たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

やまぶきR+orzレイアウトによる親指シフトについて

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はじめに

最初にお断りしておきますが、私は、たまたま親指シフトに興味を持ったズブの素人であり、現時点ではまだ、親指シフターでも、親指シフト信者でもありません。

私が、親指シフトを使ってみようと興味を持つキッカケになったブログ記事は下記です。

最近、ブログを書いている事もあり、テキスト入力には関心がありました。親指シフトの存在は知っていて専用ハードが必要だと思い込んでいたのですが、普通のWindowsノートPCでもソフトウェアだけで追加投資なしで対応可能という事を知り、それならば、やってみるか、と思いました。

ただ、ネットの情報をたぐってゆくと、ソフトは複数の有志の方が作られた複数のソフト・定義ファイルをセットアップするだったり、肝心の親指シフトキー配列時の素朴な疑問だったり、そうした事が初心者に不親切な気がしました。

今回、親指シフト導入にあたり、私の備忘録としてブログ記事を作成しますが、今回、体験した事、考えた事を体系だって整理し共有し、これから導入を考えている人の手助けになれば幸いです。

ハードウェアについて

私の私用PCは下記のノートPCのみです。外付けキーボードは使いません。これを前提に記載してゆきます。

なお、今回のブログ記事はPCメーカーに制限されない話だと思います。ただし、「変換」キーが出来るだけ左に寄っているキーボードでないと、右手の指がねじれて辛い、との事です。

ソフトウェア(エミュレータ)について

概要

使用するソフトウェア(エミュレータ)の概要を下記に示します。

主役は「やまぶきR」ですが、今回はアンインストールし易いインストーラーパッケージを使用しています。途中で、もしも、親指シフトの敷居が高くて諦めるという時にも悩まずに済みます。

「やまぶきR」「やまぶきR 親指シフトインストーラー(ローマ字用)」「orzレイアウト」はそれぞれ別々の制作者です。色々大人の事情があるのかと思いますが、私個人としては、All-In-Oneのパッケージが最初からあれば便利なのに…、と思ってしまいます。

入手(ダウンロード)

ソフトウェアの入手元と入手ファイルを下記に示します。

インストール

インストールの方法を下記に示します。

  • やまぶきR 親指シフトインストーラー(ローマ字用)
    • YamabukiR_ThumbShift1.62.exe を実行
      • インストール画面は全てデフォルトでOK
      • デフォルトのインストール先は下記
        • C:\Prog\YamabukiR
  • orzレイアウト
    • orz_yamabuki_22.zip を適当なフォルダで解凍
    • アーカイブされていたファイルを全て下記にコピー
      • C:\Prog\YamabukiR\layout

アンインストール

アンインストールの方法を下記に示します。

  • コントロールパネルから「プログラムのアンインストール」を選択
  • 「やまぶきR 親指シフトインストーラー」を選択
  • 指示に従い最後まで実行
  • エクスプローラーで、C:\Prog\YamabukiR フォルダ削除
    • (補足:C:\Prog\YamabukiR\layout にorzレイアウトのファイルが残っているため)

設定

設定のポイントは2点。1つは、配列定義ファイルに、orzレイアウトを指定する事。もう1つは、一時停止用のショートカットキーを設定する事。

  • タスクトレイ

    • タスクバー上の「やまぶきR」アイコンを右クリック
    • 右ボタンメニューの「設定」を選択し設定ダイアログを表示
    • f:id:itoutsukushi:20200628165252p:plain
  • やまぶきR 設定ダイアログ

    • 「配列」タブ
      • orzレイアウトを選択する場合、「配列定義ファイル」に、下記を設定
        • C:\Prog\YamabukiR\layout\orz0022.yab
      • 通常の親指シフトに戻す場合、「配列定義ファイル」に、下記を設定
      • 「適用」ボタンを押す
      • f:id:itoutsukushi:20200628165147p:plain
    • 親指シフト」タブ
      • 特に変更しない
      • f:id:itoutsukushi:20200628214612p:plain
    • 「拡張親指シフト」タブ
      • 特に変更しない
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    • 「文字キー同時打鍵シフト」タブ
      • 特に変更しない
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    • 「動作モード」タブ
      • 「一時停止用のショートカットキー」に「右Shift」を設定
        • (補足:インストール直後は「Pause」になっていましたが、対象ノートPCに該当キーが無いので)
      • 「適用」ボタンを押す
      • f:id:itoutsukushi:20200628165239p:plain

使い方

インストール、設定後は、デフォルトで日本語入力がorzレイアウトの親指シフトに設定されています。日本語入力モードにすれば、既に親指シフトモードとなります。

逆に、通常のローマ字入力に戻すために親指シフトを解除するには、やまぶきRを一時停止させる必要があります。方法は下記の2種類です。初心者は得に重要な機能です。

  • タスクトレイの「やまぶきR」を右クリックし、「一時停止」を選択
  • 右Shiftキーを押す(設定で一時停止用キーに割り当てたキー)

キー配列について

一番不親切なのは、キーボード配列についての説明と、親指シフトにしたときに、従来ユーザが何に戸惑うか?についての説明が圧倒的に不足している点だと思います。

本章では、具体的なキーボード配列と、個々の文字入力の方法について、できるだけ具体的に記載したいと思います。

キーボード配列(DELL Latitude 7380)

まずは、ノートPCのキーボード配列を下記に示します。

DELLのノートPCのキーボード配列は個人的に気に入っています。スペースキーが短いですが、ホームポジションの「F」「J」に指を置いた時に、スペースキーが中央に配置されています。なので、右親指と左親指で、スペースキーの打鍵間が同じであり、その点を気持ち良いと感じています。

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親指シフト配列(NICOLA.yab

親指シフトでキー変換される文字を下記に示します。

図を見ると、スペースキーや、変換キーはどうやって使うの?と思われるかもしれませんが、英数字キーと同時押しではなく、単発で押せばそれぞれのキーで動きます。(同時押ししている時のみ、親指シフトキーとなります)

英数字キー以外のキーは今まで通りに使えます。

  • 親指シフトキー
    • 親指シフトキー(スペースキー)
      • 左手で入力するキーを親指シフトするときに同時打鍵します。(順シフト)
      • 基本的に右手で入力するキーを濁点にする際に同時打鍵します。(逆シフト)
    • 親指シフトキー(変換キー)
      • 右手で入力するキーを親指シフトするときに同時打鍵します。(順シフト)
      • 基本的に左手で入力するキーを濁点にする際に同時打鍵します。(逆シフト)
  • 各種シフト字のキー
    • シフト無しで入力した時の文字は、キーの左下に記載しています。
    • 順シフトで入力した時の文字は、キーの左上に記載しています。
    • 逆シフトで入力した時の文字は、キーの右下に記載しています。

※:「順シフト」「逆シフト」は便宜上、私が定義した非公式な用語です。
※:半濁点の文字は、濁点を持たない他の文字の逆シフトに割り当てられています。

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親指シフト配列(orz0022.yab

orzレイアウトの親指シフトでキー変換される文字を下記に示します。

通常の親指シフト配列に対して、右指のホームポジションを1列ずらします。それにより、右手の指の捻じれを軽減するのが目的です。ずらし以外にも一部のキーに変更があります。

ちょっと、びっくりするのが、日本語入力だけでなく、半角英数字の文字も1列ずらしされます。1列ずらしによってはみ出てしまう「\」「[」「]」「\」は、ラッパラウンドして「6」「Y」「H」「N」に配置されます。これは、右人差し指のホームポジションが「K」キーに移っているためです。

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練習方法について

T.B.D.

参考情報

終わりに

親指シフト自体については、本当にまだ初心者で、このブログもローマ字入力でテキスト入力しています。

ただ、同じように親指シフトに興味を持った方の敷居が下がる方向でこのブログ記事が役立ってくれれば幸いです。

半年後、1年後、親指シフトについてどっぷりつかっていれば、上達報告や練習方法について、追記するかも知れませんし、諦めてしまっていれば、このブログは更新されないまま放置されることと思います。

それから、親指シフトは、ポメラ(DM200)でも可能という事で、ポメラ自体の関心も再び上昇してきています。できれば、ポメラ親指シフトキーボート配列についても、同様のレイアウト図を作成したいところですが、そちらも縁があれば…、という感じです。

OBSOLETE シーズン1(EP1-EP6)

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はじめに

リアルロボアニメの進化系、「OBSOLETE」が非常に硬派でカッコいい。しかし、本作について語るブログは極めて少ない。

本作には、萌えも癒しも一切ない。あるのは人型兵器の設定の巧さ、戦闘シーンのカッコ良さ、ハードボイルドな渋い男の生き様、理不尽な戦争の後味の悪さ、である。

そうした事を熱く語りたい気持ちで、長文の感想・考察を書いた。

現在、シーズン1(EP1-EP6)が無料視聴可能なので、ロボアニメ好きには是非観ていただきたい。

作品概要

2019年12月、OBSOLETEシーズン1(EP1~EP6)がYouTube Originals(YouTubeオリジナル作品)として公開され、現在無料視聴可能である。

再生時間はEP1のみ13分07秒、EP2-EP6は12分27秒、合計再生時間は約1時間15分。

超ザックリで紹介すると、2.5mの人型兵器の戦闘を見せるミリタリー物のフル3DCGアニメ作品である。この一言で少しでも興味が持てる未視聴の方は、是非ともEP1だけでも観ていただきたい。

なお、本作の公式HPには、映像だけでは分かりにくい世界観や設定について詳細な記載があり、本ブログを書く上でもかなり参考にしている。興味ある方はこちらも参照していただきたい。

考察・感想

設定・テーマ

人型兵器を正当化するために考えられた、設定と世界観

おそらく本作は、『人間が搭乗するミニマルな二足歩行ロボどうしでのリアルな戦闘を描きたい』のではないかと思う。そのための一つの大きなフィクションがエグゾフレームである。

エグゾフレームは全高約2.5m、重量約270kgの人型メカである。異星人の未知の技術の産物であり、動力源不明、燃料不要、操縦者の意志に応じて人間並みの機敏さと、ユンボ並みの馬鹿力を持つ。そして、規格化された工業製品のように同じスペックのものが安価で大量に供給される。

このエグゾフレームを骨格として搭乗空間を鉄板で囲い武装すれば、敵味方も対等な人型兵器どうしの戦闘を描くシチュエーションが作れる。

エグゾフレームという力は、大人も子供も先進国も後進国もみな平等に与えられる。安価なエグゾフレームと安価なゲリラの人命を大量に投入して、400万ドルの戦車に勝つ。高価な兵器を安価な対抗兵器が無効化するのは歴史の必然である。しかも、エグゾフレームはそれだけに留まらず、熟練度により特殊な任務もこなせる無限のパフォーマンスを秘めている。

エグゾフレームという低コストで高性能な規格品が市場に大量に出回ったとして、単純に世界の勢力図がひっくり返るか?というと、おそらくそうではない。経済豊かな先進国も大量に商品を買いあさり、それを資本に金儲けするのが市場経済であり、いつでもお金持ちが勝ち続けやすいのが資本主義の世の常である。

しかし、本作の世界はそうならない設定がなされている。それが、もう一つのフィクションであるザンクトガレン協定である。

先進国は重機、自動車などの自国の産業を脅かすエグゾフレームに対し、異星人の洗脳装置などと不安をあおり、エグゾフレームを管理、規制、制限した。ザンクトガレン協定の調印を保留したアフリカ連合国や、協定を脱退したインドでエグゾフレームを兵器として活用し始めるが、先進国はエグゾフレームを兵器転用できず相対的に軍事力が低下し、後進国とのパワーバランスの崩れを見せ始める。

言ってみれば、ゲリラと大国軍が平等に戦闘出来るように、大国側にハンデキャップが与えられた形である。

エグゾフレーム革命という世界の変革を生きる男たちのドラマ

エグゾフレームは革命であり、世界に変革をもたらし、パラダイムシフトを起こす。昨日までの価値が通用せず新しい価値で経済も政治も対応しなければ、あっという間に転落してしまう。

勿論、変革を頑なに拒否し既得権益を守ろうとする者もいる。その象徴がザンクトガレン協定である。しかし現実は、協定に賛同しない後進国によるエグゾフレーム活用により、軍事力の面で優位に立っていた先進国に脅威を与える存在になりつつある。

この文脈の中で、後進国を支援するアウトキャストと呼ばれる傭兵部隊が存在する。その主要人物と思われるのがザーヒルである。

ザーヒルは、異星人とのファーストコンタクトからわずか7年でエグゾフレームの精鋭部隊を育て上げている。兵士は、ゲリラ側でエグゾフレームの捨て駒の乗り手として拾われてきた子供たちを、戦士として鍛え、尊厳を与え、忠誠を誓わせて叩き上げた。それは、誰かがザーヒルに教えた生き方であり、ザーヒルの教え子たちも同様に戦士を集めるネズミ講の構図となる。ザーヒルは戦う目的を明確に「世界の理不尽に屈しない」と説いている。EP1で描かれたように、アウトキャストはかなりの数の武装エグゾフレームと練度の高い兵士を持つに至り、先進国側の脅威として描かれる。

そして、アウトキャストなどの武装エグゾフレームの脅威に対抗すべく、米国海兵隊に極秘裏に作られたエグゾフレーム部隊が存在する。ただし、ザンクトガレン協定の建前上、この部隊の存在が公表されることはない。小隊名はレイブン(Raven:カラス)。リーダーはボウマン大尉である。

ボウマンはEP2でアフリカで米国海兵隊が初めてエグゾフレームのゲリラに襲われ壊滅した際の生き残りである。当初、現地住民がトラクター代わりにエグゾフレームを使う事を懐疑的に見ていたが、この事件で洗礼を受けエグゾフレームの力、時代の変革を認めざるおえなくなった。EP1でレイブンは、エクアドル・ペルー間の紛争が戦争に発展するのを阻止すべく、敵武装勢力とたった4機のエグゾフレームで誰にも知られる事なく戦う。ボウマンはこの作戦で、「世界の混沌が必然だとしても、それに抗い、自らの誇りの為に命を懸ける(意訳)」というモノローグがある。ボウマンは軍人であり、思想家ではない。ただ、世界中で起きる無慈悲な戦闘を知る者として、その様な紛争、戦争は回避したい気持ちだろう。

物語としては、このボウマンとザーヒルの対立の構図である。そして、時代は激動の変革の時であり、固定観念に流されず、新しい価値観の中で、己を信じて成すべきことをする。ハードボイルドな男たちのドラマである。

彼らは例えるなら、明治維新の侍なのかもしれない。倒幕か?佐幕か?何が正解か分からないし、正解なんてものは無いのかもしれない。今は、悔いが残らない様に、持てる力の全力を尽くして運命を切り開きたい。そこはかとなく感じる虚淵玄っぽさ。そんな印象を本作から受ける。

なお、シーズン1の時系列最後にあたるEP1は2022年だが、物語の序章にしか過ぎず、続きはシーズン2(2020年冬配信予定)までのお楽しみ、となっている。

非情な戦場描写と戦争倫理

本作が描くモノで忘れてはいけないのが、戦争の非情さ、だと思う。

決して派手なドンパチのアクションで気分をアゲてゆくだけの映像ではない。

EP5-EP6では、アフリカ内戦のゲリラは、適当に拾ってきた黒人の子供たちを、使い捨ての駒として、強制的にエグゾフレームに搭乗させていた。本人たちの意志とは無関係に戦場に連れてこられ犬死してゆく素人の子供たち。ザーヒルは、その子供たちを鍛え、戦士としての尊厳を持たせ、忠誠を誓わせる事で優秀な兵士を育て上げたが、その兵士たちがねずみ講の様に兵士を作るアウトキャストという組織。

EP4では、石油ターミナルを自爆で破壊するためにゲリラたちが海から上陸するのを丘の塹壕から狙い撃ちし、まるで「プライベート・ライアン」のノルマンディー上陸作戦のように無数に死んでゆくゲリラ兵たち。ゲリラ兵が施設爆破し守り切れなかった瞬間に、ビジネスに失敗したとして、残された民間人を見殺しにして撤退する民間軍事会社民間軍事会社のCM映像で使われている派手な戦闘映像の裏で多数殉職している傭兵たち。

本作では、血しぶきや飛び散る肉片や死体が描かれることはないが、確実にその戦闘で死傷者が出ており、しかも前述の通り、非戦闘要員や、素人同然のゲリラ達が多数犠牲になっている事を視聴者に突き付ける。おそらく、こうした狂気は昔から絶え間なく人類が続けて来た歴史なのだろう。

本作が戦争をテーマに掲げている以上、また戦争による理不尽に立ち向かう以上、こうした描写は避けて通れない。戦争は無くなった方が良いが、戦争を簡単に無くす事は出来ない。その普遍のテーゼを持ったエンターテインメント作品になっていると思う。

各話考察

EP1. OUTCAST (2022年、南米のどこか)

  • 輸送機内に格納される二足歩行兵器4機が戦場に投下され、ホバークラフトアタッチメントで河川を高速移動し、敵の二足歩行兵器と近接戦闘、銃撃戦の後、山頂からの迫撃砲攻撃を受ける。陽動の2機とは別に対迫撃砲レーザーを受け取った2機が援護を開始し、レーザーで迫撃砲弾を撃ち落とし、山頂の敵をレーザーで1機撃破するも、敵の狙撃を受け対迫撃砲レーダーを破損、そうこうしているうちに、敵部隊に撤退され逃げられるという息も付かない怒涛の展開でEP1は終わる。

EP1は、本作で一番やりたかった映像と思われる、ド派手なコンバットアクションに終始する。キャラや世界観の説明は最小限。ツカミの1話である。

敵はアウトキャストと呼ばれる後進国支援側のエグゾフレーム傭兵集団。練度も高く数も多い。全機体の右腕に描かれる2本の傷跡を持つ横顔ドクロのマーキングはザーヒルの使っていたマーク。頭頂部にドクロマークが描かれたリーダー機は、狙撃を得意としていた事からザーヒル本人が搭乗していた可能性を伺わせる。

対する、米国海兵隊の非公式のエグゾフレーム部隊(レイブン)はたった4機で敵の作戦を阻止しようとする。寡黙なリーダーのボウマン、熱血漢のミヤジマ、女性にモテそうなレブナー、陽気な新入りのフェルナンド。少人数だが、米国海兵隊の高価で強力な装備で戦いを挑む。

ちなみに、ミヤジマはEP3でインド軍に、レブナーはEP4で中東でサーベラス警備保障に、エグゾフレームでの戦闘を体験、調査するために身分を隠して潜入している。また、ボウマンは7年前にアフリカで世界で初めてゲリラがエグゾフレームを使った作戦での生き残りである。この3人は、過去に横顔ドクロマークのエグゾフレームを相手に戦った因縁がある。

おそらく、アウトキャスト側も今回の戦闘で、米軍のエグゾフレーム部隊の存在を明確に認知したと思われる。EP1は、さしずめ名刺交換といったところだろう。

ちなみに、米国海兵隊の機体はトードは、M1エイブラムスを連想させるデザインと色で米軍っぽさを演出。対する、アウトキャストの機体はエグザクトーは、頭部の野暮ったさが肝で、敵メカのデザインとしていい味を出している。素体は同じでもテイストの違いが明確に出ていて面白い。

  • 今回の登場兵器
    • C-130 (航空機)) …輸送機
    • レーザー兵器輸送用の無人コンテナ輸送ヘリは、オリジナル?

