たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

日本沈没2020(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

湯浅政明監督はインタビューでテーマを直球で語る人だな、と思っています。「作品に全て込めたから作品を観ろ!」というタイプじゃなく、割と細かく丁寧に語ってくれる。本作は、いろいろと衝撃的な要素が多数あり、テーマについて掘り下げるために、ネット上で確認出来るインタビュー記事、レビュー記事を読み直した上での考察を少し整理します。

一回、ブログ記事を書いていますが、今回は別記事に分けます。

テーマ考察

ナショナリズム

結論から言えば、本作は反ナショナリズムを貫く作品である。それは、リンク先の湯浅政明監督のインタビュー記事を観ても明らかである。

本作は、国家や民族を崇拝しないし、他国や他民族を否定しない。それが潔い。ドラマは残酷だが演出は超ドライ。感情的な盛り上げは無い。

本作が2020年東京オリンピックの開催直前を配信日に設定していたのは、ガンバレ!ニッポン的なナショナリズム喚起の意図があるのではないか?と勘ぐっていたのだが、全く逆のディレクションである事が驚きでもあった。

では、ガンバレ!ニッポンをどのように表現したのか?

個人が作る集団、先人の礎の積み重ねが作る未来の礎

それは、2028年の日本で、日本沈没という危機的状況を乗り越え生き延びてきた個人個人の横の繋がりや、先人と礎の上に積み重ねてゆく縦の繋がりを持って、集団(国家)のアイデンティティが作られ、それを尊く思い、自らも重ねていくというスタイルである。

単純に国民だから愛国心を持つ、というような従来のナショナリズムとは異なる次元で、日本選手(歩や剛)を応援する姿が描かれる。

クラッチ&ビルドではない、他者や過去の全否定はしない

本作は、一度日本沈没し再生する。当初、私は、これに対してスクラッチビルドを連想した。スクラッチビルドは、現在あるモノを全て破壊し、綺麗に消し去って、その上に新しいモノを作る事である。よくある都市部の再開発計画である。

本作でも人間やコミュニティの嫌悪すべき描写がいくつも描かれる。世間的には悪として描かれるカルト教団大麻などの違法行為とか実体は暴力団とか金塊巡り仲間割れとかも描くが、弱者救済だったり良い面も描かれる。何事も前と悪を表裏がある。それを一旦、日本沈没でスクラッチして浄化する、と考えられなくもない。

クラッチする事で良い面も悪い面も消え去ってしまうがそれでいいのか? 本作の答えは否である。

本作は過去を肯定し、過去の人の礎を尊いモノとして、日本復興の断面を描く。金継ぎがクローズアップされたように、過去を消し去るのではなく、過去の人の礎を大切にする、という解釈である。やはり、基礎、土台は生きる上で必要不可欠なのだと描かれる。

ある意味、そこを一般的に言われるナショナリズムとして解釈しているように思う。

それは、国籍人種の横軸で否定をしない事と同様に、過去も未来の縦軸も肯定する事とも言える。

本作にはそうで無い人も皮肉めいて描かれるが、それは物語の薬味であり、本質的な所はそうしたテーマで貫かれている、と感じた。

参照情報

おわりに

今回は情報整理の意味でまとめました。究極的なテーマは「国家とはなにか?」かと思いますが、本作のテーマは結局、

  • 偏見だけで相手を否定しない。当人同士で見極める。(9話)
  • 苦労を共にした横の繋がり、過去の人の礎、そうした拠り所は必要。そして未来に繋げる。(10話)

というところだったと思います。それは、従来の国家だからと盲目的に愛国心を持つのではなく、現場を生きる個人が考える、という現代的なメッセージだったと思います。

私個人はネトウヨだのパヨクだの、そうした議論はあまり関心がありません。こうした思想的な部分に触れてしまいそうな物語でありながら、思想的な薬味を大量に使っているのに、本質的には思想を全く語らないという作風が、今風というか器用な感じがしました。

日本沈没2020

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください!

はじめに

湯浅政明監督の問題作、「日本沈没2020」を観て色々思うところがあり、いつものように感想・考察にまとめました。

本作は、単純に生死を扱う物語というより、生きる上で拠り所となるモノをことごとく破壊してゆく展開が延々と続き、観ていてかなりのストレスとダメージを受けて辛いものがありました。しかし、ラストの展開は救いがあり、個人的には悪い作品ではなかったと思います。

今回は、アニメーション映像面ではあまり書けることがなく、物語面に絞って書いています。

  • 一部修正、追記(2020.7.26)

感想・考察

サブタイトル一覧

内容を整理するために各話ポイントを整理する。

サブタイトル (サブタイトル) ポイント
1話 オワリノハジマリ (終わりの始まり) 地震発生。神社に集結する武藤家。
2話 トーキョーサヨナラ (東京さよなら) 沖縄沈没。東京脱出。田舎サバイバル。父親死亡。
3話 マイオリタキボウ (舞い降りた希望) ガソリンスタンド。七海死亡。カイト登場。スーパー到着。
4話 ヒラカレタトビラ (開かれた扉) 国男登場。ダニエル登場。シャンシティ到着。
5話 カナシキゲンソウ (悲しき幻想) 教祖の死者降臨。週末大麻パーティ。国男暴走。教祖秘書の関係。
6話 コノセカイノオワリ (この世界の終わり) 寝たきり小野寺。生誕10周年。大地震。シャンシティ崩壊。
7話 ニッポンノヨアケ (日本の夜明け) 日本脱出船。メガフロート。漁船。救命ボート。
8話 ママサイテー (ママ最低) 歩と剛の救命ボート生活。母親春夫再会。母親死亡。
9話 ニッポンチンボツ 日本沈没 カイト小野寺再会。温泉ラップ。田所研究所。データ取得。春夫死亡。
10話 ハジマリノアサ (始まりの朝) 再隆起地点。カイト撤収。救出。ロシア病院。8年後、日本再興。

物語・テーマ

薄まった日本らしさ、からのスタート

2020年東京オリンピック。武藤家の嫁であるマリはフィリピン人。従って、歩と剛はフィリピン人と日本人のハーフ。家族構成からして国際化進む家族が主人公である。道中を共にするカイトはエストニア人。シャンシティに行く途中に合流したダニエルは亡国のユーゴスラビア人。登場人物に多く外国人を配置している。

行き詰まった日本人らしさ

主人公の歩は、日本人へのダメ出しを象徴する存在だったと思う。大地震で見捨てて来た友人、父親と七海が死んだのは自分のせいではないかという後悔の念。嫌な真実から目を逸らしイライラから母親と口論。これらのネガティブな要素は前半で特に強調された。

スーパー店長の国男は、手先も器用で電子工作にも明るく、しかし他人を信用せず、人の話を聞かない頑固な過去の日本人の象徴として描かれていたと思う。生粋の日本人でありながら、独りで生きる老人もまた、何もかも失い、モルヒネ中毒となり、よその子供を自分の孫と信じたい気持ちで、事件を起こす。

メガフロートに乗る乗らないを、日本人か否かで選別し、剛たちの乗船を拒む日本人。メガフロートはその後に誘爆を起こし沈没するというオチが付いている。ただし、この時、歩たちを漁船に乗せてくれた船長は、日本人ながら良き人として描かれた数少ないキャラだったと思う。

総じて、行き詰まった日本人、という構図だったように思う。

日本人と外国人の対比

弟の剛は、ネットゲームの国際的な交流相手から日本外部からの客観的な情報を入手する。母親のマリは、人助けやその場を明るくする気遣いをする。旦那の航一郎を喪った後は相当キツかったと思うが、時にグズる歩をなだめ、叱咤激励し前進した。 ダニエルは悲惨な状況でも道化で周囲を和ませた。カイトはちょっと特別な存在なので後述するが、歩たちが生き延びたのも彼のおかげだった。

総じて外国人は、前向きな役割を持って描かれていたように思う。

この構図は意図的な配置だったと思うが、その意図の考察は難しい。詳細は後述するが、単純に日本人をdisりたいのではなく、日本人の膿を描き、その上でなお、大好きな日本(祖国)を描くというメリハリのための演出だったのかな、と想像している。

新興宗教のシャンシティの秩序

4話から6話に登場する新興宗教。なぜ、本作に新興宗教が必要だったのか? と疑問に思う視聴者も多いと思うが、これはずばり日本国家の比喩だと思う。シャンシティの崩壊=日本国家の崩壊を描いたのだと考えている。

フェンスで囲まれた敷地、入り口にはゲートがあり、信者は大人であれば労働、子供は学校で教育。週末には大麻パーティーでガス抜きをするが基本は飼い慣らされた信者、という様子で描かれる。

信者は何故、その新興宗教の中に居続けるのか? それは信者が救いを求めるからである。信者は、何かしらの後悔があり、それを埋め合わせるために教祖の奇跡を求める。教祖の奇跡は死者の言葉を聞く事であり、信者が未練に思う死者と会話したい気持ちの一心で順番待ちをしている。

大麻は信者の思考能力を低下させ、教祖に従わせるための手段として使われるのだと思われるが、そのような描写はなかった。本作では単純に教祖の能力は本物であると描かれた。

歩たち一行は、このシャンシティでひと時の安息を得る。ゆっくり睡眠し、キチンと食事をし、ダニエルの道化に笑い、大麻パーティーでストレス発散した。人間が生きるにはこうしたコミュニティが必要なのだと言う事を、奇しくも新興宗教を借りて描かれた形である。実際、歩はこれまでマリとの衝突が多かったが、大麻パーティ後、髪を切り、それまでの後ろ向きな自分を吹っ切ったという変化が描かれた。

ちなみに、小野寺が喋れない体になって、ここの病棟に拘束されていたのか? については全く描かれなかった。日本国家にとって都合の悪い情報を垂れ流されるのを嫌う何者かの意図か? その辺りは妄想の域を出ない。

教祖の室田は障害を持った子供を溺愛しており、秘書と肉体関係を持ち、新興宗教暴力団でありヤクザの組長という側面も描かれた。相当の金塊を持ち、教団の秩序を守ってきたが、大地震とともに信者が敷地内から逃げ出し、幹部は金塊を持ち逃げしようとし、子供は事故死し、何もかも失って教団は崩壊する。

徹底的な破壊と喪失

本作が観ていて辛いのは、人生に必要なモノを徹底的に破壊する点にある。

まず、震災による東京の破壊。水没し始める都市。文明の象徴である都市機能の消失。

そして、身近な人は強い者から死んでゆく。父親の航一郎。次に七海。この二人の死は震災そのものではなく、偶然の事故死であり、かけがえのない命も呆気なく消えて行く。死に対する無力感を味わう事になる。

次に新興宗教のシャンシティの崩壊。ここは閉じた世界ではあるが、ある意味、国家にも似た秩序が描かれていた。その秩序も大地震の前に崩壊した。

日本脱出船が出て来たと思ったら、どんどん陸地が水没してゆき。乗船した漁船も沈没、海の上の救命ボートの中で、歩と剛の二人だけのシーンとなる。地に足も付かず漂流する生活。映像は夜であり、外部と途絶し、心理的にも内面に向かうしかない、という追い込まれた演出がなされた。

そして、再会した母親は、子供たちを助けようとして死んでしまう。

本作は、歩と剛から一旦全てを奪う。何故、ここまで追い込まなければならなかったのか? それは、本作のタイトルが日本国の領土のみならず、国民とそれを形成する国家、および文化を失う事を示すためである。そして、それを視聴者と共有する旅を続けてきた。

温泉ラップバトルと春夫の死

9話のラップシーンは、本作が国家を扱うために、どうしてもネトウヨとか、パヨクという低水準な議論になる事を避けるためのクサビとして効いている。

  • 剛は、反日
  • 春夫は、親日
  • 歩は、非情事態に反日親日も人種も関係ねえ。人間同士で判断しろ。

その後、春夫の犠牲により、日本領土隆起予想データが守られる。春夫が陸上選手だったことから命懸けの挑戦に立候補し、そして賭けに負けた形である。ただ、春夫は逃げていた陸上に再挑戦し、データを死守して死ぬ直前の瞬間に微笑んでいた。しかし、カイトは犠牲者を出した自分を責め怒り叫ぶ。そんなの認めねえ、と否定する。

