれのウマ娘が勝利の喜びのために、自らを削り、ライバルと共にレースを戦う。

本作の見どころは何と言ってもレースシーンであろう。TVアニメ1期から培ってきたレース演出と作画に磨きがかかる。作画は綺麗で勢いがある。演出は出走前の緊張感から、序盤の各馬状況解説を経て、クライマックスの盛り上がりを実況と共に臨場感たっぷりに伝えてくる。レース終盤では鬼の形相での疾走シーンとなるが、美少女(ウマ娘)にここまで必死な顔をさせるのは思い切りがいい。レース毎にレース作画のテイストも若干異なるのだが、トプロのドラマに合わせたテイストになっている、と感じた。文芸もクラッシック三冠を全4話でコンパクトな事もあり、よりレースというテーマの根源に近づけたドラマになっている。

なお、全4話の構成とレース結果は下記の通りである。

  • 1話:皐月賞 →1位オペラオー、2位トプロ、6位アヤベ
  • 2話:日本ダービー →1位アヤベ、2位トプロ、3位オペラオー
  • 3話:(練習のみ)
  • 4話:菊花賞 →1位トプロ、3位オペラオー、6位アヤベ

トプロは、皐月賞日本ダービーも外からさされて僅差で2位に甘んじているので、菊花賞の1位は悲願。勝負は水物である。特に日本ダービーでのトプロのコンディションは好調で、全力を出し切ったのに負けた悔しさ。人気があったので余計に期待に応えなければならないとプレッシャー(=自分自身)との戦いで、練習も気負い過ぎて悪循環となる。そんな中、トレーナーや商店街ファンとの交流の中、勝ちだけに拘るのではなく、自分のスタイルを貫き、再び全力を出し切る方向に意識を戻してゆく。明るくて元気で真っすぐなトプロが個人的にも一番人気である。CV中村カンナさんの声質と芝居がトプロに非常にマッチしていて良かった。

アヤベは、死産してしまった双子の妹への贖罪の意識で勝負していた。右足の不調もその罪の報いとして受け入れて無理をして走っていた。日本ダービーを制したら妹への罪の報いになるかとおもいきや、自分一人だけ勝ちを喜んだとさらに罪の意識を深めさせる。しかし、菊花賞のレース中に、妹のためでなく自分のために走って、と妹からのお告げがあり右足の故障と自らかした呪いから解放される。史実ではこれが最後のレースだが、本作ではアヤベに対する救済があって良かった。

オペラオーは、故障からの復帰でがむしゃらにレースをこなしてきていたが、トプロやアヤベに比べてメンタルは健康で、自分の強さはライバルあっての強さである事を理解していた。 全体的に重くなりがちな空気を、芝居めいた台詞で明るい舞台に導いてくれた。

本作はやはり、前4話でコンパクトな作りにしたことの意味が大きいと思う。ギャグ要素などの賑やかしはその分減ったが、シリアスな勝負に賭ける厳しさ辛さ喜びを凝縮している点が良い。各キャラとも清々しさのある結末で、最後でウイニングライブで気持ち良く〆てくれた。

おわりに

一応、レビューの並びが私的ランキングの並びにもなっています。

今期は迷いましたが、推しの子がやっぱり凄いと思いました。「火曜サスペンス劇場」アニメという所はありますが、ネタの斬新さ、画面に釘付けにさせる脚本と演出の強さが良かった。何より、従来のアニメの文法を覆す、挑戦的な作風だった事を考慮すると、2023年春期の中で最も輝いていた作品だと思います。

スキローは、作り込みの精密度と私好みのテイストで、普段だったらトップになってた作品です。実際に、作品の完成度で言ったら推しの子よりもスキローが上だと思います。まぁ、この2強だったと言ってもいい。

変化球としては、このすば爆焔が緩くて楽しめました。リッチなアニメーションでなくても、こう若いからこその自由さを、なんとなく感じさせてくれました。最近は本当に高齢者向けアニメが多いので、たまにはこうした自由な作品があるといいです。

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

世界的規模でヒットしているという「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」の長文の感想・考察です。

とにかく、「楽しい」が詰まっています。ゲーム原作映画の革命であり、一つの到達点と言える歴史的な一作なのではないか、と思います。

感想・考察

アクションゲーム原作3DCGアニメーション映画

大過ぎる原作ゲームの映像化

ファミコンスーパーマリオブラザーズが発売されたのが1985年。以来、ゲーム機のハードウェアの進化にとともに、次々にシリーズ、派生のゲームが開発されてきたニンテンドーの看板ゲームである。

横スクロールアクションで、十字キーと、Aボタンはジャンプ、Bボタンはダッシュという超シンプルなUIであった。当時の横スクロールゲームにジャンプボタンはあったが、ダッシュボタンはスーパーマリオブラザーズがはじめてだったと思う。これは少し慣れが必要だが、文字通りマリオに乗り移って操る感覚があり、これは後の格ゲーにも通じるゲームキャラを思い通りに操り一体となるゲームの快楽性であったと思う。

貧弱なハードウェアゆえに記号的なアイテムがタイル状に並ぶステージを右に駆け抜ける。それぞれのアイテムは分かりやすさを求められた。ゆえに、突拍子もない、常識的に考えたら理不尽とも言える世界観であるが、それがゲームのアイデンティティとなり脈々と引き継がれてゆくことになる。

時代とともに新しいゲーム機が発売される度に、新たなマリオのゲームが制作され続けてきた。常にそのベースには、楽しげで、小難しさがなく、分かりやすさを極めたところにあったと思う。それは、老若男女に幅広くリーチするためのディレクションであったのだろう。昇竜拳コマンドのような複雑でピーキーな操作は無く、あくまで直感に訴えかける操作に限られる。アナログコントローラー、Wiiコントローラーなどに進化してゆくが、それはまさにニンテンドーゲーム機と共に歩んできた道のりと言える。

ゲームのそのもの(=延長線上)の世界観

オーバーオールのヒゲ男、理不尽な空中のレンガや「?」、敵がカメ、ジェットコースターのようなカートコース、その他もろもろ。

改めて説明するまでもなく、本作のキャラクターデザインや背景、ゲームのギミックは過去のニンテンドーのゲームで培われた世界観そのものである。

前述の通り、それはゲーム機のグラフィック能力の低さゆえのデザイン、設定を引き継ぐニンテンドーの伝統である事を我々は認知している。

映画でマリオに初めて触れる観客に対しては、なぜの嵐になるはずだが、直感的にゲームのルールで「こういうモノ」である事を受け取れる。おそらく、原作ゲームのデザインの素性の良さもあるのだろう。

それは、プラットフォームがゲーム機から映画に変化しただけで、全く同じアプローチである事に驚かされる。

ニンテンドーのゲームが提供するもの

小説、マンガ、映画とエンタメにも様々な種類があるが、ゲームがこれらの受動型のエンタメと大きく異なるのは、インタラクティブ性があるという事だろう。

ゲームとはプレイするものであり、一定のルールの下で他者と勝負し勝敗を決める。たとえばトランプや将棋などは典型的なゲームと言えるだろう。また、肉体を使ったゲームはテニスやゴルフなどのスポーツとして進化していった。中にはプレイ自体は一人で行い、得点という形で競い合う種類のものも存在する。ボーリングやピンボールがそれにあたるだろう。

この文脈の中でルールを含めてUIを通してコンピューター上でプレイするゲームとして「スペースインベーダー」や「ドンキーコング」が登場する。これらのコンピューターゲームは駄菓子屋や喫茶店に設置され有料でプレイするものであったが、その後、家庭用ゲーム機としてはやはりファミコンの登場する。それは、カセットでゲームソフトを交換可能なゲーム専用ハードを安価で提供するエポックメイキングな商品であり、そのソフトに「スーパーマリオブラザーズ」があった。