EP2. BOWMAN (2015年、アフリカ・アンゴラ共和国

  • 異星人ペドラーとの通商開始。
  • ゲリラは酸素ボンベを腰に巻き、エグゾフレームの腰に爆弾を2個抱えて、河川に潜伏して渡河中の戦車隊に接近し奇襲した。驚いて畑の中を高速で後退する4両の戦車。走って追いかけ戦車に飛び乗り戦車を爆破するエグゾフレーム。400万ドルの戦車が、安価な素体のエグゾフレームの集団に破壊される。

ペドラーとの通商開始から1年後、エグゾフレームがゲリラに兵器として始めて使われた日。戦争は経済活動というグラサン小隊長の台詞があった。支出の軍事費と収入の税金、国家間の利権の奪い合いは、巨大なコストを前提にして経済を回す、というニュアンスだった。資本を持つ者が勝ち続ける資本主義の社会である。しかし、エグゾフレームという安価な兵器が、高価な戦車を駆逐してしまう。これは、今までの国家間の軍事力のパワーバランス、ひいては資本主義の勢力図が崩れる事を意味する。

EP1の7年前、ボウマンのこの体験が、エグゾフレームという力に世界が飲み込まれ、その中で対等に戦うために、好き嫌いに関わらずエグゾフレームを使わなければならない事を悟るキッカケになったのだと思う。

EP3. MIYAJIMA REI (2016年、インド・パキスタン国境シアチェン氷河)

  • 正規軍として世界で初めてエグゾフレームを正式採用したインド軍に交換将校として短期赴任してきたミヤジマ。シアチェン氷河をエグゾフレームで越境し工作員潜入を図るパキスタン軍を発見し、エクストリームスキーで豪快に氷河を下り追跡する。パキスタン軍の3機のエグゾフレームを食い止めるも、雪崩に呑まれた最後の1機のコクピットはもぬけの殻だった。ワンチョク大尉は、ミヤジマが自衛官ではない事、事件は上層部の圧力でうやむやになった事で察し、部下に詮索はするなと告げる。

ミヤジマの怖いもの知らずというか、負けず嫌いというか、熱血漢というか、一度走り出したら止まらない性格がよく出ていた。初体験でエグゾフレームをあれほど乗りこなせるとは思えないので、米国海兵隊でも相当にエグゾフレームに乗って訓練していたものと思われる。雪山の尾根伝いの行軍でも、ワンチョクの部下がへっぴり腰だったのに、ミヤジマは度胸満点で、慣れたワンチョク並みにしっかりした足取りだった。

今回、部隊が極寒の山岳地帯という事で、エグゾフレームはインド軍もパキスタン側も軽装備だった。足裏にはスパイク的な加工をしていたが、脚部や腕部はむき出していた。寒さと銃弾から乗員を守り、通信が出来て、機銃が撃てるラインで仕上げていた。エグゾフレームが極寒の低温環境でも何の問題もなく動作するハードとしての優秀さが際立っていた。流石に宇宙空間でも使えそうな雰囲気だけある。

今回の見せ場はエグゾフレームスキー。これは機体から伝わるスキーの感覚情報をもとに脳で瞬時に判断し機体制御に高速でフィードバックし続けなければ成立しない。スポーツ選手が競技で行う事を、エグゾフレームという身体を使って行う。

余談だが、これを応用発展させれば、陸上、水泳、球技など、様々な競技をエグゾで行える可能性があり、エグゾオリンピックの開催があってもよいな、などと妄想してしまった。もし、エグゾフレームがどれも同じ規格品であるなら、個体差が無いワンメイクレースになるのではないか? 実際にはザンクトガレン協定でエグゾオリンピックが開催されることは無いと思うが。また、五輪書宮本武蔵の様に武道を極め剣豪だったり、コンパクトな動作で気功を発する中国拳法だったり、そうした事も鍛錬した精神と、エグゾフレームの身体で出来たら面白いかも、などと妄想。

EP4. LOEWNER (2017年、中東)

  • 中途の石油ターミナルをテロリストから守る仕事を請負う民間傭兵会社のサーベラス警備保障の新人として潜入するレブナー。施設を無傷で守る契約だったが、テロリストの侵入を許し施設を爆破される。ビジネスの失敗とともに契約破棄を察したサーベラスの部隊は、民間人を置き去りに撤収する。

レブナーの優しさというか、悪く言えばお人好し感が滲み出ていた。契約とマネーで動く民間企業と、民間人を守る倫理感で動く軍人の狭間で葛藤するレブナーが良い。現地民間人女性と雑談していたが、あのルックスと人当たりの良さでモテないわけはない。

サーベラス社のエグゾフレームはホバークラフトアタッチメントと対潜迫撃砲を装備。水中から迫る爆弾を抱えたテロリストのエグゾフレームを水上から駆逐する。ホバークラフトの動力が膝車輪の回転という点が面白い。また、丘の上の塹壕からは、M61バルカン砲で上陸したエグゾフレームを水際で仕留める。火力は圧倒的に強いが、たった8機で守るサーベラス社に対し、数で攻めるテロリストの戦術の恐怖。ヘリで吊るされ帰投するシーンは隊長の1号機とレブナーの8号機の2機のみだったが、前後のシーンの繋がりから考えるに、もう少し撤収できた機体多そうなのだが、隊長とレブナーがサシで会話するための演出的な話か。

EP5. SOLDIER BRAT (2016年、アフリカ・サブサハラ

EP6. JAMAL (2016年、アフリカ・サブサハラ

  • 内戦続くアフリカ。ゲリラ側のエグゾフレーム搭乗員として、子供たちがどこからか拾われ使い捨ての駒として強制的に戦わされ、素人同然の戦闘で命を落とす。その理不尽な戦いの中で司令官がザーヒルに変わり、ジャマル達は生き残るために戦士として戦闘訓練され、尊厳を与えられ、戦果を上げて生き残る。内戦終結後、ジャマル達は一民間人に戻る事よりも、アウトキャストの兵士の道を選ぶ。5年後、ジャマル達はザーヒルと同様に、自分たちのように理不尽にゲリラ側で戦わせられる子供たちを戦士として鍛える。カリスマは継承され、ねずみ講の様にアウトキャストの兵士が作られて行く。

EP5-6は、ザーヒルアウトキャスト側の兵隊作りを描く。

戦争の被害者である子供たちが、戦場に赴き、自分達の明日を掴むために戦闘するという負の連鎖。しかし、理不尽に何らかの声を上げ行動しなければ現状を変えられないという状況。歴史から戦争、紛争は絶えることなく続く。何が良くて、何が悪いのか、簡単には片付けられない戦争という深い命題を本作は抱えていると思う。

今回、ゲリラ側の子供たちが使うエグゾフレームは装甲と呼べるガードは殆どない。戦車の火力を前にして、無力に逃げ惑うしかなかった。しかし、ザーヒルが戦闘訓練をした後は、軽装である事を生かし、野猿の如く俊敏で軽快な動作でビル間をジャンプし、連携プレイで罠を仕掛けて追い込む事で、戦車やヘリを難なく仕留めるまでに成長した。エグゾフレームのポテンシャルの高さを示すエピソードだと思う。

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EP5で注目なのは、ザーヒルが遠隔操でドローンを狙撃したシーンである。エグゾフレームから降りて双眼鏡でドローンを確認し、狙撃銃を構えるポーズをし始めたときに、背後のエグゾフレームが狙撃銃を構えて、引金を引きドローンを撃ち落とす。公式HPにもハンドルも握らずサドルにも触れずに、遠隔操作が可能な事が触れられている。ただ、この一連の動作の中で不可解なのは、どうやって、エグゾフレームの狙撃銃の照準を合わせたのか?である。

  • (a) ザーヒルとエグゾフレームの位置、方角の差異を経験則で考慮して勘で撃った。
  • (b) 狙撃銃の照準情報がザーヒルに遠隔でフィードバックされて照準を合わせた。

私は、EP3のミヤジマのエクストリームスキーのシーンや、EP6の野猿移動のシーンから、エグゾフレームの感覚が機体から搭乗者へのフィードバックがされている可能性は高いと想像して、それ無しでは、曲芸、曲乗りは不可能だと思っている。しかし、狙撃銃の照準は地球の技術であり、2016年時点の技術ではゴーグルも無しで視覚情報を遠隔にフィードバックする事は不可能である。ここからは妄想だが、地球の狙撃銃の照準をエグゾフレームがなんらかの感覚情報として読み取り、その視覚情報を搭乗者の神経、脳みそにフィードバックしている可能性も考えられるのではないか?そのためには五感を越えた第六感の繋がりが必要になるのかもしれない。この辺りの、エグゾフレームの遠隔操作、フィードバックによる共感覚は、今後の謎解きのネタなのかもしれないし、妄想し過ぎなのかもしれない。

おわりに

2020年12月配信予定のシーズン2(EP7-EP12)のティザーPVが公開されている。

シーズン2では、アフリカ・アンゴラ共和国大統領のライラ・レシャップが世界の先進国と対立を仕掛ける構図と、アウトキャストのエグゾフレーム戦争の陰の暗躍がPVから予想され、いよいよ、先進国vs後進国、ボウマンvsザーヒルの戦いの物語が回り始めると思われる。

また、エグゾフレームの謎設定の解き明かしも、少なからず触れられてゆくのだろう。

シーズン1は、各EPのドラマはコンパクトにまとめられていたが、物語は意図的に薄味になっていた。材料は揃い、いよいよ物語は序章から本章に、という所で、半年後の冬が楽しみで仕方ない。

映像研には手を出すな!

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はじめに

2020年冬期アニメの中で、一番面白くて、一番精神力を使った作品が、「映像研には手を出すな!」でした。

もともと、2020年冬期アニメ総括の1作品として、感想・考察を書くつもりでしたが、あれこれ書き始めたら長文になってしまったので、単独のブログ記事に起こしました。とにもかくにも、度肝を抜かれた、というのに尽きます。

全12話中、4話毎に作品完成しクライマックスを迎える三部構成となっていますので、それぞれに感想・考察をまとめます。

感想・考察

1話~4話、一作目の「マチェットを強く握れ!」

妄想と現実が繋がるワクワクドキドキ感

人見知りだが、妄想癖著しく好奇心旺盛な小学3年生時代から始まり、途中「コナン」を見てアニメにドハマりした浅草。冒険のドキドキワクワク、なぜその構造をしているのか?そうした好奇心を描き起こし、実在しない妄想設定を緻密にスケッチブックに書き起こし続け、高校生になってますますアニメ制作への夢が高まっていた。ふとしたキッカケでアニメーター志望の水崎と出会い、設定の浅草、アニメーターの水崎、プロデューサーの金森の役割分担でアニメーション制作のための部活動「映像研」を立ち上げる。浅草のスケッチブックに水崎の絵を重ねて興奮する二人の姿が、仲間が出来た事を純粋に喜ぶ二人の姿に観ているこちらも気分が高揚する。

しかも、この高揚感を表現するのに、浅草の過去ストックのアイディア設定メモが宮崎駿の妄想ノートそのものであり、その水彩画のラフ絵自体がアニメーションとして動いて楽しい! 浅草の妄想の中に引きずり込まれる状況なので、そこで動作するメカのSEは、浅草の口SEである。本作ではこうした妄想と現実が入り混じったドラッグの様な感覚の演出がしばしば登場するが、こうした妄想の中に入り込む楽しさというのは、ちいさな子供も喜んで視聴していたという事が言語を超えた本作の強みの一つである。

余談だが、他者を浅草の妄想に引き込むくだり、ミヒャエル・エンデの「モモ」という小説の主人公モモが物語を語ると五感を駆使した迫力満点の語りとなり周囲の子供たちを物語の中に引き込む、という能力に似ていると感じた。

創作活動における理想と現実のギャップ

処女作を作るにあたり、浅草と水崎は理想と現実のギャップに直面する。あれもこれもやりたいのに、それをやる時間を確保できない。1シーンのハイカロリーなシーンに時間をかけすぎて、他のシーンに手が回らない。こうしたマネジメントに関しては金森が牧羊犬の如く二人のケツを叩き働かせる。金森が凄いのは、文句言うだけでなく、改善案を人知れず探し出して提示し、間に合わせようとするところ。手書きにこだわる水崎に、動画自動補完ツールで作業効率をアップし、浮いた時間で手書きシーンを描けばよい、という辛辣な言葉使いだがその根っこのポジティブさが光る。

映像研の3人とも作品作りを全肯定し、ゴールに向かって全力を尽くす。それは、誰の命令でもなく各自の腹の中から湧き出てくる創作意欲やビジネス魂に忠実に、ボロボロになりながらも全力で立ち向かってゆく。そして、視聴者は映像研の3人が戦っている姿に勇気をもらうのだと思う。

果たして生徒会予算審議会で上映された処女作は、観客を作品内に引きずり込み圧倒し、映像研の活動予算を獲得する事も出来たが、映像研の3人はその事に目もくれず作品の改善点を話し合う。やりたかったけどやれていない事だらけなのだ。その湧き出る創作欲こそが燃料であり、眩しさであり、観客の期待なのである。

5話~8話、二作目のロボ研制作依頼のロボアニメ

ロボ研と映像研の対比

ロボ研部員は濃い目のネタとして効いている。ロボアニメで育ったオタクは合理的機能性よりも二足歩行のロマンを優先する。効率、コストを度外視しても、それが人間が操縦して立ち上がり、敵と格闘戦を行う事を夢見ている。当初、設定的に無理がある二足歩行ロボを題材にする事自体が非リアリティと一蹴した浅草も、涙を流しながらロマンを語るロボ研小野に共感し設定を快く引き受ける、というくだりが分かり味が合って良い。結局、何かを作る事は好きの延長線上にある。

ロボ研と映像研は、ある意味凡人と天才の比較で描かれていたと思う。ロボットとアニメの違いはあれど、浅草と水崎は天才であり、創作結果を生み出し作品を発表し他者に観てもらっている実績があり、夢に向かって有限実行である。しかし、ロボ研は仲間と夢について語る事はあっても、何かを創作したりはしておらず、放課後お茶会倶楽部的な活動が中心であり、あってもロボ研で代々引き継ぐロボの張りぼて加工くらいである。私は凡人の側なのでロボ研のうだうだ感も好きである。しかし、映像研は尖ったエリート集団である事を相対的に知らしめる。

SEの百鬼目と背景の美術部発注による分業

そして、二作目では美術背景を美術部に発注し、SEの百鬼目をスタッフに参画させる。これにより、より作品作りに総工数をかけられるが、チーム内の意志疎通が重要になるため、監督としての浅草の任は重くなる。仕事を大きくするためには組織を大きくするのは常套手段。しかし、この事が三作目の伏線として効いてくる。