ある意味、春夫は日本的な自己犠牲として捉える事が出来るが、そのドラマを否定するカイトの側も同時に描く。本作の左右のバランス調整の妙が伺える一面でもある。

謎のユーチューバー、カイト

本作の最大のフィクションとも言えるカイトという水先案内人の存在。エストニア人。カイトを一言で表現すると言うと冒険家なのだと思う。彼の情報、財力、行動力が無ければ、歩と剛は生き延びる事は出来なかった。

彼がパラグライダーを捨てて歩たちとともに行動した理由は興味本位だったのかもしれない。途中、小野寺に出会い田所研究所の話を聞いてアーカイブとデータの存在を知った時点でスクープネタの取材の目的も出来たのだろう。

彼は常にクールなヒーローであり、温泉ラップの際は、周囲の気まずい空気を察知して、みんなの腹の内を吐き出させた。この時、彼はラップでの主張はしない。物語の牽引者であるが、あくまで傍観者であった。

印象的だったのは、自分が原因で死者を出す事は禁じていた点。自分は持っているとして強気で無茶な行動をしてきたが、殺人者になる事だけは避けて来た。

最後の最後で、悪意を持って、歩と剛を見捨てて一人気球で逃げ出した。と思ったのだが、Netflixの各話あらすじを読むと、カイトは仲間を助けるために気球に乗ってネット接続を試みたとある。

歩と剛を見捨てた=見殺しという考えだとカイトの犠牲者は出さないというポリシーに反するし、カイトが自己犠牲により他人を助けるのは春夫にならった行動という事になり、これもまたカイトのポリシーに反するように思うのだが、どちらとも取れる演出だったと思う。

いずれにせよ、彼は私の中で消化しきれない謎設定人物だった。

破壊の先に残ったもの

前述の通り、歩と剛は徹底的な破壊と喪失を経験する。その絶望感の中で「死にたい」ではなく「生きたい」という気持ちが残った。そして、未来を信じて再隆起地点に向かう行動を取った。その生きる力が、本作のテーマの一つだと思う。

全てを失っても、記憶さえあれば再生可能な国家

本作のメインテーマは国家の消失だったと思う。領土を失い、国民の大多数を失い、国家として機能しなくなったとしても、生きている限り、アイデンティティとしての国は心の中で有り続ける。

残された日本人は各国にバラバラに生き延びたが、残された日本の記録をもとに、再隆起した領土に日本再興をしてゆく話を紹介し、足を切断しても障害者スポーツで活躍する歩の姿を映して物語は結ばれる。

このラストを見て連想されるのがイスラエルである。国土をもたず世界中に散開して生きながらえたユダヤ人が、文化を絶やさず再び集結してイスラエルを建国した話を連想した。亡国となっても国民が文化を守れば、いつかまた再建できる。

また歴史上、日本に吸収された、琉球民族アイヌ民族も、共通言語としては日本語に統一されてしまったものの、その文化を伝え残せばアイデンティティは生き続ける。

逆に言えば、国家が国民を作るのではなく、国民が集まって国家が成立する。過去の人の礎の上に今を生き、今を生きる人を礎にして未来の人を生かす。だから、個人個人がその国の文化を大切に残し、引継ぎ続ければ、国家は永遠不滅である。

ただし、ダニエルはユーゴスラビア人であり祖国を失った者として登場する。そして、生き続けるためにコミュニティに参加するが、彼の場合は新興宗教のシャンシティであった。

本作の前半では、繰り返し日本人にダメ出しするようなネガティブ描写が繰り返されたのも、それでも良かったところが多数あり、失いたくないという気持ちを明確に打ち出すための演出だったと考えている。

本作は生き延びた多数の日本人が残されたアーカイブから再建する事を望み、世界もそれを認めたとしている。だからこそ、日本人に限らず、祖国を大切にして欲しい、というシンプルなメッセージに感じた。

Netflix配信ということについて(2020.7.26追記)

本作は全世界同時配信の作品である意味を考えると、「祖国を大切にして欲しい」というメッセージは日本に限定するものでは無く、それぞれの視聴者の祖国に置き換えられると考えるのが自然であろう。

この配信が東京オリンピックの直前を見越したスケジューリングであった事を考えると、制作側のナショナリズム喚起の意図も感じなくも無いが、その表面的な話に流されず、祖国を尊重し、他国もまた尊重するという拡大解釈まで持って行ってよい内容に感じた。

本作は、良くも悪くも個人個人の集合と継承が国家を作るというニュアンスで、それでもそのアイデンティティを無かった事にはしたくないという気持ちと、他国もそれを尊重するという大筋であり、他者(他国)否定は含まれない点が、現代的とも思う。

なお、ダニエルの祖国、ユーゴスラビアはスラブ人の複数民族の統合国家であったが、各国各民族の独立機運の高まりから生じたユーゴスラビア紛争により解体された。民族による争いの悲劇の末路が、祖国を失う事となった。日本沈没には民族紛争は無く、自然災害が原因で日本が消滅しそうになる。ここに、日本民族だからどうこうという話は出てこない。その意味で、民族を切り離した物語展開となっている。もし、これを反ナショナリズムというなら、本作はそう言えるのかもしれない。

余談ながら、シャンシティはカルト教団である事は間違いないのだが、その存在を悪とはせずに、歩たちを助ける存在として描かれた。この辺りの微妙なディレクションも、もしかしたら全世界配信を意識して考慮したものなのかも、と勘ぐっているが、これは妄想に過ぎない。

脚本について

本作は、アニメーションとしては異例の脚本だったと思う。脚本は、吉高寿男という方。私はよく存じ上げていなかったのだが、wikiを拝見したところ、主に舞台脚本を書かれている模様。

物語が進むにつれ、最初は都市生活から始まり、新興宗教のシャンシティや、地面を失い海上で内面に向かってゆく方向で進んだ事や、9話の再浮上データを走って拾いに行くシーンの演出など、言われてみると舞台演劇っぽい作風だったように思う。

日本のアニメーションが得意としてきたデフォルメされた動きや詳細な風景描写とは正反対な登場人物の内面描写に重きを置いた作品だとは感じていたが、舞台脚本とアニメーション映像のマッチングという難しい挑戦だったと思う。

おわりに

本作は、正直観るのがキツかったのですが、最後に救われました。物語志向の私としては、ひとまず満足です。

舞台脚本をアニメーション映像に落とし込む、という作風は個人的には新鮮で物語の強度は高いので、これはこれでアリなのかと思いました。

2020年春期アニメ感想総括

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はじめに

毎度、毎期のアニメ感想総括です。

今期、観た作品は、下記7本。コロナ禍の状況でOA一時中断の作品も見受けられましたが、それでも私にしては結構、多い視聴数でした。作風もそれぞれ違い、それぞれを楽しむ事ができました。

ただし、LISTNERSだけは、視聴途中で止まってしまっていて視聴未完のため、別途追記とさせていただきます。

感想・考察

プリンセスコネクト!Re:Dive

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 綺麗で良く動くアニメーション映像の気持ち良さとレイアウトのカッコ良さ
    • 物語を薄味にして、美食殿4人の日常生活の楽しさをキッチリ描き、キャラに愛着を持たせるディレクション
    • ギャグとシリアスを緩急自在に扱う演出の巧みさ
  • cons
    • 特に無し

本作はソシャゲ原作のアニメ化作品であり、ソシャゲの宣伝作品でもある。

本作の見所は何と言っても、アニメーション映像の気持ち良さだと思う。とにかく綺麗で良く動く。街並みや自然の背景も緻密で綺麗。動きだけでなくレイアウトも力強くてカッコ良い。そうした映像が毎週安定して視聴できる幸せ。これらは殆どの脚本、大半の絵コンテ、さらに音響監督も努めた金崎貴臣監督の手腕によるところが大きいのではないかと想像する。

本作のラストは、美食殿の各キャラの関係において、互いの理解を少し深め、強敵を倒して一段落。その後も日常に戻り冒険は続く、というところで終わる。各キャラの問題は未解決であり、物語としては何も終わっていない。おそらく、物語としてはソシャゲで続きをお楽しみください、という事であろう。

では、アニメとしての売りは何なのか? おそらく、アニメではキャラの魅力を十分に引き出しキャラを好きになってもらい、ソシャゲに誘導する事を目的とするディレクションだったのではないかと思う。これはこれでアリである。

本作は、要所にシリアスな活劇はあるが、基本は美食殿の何気ない生活を描き、一緒に生活していて楽しい雰囲気作りに注力されていた。共同生活を営むギルドハウスも良くデザインされており、玄関入ってすぐに吹き抜けの広々としたダイニングがあり、脇に料理道具や食材が並ぶ巨大なキッチンがある。街に出かけてはレストランで美味しいモノをたらふく食べる。冒険に出かけては野営で採れた肉や魚や果実を食べる。コッコロがむすんだおにぎりを仲間と一緒に食べるだけ美味しい。そうした食事のシーンは毎話必ず挿入されていた。

しかも、食事のシーンでキャラの心情も多々描かれる。1話でランドソルの街で宿泊のアテも無く夕暮れてしまった時にユウキと一緒にコッコロが食べたクレープの美味しさで気持ちが救われたり、2話のラストで慣れ合いはしないとその場を立ち去り、独りおにぎりを食べて尻尾をふってしまったキャルなど食事密着の演出も冴えていた。馬鹿馬鹿しくて笑ったのは虫料理バトルで無駄とも言える調理シーンとブッチャー(?)の昇天シーン。ここでも、悪漢に拳ではなく調理で挑むペコリーヌの熱さと、レモン汁でペコリーヌを後押しするキャロのドラマが、ギャグシーンに溶け込んだ演出となっている。

私はキャロが大好きで、スパイと仲間の葛藤のドラマを抱えている点も、キャラデも、わちゃわちゃした性格も2話の時点ですぐに気に入ってしまった。ペコリーヌ、コッコロ、ユウキの3人は ひょうひょうとした感じで描かれていたので、ドラマの軸はキャロが担当なのだろうと想像していた。しかし、ラストはペコリーヌの心の傷の救済と4人の絆がより深まり強敵を倒す、という展開を観せる。ペコリーヌは元気で熱血として描かれてきたので不意打ちを喰らった形である。

ラストのドラマのきっかけは、敵に襲われるキャロを捨て身で守るペコリーヌだった。半分裏切り者である自責の念から「もう無理…」と呟いてしまったキャロの台詞を聞き、大切な人が遠のいて行くトラウマでペコリーヌに哀しみの渦に呑まれてしまう。そして、ペコリーヌを抱擁し癒すコッコロ。ペコリーヌのトラウマを知り独り敵と戦い苦戦するキャロ。回復して参戦するペコリーヌとコッコロ。魔法が自分を滅ぼす運命を知ってなお、これ以上仲間を失いたくない決意で戦うユウキ。4人が仲間を思う気持ちで一致団結し強敵を倒すという構図。12話13話のドラマは秀逸で、これも全体を通して積み上げた日常芝居の上に成り立つ計算されたシリーズ構成だったっと思う。

本作はソシャゲ原作という事もあり、美食殿の他のギルドの美少女サブキャラも多数登場する。それぞれのキャラも個性的で魅力的だが、数が多すぎて紹介だけに留まる形である。各話にちょい役として浅く効率に紹介してゆく雰囲気だが、話が脱線していきそうになるのに最終的にはキッチリ収まるのも、ある意味構成力の高さだろう。

本来、私は物語重視派ではあるが、本作は薄味な物語に対して非常に贅沢なキャラ物として良く出来ていたし、個人的に非常に満足度の高い作品となった。

アルテ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 朝ドラヒロイン的な清々しさの、アルテの葛藤と成長のドラマ
    • 職人としての自立を目標とするお仕事モノとしてのテーマ
  • cons
    • 分かりにくかった、職人アルテの聡明さや実力

今期のシリーズ構成=吉田玲子、時代考証鈴木貴昭作品。

16世紀初頭、芸術の中心がフィレンツェからヴェネツィアに移ろうとする時代。女性でありながら、当時男の仕事とされる職人として自立を目指すアルテの葛藤と成長のドラマを描く。

