たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

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はじめに

本作は、2018年1月から3月に放送されたTVシリーズを完結させる作品です。TVシリーズ最終回では、劇場版が有る事が告知され、それをずっと待っていました。

TVシリーズ、外伝のブログも書いていますので、よかったらご覧ください。

いろいろあって、2度の上映延期がありましたが、物語の完結にふさわしい映像に納得の良作です。

下記、追記しました。

  • 読まれなかった手紙の最後の1行(石立監督からの宿題)(2020.9.22追記)

感想・考察

物語・テーマ

ユリスの物語

ユリスはC.H.郵便社のドールに電話で依頼をしてきた病床の少年(パッと見12歳くらいだろうか)。

自分の死期を予感しており、その心の内をどうする事もできず、本心とは裏腹に、両親や弟にはついつい突っかかった口調になる。

ヴァイオレットはユリスから自分の死後に出す手紙の依頼を受け、父親、母親、弟の3人分の手紙を書く。

ユリスは、3話のルクリアの兄であり、10話のアンの母親であり、11話のエイダンである。ヴァイオレットは近すぎて素直な気持ちを伝えられない気持ち、永遠の別れを前に伝えたかった気持ち、その気持ちが痛いほど分かるのでユリスのドールの依頼を特別料金で引き受けたのだろう。

ただ、家族への手紙を書き終えた後、ユリスは友人のリュカにも未練があり手紙を書きたいと言い出すが、時間的に間に合わず、日を改めて代筆すると約束する。

ユリスが危篤の日、ヴァイオレットは出張中で駆けつけられなかったが、代わりにベネティクトが病院に手紙を届けるために、アイリスがリュカへの代筆するために駆けつける。しかし、急に苦しみだし代筆が間に合わない状況で、病院のユリスとリュカは電話で会話して互いの思いを伝えあう。

手紙に対する電話の優位性はリアルタイム性と双方向性である。これも技術の進歩あっての話ではあるが、思いを伝達する手段の広がりと可能性を感じさせる瞬間であった。このエピソードはドールや手紙が、いずれは衰退してゆく事を連想させる。ただ、後述の60年後のデイジーの時代にはドールという職業は消滅してたが、手紙の文化は継承されていた。通信手段の多様化であり、それぞれにメリットがあるという事だろう。

そして、ユリスは短い命を病床で終える。約束通り、家族に手紙は届けられ、それぞれの思い(謝罪と感謝)を受け取り、両親や弟に笑顔を与えた。

さて、物語としてのユリスパートの意味は、これまでのドールとしてのヴァイオレットの仕事をコンパクトに観客と共有する要素として描かれていたと思う。もっと言えば、ギルベルト少佐と離れて過ごしたヴァイオレットの数年間の成長である。ギルベルトの知らないヴァイオレットの人生であり、後述の時が止まったギルベルトに伝えたい事でもある。

ヴァイオレットとギルベルトの物語(副題「あいしてる」)

TVシリーズでは、ヴァイオレットは猛獣から人間に心が変化してゆくにつれ、自ら戦場で行ってきた虐殺、そしてギルベルト少佐を救えなかったに対する罪の意識で、心を痛めもがき苦しんできた。しかし、ギルベルトの母親から、心の中にギルベルトが生きているから自分を責める必要は無い、という言葉で罪から解放され、笑顔を作る事ができるようになった。

その後、さらに数年の時間が経過する。

ギルベルトの母親は亡くなり、ヴァイオレットの心の中にはギルベルトの存在が薄らぐどころか、より強くギルベルトの存在が頭の中に肥大化してゆく。時折、業務が手に付かなくなるくらいまでに。

ホッジンズはそんな過去に捕らわれすぎているヴァイオレットを不憫に思う。前を向いて歩いて欲しい、と。

ディートフリートは弟のギルベルトの事を思い続けるヴァイオレットを自分と同じ心に穴の開いた存在だと感じ、ギルベルトの遺品を渡し、ギルベルトの過去を共有する。

一方、ギルベルトは戦闘で右手と右目を失い、敵側であるガルダリク陣営の病院に運ばれ、その後、自らの意志で過去を捨て、遠く北に位置するとある離島に暮らす。

ギルベルトが過去と決別した理由は、自責の念。

ブーゲンビリアの家系に従い軍に入り、各地で戦闘を重ね、戦争で死体の山を積み上げ、多くの人達の哀しみ恨みを残した。ヴァイオレットの事は戦争中から「真実の愛」という花言葉に相応しい人になって欲しいという願いとは裏腹に兵器として利用し続けている自分に葛藤しストレスをためていたし、その事を今も責め続けていた。

ギルベルトが居た離島はブドウ栽培が盛んだが、それぐらいしか産業がなく貧しい。そして戦争により女性と子供と老人しか居らず、今もなお戦後を引きずっている。復興著しい戦勝国のライデンシャフトリヒとは対称的に描かれる。

こうして、男を求めた女と、女から逃げた男が、数年の時を経て離島で扉一枚隔てて会話する。が、結局、一目見る事も叶わなかった心の断絶。

ギルベルトもヴァイオレットも戦争で互いに大きな傷を残し、その後、自分を責めるという部分においては似た者同士とも言える。

しかし、その後の数年間の軌跡は対称的である。ヴァイオレットが義手を手に入れ、ある意味、華々しくドールの仕事をしているのとは正反対に、ギルベルトの失った右手は癒えぬ心の傷を象徴し、閉ざされた心を強調する。ヴァイオレットのドールとしての活躍を知り、より自分の過去の罪を責め、自分をみじめな存在におとしめて、現在のヴァイオレットとの距離を遠ざける事になる。

翌日、ギルベルトは、老人に自分だけを責めなくてもいいと言われ、ディートフリートにブーゲンビリア家から離れて自由にしていい、と言い渡される。

そして、ヴァイオレットの手紙を読んで、ヴァイオレットの感謝の気持ちが届く。手紙が、本人も否定していた戦争中のギルベルトをヴァイオレットだけが肯定してくれた。そして、ギルベルトのヴァイオレットを好きな気持ちの封印を解いた。直接合っても伝えられない気持ちを手紙が伝えた。

最終的に、ギルベルトとヴァイオレットは海でずぶ濡れになりながら、対峙し、しばらくのやりとりの後、ギルベルトがヴァイオレットを抱きしめる。言葉は出ないが、副題の「あいしている」がその答えだろう。初めてギルベルトがヴァイオレットを預かった時と同じように抱きしめる。抱きしめることが相手を癒すだけでなく、自分自身も癒す。

女は男を求め、男は女を受け入れた。ただ、シンプルにそれだけの話である。

ギルベルトの喪失の数年間も詳細は語られないが、その後のヴァイオレットとギルベルトの詳細も語られることはなく、物語は終わる。

ただ、ヴァイオレットは、この島でドールの仕事をし続け、切手のデザインとして後世に伝えられる存在となった。国際的な華やかな仕事よりも、たった一人の大切な人と一緒に過ごす事を選んだ。後世の人の心をも温め、手紙を書きたい気持ちにさせる伝説の人となった。

デイジーの物語

デイジーは、家庭よりも仕事優先で祖母の死際にも間に合わず、葬式後もそうそうに仕事に戻る母親に不満があり、家族で会話していても、つい口喧嘩になってしまう。

デイジーは、10話のアンの孫娘である。曽祖母から祖母に送られた50通の手紙。祖母が大切に残していた宝物。その手紙の文面の暖かさに興味を持ち、その手紙を代筆したC.H.郵便社のヴァイオレットの足跡をたどる旅に出る。

アンとデイジーの年齢は明確には分からないが、デイジーが15歳、アンが65歳で50歳の年齢差と仮定する。

この場合、アンが亡くなる数年前までヴァイオレットの手紙が届いていた事になると思う。そして、当時から60年が経過した。住宅内は電灯のスイッチもあったし、感覚的には1960年代くらいだろうか。科学技術もインフラも随分と進んだのだと思う。そして、便利になっても心のすれ違いは、相変わらずあって、という時代。

デイジーはヴァイオレットの足跡を追い、ライデンシャフトリヒの今は郵便博物館となっている旧C.H.郵便社を訪ね、ギルベルトの離島の郵便局を訪ねる。

そして、ヴァイオレットの手紙同様、素直な謝罪と感謝の気持ちを手紙に込めて、ここから母親に手紙を出す。

デイジーが見たヴァイオレットの伝説はどのように語られていたのか分からない。ただ、この行動から察するに、我々が観てきたヴァイオレットの物語はそのまま語り継がれているのだろう(もしかしたら、ヴァイオレット自身が自伝を書いていたのかも、などと妄想)。

デイジーは、ヴァイオレットの物語を観た観客である我々と重なる。デイジーはこの作品が、偉人の伝記ではなく我々の物語である事を強調する。

つまり、この物語を観て、好きな人とわだかまりがあったとすれば、手紙などで素直な気持ちを込めて伝えよう。というメッセージをより自然に伝えてくれる。

デイジーパートは、そうした意味合いがあると思うし、それはとても素敵な演出だと思う。

読まれなかった手紙の最後の1行(石立監督からの宿題)(2020.9.22追記)

舞台挨拶で石立監督が、ファンに出した下記の宿題があり、それについて考えてみる。

  • ギルベルト宛てのヴァイオレットの手紙には読まれなかった1行がある。それは、皆さんで考えて欲しい。(石立監督)

あの日、ヴァイオレットは、ギルベルトに土砂降りの小屋の前で拒絶され、灯台に宿泊させてもらい、ギルベルトに対して激昂していた。

しかし、ユリスの危篤の報せが電報で舞い込む。ユリスとの約束を守るため今すぐ帰ると言い出すが、どうする事もできない。ユリスの件をベネティクトとアイリスに任せて、その後の電報をただ待つ事しかできなかった。

ここで、少し意外に感じたのが、ヴァイオレットの心は直前のギルベルトの件で相当乱れていたはずなのに、ユリスの件が一件落着する頃には冷静さを取り戻していた点である。心のスイッチの切り替えが早いと思ったが、任務遂行のために軍で心の動揺を一旦引き出しにしまう訓練をしていたのかも知れない。

ヴァイオレットは電報で、ユリスとリュカは電話で本当の気持ちを伝えあう事が出来た、と知らされる。

ヴァイオレット自身も、今、ギルベルトに本当の気持ちを伝えないと後悔すると思ったのではないだろうか? 感謝の気持ちを伝えたいのは間違い無いが、伝えたい本当の気持ちはそれだけ?

戦争中は子供だったヴァイオレットも数年間を経て、またドールの仕事で品格を備え、立派な大人の女性になった。

しかし、想いこがれてきたギルベルトは、自己肯定感ゼロで、とてつもなくメンタル面が弱っていた。優しかった男は数年の歳月を経て変わってしまった。ギルベルトは戦争中も、戦後も、ヴァイオレットの心の支えだったはず。そして、変わってしまった男の「気持ちが理解できる」というヴァイオレットなら、いくら拒絶されても、その男を支えたいと思うのではないだろうか?

物語のラストは、ヴァイオレットが離島に引っ越して一生を終える、という事から逆算すると、ヴァイオレットからプロポーズするくらいの破壊力がある言葉でなければ、最後の1行は成立しないのではないか?

この辺りのキーワードを下記に列挙する。

  • 「本当の気持ちは伝えなければ、分からない場合も多いです」
  • 「今の私は少佐の気持ちが理解できるのです」
  • ギルベルトは傷付きメンタル的に弱っている
  • おそらく、ヴァイオレットからギルベルトへのプロポーズ的な言葉

以上を踏まえて、私の考えた最後の1行は、下記。

  • 「今度は私があなたの右腕になって、ずっと、あなたを支えたい。」

私の稚拙な文章でキレは悪いですが、意味合いとしてはこんな感じじゃないかな、と考えてみました。異論は認めます。

おわりに

途中、7.18京アニ事件があり、上映も2回延期されましたが、この度、無事に完結した事、嬉しく思います。

今回、物語が変化球ではなく、ド直球勝負だったので、こねくり回した考察はあまり要らないのじゃないか? と思いました。外伝のような凝りに凝った装飾が無い分、誤魔化しは効かない。しかし、この劇場版のテーマ、テイストから察するに、このド直球勝負で良かったのだと思います。

私は、物語が完結する事を好みます。一つの物語が完結し、一つ心の荷が下りた、というのが正直な感想です。

バジャのスタジオ ~バジャのみた海~

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

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はじめに

「バジャのスタジオ」シリーズ第二作目の「バジャのスタジオ~バジャのみた海~」の感想・考察ブログです。

前作のブログは下記にありますので、合わせてご参照頂ければと思います。

感想・考察

概要

前作同様に、本作は2019年秋の、第4回京アニ&Doファン感謝イベントに向けて制作されたアニメーションだと思われますが、7.18京アニ事件によりイベントは延期、縮小、イベントでの上映はされませんでした。

そして、2019年12月に「私たちは、いま!!全集2019」の映像特典として収録され、販売されました。また、2020年7月、8月にNHK総合にて、合計3回TV放送されました。

とにもかくにも、本作が完成し、日の目を見る事が出来て、本当に良かったと思います。

監督の三好一郎さんをはじめ、事件により多くのスタッフがお亡くなりになりました。どこまで制作が進んでいたのか知る由もありませんが、前作同様、可愛らしくも、キレと深みある演出が冴えており、三好監督や、京アニの持ち味は全く損なわれておらず健在です。

物語・テーマ

1作目のおさらい

まず、前作の考察のポイントを整理します。詳細は、前回のブログをご参照ください。

本シリーズは、もともと京アニファン向けに作られた作品だと思います。

そして、登場人物は、大きく3種類に分類され、それぞれが与え合う関係が成立していました。

  • 小動物 →バジャ、ガー (=京アニファン)
  • 小さい人たち →ココ、ギー (=京アニ作品)
  • 大きい人たち →監督カナ子など (=京アニスタッフ)

バジャは監督カナ子を癒し、監督カナ子はココやギーを創造し、ココやギーはバジャの願いを叶えたり遊んだり。こうした与え合う良い循環が出来ていました。

そして、劇中のアニメ作品のキャラとして登場するのがココとギーであり、両者は作品の表と裏とも言えます。

  • ココ → 魔法使いの女の子。魔法を使って誰かの願いを叶える。ボジティブ。ほうき星の夜に最大の力を発揮する。
  • ギー → 仮面を被った男の子。動かないモノに命を与え動かすことができる。ネガティブ。すぐ、ココと対決したがる。

「海」という作品世界

ココとギーが京アニ作品のキャラのメタファとするなら、「海」は京アニ作品世界です。

バジャは、監督カナ子が海が大好きである事を知ります。バジャはKOHATAスタジオの外に出た事がありません。だから「海」の存在は未知であり、いつか海に行ってみたいと願います。