水崎の生き様のドラマ

このロボアニメ編の主役は水崎だったと思う。有名俳優を両親に持ち、幼少の頃からアニメーションが好きで見てきた。しかし、映像の先に見ていたモノは、物理法則だったり、人体や筋肉のメカニズムだったり、何故、そう動くのか?という問いかけの連続だった。目に見える情報を頭の中で解析し、そこを組み立て直し、原画動画として再生する。ある意味、画家が目で見て頭で咀嚼して筆で描く事と同じである。そして、浅草が設定で積み重ねている行為とも似ている。水崎の燃料もまた、そうした動きに関する興味関心と、それをアニメーションとして出力する快感である。

水崎と両親のドラマも描かれた。父親は有名俳優であり子育て放任であり水崎のアニメのめり込みを反対し俳優に育つことを希望。母親も有名俳優であり、父親よりもマシではあるが基本子育て放任。親子の接触が少ない設定である。水崎はアニメに自身の持てる力全てを注ぎ込んでおり、アニメ制作=自分の生きる意味として考えているも、父親に反対されている状況のため、映像研の活動は内緒であり、このまま何も無く続けられる状況ではなかった。

この断絶のある親子が対峙したのは、会話ではなく、ロボアニメの製作と鑑賞という作品を通してだった。映像には水崎の生き様が刻み込まれていた。祖母の残り茶を投げ捨てる仕草、間違った箸の持ち方、そして渾身のバトルアクション。それを見て我が子を感じる父親。父親は理解してしまったのである、我が子もまた、自分や周囲の人を顧みず全力で表現に突っ走ってしまう表現者の業を、そして、誰でもない自らの生き様を映像として放出している情熱を。結果、水崎は父親にアニメ制作を許されるが、言葉ではなく作品で殴り合い、理解し合う、というのが表現者同士として効いている。親子としての距離感やぎこちなさを残しつつ、親子ではなく同業者の先輩後輩のコミュニケーションではないか?とも感じなくもないが、それでもやはり子を思う親という感覚は有ったと思う。その事がこのドラマの良い余韻になっていたと思う。

9話~12話、三作目の「芝浜UFO大戦」

お金を稼ぐ事が好きな、金森の行動原理

このパートで金森の幼少期と行動原理が明かされる。金森はマネーそのものよりも、人の役に足ちお金を稼ぐ正統派な「ビジネス」が好きなのである事が幼少期の行動から伺わせる。映像研の件も、そこにお金儲けのリソースがあるから、生き急ぐようにお金儲けを実践してみる。金森の凄いところは、お金儲けがフワフワしたものではなく、即実践で、コスト納期期日を実感を持って把握し、雇用される側の士気も考慮する、経営者そのものである事。

金森と浅草の中学生時代の出会いのエピソードも、互いの利害が一致するから一緒に行動するだけ、というものであり、友だちとして仲良くしたい、などと言う感情は全く持っていなかった。ちなみに、共通の目的を持った、慣れ合いのない関係を友だちではなく「仲間」として強調するシーンが多かったが、この二人の関係が起源にある。

ここまで書くと金森が機械仕掛けの鬼経営者みたいに聞こえるかもしれないが、そんなことはなく、浅草が水路に落ちた時にいち早く飛び込んで助けて風邪を引いたり、仲間を思いやる面も見せるのがミソである。

客観的には失敗作だったと思う「芝浜UFO大戦」

三作目の「芝浜UFO大戦」は、ぶっちゃけ個人的にはエンタメ作品としては失敗作だと思う。確かに、映像的には、劇伴も付き動きもクオリティUPしている所もあり、大作感は増している。前2作と比較して尺も長く中途半端にテーマを盛り込もうとした雰囲気も伺える。しかし、何を表現しているか、普通の人には伝わらない。よく自主製作映画にありがちな、不器用な作品に仕上がっていたと思う。視聴者は、それまでの浅草の台詞で作品のテーマなどを聞いているので追いついてゆけるが、そうでなければキツイ上にラストの意味が分からない。

もともと、「芝浜UFO大戦」は芝浜商店街とのタイアップで制作し、同人即売会で販売する方針である。浅草の芝浜町散策で思い付きで設定を盛り付け、対空砲塔などの兵装を出してしまったが故に、戦争する敵味方の設定が必要になり、水崎のツテで劇伴を頼んだ音楽を聞いてラストのダンスによる大団円のイメージが浮かび、時計塔の鐘の音で水車の鐘や、人間とカッパの対立による抗争を思いつく。そして、浅草と教頭の間の議論にならない話合いと、教頭の花壇の花を愛でる姿を見て、人間もカッパも元は同じ種族なのに立場や環境が違い争いが起こる、というネタを思いつく。そしてラストは互いの立場を理解し和解し合い大団円のダンスを踊る、という構想が出来た。

しかし、ラスト大団円の劇伴がふたを開けてみると宇宙的な重苦しいイメージの曲である事が最終工程で発覚し、その曲は2週間も誰もチェックされずに放置されていて、差し替える曲もない。これは作品作りの分業化における落とし穴でもあった。このままでは、作品として成立せずに同人即売会での販売もできない、という絶体絶命。この責任を全て監督である浅草が持ち、短時間に最善策を判断せねばならない、という特大のプレッシャー。

もともと、11話ラストのラッシュのシーンで浅草は、この作品のラストの大団円に違和感を覚えていた事もあり、「芝浜UFO大戦」のテーマを大幅に変更する事に。ただし、映像の追加は最低限に留め、シーンの順番を入れ替える事で作品を成立させる、というトリッキーな手法。結果的に、大団円は取りやめ、争いは継続。ラストシーンは、平和を呼びかけ、味方から敵を守った人間AとカッパBは、敵に投降するという所で幕が引かれる。

それでも、映像研の劇中作としては意義のある「芝浜UFO大戦」

正直、12話はモヤモヤした雰囲気で見届けた視聴者も少なからずSNSで観測された。前述の通り、「芝浜UFO大戦」はそれ単体で観たらエンタメ作品として失敗作だと思う。しかし、これが映像研の浅草たちの作品である事が強いメッセージを持つ、と思う。「芝浜UFO大戦」は、浅草が選んだ創作活動そのものであり、浅草の生き様そのもの、と思えるからである。

みな仲良くという日和見な平和主義では、創作活動、とりわけ総責任者である監督は務まらない。その全てが予定調和だったり設計図通りだった事はなく、目の前に迫る事案を自分自身で対処しなければならない重圧。そして、その中で逃げ出さず作品を作る覚悟。集団創作活動において、理性を持って最善を尽くし続ける戦いなのだという、浅草の気持ちを「芝浜UFO大戦」は代弁している。単身で味方から敵を守り投降した人間とカッパは、浅草自身の投影だろう。

例外的で類を見ないシリーズ構成

さて、本作「映像研には手を出すな!」は、浅草の作風の通り粘土細工の様な行き当たりばったりの作品だったのか?というとそうは思わない。本作は非常に綿密なシリーズ構成を持って作られた作品だと思う。

1クールのラストは、まだやりたい事が山ほどある、俺たちの戦いは続く、というのは決まっていたと思う。しかし、途中段階では大団円ラスト構想がフェイント的に差し込まれる。これは浅草の本来の人柄の良さであり、日和見的なニュアンスであり、私は物語が何かを救う事を無意識に期待しているので、ラストは大団円はアリだよな、と呑気に構えていた。このフェイントが効いて、浅草の監督としての成長を強烈に印象付ける事になる。まさか、こんな展開になるとは…、と12話を観たときのショックは相当大きかった。度肝を抜かれた、と言っても過言ではない衝撃であり、完敗の気分だった。浅草自身と「芝浜UFO大戦」のオーバーシンクロも綿密な設計の結果だろう。

作品を観る時に安易に先が読める作品よりも、こう来たかー!という驚きを持って観た作品だった。だが、それくらいのじゃじゃ馬の方が観ていて楽しい。

おわりに

本作は、物語を楽しむ作品ではなく、迫力あるドラマを味わう作品なのだと思う。物語好きの私には例外的な作品でありながら、はやり強く惹かれるのは、浅草、水崎、金森の戦う姿に勇気を貰っているからだと思う。アニメーションの根源的な楽しさ、創作で諦めず戦い続ける姿からもらう勇気、それを味わえる唯一無二の作品だったと思う。

本作の楽しさが一体何だったのか?言語化するのに手間取ってしまいましたが、直感で分かっている人には、当たり前で分かっている事ばかり書いているのかもしれません。でも、この作品のこうした考察はなかなか見かけませんので、書いてすっきりしました。

2020年冬期アニメ総括

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はじめに

2020年冬期アニメ総括です。今期は、下記8作品鑑賞しました。今期は私にしては視聴本数が多く、どの作品も楽しく視聴させていただきました。

個人的には、やっぱり映像研のパンチ力が強く、観ているこちらも精神力使った感じがしますが、それゆえに、整理にもう少し時間がかかりそうだったので、後日更新させていただきます。 別ブログ記事を作成しました。(2020.5.9追記)

感想・考察

映像研には手を出すな!(2020.5.9追記)

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 原点としてのアニメーションが動く面白さ、創作の楽しさ辛さを、余すことなく表現
    • 監督の浅草、アニメーターの水崎、マネージャーの金森のアクの強いキャラクター造形
    • 薄い物語性に対し、激情の人間ドラマを熱く提示する独特のスタイル
  • cons
    • 敢えて、特に無し

感想・考察が長くなりましたので、別ブログ記事を起こしました。下記ご参照ください。

SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 演奏の楽しさ、結束、個性を、笑いと涙で熱く描く正統派の脚本
    • 上出来の楽曲(OP/ED/挿入歌)
  • cons
    • 特に無し

本作はサンリオのキャラを使ったスクエニのソシャゲ「SHOW BY ROCK!! Fes A Live」の宣伝広告作品である。また、制作会社は異なるが、前作「SHOW BY ROCK!!」の世界観を引き継ぐ作品であり、次回作である「SHOW BY ROCK!!STARS!!」の制作も発表されている。

基本はバンド物だがステージ演奏時に3DCGのデフォルメキャラになる点が特徴的。どのバンドの楽曲もバンドの個性を生かしつつ完成度が高い。SHOW BY ROCKというコンテンツに対する練度が高いというか、巨大コンテンツ感というか、半端な低予算感は全く感じない。

アニメ作品としては、「ましゅまいれっしゅ」「DOKONJYO FINGERS(通称、どこ指)」「REIJINGSIGNAL(通称、レイジン)」の新規3バンドに話を絞り、バンドの楽しさ、結束を中心にドラマを描く。どこ指は、気合重視のギャグ担当、レイジンは高いプロ意識担当、ましゅまいれっしゅは、新人ならではのフレッシュさ担当、という感じでバンドの個性も全く異なり、後半は、レイジンのララリンと主人公のほわんの価値観の違いが物語の中心として扱われる。

レイジンは全てに拘りを持って自分達でやり切るベテランの売れっ子バンドであり、この世界では実力、人気ともずば抜けている。そのバンドと競う事になっても、ほわんは勝ち負けの概念を持たずに、自分達が楽しく演奏する事を第一とし、レイジンのララリンを怒らせる。しかし、最終回ではララリンも、ほわんの楽しさを貫く姿勢をロックとして認める、という流れ。

ゲームと言う勝ち負けを競うソシャゲ世界の作品なのに、アニメ内では主人公が勝ち負けを度外視し、伸び伸びとした性格を重視する点が面白い。その意味で、根性を持って技巧に走るレイジンや、根性を持ってギャグに走るどこ指の存在もあり、多種多様なバンドの個性が光る。ガールズバンドが多数存在する本ゲームだからこそ、ましゅまいれっしゅの一番の個性として、楽しさ重視という設定付けがなされたのだろう。

一番好きな話はやはり、6話のほわんとマシマヒメコの打ち解け合った話である。ヒメコは過去にバンド仲間が去って一人取り残される経験がトラウマとなり、他人に対して本気でぶつかれなくなっていた。ほわんの事は気になるが、その臆病な性格が邪魔をして逃げてしまう。逆にほわんは1話の演奏で手を差し伸べてくれたヒメコの事を好きで、近づきたいのに素っ気なく対応されて戸惑いを覚える。何故向き合ってくれないの?、私の事は放っておいて!、ときてヒメコはウチの為を想って色々してくれたのに、ウチはヒメコの気持ちになってなかったと謝罪し、ヒメコが好きだからヒメコ一人ぼっちにしない!と言い切る。ヒメコのトラウマの壁が崩れほわんを受け入れる、という流れ。

平たく言えば、心の古傷のかさぶたを引っぺがして仲良くなるというドラマを、丁寧に感動的に描く脚本、演出の力量は見事。

本作は、感動ドラマだけでなく、ノリの軽いルフユのギャグや、デルミンとルフユのコンビの微笑ましさや、どこ指の馬鹿馬鹿しさ溢れるギャグなど、楽しく観れる要素が多くカラフルでバランスよくバンドを紹介する形でドラマを展開しており、肩に力が入る事なく楽しめる良作だったと思う。

ちなみに、ED曲の「きみのラプソディー」は作詞マシマヒメコとなっており本作6話に絶妙にマッチする。OP曲の「ヒロメネス」は作詞ほわんとなっていて、今は居ない心の中の尊敬する人を唄っていると思われるのだが、作中の設定とは合わずミステリアスな雰囲気。どちらも気持ちよく聴ける好きな曲である。

恋する小惑星

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 人と科学と夢、クロスオーバーする全ての繋がりと融合のハートフルな物語
    • きらら系だけど、一切手抜き無しのガチな科学考証(宇宙、地学、地理、気象)
  • cons
    • ちょっと優等生に過ぎたかも

シリーズ構成山田由香、監督平牧大輔、制作動画工房という、「わたてん」で細部まで拘りまくりファンを唸らせた座組の再来を目にして、本作視聴前の期待度はマックスだった。

本作の目玉は、ずばりガチな科学考証である。天文、地学の部活動を描き、その科学にワクワクし夢とする気持ちを大切に表現するためには、そこをなおざり出来ないという拘りである。星空は全話通して年月日時分を正確に再現し、ツアーやキラ星チャレンジで訪れる各機関の施設やスタッフは綿密なロケが行われたに違いないディティールを持って再現された。4話ロケ地のJAXA、地質標本館、地図と測量の科学館は、みらたちの夢と直結している。つまり、みら達はこれらの施設で自分の夢をより強く実感し、さらに他の部員達と共有する。取って付けた協力機関へのサービスではなく、施設も職員も物語として必要不可欠な存在として描かれる。

本作のキーワードは「繋がり」だったと思う。科学の分野を超えた繋がり。過去から未来への繋がり。人と人の繋がり。特に人と人の繋がりは部員同士、部活外の繋がり、先輩後輩の繋がり、先生と生徒の繋がり、学校外の繋がり、と多岐に渡る繋がりが描かれた。

地学部は部員数が少なく地学部と天文部が合併する形で存続したが、部員達は共に活動する事で互いの分野の知識をかじり、全く別だと思っていた分野違いの科学が少しづつオーバーラップしている事を実感していく。横の繋がりである。好奇心を持って知識を得る事は喜びである事を本作では言葉を使わずに伝えてくれるが、その好奇心は様々な分野に横断して持てる事に気が付かせてくれる。この下りはタモリ倶楽部を毎週楽しく観れる人であれば分かるのではないか、と思う。

科学や学問は、先人たちの研究成果をバトンリレーで現代に引き継がれる形で進化してきた。本作のラストで描かれるキラ星チャレンジもまた、現役の研究者から高校生たちに小惑星発見のプロセスを体験させるものであり、みら、あおの小惑星の名づけの親になる夢実現のために、遠藤先生から引き継がれたものでもある。時間を超えた縦の繋がりである。

科学も人も、横の繋がり、縦の繋がり、様々な繋がりを持っているから面白い。本作は、それを唯一無二のキャラクター同士の相関関係で表わしてくる。遠藤先生は、義務感ではなく、その人の好奇心や夢を大切にしてきた。そこを燃料にして欲しい、という願望である。12話のサブタイトルの「つながる宇宙」は、科学に対する、そんな思いをロマンチックに描いた本作にふさわしいまとめの言葉であり、本作のメインテーマだったと思う。

それから、少しキャラクターの話について。いくらでも書けそうなのだが、ここでは敢えて桜先輩に絞って書く。

桜先輩は、優しく思いやりに溢れる人柄なのだが、心の奥底で他人には理解してもらえないという諦めの気持ちを抱えていて、そのバリアのせいで他人から距離を取られてしまう、という性格であった。なので、桜先輩自身はある程度の事は自分で抱えて自分でこなして生きてきたし、そこを桜先輩の強さと感じていた周囲の人間も多かったのだと思う。しかし、桜先輩自身は他の地学部員達と違い、具体的な目標を持っていない事や、文化祭展示でボーリングなんて無理と早々に諦めたりと、少々リアル志向というか、現実主義的な面を持っていた。その意識を崩して行ったのが、周囲の人達であり、そのドラマの描き方が秀逸だった。