本作の魅力はひたすらに前向きなアルテの行動とバイタリティにあり、それを見ている視聴者も元気をもらう形を目指していた事は明白である。しかし、昨今の過剰なジェンダー意識もあり、どうしてもそうしたフェミ視点に巻き込まれやすい作品でもあると感じた。

前半のフィレンツェ編では、アルテは仕事には個人の技能だけでなく、相手を良く見て相手の要望に答える事、そして人間関係(コネクション)の構築が重要な事を身体で覚え体現してゆくところがポイントだったと思う。そして、後編のヴェネツィア編では、遠く故郷を離れ、他人の家族の愛を知り、生きる上で愛が必要な事を再認識する。アルテはレオ親方の元で修行する道を選ぶが、それも師弟愛とも言える。

結局、アルテが悩まされ続けて来た「女性」「貴族」という肩書の呪いは、作品≒人間性で語り合いたいとアルテが思う事で、その重荷は取れてしまったのだと思う。そして、その素地はフィレンツェでのコネづくりで既に出来ていて、ヴェネツィアでファリエル家の人達と触れ、レオ親方の宗教画を観て、作品≒人間性の考えを強めた形だ。

余談ながら、フィレンツェ=昭和時代、ヴェネツィア=平成時代とも考えられる。昭和はもっと前の大正、明治でも良いかもしれない。頑固気質の職人の時代と、色々な文化概念を取り入れ価値観を多様化した時代。ある意味、アルテは、昭和から平成にタイムスリップした。そこでは、新しい価値観と引き換えに、人々は不器用になり愛に飢えていた。違う時代を生きたからこそ、その違いと、変わらなモノの本質を感じる事が出来たのかも知れない。

アルテは作劇上、仕事の辛さが伝わらなければ意味が無いところもあるのだが、アルテの性格や作風もあり、重くならない様にコミカルに描かれていた。ただ本来、工房の職人というのは様々なスキルを要求される難しい職種である。自立して認めてもらえるためには、技術技能や、交渉や、明晰な頭脳で相手を圧倒してゆくしかないのだと思う。しかし、本作はアルテの笑顔とド根性だけでひたすら押し通した感がある。だから、お仕事物としての説得力には欠けてしまう点を正直残念に思った。

テーマ的にどうしても女性の社会進出とか女性差別とかフェミ的な視点で見られる事が多いと思われるが、本作を通してみた結果、そうした肩書きの色眼鏡を取り外し、中身で勝負という内容に思う。本質を語らず表面的な話題で終わるのは勿体ない作品だと思う。

イエスタデイをうたって

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 昭和を連想させる、不器用で手探りのコミュニケーションの濃密な恋愛ドラマ
      • 真剣にコミュニケーションに向き合う事のドキドキを思い出させてくれるという美点
    • TVアニメとは思えないほどリアル寄りで雰囲気のある芝居と作画
  • cons
    • 陸生と晴の強引なハッピーエンドへの違和感

制作会社は動画工房。ストーリー構成、監督は藤原佳幸動画工房と言えば、コミカルなきらら系作品が主で、超安定作画、丁寧過ぎる設定や描写にこだわりの深さを感じさせるハイカロリーで真面目な作品が多い印象である。藤原監督は、NEW GAME!でコメディの中にも泣きのドラマを嫌味なく入れてくるバランスの良さが持ち味だと思う。本作は、従来のライトな作風から離れ、おおよそTVアニメに向かないリアル寄りの重厚な芝居で恋愛ドラマを魅せる挑戦的な試みだったと思う。

余談だが、安定した品質で作品を作り続ける制作会社が、従来の常識に捕らわれないハイカロリーな作品を作りだしてゆく姿を見て、動画工房は、京都アニメーションのフォロワーとなり得るのではないか?と感じている。

リアル寄りの芝居という点では、例えば腰かけてタバコを吸うシーンとか、二人でトボトボ歩いたり、家の前で別れ際の会話をしたり、そうしたシーンにキャラの思いが重なってくる。派手なアクションやデフォルメではなく静かな動作で芝居で伝える。時に沈黙のシーンもあるわけだから、そうした事も目や口の表情で心情を語らなければならない。逆に後ろ姿で語るというのもあるが、本作ではそうして隠すのではなく、積極的に描いて語っていたように思う。また、榀子の私服が無意味に線が多かったり、福田の披露宴にカメラマンとして参加した陸生が線の入ったスラックスを穿いて帰りに歩くシーンがあったり、演出的な逃げで省略可できそうな事も、真向勝負で作画していた。本作の作画にかける気合を感じる部分である。

対して、声の芝居も上手い。小林親弘のボソボソとした感じながら誠実そうな雰囲気を醸し出す芝居が特に良い。周囲も花澤香菜宮本侑芽花江夏樹とそうそうたる実力派で固められている。どのキャラも呟き的なトーンだったり、普段の脱力した日常会話だったり、強弱の振れ幅の広い芝居があり、見事に演じきっていた。

本作は恋愛ドラマである。人が人を好きにる。ときめき、幸福感、切なさ、嫉妬、憎悪。ある意味、恋愛は熱病であり、人の理性を失わせ狂わせる。

男女が互いに相手の様子を見ながら探り合いの付き合う事は、日常にありふれている。陸生の優しさと、榀子の臆病さ、互いに引き合うのに一線を越えられない姿を恋愛ドラマを通して見るもどかしさ。本作はそこを丁寧に描いた。

榀子と浪の関係は昔からの姉弟みたいなもの。だから、榀子は浪からのアプローチが鬱陶しく、ましてや高校教師と生徒の恋愛はスキャンダルでもあり、そこから逃げたい気持ちで榀子は陸生を彼氏にしようとしたとも考えられる。浪は、高校を卒業した事で教師生徒の制約が外れればという思いがあったに違いないが、その時すでに榀子と陸生が恋人になった事に気付き、腹を立ててその場を走り去った。浪の行動は子供であるが気持ちは分かる。この時、榀子は陸生よりも浪を追いかけた。それはそのまま恋愛か姉弟かの天秤で、姉弟を選んだ事になる。勿論、榀子は物分かりの良い陸生より、駄々っ子の浪を何とかしなくちゃ、という気持ちだろう。だが、榀子はそれだけ恋愛にはハマっていないという事である。

陸生は、自分から踏み込まず相手が近づいてくるのを待っていたが、その優しさのせいで、榀子が迷った時に言い訳をさせてしまう。好きだから優しくして嫌われたくない。でも、その壁を越えた先の恋人ごっこを越えた恋愛があり、責任があり、幸せだったり不幸だったりがある。

その一線を越えられない事に付いて、視聴者は陸生や榀子を臆病者と一蹴する事は出来る。しかし、フィクションである陸生や榀子の気持ちや行動も十分にあり得るリアリティを持ち、そうした他人のドラマに触れどう感じるか? というのがエンタメであると思う。90年代までは、こうしたモヤモヤした恋愛ドラマは腐るほど存在したが、最近はあまり見かけないように思う。時代がもっと分かりやすく、ストレスの少ないエンタメを要求しているのかもしれないし、「抑圧された恋愛」に限らず、現代は我慢する時代じゃないのかもしれない。だからなのか、この手の恋愛ドラマを逆に新鮮に感じたりする。

結局、陸生と榀子の関係はリセットされ、普通の友達関係に落ち着いた。そして、陸生が晴に告白し両想いが成立する、というラストが描かれた。

私は、陸生が晴を恋愛対象として好きな気持ちは全く描かれていなかったので、このラストは感突に思えたし、キャラの気持ちの一貫性の無さを感じてしまった。

これは私の想像でしかないが、本作のスタッフは、もともと陸生と榀子のもどかしい恋愛ドラマを描く事に挑戦したくてそこに尺を割いたのだと思う。陸生と晴のカップルだと晴のストレートさから、そうした恋愛ドラマになりにくい。むしろ、晴を一方的な負け犬にしておきストレスを溜めさせる方が、耐え忍ぶ恋愛として違和感なく恋愛ドラマに参加出来る。

また、このラストは4人が決定的に決別した形をとらず、現状維持に近い状況とも言える。物語として人間関係の破壊を描かなかったのは、作品の世界観の余韻を保つためだったのかもしれないし、それがキャラへの思いやりだとも言えなくもない。

この想定であれば、榀子と付き合っている間、陸生が晴を好きな気持ちを見せてしまうと陸生の優柔不断さが強調され、陸生の誠実さが失われてしまうため、そこを封印したのだと思う。ある種の演出的なトリックである。

いずれにせよ、そうした制作側の考察は出来るが、それがキャラを描く上でご都合主義的なノイズに感じてしまった点を個人的には残念に思った。

映像の技術面、演技の高さは評価されるべきだが、文芸面での物語のラストの形が強引で、個人的には違和感を感じてしまった点をネガ意見として率直に記しておく。

邪神ちゃんドロップキック'(ダッシュ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 最近では希少な正統派ナンセンスギャグアニメ
    • 猟奇的な笑いと思いきや、意外とハートウォーミングで分かりやすいドラマ
  • cons
    • 現代におけるナンセンスギャグの壁・難しさを感じてしまう点

私が本作を観始めたキッカケは「邪神ちゃんはトムジェリ」という発言をSNSで見かけたからである。

昨今、笑えるアニメ自体はあるが、あくまでコメディ的な笑いの作品が多く、純粋なギャグアニメというのは最近ご無沙汰しているような気がしていた。OA前にYouTubeでOP動画を配信しており、先ほどの言葉とOP動画だけで世界観が掴めたような気がした。

ゆりねを殺せば邪神ちゃんは魔界に帰れるが、邪神ちゃんが常に返り討ちに合うくらいゆりねは強い。邪神ちゃんは悪魔なので胴体を半分に切り裂いたりしても死なない事が分かっており、ゆりねもお仕置きと称して割と邪神ちゃんを残虐に扱いがち。結果、邪神ちゃんはゆりねに常に粛正されながら、人間界でゆりねとの同居生活を送る。

邪神ちゃんは根性は曲がっていたり、ギャンブル癖はあるが、料理上手で友だち思いの良い面も持っている。時に魔界の友だちがアパートに遊びに来たり、天界を追放された天使とも交流があったりする。大体悪魔は良い人で、天使は腹黒というのが作品のアウトライン。

1話は、正直、前シリーズに追いつくための登場人物、設定説明で始まり、邪神ちゃんの脳内会議だったり、カオスなムード漂い、置いてけぼりを喰らった感が強かった。

しかし、見続けていると邪神ちゃんの友だち思いの良いエピソードなどが中心となり、段々と見易くなってくる。大体、邪神ちゃんが何か悪だくみ、もしくは人助けをするが、それがエスカレートして馬鹿馬鹿しさが増してゆくのが基本。しかし、それ以外にも不意打ち的にギャグの変化球を投げてくることもある。そうして徐々に笑いのスイッチが入り温まってくる。ナンセンスギャグも反復するうちに馴染んで笑えてくるモノである。キャラデザインや表情も萌えアニメ的だが、可愛くて分かりやすいのも良い。

ただ、キャラの行動パターンやお約束に馴染んで笑えるようになってきても、最終的には馬鹿笑いするには至らなかった、というのが正直なところ。

私は昔々、元祖天才バカボンが大好きで大笑いしながら観ていたが、そういうものを期待していた。ただ、最近、YouTube元祖天才バカボンの1話~3話の無料配信を久々に拝見したのだが、こちらも爆笑には至らず似たような感触だった事を考えると、観る側の私が年を取って変わってしまったのか、もしくは再び温まるまでに物凄い時間がかかるのかもしれない。ギャグ作品不遇の時代を感じてしまった。

波よ聞いてくれ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 圧倒され、つい呑み込まれてしまう、強烈な鼓田ミナレのパーソナリティと喋り(脚本も芝居も)
    • 一見、毒々しそうにみえるが、実際には笑いと元気が出てくる不思議なテイスト
    • 深夜ラジオの現場という珍しい設定とその意義
  • cons
    • 特に無し

