たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

天気の子

ネタバレ全開です。閲覧ご注意ください。

はじめに

超話題作の「天気の子」の感想・考察です。

凄く直球ストレートな主人公側と、それを取り巻く大人側と、一粒で二度美味しい深みのある作品であり、考察し甲斐のある面白い作品でもあり、とても好きな作品となりました。

なお、下記のブログもありますので、併せて見ていただければ幸いです。

鑑賞直後は、割とシンプルな物語だと思ったのですが、色々考えていると書くべきネタが多く、書き殴りで雑味のある、かなりの長文になりました。各キャラクターの考察を後追いで追加してきたのですが、一通り書き切ったので、最後に全体的に推敲して、一旦、追記を終わります。

  • 「陽菜」「瀧と三葉」追加(2019.7.26追記)
  • 「帆高」追加(2019.7.28追記)
  • 「凪」「夏美」「須賀」追加(2019.7.29追記)
  • 全体的に推敲・整理(2019.7.30追記)

考察・感想

物語・テーマについて

好きな人と笑顔で生きたい、というシンプルで力強いテーマ

この作品が良かったのは、「好きな人と笑顔で生きたい」「大切な人を守りたい」というシンプルで力強いテーマだったと思う。

最近は、サクセスとか、競争とか、問題克服とか、ストレス社会の中で目標を達成する事で、解放のカタルシスを得るという作品が多かったように思う。

それらの物語よりも、生きる本質、生きる根幹に近い所にテーマである事が、本作が他の作品よりも力強いところだと思う。

主人公の帆高はまだ未成熟な少年として描かれていた。帆高は何も持たない。そして社会から孤立し、助けてくれる保護者はおらず、手助けしてくれる存在もごく少数。だからこそ、余計にこのテーマがしっくりくる。というか、このテーマのために帆高は創作されたのだと思う。

そして、陽菜が天気の巫女の代償として人柱となり、みんなが喜ぶ天気を提供するという陽菜の自己犠牲を帆高が否定する。

これは、昔よくあった、目の前の大切な人を救えなくて、世界を救えるか?というテーマとも言えるのだが、このテーマが最近、あまり見られなくなったのも、やはり3.11震災の影響ではないか、と想像している。

陽菜を連れ戻したあの事件以降、帆高は離島で3年間、保護観察付きで生活する。そして、3年の時を経て帆高と陽菜が東京で再会する。陽菜は帆高を待っていてくれて、帆高は独り暮らしの自由を得て陽菜に会いに来た。このシーンがある事で、あの事件が、陽菜が生きていて良かった事が、これで良かったのだと実感を持って肯定され、物語が着地する。ハッピーエンドである。

東京水没というダメージを受け止める大人たち

そして、これとセットで語らなければいけない、東京水没という社会的ダメージ。

東京水没の人的被害を具体的には描かれていないが、長期にかけて水没していったとは言え、かなりの死傷者が発生したのではないかと想像する。生きていても、住み慣れた土地からの退去移転など、人々の暮らしも一変させた。社会的、経済的な被害も相当であったのだろう。今までのインフラが使えなくなり、首都移転した可能性もあるし、国力低下した日本の国際的地位の低下など、心配の妄想は尽きない。

勿論、帆高たちが住む日本国家が滅んでしまったわけではない。より辛くなったとは言え、人々の暮らしは続く。

はじめに明確にしておきたいのが、帆高は社会を憎んでいた訳ではないという事。陽菜を救出を社会は邪魔したが、帆高は社会への逆恨みは基本的にしていない。

帆高が願ったのは、陽菜のいない晴天よりも、陽菜のいる雨天である。陽菜を救う(天気の巫女の生贄をキャンセルする)事で、今まで通りの雨天に戻る事は想像しても、その反動で降り止まぬ雨が東京水没させるとは微塵も考えていなかったはず。つまり東京水没は不可抗力である。

3年後、再び上京して冨美の東京水没の話を聞いた時、帆高は思わず謝ってしまう。帆高は東京水没に責任を感じていたという事だろう。しかし、須賀は帆高を「ガキがうぬぼれるな」と一蹴する。帆高に東京水没の責任を負わせる事はしない。事件の顛末を知る須賀でさえ、もしもあの時、陽菜を生贄にしていればなどと言わず、大人たちが自ら東京水没のツケを払おうとしている。