そこで、ココとギーは、それぞれ「海」をバジャとガーに体験させますが、その「海」の印象は全く違うものでした。

  • ココの「海」 → 明るく、カラフルで、綺麗な色の魚がたくさん泳いでいて、楽しいイメージ
  • ギーの「海」 → 暗く、黒っぽく、大しけの嵐で、サメに食べられてしまいそうな、恐ろしいイメージ

結局、バジャは、ギーの恐ろしい海の印象が強烈で、怯えて海はもうこりごり、と思ってしまいます。

たった一人の友だちを取り戻す、という物語

前作では独りぼっちだったバジャが、とある冒険を経て、ガーという友だちを獲得するお話でした。

本作では、バジャとガーはなかよしの友だちとして一緒にスタジオに楽しく暮らすところから始まります。

しかし、ギーの身勝手な行動により、ガーはインクで黒く塗られ、ノートPCの中の荒れ狂う海の中に放り出されてしまいます。

出来るかどうか分からない、だけどギーを助けたい。その願いに反応してココの魔法を発動し、バジャは勇気を持ってガーを助けにノートPCの海に入っていきます。

途中でココが、監督カナ子を召喚して嵐を吹き飛ばし、穏やかで綺麗な海に戻す、という高度な裏技を使います。が、最終的には、ガーがバジャを見つけてくれて、バジャとガーは元の世界に戻って来れました。つまり、引き裂かれたともだちを自らの勇気と互いの引力で取り戻した、という流れです。

ファン、作品、スタッフの関係性と「願い」というテーマ

この物語の流れから推察するに、

  • バジャ(=京アニファン)が決断して、それぞれの人生という物語を動かす。
  • ココやギー(=京アニ作品)は、その手助けをする。
  • 監督カナ子たち(=京アニスタッフ)は、その作品作りに誠心誠意、粉骨砕身、情熱を注ぐ。

という構図に思います。

ココは魔法を発動するには、誰かの「願い」が必要です。作品を見て、楽しんだり、悲しんだり、感じたり、考えたりする事はできますが、それだけでは魔法は発動しないのです。最終的には「願い」という決断があり、初めてその人が行動を起こせるのです。

それぞれの人生の主役は、あなた自身なのです。京アニ作品は、その背中を押す手助けをする存在でありたい。そういう意図が本作に込められているような気がしてなりません。

監督カナ子の悲喜こもごもは、こうした京アニスタッフの作品に対する思いなのだと感じました。

ギーとココの役割と対比関係

ココとギーの関係は、単純に正義と悪ではなく、陽と陰の表裏一体の関係にあります。

「ココに願う事は、私(ギー)に呪われる事と同じ事」という台詞があります。ここは、いくつかの解釈が考えられますが、個人的にはあまり深い意味は無く、ココとギーの存在が表裏一体である事を強調したかっただけなのかな、と感じました。

ココという喧嘩友達は居ますが、ギーもまた意気投合できる仲間が居るわけでもありません。ココに対して毎回対決したがるのはココが好きだから? バジャを子分にしようというのは寂しさの表れ? 仮面を被るのも強く見せたいから? こうしてみると、どこいでも居そうな普通の男の子です。

結果的にギーは、バジャを怖がらせたり嫌がらせしたりする悪役ですが、基本的にお節介というか要らないお世話であり、悪意はありません。物語にストレスをかける存在でありながら憎めない、この辺りのディレクションが好きです。

そして、ココが魔法を発動するトリガーは、誰かの「願い」が必要ですが、ギーのモノに命を吹き込む力はギーの一存で発動可能です。魔法というより技術という感じです。

つまり、アニメ作品を構成する要素として、ココはマインドや文芸面を、ギーは動きを担当する作画・動画面を、それぞれ担当しているともとれます。その意味でも、この二人は互いを補う関係にあるのではないかと思います。

本作におけるギーの扱いがポイントで、本作を味わい深いものにしているのだと思います。

劇伴

本作は、27分の短編アニメーションです。その劇伴は、長尺でありながら、シームレスにそのカット毎、フレーム毎にピッタリになるように音がはめ込まれた贅沢な作りとなっています。ピッタリというのは音の長さ、タイミングだけでなく、音の表情もキャラや心情に合わせてます。

通常のTVアニメでは劇伴は使いまわしになりますが、本作は劇場版と同様に1回きりの劇伴なのです。そのために、綿密な絵コンテ、および精密なカッティングが事前に完成していなければなりません。

そして、演奏は生楽器。そうした映像と音の設計の深さを、まざまざと感じさせられます。

当たり前と言えばそうなのですが、その事が本作のクオリティの高さに繋がっています。

おわりに

繰り返しになりますが、とにかく本作が完成し日の目を見た事、そしてまごう事なき京アニクオリティで有った事を嬉しく思います。

気のせいかもしれませんが、シリーズ2作目である本作は、「海」に象徴される「作品」へのスタッフの思いをより強く込めて描いていると感じました。作品が、ファンの肥やしとなり、ファンの背中を押す存在であり得たら幸せである、そうしたスタッフの願いがあるのだと感じました。

この状況ゆえに、2021年秋にシリーズ3作目が作られるかどうかは分かりません。が、京アニファンイベントとともに、こうした京アニファン向け作品も、作り続けられると良いな、と思います。

ゆるキャン△

ネタバレ全開につき閲覧注意ください。

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はじめに

ゆるキャン△』は、2018年1月~3月に放送されたアニメ作品。晩秋から冬にかけてキャンプをする女子高生たちの交流を描く。

私は、放送当時は観ておらず、2020年8月に3日くらいかけて一気見したのだが、非常に鑑賞後の余韻が気持ちの良い作品で、その辺りの理由を考え整理したので、その事をブログにまとめる。

ちなみに、私は「へやキャン△」は未履修。なお、2021年1月からは、2期放送が予定されている。

公式HP

感想・考察

「キャンプ」と「旅」の魅力を余すことなく描く

日常から切り離された非日常の時間を過ごす

キャンプは大自然の中でテントを張って野営する。まずは、キャンプの特徴を列挙するとこんな感じか。

  • 日常の人間関係の煩わしさから、一時的に解放される。
  • 日常の生活空間から、一時的に解放される。
    • 日常=便利で快適 → キャンプ=不便で不快という側面

現代はスマホの存在により、完全に遮断状態されるわけではないが、それでも基本的には非日常空間で邪魔は殆ど入らない。(逆に、本作ではスマホによる緩めのコミュニケーションを積極的に楽しみむ描写がされていた)

キャンプ生活は日常生活に比べて、不便で不快である。日常生活は電気、ガス、下水などのインフラが整備され、住宅という守られた空間があり、空調やテレビなどの設備も充実しており、ゲームやインターネットなどの娯楽にも溢れている。しかし、そうしたモノの恩恵を受けない空間で生活する事は、その場で必要な最低限の事をコンパクトに自力で行う必要がある。

住宅はテントに、暖房は焚火やカイロに、布団はシュラフに。こうした道具も必要だが、キャンプ道具を使うという事が、日常を忘れ、非日常を過ごす演出となる。

こうした非日常の何が嬉しいのか? おそらく、日常で受けるストレスや不自由を、キャンプという非日常で自由を味わい、一旦リセットしてまた日常に戻るというガス抜き的な意味があるのではないかと思う。

非日常の絶景の贅沢(=美麗で凝った背景)

キャンプのご褒美の一つとして、自然の中で過ごすからこそ見られる絶景がある。

本作では、夜や明け方の富士山だったり、山から見下ろす街の夜景だったり、見事な紅葉だったり。

  • 絶景
    • 1話:本栖湖キャンプ場の夜の富士山
    • 2話、3話:麓キャンプ場の昼、夕、夜、早朝の富士山
    • 5話:高ボッチ高原キャンプ場の夜景
    • 5話:イーストウッドキャンプ場の夜景
    • 6話:四尾連湖キャンプ場の紅葉
    • 10話:陣馬山キャンプ場の夜景
    • 11話、12話:朝霧高原キャンプ場の高原と富士山

その場所に居て、ゆっくり時間を過ごすからこそ、綺麗な一瞬に出会える。

本作では、そうした絶景が手描きの背景で見事に再現されていた。しかも、絶景だけでなく、キャンプ場の小屋、炊事場、道、そうしたキャンプ場の雰囲気も、絶景同様に手抜きなく描く。背景リッチなアニメだったと思う。

非日常のキャンプ飯の贅沢

キャンプのもう一つの醍醐味として、自炊によるキャンプ飯や、旅先のグルメがある。

  • キャンプ飯
    • 1話:カレーカップ麵(リン)
    • 3話:餃子鍋(なでしこ)
    • 5話:スープパスタ(リン)
    • 5話:鍋煮込みカレー(なでしこ)
    • 6話:炭火串焼き+タラ鍋(リン、なでしこ)
    • 6話:ジャンバラヤ(鳥羽先生妹)
    • 10話:ブタまんホットサンド(リン)
    • 11話:すき焼き+トマトすき焼き(あおい)
    • 12話:焼き鮭牛肉ごはん+野菜納豆味噌汁(なでしこ、リン)
  • 家飯
  • 旅先グルメ
    • 4話:笛吹公園のカフェのソフトクリーム
    • 4話:霧ヶ峰のカフェのボルシチセット
    • 5話:笛吹公園の温泉卵
    • 6話:四尾連湖のカフェのホットチャイ
    • 7話:みのぶまんじゅう
    • 9話:駒ヶ根温泉のミニソースカツ丼

キャンプ飯は、自ら自炊する事で、体感美味さが3割増しとなる。別に高級食材など無くても良い。キャンプ場という制約の中で、事前準備や廃棄物を減らす工夫も楽しい。そうした楽しさを簡易レシピや食事時の仕草や笑顔込みでキッチリ描く。食べる時には必ず、美味しいという台詞が入る。そうした事を念入りに描いた飯テロアニメでもあった。

最適化されていないツーリングの贅沢

本作は、キャンプだけでなくツーリングの楽しさも描く。

本作でツーリングを担当するのはリンである。年中、バイクツーリングが趣味の祖父の血を引き継ぎ、孤独の中に身を置く事が好きなリンに向いているとも言える。

当初、リンは自転車で自宅周辺のキャンプ場に出かけていたが、4話で念願の原付と運転免許証を手に入れ、150kmのツーリングを行う。早朝や日没後の移動もある。季節は冬で、原付での長旅は寒く辛い。

キャンプが非日常であるなら、ツーリングも非日常である。TVやインターネットの様なノイズは無く、ただひたすらに運転する。時折、家族や友人の事が脳裏をよぎるが、深く思考を巡らせる事もできず、ぼんやり考えては、また運転に集中する。

9話で南アルプスをショートカットするルートを計画するが、マイカー規制により通行できず折り返す。道中にある温泉でうたた寝して寝過ごす。理想通りに、スマートにツーリング出来るわけでなくアクシデントも経験する。

しかし、本作はアクシデントを悪とは描かない。南アルプス越えできず折り返した夜叉神峠の登山口で、見知らぬ登山客との交流も有り、ほうじ茶を貰う。そのほうじ茶は夜食と一緒に頂く。そうした想定外の出来事も旅の味わいとなる。

会社や学校で効率的な活動を求められる日常に対し、最適化されていない行動の方が、時に豊かな人生を送れる。そういった事も本作では描いていたと思う。

冬季キャンプという着目点

私は、本作を知るまで、キャンプは夏にグループでするものと思い込んでいた素人である。

冬であっても必要な装備さえあれば、寒さの中でも寝泊まりできる。冬の方がキャンプ客が少なく自然を満喫できる。虫も居ない。空気が澄んでいて景色が綺麗。

もこもこに着ぶくれた女子高生を描き、無駄な色気はゼロ(入浴というサービスシーンは有ったが)。景色も霞が無く、静かで空気の張り詰めた風景を綺麗に魅せられる。キャンプ客を描かなくてもリアリティを保てる。などなど、アニメーション的にもメリットが多いと感じる。

何より、キャンプが持つ孤独感は、冬キャンでこそ際立つ。

なので、女子高生の冬キャンをテーマに掲げた事は、非常に的を得た設定なのだと感じた。

キャンプ用品選定、購入における葛藤と妥協

地獄もキャンプ場も金次第で楽に生きられるのがこの世の中ではあるが、本作の主人公は女子高生なので、貧乏キャンプにならざるを得ない。バイトで稼いだお金で大切なキャンプ道具を買う。時に安物買いの銭失いとなってしまう事もあるが、それもまた経験。

キャンプ場の利用料の1,000円とか、燃料のまきが500円とか、道中のランチが1,200円とか金銭は中々シビアではあるが、制約の中で主人公たちは楽しく行動する。

また、キャンプ用品をカタログや、キャンプ用品店で触れて、知識と物欲を増やしてゆくという楽しみも描かれる。

11話では、キャンプ初参加の斉藤さんが親に45,000円の冬用シュラフを購入してもらい、野クルの連中が羨望の眼差しで見たりする。リンの使いこまれたキャンプ道具を興味深く眺める。こうした他人の装備を見るのも楽しい。

綺麗ごと言うなら、値段じゃなくてハートなのである。こうした入門者視点でのキャンプを描く所に好感が持てる。

物語・テーマ

ある意味、非ドラマッチックで物語希薄なシリーズ構成

誤解を恐れずに言うなら、本作の良さは、物語やドラマが淡々としているところにある。

大会でライバルと戦い勝ちぬけるとか、何か大きな目標を達成するとか、組織や個人の問題を解決するとか、そうした従来のドラマチックな展開やカタルシスはない。

本作が描くのは、ずばり、キャンプや旅の疑似体験であり、キャンプ地やツーリング途中の出来事である。寄り道的な一見不要とも思えるイベントも含めて体験であり、それは楽しかったり、しんどかったり、寒かったり、美味しかったり、大小は有れど様々な感情を巻き起こす。その積み重ねを描き、その先の絶景を見て美しすぎて感動したり、綺麗と思う気持ちを伝え合ったり共有したりする喜びがある。

その意味で、感動的なシーンはあるが、そのために目の前の絶景を絵でキチンと描いて再現し、映像を通して視聴者に感動を伝える。背景は真っ向勝負で風景を切り取り、そこに手抜きは無い。余計な台詞も、これ見よがしの演出も不要である。

ドラマは旅の中にある。だから、人間ドラマの部分は最小限で良い。その代わり、「キャンプ」「旅」については、逃げる事無く丁寧に描く。そうしたディレクションだったのだと思う。

他者否定の無い大人な世界観

本作は、なでしことリンのダブル主人公の形を取っていたと思う。そして、メイン5人の女子高生は、大きく二つのグループに分かれていたと思う。

  • 千明+あおい+なでしこ=野クル(野外活動サークル)メンバー
  • リン+斉藤=友人(図書室、スマホで雑談)