本作は、クセの有り過ぎる女性、鼓田ミナレ(25歳)が深夜ラジオのパーソナリティに抜擢され、スープカレー屋のバイトをしながら地元ラジオ局で放送の仕事に携わってゆくという、青年漫画原作の、アニメとしては一風変わった雰囲気の作品である。

舞台がラジオ局なので、その辺りの用語や設定が飛び交い、お仕事モノとしても成立している。

本作の目玉は、とにもかくにもミナレの喋りに尽きる。会話の内容も速度も超過密なマシンガントークだが、滑舌が良いため内容が聞き取れないという事がない。CVの杉山里穂さんの迫真の演技が光る。ミナレの声は杉山さん以外はもう考えられないくらいハマリ役である。

ミナレは基本だらしない性格だが、頭の回転も早く洞察力も高く妄想力もある。物事の表層でとらえるのではなく、探偵の様に深読みできる。だから、ミナレの考えを言葉にすること自体がネタのように面白い。ただ、性格上、冷静さが無く勢いで突っ走るので、折角の考察も見当違いの方向に暴走する事が多い。お笑いの基本がボタンの掛け違いのエスカレートであるならば、ミナレの言論、行動自体がネタである。

1話は、金を持ち逃げした元カレの光雄の愚痴を居酒屋で録音され、ラジオで放送されてしまい、放送を止めさせるように申し立てるように慌ててラジオ局に乗り込む。しかし、放送を止める代わりに即興で生トークさせられる。そのトークの内容は、悪口の主語を北九州男性から光雄個人に訂正し、北九州男性に謝罪するとともに、ただし光雄は死ね!という内容であった。行動はハチャメチャで破天荒なのにマスを意識した、ある意味放送倫理を意識した内容なのが面白い。ミナレは激しい感情のぶつける中でもリスナーに共感が得られる部分があるからこそマス向けのラジオ番組として成立する。

ミナレはバイト先の中原が好いている事は承知していても男女の関係にはならないと明言し断る。ミナレの行動自体は正直で潔いが、中原にとっては生殺し的な、ある種の押しつけである。同じアパートの住民であった沖の部屋での事件も結局はミナレのだらしなさが原因で沖に大迷惑をかけていた。ミナレは自由で束縛されないが、リアルでは無自覚に周囲に負担を掛けながら生きてきた。

10話の光雄との再会デート回。問題の光雄という人物が登場し、母性本能をくすぐるクズ男として登場。あれだけ恨んでいたのに、少し優しくされ甘えられただけで、ミナレはまた光雄にほだされてしまう。男を見る目が無く騙されやすい。もともと美人であの激しい気性なので、普通の男はミナレに甘えるなどとは思わないが、逆にそこがミナレの弱点になっていたところは妙な説得力がある。

光雄はミナレの放送で命拾いをしており、その感謝の気持ちで借金の半額を返済するという流れではあるが、全額返済で無いところに、手切れではなく復縁を望む意図がチラ見えする。結局、ミナレが光雄の部屋で女性の髪の毛を見つけて我に返り、どうせ返済金も他の女性に貢がせた金だろうと、光雄の首をへし折って絶交を言い渡してミナレは帰る。ミナレはやる事が極端なのだ。

そして、10話11話の光雄埋葬&懺悔回。ミナレの光雄への気持ちを成仏させるために、麻藤は生放送ラジオドラマを企画する。脚本は、ミナレと麻藤が光雄を埋葬し、麻藤、光雄、ミナレの順番で3人が懺悔をし、北欧の地で生まれ変わるという雑な内容。光雄の台詞は、再会デート中に録音した音声から久連木がキャラ分析して書き起こした。ミナレのアドリブの余白は大きく残している。

面白いのはミナレの懺悔の時の台詞である。麻藤も光雄も心にわだかまる過去の罪を謝罪し転生してゆく。だが、ミナレは「後悔を後悔した事はない!ただ挽回したい!」と叫ぶ。ミナレは過去を否定せず受け入れる。放送を聞く親、同僚、知人、そして自分自身の誰も否定せずに肯定する。他人にかけている迷惑を受け止めて、その上でその人達にも何かを返します、というポジティブで未来向きな宣言である。

これは、1話の光雄は死ね!の台詞と対になるラジオドラマの脚本だったのだが、生まれ変わる=現世での人の繋がりを捨てる事をミナレは拒んだ。放送時の音響効果の滑稽さや、脚本のぶっ飛んだ設定や、ミナレのマシンガントークに持っていかれるが、文芸的にはかなり練り込まれた内容だと思うし、ギャグと文芸を両立させた手腕は見事だと思った。

ラストの12話の北海道胆振東部地震回。災害時におけるラジオでの心の繋がり。今までミナレの内面で描かれてきたラジオ番組は、停電で真っ暗になった夜空から一夜開けた早朝に、マスという非常に大きな力を持っている事を再認識し、やりがいを見出す。11話の「挽回する」の台詞が効いてくる。

一般的に、原作継続している作品のアニメ化は、物語途中でぶつ切りになる可能性が高く、カタルシスが無くなりやすい。本作は、地震とミナレの決意で綺麗に締める上出来のシリーズ構成に感心した。

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • 悪役令嬢というマイナススタート転生で破滅を防ぐ、という意外性ある設定
    • カタリナのバイタリティと爽やかさの人間性でみせる、俺TUEEEハーレム展開のライトコメディの楽しさ
  • cons
    • 悪役令嬢という逆境の重さを感じさせない、薄味すぎる物語やドラマ

本作は、交通事故死した女子高生が、女性向けゲームの世界に転生する物語であるが、転生先が、どのルートでも人生破滅する悪役令嬢の幼少期であり、破滅回避し生き続けるために主人公が奮闘する物語である。

ゲームでは敵を多く作りながら生きてきた悪役令嬢だったが、主人公の持ち前のポジティブさと真剣さと思いやりで周囲の人間を味方に付けてゆき、時に無自覚に、他人のイベント(フラグ)を横取りして他のカップルの恋愛も全部主人公への好感度をアップに書き直してゆく。ただ、その好感度独り占めの状況を本人だけが理解していない。果たして、主人公は破滅を回避し幸せな人生を送れるのか? という感じのライトなコメディである。

本作は、物語としては、意外性があるプロットが面白い。ただ、個々のドラマの見せ方や描き方や演出が薄味である。勿論、絵柄や背景やキャスティングも含めて、狙った薄味だと思う。

例えば、正ヒロインのマリアは強力な光の魔力を持つがゆえに、家族はギスギスしてしまい、友だちも出来ないという身の上であった。父親は家から出ていき、母親もマリアに対してよそよそしい態度で接し、愛に枯れた幼少期を育ってきた。割と重い設定であり、物語の材料としては美味しいところである。しかし、母娘の距離が縮まるドラマの部分をかなりあっさり描く。勿論、愛が不足していたマリアは、初めての親しい友人である主人公カタリナに傾倒してゆく設定なのだが、マリア母娘の件は、枝葉の物語としても勿体ない。

例えば、ラスボスの生徒会長シリウスの呪われた生い立ち。真の悪役は別に用意して、最後は改心させる流れだが、ここでも非常に重い物語を背負っていながら、意外とあっさりと解決させた。

本作の物語のハイライトは、11話の夢の中で過ごす前世の女子高生生活からの帰還だと思うが、そこに居た主人公の家族や友だち、そうした物は幻で居心地の良い空間であり、それは闇の魔法の効果で見せられていたものかもしれないが、交通事故で死んでしまったという現実を受け入れ、今のカタリナの人生を生きるという決意。前世の親友であるあっちゃんとの心のシンクロと、突然の死別で前世で出来なかった別れの挨拶のケジメ。前世は思い出でしかなく、今を生きる転生先の方がリアルである、というのが面白い。

乙女ゲーム世界ゆえに、周囲のキャラも美男美女。少女マンガのエッセンスたっぷりの絵柄。全員が主人公に好意的なハーレム状況。カタリナにマッチするCV内田真礼さんの声質と演技。総じて、ストレスなく気楽に楽しく観れるディレクションだったのだと思うし、実際、楽しく観れたが、もう少し濃いめの演出でも良かったかな、とも思う。

LISTENERS(2020.7.20追記)

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • ロック音楽をモチーフにした独特の世界観
  • cons
    • ポエム的であるがゆえの分かりにくさ

物語について

正直、本作は途中から物語が頭に全く入って来ずに、途中で視聴が止まっていた。なので、一段落して途中から何回か見直し物語を把握し直した。まず、そのあらすじを整理する。

本作の物語は、前半は少年と少女の冒険、後半は敵のボスになった少女と人類の戦い、そして最後は少女を取り戻す少年、というのが大筋である。

ミュウは、ミミナシ側から人間側に生まれ落ちたジミの鏡の存在で有る。ただ、その経緯の記憶も何も持たずに生まれたミュウは、自分の過去を知りたい好奇心旺盛な真っ白な少女でしかなかった。自分探しの顛末は、トミーに担ぎ出されて、リスナーズであった記憶を取り戻し、ダークサイドに落ちる。

エコヲは、ここで一緒に旅してきたミュウに突き放されたと思い、一度は尻尾を巻いて逃げる。だが、ブルースの田舎でメンタルを回復し、オリジンの記憶に触れ、ミュウがミミナシの王リスナーズと理解し、その上でミュウに合いたい気持ちを貫く決意をする。

そしてラスト。自暴自棄になり暴走しながらミュウは泣いていた。エコヲはミュウに話しかけ、無事にミュウを取り戻す。その後の世界では、ミミナシは羊角人間として人類と共存する世界に変革した。そして、今まで通りのエコヲとミュウの旅は続く。完。

テーマについて

本作のテーマを上げるとすれば、以下の二点ではないかと思う。

  • 理解できない他者の否定が生むミミナシの悲劇
  • 何者でもない普通の人間でも世界は変えられる

後半のオリジンの記憶(記録?)によれば、ある日突然現れたミミナシは、最初は人類に危害を加えていなかった。しかし、何かをきっかけに人類に危害を加えはじめ、最終的には戦争レベルで人類とミミナシの戦いが行われた経緯が明らかになる。最初に手を出したのが人類かミミナシかは分からない。これは、理解できない相手に対する恐怖心が共鳴し発振した結果とも言える。プロジェクトフリーダムはそのケジメをつけるミッションだったが、双方に甚大な被害をもたらした。人類とミミナシの敵対関係は相変わらず続いており、本作はこの事件の10年後に始まる物語である。

ミュウはミミナシ側から人間側に落ちてきた鏡の様な存在だし、リズの家族は人間からミミナシに変化したようにも見受けたので、本質的には同一でどちらにもなり得るモノとしても描かれていたし、プレイヤーの演奏でミミナシを駆除できる意味など未だに考察の域を越えている。

ミミナシとはいったい何だったのか? 人類が自分達の理解しえない抽象的な概念でしかない。単純に国境や人種のようなグルーピングともとれなくもないが、もっと抽象的なフワフワした何か…。その意味で、何かのメタファーと決めつけずにフワフワした概念で捕らえる必要がある存在に思う。考察屋泣かせな感じである。

ラストでは、人類の有名プレイヤーの力を集結させても、ミミナシの王リスナーズには対抗できなかった。それは、ミミナシと戦うというスタンスだったからだと思う。

そんな中、ミュウを欲するエコヲはたった一人でリスナーズに立ち向かい、ミュウに直接呼びかけてミュウを取り戻す。ミュウの中にエコヲがあるからこそ、ミュウを引っ張り出せた。1話で落下するエコヲをすくい上げるのがミュウだったが、12話では落下するミュウをエコヲがすくい上げるという対称的な構図。これを何者でもない、一般人のエコヲが実現る所に物語としての希望があったのだと思う。

ロック音楽へのオマージュについて

本作は、ロック音楽のメタファーに満ちていて、登場人物、メカ、台詞などの設定は、有名ロックバンドのオマージュとのこと。ただし、私自身はロック音楽に詳しくないため、その部分での面白さは、よく分からなかったし、そうした考察は他の方におまかせする。