その功労賞としては、みらとイブ先輩だったと思う。夏休み中に成り行きでみらが桜先輩とサシでミネラルショーに行くくだり。みらは最初緊張しているが持ち前の賑やかしで桜先輩をリラックスさせてゆく。ケーキ屋で思わず桜先輩が進路で悩んでいて、将来の事を考えているかみらに訊ねてしまうが、分からないと正直に笑顔で返される。別れ際にみらからプレゼントを渡され唖然としてしまい、息抜きに付き合ってくれたお礼を言い忘れる。家に帰ってプレゼントを確認するとトパーズ(進むべき方向を気付かせてくれる石)であり、みらは桜先輩の悩みはお見通しでエールを石で贈っていた。桜先輩は与える事には慣れているが、与えられる事は少なかった。ちなみに、みらについて付け加えるなら、みらは周囲の何人にもエールを与え続ける役割を持っていた。

それから校庭でイノ先輩と二人で難航するボーリング作業中に、運動部男子を応援として連れて来た新聞部のイブ先輩のファインプレイ。桜先輩は他人に頼ったり巻き込んだりする事に不慣れであり、その殻を取り除く手助けをした。結果、あっという間に作業は終わり、文化祭でも手伝ってくれた人たちに地学部の展示を関心を持って見てもらえた。ここでもテーマの「繋がり」が関わってくる。

本作では、キャラクターの個性を肯定しつつ、周囲から手助けやエールを送られる事で何かに気付くという、ちょっとした良いドラマに満ちていた。もちろん、桜先輩自体も周囲に与え続けている。キャラクターは誰かからエールをもらい、誰かにエールを送ると言う循環が成立している。そうした、優しさの連鎖が、本作の一番の魅力だったのだと思う。

まごう事なき良作なのを認めたうえで、それでもちょっとだけネガを言うとすると、今回はちょっと上品過ぎというか、優等生過ぎたかな、とも感じてしまった。この辺りは我ながら複雑な心境。

虚構推理

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 推理で事件を解決させるのではなく、虚構で事件を収束させるという、逆転の発想の面白さ
    • 魁夷などのオカルト要素、恋愛コメディ要素、バトル要素、ミステリー要素のごった煮感の面白さ
    • ゆっくり展開ながら、1クールを有効に使い切ったシリーズ構成の上手さ
  • cons
    • 特になし

本作の文芸的な面白さを的確に言葉で表現するのは難しい。

人間はそこに謎が有れば解明を望む。納得したがる。その欲求をエンタメ作品にしたのが推理物である。推理物は基本フィクションなので、謎の答えを導き出すために、要素を配置し、最後は見事にピースがハマる快感を味わう。

本作は、その文法を用いつつ、フィクション内での事実の帳尻合わせは二の次で、登場人物、および視聴者が納得する結末をでっち上げて、最終ピースをハメる快感を味わう、という主旨の作品である。2話3話の主様のエピソードでその趣旨を明確に提示するのはストリー構成上の工夫であり、これから続く鋼人七瀬のストーリーがどこに向かうのか予め示すためである。(余談ながら、私はこれこそアニメの考察屋の楽しみ方と同じではないか?と思ってしまった)

続く、鋼人七瀬編では、都市伝説が実体化し殺人事件を起こすという荒唐無稽な事象に対し、どのようにすればこの惨事の継続を阻止できるのか?という琴子と九朗の活躍を紗季視点で共有する事になる。魁夷だの未来決定能力だのオカルトめいたフィクションの設定の中で、琴子がオカルト設定を肯定しながら、いかに無理ゲーなのかも説明しつつ、あくまでロジカルに対処方法を検討する。この時点では、紗季は最終的な敵の存在を知らないが、徐々に九朗の従妹の六花という因縁の黒幕の存在が明らかになる。

最終的には、琴子の頭脳+九朗の未来決定能力vs六花の未来決定能力の戦いの構図をとりながら、ネット上の掲示板の書き込み合戦で、大衆をより誘導できた方が勝利というゲームのルールが明確になり、掲示板の書き込み+未来決定能力の行使というビジュアルに描くという見せ方。おおよそ、マンガ、アニメ向きでは無い題材のような気もするが、一手一手の優劣が将棋の様に明確に分かる表現に、ビジュアル化も分かりやすく丁寧に行われていたと思う。

最終的には、琴子+九朗の勝利に終わるが、その最後の一手も痛快で、最後のピースをハメるのではなく、ピースのハマらないカオスを作り、大衆の下世話な妄想を暴走させるというオチに唸り、納得する。

色んな意味で例外的というかトリッキーな物語であり、見事にやられた!という感触があった。

ストーリー構成的には、本作は1クールの尺のなかで、鋼人七瀬編を中心に描き、琴子の一眼一足、九朗の不老不死と未来決定能力、虚構推理の意味、鋼人七瀬の事件の背景、六花の設定を、物語の流れのなかで整理しながら適切なタイミングで提供しており、混乱なく楽しめる構成作りが出来ていた。展開がスローすぎると言う意見もSNSで見受けたが、この選択は正解だったと思う。

芝居的には、本作は台詞劇であり、大量の琴子の説明台詞に圧倒される。ただ、琴子に限らず絵としての芝居も無駄なく決まっており、劇伴も適切なため、その辺りの演出は地味ながら丁寧。特に琴子はシリアスとコミカルを行ったり来たりするので、適当だと分かりにくくなると思うが、そのような事はなく、長台詞や芝居もスッと入ってくる。

キャラクター的には、登場人物を最小限にし、それぞれの役割を的確に描く。琴子は特に物語を進める原動力となるキャラクターだが、見た目の可愛さと、九朗の恋人を主張するも軽くあしらわれるというコミカルさのバランスが絶妙。また、キャラの行動原理もしっかりしており、琴子の秩序を守る、九朗の琴子を守る、六花の運命に抗う、という部分も説明があり明確。ただ、視聴中は六花が寺田刑事を殺してまでやりたかった行動原理が分からなかったのでモヤモヤしていたが、これは最終回で説明された。また、琴子と九朗の関係も、当初片想いで琴子だけが騒いでいるのかと思いきや、最終回ではしっかりカップルになっていた。事件進行中に全てを説明しきるのではなく、キャラの本音は最後の安堵感と共に描くという展開で、物語やドラマにある程度のケリを付けるストーリー構成だったと思う。

本作がアニメ向きではない、というSNSの意見も散見したが、個人的にはアニメで表現しにくい事象も上手くビジュアライズ化されており丁寧な仕事、かつ挑戦的な良作だと感じた。

推しが武道館に行ったら死ぬ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 地下アイドルオタクに着目し全力で何かをする事の熱意をコミカルに描く
    • 地下アイドル側とオタク側の微妙な距離感の信頼関係のドラマ
    • 地下アイドルChamJamメンバ設定の上手さ
  • cons
    • 特になし

アイドルを描く作品は多く在れど、アイドルオタクを描く作品はこれまで触れてこなかったので、オタクの持つ信仰心というか純粋で力強い気持ちを新鮮に感じた。地下アイドルとアイドルオタクは、もっとアングラでドロドロした世界という噂も耳にしたが、美化されているにしても、エンタメ作品としてキチンと整理されていたと思う。

この作品の本質は、アイドルとファンの関係性とは何か?という根源に立ち返る。アイドルと言うのはお金を稼ぐための職業でありながら、同時にファンの心に灯火を灯す希望の存在でもある。その商売と信仰の両面が存在している事が、特徴的でもある。昭和時代は全国と言うマスで商売をしていたが、平成時代はローカルアイドル、握手会で直接出会える、という身近な距離感に変化するとともに、同じCDを何枚も購入し貢ぐ事で、アイドルに課金し直接応援している実感を得る、という商売に変化した。そうした際に、ただ消費されていくアイドル課金に何の意味があるのか?オタクは何を求めて課金という代償を支払うのか?そうした事が本作のテーマにあったと思う。

勿論、課金自体はソシャゲでも頻繁に話題になっており、ゲーム要素としてドラッグ的にハマってしまい、連続ガチャに大枚を果たす、というビジネス的なテクニックがあるのは百も承知で、それでも物語的な回答を用意するのが本作である。

本作に登場する特徴的なオタクは二人いて、えりぴおとくまさである。

えりぴおの行動原理は、ただ純粋に舞奈が好きで応援する。しかも、舞奈推しが他に誰も居ない状態である事が余計にえりぴおを熱くし、献身的に貢ぎ、その極端な行動をギャグとして昇華する。ただ、舞奈は自己表現が苦手て、えりぴおの応援を嬉しく思うも、その気持ちを素直に伝えられない。その、疑似的な両片想い状態が胸キュンなコメディとして冴える。途中、市電に二人が偶然乗り合わせるシーンがあるが、ステージでも客席でもなんでもない空間では、二人は話す話題もなくそのまま別れてしまうという、近くて遠い関係の切なさも描く。両片想いの件については、舞奈がえりぴおに感謝の気持ちを伝えられる様に努力するシーンが描かれ、ぎこちないながらも双方向の思いが伝わるようになってくる。物語終盤でえりぴおは、偶然二次元オタクになった友人から、相手が実在し信じあえる双方向の関係である事を指摘され、オタクの応援がアイドルの力になり、それがオタクに返ってくる幸せを実感し、武道館という目標を持って、オタクを続けて行く事を誓う。

くまさの行動原理は、最初にファンになったレオ一筋に応援し続けるスタイル。くまさには、ChamJamのリーダーのれおが前のアイドルグループで端役を努めていた時代かられおを応援し続けてきた経緯がある。れおの誕生日お祝いの際はファンイベントの幹事を務める社交性も持ち、ファンの間でも一目置かれた存在となっている。くまさとれおの間には長年培ってきた、より前に進むために頑張るという信頼関係があり、互いに与え合う関係にある。本作ではこの関係を理想として描き、えりぴおと舞奈や、他のアイドルやオタクも、これを一つの理想として目指してゆく事になる。くまさはオタク界隈の紳士であり、一つの理想として描かれる。

また、地下アイドルのChamJamは、オタクが夢中になる訳だから、視聴者からも好感度を得られなければ説得力を持たない。その意味では、7人の全てのメンバが魅力的に描かれていたと思う。人気の順番に、リーダで下積みの長いれお、ナンバー2で運動が得意な空音、お色気担当でゆめ莉想いの眞姫、表裏無く単刀直入な優佳、自信がなく眞姫想いのゆめ莉、お馬鹿担当で負けず嫌いの文、地味担当の舞奈、という感じで互いに被らない個性的なキャラクター配置である。

ChamJamのメンバ間の人間関係は4話からフィーチャーされ始めたが、当初は一致団結というより、バラバラな雰囲気に感じた。しかし、途中で一部のメンバが一緒に初詣して祈願し合ったり、せとうちアイドルフェスで人気先行するめいぷるどーるのメイに捨て台詞に対して、後列組がリーダーのれおを励まししたり、物語終盤では他のアイドルグループに負けじと、一緒に武道館を目指すという合言葉とともに、徐々に結束が固まってゆく演出だったと思う。

総じて、ドロドロした世界を想像してしまいがちな地下アイドルとオタクという素材を、その本質の部分を見事なまでに品よく、そして楽しく仕上げてくれた、安心して楽しめる作品だと感じた。例えば、1話のステージシーンは、手書き作画であり、舞奈が一番目立たない存在である事も含めて、楽曲作りから作り込まれている愛ある丁寧な作り込みだったと思う。そうしたシーンに代表されるスタッフの愛に満ちた気持ち良い作品だったと思う。

魔法少女まどか☆マギカ外伝 マギアレコード

  • rating ★★★☆☆
  • pros
  • cons
    • 分割2クール前半という前提でも、中途半端なストーリー構成

本作は、外伝であるソシャゲのアニメ化であり、何かと本編との比較で評論されるかと思うが、個人的には外伝アニメ単体での良し悪しを書ければ、と思う。ちなみに、私は本編は視聴済みで外伝ソシャゲは未履修である。

スタッフだが、まず監督が新房昭之から劇団イヌカレーに変更になった。実際、劇中の映像は劇団イヌカレー濃度が高まっている。各エピソードは2~3話で構成されていて、それぞれのエピソードにディレクターが付く形で、ディレクターの持ち味を出せるようになっており、カラフルな印象を受ける。個人的には、2話3話のレナと楓のエピソードは少女達の心の繊細さを描くドラマが好きであり、本作の美点だと思う。絵的には、より濃くなった劇団イヌカレー風味、安定のキャラ作画で、9年間の順当な進化を感じた。また、背景などにも印象的に使われる言葉遊びなどの演出も冴えていた。

外伝のアウトラインだが、本編ではキュウベイのエントロピー回収システムの中で、回し車で走るモルモットだった魔法少女だったが、ソシャゲ向けに女子大生まで年齢の幅を広げた魔法少女達を多数登場させ、魔法少女の運命に抗うという前向きなテーマも込めて、群像劇を紡ぎだす、といったところだろうか。物語としての軸は、いろはの妹うい探しと、新興宗教じみたマギウスと魔法少女たちの生き方のぶつかり合いといったところか。

キャラクターとしては、主人公いろはは強烈な個性を持たず主体性が薄く、仲間を作る必要性も感じずに単独で生きてきた。しかし、やちよたちと行動するようになり、意外と芯の強いところを垣間見せる。また、やちよは根っからの姉御肌でありながら、過去の経験から仲間が死ぬのは自分のせいだと思い込み、最近は仲間づくりを逃げてきた経緯がある。この二人の主人公の絆を確認し、これから反撃というところで、やちよは再びいろはを失う形で前半1クールが終わってしまう。13話は、ド派手なアクションシーンや、マミ、サヤカの登場があり、盛り上げりをみせて次クールに続く、と言いたいところであるが、いろはとやちよのドラマのディティールが薄く、置いてけぼりをくらった感じがした。

全ての演出や作画は、その描く物語、ドラマに心打たれてこそ意味がある、と思いたい。(例外として、物語なき映像の暴力的な作品も存在するにはするが…)その意味で、分割の1クール目の締めとしては大変物足りない、というのが私の率直な感想である。途中途中の話は小粒ながら光っていたと思っているだけに余計にである。

妹探しやマギウスの物語はこれからが本番であろうし、私自身この手の謎説き物語は嫌いじゃないので、とりあえず2クール目を静かに待つ、という感じである。

歌舞伎町シャーロック

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • シャーロック・ホームズをモチーフとした推理物を基本とし、曲者探偵たちを人情で描く奇抜なスタイル
    • 切り裂きジャック、モリアーティなどの連続推理ドラマの楽しさ
    • 基本的に、ブレなくキャラの行動原理を描けていたシリーズ構成
  • cons
    • 推理物ゆえの、視聴者の意識を誘導する演出のあざとさ

最初にネガを言ってしまうと、本作は連続推理物としての側面(特にモリアーティの件)が強く、視聴者の意識誘導するために、ある情報を強調したり、ある情報を隠蔽したりして、いくつかの可能性を視聴者に謎として提供して考えさせるスタイルである。だからキャラの行動がそのトリックの為に強調されたり省略されたりしていたと思う。それはそれで楽しいのを理解した上で、反対にそこに醒めてしまう事もある。私はキャラの繊細な心情を楽しみたい気持ちが強いのでその点をネガに感じてしまった。なお、弁護するわけでは無いが、キャラの行動原理は一貫しており矛盾や破綻が無かったと思う。

本作の基本スタイルは、1話完結の推理物であり、舞台を新宿歌舞伎町と設定し、シャーロック・ホームズをモチーフにしたのある登場人物を多数配置し、曲者探偵たちを人情で描くスタイルである。1話では、ワトソンがシャーロックを車で轢いて世話の為に同居を始めるというブラックな面と、謎解き解説を落語で喋るという洒落た面が強調されていたと思う。推理物としても、シャーロックの現場での観察力、洞察力を持って、人並み外れた推理力を発揮し、事件を解決に導く。

しかし、本作は、本格推理物というよりは、キャラの人情ドラマ寄りの物語に比重を置き、一般の視聴者にも見易い作りにしていたと思う。尺は2クールあり、1クール目は、切り裂きジャック、2クール目はモリアーティという悪役を設定して、連続ドラマとして、次の展開はどうなるのか?を楽しみに視聴していた。

原典でもモリアーティは最大の悪役で有り好敵手なのだが、シャーロックもモリアーティも頭脳明晰過ぎて、人の心が分からない、心が壊れた存在として描かれる。シャーロックは人の心を知るために推理落語を続けたが、モリアーティは人の心を破壊し続ける快楽を途中で知り、刑務所の囚人にマインドコントロールを仕掛けて連続的に事件を起こす。そして、シャーロックも自分の側に来るように誘う。モリアーティにとっては、シャーロックだけが遊び相手だった。

連続殺人犯のようなサイコパスの心の中は、一般人には良く分からない。だから、このような作品を書くときは、サイコパスの心をどのように理解させるか?は重要なポイントであると思う。本作では、モリアーティは幼少の頃から母親をお風呂で感電死させるなど、命に対して何も感じず、破壊を美しいものとして衝動的に行動する人物像として描かれた。しかも、誰もそれを止める事ができなかった。唯一、病床の双子の姉アレクが、痛みを分かる人間になってもらいたいと努力し話しかけたが、結局のところモリアーティには全く通じなかった。

區庁舎の空中庭園でシャーロックと退治した時、シャーロックの心を壊すために、モリアーティは自らの身を投げた。それにより一時はシャーロックも錯乱状態になるが、ワトソンの活躍で正気に戻る。そして、モリアーティが残した最後の謎解きのマンションを訪れ、いくつかの謎解きを解決した後、シャーロックは落語でモリアーティを救えなかった事を泣いて詫び、モリアーティの遺書とも言えるアレクのヘアピンが添えられた書置きを読む。

アレクや家族と一緒に、探偵長屋のみんなと一緒に、普通に楽しく生活する未来もあったかも。俺はシャーロックに憧れていた。さよなら、シャーロック・ホームズ。なーんてね。意訳するとこんな感じである。

モリアーティの行動は、完全に二つの心に分離していて、區庁舎から身を投げる前にこの書置きを残しており、最後はダークサイドに落ちたけど、シャーロックの謎解きのプレゼントにサニーサイドの置手紙を残していた事になる。もっと言うと、「なーんてね」が書かれている時点で、本心をはぐらかすニュアンスも持っているが、視聴者は素直にこちら側を本心と受け取り、良い話だったと結ぶ事ができるだろう。

しかしながら、モリアーティの死体は発見されておらず、まだ生きている可能性も残した作劇になっており、そうした妄想の余地も本作の余韻となる深みを持っている。こうした、色んなトリックや仕掛けを、上手い感じで洒落を効かせて驚かせ決着させるという点において、なかなか上出来の作品だったと思う。

アイカツオンパレード!