つまり、東京水没という災害の責任を、悪意亡き未成年に押し付ける事も無く、大人が自分たちで責任を取る。私はこの大人の覚悟と誠実さをカッコいいと思った。

SNSを観測していても、新海誠監督の予想通り賛否両論のラストである。救われかった命がセカイ系な主人公の我がままだからモヤモヤするという意見も見かける。しかし、私はそうは思わなかった。

そもそも、異常気象自体は帆高や陽菜に罪はなく、その延長戦上にある東京水没は、それまでの社会のツケという考え方は、新海誠監督もインタビュー記事などで書かれている。

もしも、須賀が知るように事件の顛末が世に知れ渡ったとしても、オカルト過ぎて帆高と陽菜に責任を負わせる事は、現状の法律では不可能だろう。それこそ、都市伝説止まりである。その上で、仮にその都市伝説を聞いて、あなたは天気の巫女を生贄に差し出しますか?という話である。(須賀は当初、生贄賛成派だったが)

だから、百歩譲っても、帆高のせいではない、と個人的には感じてしまう。

むしろ、陽菜の自己犠牲で東京水没が救われる話じゃなかった事を、フィクションという物語を楽しむ者として、非常に良かったと思ったし、心地よく感じた。

設定について

群れ(保護者)からはぐれた子供たち

本作で特殊だと思ったのは、帆高や陽菜が保護者不在で学校にも行かず、社会から浮いた存在として描かれる事。疑似家族は登場するのに、リアルな家族は崩壊していてしまっている。

本作は、2021年の現代日本という社会の中に生きる主人公たちが、家出や保護者不在の家庭という設定から、社会に属せずに独自のセカイ系に持っていくところが新しい。通常、子供が属するべき家庭、学校という社会的接点を持たない。社会との接点は、須賀や夏美や晴れ女のクライアントくらいである。だからこそ、少年少女たちの小さな世界が日本国家という社会の中で成立してしまう。

この事は、帆高と陽菜の二つの側面を浮き彫りにする。

一つは、自力で生きるためのバイタリティ。

保護者がいないから、全部自力でやらなければならない。働いて、収入を得て、消費する。社会的な補償も受けられないから、リスクも背負って生きる。生活レベルは最低限で貧困。だけど、暗くならずに、前向きに明るく生きる感じが良く描かれていた。二人ともキッチンで包丁を持ち、自炊する。貧しくとも食事を作るのも、食べるのも楽しい。そうしたポジティブな描写が能動的に生きる力強さとして描かれていた。

もう一つは、現状の生活の脆さ、危うさ。

保護者不在の帆高や陽菜は社会的問題である。家出は実家送り、子供だけの家庭は児童施設で面倒をみる、というのが社会である。つまり、保護者不在の子供だけの生活というのは、社会によって否定され、強制的に終了させられる。帆高と陽菜の生活は、いつ幕切れるかも分からない、明日の見えない状況が、行く先の不安と危機感をつのさせる。

こうした状況にあって、帆高と陽菜は出会い、社会的に孤独な存在どうしが惹かれ合う。

拳銃と青春の雄叫び

本作において、拳銃は帆高の反社会的な怒りの爆発を象徴する道具として描かれた。

帆高は子供であり、家出などの社会に反する行動を取っているが、社会に対して何の力も持たない無力な存在で有る。その帆高が怒りに感情荒ぶる際に、社会に対抗する唯一の力として拳銃だった、と思う。

1回目は陽菜を強引に風俗に引き込もうとしていたチンピラに押さえつけられぶん殴られた時に威嚇で発砲し、2回目は巫女の代償として消えた陽菜を助けに行こうとして廃ビルの中でそれを制止しようとした須賀に威嚇で発砲した。

しかし、社会側でルールを守らせる側の刑事たちは、1回目の発砲事件の線から帆高をマークしてゆく。社会に反抗して仕方なく行使した拳銃という力が、さらに反社会的な存在というレッテルを貼り、帆高と社会の溝を深めて行くという悪循環の流れである。