本作で少し思うのは、キャラ毎に特徴的なフレーズがあったり、それが繰り返されたりする。台詞はロジカルなものでなく、ポエムの様にも感じる。抽象的なワードの中に生き方や何かを感じさせるものがある。直接的な表現でない事が本作を分かりにくいモノにしているのだが、ふと考えると、それはロック音楽そのもののスタイルではないのか?とも思えてくる。

また、前半の各話登場するプレイヤーごとに土地、舞台の設定、背景が異なり各々のカラー、テイストを持つ。後半に各プレーヤーが集結し協力し合いながらミミナシと戦うのは、コンピレーションであり、シリーズ全体が1枚のアルバムとも考えられる。

本作の「分かりにくさ」について

最初に書いた通り、私にとって本作は後半から非常に分かりにくい作品となり、何度か視聴し直す事になった。その原因について考えていた。

その原因の一つに、本作の作風が小説的ではなく、ポエム的なモノだったからではないか?と想像している。

謡曲の歌詞は、敢えて抽象的に描くことが多く、それは誰が聞いても自分なりに解釈し共感できるようにするテクニックでもある。しかし、小説でこれをやられると何が言いたいかわからず、フラストレーションが溜まる。初めから、詩集を読む心づもりがなければ辛い。

そして、もう一つの原因として、各プレイヤーたちの思惑が分かりにくい、という所があると思う。後半は、トニーの陰謀から始まるが、その目的があまりにも分かりにくい。自分の欲望があるわけではなく、周囲の欲望を反映する鏡と言っていたが、その気持ちが分からないために、なぜこのような行動をするのか分からない。

後半は各プレイヤーたちが人類を救うために集結し、それぞれの信念の為にリスナーズと戦う。愛の為に戦う殿下、ノームの民のロズ、国を失ったケヴィンとビリン、それぞれの気持ちに感情移入できる人が居ない。ただ、敵討ちのためにミュウを殺そうとするニルの憎しみの感情だけは理解し易かった。

視聴者は、前半のエコヲとミュウが自分を含めて知らない事を知る旅をしている事には共感は出来る。しかし、後半は気持ちを乗っけるキャラが居なかった事が、物語の盛り上がりとは裏腹に、気持ちが滑っていた原因ではないかと想像している。

総合的な感想

最後になってしまったが、本作の好きな点をいくつか。OPは、映画のトレーラーの様で非常にカッコ良くて私好みである。pomodorosaのキャラデザインは、良い意味でアクがあって良いなと感じた。

ポエム的な作風という事であれば、考察屋としては腕の見せ所、と言いたいところだが、私には前例がなく、非常にハードルの高い作品であった。ポピュラーミュージックも繰り返し聞く事で馴染んできて、枯れるほど聞くと麻痺して引っ掛からなくなる。そんな感じの作品なのかもしれない、などと妄想していた。

おわりに

コロナ禍の影響で、今期はOAが止まってしまう作品も多数あり、かつてない緊張感のある時期のクールだったと思います。作品の方は、突出してハマる作品はなく、みな平均点的な感触でした。

私は物語重視したい人なのですが、個々の作品で、1クールの物語の終わり方に様々な違いを感じました。カタルシスが欲しい気持ちと、2次創作しやすさもありますが、楽しい現状が続いているよ、という物語を閉じない方法や、地震などのイベントで強引に物語的なカタルシスに持っていく方法など。その観点だけで観ても、本当に様々なタイプの作品があったな、と思いました。

やまぶきR+orzレイアウトによる親指シフトについて

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はじめに

最初にお断りしておきますが、私は、たまたま親指シフトに興味を持ったズブの素人であり、現時点ではまだ、親指シフターでも、親指シフト信者でもありません。

私が、親指シフトを使ってみようと興味を持つキッカケになったブログ記事は下記です。

最近、ブログを書いている事もあり、テキスト入力には関心がありました。親指シフトの存在は知っていて専用ハードが必要だと思い込んでいたのですが、普通のWindowsノートPCでもソフトウェアだけで追加投資なしで対応可能という事を知り、それならば、やってみるか、と思いました。

ただ、ネットの情報をたぐってゆくと、ソフトは複数の有志の方が作られた複数のソフト・定義ファイルをセットアップするだったり、肝心の親指シフトキー配列時の素朴な疑問だったり、そうした事が初心者に不親切な気がしました。

今回、親指シフト導入にあたり、私の備忘録としてブログ記事を作成しますが、今回、体験した事、考えた事を体系だって整理し共有し、これから導入を考えている人の手助けになれば幸いです。

ハードウェアについて

私の私用PCは下記のノートPCのみです。外付けキーボードは使いません。これを前提に記載してゆきます。

なお、今回のブログ記事はPCメーカーに制限されない話だと思います。ただし、「変換」キーが出来るだけ左に寄っているキーボードでないと、右手の指がねじれて辛い、との事です。

ソフトウェア(エミュレータ)について

概要

使用するソフトウェア(エミュレータ)の概要を下記に示します。

主役は「やまぶきR」ですが、今回はアンインストールし易いインストーラーパッケージを使用しています。途中で、もしも、親指シフトの敷居が高くて諦めるという時にも悩まずに済みます。

「やまぶきR」「やまぶきR 親指シフトインストーラー(ローマ字用)」「orzレイアウト」はそれぞれ別々の制作者です。色々大人の事情があるのかと思いますが、私個人としては、All-In-Oneのパッケージが最初からあれば便利なのに…、と思ってしまいます。

入手(ダウンロード)

ソフトウェアの入手元と入手ファイルを下記に示します。

インストール

インストールの方法を下記に示します。

  • やまぶきR 親指シフトインストーラー(ローマ字用)
    • YamabukiR_ThumbShift1.62.exe を実行
      • インストール画面は全てデフォルトでOK
      • デフォルトのインストール先は下記
        • C:\Prog\YamabukiR
  • orzレイアウト
    • orz_yamabuki_22.zip を適当なフォルダで解凍
    • アーカイブされていたファイルを全て下記にコピー
      • C:\Prog\YamabukiR\layout

アンインストール

アンインストールの方法を下記に示します。

  • コントロールパネルから「プログラムのアンインストール」を選択
  • 「やまぶきR 親指シフトインストーラー」を選択
  • 指示に従い最後まで実行
  • エクスプローラーで、C:\Prog\YamabukiR フォルダ削除
    • (補足:C:\Prog\YamabukiR\layout にorzレイアウトのファイルが残っているため)

設定

設定のポイントは2点。1つは、配列定義ファイルに、orzレイアウトを指定する事。もう1つは、一時停止用のショートカットキーを設定する事。

  • タスクトレイ

    • タスクバー上の「やまぶきR」アイコンを右クリック
    • 右ボタンメニューの「設定」を選択し設定ダイアログを表示
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  • やまぶきR 設定ダイアログ

    • 「配列」タブ
      • orzレイアウトを選択する場合、「配列定義ファイル」に、下記を設定
        • C:\Prog\YamabukiR\layout\orz0022.yab
      • 通常の親指シフトに戻す場合、「配列定義ファイル」に、下記を設定
      • 「適用」ボタンを押す
      • f:id:itoutsukushi:20200628165147p:plain
    • 親指シフト」タブ
      • 特に変更しない
      • f:id:itoutsukushi:20200628214612p:plain
    • 「拡張親指シフト」タブ
      • 特に変更しない
      • f:id:itoutsukushi:20200628165211p:plain
    • 「文字キー同時打鍵シフト」タブ
      • 特に変更しない
      • f:id:itoutsukushi:20200628165225p:plain
    • 「動作モード」タブ
      • 「一時停止用のショートカットキー」に「右Shift」を設定
        • (補足:インストール直後は「Pause」になっていましたが、対象ノートPCに該当キーが無いので)
      • 「適用」ボタンを押す
      • f:id:itoutsukushi:20200628165239p:plain

使い方

インストール、設定後は、デフォルトで日本語入力がorzレイアウトの親指シフトに設定されています。日本語入力モードにすれば、既に親指シフトモードとなります。

逆に、通常のローマ字入力に戻すために親指シフトを解除するには、やまぶきRを一時停止させる必要があります。方法は下記の2種類です。初心者は得に重要な機能です。

  • タスクトレイの「やまぶきR」を右クリックし、「一時停止」を選択
  • 右Shiftキーを押す(設定で一時停止用キーに割り当てたキー)

キー配列について

一番不親切なのは、キーボード配列についての説明と、親指シフトにしたときに、従来ユーザが何に戸惑うか?についての説明が圧倒的に不足している点だと思います。

本章では、具体的なキーボード配列と、個々の文字入力の方法について、できるだけ具体的に記載したいと思います。

キーボード配列(DELL Latitude 7380)

まずは、ノートPCのキーボード配列を下記に示します。

DELLのノートPCのキーボード配列は個人的に気に入っています。スペースキーが短いですが、ホームポジションの「F」「J」に指を置いた時に、スペースキーが中央に配置されています。なので、右親指と左親指で、スペースキーの打鍵間が同じであり、その点を気持ち良いと感じています。

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親指シフト配列(NICOLA.yab

親指シフトでキー変換される文字を下記に示します。

図を見ると、スペースキーや、変換キーはどうやって使うの?と思われるかもしれませんが、英数字キーと同時押しではなく、単発で押せばそれぞれのキーで動きます。(同時押ししている時のみ、親指シフトキーとなります)

英数字キー以外のキーは今まで通りに使えます。

  • 親指シフトキー
    • 親指シフトキー(スペースキー)
      • 左手で入力するキーを親指シフトするときに同時打鍵します。(順シフト)
      • 基本的に右手で入力するキーを濁点にする際に同時打鍵します。(逆シフト)
    • 親指シフトキー(変換キー)
      • 右手で入力するキーを親指シフトするときに同時打鍵します。(順シフト)
      • 基本的に左手で入力するキーを濁点にする際に同時打鍵します。(逆シフト)
  • 各種シフト字のキー
    • シフト無しで入力した時の文字は、キーの左下に記載しています。
    • 順シフトで入力した時の文字は、キーの左上に記載しています。
    • 逆シフトで入力した時の文字は、キーの右下に記載しています。

※:「順シフト」「逆シフト」は便宜上、私が定義した非公式な用語です。
※:半濁点の文字は、濁点を持たない他の文字の逆シフトに割り当てられています。

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親指シフト配列(orz0022.yab

orzレイアウトの親指シフトでキー変換される文字を下記に示します。

通常の親指シフト配列に対して、右指のホームポジションを1列ずらします。それにより、右手の指の捻じれを軽減するのが目的です。ずらし以外にも一部のキーに変更があります。

ちょっと、びっくりするのが、日本語入力だけでなく、半角英数字の文字も1列ずらしされます。1列ずらしによってはみ出てしまう「\」「[」「]」「\」は、ラッパラウンドして「6」「Y」「H」「N」に配置されます。これは、右人差し指のホームポジションが「K」キーに移っているためです。

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練習方法について

T.B.D.