ただし、なでしことリンは1話で運命的な出会いをし、互いに惹かれ合う関係にある。

  • なでしこ+リン=1話で運命的な出会い、互いに引力で惹かれ合う

この関係の中で、リンは野クルの千明たちの賑やかさが苦手なため、野クルもリンも適度な距離を取っている。また、斉藤は寒がりで面倒くさがりな面もあり、キャンプには参加せず傍観している。

本作では、リンのようなソロキャン派も、野クルのようなグルキャン派も、互いを否定する事は無い。スタイルの差があっても、多少話しかけにくいだけで、互いを尊重しており、無理強いはしない。

それぞれのスタイルをそれぞれに楽しむだけである。そこが大人で心地よい。

5人一緒という、クリスマスキャンプの奇跡の物語

このような距離を持つ5人が、クリスマスキャンプで一同に会する事は、数々の偶然の積み重ねの結果だった。その流れを下記に整理する。

  • 8話
    • 理科室でスキレットのシーズニング中の千明とあおいを斉藤が手伝う。
    • 斉藤をクリスマスキャンプに誘うあおい。だが返事は保留。
  • 9話
    • 風邪のなでしこを見舞う千明。
    • 上伊那ツーリング中のリンにスマホでふざけたナビする千明となでしこ。
    • 千明にクリスマスキャンプ参加表明(メッセージ)する斉藤。
    • すかさず、リンも誘いたいと千明に相談するなでしこ。
  • 10話
    • 陣馬山キャンプ場入口の通行止めがそのまま行けると電話でリンにアドバイスする千明。
    • 夜に電話で千明にお礼を言うリン。
    • 千明のクリスマスキャンプにリンの誘いを一旦は断るリン。
    • 直後にリンを一緒にクリスマスキャンプに行こうと誘う斉藤。
    • その後、「やっぱり、考えとく」と千明にメッセージするリン。
    • キャンプ場に朝霧高原をチョイスするリン。

5人が集結出来た一番の功労賞は斉藤なのは間違いないだろう。しかし、5人全員が本件に関わっており、5人の誰一人欠けても実現出来なかった。

あの日、斉藤が理科室の前を通らなかったら、なでしこが風邪をひかなかったら、千明が見舞いに来なかったら、クリスマスキャンプは5人集まらなかったかもしれない。クリスマスだから起こせた奇跡であり、本作の物語的な要素とも言える。

奇跡の後、5人の距離は多少縮まるが、何かが激変するのでもなく、これまで通りの日常に戻る。斉藤が野クルに入る事もなく、野クルの部室は狭いまま、今まで通りに。

本作では、こうした奇跡も日常も、淡々とフラットにギャグまじりに同列で綴ってゆく。キャンプというハレの舞台のお祭りはあっても、最後は日常に戻って終わる。ラストだからと言って、特別何かが変わるわけでは無い。

12話アバンの良さ

12話のアバンは、10年後、朝霧高原で5人が再会する様子を、なでしこの妄想という形で描く。

本編では日常に戻って終わるためにカタルシスが弱いという事もあり、個性を認め合いながら、継続する5人の関係を希望を込めて映像化してくれたものだと思う。

これは、なでしこの妄想という事もあり、漫画原作に干渉する事無く、希望を見せてくれたアニメスタッフに感謝したい。

12話Cパートの良さ

12話のCパートは、1話でのリンの行動をなでしこがトレースする形で4月の本栖湖畔でソロキャンをする。自分用のキャンプ道具はなでしこの成長を意味し、ガスランタンはなでしこの自己スタイルの確立を意味する。

そして、同じくソロキャン中のリンとメッセージのやり取り。偶然にも同じキャンプ場にソロキャンしに来ていた事が分かる。天気は晴れ。富士山の景色は良好。上出来である。

彼女たちは、互いに依存する事無く自由。そして、たまにこうして交差する。

本作は全編に渡って、こうした自由さ、ドライな味わいが、非常に冴えていて心地よいと感じる、私好みの作風だった。

OP/ED/劇伴

劇伴が非常に心地よい。

キャンプを題材にしているという事で、デジタルではなく、アコースティックで軽快なケルト民用っぽい雰囲気になっていて、繰り返し聴いても飽きない。何なら、作業用BGMとしても使えそうな感じである。

ちなみに、特に静かな夜のシーン用の寂しさを醸し出す曲が好みである。

EDは、劇伴と同様なテイストで、アコースティックギターの静かな曲でこれもまた良い。

OPは、ちょっと賑やかで落ち着かない感じだが、本作のワチャワチャした感じとのバランスをとるためには、こうした選曲もアリだったのだと思う。

おわりに

色々書いたが、私は、ゆるキャン△の心地よさというのは、他者を否定しない、勝つための根性・努力をしない、とにかく楽しさを描く、という点にあったと思う。その意味で、とても大人でドライな作品だと思う。もしかしたら、2018年冬期アニメのエポックメイキングな作品だったのかもしれない。

本作はノンストレスの作品か?というと私は少し違うと思っていて、ソロツーリングで行き止まりにあったり、寝過ごして焦ったり、非日常ゆえに慣れずに起きるアクシデントは存在し、そうした「旅」に関するドキドキも本作で体験で来ていたと思う。それを込みで非日常を楽しむ。

キャンプブームが追い風になった面もあるが、一所懸命に働くだけでなく、生産性や効率の追求ばかりの日常から離れ、一時的に非日常の時間をゆっくり味わい楽しむ。そうした願望が少なからずあり、そうしたニーズにハマったのかな、とも思う。

小林さんちのメイドラゴン

ネタバレ全開ですので、閲覧ご注意ください。

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はじめに

小林さんちのメイドラゴンは、2017年1月~4月に放送された京アニ制作のTVアニメ作品であり、私の超お気に入り作品である。

当初、あまり期待しておらず、京アニクオリティ作画で緩めの日常ギャグアニメが来たなあ、くらいな感覚で見ていたが、1話のラストに挟み込まれるトールの悪夢のシーンで、トールの過去に何があったのか気になり、その後の話で描かれるトールの恋愛ドラマの繊細な描写や、骨太なテーマにくぎ付けになり、最終回は涙なしに見れなかった。ターゲットは完全に大人だと思った。

その後、7.18の京アニ事件を経て、本作に関わった武本監督をはじめとする一部のスタッフも亡くなられてしまった。

コロナ禍の昨今、振り返るには良いタイミングであると思い、また、本作について深く書かれたブログが見当たらないため、この機会に私が思っているメイドラゴンについて、整理して残しておこうと思う。

下記、追加・修正しました。

  • 複雑な事情を抱えたトールと小林さんの恋愛ドラマ(2020.8.11修正)
  • 2期制作発表について(2020.8.11追加)

感想・考察

作風

本作はギャグを基本とした作品ではあるが、シリアスな人間ドラマもキッチリ描かれる。ギャグとシリアスは7:3くらいの割合でギャグの要素が多い。しかし、ラストの12話、13話はガチのシリアスで結ぶ。

ギャグは、人間とドラゴンという種族の違う者同士のコミュニケーションにおけるギャップを笑いのネタに昇華するのが基本。しかし、このギャップは、そのまま人間ドラマのテーマのコアでもある。

この辺りの、設定に対するキャラの感情の追い込みに、本作の生真面目さが伺え、好感が持てる。

スタッフ

監督は、武本康弘。1話、2話、3話、13話の絵コンテ、3話、7話、9話の脚本を担当していて、実質、武本監督のカラーの強い作品だと思う。

シリーズ構成は、山田由香。脚本は、山田由香(1話、2話、6話、11話、13話)、武本監督、西川昌志(4話、8話、10話、12話)、志茂文彦(5話)。

絵コンテ・演出は、京アニのそうそうたるメンバーが関わる。

(敬称略)

武本監督は、「氷菓」が代表作だと思うが、繊細な芝居が印象的である。本作はギャグをメインといるためテイスト違いに思うかもしれないが、骨太なテーマや繊細なトールの恋愛ドラマも含まれていて、作品としてのレベルは高く、京アニの良さをギュッと詰め込んだ印象。やはり武本監督の力量とバランス感覚が大きかったのだと思う。

テーマ・見所

大前提である、ドラゴンと人間の違い

本作は、あっちの世界のドラゴンと、こっちの世界の人間の異文化コミュニケーションが根底にあるため、その違いを把握する事が、本作の理解に必須である。

まず、あっちの世界のドラゴンの特徴を列挙する。

  • ドラゴンの特徴
    • 絶対的な強さ
    • 魔法
    • 高尚、プライドが高い
    • 長寿
    • 個人主義
    • 3勢力
      • 秩序を重んじる「調和勢」
      • 破壊と混沌を望む「混沌勢」
      • 組する事無く群れもしない「傍観勢」
    • 愛情表現は舐める

次に、ドラゴンと人間の対比。

項目 ドラゴン 人間
強さ 圧倒的に強力 脆弱
魔法 使える 使えない
活動スタイル 個人行動が多い チーム集団行動が多い
個性/異物 尊重(気にしない?) 排除
同調意識 無い 強い
問題に対するアプローチ 殲滅、排除 交渉による調整

ドラゴンは人間の事を、愚かで脆弱で下等な生き物と見ている。何なら殲滅してしまいたい。人間はドラゴンの事を良く知らないが、それでもその強大な力に恐怖を感じる。基本的には、互いに受け入れられない(受け入れにくい)存在である事には違いない。

トールは小林さんが命の恩人であるために特別大切な人として扱うが、それ以外の人間の事はやはり下等生物だと考えている。そんなトールやドラゴンたちが人間との同棲を始め、その中で様々なコメディやドラマが生まれる。

ドラゴンにとって人間の姿は窮屈であるが、それでも人間の姿でこっちの世界を生活する事は、とにもかくにも異世界には干渉してはイケないというルールがあるからである。異世界ではできるだけ目立たず干渉を最小限にして生活する必要がある。

ドラゴンは個人実力主義だが、人間はその非力さから群れを成して力を合わせて仕事をする。人間にとって当たり前のチームという概念はドラゴンには無いのだろう。そして、ドラゴンは人間の作り上げた文明を一瞬で破壊出来る。もはや、人間の営みに価値など感じないのだろう。

ざっくり、ドラゴンと人間の違い、主に価値観の違いはこんなところだと思う。

異種間コミュニケーション

本作は前述の通り、ドラゴンと人間の種族の違う生き物は共存できるのか? いかに共存するのか? というテーゼを持っている。

ドラゴンは、人間を見下し否定する。何なら殲滅したいと考えている。絶対的な他種族の否定である。

対する人間(特に日本人)は、他者と均一である事を望み、目立ったり理解不能だったりの異物を嫌い排除しようとする。

このテーゼに対し小林さんは、まずはドラゴンであるトールとカンナを受け入れ同居を始める。一方的な否定ではなく歩み寄りの姿勢があるならば、一緒にいる事から始めてゆく。友好だの信頼だのは、しばらく一緒に居て初めて実績として付いてくるモノであり、初めから信頼関係があるわけではない。逆に、そうしなければ、他者との友好関係や信頼関係を築く事も出来ないハズであり、そこに飛び込む勇気も必要である。

しかも、小林さんはSEという職業柄、コミュニティ内で対立する意見に対し、問題を明確化し、当事者同士の要求を明確にし、折衷案で妥協する、というプロセスを難なくこなす。問題を収束する能力に長けている。こうした人生経験が上記の行動の発想にも役立っていると思う。

本作では、たまたまドラゴンと人間だが、両者の関係は、国籍の違いだったり、宗教の違いだったり、所属するコミュニティの違いだったり、もっと言えば、嫁姑だったり、いざこざが発生し易い全ての線引きされる人間同士にも当てはめられる、と思う。そうした普遍的な問題意識が本作の根底にあると思う。

ぶっちゃけ、Netflixは本作を世界配信すべきではないか、とさえ思う。

果たして、小林さんは、信頼関係が無いところからトールとカンナとの同居を始めたが、約一年の同居生活を経て、信頼関係を互いに築くことが出来た。そこが本作のテーマだと思う。

複雑な事情を抱えたトールと小林さんの恋愛ドラマ(2020.8.11修正)

本作は「種族の壁」を前にして「異種族への愛」をいかに貫くか?という、ある種、ロミオとジュリエットや人魚姫を想像させる恋愛ドラマでもあったと思う。

トールの燃料は小林さんへの恋愛感情。それゆえに、トールが思い悩んで見せる表情、恋愛に輝く表情が、狂暴なドラゴンとは裏腹な、恋する乙女なトールを見事な作画と演出で描き出す。

また、その恋愛の相手の小林さんは、普段からクールで包容力がある人柄ではあるが、献身的な愛を注いても、小林さんからはその愛に対する返事はなかなか貰えないという、片想い状態とも言える時間が積み重なってゆく。

それは、大前提として、同居が始まっても恋人という関係ではなく、主人とメイドというビジネスライクな関係である事、そして、ゼロスタートから時間をかけて信頼や絆を経て作り上げて行くもの(=お試し期間)という小林さんの2話の台詞も効いてくる。

果たして、小林さんは異種族の娘トールの恋愛に対し、どのような回答を返すのか?という状況が続く。

この部分は明確に好きだの愛してるだのの言葉は使われず、意識的に幅を持たせて解釈できる余地を残して作っていると思われる。

ともかく、私はトールが能天気なだけじゃなく、そうしたアンニュイな表情も見せ、思い悩む恋愛感情もきちんと描いていたからこそ、トールが非常に魅力的に感じた。

個人的には、小林さんからトールへの愛の返事はあったものと思いたい。片想いから両想いへの移行は、クリスマスの日にプレゼントとして贈ったマフラーが、小林さんからトールへの愛の返事であり、婚約指輪的なモノで、終焉帝に私のモノだ!と言い放ったのは、プロポーズだったと解釈している。(イベントの順番が逆ですが)

勿論、これは個人的な解釈で有り、公式には結婚も、百合恋人も存在しないのかも知れない。しかし、それだとトールの報われない恋物語が哀しすぎる、とも思う。なので、ここは視聴者に解釈を委ねている所だと思う。

(疑似)家族のススメ

本作は、異種間コミュニケーションという大きなテーマとは別に、もっと小さな単位の、家庭内コミュニケーションもテーマにしていると思う。

小林さんは女性だが、ぶっちゃけ、面倒くさがりで、何となく縁も無く結婚できずにいる、独身オタク男性のサラリーマン(社畜)に置き換えらると考えている。

愛し尽くしてくれる嫁のトール。目に入れても痛くない娘のカンナ。

そんな、独身男性に、嫁さんや女の子との生活を疑似体験させ、家族って良いな、と思わせる。ある意味、家族賛歌の物語だったと思う。

最終的に小林さんは、トールの父親にトールは私のモノだ!と略奪まがいのプロポーズをし、トールとカンナを実家の両親に面会させる。これはもう、出来ちゃった婚で入籍して、両親に事後報告するようなモノである。