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • とにかく明るく元気な姫石らきのキャラクター
    • アイカツシリーズ7年のファンへの恩返し
  • cons
    • 過去作品前提の作品であること

私は、オンパレード!が初めて視聴するアイカツであり、それ以前の作品はアイカツ作品未履修であった。そして、オンパレードを見続けて、思いのほか深い作品だと感じたので、その事を書き残しておきたい。

本作の基本は、過去のアイカツシリーズ作品の学校を行き来して、新人アイドルの姫石らきが、歴代アイドルと共演して、プレミアムレアドレスを作りステージに立つ夢を叶える、というお話である。明らかに、過去のアイカツキャラというリソースを流用して歴代オールスターアイドル総出演のゲームを作ろう、という商業的な企画ネタという第一印象であった。

予備知識なしで1話を初めて見たとき、主人公らきの能天気なキャラクターに気押された。

何より度肝を抜かれたのは、先輩をちゃん付け呼びするクソ度胸と、ハッピー!ラッキー!とか、きゃは!とか、礼儀知らずで、勢い重視で、軽すぎるノリである。しかし、らきには全く悪気が無く、姉の実験が皆に迷惑をかけている事を知ると、らきが姉の代わりに皆に謝ったり、素直な良い子である事が視聴者にも浸透してくる。歴代アイドル達もらきの明るく前向きなパワーを素直に受け止め、らきにアイドルとしての在り方を少しづつ伝授してゆく。時に、らきの軽はずみな行動を叱責する歴代アイドルもいて、らきはその言葉を真摯に受け止めて謝罪し改善する。やるべき時は投げ出さず、責任を持って最後までやり遂げる。

アイカツは女児アニメなので、ある意味、そうした女児の素直で明るく生きて欲しいスタッフの願望から、らきの性格が出来たのではないかと想像している。しかし、それにしても、主人公が能天気すぎる…、というのが初見の印象だった。

そして私は、次にアイカツシリーズ7年の歴史に触れるために、これまでのアイカツ作品の経緯概要を調べた。

アイカツシリーズは、無印の4年(いちご編2年+あかり編2年)、スターズの2年、フレンズの1.5年の合計7.5年の歴史があり、一貫してアイドルになるための努力、根性、友情を描き続けている。当時から視聴している女子やオタクには、それぞれの作品の主人公やサブキャラに思い入れがあり、作品から勇気を受けてきた。だから、各話で少しづつ登場する歴代アイドル達の仕草や言動に触れる度に、それが琴線に触れ、感動がよみがえる。初見の私には何気ない平凡な台詞でも、古くからのファンはその台詞には歴史の重みが加わる。そうした事が理解出来てくると、シリーズ未履修の私でも、何気ないシーンでそのバックボーンを色々想像したり、SNSに流れてくる補完情報で頷いたり、作り手が込めた重さを感じるようになってくる。

ある意味、過去作品に依存する部分が多いので卑怯と言えば卑怯なのだが、オンパレード単体では深みが出せず、過去作品があるからこその作品と言える。しかし、それはアイカツシリーズのファンへの恩返しとも言えるだろう。

また、見続けていると、主人公のらきについても、前述の通り、嫌味が薄れてだんだん好きになってくる。これは飛躍した論理だが、毎回登場するダンスシーンのキャッチーな曲を流し込み、女児の脳みそにアイカツ魂を刷り込むという、ドラッグ的な効能があるのではないかと、冗談半分に考えている。

最終回25話では、今まで頑張ったご褒美として、いちご、あかり、ゆめ、あいね、みおと6人一緒のらきがステージで歌う。らきにもファンが出来て憧れの循環は続く。姉の実験も終わりアイドルたちもそれぞれの世界に戻る。翌朝、一瞬夢かとおもうらきだが、それぞれの記憶はそれぞれが持ち帰りそれぞれのアイカツの道を歩む。

繰り返しになるが、オンパレードはアイカツ7年の集大成であり、フィナーレであったと思う。OP曲「君のEntrance」は、 ファンがアイカツに出会った事で勇気付けられ、アイカツと別れてもこれかれの人生をずっと歩み続ける、というニュアンスを感じる。アイカツファンに対して、アイカツを終了するケジメだったのではないだろうか?

果たして、アイカツは、しばらくWeb配信コンテンツとして、音城ノエルを主人公に配信された後、2020年秋から、アイカツの新シリーズが放送開始されることが発表されている。

これは、私のフィナーレという考え方とは異なる展開のようにも思うが、従来のアイカツを大幅にアップデイトした大改変を意味するかもしれないし、従来のアイカツ精神がどう受け継がれるか?というのは不安に感じる面もある。この辺りは妄想でしかなく、確証は無い。

いずれにせよ、私はオンパレードという作品を非常に稀有で素敵な作品だと感じていて、それは歴代アイカツシリーズが、時代を追って少しづつアップデートし、ファンの間でも無印いちご編が良いだの、スターズが好きだの、ファン通しの間でも観ていた時期によって好き嫌いもあったアイカツシリーズを、分け隔てる事無く全肯定し、スタッフの愛を持って作られた作品だと感じる点である。全てをアイカツアイカツ愛で包み込む作品なのである。

これまでのアイカツは、ライバルも存在し競争もあった。しかし、らきは競争する事もなく、全てのアイドルと仲良くなってゆく。その精神は、言ってしまえば夢物語のようでもあるが、アイカツシリーズの中で唯一無二の存在として輝いているのだと思う。

おわりに

新型コロナウィルス騒動もあり、ここのところ忙しくて時間が割けなかったので、見終えてから1ヵ月以上も経過してしまいました。

振り返ってみると、まあ良作だよね、という感じの作品も大収穫でしたが、映像研のパンチ力の強さに全部持ってかれた感じはあります。なんというか、これが令和時代なのか?という衝撃がありました。

また、今後、TVアニメのOA、配信も途中で止まるコンテンツが増えて来て、このクールがある種のピークになってしまうのではないか?少なくとも、一旦、1クール当たりの作品数は減少するのは間違いないでしょうが、その後の作品数は復活するのか?質はどうなるのか?物語も変化していってしまうのではないか?など、とりとめのない事を漠然と考えています。

私は良い作品を良いと書くしか出来ないので、黙々とそれを続けるとは思いますが、それを続ける事が出来る状況が維持されることを祈っています。(ん、祈りで〆た?)

劇場版SHIROBAKO

ネタバレ全開です。閲覧ご注意ください。

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はじめに

私は、2015年10月~2016年3月まで放送されていたTVシリーズSHIROBAKOの大ファンでした。なので、この劇場版もとても楽しみにしていました。

TVシリーズの4年後の世界を描き、アニメ作りに携わるスタッフ、クリエイターの群像劇と、あおいの成長を見事に描く、大満足の出来です。

本作はアニメ制作の醍醐味を、時に楽しく、時に辛く描き出すTVシリーズのスタイルを周到しているのですが、劇場版という事で、より大人寄りのエンターテインメント作品になっていると感じました。その辺りも含めて、感想・考察まとめます。

2020.3.4 キャラクターの「安原絵麻と久乃木愛」意向を追記

感想・考察

テーマ・物語

アニメ業界の浮き沈み、光と闇

冒頭でロロとミムジーTVシリーズ振り返り「めでたしめでたし」と結ぶ。しかし、4年後のムサニはこの台詞が皮肉だったという状態で始まる。

タイマス事変により、丸川社長は責任を取って退任。ムサニは倒産こそ免れたものの、事業は大幅に縮小。わずかな社員だけ残り、資産も社員も大幅に放出。細々と下請け作品を作る会社になり下がっていた。

タイマス事変とは、ムサニが正式契約を取る前に作業を進めていた「タイムヒポポタマス」(通称、タイマス)が、クライアントの都合で没り、制作は中止、持ち出した費用は回収出来ず、業績は大幅に悪化し、事業縮小に追い込まれた、というムサニ史上最悪の事件である。これにより、途中まで制作した作品はお蔵入りし、制作に携わっていたスタッフたちの情熱は行き場を失ない、悔しさと虚無が残った。

本件は、コンプライアンス的にNGなわけで、正式契約締結しなければ、作業着手しないのは当たり前と杓子定規に言うのは簡単だが、おそらく、この業界は人と人との信頼関係の上で、このような綱渡り的な取引は、しばしば行われているのだろう。(想像です)

限界集落過疎娘とツーピースの2ライン体制で順風満帆に見えたムサニも、この事件で衰退し、皮肉にもサンジョ下請けで怠慢制作会社だったスタジオタイタニックがお色気てんこ盛りのサンジョ続編の元請けとなり、それをムサニが下請けでグロス制作するという屈辱。栄枯盛衰、一寸先は闇である。

また、山田、円の演出家の二人も明暗を分けた。山田はツーピースのヒットを皮切りに人気監督としてTVに出演するなどしていたが、円はムサニに残り、先のサンジョ続編の演出をしていた。このようにアニメ制作者の浮き沈みも紙一重として描かれていた。

また、悪意を持った会社もあり、スタジオげ~ぺ~う~の社長は制作費用を渡しているにも関わらず、ろくな仕事も上げず、日程遅延に責任も持たず、さらに継続して費用を請求するという不誠実でヤクザみたいな、絵に描いたような悪役として描かれた。

このような、アニメ業界の不安定さは、エンターテインメント作品としての誇張はあれど、少なからずあるのだろう。実際には、これほどコンプライアンスがガバガバという事はないのだろうが、大企業に比べればこうしたトラブルは各段に多いのだと思う。(想像です)。この事がアニメ制作会社の地雷として描かれていた、と思う。

タイマス事変で折れたあおいの心

あおいは、タイマス事変で何もかも失ない、一度、心はポッキリ折れてしまった。

あおいには落ち度は無い。ある日突然、何か運命的な力が天変地異の如く、積み上げたモノを崩し、押し流してゆく。

劇場アニメ制作の話を聞いて決断を迷っているときに、丸川元社長のカレーをあおいが涙を流しながら食べるシーンが非常に良い。

本作のテーマは、丸川が喋る台詞が全てである。好きなだけでは行き詰まる、お客が満足できる作品を提供し、と自分自身も成長する。つまり、アニメを作り続けるしかない…。(うろ覚え、すみません)

平岡の台詞もあおいの背中を押した。何かをするためには、もがき続けるしかないと。

あおいは無謀とも言える9か月間の劇場アニメ制作を決意し、失意のどん底から這い上がるが、本作はそこを、まるでインド映画のようなミュージカルダンスシーンで表現する。夜道をあおいがブツブツ言いながらミムジー、ロロ、アニメキャラクター達と踊りながら活力を取り戻してゆくシーンが、荒唐無稽でありながら、妙な説得力を持っていた。キャラクター達は、あおいの分身であり、あおいのアニメに対する気持ちである。そのキャラクター達があおいを後押しする。映像の馬鹿馬鹿しさも感じるが、その馬鹿馬鹿しさが現実の不安をあざ笑うが如く、かつてのアニメ愛の気持ちをみなぎらせてゆく。それは、アニメが人に与える良い影響をメタ的に表現しているともとれる。その演出がSHIROBAKOならではであり最高だった。

入社5年目の壁

あおいだけでなく、他のドーナツ娘達も仕事の伸び悩みを感じていた。夢を持ちがむしゃらに仕事をしていた頃を経て、自分がやりたい事が思うように出来ない事、今の自分の仕事が当初やりたかった事なのか疑問を持つ事、そうした迷いや壁があった。

こちらも、丸川の台詞の通りである。好きなだけでは行き詰まる、が効いてくる。

この壁は、もっと言えば若年層だけでなく、経験年数に無関係に、全ての登場人物に存在するものである。

例えば、タローと平岡はタイマス事変を経てフリーランスとなり、制作会社に独自に企画を持ち込む活動をして自分の道を模索している。例えば、舞茸は「空中強襲揚陸艦SIVA」の脚本の行き詰まったが、このときはみどりに共同脚本の形で入ってもらう事で乗り切ったが、みどりを「商売敵」と言った。仕事の壁は誰にでもあるが、乗り越えるために皆、あがき、もがいている。

この壁に対する万能薬は無い。それぞれに、解決策を考えてもがくしかない、と言うのが実際だと思う。

ドーナツ娘達の壁は、劇中で子供たちのアニメ教室イベントがキッカケの一つとして描かれた。

アニメが子供たちを喜ばせ、アニメーションそれ自体が普遍的な楽しさを持つ事を、子供たちから教わり直す。杉江もその事に触れており、この教室は杉江からドーナツ娘たちへのプレゼントだったのかもしれない。その子供たちの笑顔、アニメーションの力の再認識が、彼女たちの栄養源となって、壁を乗り越える助走となった。

初心に立ち返るプロットは色々あるだろうが、初心よりも根源に触れる事でやる気を取り戻してゆくエピソードを面白いと感じた。

監督やプロデューサーが守るべきモノ

本作ではあおいの立場はプロデューサーである。プロデューサーが守るべきものは作品を完成させ、世に出す事。

今回の試練は、げ~ぺ~う~が権利関係でムサニにヤクザみたく難癖付けてきた件であり、あおいはタイマス事変の悪夢を思い出し、一度は夜の公園で再び心が折れそうになる。クリエイター達の熱意や頑張りを知るあおいは、今度こそ作品を守りたい気持ちで、楓と二人でげ~ぺ~う~に乗り込み、薄っぺらな契約書の解釈を説き、録音音声を証拠に裁判で戦う意向を見せ、ヤクザな相手をやり込めた。この一連のシーンはTVシリーズ23話の木下監督が原作者に直談判したときのセルフオーマージュでもある。重要なシーンだからこそシリアスに重くならない様にコミカルに描かれる。この殴り込みを知るのは、おそらく渡辺社長と葛城Pと興津さんなどの限られた者のみだと思う。ここで重要なのは、あおいが作品に対する責任を持つことを自覚し、責任を果たす事である。TVシリーズ16話で井口さんのキャラデザが原作者からOK出ない時に、あおいは制作デスクであったため、原作者との交渉は渡辺Pと葛城Pの仕事であった。あおいは、この役を楓と二人でやり遂げた事は、あおいの4年間の成長(出世?)の証である。

そして、監督が守るべきものは作品のクオリティ。

あおいはダビング終了した作品に納得しておらず、また木下監督の同様の感触である事を理解し、公開3週間前にも関わらず、ラストのシーンをリテイクをムサニ内で切り出す。ムサニスタッフもラストの弱さは認識しているが、直すとなるとただ事では済まない。あおいは、その判断を木下監督の口から言わせる。木下監督は、手戻りがどれだけ大変か、周りのスタッフを動かす事になるかは承知している。ここで大切なのは、木下監督が気にしなければいけないのはスタッフへの申し訳ない気持ちでの気遣いではなく、作品のクオリティを担保する事であり、監督はその権限と責任の両方を持っている。そして、木下監督はリテイクを選んだ。

この監督やプロデューサーの責任というのは、中高生や学生には分かりにくいかもしれないが、プロジェクトを任されたり、会社で部課長だったりの働きを見ている者であれば理解できると思う。決断するのは責任者であり、そこを逃げられない。今回はクリエイター側よりも、より管理者側のテーマに重きを置いた物語であり、その意味でより大人向けのエンターテインメント作品だと感じた。