参考情報

終わりに

親指シフト自体については、本当にまだ初心者で、このブログもローマ字入力でテキスト入力しています。

ただ、同じように親指シフトに興味を持った方の敷居が下がる方向でこのブログ記事が役立ってくれれば幸いです。

半年後、1年後、親指シフトについてどっぷりつかっていれば、上達報告や練習方法について、追記するかも知れませんし、諦めてしまっていれば、このブログは更新されないまま放置されることと思います。

それから、親指シフトは、ポメラ(DM200)でも可能という事で、ポメラ自体の関心も再び上昇してきています。できれば、ポメラ親指シフトキーボート配列についても、同様のレイアウト図を作成したいところですが、そちらも縁があれば…、という感じです。

OBSOLETE シーズン1(EP1-EP6)

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はじめに

リアルロボアニメの進化系、「OBSOLETE」が非常に硬派でカッコいい。しかし、本作について語るブログは極めて少ない。

本作には、萌えも癒しも一切ない。あるのは人型兵器の設定の巧さ、戦闘シーンのカッコ良さ、ハードボイルドな渋い男の生き様、理不尽な戦争の後味の悪さ、である。

そうした事を熱く語りたい気持ちで、長文の感想・考察を書いた。

現在、シーズン1(EP1-EP6)が無料視聴可能なので、ロボアニメ好きには是非観ていただきたい。

作品概要

2019年12月、OBSOLETEシーズン1(EP1~EP6)がYouTube Originals(YouTubeオリジナル作品)として公開され、現在無料視聴可能である。

再生時間はEP1のみ13分07秒、EP2-EP6は12分27秒、合計再生時間は約1時間15分。

超ザックリで紹介すると、2.5mの人型兵器の戦闘を見せるミリタリー物のフル3DCGアニメ作品である。この一言で少しでも興味が持てる未視聴の方は、是非ともEP1だけでも観ていただきたい。

なお、本作の公式HPには、映像だけでは分かりにくい世界観や設定について詳細な記載があり、本ブログを書く上でもかなり参考にしている。興味ある方はこちらも参照していただきたい。

考察・感想

設定・テーマ

人型兵器を正当化するために考えられた、設定と世界観

おそらく本作は、『人間が搭乗するミニマルな二足歩行ロボどうしでのリアルな戦闘を描きたい』のではないかと思う。そのための一つの大きなフィクションがエグゾフレームである。

エグゾフレームは全高約2.5m、重量約270kgの人型メカである。異星人の未知の技術の産物であり、動力源不明、燃料不要、操縦者の意志に応じて人間並みの機敏さと、ユンボ並みの馬鹿力を持つ。そして、規格化された工業製品のように同じスペックのものが安価で大量に供給される。

このエグゾフレームを骨格として搭乗空間を鉄板で囲い武装すれば、敵味方も対等な人型兵器どうしの戦闘を描くシチュエーションが作れる。

エグゾフレームという力は、大人も子供も先進国も後進国もみな平等に与えられる。安価なエグゾフレームと安価なゲリラの人命を大量に投入して、400万ドルの戦車に勝つ。高価な兵器を安価な対抗兵器が無効化するのは歴史の必然である。しかも、エグゾフレームはそれだけに留まらず、熟練度により特殊な任務もこなせる無限のパフォーマンスを秘めている。

エグゾフレームという低コストで高性能な規格品が市場に大量に出回ったとして、単純に世界の勢力図がひっくり返るか?というと、おそらくそうではない。経済豊かな先進国も大量に商品を買いあさり、それを資本に金儲けするのが市場経済であり、いつでもお金持ちが勝ち続けやすいのが資本主義の世の常である。

しかし、本作の世界はそうならない設定がなされている。それが、もう一つのフィクションであるザンクトガレン協定である。

先進国は重機、自動車などの自国の産業を脅かすエグゾフレームに対し、異星人の洗脳装置などと不安をあおり、エグゾフレームを管理、規制、制限した。ザンクトガレン協定の調印を保留したアフリカ連合国や、協定を脱退したインドでエグゾフレームを兵器として活用し始めるが、先進国はエグゾフレームを兵器転用できず相対的に軍事力が低下し、後進国とのパワーバランスの崩れを見せ始める。

言ってみれば、ゲリラと大国軍が平等に戦闘出来るように、大国側にハンデキャップが与えられた形である。

エグゾフレーム革命という世界の変革を生きる男たちのドラマ

エグゾフレームは革命であり、世界に変革をもたらし、パラダイムシフトを起こす。昨日までの価値が通用せず新しい価値で経済も政治も対応しなければ、あっという間に転落してしまう。

勿論、変革を頑なに拒否し既得権益を守ろうとする者もいる。その象徴がザンクトガレン協定である。しかし現実は、協定に賛同しない後進国によるエグゾフレーム活用により、軍事力の面で優位に立っていた先進国に脅威を与える存在になりつつある。

この文脈の中で、後進国を支援するアウトキャストと呼ばれる傭兵部隊が存在する。その主要人物と思われるのがザーヒルである。

ザーヒルは、異星人とのファーストコンタクトからわずか7年でエグゾフレームの精鋭部隊を育て上げている。兵士は、ゲリラ側でエグゾフレームの捨て駒の乗り手として拾われてきた子供たちを、戦士として鍛え、尊厳を与え、忠誠を誓わせて叩き上げた。それは、誰かがザーヒルに教えた生き方であり、ザーヒルの教え子たちも同様に戦士を集めるネズミ講の構図となる。ザーヒルは戦う目的を明確に「世界の理不尽に屈しない」と説いている。EP1で描かれたように、アウトキャストはかなりの数の武装エグゾフレームと練度の高い兵士を持つに至り、先進国側の脅威として描かれる。

そして、アウトキャストなどの武装エグゾフレームの脅威に対抗すべく、米国海兵隊に極秘裏に作られたエグゾフレーム部隊が存在する。ただし、ザンクトガレン協定の建前上、この部隊の存在が公表されることはない。小隊名はレイブン(Raven:カラス)。リーダーはボウマン大尉である。

ボウマンはEP2でアフリカで米国海兵隊が初めてエグゾフレームのゲリラに襲われ壊滅した際の生き残りである。当初、現地住民がトラクター代わりにエグゾフレームを使う事を懐疑的に見ていたが、この事件で洗礼を受けエグゾフレームの力、時代の変革を認めざるおえなくなった。EP1でレイブンは、エクアドル・ペルー間の紛争が戦争に発展するのを阻止すべく、敵武装勢力とたった4機のエグゾフレームで誰にも知られる事なく戦う。ボウマンはこの作戦で、「世界の混沌が必然だとしても、それに抗い、自らの誇りの為に命を懸ける(意訳)」というモノローグがある。ボウマンは軍人であり、思想家ではない。ただ、世界中で起きる無慈悲な戦闘を知る者として、その様な紛争、戦争は回避したい気持ちだろう。

物語としては、このボウマンとザーヒルの対立の構図である。そして、時代は激動の変革の時であり、固定観念に流されず、新しい価値観の中で、己を信じて成すべきことをする。ハードボイルドな男たちのドラマである。

彼らは例えるなら、明治維新の侍なのかもしれない。倒幕か?佐幕か?何が正解か分からないし、正解なんてものは無いのかもしれない。今は、悔いが残らない様に、持てる力の全力を尽くして運命を切り開きたい。そこはかとなく感じる虚淵玄っぽさ。そんな印象を本作から受ける。

なお、シーズン1の時系列最後にあたるEP1は2022年だが、物語の序章にしか過ぎず、続きはシーズン2(2020年冬配信予定)までのお楽しみ、となっている。

非情な戦場描写と戦争倫理

本作が描くモノで忘れてはいけないのが、戦争の非情さ、だと思う。

決して派手なドンパチのアクションで気分をアゲてゆくだけの映像ではない。

EP5-EP6では、アフリカ内戦のゲリラは、適当に拾ってきた黒人の子供たちを、使い捨ての駒として、強制的にエグゾフレームに搭乗させていた。本人たちの意志とは無関係に戦場に連れてこられ犬死してゆく素人の子供たち。ザーヒルは、その子供たちを鍛え、戦士としての尊厳を持たせ、忠誠を誓わせる事で優秀な兵士を育て上げたが、その兵士たちがねずみ講の様に兵士を作るアウトキャストという組織。

EP4では、石油ターミナルを自爆で破壊するためにゲリラたちが海から上陸するのを丘の塹壕から狙い撃ちし、まるで「プライベート・ライアン」のノルマンディー上陸作戦のように無数に死んでゆくゲリラ兵たち。ゲリラ兵が施設爆破し守り切れなかった瞬間に、ビジネスに失敗したとして、残された民間人を見殺しにして撤退する民間軍事会社民間軍事会社のCM映像で使われている派手な戦闘映像の裏で多数殉職している傭兵たち。

本作では、血しぶきや飛び散る肉片や死体が描かれることはないが、確実にその戦闘で死傷者が出ており、しかも前述の通り、非戦闘要員や、素人同然のゲリラ達が多数犠牲になっている事を視聴者に突き付ける。おそらく、こうした狂気は昔から絶え間なく人類が続けて来た歴史なのだろう。

本作が戦争をテーマに掲げている以上、また戦争による理不尽に立ち向かう以上、こうした描写は避けて通れない。戦争は無くなった方が良いが、戦争を簡単に無くす事は出来ない。その普遍のテーゼを持ったエンターテインメント作品になっていると思う。

各話考察

EP1. OUTCAST (2022年、南米のどこか)

  • 輸送機内に格納される二足歩行兵器4機が戦場に投下され、ホバークラフトアタッチメントで河川を高速移動し、敵の二足歩行兵器と近接戦闘、銃撃戦の後、山頂からの迫撃砲攻撃を受ける。陽動の2機とは別に対迫撃砲レーザーを受け取った2機が援護を開始し、レーザーで迫撃砲弾を撃ち落とし、山頂の敵をレーザーで1機撃破するも、敵の狙撃を受け対迫撃砲レーダーを破損、そうこうしているうちに、敵部隊に撤退され逃げられるという息も付かない怒涛の展開でEP1は終わる。

EP1は、本作で一番やりたかった映像と思われる、ド派手なコンバットアクションに終始する。キャラや世界観の説明は最小限。ツカミの1話である。

敵はアウトキャストと呼ばれる後進国支援側のエグゾフレーム傭兵集団。練度も高く数も多い。全機体の右腕に描かれる2本の傷跡を持つ横顔ドクロのマーキングはザーヒルの使っていたマーク。頭頂部にドクロマークが描かれたリーダー機は、狙撃を得意としていた事からザーヒル本人が搭乗していた可能性を伺わせる。

対する、米国海兵隊の非公式のエグゾフレーム部隊(レイブン)はたった4機で敵の作戦を阻止しようとする。寡黙なリーダーのボウマン、熱血漢のミヤジマ、女性にモテそうなレブナー、陽気な新入りのフェルナンド。少人数だが、米国海兵隊の高価で強力な装備で戦いを挑む。

ちなみに、ミヤジマはEP3でインド軍に、レブナーはEP4で中東でサーベラス警備保障に、エグゾフレームでの戦闘を体験、調査するために身分を隠して潜入している。また、ボウマンは7年前にアフリカで世界で初めてゲリラがエグゾフレームを使った作戦での生き残りである。この3人は、過去に横顔ドクロマークのエグゾフレームを相手に戦った因縁がある。

おそらく、アウトキャスト側も今回の戦闘で、米軍のエグゾフレーム部隊の存在を明確に認知したと思われる。EP1は、さしずめ名刺交換といったところだろう。

ちなみに、米国海兵隊の機体はトードは、M1エイブラムスを連想させるデザインと色で米軍っぽさを演出。対する、アウトキャストの機体はエグザクトーは、頭部の野暮ったさが肝で、敵メカのデザインとしていい味を出している。素体は同じでもテイストの違いが明確に出ていて面白い。

  • 今回の登場兵器
    • C-130 (航空機)) …輸送機
    • レーザー兵器輸送用の無人コンテナ輸送ヘリは、オリジナル?