天空の彼岸と天気の巫女

本作の一番の仕掛けである天気の巫女。100%の晴れ女。

天空に存在し、雲の上に草原が広がり、水滴のサカナが泳ぎ、雲の龍が渦を巻く、不思議な世界。

地上=生者の世界、天空=死者の世界というニュアンスでも描かれていたので、ここでは、そこを天空の彼岸と呼ぶことにする。

陽菜は1年前に、スポット的に陽が射していた廃ビル屋上の小さな神社にて晴天を祈る。そこで天空の彼岸と繋がり、天気の巫女としての能力を開眼させる。

天気の巫女は祈るだけで天気を変える事が出来るが、その代償として体が天空の彼岸に定着し、地上から消滅してしまう、という運命を持っていた。

陽菜が祈れば天気が変わる。そして、天気は人々の心を変えてしまう。

この、人々→天気→陽菜という依存関係が、100%の晴れ女の仕事を成立させるが、その人々の思いを陽菜が一心に受け取るという構図が陽菜への負担の大きさを物語る。

帆高と陽菜と凪が逃亡中に東京はゲリラ豪雨に襲われ、交通インフラを停止させ、さらには8月に雪を降らせるという超異常気象を発生させた。陽菜の心のストレスが無意識に天気を変える。それくらい、陽菜の体は天空の彼岸に足を突っ込んでいた。

陽菜が地上から消滅した時、東京は快晴の真夏日となった。

天気の巫女が消失した事で、今まで通りの雨天が続くのかと思えばそうではなく、快晴になってしまうところが皮肉である。天空に巫女を生贄に捧げた事で、しばらく分の快晴を前払いした事になるのだろう。

人々からすれば、天気の巫女がいれば天気の制御を依頼するが、いざ晴天となると天気の巫女は不要な存在であり、その犠牲を意識する人もおらず、忘れられてしまう。作中では、人柱とか生贄のニュアンスで気象神社の神主さんが語っていた。

帆高が天空の彼岸から陽菜を連れ戻してきた時、東京は3年間雨天が続き、東京水没となった。

生贄の巫女がキャンセルされた事により、ニュートラルな異常気象状態に戻ったという事だろう。天気の巫女の制御を失った天気は、降りやまない雨をもたらし、東京を水没させた。

陽菜は3年後も地上に定着していた事から、天気の巫女の能力は解除されたのではないかと想像している。

帆高と陽菜の再会時の3年ぶりの日差し。

3年後に帆高と再開する際に、陽菜は空に向かって祈っていた。その祈りの内容については明確に描かれず、観た者の想像にゆだねられている。個人的には、天気の巫女としての祈りではなく、自分自身の幸せについての祈りだと想像している。

その後、わずかに遠くの雲間から光がさしていた様に見えるのだが、天気の巫女とは無関係に、3年の歳月を経て、異常気象に回復の兆しがみられたのではないか?と想像している。

ただ、確証にたる根拠はない。

映像・演出について

圧倒的に美麗で高精細な映像

相変わらずの過剰とも言える美術や作画。よくも毎回進化する。私は、多くを語れるレベルにないが、この過剰とも言える映像には、賞賛のため息が漏れる。

天気の巫女という発明

天候がキャラクターの心理状態や心象風景として描かれることはアニメでは良くあるし、ある意味、常識となっている。

しかし、天気の巫女という設定は、キャラクターの祈りがそのまま天気に反映されるという、より直結した設定であり、これは目から鱗の逆転の発明だと思う。

はじめは、雨天続きの東京で、一部一時的に陽の光を射す程度の晴れ女だったが、圧巻だったのは、社会に追われているときの、ゲリラ豪雨からの降雪。陽菜の正の感情だけでなく、負の感情も天候に反映する。

そして、陽菜が消失した後の快晴。このシーンは空の神様に陽菜の全てを生贄にした事で、その分の快晴の前借りがされた形なのであろう。

この時ばかりは、帆高の悔しさ辛さ憤りとは真逆の天候である事が皮肉であり、印象的であった。これは、一般市民の雨天から解放された安堵感を意味するものでもあるのだが、帆高が陽菜を取り戻そうとする一連のアクションシーンの爽やかさの演出にも一役買っている。

もう一つの仕掛けは、気象神社の神主さんの言っていた、天気の巫女を生贄にして晴天の恵みを得る、という伝承。生贄か?晴天か?の悪魔の天秤。一人の人命と天気、果たして重いのはどちら?