従って本作は、小林さんが疑似家庭を経て、トールにプロポーズし、きちんと家庭を築く物語とも言える。だからこそ、そうした独身男性にも強烈に刺さる内容だったのではないか?と想像している。

一年を通して見る日本の行事

本作は、こまめに日本の行事や生活を挟み込んで描いた。

例えば、鯉のぼり、節分、梅雨、海水浴、夏コミ、大晦日、正月、年越しの初詣と振袖、こたつ。

例えば、小学校の集団登校、入学準備、授業風景、給食、運動会の父兄参加とお弁当。

例えば、SEの仕事風景、デスマ、パワハラ、居酒屋、通勤電車。

こうした、日常や生活に密着した描写が丁寧に描かれる事で、作品のリアリティが強固なものになってゆくのと同時に、ちょっとした生の日本生活紹介にもなっていた。海外の視聴者には、それがまたウケ受けていたのかも知れない。

小林さんの物語

他人と調停しながら生きる、大人の小林さん

小林さんは、地獄巡システムエンジニアリングでSEとして働く25歳独身OL。極度のメイドマニア。職場では温厚で頼られる存在であり、日々激務に追われ疲労困憊。腰痛持ち。

小林さんは、常日頃クールな存在であり、他人に深く干渉しない。SEという仕事柄からか、問題を調整しながら解決するというマネジメントが得意。業務多忙という事もあるだろうが、おそらく基本的に独りが好きで、たまにマニアックな話を発散できる滝谷の様な存在が居れば良かったのだろう。

しかし、1話でトールが転がり込んでくる。トールの話を聞き、申し訳ないが一緒に暮らせないと一旦断るも、トールの涙を見てトールを追い返すのを思いとどまる。表向きクールだが、根っこの部分での人情は厚い。トールのやる気を削がずに巧みにトールをコントロールする(ちょろゴン)。そうした人間(部下)の扱いに長けている。

2話でトールが商店街で大捕物をしたとき、周囲から白い目で見られそうな不安な気持ちを察して、小林さんはトールの手を握って歩く。カンナを受け入れる時に、カンナを説得して頭に手を乗せる。相手がドラゴンであるがゆえに、言葉よりも、こうしたボディランゲージによるコミュニケーションで安心感を与える、という現代人が忘れがちな仕草も見せる。

3話では、引っ越し先の隣人たちの騒音問題を話し合いで解決する。

2話でカンナも家に招き入れるが、信用はいきなりできるわけじゃなく、一緒に生活を続けてゆくうちに信頼関係が築けるのだと説得するシーンがある(同様の台詞が13話でも使われる)。この台詞は、小林さんの他人との距離感を上手く表現している。つまり、信用たる人間とだけ一緒に生きるのではなく、信用できない人間とも落としどころを見つけて調和を保ちつつ一緒に生きて行くのが人間社会なのである。

その点で、現代のSNSに見られるような一方的なキレ方では物事は解決せず停滞する、という事をこれまでの人生で学び実践してきたと言える。大人になるという事が、こういう事を言うのであれば、小林さんは間違いなく大人である。

その意味で、小林さんは、世知辛い社会を生きる社会人からも、頼られ憧れられるヒーロー的存在である。

トールやカンナから元気をもらう小林さん

新居に引っ越し、トールが家事をしてくれたり、ダイニングの賑わいを得た事で、小林さんは徐々に生き生きしてくる。その事で仕事も順調に回る。

7話で海水浴に来た時も、付き合いで来たとは言うが、そこを無理やり連れてきて気分転換させている事の意味は大きいように思う。面倒くさがりの小林さんが、運動会や初詣にトールやカンナや仲間達と遊びに行く。小林さんは周囲に色々なモノを与えているが、小林さんもまた、トールやカンナから与えられているのである。

クールで照れ屋の小林さん

小林さんは気遣いが出来る人であるが、人と至近距離で生きる事を自然と避けて来た。独りを気楽と思ってきた。だから、内面をさらして人を好きと言ったりする事に照れがあり、茶化したりして、ストレートに相手を喜ばす事が出来ない面があった、と思う。

それが、今度こそオムライス美味しかったと、ちゃんと伝えたいという気持ちに繋がっているのだと思う。(11話)

もっと言うなら、トールが小林さんを好きな気持ちは薄々気付いていたと思うが、小林さんはその答えを保留してきた、と私は考えている。

同棲生活を始めた当初は、トールと一緒に居ても直接向き合わずに会話しているシーンがちょくちょくある。1話ラストの添い寝や、3話の休日の午後のうたた寝のシーン。トールは内面に関わる吐露を背中越しに聞き、優しい言葉をかける。これは、2話の台詞でいうところの、信頼はこれから出来て行く、という状況であり、小林さんとしても慎重になっている時期だから、ではある。

しかし、そうこうしているうちに、トールと弁当対決をしてムキになったり、トールを徐々に信じられる様になってゆく。1年かけて、ゆっくりと距離を縮めていった形である。

小林さんがそこをある程度ブレークしたのが、10話のクリスマスプレゼントのマフラーだったのだと思う。ただ、それでも、照れ隠しで、トールの事を好いている、とは言わないのが小林さんである。

失って初めて分かるトールの大切さと、終焉帝との対決

13話で、小林さんは突然にトールを失い、トールから与えられていたモノの大きさに気付く。

そして数日後、あちらの世界から逃げ戻って来たトールと、それを追って来た父親。

父親のロジックは明快である。誰も異世界に干渉してはならない。トールの気持ちは関係無い。それが世界のルールである。対して、トールは小林さんと一緒に居たいという気持ちである。父親は、人間と共に暮らしていても、いつか必ず破綻するから傷付く前に戻ってこい、と付け加える。一瞬、気持ちが揺らぐトール。

この時点で、父親のロジックが卑怯だと思いつつも、小林さんは口出しを差し控えている。トールの意思を尊重すべきだと。そして、トールの「嫌です」の台詞。これを受けて小林さんが、「あの…」と言った瞬間に吹き飛ばされる眼鏡。父親の威嚇。

父親の、世界の秩序を守るべきドラゴンが、例外を許せば他のドラゴンも次々現れこの世界を侵略するかもしれない、という問いに、小林さんは、きっかけのこじつけと責任のすり替えと返す。小林さんのブレないロジック。もう、気持ちの問題だけに焦点を戻そうとしている。

そして、なぜそこまでトールに拘るのか?トールの事が好きなのか?問いに、トールっていい娘じゃん。私のメイドを持っていくな!これは私のだ!と言い放ち、父親を激怒させる。常に物腰が柔らかく、自分の気持ちを主張しない小林さんが激昂するからこそ、迫力が凄い。

その後、トールは嬉しさの涙を浮かべながらも、小林さんを守るために父親と異空間で決着を着けにゆく。どちらかが倒れるまで決着が付かない親子喧嘩。そこに、小林さんは割り込む。

  • ドラゴンと人間は分かり合える?
    • 否。違いを知る事は単なるスタート。違いを確認しながら、近づいたり離れたりを繰り返していれば、尊敬や信頼や絆も出来る。
  • 共に暮らす事が出来る? 
    • 共に暮らす事はとっくに出来ている。問題は、ずっと続けられると信じられるか否か? 
      • 私は信じた。父親のあんたも、娘を信じてみせろよ!

これは、2話で小林さんがカンナに言った台詞に重なる。ずっと続けられると信じた、の部分は、13話までの同棲生活を経て導き出された小林さんのアンサーを付け加えた形である。その言葉を父親にぶつけた。

父親は、人間など認めない、バカ娘が、と言いながらも引き下がる。(正直、これで引き下がってくれるのか?とも思ったが、)親子の絆という観点で小林さんの言葉がよっぽど響いたのだろう。

小林さんのロジックの気持ちいところは、ルールを言い訳に、気持ちの問題をうやむやにしない所だと思う。

トールとカンナを実家に連れて行く小林さん

父親が去った後、飛んで抱きつくトールを抱き返さない小林さん。ごめんね、ワガママ言ってという台詞。

この時点で、既にノーマルモードの小林さんのテンションに戻っている。トールは私のモノだ!に対して謝罪しているのだと思うが、勢いで言ってしまった台詞でも、そこに嘘は無いし、トールは理解していて守ってくれた小林さんを凄く感謝している。

後日、実家にトールとカンナを連れて行く小林さん。事実上の結婚前提お付き合い宣言(?)で終わる。あまり百合百合する事もなく、綺麗な終わりだと思う。この上品なディレクションは上出来。

トールの物語

孤高の戦士トールの意識を変えた盗賊の少女

時系列で言えば、まず、12話の盗賊の少女に触れなければならない。

あっちの世界で混沌勢のドラゴンとして破壊の限りを尽くしてきた戦士としてのトール。圧倒的強さを持ち、自由に世界を飛び回る事が出来る存在のハズだった。

しかし、偶然、廃墟で出会った盗賊の少女と関わりトールの意識が変わる。

この世を自由に生きられるドラゴンってどんな気持ち? 私は自由を手にしたらメイドになりたい。(自ら隷属する事になるとしても)私が選ぶの。自由に選ぶの。

この会話の中で、トールは自分自身が何一つ選択権を持たない不自由な存在である事を察してしまう。過去一度も選択する事が無かった事に気付いてしまう。

この気付きは非常に重要なポイントである。普通に考えると、いくら命の恩人とは言え、下等な人間に召し使える事を許容する気持ちが無ければ、本作は成立しない。メイドになる、その原点の気持ちをキッチリ描いているところが見事だと思う。

命の恩人小林さんとの出会い

トールは神々や人間との戦いの中で、神の放った剣で致命傷を受け、次元を越えてこっちの世界の人里離れた山の中に逃げ込んできた。瀕死だった。(1話ラストの悪夢)

そこに酔っ払いの人間が来て神の剣を抜き、一命を取り留めた。それが小林さんであった。例え下等な人間であっても命の恩人には礼節を尽くす習わし。盃を酌み交わし意気投合する。行く当てが無ければ、ウチに来てメイドになれ、と頼まれる。独りぼっちのトールは、嬉しくて泣いて快諾する。(12話小林さんの夢の中の回想)

そして、翌朝、押し掛け女房的に小林さんのマンションを訪れる。メイドとして住まわせてもらう約束をしたと切り出すが、記憶に無いと断られ追い返されそうになる。干渉が許されないこっちの世界で身寄りもなく独り放り出された形。結局、トールの涙を見て小林さんが同居を認めて事なきを得る。(1話冒頭)

ここから、トール自身が選択する、異世界で人間のメイドとしてのトールの第二の人生が始まる。

トールの心境を考えると、下等な人間に合わせての生活は、ペットの犬猫に変身して生活するようなもので、苦労しか想像できない。それでも、他者と関りを持ちながら生きるという新しい価値観に、一点に希望を見出しての捨て身の行動だったのだろう。

急速にメイドとして馴染んでゆくトール

メイドというのは下僕ではなく仕事である。メイドが主人に召し使えるのも仕事であり、それに対する評価のフィードバックが無ければ働き甲斐もない。

その点、小林さんはメイドの在り方をトールに示し、出来ていない事は叱り、出来ている事は褒めるという、ある意味、的確にペットの躾けをこなし、トールにはメイドの仕事としての不安は余り感じさせない対応をしていたと思う。それでも、服を舐めたり、唾液で洗濯したり、尻尾肉を食卓に出したりするなどの習慣の違いについては、繰り返し叱られる事になる。

また、インターネットの存在を知り、自力でこっちの世界の情報を吸収し、あっという間にこっちの世界に馴染んでゆく。

異業の者としてのトールの不安と迷い

新居に引っ越し直後の休日の昼下がり、トールは小林さんに、私もうるさいですか? 迷惑ですか? と問いかける。小林さんは、こういう生活もありかな、と否定はしない。(3話)

ファフニールの新居を探している時、こっちの世界の人間にかぶれすぎている。あっちの世界に戻ったら人間を殺せるのか? どうせ人間は100年もたたずにすぐ死ぬのだから、肩入れし過ぎるな。とファフニールから警告される。しかし、トールはあっちの世界には戻らない。すぐ死ぬとしても今を大切にしたい、死に別れて悲しみが訪れたとしてもそれを後悔とは言わないと思う、と返す。(5話)

TV番組で超能力を見て超能力に異常な感心を示す。人間には負けたくないとトールは言うが、小林さんは人間の分からない部分にリーチしたい気持ちがそうさせると見ていた。トールはトールに出来る事をすれば良いと言われて、悲しい表情をするトール。(5話)

このシーンは、おそらく小林さんと添い遂げるために人間になりたいという深層心理と、それは叶わない事を再認識してしまった距離感の寂しさを描いたのではないかと思う。

海水浴場で、小林さんの両親の話が出て時に、自分の親に合わせたいが、合わせたら人間で有る小林さんは殺されてしまうな、と想像する。なぜ、普通の人間である小林さんは、ドラゴンと共生できるのか?その不思議について考えてしまうトール。(7話)

コミケ会場で、コミケ参加者を支える強大な力が、今ここに居る時間を大切にしたい気持ちと分かり、トール自身も小林さんを好きな今の気持ちを大切にしたいと、納得する。(7話)

7話では海水浴場でも、コミケ会場でも、トールのホームシックがキーワードになっていたと思う。両親の話、ドラゴンの姿で羽を伸ばしたい気持ち、そこを汲み取ってケアする小林さんの優しさが伺える。

カンナの弁当の件で小林さんと対決する事になるが、ルコアから小林さんと喧嘩するなんて珍しいと言われる。トールの居ない所で小林さんは、メイドと主人の関係だけど友だち関係でも良い、二人は対等だと思ってる、と言う。(8話)

エルマが小林さんの会社のOLになり、小林さんとエルマが近づいた事で嫉妬する。(8話)

8話では、今までも片鱗はあったが、メイドという立場を越えて小林さんが好きな気持ちが先行して行動してしまう戸惑いを見せた。

整理すると、メイドと主人の関係で始まったトールと小林さんではあるが、トールは内心から小林さんの事が好きであり、共に暮らしてゆけばゆくほど、好きの気持ちが肥大化してゆく。小林さんは優しいが主人としての優しさである。しかも小林さんが照れ屋でポーカーフェイスなので、トールを一個人として愛してくれているか見せない。小林さんに愛されたい。メイドという設定がミソなのである。

トールは明るく元気な表の面とは裏腹に、小林さんに近づきたいのに近づき切れない、という切ない悩みと葛藤を常に持っていた。そこがトールの魅力、というか本作のドラマの最大の魅力になっていたと思う。

終焉帝(父親)との親子喧嘩

13話で終焉帝(父親)が有無を言わさずトールをあっちの世界に連れ戻した。

そして、数日後、トールは小林さんのマンションの玄関に戻って来た。

この間、あっちの世界でトールは世界のルールに反しても、自分の選択と小林さんを好きな気持ちを大切にする事を信じて、タイミングを見て逃げて来たというところだろう。小林さんの顔を見て、てへっ、と弱々しい表情をするトールが切ない。