EP2. BOWMAN (2015年、アフリカ・アンゴラ共和国

  • 異星人ペドラーとの通商開始。
  • ゲリラは酸素ボンベを腰に巻き、エグゾフレームの腰に爆弾を2個抱えて、河川に潜伏して渡河中の戦車隊に接近し奇襲した。驚いて畑の中を高速で後退する4両の戦車。走って追いかけ戦車に飛び乗り戦車を爆破するエグゾフレーム。400万ドルの戦車が、安価な素体のエグゾフレームの集団に破壊される。

ペドラーとの通商開始から1年後、エグゾフレームがゲリラに兵器として始めて使われた日。戦争は経済活動というグラサン小隊長の台詞があった。支出の軍事費と収入の税金、国家間の利権の奪い合いは、巨大なコストを前提にして経済を回す、というニュアンスだった。資本を持つ者が勝ち続ける資本主義の社会である。しかし、エグゾフレームという安価な兵器が、高価な戦車を駆逐してしまう。これは、今までの国家間の軍事力のパワーバランス、ひいては資本主義の勢力図が崩れる事を意味する。

EP1の7年前、ボウマンのこの体験が、エグゾフレームという力に世界が飲み込まれ、その中で対等に戦うために、好き嫌いに関わらずエグゾフレームを使わなければならない事を悟るキッカケになったのだと思う。

EP3. MIYAJIMA REI (2016年、インド・パキスタン国境シアチェン氷河)

  • 正規軍として世界で初めてエグゾフレームを正式採用したインド軍に交換将校として短期赴任してきたミヤジマ。シアチェン氷河をエグゾフレームで越境し工作員潜入を図るパキスタン軍を発見し、エクストリームスキーで豪快に氷河を下り追跡する。パキスタン軍の3機のエグゾフレームを食い止めるも、雪崩に呑まれた最後の1機のコクピットはもぬけの殻だった。ワンチョク大尉は、ミヤジマが自衛官ではない事、事件は上層部の圧力でうやむやになった事で察し、部下に詮索はするなと告げる。

ミヤジマの怖いもの知らずというか、負けず嫌いというか、熱血漢というか、一度走り出したら止まらない性格がよく出ていた。初体験でエグゾフレームをあれほど乗りこなせるとは思えないので、米国海兵隊でも相当にエグゾフレームに乗って訓練していたものと思われる。雪山の尾根伝いの行軍でも、ワンチョクの部下がへっぴり腰だったのに、ミヤジマは度胸満点で、慣れたワンチョク並みにしっかりした足取りだった。

今回、部隊が極寒の山岳地帯という事で、エグゾフレームはインド軍もパキスタン側も軽装備だった。足裏にはスパイク的な加工をしていたが、脚部や腕部はむき出していた。寒さと銃弾から乗員を守り、通信が出来て、機銃が撃てるラインで仕上げていた。エグゾフレームが極寒の低温環境でも何の問題もなく動作するハードとしての優秀さが際立っていた。流石に宇宙空間でも使えそうな雰囲気だけある。

今回の見せ場はエグゾフレームスキー。これは機体から伝わるスキーの感覚情報をもとに脳で瞬時に判断し機体制御に高速でフィードバックし続けなければ成立しない。スポーツ選手が競技で行う事を、エグゾフレームという身体を使って行う。

余談だが、これを応用発展させれば、陸上、水泳、球技など、様々な競技をエグゾで行える可能性があり、エグゾオリンピックの開催があってもよいな、などと妄想してしまった。もし、エグゾフレームがどれも同じ規格品であるなら、個体差が無いワンメイクレースになるのではないか? 実際にはザンクトガレン協定でエグゾオリンピックが開催されることは無いと思うが。また、五輪書宮本武蔵の様に武道を極め剣豪だったり、コンパクトな動作で気功を発する中国拳法だったり、そうした事も鍛錬した精神と、エグゾフレームの身体で出来たら面白いかも、などと妄想。

EP4. LOEWNER (2017年、中東)

  • 中途の石油ターミナルをテロリストから守る仕事を請負う民間傭兵会社のサーベラス警備保障の新人として潜入するレブナー。施設を無傷で守る契約だったが、テロリストの侵入を許し施設を爆破される。ビジネスの失敗とともに契約破棄を察したサーベラスの部隊は、民間人を置き去りに撤収する。

レブナーの優しさというか、悪く言えばお人好し感が滲み出ていた。契約とマネーで動く民間企業と、民間人を守る倫理感で動く軍人の狭間で葛藤するレブナーが良い。現地民間人女性と雑談していたが、あのルックスと人当たりの良さでモテないわけはない。

サーベラス社のエグゾフレームはホバークラフトアタッチメントと対潜迫撃砲を装備。水中から迫る爆弾を抱えたテロリストのエグゾフレームを水上から駆逐する。ホバークラフトの動力が膝車輪の回転という点が面白い。また、丘の上の塹壕からは、M61バルカン砲で上陸したエグゾフレームを水際で仕留める。火力は圧倒的に強いが、たった8機で守るサーベラス社に対し、数で攻めるテロリストの戦術の恐怖。ヘリで吊るされ帰投するシーンは隊長の1号機とレブナーの8号機の2機のみだったが、前後のシーンの繋がりから考えるに、もう少し撤収できた機体多そうなのだが、隊長とレブナーがサシで会話するための演出的な話か。

EP5. SOLDIER BRAT (2016年、アフリカ・サブサハラ

EP6. JAMAL (2016年、アフリカ・サブサハラ

  • 内戦続くアフリカ。ゲリラ側のエグゾフレーム搭乗員として、子供たちがどこからか拾われ使い捨ての駒として強制的に戦わされ、素人同然の戦闘で命を落とす。その理不尽な戦いの中で司令官がザーヒルに変わり、ジャマル達は生き残るために戦士として戦闘訓練され、尊厳を与えられ、戦果を上げて生き残る。内戦終結後、ジャマル達は一民間人に戻る事よりも、アウトキャストの兵士の道を選ぶ。5年後、ジャマル達はザーヒルと同様に、自分たちのように理不尽にゲリラ側で戦わせられる子供たちを戦士として鍛える。カリスマは継承され、ねずみ講の様にアウトキャストの兵士が作られて行く。

EP5-6は、ザーヒルアウトキャスト側の兵隊作りを描く。

戦争の被害者である子供たちが、戦場に赴き、自分達の明日を掴むために戦闘するという負の連鎖。しかし、理不尽に何らかの声を上げ行動しなければ現状を変えられないという状況。歴史から戦争、紛争は絶えることなく続く。何が良くて、何が悪いのか、簡単には片付けられない戦争という深い命題を本作は抱えていると思う。

今回、ゲリラ側の子供たちが使うエグゾフレームは装甲と呼べるガードは殆どない。戦車の火力を前にして、無力に逃げ惑うしかなかった。しかし、ザーヒルが戦闘訓練をした後は、軽装である事を生かし、野猿の如く俊敏で軽快な動作でビル間をジャンプし、連携プレイで罠を仕掛けて追い込む事で、戦車やヘリを難なく仕留めるまでに成長した。エグゾフレームのポテンシャルの高さを示すエピソードだと思う。

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EP5で注目なのは、ザーヒルが遠隔操でドローンを狙撃したシーンである。エグゾフレームから降りて双眼鏡でドローンを確認し、狙撃銃を構えるポーズをし始めたときに、背後のエグゾフレームが狙撃銃を構えて、引金を引きドローンを撃ち落とす。公式HPにもハンドルも握らずサドルにも触れずに、遠隔操作が可能な事が触れられている。ただ、この一連の動作の中で不可解なのは、どうやって、エグゾフレームの狙撃銃の照準を合わせたのか?である。

  • (a) ザーヒルとエグゾフレームの位置、方角の差異を経験則で考慮して勘で撃った。
  • (b) 狙撃銃の照準情報がザーヒルに遠隔でフィードバックされて照準を合わせた。

私は、EP3のミヤジマのエクストリームスキーのシーンや、EP6の野猿移動のシーンから、エグゾフレームの感覚が機体から搭乗者へのフィードバックがされている可能性は高いと想像して、それ無しでは、曲芸、曲乗りは不可能だと思っている。しかし、狙撃銃の照準は地球の技術であり、2016年時点の技術ではゴーグルも無しで視覚情報を遠隔にフィードバックする事は不可能である。ここからは妄想だが、地球の狙撃銃の照準をエグゾフレームがなんらかの感覚情報として読み取り、その視覚情報を搭乗者の神経、脳みそにフィードバックしている可能性も考えられるのではないか?そのためには五感を越えた第六感の繋がりが必要になるのかもしれない。この辺りの、エグゾフレームの遠隔操作、フィードバックによる共感覚は、今後の謎解きのネタなのかもしれないし、妄想し過ぎなのかもしれない。

おわりに

2020年12月配信予定のシーズン2(EP7-EP12)のティザーPVが公開されている。

シーズン2では、アフリカ・アンゴラ共和国大統領のライラ・レシャップが世界の先進国と対立を仕掛ける構図と、アウトキャストのエグゾフレーム戦争の陰の暗躍がPVから予想され、いよいよ、先進国vs後進国、ボウマンvsザーヒルの戦いの物語が回り始めると思われる。

また、エグゾフレームの謎設定の解き明かしも、少なからず触れられてゆくのだろう。

シーズン1は、各EPのドラマはコンパクトにまとめられていたが、物語は意図的に薄味になっていた。材料は揃い、いよいよ物語は序章から本章に、という所で、半年後の冬が楽しみで仕方ない。

映像研には手を出すな!

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はじめに

2020年冬期アニメの中で、一番面白くて、一番精神力を使った作品が、「映像研には手を出すな!」でした。

もともと、2020年冬期アニメ総括の1作品として、感想・考察を書くつもりでしたが、あれこれ書き始めたら長文になってしまったので、単独のブログ記事に起こしました。とにもかくにも、度肝を抜かれた、というのに尽きます。

全12話中、4話毎に作品完成しクライマックスを迎える三部構成となっていますので、それぞれに感想・考察をまとめます。

感想・考察

1話~4話、一作目の「マチェットを強く握れ!」

妄想と現実が繋がるワクワクドキドキ感

人見知りだが、妄想癖著しく好奇心旺盛な小学3年生時代から始まり、途中「コナン」を見てアニメにドハマりした浅草。冒険のドキドキワクワク、なぜその構造をしているのか?そうした好奇心を描き起こし、実在しない妄想設定を緻密にスケッチブックに書き起こし続け、高校生になってますますアニメ制作への夢が高まっていた。ふとしたキッカケでアニメーター志望の水崎と出会い、設定の浅草、アニメーターの水崎、プロデューサーの金森の役割分担でアニメーション制作のための部活動「映像研」を立ち上げる。浅草のスケッチブックに水崎の絵を重ねて興奮する二人の姿が、仲間が出来た事を純粋に喜ぶ二人の姿に観ているこちらも気分が高揚する。

しかも、この高揚感を表現するのに、浅草の過去ストックのアイディア設定メモが宮崎駿の妄想ノートそのものであり、その水彩画のラフ絵自体がアニメーションとして動いて楽しい! 浅草の妄想の中に引きずり込まれる状況なので、そこで動作するメカのSEは、浅草の口SEである。本作ではこうした妄想と現実が入り混じったドラッグの様な感覚の演出がしばしば登場するが、こうした妄想の中に入り込む楽しさというのは、ちいさな子供も喜んで視聴していたという事が言語を超えた本作の強みの一つである。

余談だが、他者を浅草の妄想に引き込むくだり、ミヒャエル・エンデの「モモ」という小説の主人公モモが物語を語ると五感を駆使した迫力満点の語りとなり周囲の子供たちを物語の中に引き込む、という能力に似ていると感じた。

創作活動における理想と現実のギャップ

処女作を作るにあたり、浅草と水崎は理想と現実のギャップに直面する。あれもこれもやりたいのに、それをやる時間を確保できない。1シーンのハイカロリーなシーンに時間をかけすぎて、他のシーンに手が回らない。こうしたマネジメントに関しては金森が牧羊犬の如く二人のケツを叩き働かせる。金森が凄いのは、文句言うだけでなく、改善案を人知れず探し出して提示し、間に合わせようとするところ。手書きにこだわる水崎に、動画自動補完ツールで作業効率をアップし、浮いた時間で手書きシーンを描けばよい、という辛辣な言葉使いだがその根っこのポジティブさが光る。

映像研の3人とも作品作りを全肯定し、ゴールに向かって全力を尽くす。それは、誰の命令でもなく各自の腹の中から湧き出てくる創作意欲やビジネス魂に忠実に、ボロボロになりながらも全力で立ち向かってゆく。そして、視聴者は映像研の3人が戦っている姿に勇気をもらうのだと思う。

果たして生徒会予算審議会で上映された処女作は、観客を作品内に引きずり込み圧倒し、映像研の活動予算を獲得する事も出来たが、映像研の3人はその事に目もくれず作品の改善点を話し合う。やりたかったけどやれていない事だらけなのだ。その湧き出る創作欲こそが燃料であり、眩しさであり、観客の期待なのである。