カタルシスは弱いが、強く余韻を残すラスト

本作のラストはリテイクされた、劇中アニメ「空中強襲揚陸艦SIVA」のラストシーンの映像で終わる。エンドロールでは、後日談としてムサニのホワイトボードに「真・第三飛行少女隊」の文字もあり、ムサニの復活を匂わせる明るい希望をチラ見せする。そして、他のスタッフの一山越えた何気ない日常のシーンが映し出される。これにより、「めでたしめでたし」で終わる物語として解釈する事は出来なくはない。

しかし、本作を観終わって、TVシリーズのサンジョの打ち上げのようなカタルシスは感じなかった。はるかに盛り上がらない感じで、フラットな感じで終わる。個人的にその事に違和感を抱き、その意味を考えていた。

「空中強襲揚陸艦SIVA」のラストは、女子供を逃がし、自分達は戦場に残り、捨て身で戦い続ける、という所で終わる。戦いは劣勢であり、それでも戦い続けなければならない。その姿があおいたちムサニの現状に重なる。アニメ業界を取り巻く問題、厳しさは相変わらずであり、その中でクリエイターたちの結晶である作品を守り、理不尽に立ち向かい、戦い続ける。俺たたエンドである。一山越えても、また次の山に立ち向かっていく。決して、安楽なハッピーエンドではない。それは、TVシリーズカタルシスあるエンドが美し過ぎた事に対する否定であり、アニメ制作者の今を生きるだけでも必至という、綺麗ごとだけじゃない、よりリアル寄りな雰囲気で締めているのだと感じた。

だからと言って、悲壮感漂うラストでは全くない。気を緩めれば、負のスパイラルに呑まれて奈落に落ちてしまうこの世界で、あおいたちはどん底から不死鳥の様に生き返った。それは、勇気といっても良い。そして、その勇気はアニメから受け取っているのである。だから私は本作のカタルシスの弱さも込みで、この作品の味わいになっているのだと思う。

少々脱線するが、「天気の子」は貧困の側にいる帆高や陽菜が苦しい社会で生きて行く物語であったが、誤解を恐れずに書くなら、本作もアニメ制作関係者の苦しい社会の中で生きてゆく姿を描いているという意味で、テーマが重なるように思う。辛い社会でも前向きに生きる、というのが2020年の今の時代のメッセージなのかもしれないな、と思った。

キャラクター

宮森あおいと宮井楓

本作は群像劇で有りながら、ドラマの詳細は主人公のあおいに絞られていたと思う。あおいのプロデューサーとしての復帰、活躍を描いた。

宮井楓は、あおいにとってのバディである。あおいはムサニの中でリーダー的立場に居ながら、会社内の上下の繋がりはあれど、その鬱憤を晴らす同僚はおらず、という状況だった。その事があおいのストレスでもあったはずである。だから、平岡にタローが必要だったように、あおいには楓が、楓にはあおいが必要だった。二人とも苗字が「宮」で始まるのも意図的な設定と思われる。宮宮(みゃーみゃー)コンビ。

この二人は丁度、渡辺社長と、葛城Pの関係を継承する構図となっており、世代交代の意味もある。今後、彼女たちが企画を持ち込んでゆくのだろう。

映画2時間の尺で観る事は叶わなかったが、本当なら楓もアニメに情熱を持っているはずで、その情熱を具体的に見たかった。

安原絵麻と久乃木愛(2020.3.4追記)

絵麻は、ボロアパートを出てマンションで愛と二人でルームシェアしていた。タイマス事変でムサニが作画陣を放出しフリーランスとして在宅原画の仕事をする。

絵麻は、控え目で強く主張したり相手の懐に飛び込んでいくのが苦手で、ストレスを内に秘めてしまいがちな性格。

愛は、上手く喋る事ができず、たどたどしい会話しか出来ない。ともすれば、コミュニケーションを取るのに非常に手間がかかる。何かあると物陰に隠れてしまいぎみだが、絵麻に対しては懐いている。

絵麻と愛は、二人とも対外的なコミュニケーションに難があり、そうした二人だからこそ引き合ったのだと思う。

今回、あおいの作画監督の依頼に対し、絵麻は開口一番、短期日程だけどスケジューリングは破綻させないでね、とあおいにくぎを刺した。絵麻にとっては旧友のあおいとの久しぶりの仕事である事や、古巣であるムサニの元請け作品である事よりも、まずビジネスな会話をしなければならないところが、4年間フリーとして世間で揉まれた変化なのだろう。(この事は、パンフレットのCV佳村はるかさんのインタビューでも触れられていた)

絵麻の「愛が家事や料理をしてくれて感謝しているのよ」(うろ覚え)という台詞が、絵麻が仕事に追われている様子を端的に表わしている。おそらく、収入が足りないからではなく、断れずに仕事を抱えてしまったり、スケジュールのしわ寄せを受けて仕方なく、という事が重なっているからこその、前述のあおいとのやり取りなのだろう。

絵麻は今回の仕事で、大先輩である小笠原さんの原画を作画監督として修正する事になるが、その直しについて演出の円さんから駄目出しをくらう。(円さんは遠回しな言い方を好まず直球な性格) 今回の仕事で絵麻は作画監督だけでなく作画も兼任しており、時間に追われていた。最終的には、円さんが「安原さんの作画の上りが楽しみ」と制作進行に伝言させていたシーンで、そのスランプを乗り気った事が分かる。

坂木しずか(2020.3.4追記)

しずかは、知名度も上がり事務所方針でマルチタレント路線で売り出されていたが、声優として演技したいという本来の欲求が満たせず、モヤモヤしていた。

そのモヤモヤを先輩の縦尾マリが察し、しずかと二人で主婦どおしの日常会話芝居をいきなり初めて、不満ばかり言わずにダメもとでも事務所に自分の気持ちを伝えたら?と助言をするくだりがカッコ良すぎた。日常芝居の台詞をアドリブで言わせて、その中に悩み事の回答がある。

その助言が功を奏し、「空中強襲揚陸艦SIVA」のオーディションを受け、アルテ役を演じる事になる。奇跡なんてない、という台詞。(うろ覚え) 今まで事務所に流され待ちになっていた事に対して、能動的に運命を切り開こう!という、しずかの変化と重なる台詞である。

今井みどりと舞茸しめじ(2020.3.4追記)

みどりは、師匠の舞茸の口利きもあり、新人脚本家として実績を積み始めていた。ただ、脚本会議での舞茸のチェックで状況説明不足を指摘されるなど、まだまだ粗さが目立つところもある。

舞茸は、「空中強襲揚陸艦SIVA」の脚本を進める上で、どうしてもアルテの扱いがしっくりこず、ラストシーンに手こずっていた。おそらく、アルテが作劇に絡めようとしても、矛盾をきたす雰囲気だったのだろう。(この辺りの詳細な理由は読みきれなかった)

みどりと舞茸は、グラウンドでキャッチボールをしながら会話するシーン。もともと、ここでこうしているのは、みどりが抱えている作品が野球モノであり、みどりが実際に変化球を投げて体感し作品に生かすために、キャッチャー役を舞茸にお願いしていたに他ならない。最初はボールと言葉を投げながらのキャッチボールの会話。舞茸はアルテの扱いについて、みどりに聞いてみる。君ならどんな球を投げる? すでに、みどりは2種類の変化球を習得しており、みどりの器用さ、手玉の多さを伺わせる。舞茸はキャッチャーとしてしゃがみ、みどりはピッチャーとして投球する。みどりが舞茸に投げ込むのである。舞茸の必至さに比べて、みどりのマイペースというか余裕を伺わせる二人の対比の演出が痺れる。

舞茸は後日、ムサニで脚本強力にみどりを加えたいと提案する。そして、みどりの師匠という台詞に、師匠ではなく商売敵だと返す。(このカットの舞茸さんの表情がマジ過ぎます!)

みどりは、もともと頭の回転が速く努力家で器用である。TVシリーズでは、脚本家の下積みとして面倒くさい設定の仕事をしていたが、そうした分からない事を調べて自分のものにする事に長けていた。吸収が速く成長も速い。その事を、舞茸が一番知っている、という事だろう。

ちなみに、私はドーナツ娘の中でみどりが一番お気に入りであり、TVシリーズ18話で平岡に「女だからって…」と言われてモヤモヤするシーンが好きである。(その時の舞茸の対応もカッコ良いのだが)

藤堂美沙(2020.3.4追記)

美沙は3DCGの「スタジオカナブン」に在籍し続け、チームリーダの立場にある。美沙の悩みは部下の育成と、自分で抱え込み過ぎな事である。

部下の仕事のクオリティが低い、進捗が遅い。自分がやればより短期で高品質に作れる。部下に動きのリアリティ(自動車の構造、物理法則)とは何か?進捗管理(遅延とリカバリ)とは何か?説明するが理解してくれたかどうか反応がはっきりしない。チームとして成果を上げるためには、自分が常識と思える事もきっちり意識共有しなければならない。そして、ついつい自分で仕事に手を付けてしまい、美沙自身に負荷が集中しチームの仕事が回らなくなる、という悪循環。

今回、爆発のシーンを請け負う際に、残業時間で何とかするという美沙に対し、手が遅いと思われた部下が最新ソフトを使いこなしていて短期間で仕上げられそうな事が分かる。クライアントからも勉強熱心だと褒められる。

美沙は今までの実績で部下のパフォーマンスを低くみていたが、部下の得手不得手も知らず、その意味でチームとしてのパフォーマンスを生かしきれない可能性があった。結果的に目の前の仕事で手一杯だった美沙が、部下のお陰でクライアントの要求に応える目途がたつ。チームメンバーの特性や先見性も重要な事が分かってくる、というのが美沙の成長というか、気付きだったのかと思う。

遠藤と嫁と下柳と瀬川(遠藤ハーレム)(2020.3.4追記)

遠藤はTVシリーズから、外連味あるアクション作画が得意だが、ちょっとストレスがかかると拗ねてしまう、という面倒くさいキャラとして描かれていた。

タイマスに賭けていた所もあり、タイマス事変後、すっかり仕事に身が入らなくなってしまい、仕事もせずにゲーセンなどで時間を潰したりしていた。

遠藤の嫁は、遠藤にはアニメーターという仕事が天職であり、アニメーターの仕事をして欲しいと願っている。しかし、今の遠藤は仕事を探す気力もない。ローン返済もあり嫁がスーパーのレジの仕事で生計を立てて遠藤を支える。

瀬川は、そんな遠藤にゲーセンでカツを入れるが、頭ごなしの正論に反発されて遠藤の説得に失敗する。遠藤はプライドが高い。瀬川さんはいつも強気なのだが、説得失敗した事に対して、またやってしまったと凹む姿をあおいに見せたところに親近感がわいた。

そして、下柳の水族館での説得。下柳は作品にタコが登場するという事で、タコや他の海洋生物を観察し、デジカメで撮影していた。下柳は3DCG担当であり、動きを掴むためにロケハンしていたのである。下柳は遠藤の作画が見たい、と目を合わせずに言う。瀬川とは反対のアプローチである。

遠藤が仕事帰りの嫁とコンビニで缶ビールを飲むシーン。遠藤と一緒に缶ビールを飲む事、爪が割れた嫁にプルタブを開けた缶ビールを交換する事、たったそれだけの事で今日はいい事があったと嫁が言っていた。それは、遠藤が普段家に居ないか、居ても嫁にも辛く当たっている事を想像させる。ここまで来てやっと遠藤が仕事に復帰する事を決める。

ムサニに仲間が復帰を説得するシーンは熱い。しかし、最後のダメ押しが嫁さんだったのが切実であった。観客は全員、嫁さんの味方だったと思う。

タローと平岡(2020.3.4追記)

フリーランスとなり、やりたい事をやるために、制作会社に企画を持ち込んでいる二人。それも、大量の企画を。

平岡の穏やかな助言。何かするためにもがくしかない。ムサニも上手く行くといいな。(うろ覚え) 今の平岡は他人の心配が出来る。あおいの苦境に添える言葉が誠実である。

タローは、演出が出来るようになっており、「空中強襲揚陸艦SIVA」の演出として入ってくれた。納豆のシーンが大幅カットされてしまったが、へこたれてないところが良い。

しかし、この二人を見ていて癒される時がくるとは。

丸川元社長と渡辺社長(2020.3.4追記)

丸川元社長は、タイマス事変の責任を取って社長を退任したが、ムサニを潰さず残した。

ムサニを潰しても、スタッフたちは安藤のように他の会社に移ったり、フリーランスになったりしてアニメの仕事を続けてゆく事は可能だったと思う。しかし、グロス制作が出来る最低限のスタッフとリソースを残し、ムサニの名前を残したのは、またいつかムサニの名前で元請けが作れる道筋を残して、渡辺やあおい達にムサニの復活を託したのかもしれない。

丸川は、アニメの最前線から手を引いたが、今のあおいを見て、前に前に進むしかない、と助言する。

TVシリーズ19話の丸川の、がむしゃらに進んでて気が付いたら今になっていた、という台詞を思い出す。この時は、やりたい事ばかりで進んできたのかと感じていたが、嫌な事があっても立ち止まらない事とセットの台詞だったのではないか?と思った。

丸川からムサニを預かった渡辺社長。人事的にはこれしかなかったと思うが、渡辺の心境はどうだったのか?

渡辺も麻雀ばかりしている風来坊に見えて、色々と企画を持ち込んではきており、プロデューサーとしての仕事の腕は確かなのだろう。ただ、あまり社長業が好きそうには見えない、というかもっと身軽さを信条としているように思う。

今回、げ~ぺ~う~への殴り込みは、あおいと楓の若手に行かせ、後方に待機した。あおいにプロデューサーの仕事をやり遂げさせた。(もっとも、あおい自ら殴り込むと息まいたのだろうが)

おわりに

TVシリーズは複数のエピソードを2,3話に多重的にまたがせるという作風で、劇中アニメのタイトルも長期間に渡り馴染ませてゆくので視聴者にも愛着が持たせる事ができるという、TVシリーズならではの強みを持っていましたが、劇場版という事で、劇中アニメも前情報なしでいきなり見る形となり、劇場版としては同じスタイルではやりにくい所もあったかも、と思いました。

しかし、その中で、TVシリーズに登場したキャラクター達を、最小限のシーンだけで、各キャラのドラマを見せる手腕は、相変わらず冴えており、TVシリーズからのファンを裏切る事無く楽しませてくれました。

また、キャラの成長に合わせてテーマもグレードアップしており、単純なTVシリーズの焼き直しではなく、予想を越えた味わいを持った作品になったと思いました。情報量が多い事、この作品の苦味の余韻が心地よく、何度か観たいと思える作品になりました。

2019年秋期アニメ感想総括

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はじめに

2019年秋期アニメの感想をまとめて残します。今期視聴のアニメは以下。

  • ぬるぺた
  • 私、能力は平均値でって言ったよね!
  • 星合の空

作品毎に評価(rating)と良い点(pros)と悪い点(cons)を記載します。

なお、今回は2クール以上で視聴中のアニメがありますので、それについては、評価せずに中間段階の感想だけ書き留めておきます。

  • 歌舞伎町シャーロック
  • アイカツオンパレード!

先送りになっていますが、下記は絶対に良い作品と分かっているのですが、正座してみるつもりで視聴時間がとれていない作品です。これについては、直近の鑑賞を諦めて、どこかでのんびり鑑賞しようと思います。

感想・考察(今期終了)

ぬるぺた

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 全体を貫くブレの無い姉妹愛のドラマ
    • ショートアニメである事を逆手に取った、少人数の意外性あるストーリー構成
    • ハートウォーミングコメディ、哲学、SF、何でもありのごった煮感
  • cons
    • 敢えて、特に無し

本作を要約すると、ある事情で離れ離れになり会話する事もできなくなった姉妹が、お互いを求め合い、最終的に再会し、互いの姉妹愛を確認し合い、一緒に暮らしてゆく、というお話である。その物語にブレは無く姉妹愛のドラマを丁寧に描く。

最初は、交通事故で死亡したペた姉を模したロボットを作る妹のぬる、というところから始まり、過保護だったり不味い暗黒炒飯を食べさせようとするぺたロボから逃げるドタバタコメディ、次第に姉妹愛のハートフルな雰囲気を織り交ぜ、後半から世界を食べ尽くそうとする「バグ」との戦い、その後の世界の違和感、居なくなったペたロボ、誰も居ない死ねない世界で一人姉を思うぬる。そして、11話ラストで病院のベッドで目が覚め、交通事故にあったのはぬるの方だったこと、今までぬるが居た世界は、ぺた姉が用意した仮想空間だったこと、という衝撃の事実が明かされる。

私は当初、死別したぺた姉を追いかけるのではなく、ぺた姉離れして独り立ちするドラマを想像していたが、そうではなかった。離れ離れになった姉妹は、お互いを大切に思い合った。だから、結末は姉妹が再び一緒に暮らす事こそが王道のハッピーエンドとなる。

では、ぬるは事故以前のぺた姉べったりに戻ったのかと言えば、それも微妙に違う。先の仮想世界で友だちを作ったり、逃げずにバグ退治したり、前向きな体験もした。退院後、登校したときもクラスメイトの前で言葉に詰まっても、小ぺたロボがサポートしてくれたおかげでクラスで浮く事もなかった。そうした事で、ぬるも少しづつ前進しているという、明るい期待を感じさせて物語は終わる。

5分程度のショートアニメでありながら、全12話構成でプロットを綺麗に使い切り、視聴者の興味を惹き付けたストーリー構成は見事。

このような謎解き仕立てのストーリー構成と姉妹愛のドラマをショートアニメ作品でキッチリ仕上げてきた事が新しい。登場人物をぬるとぺた姉(=ペたロボ)の二人に絞った事、ショートアニメゆえに尺の都合上設定を細かく見せなくても許されるというショートアニメの欠点を逆手に取った演出だったと思う。

ここまでで触れていない事で、6話で登場してぬると友だちになったかき氷屋のかきちゃんというゲストキャラが居た。上がり症で人見知りのぬるを相手に、絶妙のアプローチで友だちになってゆくコミュニケーション力の高さ、ぬるの心の成長の上で重要なキャラであり、個人的に非常に好きだったのだが、7話以降再登場する事は無かった。

ぬるの居た世界は、ぺた姉が用意した仮想世界だったが、その世界にどのようにかきちゃんがアバターとして出てきたのか?についての説明は一切無かった。ちまたでは、ぬると同じように病院で意識不明で寝ていたかきが、仮想世界に迷い込んだのでは?などと考察されている。投げっぱなしとも言えるが、色々と妄想・考察を楽しむ余白があるとも言える。この辺りは人により受け取り方が違うだろうが、個人的には、これもまた良きかな、と思う。

なお、本作に関してSNSを観測していたが、本作の視聴者数の絶対数は少ないと思われるが、その視聴者の満足度は高いと感じた。知られざる名作である。昨今、ショートアニメでも趣向を凝らし、刺さる人に刺さる作品が作られていると感じるし、より楽しいショートアニメが増えて欲しいと願う。

私、能力は平均値でって言ったよね!