当時のハードウェアは貧弱であったがゆえに、グラフィックは簡素に、物語性は極力そぎ落とし、マリオを操作するアクションとステージクリアのパズル的な快感がスーパーマリオブラザーズの肝となっていた。

以下に、ザックリとしたスーパーマリオブラザーズの特徴を整理して示す。

ところで、一口にコンピューターゲームと言ってもいろんなジャンルが存在する。

1つはアドベンチャーゲームと呼ばれるジャンルで、リアルタイム性を排除し、画像+テキストベースで物語重視のタイプである。より小説に近いと考えて良いだろう。その延長線上に、ドラクエなどのRPGや、ときメモなどの恋愛シミュレーションゲームが存在する。これらは、キャラにパラメーター値を持たせ、キャラを育成してゆく要素が追加される。より小説に近いという意味では、自由度が高い反面、シナリオは複雑になり、舞台が学校などの限定的な設定になったり、エロやバイオレンスやホラーを取り込んだりと顧客ターゲットが細分化されていった。

もう1つはアクションゲームの多様化である。シューティング、レース、パズルなど様々な形態が存在した中で、殴り合いの対戦格闘ゲームが登場する。格ゲーの特徴として、個性的な多くのキャラ、複雑なコマンド入力、より専門的な知識を必要とするコンボ技など、非常にマニアックなものに進化してゆく。もちろん、殴り合いのバトルなので対戦も殺伐としていた。

こうしてみると、多種多様なコンピューターゲームの中でニンテンドーがブレなく、プレイヤーの間口を広く楽しさを追及するディレクションを大切にしているか分る。

ちなみに、映画の本編上映前に流れたニンテンドーの広告がYoutube動画に公開されており、ここまで説明してきたニンテンドーディレクションを再認識できる。

映画文法とゲーム文法

ここで言う映画文法とは、セオリーというか、ここはこうなるだろう、こうはならんだろうという類型的な作法として考えてもらいたい。必ずしも正解が1つという訳ではない。

映画には、まず物語があって、それに伴うドラマがあり、全体を貫くテーマがあったりする。これは、小説やマンガも共通しているが、表現する方法が文章や、絵や、映像+音響と異なる。

物語は起承転結や序破急といった流れがある。これにより、ストレスや問題から解放されたり、祈りにより救われたり、無慈悲なバッドエンドだったりの結末がある。これは小説やマンガでも同様である。

ドラマはキャラの感情の動きや葛藤やぶつかり合いで、好き嫌い、喜び悲しみ、愛しみ憎しみ、などを表現する。これにより観客の心に直接揺さぶりをかける。前述の物語は神の視点の流れだったのに対し、ドラマはキャラの感情そのものと言えば分るだろうか。

テーマは観客に向けたメッセージだったり、普遍性を持ったテーゼだったりするが、これもまた観客の心に問いかけて、鑑賞後の余韻となる。

この物語、ドラマ、テーマというのは映画文法では必須で、これらを掘り下げ深みを出して感動の差別化を図る。また、映画文法では物語はロジカルであるべきで、因果応報という必然性があるべきで、設定や物語の展開と不整合があってはならない。

また、物語やドラマに深みを出すためにはその社会やキャラが持つバックグラウンドを記号的に差し込んだりする。具体的には、シングルマザーの生きずらさや子供のメンタルとか、主人公が乗っているクルマや吸っているタバコの銘柄で性格や趣味趣向をそれとなく表現するとか。

しかし、こうした手法は観客のおかれている国や社会や年齢により、前提情報の共有の深度はかなり変化する。発展途上国の子供が見てもまったく分からないというケースもあるだろう。こうしたエンタメを深く楽しむためには、博識である事が望ましいし、映画を通して勉強して知識を習得し、より深く理解するというのもアリだろう。

要約すると、映画文法では物語はロジカルでドラマに深みがある方が良い。しかし、これにより観客の間口は狭まるという問題もある。

では、ゲーム文法(=マリオ文法)はどうなるかというと、世界観やキャラ設定は子供にも分かりやすく楽しいものとする事で、顧客の間口を広げている。ぶっちゃけ小難しい物語・テーマ・ドラマは存在しない。ただ、キャラを操縦してアクションゲームの快楽に浸る。

その意味で、ゲームと小説は対局で重なるところがほぼ無い存在であり、映画とゲームは映像+音響という意味では隣り合わせにあるが、物語・テーマ・ドラマとインタラクティブ性の有無というベースの部分での差異がある。これを図にして下記に示す。

こうした映画文法とゲーム文法の違いから、ゲーム原作の映画の難しさの一面を垣間見る事はできる。この状況で、本作はどのようなディレクションをとったのか?

それは、単純に言えば、限りなくゲーム文法に比重を置き、映画文法に必要な物語・テーマ・ドラマの部分は極力シンプルで整合性のとれたものにしている。

マリオはブルックリンを救った後に、キノコ王国で配管工の仕事をしてゲームの世界で生活している。これこそがニンテンドーがスポンサーの意義でもあるのだが、スーパーマリオブラザーズを全面肯定して映画は終わる。

ドラゴンクエスト ユアストーリー」がゲームプレイヤー自身を俯瞰視させられ、興ざめして大ブーイングを起こしてしまった記憶も新しいが、それとは対照的と言っていいだろう。

これにより、本作は見終わった後に楽しさだけが残り、スッキリした気持ちで映画館を出てこれる。率直に言って、私も鑑賞後に引っかからずに抜けてしまう映画だなぁ、という感想は持っていた。しかし、それもまた映画ではないのだろうか。

原作ゲームを肯定し、原作ファンを肯定し、多幸感満載の映画があってもいい。そもそも、中身の濃密とは無関係に、ここまで映像に多幸感を凝縮してくる技術には賞賛しかない。これこそ原作愛(=リスペクト)であろう。

個人的には、このディレクションには大きな拍手喝采を送りたい。

キャラクター

マリオ

もともと、ゲーム内ではマリオは特定の人格やキャラ性を持たない。もっと言えば彼は人生や物語を持たない。(もちろん、ひげ男という揺るぎないアイデンティティはある)。これはマリオ自体がプレイヤーの分身であるためだと思う。だから、性別や年齢や人種を超えた存在となり得る。

では、物語のある映画という異なるステージ上で、マリオはどのようなキャラ性でどのような物語を紡いだか。

  • マリオは社会や家庭の中では認められていない劣等生
  • 強い兄弟愛(=優しさ)
  • 忍耐強く、諦めない強さ
  • 決断力、行動力が高く、うじうじしない

劣等生というところは、古のゲームオタクの記号と言えるであろう。「ゲームセンターあらし」も「ハイスコアガール」も主人公は勉強も運動もパッとしない子供がゲームの世界だけでは光り輝き、リアルワールドのヒエラルキーから解放される。

そして、ニンテンドーのゲームはピーキー過ぎず、コツを習得したら伸びるというチューニングである。考えながら繰り返しプレイする事で一つ一つ壁を乗り越えられる。最初から無双ではなく、少しづつステップアップしてゆく喜びを我々プレイヤーは知っている。ここに、忍耐強さや、諦めない強さを当てはめてくる。

ゲームと映画ではエンタメの特性は大きく異なる。しかし、ゲームのエッセンスを綺麗に物語に落とし込み直しているスタッフのセンスの高さには感服する。

さて、マリオの課題は家庭的にも社会的にも認められていないというところにあるので、ブルックリンの街を守り、ルイージと共に市民からも親からも感謝され認められるというのがゴールとなる。

面白いのは、ドンキーコングもジャングル王国の国王の息子として親に認められていないという課題があり、この事でマリオと共に意気投合するところ。だから、このゴールはドンキーコングとも共通している。

ルイージ

ゲーム内ではマリオとルイージは協力して敵を倒す、という流れなので兄弟の絆の強さを作品内に落とし込むのは至極真っ当なのだが、ルイージがヘタレというのが面白い。

マリオとは逆に、弟のルイージは弱気で行動力がない。幼少期には、ルイージがいじめられているところをマリオに助けられ、マリオにハッパをかけられていた。ルイージは兄のマリオの後を着いて生きてきた。