この意地悪な設定に、陽菜を含め、様々なキャラクターが自分の考えを述べてゆく事になる。

心の叫びをド直球で力強く描く

一連のラブホテルでの一晩の安息からの、陽菜の消失後の、帆高の疾走しての、陽菜を連れ戻すまでのクライマックスシーンは、帆高の心の叫びの濁流のような怒涛の演出だった。

実は正直に言えば、私はこの辺りのシーンで少し疲れてしまった。それくらい迫力で観客をグイグイ押してくる映像だった。

キャララクターについて

帆高(2019.07.28追記)

帆高が離島から家出したのが16歳の2012年6月。フェリーに乗っている時に絆創膏を貼っていたので、学校か何かでトラブルを発生させ、家族も帆高の味方にならず、そうしたゴタゴタで狭い社会である離島に居られなくなり、家出したのではないかと妄想する。

心優しいのに、そこを踏みにじられると反発してトラブルに発展してしまうくらいに、不器用で頑固な性格なのだろう。

拳銃発砲は、帆高が理不尽な社会(大人)に対する反抗の象徴として描かれる。その拳銃はチンピラに転ばされ、ゴミ箱をひっくり返した時に拾ったものだが、すぐに捨てずに暫く持っていた所も含めて、帆高の危うさでもあった。拳銃発砲の原因は2回とも陽菜を助ける行動がキッカケになっている所が興味深い。帆高自信も理不尽な仕打ちを受けているが、他人が受ける理不尽な仕打ちの方が、帆高にとって怒りを爆発させやすい。

陽菜は帆高にとって太陽であり、あげまんである。陽菜に会った事で帆高の運気が上昇した。

陽菜に初めて出会いビッグマックを恵んでらうシーンの直前で、帆高は夢の中で、故郷の離島にいて雲間から差し込む日光の夢を見ていた。また、8月22日ホテルで陽菜が消滅する日には、離島の雲間に射す日光が海の向こうに逃げてしまい、島の端っこで追いかけられずに見ている、という夢を見た。この日光=陽菜である。ある意味、帆高は光を追いかけたくて東京に来たので、暗喩的に陽菜を求めていたのかも知れない。

陽菜にビッグマックを恵んでもらった直後、須賀を頼りに、仕事と寝床と食事を手に入れる。仕事も家事も慣れずに厳しいけど、無我夢中で打ち込める何かがある事はとても良い。須賀も夏美もいい人だし、東京での生活の足場を確保できた。

その後の、チンピラへの拳銃発砲事件で、陽菜と帆高の関係は強まる。このとき、陽菜は雨続きの東京で、晴れ女の力を使って晴れ間を見せてくれた。

ここからは、100%の晴れ女ビジネスの成功と、陽菜と凪との3人で生活費を稼ぎながらの楽しい生活。

須賀と萌花と凪と夏美と、そして陽菜。楽しい公園での親娘面会時間を終えて二人で陽菜の家に向かう所から、幸せの絶頂から不幸のどん底へのジェットコースターのような急降下劇の始まり。

陽菜が天気の巫女の代償として体が透けてきている事、帆高が警察に追われ、陽菜と凪が児童施設に入れられそうになり、皆がバラバラになりそうな問題が目の前に提示された時に、須賀に5万円で離島の実家に帰れと言われる。社会と大人が自分と陽菜を引き離そうとする帆高主観。そして、意を決しての帆高、陽菜、凪の3人の逃亡劇と、それによる過大なストレス。

やっとのことで確保したラブホでの安堵の時間が、天国の様。

しかし、翌朝、陽菜は消滅してしまう。社会に追われてギリギリ逃げきっている現状で、さらに運命が追い打ちをかける。絶望の淵からさらに突き落とされる帆高だが、その別れは陽菜の諦めの心だったと思う。警察に確保され連行される途中に陽菜が中学生だった事を知り、更にいたたまれなくなる帆高。取り返しのつかない喪失。

帆高は社会の中で罪を重ねているが、その罪に対する罪悪感はあまり持っていないように描かれる。帆高にとって重要な事は陽菜を守りたいという気持ち。帆高が信じていなかった天気の巫女というオカルト現象だが、空から落ちてきた指輪を見て、その可能性を信じた。快晴で喜ぶ人々が余計に帆高の気持ちを逆なでする。そして、改めて陽菜を取り戻そうとする。