小林さんがトールは私のだ!というシーンで涙ぐむトール。親子喧嘩のために別の場所に移動するにあたり、小林さんに一回にっこり笑ってその場を立ち去るトール。「有難う、嬉しかった」であろう別れの台詞を省いた演出。

また、父親のそんな事(トールが良い娘である事)は分かっておる、の台詞にトールが赤面するカットを挟んでくるところが上手い。親だからこそ子供を心配する気持ちが有っての親子喧嘩である事を一瞬で理解させる演出が憎い。

最後は、フルパワーでぶつかる親子喧嘩に小林さんが割り込み、トールを信用しろ!の決め台詞で父親が元の世界に帰ってくれた。

トールはあっちの世界では2度死んだ。そして2回とも小林さんがトールを救った。好きとかの感情を超えた感謝の気持ち。小林さんに飛びつき、何をあげればいいですか?全部、全部あげます、の台詞でまた泣ける。

エピローグは、小林さんとの出会いを絶対に後悔しない、ただ今この時間を大切に…、とトールのモノローグで結ぶ。これは、5話の後悔しないと思う、から、13話までの経験を経て確証を持って、絶対に後悔しない、と断言できるに至った変化である。

カンナの物語

異質の中で共に生きる、を選ぶカンナ

2話でカンナは、いたずらの結果、あっちの世界から締め出されてこっちの世界に来た。親の怒りが静まるまでは戻れない。

事情を知った小林さんに、行く当てが無いならウチに来ないか?と言われ、最初は人間は信じられないと反発する。しかし、最初は信じられなくても一緒に暮らすうちに信用はできてくる、友達になろうとは言わない、一緒に居よう、と頭を撫でられながら諭される。

小学校に行く、を選ぶカンナ

4話でカンナは、小学生の集団登校を見て、自分も小学校に行きたいと言う。期待に胸を膨らませながら文房具を買い揃えてゆくカンナ。途中、学校指定の上履きが統一されているのは、男女、人種などの差異を無くすためであり、人間は異物を好まず時に異物は排除される事もある、と小林さんが話してカンナを不用意に不安がらせてしまう。

小学校デビューは、無事、好意を持って迎えられたかに見えたが、放課後、才川リコに目立ちすぎると因縁を付けられるも、ウソ泣きでその場を解決した。

カンナは他者に飢えている。友だちが欲しい気持ちが先行している。だから、敢えていじめられるリスクを承知で、人間の集団の中に身を置いた、という事だと思う。それは、2話の小林さんの言葉に通じる。怖がっているより、まず一緒に行動する、を始める。カンナはそのスタートの一歩を踏み出した。

才川と親友になるカンナ

とりあえず、カンナの立ち位置はスポーツも勉強も出来る人気者として定着してゆく。

友だちの中でも才川は、カンナの事が大好きで、カンナと才川は一緒に遊ぶようになり、急接近する。要するに、親友が出来た形である。

数話かけて、カンナと才川の距離は徐々に縮まってゆくように描かれていたが、才川のカンナへの憧れが強すぎて、少し肌が接触しただけで、沸騰して昇天する、というギャグ描写として活用された。

運動会を優勝に導くカンナ

9話の運動会というイベントは、小林さんという家族、クラスという仲間、両方と深く関わる特別なイベントであり、その事をとても楽しみにしていた。しかし、小林さんは仕事で来れないと断られその事で拗ねてしまう。他の子は、親が来てくれるのに、自分だけ親が来れない、というのが嫌なのである。

才川からは、親が来なくても、クラスで一致団結して勝利を勝ち取る、という楽しみもあるとたしなめられる。カンナは小林さんの仕事を覗き見して、納得して、来なくいいと小林さんに言う。その我慢の仕方がいじらしい。結局、小林さんは、そんなカンナの姿を見て、運動会に行くべきと考えが変わり、深夜残業などで仕事をやりくりして、運動会に参加する事にする。前日にその事を知り、大喜びするカンナ。

この集団で成果を出す醍醐味は、単独行動のドラゴンには無く、人間特有のモノである。運動会に向け、皆で練習を重ねてこその集団競技であり、運動会で勝つ。それは、カンナが人間社会に馴染んで生活する事の、集大成だったとも言える。

結果、カンナの3年2組は、3年生の中で優勝する。

カンナの物語は基本的に、運動会でほぼ閉じている。小林さんとも信頼関係にあり、小学校という集団の中でも溶け込んだ存在になっていた、という事だと思う。

サブタイトルリスト

最後になるが、本作のシリーズの流れを俯瞰して見るためのサブタイトルリストを下記に示す。OVAとして14話が存在するが、ここでは割愛させていただく。

見てわかる通り、本作は小林さんとトールが出会い、過ごした1年の物語である。

サブタイトル イベント
1話 史上最強のメイド、トール!(まあ、ドラゴンですから) 冬。トール同棲開始。滝谷と居酒屋。添い寝で悪夢。
2話 第二のドラゴン、カンナ!(ネタバレ全開ですね) 商店街の人気者トール。カンナ同棲開始。
3話 新生活、はじまる!(もちろんうまくいきません) 引っ越し。4月。引っ越しパーティ。
4話 カンナ、学校に行く!(その必要はないんですが) カンナ入学準備。登校開始。殺人ドッチボール。
5話 トールの社会勉強!(本人は出来ているつもりです) 5月。トール会社見学。ファフニール同棲開始。超能力TV番組。
6話 お宅訪問!(してないお宅もあります) 6月。才川家訪問。ルコア同棲開始。ファフニール同棲順調。
7話 夏の定番!(ぶっちゃけテコ入れ回ですね) 8月。海水浴。コミケ
8話 新たなるドラゴン、エルマ!(やっと出てきましたか) 9月。弁当料理対決。エルマ登場。エルマ出社。トール嫉妬。
9話 運動会!(ひねりも何もないですね) 10月。運動会。小林トール父兄参加。学年優勝。
10話 劇団ドラゴン、オンステージ!(劇団名あったんですね) 12月。劇団ドラゴン。X'masプレゼント。
11話 年末年始!(コミケネタはありません) 年末年始。こたつ。おせち料理作り。初詣。特別なオムライス。
12話 トールと小林、感動の出会い!(自分でハードル上げてますね) 2月。言いそびれるトールへの感謝。トールと小林の出会い。盗賊の少女。
13話 終焉帝、来る!(気がつけば最終回です) 父親の終焉帝。トール不在。トール父娘喧嘩。親子の信頼。終焉帝撤収。小林帰省。

2期制作発表について(2020.8.11追加)

2020年8月10日、原作漫画単行本10巻の発売日に合わせて、2021年京アニ制作で2期がOAされる事が公式に発表された。

もともと2期制作は発表されていたが、その後、7.18京アニ事件があり、白紙に戻ったモノと諦めていた。

正直、武本監督以外の方が監督しても、1期のメイドラゴンとは違うモノになってしまうかもしれない。出来れば、TVアニメの京アニ復帰作品は別の新規の作品でやった方がよいのではないか?という気持ちが強かった。

しかし、2期制作が公式に発表された以上、出来たものを額面通りに受け取るしか私には出来ないし、また、他の監督の方のメイドラゴンの新しい解釈が見られるのであれば、それを素直に受け止めて行こうと思う。

京アニファンとして、複雑な心境ではあるが、これからも京アニ作品を観続けて行きたい。

おわりに

私の好きなメイドラゴンについて、いつかブログを書こうと思っていて、やっとそれを整理する事ができた。

今回、ブログを書くにあたり何度か見直したが、本作は京アニの良さが凝縮された作品だと改めて感じた。

文章が長くなり過ぎましたが、長文お読みくださった方、ありがとうございます。

日本沈没2020(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

湯浅政明監督はインタビューでテーマを直球で語る人だな、と思っています。「作品に全て込めたから作品を観ろ!」というタイプじゃなく、割と細かく丁寧に語ってくれる。本作は、いろいろと衝撃的な要素が多数あり、テーマについて掘り下げるために、ネット上で確認出来るインタビュー記事、レビュー記事を読み直した上での考察を少し整理します。

一回、ブログ記事を書いていますが、今回は別記事に分けます。

テーマ考察

ナショナリズム

結論から言えば、本作は反ナショナリズムを貫く作品である。それは、リンク先の湯浅政明監督のインタビュー記事を観ても明らかである。

本作は、国家や民族を崇拝しないし、他国や他民族を否定しない。それが潔い。ドラマは残酷だが演出は超ドライ。感情的な盛り上げは無い。

本作が2020年東京オリンピックの開催直前を配信日に設定していたのは、ガンバレ!ニッポン的なナショナリズム喚起の意図があるのではないか?と勘ぐっていたのだが、全く逆のディレクションである事が驚きでもあった。

では、ガンバレ!ニッポンをどのように表現したのか?

個人が作る集団、先人の礎の積み重ねが作る未来の礎

それは、2028年の日本で、日本沈没という危機的状況を乗り越え生き延びてきた個人個人の横の繋がりや、先人と礎の上に積み重ねてゆく縦の繋がりを持って、集団(国家)のアイデンティティが作られ、それを尊く思い、自らも重ねていくというスタイルである。

単純に国民だから愛国心を持つ、というような従来のナショナリズムとは異なる次元で、日本選手(歩や剛)を応援する姿が描かれる。

クラッチ&ビルドではない、他者や過去の全否定はしない

本作は、一度日本沈没し再生する。当初、私は、これに対してスクラッチビルドを連想した。スクラッチビルドは、現在あるモノを全て破壊し、綺麗に消し去って、その上に新しいモノを作る事である。よくある都市部の再開発計画である。

本作でも人間やコミュニティの嫌悪すべき描写がいくつも描かれる。世間的には悪として描かれるカルト教団大麻などの違法行為とか実体は暴力団とか金塊巡り仲間割れとかも描くが、弱者救済だったり良い面も描かれる。何事も前と悪を表裏がある。それを一旦、日本沈没でスクラッチして浄化する、と考えられなくもない。

クラッチする事で良い面も悪い面も消え去ってしまうがそれでいいのか? 本作の答えは否である。

本作は過去を肯定し、過去の人の礎を尊いモノとして、日本復興の断面を描く。金継ぎがクローズアップされたように、過去を消し去るのではなく、過去の人の礎を大切にする、という解釈である。やはり、基礎、土台は生きる上で必要不可欠なのだと描かれる。

ある意味、そこを一般的に言われるナショナリズムとして解釈しているように思う。

それは、国籍人種の横軸で否定をしない事と同様に、過去も未来の縦軸も肯定する事とも言える。

本作にはそうで無い人も皮肉めいて描かれるが、それは物語の薬味であり、本質的な所はそうしたテーマで貫かれている、と感じた。

参照情報

おわりに

今回は情報整理の意味でまとめました。究極的なテーマは「国家とはなにか?」かと思いますが、本作のテーマは結局、

  • 偏見だけで相手を否定しない。当人同士で見極める。(9話)
  • 苦労を共にした横の繋がり、過去の人の礎、そうした拠り所は必要。そして未来に繋げる。(10話)

というところだったと思います。それは、従来の国家だからと盲目的に愛国心を持つのではなく、現場を生きる個人が考える、という現代的なメッセージだったと思います。

私個人はネトウヨだのパヨクだの、そうした議論はあまり関心がありません。こうした思想的な部分に触れてしまいそうな物語でありながら、思想的な薬味を大量に使っているのに、本質的には思想を全く語らないという作風が、今風というか器用な感じがしました。

日本沈没2020

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください!

はじめに

湯浅政明監督の問題作、「日本沈没2020」を観て色々思うところがあり、いつものように感想・考察にまとめました。

本作は、単純に生死を扱う物語というより、生きる上で拠り所となるモノをことごとく破壊してゆく展開が延々と続き、観ていてかなりのストレスとダメージを受けて辛いものがありました。しかし、ラストの展開は救いがあり、個人的には悪い作品ではなかったと思います。

今回は、アニメーション映像面ではあまり書けることがなく、物語面に絞って書いています。

  • 一部修正、追記(2020.7.26)

感想・考察

サブタイトル一覧

内容を整理するために各話ポイントを整理する。

サブタイトル (サブタイトル) ポイント
1話 オワリノハジマリ (終わりの始まり) 地震発生。神社に集結する武藤家。
2話 トーキョーサヨナラ (東京さよなら) 沖縄沈没。東京脱出。田舎サバイバル。父親死亡。
3話 マイオリタキボウ (舞い降りた希望) ガソリンスタンド。七海死亡。カイト登場。スーパー到着。
4話 ヒラカレタトビラ (開かれた扉) 国男登場。ダニエル登場。シャンシティ到着。
5話 カナシキゲンソウ (悲しき幻想) 教祖の死者降臨。週末大麻パーティ。国男暴走。教祖秘書の関係。
6話 コノセカイノオワリ (この世界の終わり) 寝たきり小野寺。生誕10周年。大地震。シャンシティ崩壊。
7話 ニッポンノヨアケ (日本の夜明け) 日本脱出船。メガフロート。漁船。救命ボート。
8話 ママサイテー (ママ最低) 歩と剛の救命ボート生活。母親春夫再会。母親死亡。
9話 ニッポンチンボツ 日本沈没 カイト小野寺再会。温泉ラップ。田所研究所。データ取得。春夫死亡。
10話 ハジマリノアサ (始まりの朝) 再隆起地点。カイト撤収。救出。ロシア病院。8年後、日本再興。

物語・テーマ

薄まった日本らしさ、からのスタート

2020年東京オリンピック。武藤家の嫁であるマリはフィリピン人。従って、歩と剛はフィリピン人と日本人のハーフ。家族構成からして国際化進む家族が主人公である。道中を共にするカイトはエストニア人。シャンシティに行く途中に合流したダニエルは亡国のユーゴスラビア人。登場人物に多く外国人を配置している。

行き詰まった日本人らしさ

主人公の歩は、日本人へのダメ出しを象徴する存在だったと思う。大地震で見捨てて来た友人、父親と七海が死んだのは自分のせいではないかという後悔の念。嫌な真実から目を逸らしイライラから母親と口論。これらのネガティブな要素は前半で特に強調された。

スーパー店長の国男は、手先も器用で電子工作にも明るく、しかし他人を信用せず、人の話を聞かない頑固な過去の日本人の象徴として描かれていたと思う。生粋の日本人でありながら、独りで生きる老人もまた、何もかも失い、モルヒネ中毒となり、よその子供を自分の孫と信じたい気持ちで、事件を起こす。

メガフロートに乗る乗らないを、日本人か否かで選別し、剛たちの乗船を拒む日本人。メガフロートはその後に誘爆を起こし沈没するというオチが付いている。ただし、この時、歩たちを漁船に乗せてくれた船長は、日本人ながら良き人として描かれた数少ないキャラだったと思う。