興味深いのは、家庭内では不良の兄のマリオが弟を連れまわすから弟のルイージも不良になったと父親が考えていたところ。これもルイージの主体性の弱さを表す設定だと思うが、兄を否定する選択肢がありながら兄を肯定し続けたところに、ルイージの兄を慕う強さが伺える。

ゲーム内でのマリオの行動原理はピーチ姫を助けるという設定だったが、その役割はルイージに変えられた。これは、女性が守られるべき存在から自ら戦う存在に変化したものだが、これもポリコネを意識したものであろう。逆に見ず知らずの女性を助けるよりも、身近で大切な弟を助ける方が、よりダイレクトで話が分かりやすい。

ルイージの課題はマリオに言われていた「やられたらやり返せ」的なところであるが、この課題に対してクッパに苦戦していたマリオを盾になって守った、というのがゴールとなる。

ピーチ姫

ピーチ姫はキノコ王国のプリンセスだが唯一の人間である。物心つく前にキノコ王国にワープしてきており、キノコたちに育てられた恩義もあり、キノコ王国のために尽力する。マリオが来た事で、クッパの侵攻を知り、マリオを戦士として育てつつ、ジャングル王国のコング軍に応援要請をしてクッパに対抗しようとする。

前述の通り、男勝りでカッコよく戦う女性なのはポリコネ対応なのだろう。

マリオとピーチ姫は同じ目的を持つ同士であり、恋心は有ったとしても非常に薄っすらとして感じである。ピーチ姫からすれば、マリオは自分以外ではじめて合う人間だから、期待と不安と共に親近感を持って接していたのだろう。マリオからすれば、ルイージを救うためのキーマンである。

ピーチ姫はトレーニングを通してマリオの忍耐強さ、しぶとさに敬意を表していたので、信頼関係はできていた。

カートでマリオとドンキーコングと離れ離れになった後、キノコたちを人質にクッパに囚われたが、結婚式のその瞬間も、ブルックリンに移動後も、最後まで諦めずにクッパと戦う。

世間の感想について ~評論家ウケ云々、ポリコネ云々~

YouTube動画やPodcastの感想を拝見すると、この手の話題が必ず触れられていて、少々うんざり気味である。

ポリコネ関係の話題は、ディズニー・ピクサーに限らず古くからハリウッド映画に見られる傾向なのだと思うし、ポリティカルコネクトレス(=政治的正しさ)を語る自体には問題はないと思う。それが否定されたら最悪の社会だ。

私がポリコネ関係の話で思うのは、政治的正しさを押し出そうとして説教臭くなってしまうパターンである。一例をあげると、性差平等を考慮したときに、不平等で虐げられる女性を描かないのではなく、社会的に強い女性ばかりが登場するという極端さである。つまり、女性蔑視の否定ではなく、女性上位であるべきと強く肯定しているように見えてしまう。

これは、SNS上でのフェミニズム関係の話題にも当てはまると思う。

別に否定もせず肯定もせず、曖昧なままにしておけばいいのに、その曖昧が出来ないのが頭でっかちというか、イエス・ノーのロジカルさの中でしか生きられない悲しさというか。

個人的に本作が説教臭さを脱臭するディレクションがあったようには感じるが、戦うピーチ姫など明らかに現代的なポリコネの影響だろうし、ポリコネ=批評家大好き=一般観客嫌い、というステレオタイプな話は、主語の違うレベルの的を得ない議論ではないかと思う。

おわりに

余談だが、最近、子供にも分かりやすい物語・テーマを極上の作画と演出で大人にも楽しめるようにした本作に似たテイストの「らくだい魔女 フウカと闇の魔女」という作品があった。この時も思ったのだが、無理に大人向けに世知辛いメッセージを込めるよりも、ストレートに原作の良さを真面目な脚本・演出で映像化してくれる事が本当にありがたいと思う。

ニンテンドー自体もニンテンドーピクチャーズという映像部門を立ち上げている。あくまでリスクの高いゲーム部門に対するリスク分散との事なので、ゲームが屋台骨なのは変わらないのであろう。イルミネーションに限らず、自社製の映像コンテンツも増えてくるのだろうが、ここまで映像としての完成度があげられるか?という不安もあるし、本作のような作品こそ日本で作って欲しいという期待もある。

らくだい魔女 フウカと闇の魔女

ネタバレ全開につき閲覧にご注意ください。

はじめに

一部に良作との声を聞き、鑑賞してきました、映画「らくだい魔女 フウカと闇の魔女」の感想・考察です。

ちなみに、原作小説は未読で、予備知識なしで鑑賞しました。

子供向けではありますが、映画としての出来はよく、丁度良いジェットコースター感で60分以上の満足感がありました。

感想・考察

テイスト

そのまんま児童文学な映像のテイスト

原作は2006年から続く児童文学のシリーズものという事で、原作同様に観客ターゲットも小学生にも分かりやすいディレクションになっている。物語は、これから先に繋がってゆくシリーズものの序盤として、友達と一緒に学び、遊びを続けてゆく、というところでの〆である。

この文脈の中で、大人にしか分からない渋味や世知辛さは存在しない。

同じく2018年にアニメ映画化された児童文学原作の「若おかみは小学生」という作品もあるが、こちらは子供時代に作品に慣れ親しんで大人になったファンに向けての作品というニュアンスもあり、両親の事故死を受け入れるという儀式があり、大人への成長のニュアンスを込めていた。それと比較すると、本作はもっとストレートにらく魔女という作品をアニメ化してくれたものであり、大人への変な気遣いは入っていない。でも、本作ではそのストレートさが良いと感じた。

「劇場版」という言葉がイメージする通りのエンタメ作品

テレビシリーズがあったわけではないが、本作は「劇場版」という言葉がイメージする通りの活劇である。

作画は破綻なく終始きれいで、キャラは常に可愛い

アバンで悪役を紹介しつつ、途中からスペクタクルシーンあり、魔法バトルシーンありと、アクションシーンにも十分と尺を取り、ハラハラとドキドキを楽しめる。

「子供にも楽しめる作り」と書いたが、アニメーションが子供騙しというわけではない。

本作の演出は特別にトリッキーな演出はしておらず、オーソドックスで真面目な演出である。ニュアンスが細かすぎるということも、テンポが早すぎて取りこぼしてしまうということもない。スペクタクルなシーンでは映画らしい迫力ある映像と音響で、魔法バトルシーンではキャラの芝居もかなりの盛り上がりをみせる。

こうした、奇をてらわない王道の真面目な演出を丁寧に、かなりの圧力で映像に落とし込んできているため、自然と感動できる作りになっている。まさに、王道の映画である。

テーマ

シンプルだけど鉄板な「友情」というテーマ

悪役となるメガイラは、強大な魔力を持ちつつも、人から恐れられ幽閉され、光の魔女から闇の魔女に変化したという経緯である。つまり、仲間に裏切られ、他人を信用できなくなり、仲間を持つものを妬んだ、というのがベースである。

主人公のフウカも銀の城の姫君という事で、コントロールしきれず暴走気味ではあるが、強い魔力を持っていた。そこに、未来のメガイラという可能性を予感させておく。とは言え、フウカはまだ遊び盛りの普通の子供である。

フウカの親友でおっとりして優しいカリン、好きだから突っかかってくる感じの男子のチトセ、少し大人びたお兄さんのキースと一緒にメガイラと対決へと流れてゆく。

メガイラがミラールームでフウカに見せた幻覚は、友達が内心フウカの事をウザがっているというモノで、その幻に惑わされない力が試された。

途中、幻覚に思考停止して身を委ねそうになるピンチを救うチトセの頼もしさも嬉しい。

最後のメガイラとの対決では、カリンもチトセもキースもフウカを守って倒れつつ、それを受けてのフウカの魔力解放でメガイラを再び封印できたという鉄板の流れである。

ここまでであれば、先代までの冒険譚同様に、メガイラの怨念が蓄積したという状況に変化はない。しかし、フウカはメガイラの魂をも救済する所が一歩進んで今風だなと思った。