社会(=刑事)はその気持ちに対するハードルとして描かれた。本作が、罪を償う話では無い事が違和感であるという考察があったが、ごもっともである。これは作劇上の弱点とする意見も理解するが、そこにウェイトを乗せるとメインテーマがぼやけるために敢えて切り捨てた作劇なのだと想像している。

陽菜を取り戻すために、廃ビル屋上の神社に走る際の、拳銃発砲は前述の通り、帆高の社会(大人)への理不尽な仕打ちへの反抗。そして、天界の彼岸での陽菜奪還の活劇。

帆高がここで陽菜に重要な台詞を言っている。今度は自分のために祈ればいい、という台詞。陽菜が自己犠牲で消える必要は無い。陽菜のいない晴天よりも、陽菜のいる雨天がいい、と叫んだ。

結果的に、陽菜を連れ戻し、東京が水没した。

あの日、帆高は、東京水没は予想していなかったはず。今まで通りの雨天続きくらいにしか思っていなかっただろう。そこまで社会を破壊する意図は無かったと思う。

その後の卒業までの3年間、帆高は陽菜から引き離され、実感の無い生活を送っていた。あの日の事は夢だったのかと。

卒業して水没した東京に出てきたら、冨美は「(東京水没について)なんで謝るのさ」と言う。須賀は「(お前のせいで東京水没だとか)うぬぼれるな」と言う。要するに、回避不能な事態であり、16歳の少年は無力なのだと諭す。もっとも、須賀の話は、帆高に対して気に病むな、という優しい言葉でもあるのだが。

それに対して、陽菜と再会したときの帆高は、明確にそれを否定し、自分達が世界を破壊した事を自信をもって肯定する。というか、その時の決断で、陽菜が今ある事を誇りに思ってよい事を噛みしめる。この辺りの詩的な言い回しが、こう、新海節なのかも知れないが。

そして、帆高が陽菜の手を握った状態で「大丈夫」というところでこの映画は終わる。

社会的に見れば、帆高は東京水没の罪に問われることはない。天気の巫女と言ったところでオカルトの一言で片づけられてしまうような話である。それなのに、その罪を自覚すると言うのは、客観的に見れば帆高の中二病としか見えない。だけど、その事が帆高にとって重要な生きる自信になる。

でも、まぁこの辺りの屈折した雰囲気が新海節とも言える醍醐味であり、面白さなのかな、と思う。

ともあれ、この帆高の気持ちの強さ、真っ直ぐさが、好きな人と一緒に生きるという強い気持ちが、本作のテーマだったと思う。

陽菜(2019.7.26追記)

陽菜は1年前に天気の巫女になった。母親に天気を見せたい、というシンプルな気持ちがキッカケだった。

陽菜の身の上は不幸。母親は1年前に亡くなった。小学生の弟の凪と二人暮らし。14歳の中学生だが、生活に困り、マクドナルドのバイトは年齢詐称でクビになり、水商売に手を出しかねない状況で、帆高に救われる。

帆高は大人に拳銃を発砲する物騒なヤツだった。怖いキモい。でも、初めてバイト先で見かけた帆高は食べるものも無い野良猫みたいだった。大都会で困っていた。その野良猫がなぜ私に関わろうとするのか?ビッグマックの恩義のお返しだけか?馬鹿なのか?

とりあえず、陽菜は帆高にお礼として、東京での良い思い出にと「晴れ」をプレゼントする。

陽菜のアパートに帆高が訪れるが、陽菜の昼食に、アパートの裁縫道具に、窓枠から垂れる飾り付けに、貧乏だけど優しくて彩りのあるキチンとした生活を感じた。人生にくたびれた中年だとこの感じは出ない。ここに陽菜の性格の良さが高密度に表現されている。

帆高が立ち上げてくれた100%晴れ女の仕事をし始めると、見ず知らずの他人が晴れ女の私に感謝してお金を支払ってくれる。他人を幸せにして、しかもお金ももらえる。仕事とはこういう楽しく甲斐があるものなのか。

神宮外苑花火大会の晴れ女の仕事は高層ビルの屋上からの祈り。この日の陽菜はお祭りだからと浴衣姿。最高のデートの雰囲気なのに陽菜が少し悲し気なのは、天気の巫女の代償で体が透けて異変が起き始めていたからだろう。浴衣は肩と腕を隠す。陽菜は100%晴女の仕事で人々を笑顔にするのが仕事だと思い込んだ。そして、現金収入の対価として、陽菜の身体に対する代償も気付いてた。でも、この仕事に導いてくれた帆高には感謝していた。