総じて、行き詰まった日本人、という構図だったように思う。

日本人と外国人の対比

弟の剛は、ネットゲームの国際的な交流相手から日本外部からの客観的な情報を入手する。母親のマリは、人助けやその場を明るくする気遣いをする。旦那の航一郎を喪った後は相当キツかったと思うが、時にグズる歩をなだめ、叱咤激励し前進した。 ダニエルは悲惨な状況でも道化で周囲を和ませた。カイトはちょっと特別な存在なので後述するが、歩たちが生き延びたのも彼のおかげだった。

総じて外国人は、前向きな役割を持って描かれていたように思う。

この構図は意図的な配置だったと思うが、その意図の考察は難しい。詳細は後述するが、単純に日本人をdisりたいのではなく、日本人の膿を描き、その上でなお、大好きな日本(祖国)を描くというメリハリのための演出だったのかな、と想像している。

新興宗教のシャンシティの秩序

4話から6話に登場する新興宗教。なぜ、本作に新興宗教が必要だったのか? と疑問に思う視聴者も多いと思うが、これはずばり日本国家の比喩だと思う。シャンシティの崩壊=日本国家の崩壊を描いたのだと考えている。

フェンスで囲まれた敷地、入り口にはゲートがあり、信者は大人であれば労働、子供は学校で教育。週末には大麻パーティーでガス抜きをするが基本は飼い慣らされた信者、という様子で描かれる。

信者は何故、その新興宗教の中に居続けるのか? それは信者が救いを求めるからである。信者は、何かしらの後悔があり、それを埋め合わせるために教祖の奇跡を求める。教祖の奇跡は死者の言葉を聞く事であり、信者が未練に思う死者と会話したい気持ちの一心で順番待ちをしている。

大麻は信者の思考能力を低下させ、教祖に従わせるための手段として使われるのだと思われるが、そのような描写はなかった。本作では単純に教祖の能力は本物であると描かれた。

歩たち一行は、このシャンシティでひと時の安息を得る。ゆっくり睡眠し、キチンと食事をし、ダニエルの道化に笑い、大麻パーティーでストレス発散した。人間が生きるにはこうしたコミュニティが必要なのだと言う事を、奇しくも新興宗教を借りて描かれた形である。実際、歩はこれまでマリとの衝突が多かったが、大麻パーティ後、髪を切り、それまでの後ろ向きな自分を吹っ切ったという変化が描かれた。

ちなみに、小野寺が喋れない体になって、ここの病棟に拘束されていたのか? については全く描かれなかった。日本国家にとって都合の悪い情報を垂れ流されるのを嫌う何者かの意図か? その辺りは妄想の域を出ない。

教祖の室田は障害を持った子供を溺愛しており、秘書と肉体関係を持ち、新興宗教暴力団でありヤクザの組長という側面も描かれた。相当の金塊を持ち、教団の秩序を守ってきたが、大地震とともに信者が敷地内から逃げ出し、幹部は金塊を持ち逃げしようとし、子供は事故死し、何もかも失って教団は崩壊する。

徹底的な破壊と喪失

本作が観ていて辛いのは、人生に必要なモノを徹底的に破壊する点にある。

まず、震災による東京の破壊。水没し始める都市。文明の象徴である都市機能の消失。

そして、身近な人は強い者から死んでゆく。父親の航一郎。次に七海。この二人の死は震災そのものではなく、偶然の事故死であり、かけがえのない命も呆気なく消えて行く。死に対する無力感を味わう事になる。

次に新興宗教のシャンシティの崩壊。ここは閉じた世界ではあるが、ある意味、国家にも似た秩序が描かれていた。その秩序も大地震の前に崩壊した。

日本脱出船が出て来たと思ったら、どんどん陸地が水没してゆき。乗船した漁船も沈没、海の上の救命ボートの中で、歩と剛の二人だけのシーンとなる。地に足も付かず漂流する生活。映像は夜であり、外部と途絶し、心理的にも内面に向かうしかない、という追い込まれた演出がなされた。

そして、再会した母親は、子供たちを助けようとして死んでしまう。

本作は、歩と剛から一旦全てを奪う。何故、ここまで追い込まなければならなかったのか? それは、本作のタイトルが日本国の領土のみならず、国民とそれを形成する国家、および文化を失う事を示すためである。そして、それを視聴者と共有する旅を続けてきた。

温泉ラップバトルと春夫の死

9話のラップシーンは、本作が国家を扱うために、どうしてもネトウヨとか、パヨクという低水準な議論になる事を避けるためのクサビとして効いている。

  • 剛は、反日
  • 春夫は、親日
  • 歩は、非情事態に反日親日も人種も関係ねえ。人間同士で判断しろ。

その後、春夫の犠牲により、日本領土隆起予想データが守られる。春夫が陸上選手だったことから命懸けの挑戦に立候補し、そして賭けに負けた形である。ただ、春夫は逃げていた陸上に再挑戦し、データを死守して死ぬ直前の瞬間に微笑んでいた。しかし、カイトは犠牲者を出した自分を責め怒り叫ぶ。そんなの認めねえ、と否定する。

ある意味、春夫は日本的な自己犠牲として捉える事が出来るが、そのドラマを否定するカイトの側も同時に描く。本作の左右のバランス調整の妙が伺える一面でもある。

謎のユーチューバー、カイト

本作の最大のフィクションとも言えるカイトという水先案内人の存在。エストニア人。カイトを一言で表現すると言うと冒険家なのだと思う。彼の情報、財力、行動力が無ければ、歩と剛は生き延びる事は出来なかった。

彼がパラグライダーを捨てて歩たちとともに行動した理由は興味本位だったのかもしれない。途中、小野寺に出会い田所研究所の話を聞いてアーカイブとデータの存在を知った時点でスクープネタの取材の目的も出来たのだろう。

彼は常にクールなヒーローであり、温泉ラップの際は、周囲の気まずい空気を察知して、みんなの腹の内を吐き出させた。この時、彼はラップでの主張はしない。物語の牽引者であるが、あくまで傍観者であった。

印象的だったのは、自分が原因で死者を出す事は禁じていた点。自分は持っているとして強気で無茶な行動をしてきたが、殺人者になる事だけは避けて来た。

最後の最後で、悪意を持って、歩と剛を見捨てて一人気球で逃げ出した。と思ったのだが、Netflixの各話あらすじを読むと、カイトは仲間を助けるために気球に乗ってネット接続を試みたとある。

歩と剛を見捨てた=見殺しという考えだとカイトの犠牲者は出さないというポリシーに反するし、カイトが自己犠牲により他人を助けるのは春夫にならった行動という事になり、これもまたカイトのポリシーに反するように思うのだが、どちらとも取れる演出だったと思う。

いずれにせよ、彼は私の中で消化しきれない謎設定人物だった。

破壊の先に残ったもの

前述の通り、歩と剛は徹底的な破壊と喪失を経験する。その絶望感の中で「死にたい」ではなく「生きたい」という気持ちが残った。そして、未来を信じて再隆起地点に向かう行動を取った。その生きる力が、本作のテーマの一つだと思う。

全てを失っても、記憶さえあれば再生可能な国家

本作のメインテーマは国家の消失だったと思う。領土を失い、国民の大多数を失い、国家として機能しなくなったとしても、生きている限り、アイデンティティとしての国は心の中で有り続ける。

残された日本人は各国にバラバラに生き延びたが、残された日本の記録をもとに、再隆起した領土に日本再興をしてゆく話を紹介し、足を切断しても障害者スポーツで活躍する歩の姿を映して物語は結ばれる。

このラストを見て連想されるのがイスラエルである。国土をもたず世界中に散開して生きながらえたユダヤ人が、文化を絶やさず再び集結してイスラエルを建国した話を連想した。亡国となっても国民が文化を守れば、いつかまた再建できる。

また歴史上、日本に吸収された、琉球民族アイヌ民族も、共通言語としては日本語に統一されてしまったものの、その文化を伝え残せばアイデンティティは生き続ける。

逆に言えば、国家が国民を作るのではなく、国民が集まって国家が成立する。過去の人の礎の上に今を生き、今を生きる人を礎にして未来の人を生かす。だから、個人個人がその国の文化を大切に残し、引継ぎ続ければ、国家は永遠不滅である。

ただし、ダニエルはユーゴスラビア人であり祖国を失った者として登場する。そして、生き続けるためにコミュニティに参加するが、彼の場合は新興宗教のシャンシティであった。

本作の前半では、繰り返し日本人にダメ出しするようなネガティブ描写が繰り返されたのも、それでも良かったところが多数あり、失いたくないという気持ちを明確に打ち出すための演出だったと考えている。

本作は生き延びた多数の日本人が残されたアーカイブから再建する事を望み、世界もそれを認めたとしている。だからこそ、日本人に限らず、祖国を大切にして欲しい、というシンプルなメッセージに感じた。

Netflix配信ということについて(2020.7.26追記)

本作は全世界同時配信の作品である意味を考えると、「祖国を大切にして欲しい」というメッセージは日本に限定するものでは無く、それぞれの視聴者の祖国に置き換えられると考えるのが自然であろう。

この配信が東京オリンピックの直前を見越したスケジューリングであった事を考えると、制作側のナショナリズム喚起の意図も感じなくも無いが、その表面的な話に流されず、祖国を尊重し、他国もまた尊重するという拡大解釈まで持って行ってよい内容に感じた。

本作は、良くも悪くも個人個人の集合と継承が国家を作るというニュアンスで、それでもそのアイデンティティを無かった事にはしたくないという気持ちと、他国もそれを尊重するという大筋であり、他者(他国)否定は含まれない点が、現代的とも思う。

なお、ダニエルの祖国、ユーゴスラビアはスラブ人の複数民族の統合国家であったが、各国各民族の独立機運の高まりから生じたユーゴスラビア紛争により解体された。民族による争いの悲劇の末路が、祖国を失う事となった。日本沈没には民族紛争は無く、自然災害が原因で日本が消滅しそうになる。ここに、日本民族だからどうこうという話は出てこない。その意味で、民族を切り離した物語展開となっている。もし、これを反ナショナリズムというなら、本作はそう言えるのかもしれない。

余談ながら、シャンシティはカルト教団である事は間違いないのだが、その存在を悪とはせずに、歩たちを助ける存在として描かれた。この辺りの微妙なディレクションも、もしかしたら全世界配信を意識して考慮したものなのかも、と勘ぐっているが、これは妄想に過ぎない。

脚本について

本作は、アニメーションとしては異例の脚本だったと思う。脚本は、吉高寿男という方。私はよく存じ上げていなかったのだが、wikiを拝見したところ、主に舞台脚本を書かれている模様。

物語が進むにつれ、最初は都市生活から始まり、新興宗教のシャンシティや、地面を失い海上で内面に向かってゆく方向で進んだ事や、9話の再浮上データを走って拾いに行くシーンの演出など、言われてみると舞台演劇っぽい作風だったように思う。

日本のアニメーションが得意としてきたデフォルメされた動きや詳細な風景描写とは正反対な登場人物の内面描写に重きを置いた作品だとは感じていたが、舞台脚本とアニメーション映像のマッチングという難しい挑戦だったと思う。

おわりに

本作は、正直観るのがキツかったのですが、最後に救われました。物語志向の私としては、ひとまず満足です。

舞台脚本をアニメーション映像に落とし込む、という作風は個人的には新鮮で物語の強度は高いので、これはこれでアリなのかと思いました。

2020年春期アニメ感想総括

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はじめに

毎度、毎期のアニメ感想総括です。

今期、観た作品は、下記7本。コロナ禍の状況でOA一時中断の作品も見受けられましたが、それでも私にしては結構、多い視聴数でした。作風もそれぞれ違い、それぞれを楽しむ事ができました。

ただし、LISTNERSだけは、視聴途中で止まってしまっていて視聴未完のため、別途追記とさせていただきます。

感想・考察

プリンセスコネクト!Re:Dive

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 綺麗で良く動くアニメーション映像の気持ち良さとレイアウトのカッコ良さ
    • 物語を薄味にして、美食殿4人の日常生活の楽しさをキッチリ描き、キャラに愛着を持たせるディレクション
    • ギャグとシリアスを緩急自在に扱う演出の巧みさ
  • cons
    • 特に無し

本作はソシャゲ原作のアニメ化作品であり、ソシャゲの宣伝作品でもある。

本作の見所は何と言っても、アニメーション映像の気持ち良さだと思う。とにかく綺麗で良く動く。街並みや自然の背景も緻密で綺麗。動きだけでなくレイアウトも力強くてカッコ良い。そうした映像が毎週安定して視聴できる幸せ。これらは殆どの脚本、大半の絵コンテ、さらに音響監督も努めた金崎貴臣監督の手腕によるところが大きいのではないかと想像する。

本作のラストは、美食殿の各キャラの関係において、互いの理解を少し深め、強敵を倒して一段落。その後も日常に戻り冒険は続く、というところで終わる。各キャラの問題は未解決であり、物語としては何も終わっていない。おそらく、物語としてはソシャゲで続きをお楽しみください、という事であろう。

では、アニメとしての売りは何なのか? おそらく、アニメではキャラの魅力を十分に引き出しキャラを好きになってもらい、ソシャゲに誘導する事を目的とするディレクションだったのではないかと思う。これはこれでアリである。

本作は、要所にシリアスな活劇はあるが、基本は美食殿の何気ない生活を描き、一緒に生活していて楽しい雰囲気作りに注力されていた。共同生活を営むギルドハウスも良くデザインされており、玄関入ってすぐに吹き抜けの広々としたダイニングがあり、脇に料理道具や食材が並ぶ巨大なキッチンがある。街に出かけてはレストランで美味しいモノをたらふく食べる。冒険に出かけては野営で採れた肉や魚や果実を食べる。コッコロがむすんだおにぎりを仲間と一緒に食べるだけ美味しい。そうした食事のシーンは毎話必ず挿入されていた。

しかも、食事のシーンでキャラの心情も多々描かれる。1話でランドソルの街で宿泊のアテも無く夕暮れてしまった時にユウキと一緒にコッコロが食べたクレープの美味しさで気持ちが救われたり、2話のラストで慣れ合いはしないとその場を立ち去り、独りおにぎりを食べて尻尾をふってしまったキャルなど食事密着の演出も冴えていた。馬鹿馬鹿しくて笑ったのは虫料理バトルで無駄とも言える調理シーンとブッチャー(?)の昇天シーン。ここでも、悪漢に拳ではなく調理で挑むペコリーヌの熱さと、レモン汁でペコリーヌを後押しするキャロのドラマが、ギャグシーンに溶け込んだ演出となっている。