子供であること、親であることの境界線

個人的には、終盤で魔法で作った遊園地空間が崩壊してゆく中で、親たちが子供を助けにくるシーンは良いなと思った。安堵する親子の図。フウカの母親も一言目は叱りつけるが、二言目には無事でよかったと抱擁する。

先に書いた通り、本作は児童文学の映像化であり、遊び盛りの子供に世界を守る責任を押し付けず、まずは十分に子供として、友達と共に遊んだり学んで欲しい、という結末である。

本作はあくまで子供目線の作品である。

ストックも十分にあるシリーズ物の小説の序盤の映像化だから普通に映像化したらそうなるのは至極真っ当で、「若おかみは小学生」のように映画だからと大人への成長を描くというような欲張りがなかった事こそが、本作の真面目な良さだと思う。

アニメーションとして

上映時間60分について思うこと

一般的な映画に比べれば上映時間が60分とコンパクトである。もちろん、これは子供の集中できる時間からという観点もあるだろう。

しかしながら、長くもなく短くもなく、丁度良いジェットコースター感を楽しめたと感じた。体感的には90分の映画を見たような満足感である。

これは、カット数が多いとか、1カット内の情報量が多いとかの映像密度の高さではない。この辺りは、見やすさを重視しているためか、ごくオーソドックスな作りになっている。

私が感じたのは、60分の映像の中に、これだけの情報量を混乱することなく交通整理させて観客に届けるには、かなり綿密な設計が必要ではないか、という事である。

序盤のフウカは落ちこぼれを強調しつつも、徐々にシリアスになってゆき、不安があることや、葛藤してゆく様をグラデーションを持って描いてゆく。そこに、親友のカリンや、普段はケンカ気味のナイト役のチトセとの関係性を順番に乗せてゆく。

前述の通り、カットを短くしてカット数を増やしたり、1カット内に情報を多く入れるディレクションではないため、キャラの芝居の配分や台詞も精密さが必要になってくると思う。

個人的に好きなシーンは、遊園地に向かい始める時、チトセがハンカチを出し、カリンがフウカの涙を拭ってあげるシーンである。1つのイベントの中で、3人の関係性を的確かつ魅力的に描く。

もう1つ、メリーゴーランドでのチェイスシーン。友達が追ってくるワケだから攻撃は出来ないというジレンマなわけだが、チトセに対しては容赦無く蹴りを入れて落馬させる。その後、チトセに助けられて箒でタンデムしながらメガイラの追跡を交わすシーンで、フウカは攻撃魔法を発動して追手を撃退したものの、箒に着火してしまい、墜落してしまう。限られた尺の中で、このフウカとチトセのバディ感を初見の観客に一瞬で分からせるのは、シーンに無駄がなく綿密に計算され尽くした結果なのではないかと思う。

Production I.Gが作る、昔ながらの東映漫画映画

Production I.Gと言えば、3DCGスタジオも持ち、「攻殻機動隊」に代表されるような先進的でハイクオリティな大人向けのアニメを作る会社のイメージが強かったが、ここにきて東映アニメーションのような子供向けのテイストの作品を作ってきた事が新しい。

昨今の子供向け作品と言えば、東映アニメーションプリキュアのような作品があるが、TVシリーズではここまでリッチな作画で作る事はないだろうし、そもそもキャラが背負っている社会性やメッセージ性が変に強すぎる。それに比べたら、本作は古き良き牧歌的な雰囲気の作品と言ってもいいだろう。

それでいて、劇場版作品ということもあり、作画の安定感は半端ない。それこそ、大昔の東映動画の漫画映画のような、職人気質の2Dアニメという雰囲気である。ニッチな作品とも言える。

それを、Production I.Gが作るというのは皮肉な感じもした。

惜しむらくば、せっかくのこのIPを60分の単発で終わらせるのは勿体ない。かといって、良作であっても弱小映画はかなり苦戦を強いられる現状で、映画でシリーズものを構成しても採算が取れない。TVシリーズなどでは、せっかくのこのクオリティを維持するのは困難となり、本作の意義が薄れてしまう気もする。などと、取り止めのないことを考えていた。

おわりに

分かりやすくて、演出強めなディレクションにより、素直に楽しめましたし、感動しました。

古き良き職人気質の2Dアニメという感じの作画の冒険活劇です。

深く突き刺さる感じではなく、広範囲の人が楽しめる娯楽作品ではないかと思いました。

2023年冬期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2023年冬期のアニメ感想総括です。今期視聴本数は少な目の4本。

  • お兄ちゃんはおしまい!
  • もういっぽん!
  • D4DJ All Mix
  • Buddy Daddies

感想・考察

お兄ちゃんはおしまい!

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • ライト感覚なTSコメディ+スタジオバインドの本気の重さ=狂気
    • 兄妹愛を軸にした安定感あるシリーズ構成
  • cons
    • 特になし

あの『無職転生』のために作られたスタジオバインドが贈る、ライト感覚なハイクオリティTS萌えアニメ

引きこもりオタクの成人男性まひろが目覚めたら美少女の体になっていた、というところから始まるTSコメディ。テーマとして、まひろの人間性、まひろとみはりの兄妹の関係性を取り戻すという軸があるので、軽すぎず重すぎずという絶妙な感覚で楽しめる。その意味で、シリーズ構成はシンプルながら良く練られている。

とにかく絵柄がポップで可愛い。線は細くて、どちらかというとシンプルなデザインなのに、作画であがってくる絵は緻密で情報量が多い。色彩は極端にハイキーなパステル調だったり、背景に幾何学模様が敷き詰められていたり、見ていて落ち着かない雰囲気がある。この極端なセンスも、主人公のまひろが美少女化しているファンシーな世界観を醸し出す演出ではないかと思う。

まずもって、オタクが二次元美少女を好むというのは、古からの習性というか性である。そのオタクが美少女になり、周囲の美少女たちと戯れたいという、オタクの願望そのものが本作の土台にある。ここで良くある男女入れ替えモノである自分の身体への性的関心を「頭がパーになる」の呪文でピシャリと封印している点が清々しい。

本作のテーマは大きく二つある。一つは、心を閉ざしてしまったまひろの社会性を取り戻すこと。平たく言えば、ニート生活からの脱却である。もう一つは、すれ違い疎遠になってしまった兄妹の関係性の修復。

物語序盤、まひろは成人男性から女子中学生になった事で能天気に喜ぶのではなく、自身のアイデンティティの喪失に強いストレスを感じる。まひろは自己肯定感が低いからこそ、社会を拒絶しニートになった。ダメ人間の人格であっても、さらにそのアイデンティティを否定されるのはかなりの苦痛であろう。

女体化は妹のみはりの「お兄ちゃん改造計画」の施策である。映画「フルメタルジャケット」の鬼教官ハートマン軍曹のスパルタ教育は、まず徹底的に新兵を罵倒し人格否定して、新兵を従順な殺戮マシーンに育て上げてゆく。人格改造にはそれなりのストレスが必要なのだろう。

ブラジャーを付ける。長髪の洗髪。初潮。おもらし。まひろは、男がすることのない体験をして、その度に女体化を受け入れを迫られる。また、妹のおもちゃにされ、妹に面倒を見られるというのも、年上の兄というアイデンティティの喪失である。この辺りの、まひろの心を折にくる演出が生々しい。

しかし、今まで誰とも交流しなかった自閉症のまひろが、この荒療治により妹のみはりとの交流を再会し、さらに新たな人間関係を与えられてゆくことになる。女子高生ギャルのかえで、ボーイッシュな女子中学生のもみじ、友達のあさひとみお。そして、中学校の級友と先生と広がって行く。