冨美の依頼では、迎え盆を晴れにした。冥界と繋がる煙は、陽菜の母親を迎え入れるために跨いだが、天空の彼岸と繋がっている陽菜には、その必要もない事だったかもしれない。

須賀の依頼では、帆高の上司が離れ離れになっている娘と楽しく公園で遊ぶ姿を見る。夏美との会話で「私は早く大人になりたい」という言葉が切実。晴れ女の仕事は今までは上手くいっていたが、これ以降は身体が持たず続けられない。なんらかの別の仕事をして凪を養う必要があるし、帆高にも…。今の年齢じゃ仕事も制限されるし、なんとかしたい、という焦り。

そんな時に、夏美から聞いた、天気の巫女の代償。巫女は最終的には神隠しに合う事で晴天をもたらす、という伝説。成程そういう事か。もしかして、もう後戻りできない所まで来てしまっているのか?

ここからは幸福の絶頂から不幸のどん底への急降下。

みんなと別れて帆高と二人で陽菜のアパートに帰る途中、一瞬の強風で陽菜が飛ばされ、空中に一部透けて浮いている姿を帆高に見られる。天気の巫女の代償が帆高にバレた。

アパートに警察が来て、帆高は一緒に逃げると言い、警察に追われながらの逃亡劇。未曽有のゲリラ豪雨による交通インフラの麻痺。警官から帆高を助けるために祈った雷でトラックが爆発。そして天気は雪に。どこの宿にも断られ最後にラブホテルで一夜の安息を過ごす。最悪のストレスを経てからの、安息が染みる。

このひと時の安堵の中、最後のお風呂、最後の晩餐、最後のカラオケ。そして午前0時を過ぎて帆高からの誕生日プレゼント。ありがとう。もういい。凪には申し訳ないけど、凪のためにも帆高のためにも、これ以上続けられない。そして、翌朝、陽菜は消滅する。

陽菜という人間は、いつも自分のためでなく、誰かのために行動していた。ある意味自分を犠牲にしていた事になる。100%晴女の仕事がその気持ちを増長する。人の笑顔が見れれば私はそれでいい。陽菜の祈りは他人を幸せにするための祈り。多くの観客が無意識に望む自己犠牲の悲劇のヒロインである。

しかし、帆高は違った。陽菜のいない晴天よりも、陽菜のいる雨天を選んだ。帆高は今度は陽菜自身のために祈ればいい、と言った。そして陽菜もこの一言で帆高の気持ちを理解した。陽菜は自分を大切にしていい、そしてその陽菜を大切にしてくれる人が居るのだと。

3年後、高校生で17歳の陽菜は帆高と再会する直前、空に向かって祈っているのだが、天気の巫女の能力は失っているので、天気を変える力は無い。では何を祈るのか?それは、今生きている事の感謝、帆高との縁の感謝、そして陽菜の未来の多幸を、天の神様に祈っていたのではないかと私は思う。

つまり、他人優先で自分というものを持てなかった陽菜が、帆高により自分を持っていいんだと気付かされ、その事で生きる力を得た、という物語だったのだと思う。

凪(2019.07.29追記)

凪は陽菜の小学生の弟だが、イケメンで女子に人気があり、屈託がない。帆高の事を頼りなく思う面もあるが、帆高を認めているところもあり、仲良くやっている。

基本、無邪気な感じが子供っぽくて良いのだが、自分の存在が陽菜に負担を強いている面もあり、陽菜に青春を謳歌して欲しいと願う面もある。

凪の一番の見せ場は、やはり、逃走した帆高を手助けするために、廃ビルで安井刑事にタックルするシーン。帆高に対して、姉が消滅したのは帆高のせいだから、姉を返せ!と言う台詞が深い。

凪は捕まった時に帆高と別れてそれっきりだったのだから、ここで大捕物が行われている事は知らなかったはず。おそらく、夏美経由か何かで知ったのだろう。少なくとも、ここに来たという事は帆高が陽菜を探しに来ていた事も知っていた可能性が高い。