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 懐パロで油断させておいて、意外と今風なドラマ
    • 単純にキャラの可愛さ
    • 俺TUEEEなのに、仲間と対等であるマイルの姿勢
  • cons
    • 主人公マイルのキャラがブレている様に感じてしまったこと

まず本作の良かった点について。

本作の最大の特徴は、アラフィフ世代直撃の懐かしパロディ満載な点にある。主人公のマイルは、異世界転生前はJK、転生後は12歳の美少女だが、パロディの出典が古すぎて、マイルの中身がオジサンではないか?と思う程だ。

実は、マイルは、異世界転生時に望まずして通常の人間をはるかに凌駕する魔力(=ナノマシン操作能力)を持ってしまう。その強さの余裕と、生前のオタク気質があって、マイルがパロディで茶化す。それってお約束ですよねといった具合に。

興味深いのは、レーナの両親や、レーナを育てたPTが、盗賊に殺された経緯を仲間に告白するシリアスな展開で、マイルは「それで?」と仇討を否定する。その心は、仇討をしても悲しみの連鎖が増えるだけ、もしレーナが死んだら、仲間であるマイル達が悲しむから、恨みつらみで命を粗末にして欲しくない、という現代風な理屈。

本作はそうした、テンプレ展開に対して肩透かしを喰わせる事を特徴とする物語運びになっている。それゆえ、何か大きな課題を解決してカタルシスを味わう作風とは違い、ドラマの盛り上がりには欠ける。演出上も感情を溜めても爆発する事無く、時に茶化しを入れながらトーンダウンしてしまう。当初は、その肩透かしの演出に驚いた。しかし、この作風が本作の真骨頂なのだと思う。

そして、キャラも総じて可愛い。主人公のマイルをはじめ、ツンデレのレーナ、宝塚風のメーヴィス、やさしくもがめついポーリンと、どのキャラも個性的で可愛さが分かりやすい。OP/EDも、気負いの無い楽しくなる感じの曲である。聞いていてワクワクする感じ。途中、レーナの仇討のくだりなど、シリアスを混ぜてきた所はあるが、基本はあまり深く考えずに見れる、口当たりの良い作風である。

あと、本作で感心したのは、主人公のマイルが人間としては突出した能力(この世界では魔法)を持っているにも関わらず、それに奢る事無く、仲間と対等な関係にある事が良いなと思った。

もともと、マイルは転生したら普通の生活をしたい、という小市民志向であり、魔王として君臨するかの願望は無い。その能力があれば、パーティで活動する際も、全部自力でやってしまえば最速で解決してしまう事も多々ある。しかし、仲間の成長のために、能力をお守り代わりに使ったり、トレーニング相手になるために使ったり、とある意味、部下を育てる中間管理職のような事を考えている。決して、社長になろうという気はない。だからこそ、共に行動し喜びを分かち合う仲間の存在に意義がある。頼り頼られの関係に人間が生きるための意味がある。その関係性が心地よかった。

次に本作の悪かった点について。

ただ、これは面倒くさいオタクの戯言と思っていただいてもいいかも知れない。一言で言えば、ストーリーにご都合主義の甘えを感じる点である。

本作は、11話で失踪した探検隊を捜索するが、どうせマイル一人で抑え込める敵であると思い込み、マイル自身と仲間を危険な目にあわせてしまう。いくらマイルが強いとは言え、仲間を危険にさらす事は本来在ってはならず、慎重に行動する必要があったと思うし、マイルが一番その事を気にしていたハズである。しかし、マイルは油断して判断を誤った。最終的には、強敵も退治して事なきを得るが、その辺りもご都合主義。しかしながら、本作でご都合主義は茶化して使う習慣もあり、あえてご都合主義を使うという事は、それを知ってて使っている、というふうに視聴者は見てしまうから、それほど目くじらを立てて起こる人は居ない。

しかし、私はキャラの心情に寄り添う事と、物語を重要視してアニメを観ているので、キャラがブレていると作品の評価が下がってしまう。本作は、パロディという鎧を纏って、テンプレ展開を引用して茶化すという作風であるがゆえに、その物語に雑味を感じてしまった。

もちろん、楽しさ優先の本作において、これは些細な事であり、多くの視聴者は気にしない事だと思う。重箱の隅をつつくような話だとも思うし、もしかしたら私の理解が足りていないだけかもしれないが、個人的にどうしてもこの事が気になったので、書き留めておく。

星合の空

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • ソフトテニスのスポーツの爽快感と、家庭の問題の心の痛みの、背中合わせのドラマ
    • アニメーションとして丁寧かつ良く動きと、透明感ある劇伴
  • cons
    • 未完の大作、であること

本作の善し悪しの話の前に、まず本作が12話で打ち切りの話をしなければばらない。最終話OA直後の赤根監督のTwitterへのリンクを下記に示す。

要約するとこんな感じである。本作は全24話構成の分割2クールで製作が進められていたが、2019年4月に1クールしか放送できないことが決まる。OA半年前の状況で全24話構成を変更する事もできず、前半12話を製作してOAした。後半12話を作る予定は今無い。応援して欲しい。

これに対し、たくさんの応援のリプが付いている。逆に、個人作家ならいざ知らず、共同制作の監督がプロとして未完の作品を世に出すのはどうか?という疑問の声も見かけた。個人的には、このまま未完の大作になりそうな予感がしているが、本作が完結していない前提として、★2.5個のつもりで本記事を書いている事をご承知おき頂きたい。

で、まず、作品の良かった点について。

本作のソフトテニスのスポーツとしての爽快感はかなり良かった。駄目の烙印をおされた部員達が、眞己の入部をキッカケに、組織として有効にポジティブに機能し始め、少しづつ成果を出し始め、一致団結してゆく。格上相手の弱点を着きながら、自分達の長所を生かしたプレイで、練習試合で1ゲーム取れるようになり、成長を実感する。弱小チームからやればできるを実践してゆくサクセスストーリーが気持ちよい。しかも、そのカット割り、SE、レイアウトなど見ていて小気味よくて気持ちいい。この辺りは演出力の高さを示すものだと思う。

しかし、部員達は全員、家庭の問題で心の痛みを抱えていた。もともと、やさぐれていたのはそのせいでもある。離婚した父親からの暴力、出来の良い兄との比較から始まった母親と気まずい関係、里親告白からの戸惑い、幼児期の虐待、モンスターピアレント、甘すぎる両親、好きな絵を両親に認めてもらえない、再婚の母親とのギスギス、ジェンダー問題などなど。どの家庭も親は絶対的な存在で有り、子供には選択権はなく、モロにストレスを受ける。

親からのストレスを画面を通して直に伝わってくるので、視聴者もかなりのストレスを受ける。そのストレスを解消するのが、スポーツモノの爽快感の部分である。両者は片方だけでは成立しない、背中合わせの要素である。

主人公の眞己は、人間を見る力、人をポジティブに動かす力に長けている。時には相手を怒らせてやる気を出させ、時には成功体験を作り自信をつけさせる。ジェンダー問題で悩む悠汰には、直ぐに結論付けずに、暫く、自分がどうありたいのか?考えながら生きていけば良いのでは?と身近な人の経験談をもとに助言する。眞己の優しさから出るストレスのケアが彼らの傷を癒す。視聴者の中には、中間管理職だったり、サークルのリーダだったり組織をまとめる者もいると思うが、エンタメ作品の中とは言え、その組織を見事にポジティブに活性化してゆく姿は痛快に写ったことと思う。

しかし、親は変わらず、子供たちのストレスは継続する。問題の根本解決は無い点が、よくある物語とは異なる。視聴者も安堵する事無くストレスを受け続ける。この親子の問題の解決は、後半12話で行われるための伏線だったのかも知れないし、最後の最後まで解決はしなかったのかも知れないが、それは、現時点では分からない。

ともあれ、この問題の中で生きる子供たちのドラマは見事に成立しており、苦み痛みを持つ子供たちが、その問題から逃げずに向き合う姿に、そのドラマに、本作の強さ、良さを感じていた。

つぎに、作品の悪かった点について。

前述の通り、本作が未完の大作であること。作風も硬派だと感じていたが、赤根監督自身も相当な硬派だとは思う。しかし、12話のCパートは、OP/EDを削ってまでして入れるには、ある種のギャンブルというか、大人げない気もする。この、モヤモヤを持って、素直に悪かった点とする。

感想・考察(来期以降継続中)

歌舞伎町シャーロック

2クール半分(11話)まで鑑賞の感想です。

本作は、推理物であることが一つの見所だと思う。11話までの展開で言えば、切り裂くジャックが、早くから登場していた意外な人物だったり、ホームズが殺人現場をチェックしただけで、犯人像をプロファイルする部分とかが、推理物の醍醐味である。ただ、通常のミステリー小説と違い、じっくり犯人を探すような時間は持たされず、テンポよく事件は解決してしまう。ただ、推理物のテンプレである謎解きを落語で興じるなど、アニメならではの粋な部分もある。

もう一つの見所は、変人で濃すぎるキャラたちにあると思う。まず、シャーロック含めて原典の毒々しさをオマージュにしたキャラも極端だが、ゲストキャラも相当に濃い。例えば、小林回に登場したゲストキャラのヤクザの杉本は、狂人としての狂気と変人としての可笑しさを同時に感じさせる良いキャラだったと思う。突出した狂気を笑いを込めて描く。もともと、狂気と笑いは紙一重であり、そうした面白さがある。

本作は、シャーロックホームズの原典を骨格にキャラ設定しているので、シャーロックホームズの予備知識があるほど楽しめる作品になっている。マニアは原典との照らし合わせでニヤニヤできるという楽しみの部分はある。例えば、ホームズは遠慮が無くて不躾で失礼、味覚がおかしくて、相当な変人という原典のテンプレがあると、本作のシャーロックの奇行もそれに沿ったものだと理解できる。ただし、原典では好敵手役のモリアーティだが、本作では敵役という先入観を持たせて、見方側という引っ掛けもあって、一筋縄ではいかない。

というところまでが前説。

本作で、私が好き嫌いの評価に悩むポイントがあったので、その事について触れておきたい。

一つは推理物特有のミスリードの演出について。

本作というより、推理物全般に言える事なのだが、謎解きを鮮やかに見せるために、謎かけの部分で視聴者の気を逸らす、もしくは騙すために、ミスリードを誘う演出を使う事が多い。これが、文芸作品なら真犯人を示唆する事実は文章して描写しなければ、読者の意識を逸らす事も可能だし、文章ゆえにそうした情報を意図的に削除してもさほど気にならないし、気持よく騙される事ができる。

しかしアニメ作品の場合、絵で描いて分からせるメディアである特性上、表情を見せるなら、どんな感情の表情なのか?というのを決めて作り込むわけで、Aか、Bか、Cかどの感情なのか分からずに絵を描く事は難しい。文章のように、その情報を削って演出する事は不可能ではないが、そのシーンだけ表情が無いという事で怪しまれてしまう。そういった背景があるからだと思うが、意図的にミスリードさせる方向に正確な演出をして映像化してミスリードを誘う。勿論、見ながら作り手側がらの引っ掛けか否か常に考えながら見るわけだが、あからさまであればあるほど、騙しのための映像が鼻についてしまう。それが今回のモリアーティだった。

で、今回のモリアーティはホームズと組んで味方であるワトソンを欺くという自作自演だったので、すなわちモリアーティがワトソン自身をミスリードさせるための演技、演出をしていた。その意味では、キャラの心情と演出は一致していて乖離は無いから、無茶演出ではないのだが、やはり、演出のごり押し感が気になった、というのが正直な気持ち。余談だが、謎解きは引っ張らずに1話の中でまとめて、サクっと流した方が、作風的には良いのかもしれない。

もう一つ気になったのは、切り裂きジャックの真犯人の扱いの件。

切り裂きジャックは猟奇殺人犯なので、もっと恐ろしい存在として描いて欲しかった。

ジャックを視聴者が憎むために、モリアーティの素性とこの事件の関りを描き、またジャックが狂人である事を描くのだが、汚い言葉で醜い表情の小悪党みたいな感じの演出になってしまった。その後のモリアーティのジャックへの復習劇を考えると、視聴者にも憎しみの感情を持ってもらう必要があっての演出だったと思う。

しかし、個人的には、猟奇殺人犯の恐怖は、小悪党なんかじゃなく、限りなく狂人で得体の知れない底知れぬ恐怖感である方が良かったと思う。例えば、映画「羊たちの沈黙」のレクター教授はかなり怖かったし、ジャックについてもそうした怖さが欲しかった。

結局、この二つは、この点を醒めてみてしまうと、作品の味わいが低下してしまう要素で、本来であれば、そこを気にならない様に騙してくれる作品が上質なのだが、どうもその辺りに何となく雑味を感じてしまった。

勿論、途中途中を楽しく見ていたし、面白い作品だとは思うが、詰めの甘さみたいな感じが気になった。まだ、後半1クールもあるので、その辺りを気負いせずに見て行きたい。

アイカツオンパレード!

13話まで鑑賞の感想です。

私はオンパレード!で初めてアイカツを観はじめたアイカツ初心者なのだが、このコンテンツの高濃度で、勢いある作風に毎度気圧されながら観ている。私が本作から感じるポイントは下記。

  • 超ポジティブならきを応援したくなるドラッグとも思える不思議な作風。
  • アイカツ7年の歴史の重みを感じる作品。

何と言っても、姫石らきのキャラが濃すぎる。先輩に遠慮なくちゃん付け。常にポジティブ。正直、最初は厚かましくて暑苦しいと感じていた。が、見続けるうちに、らきの感動や、らきの頑張りが、嫌味に感じなくなり、らきが頑張っている姿を見ていると、こちらも無意識に応援してしまうようになっていた。この、らきは本作の力強さを象徴している。大人の私でさえクラクラするのに、先入観の少ない子供が観たら、より強くらきの素直さを受け止め、応援したくなるのではないかと思う。

それは、ステージ上のアイドル達の歌唱シーンの派手さ賑やかさでハイな気分にさせて、更にらきのポジティブ発言やポジティブ行動の数々が化学反応を誘発し、脳みそがらきのことを好きと錯覚させ定着させてしまう、ある意味麻薬的なドラッグ的な映像作品なのではないか?とさえ思う。本作が物語が非常に薄いこと、演出も波を持たず、常にハイテンションなことも、ドラッグアニメとしての一因をになっているように感じる。

もう一つのポイントは、アイカツ7年の偉大な歴史の重みを背負っている事。例えば、星宮いちごが喋る一言一言は、その背景を知らなければ、よくある台詞にしか聞こえないかも知れない。しかし、これまでの経緯を知れば、その台詞の重みが何十倍にもなって視聴者にのしかかってくるという情報圧縮された作品である。具体的には、無印の大空あかりとスターズ!の虹野ゆめが、ユニットを組んで「Future Juwel」を歌う。その歌詞が、憧れの先輩を追いかけながら、自分らしさで悩んでいた経緯があってこその歌詞であり、あかりとゆめにピッタリの歌詞なのである。アイカツの過去を知らなければ、この歌詞も今風の歌詞というだけで終わってしまう。その積み重ねの重さを、アイカツオンパレード!はまじまじと見せる。

今までは、過去作品は終了して、新たなアップデートされた設定で新シリーズが始まっていた。その度に変るところ、変わらないところの議論や評価はあったのだろう。しかし、今回はそうした枠を超越して過去シリーズを全肯定する。その作品愛が凄いし、素晴らしいと思う。

おわりに

今期の作品は、物語的にクセの多い作品が多かったと思います。たまたま、見ていた作品が特にその傾向が強かったのかも知れません。

物語の捉え方に戸惑いを覚える作品が多かったように思います。のうきんは基本的に楽しいのですが、懐古パロ過多ゆえに、個々の物語としては成立しているのに、なんとなく俺TUEEE設定のせいで、ご都合主義に見えてしまうという雑味を感じてしまったのですが、もしかしたら、楽しい優先のための作劇優先脚本なのかも…、とか。

星合の空の前半1クールゆえからかも知れませんが、痛いドラマでえぐるけど、物語としては全く動かず、物語視点では楽しめなかったなあ…、とか。

そうした、特殊な作品を見ていたような気がします。しかし、物語偏重すぎると、逆に楽しめないこともあるという諸刃の剣のような事を感じていました。色々と、難しいく考えてしまったのかも知れません。

羅小黒戦記

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

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はじめに

話題の中国アニメの「羅小黒戦記」の長文の感想・考察です。

噂通り非常に面白い!と自信を持ってオススメ出来る作品でした。周囲でも凄い凄いと言う噂は聞くのですが、どう凄い!というのが分かりにくく感じたので、感じた事、考えた事をこのブログにまとめたいと思います。

公開劇場が限られており、気軽に観に行きにくい状況ですが、機会があれば鑑賞をオススメしたい映画です。

感想・考察

何はともあれ、ド派手なアクション!