最初はストレスフルな描写が多かったまひろも、徐々に女性の身体に慣れてきて、色んな可愛らしい髪型や服装をするようになってくる。しかし、まひろの心は常に成人男性のままであり、そこにブレは無い。見た目は美少女、心は成人男性というギャップが通底している。なので、時に女子の面倒くささを俯瞰で見ながら愚痴ったり、思いがけず男子的な行動をしてしまうというコメディとなる。こうして、まひろの社会性のリハビリが笑いとともに描かれてゆく。

もう一つの兄妹の関係性の修復だが、これを軸に持ってきている事が実に上手い。妹好きだが優秀であるがゆえに無能な自分を自己否定し距離を取ってしまった兄。兄好きで褒めてもらいたいがゆえに勉強に運動に励んだ妹。この皮肉な負のスパイラルを破壊するという明確な軸が本作のドラマの安定感の基礎となっている。これがご褒美になっているから、まひろがストレスフルな女体化があっても前進することができる。病気の妹のために家事をしておかゆを作って食べさせる。バレンタインにチョコを持たせてくれた妹に、自分で買ったチョコをプレゼントする。そうしたベタな兄妹愛のドラマは本作の心地よさになっている。

最終話は温泉旅行回。TS薬が切れてまひろが、思いがけず楽しんでいた今の状況と対人関係を壊したくない気持ちが勝り、男に戻るのを先送りして、今は女体化を選ぶ。この葛藤のシーンを美麗な映像とドラマチックな演出で描く。

そして、温泉旅行の帰路の電車。まひろとみはりの2人だけ起きているという状況で普段通りの兄妹の会話をし、最後に居眠りしながらもがっつり手を握ってカットを入れ、確かな兄妹愛を描く。しかも、夕明かりという儚さも相まって、眠っているという演出で、この瞬間が永遠であって欲しいという願望にさえ思えてくる尊さである。

本来であれば、女体化は偽りの捻じれた状況であり、不本意ではあるから心と身体のアンマッチは物語の結末とは言えない。しかし、連載中の原作漫画のストックもある状況では現状維持とならざるおえないだろう。しかしながら、ラストにカタルシスを持ってくるためには、まひろのドラマが必要であり、見事な落としどころだったと思う。

原作漫画で2年生になってから登場するなゆたとちとせもチラ見せし、2期への布石もキッチリ描いての閉幕である。

本作は、作画&動画リッチだったのは間違いないが、演出も独特で冴えていた。魚眼レンズでのレイアウトは、本来ドラマチックな表現に向かない。背景物を目一杯取り込んで絵を作る必要があるので情報過多のごちゃごちゃした絵になりやすい。これは、まひろ部屋のごちゃごちゃ感の演出に貢献していたし、色調をパステル調のハイキーにしている事でノイズになりにくくしている効果もあった。また、魚眼レンズで物体が曲がるのと同様に人物も曲がるため作画難易度は上がるし、大人数が別々の動きをするため、作画カロリーは増加する。この情報量過多な絵作りが本作の癖になるテイストとなっている。

ちなみにまひろのクラスメイトの30人は全てキャラデザインされ名前がついていたと思われる。多くは原作漫画に登場する女子キャラだが、一部の男子キャラはアニメオリジナルで新たに起こすという拘りようである。モブキャラ好きの私を久々に燃えさせた。この教室のシーンも小さなキャラをたくさん描き、情報過多で緻密であった。

最終話の2本の滝の前でTS薬を飲み干すまひろのシーン。この滝のシーンは月も垣間見える夜の雪景色なのだが、女子が居るシーンは旅館の明りが照らされていてまひろは暗がりにいた。二本の滝は男ルートと女ルートの暗喩だが、光源に近い画面右の滝と薬を飲み干すまひろを重ねるレイアウトとなっている。そして、最終的に光のある女子の群れに向かって合流する。こうした、演出の拘りも的確かつ分かりやすい。

劇伴は印象に残っていないと言ったら語弊があるが、主張し過ぎず心地よさだけを残したという意味でかなり出来が良かった。その中でも、夜のクリスマスツリーのダブルデートの2分30秒の無言シーンは、そのためだけの長尺の劇伴をキッチリ当てる。正月シーンの劇伴も和風で雅な音だったが、その回だけのもの。そうした、思い切ったディレクションのリッチな劇伴だったと思う。

色々書いたが、本作は本来ライトなTSコメディを、ドラマの軸、ハイカロリーな作画と演出で重厚感さえ漂わせるテイストを織り交ぜた、ハイクオリティなアニメだったと思う。本来気軽に観る日常系アニメの枠を超えて、常にピーキーさを持った、コアなアニメだったと思う。

ちなみに、中学校の座席表を途中まで作っていたのだが、クラスメイト30人分のキャラデザインと名前は確かにありそうである。一昔前の京アニ作品ではよくあった事だが、最近ここまで設定を作り込んできている作品は少ないように思う。

もういっぽん!

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • ド根性ゼロ、色気ゼロで描く、柔道に打ち込む女子高生たちの爽やかな青春群像劇
    • サクサク進む、ダイジェスト感ある独特のドラマ作り
  • cons
    • 物語性の薄さ

高校柔道部の部活動を通して描く、女子高生たちの青春群像劇。少年漫画誌連載が原作で、題材が柔道という事もあり、登場する女子はすべからず寸胴体形で垢ぬけてなくて色気がない。そういう意味での媚びはないところが潔い。柔道というスポーツを通して他校の選手にまで広がって行く選手たちの交流を描く、健全で爽やかなスポーツモノである。

制作のBAKKEN RECORDはあまり知らなかったのだが、2019年にタツノコプロ内で設立されたブランドとの事。監督の萩原健はこれが初監督となる。シリーズ構成全話脚本の皐月彩は子供向け作品の脚本が多い印象だが、2023年は本作を皮切りにシリーズ構成の仕事が出始めてきた若手脚本家である。

物語は、誰も居なくて廃部になりそうな青羽西高校の柔道部に3人の1年生が集まるところから始まる。天真爛漫な主人公の未知、感情表現が苦手な柔道の猛者の永遠、忍耐強さの早苗。そこに、途中から柔道部に復帰した姫野先輩、剣道部から転籍してきた未知の幼馴染の安奈が加わる。青西は柔道部の強豪ではない。未知も柔道の達人というわけではなく、どちらかと言えばよく負ける。ただし、未知にはネガティブな思考が全くなく、いつもポジティブに試合を楽しむという特徴がある。そして、その笑顔に引き寄せられるように人が集まってくる。それは勝敗を決した対戦相手や相手チームのメンバーにも等しく当てはまる。

一般的なスポ根モノの場合、敗者には無念や遺恨が残り、ネガティブな感情を持ちがちである。しかし、主人公の未知自身が敗者となり、ポジティブな感情で対戦相手と接しながら、前向きに自分の柔道に取り込んでゆこうとする。試合に負けても敗者とはならず、交友の輪を広げてゆくところが新しい。

本作を観ていて感じたのは、物語というかイベントがサクサク進む感覚である。最近、言われるようになったエンタメのダイジェスト感と置き換えてもいいかもしれない。今までの個人的な感覚だと、物語は最初に問題を提起してゴールを予想させ、途中主人公が成長しながら問題を克服してゆく、という流れがあって当然だと思っていた。しかし、本作にはその物語の流れはない。例えば、姫野先輩のドラマは、試合中の回想シーンで霞ヶ丘高校の亜美との果たせていない約束を重ね、ドラマチックな感情を重ねて感動を誘う。出戻りの姫野先輩の気持ちを、それまで劇中では敢えて封印しておいて、スポットが当たった当番回でドラマを爆発させる。そして、次の当番キャラでも同様に短時間でドラマを燃焼させる。敢えて、伏線や潮流を作ることなく、どこから観てもドラマのパンチ力を味わえる作りである。それは、ある意味、漫画原作だから、という事もあるのかもしれない。