だから、姉を返せ!という台詞になるのは分かるが、陽菜の消滅が(100%の晴れ女ビジネスを始めた)帆高のせい、というのは強烈だった。

帆高の行動に賭けているのだけど、内心にある姉を奪った恨みをぶつける素直な子供の面と、その言葉も帆高の燃料になると思って帆高に檄を飛ばす面と、複雑な感情をかなり高密度に表現していたと思う。

事件後、陽菜と凪は別々の児童施設に入った可能性もあるが、3年後のその辺りの事は描かれなかった。

夏美(2019.07.29追記)

須賀夏美。苗字が須賀という事は、須賀圭介の兄弟姉妹の子供になる。須賀は10代の頃に家出したとの事だが、須賀も夏美も故郷は不明である。

JKの夏美が須賀と明日香の写真を撮影する回想シーンが入るが、その時、夏美が上京してたのか、もともと東京に居たのかも分からない。

ただ、夏美は須賀の家出の事も知っていたし、帆高に、過去の須賀の姿を見ていた事もあり、須賀に対してある程度の好意を持っていた可能性はあると思う。夏美がK&Aプランニングでバイトしているのは、須賀の事が心配だからなのか?その辺りの裏設定は分からない。

夏美はそのお色気で帆高をからかうが、そろそろ就職となり、社会に適合していこうとするも、面接で御社が第一志望です、の台詞を繰り返し言い続けながら、徐々にテンパってゆく。帆高や須賀同様、社会に適合する事に慣れていない側の生きるのがちょっと下手な人間として描かれる。

夏美の見せ場は、須賀と萌花の面会の時に、天気の巫女の生贄話を陽菜に教えてしまった事の後悔をしているシーンがある事。バーカウンターで帆高をクビにした須賀を責めていた時に、須賀は反撃でその事に触れている。

夏美としては心配だったからこそ、巫女の代償の話を陽菜にしたのに、陽菜が自己犠牲で自らを追い込んでしまう選択肢の事までは考えていなかった、という事だと想像している。軽率な行動だったかも知れない、という不安と後悔。

だからこそ、帆高が警察署を脱走し陽菜を救いに行くと言った時に、彼女も社会に背き、就活を捨てて帆高を全力で応援した。本田翼さんの「ウケるー」最高。

須賀(2019.07.29追記)

須賀は、10代で家出した。やがて明日香と知り合い、結婚し、共にK&Aプランニングで仕事をし、萌花を授かり、明日香に事故で先立たれ、萌花の親権を得るために裁判中。

萌花は見た感じ5歳くらいだろうか。須賀は42歳なので、36歳くらいの時の子供か。

須賀が明日香と知り合った時期は、夏美の台詞の感じだと家出してすぐだったように聞こえたが、仮に18歳で家出したと仮定した時に子供を授かるまでの期間は、18年あり、間が長い。いつ出会い、いつ結婚したのか?その18年間の間に何があったのか?その辺りは良く分からない。

須賀は帆高に自分の過去を見たから、拾ってきたのでは?というニュアンスの夏美の台詞があるが、多分、図星なのだろう。

須賀は、帆高を抱えた事で、幾つかの選択を迫られる。

1つ目は、100%晴れ女に依頼し、萌花と面会して帰宅した際に、安井刑事に帆高誘拐の容疑がかけられている事を知り、帆高に手切れ金5万円を手渡し故郷に帰れ、と諭した事。萌花の親権を得るという大事なタイミングで、社会的なトラブルは極力避けたい、という思いで帆高を切り捨てようとする。勿論、帆高は須賀以外に頼れる人間がいない(故郷の帆高の親も含めて)という事を承知で、帆高と自分を天秤にかけて自分を取った。

この事で、バーカウンターで夏美と言い合いになる所も含めて、相反する大切なモノの優先度の話をして、自分を納得させようとしているシーンがあり、迷いがある。

2つ目は、翌日の快晴の日、安井刑事が再び訪れ、逃走中の帆高の事を話をしている時に、無意識の涙を見せる。その後、安井刑事に協力して、帆高が罪を重ねない様に、警察に確保してもらおう、という判断だったのだと思う。

ちなみに、この時、安井刑事は冷蔵庫に残る明日香のポストイットを眺め、柱に刻んだ萌花の身長の記録を眺めていた。それは、まだ明日香の死別を受け入れられていない(=未練がある)事と、ともすれば萌花までも失うかもしれない危うい状況である事を示唆している。