私はキャロが大好きで、スパイと仲間の葛藤のドラマを抱えている点も、キャラデも、わちゃわちゃした性格も2話の時点ですぐに気に入ってしまった。ペコリーヌ、コッコロ、ユウキの3人は ひょうひょうとした感じで描かれていたので、ドラマの軸はキャロが担当なのだろうと想像していた。しかし、ラストはペコリーヌの心の傷の救済と4人の絆がより深まり強敵を倒す、という展開を観せる。ペコリーヌは元気で熱血として描かれてきたので不意打ちを喰らった形である。

ラストのドラマのきっかけは、敵に襲われるキャロを捨て身で守るペコリーヌだった。半分裏切り者である自責の念から「もう無理…」と呟いてしまったキャロの台詞を聞き、大切な人が遠のいて行くトラウマでペコリーヌに哀しみの渦に呑まれてしまう。そして、ペコリーヌを抱擁し癒すコッコロ。ペコリーヌのトラウマを知り独り敵と戦い苦戦するキャロ。回復して参戦するペコリーヌとコッコロ。魔法が自分を滅ぼす運命を知ってなお、これ以上仲間を失いたくない決意で戦うユウキ。4人が仲間を思う気持ちで一致団結し強敵を倒すという構図。12話13話のドラマは秀逸で、これも全体を通して積み上げた日常芝居の上に成り立つ計算されたシリーズ構成だったっと思う。

本作はソシャゲ原作という事もあり、美食殿の他のギルドの美少女サブキャラも多数登場する。それぞれのキャラも個性的で魅力的だが、数が多すぎて紹介だけに留まる形である。各話にちょい役として浅く効率に紹介してゆく雰囲気だが、話が脱線していきそうになるのに最終的にはキッチリ収まるのも、ある意味構成力の高さだろう。

本来、私は物語重視派ではあるが、本作は薄味な物語に対して非常に贅沢なキャラ物として良く出来ていたし、個人的に非常に満足度の高い作品となった。

アルテ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 朝ドラヒロイン的な清々しさの、アルテの葛藤と成長のドラマ
    • 職人としての自立を目標とするお仕事モノとしてのテーマ
  • cons
    • 分かりにくかった、職人アルテの聡明さや実力

今期のシリーズ構成=吉田玲子、時代考証鈴木貴昭作品。

16世紀初頭、芸術の中心がフィレンツェからヴェネツィアに移ろうとする時代。女性でありながら、当時男の仕事とされる職人として自立を目指すアルテの葛藤と成長のドラマを描く。

本作の魅力はひたすらに前向きなアルテの行動とバイタリティにあり、それを見ている視聴者も元気をもらう形を目指していた事は明白である。しかし、昨今の過剰なジェンダー意識もあり、どうしてもそうしたフェミ視点に巻き込まれやすい作品でもあると感じた。

前半のフィレンツェ編では、アルテは仕事には個人の技能だけでなく、相手を良く見て相手の要望に答える事、そして人間関係(コネクション)の構築が重要な事を身体で覚え体現してゆくところがポイントだったと思う。そして、後編のヴェネツィア編では、遠く故郷を離れ、他人の家族の愛を知り、生きる上で愛が必要な事を再認識する。アルテはレオ親方の元で修行する道を選ぶが、それも師弟愛とも言える。

結局、アルテが悩まされ続けて来た「女性」「貴族」という肩書の呪いは、作品≒人間性で語り合いたいとアルテが思う事で、その重荷は取れてしまったのだと思う。そして、その素地はフィレンツェでのコネづくりで既に出来ていて、ヴェネツィアでファリエル家の人達と触れ、レオ親方の宗教画を観て、作品≒人間性の考えを強めた形だ。

余談ながら、フィレンツェ=昭和時代、ヴェネツィア=平成時代とも考えられる。昭和はもっと前の大正、明治でも良いかもしれない。頑固気質の職人の時代と、色々な文化概念を取り入れ価値観を多様化した時代。ある意味、アルテは、昭和から平成にタイムスリップした。そこでは、新しい価値観と引き換えに、人々は不器用になり愛に飢えていた。違う時代を生きたからこそ、その違いと、変わらなモノの本質を感じる事が出来たのかも知れない。

アルテは作劇上、仕事の辛さが伝わらなければ意味が無いところもあるのだが、アルテの性格や作風もあり、重くならない様にコミカルに描かれていた。ただ本来、工房の職人というのは様々なスキルを要求される難しい職種である。自立して認めてもらえるためには、技術技能や、交渉や、明晰な頭脳で相手を圧倒してゆくしかないのだと思う。しかし、本作はアルテの笑顔とド根性だけでひたすら押し通した感がある。だから、お仕事物としての説得力には欠けてしまう点を正直残念に思った。

テーマ的にどうしても女性の社会進出とか女性差別とかフェミ的な視点で見られる事が多いと思われるが、本作を通してみた結果、そうした肩書きの色眼鏡を取り外し、中身で勝負という内容に思う。本質を語らず表面的な話題で終わるのは勿体ない作品だと思う。

イエスタデイをうたって

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 昭和を連想させる、不器用で手探りのコミュニケーションの濃密な恋愛ドラマ
      • 真剣にコミュニケーションに向き合う事のドキドキを思い出させてくれるという美点
    • TVアニメとは思えないほどリアル寄りで雰囲気のある芝居と作画
  • cons
    • 陸生と晴の強引なハッピーエンドへの違和感

制作会社は動画工房。ストーリー構成、監督は藤原佳幸動画工房と言えば、コミカルなきらら系作品が主で、超安定作画、丁寧過ぎる設定や描写にこだわりの深さを感じさせるハイカロリーで真面目な作品が多い印象である。藤原監督は、NEW GAME!でコメディの中にも泣きのドラマを嫌味なく入れてくるバランスの良さが持ち味だと思う。本作は、従来のライトな作風から離れ、おおよそTVアニメに向かないリアル寄りの重厚な芝居で恋愛ドラマを魅せる挑戦的な試みだったと思う。

余談だが、安定した品質で作品を作り続ける制作会社が、従来の常識に捕らわれないハイカロリーな作品を作りだしてゆく姿を見て、動画工房は、京都アニメーションのフォロワーとなり得るのではないか?と感じている。

リアル寄りの芝居という点では、例えば腰かけてタバコを吸うシーンとか、二人でトボトボ歩いたり、家の前で別れ際の会話をしたり、そうしたシーンにキャラの思いが重なってくる。派手なアクションやデフォルメではなく静かな動作で芝居で伝える。時に沈黙のシーンもあるわけだから、そうした事も目や口の表情で心情を語らなければならない。逆に後ろ姿で語るというのもあるが、本作ではそうして隠すのではなく、積極的に描いて語っていたように思う。また、榀子の私服が無意味に線が多かったり、福田の披露宴にカメラマンとして参加した陸生が線の入ったスラックスを穿いて帰りに歩くシーンがあったり、演出的な逃げで省略可できそうな事も、真向勝負で作画していた。本作の作画にかける気合を感じる部分である。

対して、声の芝居も上手い。小林親弘のボソボソとした感じながら誠実そうな雰囲気を醸し出す芝居が特に良い。周囲も花澤香菜宮本侑芽花江夏樹とそうそうたる実力派で固められている。どのキャラも呟き的なトーンだったり、普段の脱力した日常会話だったり、強弱の振れ幅の広い芝居があり、見事に演じきっていた。

本作は恋愛ドラマである。人が人を好きにる。ときめき、幸福感、切なさ、嫉妬、憎悪。ある意味、恋愛は熱病であり、人の理性を失わせ狂わせる。

男女が互いに相手の様子を見ながら探り合いの付き合う事は、日常にありふれている。陸生の優しさと、榀子の臆病さ、互いに引き合うのに一線を越えられない姿を恋愛ドラマを通して見るもどかしさ。本作はそこを丁寧に描いた。

榀子と浪の関係は昔からの姉弟みたいなもの。だから、榀子は浪からのアプローチが鬱陶しく、ましてや高校教師と生徒の恋愛はスキャンダルでもあり、そこから逃げたい気持ちで榀子は陸生を彼氏にしようとしたとも考えられる。浪は、高校を卒業した事で教師生徒の制約が外れればという思いがあったに違いないが、その時すでに榀子と陸生が恋人になった事に気付き、腹を立ててその場を走り去った。浪の行動は子供であるが気持ちは分かる。この時、榀子は陸生よりも浪を追いかけた。それはそのまま恋愛か姉弟かの天秤で、姉弟を選んだ事になる。勿論、榀子は物分かりの良い陸生より、駄々っ子の浪を何とかしなくちゃ、という気持ちだろう。だが、榀子はそれだけ恋愛にはハマっていないという事である。

陸生は、自分から踏み込まず相手が近づいてくるのを待っていたが、その優しさのせいで、榀子が迷った時に言い訳をさせてしまう。好きだから優しくして嫌われたくない。でも、その壁を越えた先の恋人ごっこを越えた恋愛があり、責任があり、幸せだったり不幸だったりがある。

その一線を越えられない事に付いて、視聴者は陸生や榀子を臆病者と一蹴する事は出来る。しかし、フィクションである陸生や榀子の気持ちや行動も十分にあり得るリアリティを持ち、そうした他人のドラマに触れどう感じるか? というのがエンタメであると思う。90年代までは、こうしたモヤモヤした恋愛ドラマは腐るほど存在したが、最近はあまり見かけないように思う。時代がもっと分かりやすく、ストレスの少ないエンタメを要求しているのかもしれないし、「抑圧された恋愛」に限らず、現代は我慢する時代じゃないのかもしれない。だからなのか、この手の恋愛ドラマを逆に新鮮に感じたりする。

結局、陸生と榀子の関係はリセットされ、普通の友達関係に落ち着いた。そして、陸生が晴に告白し両想いが成立する、というラストが描かれた。

私は、陸生が晴を恋愛対象として好きな気持ちは全く描かれていなかったので、このラストは感突に思えたし、キャラの気持ちの一貫性の無さを感じてしまった。

これは私の想像でしかないが、本作のスタッフは、もともと陸生と榀子のもどかしい恋愛ドラマを描く事に挑戦したくてそこに尺を割いたのだと思う。陸生と晴のカップルだと晴のストレートさから、そうした恋愛ドラマになりにくい。むしろ、晴を一方的な負け犬にしておきストレスを溜めさせる方が、耐え忍ぶ恋愛として違和感なく恋愛ドラマに参加出来る。

また、このラストは4人が決定的に決別した形をとらず、現状維持に近い状況とも言える。物語として人間関係の破壊を描かなかったのは、作品の世界観の余韻を保つためだったのかもしれないし、それがキャラへの思いやりだとも言えなくもない。

この想定であれば、榀子と付き合っている間、陸生が晴を好きな気持ちを見せてしまうと陸生の優柔不断さが強調され、陸生の誠実さが失われてしまうため、そこを封印したのだと思う。ある種の演出的なトリックである。

いずれにせよ、そうした制作側の考察は出来るが、それがキャラを描く上でご都合主義的なノイズに感じてしまった点を個人的には残念に思った。

映像の技術面、演技の高さは評価されるべきだが、文芸面での物語のラストの形が強引で、個人的には違和感を感じてしまった点をネガ意見として率直に記しておく。

邪神ちゃんドロップキック'(ダッシュ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 最近では希少な正統派ナンセンスギャグアニメ
    • 猟奇的な笑いと思いきや、意外とハートウォーミングで分かりやすいドラマ
  • cons
    • 現代におけるナンセンスギャグの壁・難しさを感じてしまう点

私が本作を観始めたキッカケは「邪神ちゃんはトムジェリ」という発言をSNSで見かけたからである。

昨今、笑えるアニメ自体はあるが、あくまでコメディ的な笑いの作品が多く、純粋なギャグアニメというのは最近ご無沙汰しているような気がしていた。OA前にYouTubeでOP動画を配信しており、先ほどの言葉とOP動画だけで世界観が掴めたような気がした。

ゆりねを殺せば邪神ちゃんは魔界に帰れるが、邪神ちゃんが常に返り討ちに合うくらいゆりねは強い。邪神ちゃんは悪魔なので胴体を半分に切り裂いたりしても死なない事が分かっており、ゆりねもお仕置きと称して割と邪神ちゃんを残虐に扱いがち。結果、邪神ちゃんはゆりねに常に粛正されながら、人間界でゆりねとの同居生活を送る。

邪神ちゃんは根性は曲がっていたり、ギャンブル癖はあるが、料理上手で友だち思いの良い面も持っている。時に魔界の友だちがアパートに遊びに来たり、天界を追放された天使とも交流があったりする。大体悪魔は良い人で、天使は腹黒というのが作品のアウトライン。

1話は、正直、前シリーズに追いつくための登場人物、設定説明で始まり、邪神ちゃんの脳内会議だったり、カオスなムード漂い、置いてけぼりを喰らった感が強かった。

しかし、見続けていると邪神ちゃんの友だち思いの良いエピソードなどが中心となり、段々と見易くなってくる。大体、邪神ちゃんが何か悪だくみ、もしくは人助けをするが、それがエスカレートして馬鹿馬鹿しさが増してゆくのが基本。しかし、それ以外にも不意打ち的にギャグの変化球を投げてくることもある。そうして徐々に笑いのスイッチが入り温まってくる。ナンセンスギャグも反復するうちに馴染んで笑えてくるモノである。キャラデザインや表情も萌えアニメ的だが、可愛くて分かりやすいのも良い。

ただ、キャラの行動パターンやお約束に馴染んで笑えるようになってきても、最終的には馬鹿笑いするには至らなかった、というのが正直なところ。

私は昔々、元祖天才バカボンが大好きで大笑いしながら観ていたが、そういうものを期待していた。ただ、最近、YouTube元祖天才バカボンの1話~3話の無料配信を久々に拝見したのだが、こちらも爆笑には至らず似たような感触だった事を考えると、観る側の私が年を取って変わってしまったのか、もしくは再び温まるまでに物凄い時間がかかるのかもしれない。ギャグ作品不遇の時代を感じてしまった。

波よ聞いてくれ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 圧倒され、つい呑み込まれてしまう、強烈な鼓田ミナレのパーソナリティと喋り(脚本も芝居も)
    • 一見、毒々しそうにみえるが、実際には笑いと元気が出てくる不思議なテイスト
    • 深夜ラジオの現場という珍しい設定とその意義
  • cons
    • 特に無し

本作は、クセの有り過ぎる女性、鼓田ミナレ(25歳)が深夜ラジオのパーソナリティに抜擢され、スープカレー屋のバイトをしながら地元ラジオ局で放送の仕事に携わってゆくという、青年漫画原作の、アニメとしては一風変わった雰囲気の作品である。

舞台がラジオ局なので、その辺りの用語や設定が飛び交い、お仕事モノとしても成立している。

本作の目玉は、とにもかくにもミナレの喋りに尽きる。会話の内容も速度も超過密なマシンガントークだが、滑舌が良いため内容が聞き取れないという事がない。CVの杉山里穂さんの迫真の演技が光る。ミナレの声は杉山さん以外はもう考えられないくらいハマリ役である。