だからと言って、感動が薄い訳ではない。その都度、キッチリ泣かされる。それは、柔道というスピーディーな動きを伴う映像との重ね合わせの効果的な演出の力もあっただろう。この未来予知ができないジェットコースター感。このスタイルに不慣れな私は翻弄されながら観ていた、というのが正直な感想である。

当初は、柔道が弱いけど太陽のように明るい未知、柔道の猛者でありながらネガティブな感情が多くを占める永遠という2人の対比から始まっていたので、未知が永遠を救済する物語なのかと予想していた。しかし、13話まで見終えて、人たらしの未知の周りに人が集まってくる話である事、青西柔道部の全員の気持ちが柔道を通してリレー形式で永遠にまで伝わっていった話である事の2つがポイントに感じた。

1クールのクライマックスとなった金鷲旗では、姫野先輩は亜美との、永遠は天音との対戦は果たせなかったし、そうそう全てが叶わない。この辺りの乾いた視聴後感も本作の味であろう。勝負に拘っていないわけではないが、勝負だけが全てではない。頂点に立つ事が最終目標ではない、という等身大な感じが本作の美点である。

肝心の柔道の試合のシーンの演出は、割と手や脚のアップをカットインさせたりしつつ、スピード感を損なう事なく試合の優劣が分かりやすく伝わってくるもの。見やすかったと思う反面、度肝を抜かれる大迫力ということもなく、厳しめに言えば及第点という感じ。とは言え、弱小チームが強豪校に打ち勝つサクセスストーリーでもなく、ある意味、試合は淡々に、というのは本作に合っている。

本作が、キャラに萌え的な媚びが無い話はしたが、試合後の着替えのシーンなどもあるが色気も恥じらいも全くないところが本作の醍醐味である。また、キャスト陣の演技も艶っぽさはなく、乾いていて心地よい。未知役の伊藤彩紗さんは言わずもがな、寝技が得意な早苗役の安齋由香里さんも締め付けられるシーンでのうめき声の芝居も渋かった。

総じて、今までのスポ根にありがちな暑苦しさがなく、遺恨が残るようなこともなく、スポーツの楽しさをポジティブに楽しめた。萌え要素や色恋沙汰が全くないところも、この乾いた作風にマッチしていたと思う。女子高生を扱っていながら、生粋の少年漫画のような作風だったと思う。

D4DJ All Mix

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 各ユニット、各メンバーの個性(=色)を尊重したドラマ作り
  • cons
    • 1期の緻密で完成度の高かった女子の繊細なドラマが、平凡になってしまったように感じたこと

ブシロード得意のゲーム、アニメ、中の人によるリアルライブの複合展開コンテンツのDJユニット版。2020年秋に放送された1期「First Mix」から2年を経ての2期「All Mix」である。バンドリ同様に、DJ機材もキャラも株式会社サンジゲンによる3DCGであることがルックの特徴になっている。

1期はブシロードの過大な宣伝戦略もあり、鳴り物入りで登場という雰囲気もあったのだが、コロナ禍真っ只中でリアルイベントにも足枷があり、バンドリほどの盛り上がりは見せていなかったのかな、というのが個人的な感触である。しかしながら、アニメ1期はシリーズ構成の雑破業の丁寧な仕事により、地味に良くできた女子のドラマが冴えており、個人的にはかなり好印象な作品であった。

2期では1期で未登場であった3ユニットも登場し全6ユニットが出揃った。しかも、今回主役を務めるのはHappy Around!(ハピアラ)ではなく、お嬢様学校在籍のユニットLyrical Lily(リリリリ)という変化球である。1クールの縦軸は、地域商店街の活性化のために、招き猫作戦と称して月イチ交代でDJライブを開催してゆくというもの。6ユニット×4人=24人とキャラも多いが、各ユニットを主役にした回があり、その中で新キャラの紹介も兼ねつつ当番を回してゆく。

テーマとしてはマンネリ回避で、各ユニットごとに新しい事に挑戦してゆく姿が描かれてゆく。燐舞曲(ロンド)であれば、クラブハウス「ALTER-EGO」のステージを一般開放して客層を広げようだとか、Merm4id(マーメイド)であれば、苦手な英語に苦戦しつつも米国人のローラと協創するとか。それだけでなく、2ユニット共同でコラボステージを開催したり。6ユニットの個性がリレー形式で繋がるとともに、お互いに良い影響を与えあう関係が描かれてゆく。

ちょっと面白いのは、コラボの空気感の違い。Lyrical LilyとPhoton Maiden(フォトン)のコラボは、咲姫の宇宙感とLyrical Lilyの讃美歌の透明で澄んだイメージの重なりであり、共鳴という感じ。Happy Around!とPeakey P-key(ピキピキ)は、ビートとメロディを提出し認められなければいけないというHappy Around!のプレッシャーや、格上のPeakey P-keyがそれを引っ張り上げる役割も担っており、切磋琢磨という感じ。こうしたユニットの個性を潰すことなく活かしたコラボが巧みに描かれる。

最後は、6ユニット合同の大晦日カウントダウンライブをALTER-EGOで開催して盛り上がり、そのままLyrical Lilyの深夜の初詣、初日の出で〆る。

ゲームコンテンツである「Groovy Mix」もはや2年が経過し、ある程度の定着をした状態での2期である。残り3ユニットの紹介もしつつキャラを気に入ってもらう、というのがアニメ2期の目的とするなら、シリーズ構成も無難にまとめてきたな、という印象を持った。

ここまで書いてきて強く感じるのだが、1期と2期では扱うテーマに関して大きな路線変更があったように思う。

1期はランキングという「競争」が大前提にあり、新米ユニットのHappy Around!が高みを目指して努力し、時に格上のPeaky P-Keyに挑戦したり、お互にいい意味で刺激を受け合って切磋琢磨する物語であった。しかし、2期では「競争」を排除し、お互いが前進するために協力し合い、ユニットの垣根を超えてコラボしたりの「協創」がテーマにあったと思う。これにより、1期のヒリついた感覚は薄れて仲良しグループ的なテイストが強まった。このディレクションは、主役ユニットがお嬢様学校のLirycal Lilyである事とも無関係ではないだろう。

この辺りのエンタメ内の「競争」の是非については、他の作品でも様々なディレクションがみられるところである。例えば、虹ヶ咲ではスクールアイドル甲子園とも言えるラブライブの出場を否定し、周辺学校も含めたフェスティバル(お祭り)に置き換えて「競争」を完全否定している。本作の2期も、どちらかというと、このディレクションに近い。

ただ、個人的には「競争」を全否定するのも何か違うと考えていて、その意味で、1期の競争で切磋琢磨しつつ互いに認め合い輪を広げてゆくディレクションは好印象を持っていた。

また、1期はシリーズ構成の雑破業による女子のドラマ作りの完成度が高い脚本だったと思う。2期でもシリーズ構成は雑破業が継続しているが、脚本には佐藤亜美、豊田百香高橋龍也が参加し、バラエティーに富んだテイストとなった。また、1期では事細かに描かれていたDJの専門性は薄れ、音楽寄りから一般向けのドラマに話がシフトしたようにも感じた。何よりも、主役となるLirycal Lilyの4人の掘り下げが薄く感じてしまった事が惜しい。

悪くはないのだが、個人的には色んな意味で、2期よりも1期の方が好みだったな、というのが率直な感想である。

Buddy Daddies

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 殺し屋アクションや幼女コメディをライト感覚で楽しめる作風
    • 文芸、作画、背景などなど、全体的にソツなく綺麗にまとめられている
  • cons
    • ライト感覚でソツがないため、逆にパンチ力不足に感じてしまうところ