妖精たちの超能力バトル

本作の最大の見せ場は、何と言っても妖精達のド派手なアクションシーン。

妖精と言っても羽の生えた蝶々のようなものではなく、日本で言う妖怪の事だと言えば分かりやすい。妖精はそれぞれに個別の超能力を持ち、身体能力は桁違いに高く、けものの姿をしていたりするのだが、人間の姿になる事も出来る。

人間よりも古くからこの世界に生息しているが、最近は土地開発により森は削られ都市が作られ妖精は追いやられてしまう。しかしながら、人間と共存共生している妖精もおり、彼らは妖精とはバレない様に人間の姿をして町に暮らす。そうした世界である事が物語の前提にある。

本作では、人間との共生を望む妖精と、人間との共存を否定し、人間が奪った土地を取り返そうとする妖精との、妖精同士の激しいバトルアクションが描かれる。

妖精たちの超能力バトルでは、例えば、金属片を自在に操り変形させ、それを高速で飛ばして攻撃する。時にナイフにもなり、針金にもなり、相手を縛り付けたり。これは属性が金属の場合であり、木の属性であれば樹木を、水の属性であれば水を自在に操る事が出来る、と言った感じである。

基本はカンフー映画の文法

これらのアクションが目まぐるしく行われる。画面の手前から奥まで飛んで行き戻ってくる。物凄い勢いで走りきる妖精をカメラが追いかける。妖精によっては飛んだり空中浮遊したりするから、カットも平板にならず空間を強く意識した動きになる。これら数秒のカットが何カットも連続して続く。正直、気を抜くと何が起きているのか分からず置いてけぼりをくらう。それぐらい速い。しかも、それを馬鹿丁寧に破綻なく描き、見事にキッチリ動かしている点が凄い。

一般的な作品では、速すぎるシーンはスローモーションになる事が多いが、本作は全然そんな事は無く、目の前でリアルタイムに起きた事象として等倍速で動く。まるでカンフー映画の組手のように。

そして、この素早いテンポ感だけでなく、アクションシーンはカンフー映画の文法で作られている。

例えば、序盤のムゲンとフーシーたちのバトル。ムゲンがたった一人で4人を圧倒してゆく。しかも、姿勢は後ろ手を組んで直立。無表情で口はへの字に結んでる。全力を出していないのに、目にも止まらない速さで金属片が形を変えて相手を襲う。まるで、仙人のような所作で圧倒的な強さが描かれる。

例えば、中盤にムゲンが捕らえたシャオヘイと二人でイカダに乗って中国大陸を目指すシーンでは、野良犬(実際には猫)のように吠えるシャオヘイを目も合わさずに金属片で軽くあしらう。具体的には、暴れだしそうなシャオヘイを金属片で縛り上げたり、逃げ出そうとして溺れそうになるシャオヘイを金属片ですくい上げたり。とてもコミカルで面白い。これは、カンフー映画で言えば主人公が師匠に仕える修行時代にあたるパートである。

例えば、終盤のバトルの最中に、ムゲンが相手のフーシーを睨みながら、傍らにいるシャオヘイの襟を直すシーン。緊張感の中に優しさコミカルさを織り交ぜてきて面白い。

アクションシーンが大半でありながら、その中に力量差や笑いのドラマも込める。そうしたカンフー映画の良き文法をうまく活用した作風だと思う。

魅力的なキャラ設定

可愛い子猫、兼男の子、兼化け猫のシャオヘイ(小黒)

シャオヘイは、子猫、人間の男の子、化け猫の三つの姿を持つ。子猫の時も、男の子の時も、その仕草がとても可愛らしく描かれる。そして、人間に追い詰められた時に巨大な化け猫の姿になるが、その姿こそ、シャオヘイの強さのポテンシャルの高さと、内面の激しさを示すものである。

シャオヘイは、まだ幼いので心が純粋である。そして、その幼さゆえ、霊力のコントロールの仕方を知らない。その事が物語の核にある。

本作は、シャオヘイの心の変化と葛藤が克明に描かれる。最初は、住処を奪い危害を加える人間を憎み、フーシーを仲間だと思う所から始まっている。

しかし、敵であるムゲンに捕まり一緒に旅しながら、人間と共存する妖精の話を聞き、人間も妖精も違いが無い事を徐々に理解し、無差別に人間を傷付ける事は良くない事だと思うようになる。

地下鉄でフーシーに連れ去られ、人間を追い出すために力を貸して欲しいと頼まれ、納得が出来ずに断った。これは序盤のシャオヘイからの明確な変化を示す。無垢な心は無益な殺生を嫌がった。結果を急ぐフーシーは、シャオヘイが非協力的だとわかると、慌ててシャオヘイの「領域」と命を奪った。

自分の「領域」で一人目覚めたシャオヘイは、フーシーの行動を悲しみ涙がこぼれた。仲間だと思ったのに何故?

シャオヘイはまだ子供だから価値観が安定していない。だから、信じていたものに裏切られ、殺されて何が悪かったのか分からない。観ているこちらも心が痛む。

しかし、ムゲンとフーシーの戦場となった奪われし「領域」にシャオヘイが現れ、フーシーを止めるためにムゲンを援護する。信頼するムゲンと師弟協力によりフーシーを倒す展開が熱い。

フーシーを倒した後、シャオヘイはムゲンに「フーシーは悪者だったの?」と質問するが、ムゲンは「答えはもうシャオヘイの中にあるはず」と返すシーンが良い。あの日優しくしてくれたフーシーも、テロリストとして町を破壊したフーシーも同一人物であり、どちらもフーシーだった。ちょっとした行き違いで善人が悪人に変わってしまう事もある、という理解なのだと思う。言い換えれば、根っからの悪人は居ない、とも取れる。

ラストは、シャオヘイが館に到着し他の妖精たちと暮そうというタイミングで、ムゲンと離れ離れになると分かるや否や、ムゲンと一緒に修行の旅を続ける道を選ぶ。もっと言えば、家族としてムゲンを選ぶ。大泣きしながらムゲンに師匠!と言いながら抱き着く姿が可愛すぎるて泣ける。

無表情の師匠、ムゲン(無限)

館の執行人。人間なのに圧倒的に強い。普段は険しい感じで無表情。イケメン。ネット調査では、年齢は437歳。

フーシーを捕らえ損なったときに偶然拾ったシャオヘイ。最初は只の子供の妖精だと思ったが、途中でシャオヘイが「領域」を持つ事に気付く。強い潜在能力を持つが、まだ子供であるがゆえに、シャオヘイをキチンと育てないとフーシーのような過激派になりかねない。放っておけばフーシーの所に戻ろうとする。だから、ムゲンが館に連れて行くまでシャオヘイを弟子の様に面倒を見ることなる。

序盤、ムゲンはずっとへの字口で無表情だが、シャオヘイと二人旅を続けることで少しづつ笑顔に変ってゆく所が良い。不愛想な頑固爺さんが無邪気な子供の行動に心ほだされていく過程が面白い。そして、ムゲンは長く生き過ぎているからこそ、シャオヘイの若さと可能性が未来の輝きであり、宝である事を理解する。

ムゲンのカッコいい所は、シャオヘイに人間との共生を無理強いせずに、ムゲンの背中で伝えようとする所だと思う。フーシーの道は間違っていると思う。しかしそれを押し付けず、その最終判断はシャオヘイにゆだねている。ムゲンも領域を持っているので、人は他人に言われて行動するのではなく、己の心に従って行動するという事、そのとき当人が苦しくてもそうして行動しないと後悔する事を、言葉を使わず語っているのだと感じた。

優しいお兄さんキャラの、フーシー(風息)

人間との共生を拒み、過激派として行動してしまうフーシー。物語上の悪役だが、その優しさが滲み出る人柄が魅力的なお兄さんキャラ。

フーシーの悪役としての振舞を列挙すると、シャオヘイとの初めての出会いはフーシーが人間を操りシャオヘイを襲わせた自作自演だったこと、今までタブーだった館の妖精を襲撃したこと、地下鉄テロなど人命を犠牲を前提に行動したこと、シャオヘイの協力が得られないと分かるとシャオヘイの命と領域を奪ったこと。このとき禁断の略奪の能力を使ったこと。これらは全て、人間を追い出し土地を取り戻すという結果を急ぐための過激な行動だった。

ただ、この悪行も、今まで我慢を重ねてきたが堪忍袋の緒が切れて強硬手段に出た、と言う描かれ方をした。もともといい人が、その理想の為に過激な行動をしたのだと、私は解釈している。

おそらく、多くの観客もフーシーと仲間達を好きなのではないかと思う。特にロジェなんか明らかに善人だし、シューファイは無口キャラだが憎しみは感じさせないし、テンフーは顔は怖いが大人しくてユーモラス。この当たりの敵ながら憎めない役作りも上手い。

本作の気持ちよさは、この敵対する妖精にも憎むべき悪役は誰もおらず、人間味あふれる愛すべきキャラ造形になっている点にあると思う。

力強い物語とテーマ

妖精たちの戦争という表面的な基本構造

本作を記号化するなら、下記の二つの勢力の争いであると言える。

  • 親人派(ムゲン&館)→正義
    • 主張:人間と妖精は争わず共生すべき
      • 妖精は人間の姿で町に溶け込んで生活する
  • 抗人派(フーシーと仲間)→悪
    • 主張:人間と妖精の共生は許容できない
      • 妖精に土地を返せ、人間は出て行け
      • 人間との共生は、こそこそ生きるようなモノで耐えられない

最初、悪のフーシーの側についたシャオヘイが、正義のムゲンと共に過ごす事で、正義に目覚めて悪を倒す、という物語の骨格である。

しかし、前述の通り、フーシーは物語的には悪役なのに、フーシー自体が優しいお兄さんキャラなので、勧善懲悪な感じはしない。

果たして、この物語の解釈は正しいのか?感じる違和感は何なのか?

興味深い人間の立ち位置

人間がもともと妖精が居た森を開発し都市を作るくだりは、漢民族少数民族を侵略を連想させる。しかし、中国は共産党一党支配であり、体制批判を匂わせる描き方だとメディアの検閲を通らない。だから、本作は体制批判を想起させる人間側の悪を描く事はできない、のだと想像している。

本作における人間の扱いは、館の妖精からすれば絶対に守るべき存在であり、人間の死者は一人も描かれない。シャオヘイが電車で誘拐犯に抱えられている姿を見て、乗客の人間の大人たちは、シャオヘイを助けようとする。(その後、大人たちは操り人形にされてしまうが) 館の妖精は、人間達の生活も楽しいものだよ、と言う。あくまで人間は害のない存在として描かれる。

こうした人間の扱いと、物語の正義と悪の基本構造は、この妖精と人間の関りのモチーフの中で、検閲を通すためのディレクションではないかと思う。

勧善懲悪の否定と、非暴力・共存というテーマ

では、あえて、この制約ある不自由なモチーフを使って作品を作る意味は何なのか?

それは、フーシー達が悪役として描かれていない所がポイントであると私は考えている。

漢民族少数民族の諍いは絶える事無く続く。少数民族が中国政府にテロ行為を行うこともあるだろう。しかし、そうした過激派であっても、もともとは優しい人間の可能性があること。シャオヘイは、フーシーが悪者だったのか?とムゲンに質問するが、その答えはもうシャオヘイの心の中にあるはずだ、と返し答えを言わない。つまり、フーシーが悪者かどうかは、観客に委ねる形になっている。単純にテロ行為だけみて、勧善懲悪に当てはめては物事の本質は見えない、というメッセージにも思う。

そして、全体を貫く、非暴力・共存というテーマも本作には確実に存在する。ここは、ある意味、体制批判というより、体制としてはそんな事実は無い、というところで検閲に引っ掛からないと想像している。

だから、私は本作は、検閲のためにぬるくなった脚本などとは思わないし、作家として制約ある中で誠意ある脚本を書いていると、感じた。この点が本作の脚本の好きなところであり、物語の骨太さを感じる所である。

「領域(レイイキ)」の存在

本作には、領域という不思議な概念が存在する。以下に映画から読み取ったポイントについて列挙する。

  • 「領域(レイイキ)」について
    • 限られたごく一部の者だけが領域を持つ
    • ≒自分自身の内面?
    • 領域の中では、持ち主自身が絶対的支配者であり、何でも思った通り動かせる
    • 他人を領域内に招き入れる事はできるが、その人にとっては圧倒的に不利
    • 基本的にはそれ程、大きくない
    • ムゲンは自分の生家を格納している

領域は、本作のクライマックス部のバトルアクションの舞台として使われた設定でもあるが、本質的には、他人が犯す事が出来ない個人の信念であり、他人に影響を与えるカリスマ性のような力だと私は想像している。だから、仙人のようなムゲンが領域を持てるのだと。シャオヘイも持っていたが、誰が持てるのか?については不明。この考察は、調査したわけでは無く、作品をは鑑賞しながら感じた想像である。

この推察が当たっているなら、答えはもうシャオヘイの心の中にあるはずだ、のムゲンの台詞と領域の存在は符合する。つまり、物事の善し悪しは、他人に委ねるモノではなく、自分の内面に問いかけろ、というメッセージにも感じた。

本作は、単純に強い奴と戦いたい、という能天気なテーマではなく、善悪の判断を自分に問いかけるという、内面に向かったテーマを持っている事が、鑑賞後の味わいになっていると思う。

印象的な地下鉄の女の子のシーン

個人的に一番好きなシーンは、電車の中でシャオヘイが乗客の人間を守るシーンである。

電車の上でテロリストとムゲンが戦っている最中、ムゲンに頼まれてシャオヘイが乗客を守る。車内に落ちてくる石をシャオヘイが砕く。霊力を使って岩を金属製のパイプで受け止める。さらに振ってくる岩々を、化け猫の姿になり人間を庇うのだが、その姿をみて人間はシャオヘイを化け物と怖がる。そうして、ムゲンとシャオヘイがその場を立ち去ろうとするときに、助けてもらった女の子が「ありがとう」とお礼を言い、シャオヘイは「どういたしまして(うろ覚え)」と返す。地下を走っていた電車が地上に出て、車窓が一面明るくなる、というシーン。

今まで、化け猫の姿を怖がらない人間は居なかった。化け猫姿というのはシャオヘイの本質であり、恐怖というのは拒絶であるから、いくらシャオヘイが歩み寄っても最終的には拒絶される存在である、というのがシャオヘイの人間感であったと思う。しかし、この女の子は、シャオヘイの本当の姿を見ても、目を逸らさず真っ直ぐ感謝してくれた。これは、妖精も人間も対等に心を通わせる事ができるという、明るい可能性を示唆していたと思う。

この時のシャオヘイの表情は、何が起きたか分からず唖然とした感じだった。すぐに全面的に人間を信用できるわけでは無い。だけど、この瞬間、何かがシャオヘイの中で変わった。この内面に何かが触れた瞬間の演出が非常に良く、胸に刺さった。

おわりに

本作の魅力は色々と多い。要所要所のコミカルさで笑いながら、鑑賞後の爽やかさも兼ねると言う作風が非常に良いと思います。屁理屈の様な考察を書きましたが、それ抜きで十二分に楽しいです。

個人的には、骨太なテーマを持った脚本・構成がしっかり出来ているからこその安定感だと思いますし、その点を大きく評価します。物語的に見てもイベント、展開に全く無駄を感じません。

誰にでも薦められる良作だと思いますし、中国映画というレッテルを外して多くの人に観て欲しい作品です。