ミナレは基本だらしない性格だが、頭の回転も早く洞察力も高く妄想力もある。物事の表層でとらえるのではなく、探偵の様に深読みできる。だから、ミナレの考えを言葉にすること自体がネタのように面白い。ただ、性格上、冷静さが無く勢いで突っ走るので、折角の考察も見当違いの方向に暴走する事が多い。お笑いの基本がボタンの掛け違いのエスカレートであるならば、ミナレの言論、行動自体がネタである。

1話は、金を持ち逃げした元カレの光雄の愚痴を居酒屋で録音され、ラジオで放送されてしまい、放送を止めさせるように申し立てるように慌ててラジオ局に乗り込む。しかし、放送を止める代わりに即興で生トークさせられる。そのトークの内容は、悪口の主語を北九州男性から光雄個人に訂正し、北九州男性に謝罪するとともに、ただし光雄は死ね!という内容であった。行動はハチャメチャで破天荒なのにマスを意識した、ある意味放送倫理を意識した内容なのが面白い。ミナレは激しい感情のぶつける中でもリスナーに共感が得られる部分があるからこそマス向けのラジオ番組として成立する。

ミナレはバイト先の中原が好いている事は承知していても男女の関係にはならないと明言し断る。ミナレの行動自体は正直で潔いが、中原にとっては生殺し的な、ある種の押しつけである。同じアパートの住民であった沖の部屋での事件も結局はミナレのだらしなさが原因で沖に大迷惑をかけていた。ミナレは自由で束縛されないが、リアルでは無自覚に周囲に負担を掛けながら生きてきた。

10話の光雄との再会デート回。問題の光雄という人物が登場し、母性本能をくすぐるクズ男として登場。あれだけ恨んでいたのに、少し優しくされ甘えられただけで、ミナレはまた光雄にほだされてしまう。男を見る目が無く騙されやすい。もともと美人であの激しい気性なので、普通の男はミナレに甘えるなどとは思わないが、逆にそこがミナレの弱点になっていたところは妙な説得力がある。

光雄はミナレの放送で命拾いをしており、その感謝の気持ちで借金の半額を返済するという流れではあるが、全額返済で無いところに、手切れではなく復縁を望む意図がチラ見えする。結局、ミナレが光雄の部屋で女性の髪の毛を見つけて我に返り、どうせ返済金も他の女性に貢がせた金だろうと、光雄の首をへし折って絶交を言い渡してミナレは帰る。ミナレはやる事が極端なのだ。

そして、10話11話の光雄埋葬&懺悔回。ミナレの光雄への気持ちを成仏させるために、麻藤は生放送ラジオドラマを企画する。脚本は、ミナレと麻藤が光雄を埋葬し、麻藤、光雄、ミナレの順番で3人が懺悔をし、北欧の地で生まれ変わるという雑な内容。光雄の台詞は、再会デート中に録音した音声から久連木がキャラ分析して書き起こした。ミナレのアドリブの余白は大きく残している。

面白いのはミナレの懺悔の時の台詞である。麻藤も光雄も心にわだかまる過去の罪を謝罪し転生してゆく。だが、ミナレは「後悔を後悔した事はない!ただ挽回したい!」と叫ぶ。ミナレは過去を否定せず受け入れる。放送を聞く親、同僚、知人、そして自分自身の誰も否定せずに肯定する。他人にかけている迷惑を受け止めて、その上でその人達にも何かを返します、というポジティブで未来向きな宣言である。

これは、1話の光雄は死ね!の台詞と対になるラジオドラマの脚本だったのだが、生まれ変わる=現世での人の繋がりを捨てる事をミナレは拒んだ。放送時の音響効果の滑稽さや、脚本のぶっ飛んだ設定や、ミナレのマシンガントークに持っていかれるが、文芸的にはかなり練り込まれた内容だと思うし、ギャグと文芸を両立させた手腕は見事だと思った。

ラストの12話の北海道胆振東部地震回。災害時におけるラジオでの心の繋がり。今までミナレの内面で描かれてきたラジオ番組は、停電で真っ暗になった夜空から一夜開けた早朝に、マスという非常に大きな力を持っている事を再認識し、やりがいを見出す。11話の「挽回する」の台詞が効いてくる。

一般的に、原作継続している作品のアニメ化は、物語途中でぶつ切りになる可能性が高く、カタルシスが無くなりやすい。本作は、地震とミナレの決意で綺麗に締める上出来のシリーズ構成に感心した。

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 悪役令嬢というマイナススタート転生で破滅を防ぐ、という意外性ある設定
    • カタリナのバイタリティと爽やかさの人間性でみせる、俺TUEEEハーレム展開のライトコメディの楽しさ
  • cons
    • 悪役令嬢という逆境の重さを感じさせない、薄味すぎる物語やドラマ

本作は、交通事故死した女子高生が、女性向けゲームの世界に転生する物語であるが、転生先が、どのルートでも人生破滅する悪役令嬢の幼少期であり、破滅回避し生き続けるために主人公が奮闘する物語である。

ゲームでは敵を多く作りながら生きてきた悪役令嬢だったが、主人公の持ち前のポジティブさと真剣さと思いやりで周囲の人間を味方に付けてゆき、時に無自覚に、他人のイベント(フラグ)を横取りして他のカップルの恋愛も全部主人公への好感度をアップに書き直してゆく。ただ、その好感度独り占めの状況を本人だけが理解していない。果たして、主人公は破滅を回避し幸せな人生を送れるのか? という感じのライトなコメディである。

本作は、物語としては、意外性があるプロットが面白い。ただ、個々のドラマの見せ方や描き方や演出が薄味である。勿論、絵柄や背景やキャスティングも含めて、狙った薄味だと思う。

例えば、正ヒロインのマリアは強力な光の魔力を持つがゆえに、家族はギスギスしてしまい、友だちも出来ないという身の上であった。父親は家から出ていき、母親もマリアに対してよそよそしい態度で接し、愛に枯れた幼少期を育ってきた。割と重い設定であり、物語の材料としては美味しいところである。しかし、母娘の距離が縮まるドラマの部分をかなりあっさり描く。勿論、愛が不足していたマリアは、初めての親しい友人である主人公カタリナに傾倒してゆく設定なのだが、マリア母娘の件は、枝葉の物語としても勿体ない。

例えば、ラスボスの生徒会長シリウスの呪われた生い立ち。真の悪役は別に用意して、最後は改心させる流れだが、ここでも非常に重い物語を背負っていながら、意外とあっさりと解決させた。

本作の物語のハイライトは、11話の夢の中で過ごす前世の女子高生生活からの帰還だと思うが、そこに居た主人公の家族や友だち、そうした物は幻で居心地の良い空間であり、それは闇の魔法の効果で見せられていたものかもしれないが、交通事故で死んでしまったという現実を受け入れ、今のカタリナの人生を生きるという決意。前世の親友であるあっちゃんとの心のシンクロと、突然の死別で前世で出来なかった別れの挨拶のケジメ。前世は思い出でしかなく、今を生きる転生先の方がリアルである、というのが面白い。

乙女ゲーム世界ゆえに、周囲のキャラも美男美女。少女マンガのエッセンスたっぷりの絵柄。全員が主人公に好意的なハーレム状況。カタリナにマッチするCV内田真礼さんの声質と演技。総じて、ストレスなく気楽に楽しく観れるディレクションだったのだと思うし、実際、楽しく観れたが、もう少し濃いめの演出でも良かったかな、とも思う。

LISTENERS(2020.7.20追記)

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • ロック音楽をモチーフにした独特の世界観
  • cons
    • ポエム的であるがゆえの分かりにくさ

物語について

正直、本作は途中から物語が頭に全く入って来ずに、途中で視聴が止まっていた。なので、一段落して途中から何回か見直し物語を把握し直した。まず、そのあらすじを整理する。

本作の物語は、前半は少年と少女の冒険、後半は敵のボスになった少女と人類の戦い、そして最後は少女を取り戻す少年、というのが大筋である。

ミュウは、ミミナシ側から人間側に生まれ落ちたジミの鏡の存在で有る。ただ、その経緯の記憶も何も持たずに生まれたミュウは、自分の過去を知りたい好奇心旺盛な真っ白な少女でしかなかった。自分探しの顛末は、トミーに担ぎ出されて、リスナーズであった記憶を取り戻し、ダークサイドに落ちる。

エコヲは、ここで一緒に旅してきたミュウに突き放されたと思い、一度は尻尾を巻いて逃げる。だが、ブルースの田舎でメンタルを回復し、オリジンの記憶に触れ、ミュウがミミナシの王リスナーズと理解し、その上でミュウに合いたい気持ちを貫く決意をする。

そしてラスト。自暴自棄になり暴走しながらミュウは泣いていた。エコヲはミュウに話しかけ、無事にミュウを取り戻す。その後の世界では、ミミナシは羊角人間として人類と共存する世界に変革した。そして、今まで通りのエコヲとミュウの旅は続く。完。

テーマについて

本作のテーマを上げるとすれば、以下の二点ではないかと思う。

  • 理解できない他者の否定が生むミミナシの悲劇
  • 何者でもない普通の人間でも世界は変えられる

後半のオリジンの記憶(記録?)によれば、ある日突然現れたミミナシは、最初は人類に危害を加えていなかった。しかし、何かをきっかけに人類に危害を加えはじめ、最終的には戦争レベルで人類とミミナシの戦いが行われた経緯が明らかになる。最初に手を出したのが人類かミミナシかは分からない。これは、理解できない相手に対する恐怖心が共鳴し発振した結果とも言える。プロジェクトフリーダムはそのケジメをつけるミッションだったが、双方に甚大な被害をもたらした。人類とミミナシの敵対関係は相変わらず続いており、本作はこの事件の10年後に始まる物語である。

ミュウはミミナシ側から人間側に落ちてきた鏡の様な存在だし、リズの家族は人間からミミナシに変化したようにも見受けたので、本質的には同一でどちらにもなり得るモノとしても描かれていたし、プレイヤーの演奏でミミナシを駆除できる意味など未だに考察の域を越えている。

ミミナシとはいったい何だったのか? 人類が自分達の理解しえない抽象的な概念でしかない。単純に国境や人種のようなグルーピングともとれなくもないが、もっと抽象的なフワフワした何か…。その意味で、何かのメタファーと決めつけずにフワフワした概念で捕らえる必要がある存在に思う。考察屋泣かせな感じである。

ラストでは、人類の有名プレイヤーの力を集結させても、ミミナシの王リスナーズには対抗できなかった。それは、ミミナシと戦うというスタンスだったからだと思う。

そんな中、ミュウを欲するエコヲはたった一人でリスナーズに立ち向かい、ミュウに直接呼びかけてミュウを取り戻す。ミュウの中にエコヲがあるからこそ、ミュウを引っ張り出せた。1話で落下するエコヲをすくい上げるのがミュウだったが、12話では落下するミュウをエコヲがすくい上げるという対称的な構図。これを何者でもない、一般人のエコヲが実現る所に物語としての希望があったのだと思う。

ロック音楽へのオマージュについて

本作は、ロック音楽のメタファーに満ちていて、登場人物、メカ、台詞などの設定は、有名ロックバンドのオマージュとのこと。ただし、私自身はロック音楽に詳しくないため、その部分での面白さは、よく分からなかったし、そうした考察は他の方におまかせする。

本作で少し思うのは、キャラ毎に特徴的なフレーズがあったり、それが繰り返されたりする。台詞はロジカルなものでなく、ポエムの様にも感じる。抽象的なワードの中に生き方や何かを感じさせるものがある。直接的な表現でない事が本作を分かりにくいモノにしているのだが、ふと考えると、それはロック音楽そのもののスタイルではないのか?とも思えてくる。

また、前半の各話登場するプレイヤーごとに土地、舞台の設定、背景が異なり各々のカラー、テイストを持つ。後半に各プレーヤーが集結し協力し合いながらミミナシと戦うのは、コンピレーションであり、シリーズ全体が1枚のアルバムとも考えられる。

本作の「分かりにくさ」について

最初に書いた通り、私にとって本作は後半から非常に分かりにくい作品となり、何度か視聴し直す事になった。その原因について考えていた。

その原因の一つに、本作の作風が小説的ではなく、ポエム的なモノだったからではないか?と想像している。

謡曲の歌詞は、敢えて抽象的に描くことが多く、それは誰が聞いても自分なりに解釈し共感できるようにするテクニックでもある。しかし、小説でこれをやられると何が言いたいかわからず、フラストレーションが溜まる。初めから、詩集を読む心づもりがなければ辛い。

そして、もう一つの原因として、各プレイヤーたちの思惑が分かりにくい、という所があると思う。後半は、トニーの陰謀から始まるが、その目的があまりにも分かりにくい。自分の欲望があるわけではなく、周囲の欲望を反映する鏡と言っていたが、その気持ちが分からないために、なぜこのような行動をするのか分からない。

後半は各プレイヤーたちが人類を救うために集結し、それぞれの信念の為にリスナーズと戦う。愛の為に戦う殿下、ノームの民のロズ、国を失ったケヴィンとビリン、それぞれの気持ちに感情移入できる人が居ない。ただ、敵討ちのためにミュウを殺そうとするニルの憎しみの感情だけは理解し易かった。

視聴者は、前半のエコヲとミュウが自分を含めて知らない事を知る旅をしている事には共感は出来る。しかし、後半は気持ちを乗っけるキャラが居なかった事が、物語の盛り上がりとは裏腹に、気持ちが滑っていた原因ではないかと想像している。

総合的な感想

最後になってしまったが、本作の好きな点をいくつか。OPは、映画のトレーラーの様で非常にカッコ良くて私好みである。pomodorosaのキャラデザインは、良い意味でアクがあって良いなと感じた。

ポエム的な作風という事であれば、考察屋としては腕の見せ所、と言いたいところだが、私には前例がなく、非常にハードルの高い作品であった。ポピュラーミュージックも繰り返し聞く事で馴染んできて、枯れるほど聞くと麻痺して引っ掛からなくなる。そんな感じの作品なのかもしれない、などと妄想していた。

おわりに

コロナ禍の影響で、今期はOAが止まってしまう作品も多数あり、かつてない緊張感のある時期のクールだったと思います。作品の方は、突出してハマる作品はなく、みな平均点的な感触でした。

私は物語重視したい人なのですが、個々の作品で、1クールの物語の終わり方に様々な違いを感じました。カタルシスが欲しい気持ちと、2次創作しやすさもありますが、楽しい現状が続いているよ、という物語を閉じない方法や、地震などのイベントで強引に物語的なカタルシスに持っていく方法など。その観点だけで観ても、本当に様々なタイプの作品があったな、と思いました。