原作が下倉バイオ、制作はP.A.WORKS、監督は浅井義之。シリーズ構成は下倉バイオと柿原優子の2名体制である。

殺し屋稼業の二人の若手コンビが、ある日突然幼女と一緒に暮らし始めて翻弄されるというコメディが8割。愛する人を守るために自分自身を変えてまで貫く事ができるかというシリアスが2割。という感じのライト感覚な作風が持ち味である。あんまり深く悩まず、子供が可愛い、イケメンがカッコいいを堪能できる。

仕事の現場に巻き込んでしまった元気一杯な幼女を一騎が拾ってしまい成り行きで育ててゆく事になるのがだ、殺人マシーンとして育てられおおよそ愛とは無縁な零の心まで溶かしてゆくところがミソである。

折り返し地点の7話8話で、一騎は妊娠中の奥さんを死なせてしまった自分を責め続けているとか、零は諏訪家(暗殺組織)を継ぐというレールの不自由さに葛藤したり、という2人のバックボーンが挿入される。

零がミリを愛し続けるために、宿命のレールから外れることが出来るか?というのが最終話のクライマックスである。

殺し屋というハードボイルドと、子育てコメディの矛盾するテイストを掛け合わせる事が本作の最大の狙いだろう。仕事の邪魔になる幼女なら、冷酷に殺してしまうのが殺し屋の当たり前のところ、それを言ったらおしまいである。しかし、本作は仕事よりもミリを選択してゆくウソをウソとは思えないように物語を紡ぐ。リアリティよりも物語を信じられる感覚があった。

全般的に深く考えずに見られるライトなディレクションである。殺し屋稼業という事で、銃撃戦で下っ端がどんどん殺されたりするが、そこはスタイリッシュに軽快に描くのでそこで胸糞悪くなることはない。

バディ物という事で、イケメン男子の2人の掛け合いが成立していないとダメだし、アンコントローラブルな幼女の可愛さが描けていないとダメだし、深く考えさせないように軽快なテンポで進行しないとダメだし、と色々とクリアしないとイケない課題は多いが、その辺りは全て及第点と言ったところだろう。逆に、突出したところが無いので、狙い通りサラッと通り過ぎてしまうというデメリットもある。

シリーズ構成はバランスよく配置されたものであり、違和感はない。作画も破綻なく綺麗。背景も何と言うか写真的ではなくポスター的で、定規で引いたような直線を多用したスタイリッシュなもの。全てが調和されているが上品過ぎてクセが無さすぎる、可もなく不可もなくというのが率直な感想であった。

ちなみに、実写ドラマ的な題材だという意見をSNSなどで拝見する。しかし、これを実写ドラマでやったら、ミリの演技がくどすぎたり、銃撃シーンの軽快感が出せずじまいになりそうな気がする。何より、実写の持つリアリティ感が薄く、アニメが絵によりファンタジー感があって成立するバランスというところはあったのかもしれない。

おわりに

今期はあまりアニメをガッツいて見ておらず、ピーキー気味なおにまいを堪能していました。

それから、もういっぽん!の文芸が物語性が弱いのに、短くドラマで泣かせてくる作風で、個人的に先が読めずに新しい視聴感覚を味わえました。今までの常識に捕らわれない新しいテイストだと思いました。

2023年春期は話題作豊富なので、もう少しガッツいて見ていこうかと思います。

映画大好きポンポさん

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

劇場で観そびれていた「映画大好きポンポさん」がNetflixの配信に来たので鑑賞しました。

公開当時、ネタバレ感想動画なんかをちょくちょく観てしまっていたので、新鮮な感動や考察はないのですが、それでも、本作を観たときの気持ちの整理を兼ねて、いつもの感想・考察を書きました。

物語はシンプルですが、かなり技巧的でトリッキーな作りの、唯一無二な楽しい作品だったと思います。

  • ポンポさん恋愛映画説について(2023.2.25追記)

感想・考察

実写映画制作を描くアニメ映画、という構造

本作が描くのは、実写映画制作現場の人々をアニメで描くところが面白い。実際のハリウッドの現場はきっと世知辛いことばかりなのだろうが、本作の絵柄が持つポップさによりまるでプリキュアを観ているよなキッズ感溢れる世界観になっている事が特徴である。

私はこのリアルと逆行した世界観である理由は、より作品が持つテーマにリーチするのに都合がよいから、だと考えている。出てくる映画スタッフやアクターは良い人ばかり、みな良い作品を作るために惜しみなく協力してくれる。ジーン監督に横やりを入れる悪役は一人も居ない。ぽっと出の新人監督や新人女優を否定する者は誰も居ない。つまり、そこにリアリティおいても、そこがテーマではないし逆にノイズになる、という考えだろう。それゆえに、本作の世界をアニメ調(=非リアリティ)に描くのは理にかなっている。

散りばめられた映画作りのネタの宝石箱

本作で嬉々として語られる要素の一つに、映画作りのテクニックの部分があるだろう。

ジーン監督の「MEISTER」編集シーンで、演奏シーンの途中で控室のカットに繋ぎ、俳優の引きのショットで観客の関心を引き付け、最後にアップで俳優の感情の凄みを見せる…。みたいな事を解説しながら編集していた。映像自体がそうしたロジックの集積であり、映像ファンはそうした演出の意図も汲み取って映像を吸収してゆく。

本作のナタリーの登場シーンは、雨上がりの横断歩道を意気揚々と駆けてゆくヒロイン然としたカットであり、その輝きをジーンが目に焼き付けていた。このインパクトで登場するから、一発で彼女が魅力的なヒロインである事を観客は認識できる。その後、オーディション落選で意気消沈しすれ違うカットがあり、しばらく登場しない。再び、ポンポさんに呼び出されたショートカットのナタリーが現れ、今読んだシナリオのヒロインそのものという言葉とともに登場する。

面白いのは、その後時間を巻き戻し、田舎から女優を夢見て来たものの、工事現場の交通誘導などのバイトで生活に追われ、オーディションでは落ちまくり、行き詰まりを見せていたという下積みの背景を描く。そして、ポンポさんに大抜擢され、売れっ子女優のミスティアと共同生活させ、女優という仕事と体質に導いてゆく。ジーン主観の裏で動いていたナタリーのバックボーンを観客を飽きさせる事なく短時間で吸収させていた。

少し脱線するが、1977年の映画「スターウォーズ」には、冒頭にR2-D2C-3POが砂漠の中を淡々と歩くシーンがある。寂しさは十分に感じるものの、今時の映画ではあり得ない尺の無駄遣いをしていた。隔世の感がある。それくらい、時代は映像のテンポを要求し、情報を詰め込み、刺激的な快楽を摂取するモノとなってきた。

他にも、舞台(地方)が移動する際は、飛行機が画面の中央を横切りファスナーが開くように場面転換する。撮影中に良いカットが撮れたときに、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のようにモニタから稲妻が走り髪の毛が風圧でなびく。タイムラプスで時間経過を表現する。こうした編集の繋ぎやエフェクトも、もともとは実写世界で活用してきた技である。

本作は、こうした映画の仕掛けを愛しむための映画とも言える。とにもかくにも、洒落ている。

物語はシンプルなサクセスストーリー

本作を物語的に見ると、面白味は少ない。後述するテーマの部分に重きが置かれていると思う。

基本的に、無名だったジーンが初監督作品の「MEISTER」でニャカデミー監督賞、作品賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞、監督賞、作品賞を総なめし大成功を収める。

映画のスポンサーを申し出てくれたニャカデミー銀行にも融資に対しても十分すぎるリターンを返した。

この物語の中で葛藤のあるドラマを持つ人間は、ジーン監督と銀行員のアランの2人だけである。

ジーン監督は映像編集の中での自分にとって必要なシーンの追加撮影、取れ高の中から良いカットを捨てる痛みとの戦い。

アランは、夢を持てない者でも、夢を応援して戦える、という希望。

アランの融資のおかげで「MEISTER」は資金調達でき、挫せずに制作を続けられたという物語の繋ぎにもなっているし、非クリエイター側の希望を描いていたのだろう。

ただ、本作は葛藤をじっくり描くというよりは、テンポ感を大切にしているところもあり、それほどストレスフルな感じもなく、物語的な深みやコクはあまり感じない。アニメ調の楽しさ優先の作風ゆえ、というところもあるのだと思う。