須賀の取った行動から察するに、過去の自分と重なる帆高の気持ちが分かるから、帆高の暴走を食い止めて罪をこれ以上、重ねさせないようにしようと思ったのか、萌花を失いたくない気持ちが強かったのか。

そして、3つ目は、廃ビルで帆高を取り押さえて警察に差し出そうとしたとき、帆高の激高に触れて、今度は逆に警察から帆高を逃がそうとする。須賀は大切な人を失った喪失にもがき苦しみながら生き続けた人間なので、取り返しが付くなら気が済むようにさせてやりたい、という過去の後悔から来る変化である。

「(警察の)お前らが帆高に触るんじゃねぇ」は、その魂の叫び。これで、須賀は公務執行妨害の現行犯で逮捕され、萌花の親権は遠のいた事は間違い無いが、その結果については、触れられていない。

結局、夏美も須賀も社会のルールに縛られた大人になろうと頑張りつつ、肝心な所で、子供丸出しの帆高の真っ直ぐな気持ちを応援してしまう。でも、そこで大人として振舞う事で大切な何かを壊してしまうかも知れない。最終的に大人である事が良い事なのか?否か?はケースバイケースでもあり、明快な解は無いと思う。

いや、一般の大人の観客は、大人であるべきだろう、という回答なのかも知れない。でも、純粋に大切な人を守り一緒に暮らしたいという帆高の真っ直ぐな気持ちを踏みにじるか否かの選択で、何を選ぶか?という作劇において、それぞれの観客のそれぞれの判断があって良くて、そうした点が賛否両論になる、という意図だったのかも知れない。

大人の観客は、間違いなく須賀を通して、本作に参加し、本作の是非を感じる事になる構造である。

3年後の帆高に、うぬぼれるな、気にするな、という台詞が良い。(東京水没の事は)ガキの力なんて無くても、大人だけでケリを付けるから心配すんな、という優しさだと思うし、この時の須賀はカッコよかった。

瀧と三葉(2019.7.26追記)

私は「君の名は。」を観ていないので、それほど思い入れは無いのだが、ファンサービスとして二人が劇中に登場する。その役割が面白い。

  • 瀧は、立花冨美の孫役で登場し、帆高に陽菜の誕生日プレゼントを即す役。
  • 三葉は、ルミネの店員役で登場し、帆高の指輪のプレゼントに自信をもってと促す役。

二人が、帆高の背中を押して、帆高と陽菜の縁を結ぼうとする役どころなのが洒落が効いている。

瀧と三葉が再会するのが2012年という事らしい。帆高が移転後の冨美の家を訪問するのが2014年3月。小説ではこのとき、孫の結婚写真も貼ってあった、との事なので、恐らく瀧と三葉は結婚した可能性が高い。

ただ、私はこの件で一つだけ思う事がある。

新海誠監督のインタビュー記事のこの台詞。この台詞は非常に怖くて、「君の名は。」で折角回避できた大災害だけど、今度の大災害は回避できずに犠牲者が出る。その犠牲者が、瀧と三葉だったら、このクレームを入れた観客はどう思うのか?

勿論、冨美の写真は、孫の葬式の写真は無いわけで、東京水没の被害で亡くなったか可能性は低いように思うけど、写真も少ないまま、なんらかの突然の事故で亡くなったとしたら、やはり瀧と三葉の結婚式の写真を飾ると思う。折角、時空を超えて結婚した二人なら。

本作は紛れもない超ド級のエンタメ作品であり、そのようなバッドエンドは考え過ぎなのかも知れない。しかし、わざわざ、新海誠監督がこのような発言をする、という事に引っかかって考えると、その意図もあり得ると思えてしまう。私の考察の中で、これが一番怖い。

おわりに

実は私は「君の名は。」を観ていません。超大作をスルーする傾向があったのですが、ここの所、アニメ作品のブログの出来るだけ書くようにしているので、本作は今回は外せないと思い、鑑賞しました。

結果、とても深い作品で好きな作品となりました。

新海誠監督のインタビュー記事通り、SNS観測範囲でも東京水没への反応は様々であり、その辺りの感想を見て、また楽しんでいます。こうした議論できる作品は大好物です。