「幸福は創造の敵」というパワーワード

「幸福は創造の敵」というパワーワードが本作のテーマの一つであろう。

クリエイターは、痛みを伴いながら、自分自身のを削って創作をしているのだと。

劇中映画の「MEISTER」の主人公のダルベールは、家族との幸せを失って音楽家としての名声を手に入れた。音楽に魅入られ、取り憑かれた、という事だろう。人としての幸せを失わなければ、芸術のその高みに到達できなかった。ダルベールの奥さんにとって、ダルベールのアリアは自分たち家族を捨ててまでダルベールが選んだ憎き相手であり、呪いの象徴である。物語の起点の部分に離婚のエピソードを入れたのはジーン監督の作品への自己投入であり、これにより「MEISTER」はジーン監督の分身となった。

ダルベールがコルトマンに土下座して復帰を依頼するシーンが、ジーン監督がポンポさんに土下座して追加撮影を依頼するシーンと重なる。このシーンで私は身震いがした。

もともとの「MEISTER」は、高齢の音楽家が周囲と上手く調和できず孤立して、田舎で少女との生活に癒され、音楽の情熱を取り戻して復帰する物語である。この文脈の中でダルベールの離婚(=幸福との決別=呪い)を挿入する意義は正直分らない。なぜなら、ダルベールは老害化した自分から人間性を取り戻す話であり、どちらかと言えば離婚で幸福を手放した事を否定する文脈に感じる。しかし、本作のテーマとしては、創作者は不幸やむなし、なので矛盾に感じてしまう。この辺りを冷静に考えて詰めてゆくと、狐につままれたような気になる。

それはともかく、同様のテーマを掲げた作品で「ブルーピリオド」というのもある。東京藝術大学を目指す入試生を描く漫画であるが、私はアニメを拝見した。藝大受験生の八虎は、予備校で絵が上手すぎる同級生を横目に技術面でもメンタル面でも猛特訓をしてゆくが、遥か上の実力の持ち主さえも何らかのコンプレックスを抱きながら自分自身を削りに削って絵を描いていた。入試なので周囲は全員ライバルであり競争である。そして、入学以降の方がより自分自身との対話を深めて、自分自身を削って創作してゆくのであろう。この作品でも、クリエイター=不幸が描かれていた。

しかし、今の時代、大切と思えるものを切り捨てて、何かを成そうという志の人は少数かもしれない。だったら、何かを成さなくてもいいから、大切なものを大切にしたい。むしろ、家族くらいは大切にしたいと思うのは当然の空気(=倫理観)だろう。だから、こういう人には本作は刺さらない。その意味で、ターゲットが絞られる。とは言え、本作は普通の人の日常でも、選択の連続で、人は何らかを切り捨てて痛みを伴いながら生きている。そういう人たちを肯定する、というのが本作のメッセージである。

そう考えた時に、本作により共感できるのは、今現在、何らかの都合上、何かを犠牲にしてしまった人たちへのエールと言えるのではないだろうか。

ジーン監督が痛みを伴って完成させた「MEISTER」はニャカデミー賞を総なめし、アリアを再演したダルベールは裏切った家族が演奏を聴いてくれて懐かしみを覚えた。創作物が大ヒットしたり、誰かの心に刺さり暖かく心を揺らした。そうした事が最大のご褒美という事なのだろう。

ポンポさん恋愛映画説について(2023.2.25)

これは、私の説でも何でもなくて、岡田斗司夫の切り抜き動画で見た論である。個人的には、この論に傾倒しているわけではないが、納得はできるものなので、備忘録として残す。なお、超意訳的な部分もあるので、正確な内容はリンク先を参照。

本作が最後まで飽きさせずに見れるのは、本作が恋愛映画のテンプレートに沿っていて、ジーン監督、ナタリー、ポンポさんの三角関係になっているとの事。

  • ナタリー→ ジーン:片想いしている。
  • ジーン→ポンポさん:片想いしている。
  • ポンポさん→ジーン、ナタリーに映画制作を与える女神。(=恋愛は持っていない)

ジーンをお見舞いに来るという事であれば、映画スタッフの誰もが心配して見舞いに来るが、ナタリーは心配のあまり編集室まで押しかけてジーンをサポートする。これは、女が男に惚れたと解釈していい。

しかし、ジーンは編集の修羅になっているので「恋愛も切る」。その代わりに、魂を映画(≒ポンポさん)に捧げているという解釈。ここを、直球で恋愛と言うか否かは、人によって解釈が異なるだろう。

しかし、ポンポさんはある意味人間ではない「映画の女神」というところもあり、特定の人間と男女交際するようタマじゃない。映画の女神として、映画に関わる人たちに、映画制作を与えてほどこす、という尊い立場にある。だから、ジーン監督を恋愛感情で好きになる事はない。もっと言えば、ジーン監督が編集作業に着手したとき、ニャカデミー賞授賞式、このときポンポさんはコルベット監督の新作映画のロケに出かけている。映画の女神はジーン監督だけをえこひいきする事はない。

という論である。

ここからは、私の解釈の補足。

終盤、ポンポさんはジーン監督の体調悪化に伴い、「MEISTER」の編集を他者に委ねようとするが、ジーン監督が命と引き換えに編集作業を終えた。つまり、ポンポさんにとってジーン監督は映画作りの仲間のうちの一人でしかなかった。

ジーンは最前列中央で、ポンポさんは中央右寄りの席で、たった二人で同じ映画を観ていた。その意味で二人は映画好きの共犯者であり、特別な赤い糸が有ったという解釈はできる。そして、ポンポさんは途中で席を立ってしまうという意味で、それらの映画に満足は出来ていなかった。

しかし、「MEISTER」終盤のダルベール指揮するオーケストラの演奏シーンで、少年と母親?とピアノのシーンを思い出し、ポンポさん自身があの頃の映画好きだった過去を思い出し、ポンポさん自身も救う、というシーンがくる。このシーンをダルベールの切り捨てた家族が演奏を聞いて懐かしさを感じるシーンと重なるという演出が憎い。つまり、ポンポさんもまた、仕事で両親にかまってもらえなかったという意味で、ダルベールの元妻や娘と同じ境遇にあり、ポンポさん自身の記憶に刺さった、という事だろう。

なにはともあれ、ジーン監督がポンポさんに映画で与えた感情、ポンポさんから引き出した感情というものがあり、その成果に対して、「監督になったじゃない。君の映画、大好きだぞ」と言葉を贈る。これは映画好きの共犯者としては最大級に嬉しい言葉であろう。

この映画好きの共犯者としての相互に与え合い、認め合う関係は、恋愛で言えば相思相愛である。しかしながら、ポンポさんは女神ゆえ、コルベット監督や他の監督の作品にも愛を注いでいるのだろう。その意味で、ポンポさんはジーン監督と一対一の唯一の関係ではないのだろう。その意味で、やはりジーン監督の片想いなのである。

ポンポさんとジーン監督の関係を恋愛感情というのはちょっと…、という感覚も分らないでもない。むしろ、個人的にも愛情というより仲間という意識が一般的だろうとは思う。しかし、その匂わせを含めての、感想・考察であっていいと、まぁ個人的には思う。

おわりに

評判通りの面白さでしたが、やはり文芸面で芸術=狂気となるべき部分が、ロジックで押しすぎていて、でもロジックだと家族大切にしましょうよ、になってしまうという矛盾があり、そこに少しだけモヤりました。

ただ、作画の可愛さや、凝った演出やカット割りで、唯一無二の作風を楽しめました。