5話~8話、二作目のロボ研制作依頼のロボアニメ

ロボ研と映像研の対比

ロボ研部員は濃い目のネタとして効いている。ロボアニメで育ったオタクは合理的機能性よりも二足歩行のロマンを優先する。効率、コストを度外視しても、それが人間が操縦して立ち上がり、敵と格闘戦を行う事を夢見ている。当初、設定的に無理がある二足歩行ロボを題材にする事自体が非リアリティと一蹴した浅草も、涙を流しながらロマンを語るロボ研小野に共感し設定を快く引き受ける、というくだりが分かり味が合って良い。結局、何かを作る事は好きの延長線上にある。

ロボ研と映像研は、ある意味凡人と天才の比較で描かれていたと思う。ロボットとアニメの違いはあれど、浅草と水崎は天才であり、創作結果を生み出し作品を発表し他者に観てもらっている実績があり、夢に向かって有限実行である。しかし、ロボ研は仲間と夢について語る事はあっても、何かを創作したりはしておらず、放課後お茶会倶楽部的な活動が中心であり、あってもロボ研で代々引き継ぐロボの張りぼて加工くらいである。私は凡人の側なのでロボ研のうだうだ感も好きである。しかし、映像研は尖ったエリート集団である事を相対的に知らしめる。

SEの百鬼目と背景の美術部発注による分業

そして、二作目では美術背景を美術部に発注し、SEの百鬼目をスタッフに参画させる。これにより、より作品作りに総工数をかけられるが、チーム内の意志疎通が重要になるため、監督としての浅草の任は重くなる。仕事を大きくするためには組織を大きくするのは常套手段。しかし、この事が三作目の伏線として効いてくる。

水崎の生き様のドラマ

このロボアニメ編の主役は水崎だったと思う。有名俳優を両親に持ち、幼少の頃からアニメーションが好きで見てきた。しかし、映像の先に見ていたモノは、物理法則だったり、人体や筋肉のメカニズムだったり、何故、そう動くのか?という問いかけの連続だった。目に見える情報を頭の中で解析し、そこを組み立て直し、原画動画として再生する。ある意味、画家が目で見て頭で咀嚼して筆で描く事と同じである。そして、浅草が設定で積み重ねている行為とも似ている。水崎の燃料もまた、そうした動きに関する興味関心と、それをアニメーションとして出力する快感である。

水崎と両親のドラマも描かれた。父親は有名俳優であり子育て放任であり水崎のアニメのめり込みを反対し俳優に育つことを希望。母親も有名俳優であり、父親よりもマシではあるが基本子育て放任。親子の接触が少ない設定である。水崎はアニメに自身の持てる力全てを注ぎ込んでおり、アニメ制作=自分の生きる意味として考えているも、父親に反対されている状況のため、映像研の活動は内緒であり、このまま何も無く続けられる状況ではなかった。

この断絶のある親子が対峙したのは、会話ではなく、ロボアニメの製作と鑑賞という作品を通してだった。映像には水崎の生き様が刻み込まれていた。祖母の残り茶を投げ捨てる仕草、間違った箸の持ち方、そして渾身のバトルアクション。それを見て我が子を感じる父親。父親は理解してしまったのである、我が子もまた、自分や周囲の人を顧みず全力で表現に突っ走ってしまう表現者の業を、そして、誰でもない自らの生き様を映像として放出している情熱を。結果、水崎は父親にアニメ制作を許されるが、言葉ではなく作品で殴り合い、理解し合う、というのが表現者同士として効いている。親子としての距離感やぎこちなさを残しつつ、親子ではなく同業者の先輩後輩のコミュニケーションではないか?とも感じなくもないが、それでもやはり子を思う親という感覚は有ったと思う。その事がこのドラマの良い余韻になっていたと思う。

9話~12話、三作目の「芝浜UFO大戦」

お金を稼ぐ事が好きな、金森の行動原理

このパートで金森の幼少期と行動原理が明かされる。金森はマネーそのものよりも、人の役に足ちお金を稼ぐ正統派な「ビジネス」が好きなのである事が幼少期の行動から伺わせる。映像研の件も、そこにお金儲けのリソースがあるから、生き急ぐようにお金儲けを実践してみる。金森の凄いところは、お金儲けがフワフワしたものではなく、即実践で、コスト納期期日を実感を持って把握し、雇用される側の士気も考慮する、経営者そのものである事。

金森と浅草の中学生時代の出会いのエピソードも、互いの利害が一致するから一緒に行動するだけ、というものであり、友だちとして仲良くしたい、などと言う感情は全く持っていなかった。ちなみに、共通の目的を持った、慣れ合いのない関係を友だちではなく「仲間」として強調するシーンが多かったが、この二人の関係が起源にある。

ここまで書くと金森が機械仕掛けの鬼経営者みたいに聞こえるかもしれないが、そんなことはなく、浅草が水路に落ちた時にいち早く飛び込んで助けて風邪を引いたり、仲間を思いやる面も見せるのがミソである。

客観的には失敗作だったと思う「芝浜UFO大戦」

三作目の「芝浜UFO大戦」は、ぶっちゃけ個人的にはエンタメ作品としては失敗作だと思う。確かに、映像的には、劇伴も付き動きもクオリティUPしている所もあり、大作感は増している。前2作と比較して尺も長く中途半端にテーマを盛り込もうとした雰囲気も伺える。しかし、何を表現しているか、普通の人には伝わらない。よく自主製作映画にありがちな、不器用な作品に仕上がっていたと思う。視聴者は、それまでの浅草の台詞で作品のテーマなどを聞いているので追いついてゆけるが、そうでなければキツイ上にラストの意味が分からない。

もともと、「芝浜UFO大戦」は芝浜商店街とのタイアップで制作し、同人即売会で販売する方針である。浅草の芝浜町散策で思い付きで設定を盛り付け、対空砲塔などの兵装を出してしまったが故に、戦争する敵味方の設定が必要になり、水崎のツテで劇伴を頼んだ音楽を聞いてラストのダンスによる大団円のイメージが浮かび、時計塔の鐘の音で水車の鐘や、人間とカッパの対立による抗争を思いつく。そして、浅草と教頭の間の議論にならない話合いと、教頭の花壇の花を愛でる姿を見て、人間もカッパも元は同じ種族なのに立場や環境が違い争いが起こる、というネタを思いつく。そしてラストは互いの立場を理解し和解し合い大団円のダンスを踊る、という構想が出来た。

しかし、ラスト大団円の劇伴がふたを開けてみると宇宙的な重苦しいイメージの曲である事が最終工程で発覚し、その曲は2週間も誰もチェックされずに放置されていて、差し替える曲もない。これは作品作りの分業化における落とし穴でもあった。このままでは、作品として成立せずに同人即売会での販売もできない、という絶体絶命。この責任を全て監督である浅草が持ち、短時間に最善策を判断せねばならない、という特大のプレッシャー。

もともと、11話ラストのラッシュのシーンで浅草は、この作品のラストの大団円に違和感を覚えていた事もあり、「芝浜UFO大戦」のテーマを大幅に変更する事に。ただし、映像の追加は最低限に留め、シーンの順番を入れ替える事で作品を成立させる、というトリッキーな手法。結果的に、大団円は取りやめ、争いは継続。ラストシーンは、平和を呼びかけ、味方から敵を守った人間AとカッパBは、敵に投降するという所で幕が引かれる。

それでも、映像研の劇中作としては意義のある「芝浜UFO大戦」

正直、12話はモヤモヤした雰囲気で見届けた視聴者も少なからずSNSで観測された。前述の通り、「芝浜UFO大戦」はそれ単体で観たらエンタメ作品として失敗作だと思う。しかし、これが映像研の浅草たちの作品である事が強いメッセージを持つ、と思う。「芝浜UFO大戦」は、浅草が選んだ創作活動そのものであり、浅草の生き様そのもの、と思えるからである。

みな仲良くという日和見な平和主義では、創作活動、とりわけ総責任者である監督は務まらない。その全てが予定調和だったり設計図通りだった事はなく、目の前に迫る事案を自分自身で対処しなければならない重圧。そして、その中で逃げ出さず作品を作る覚悟。集団創作活動において、理性を持って最善を尽くし続ける戦いなのだという、浅草の気持ちを「芝浜UFO大戦」は代弁している。単身で味方から敵を守り投降した人間とカッパは、浅草自身の投影だろう。

例外的で類を見ないシリーズ構成

さて、本作「映像研には手を出すな!」は、浅草の作風の通り粘土細工の様な行き当たりばったりの作品だったのか?というとそうは思わない。本作は非常に綿密なシリーズ構成を持って作られた作品だと思う。

1クールのラストは、まだやりたい事が山ほどある、俺たちの戦いは続く、というのは決まっていたと思う。しかし、途中段階では大団円ラスト構想がフェイント的に差し込まれる。これは浅草の本来の人柄の良さであり、日和見的なニュアンスであり、私は物語が何かを救う事を無意識に期待しているので、ラストは大団円はアリだよな、と呑気に構えていた。このフェイントが効いて、浅草の監督としての成長を強烈に印象付ける事になる。まさか、こんな展開になるとは…、と12話を観たときのショックは相当大きかった。度肝を抜かれた、と言っても過言ではない衝撃であり、完敗の気分だった。浅草自身と「芝浜UFO大戦」のオーバーシンクロも綿密な設計の結果だろう。

作品を観る時に安易に先が読める作品よりも、こう来たかー!という驚きを持って観た作品だった。だが、それくらいのじゃじゃ馬の方が観ていて楽しい。

おわりに

本作は、物語を楽しむ作品ではなく、迫力あるドラマを味わう作品なのだと思う。物語好きの私には例外的な作品でありながら、はやり強く惹かれるのは、浅草、水崎、金森の戦う姿に勇気を貰っているからだと思う。アニメーションの根源的な楽しさ、創作で諦めず戦い続ける姿からもらう勇気、それを味わえる唯一無二の作品だったと思う。

本作の楽しさが一体何だったのか?言語化するのに手間取ってしまいましたが、直感で分かっている人には、当たり前で分かっている事ばかり書いているのかもしれません。でも、この作品のこうした考察はなかなか見かけませんので、書いてすっきりしました。

2020年冬期アニメ総括

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はじめに

2020年冬期アニメ総括です。今期は、下記8作品鑑賞しました。今期は私にしては視聴本数が多く、どの作品も楽しく視聴させていただきました。

個人的には、やっぱり映像研のパンチ力が強く、観ているこちらも精神力使った感じがしますが、それゆえに、整理にもう少し時間がかかりそうだったので、後日更新させていただきます。 別ブログ記事を作成しました。(2020.5.9追記)

感想・考察

映像研には手を出すな!(2020.5.9追記)

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 原点としてのアニメーションが動く面白さ、創作の楽しさ辛さを、余すことなく表現
    • 監督の浅草、アニメーターの水崎、マネージャーの金森のアクの強いキャラクター造形
    • 薄い物語性に対し、激情の人間ドラマを熱く提示する独特のスタイル
  • cons
    • 敢えて、特に無し

感想・考察が長くなりましたので、別ブログ記事を起こしました。下記ご参照ください。

SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!

  • rating ★★★★★
  • pros
    • 演奏の楽しさ、結束、個性を、笑いと涙で熱く描く正統派の脚本
    • 上出来の楽曲(OP/ED/挿入歌)
  • cons
    • 特に無し

本作はサンリオのキャラを使ったスクエニのソシャゲ「SHOW BY ROCK!! Fes A Live」の宣伝広告作品である。また、制作会社は異なるが、前作「SHOW BY ROCK!!」の世界観を引き継ぐ作品であり、次回作である「SHOW BY ROCK!!STARS!!」の制作も発表されている。

基本はバンド物だがステージ演奏時に3DCGのデフォルメキャラになる点が特徴的。どのバンドの楽曲もバンドの個性を生かしつつ完成度が高い。SHOW BY ROCKというコンテンツに対する練度が高いというか、巨大コンテンツ感というか、半端な低予算感は全く感じない。

アニメ作品としては、「ましゅまいれっしゅ」「DOKONJYO FINGERS(通称、どこ指)」「REIJINGSIGNAL(通称、レイジン)」の新規3バンドに話を絞り、バンドの楽しさ、結束を中心にドラマを描く。どこ指は、気合重視のギャグ担当、レイジンは高いプロ意識担当、ましゅまいれっしゅは、新人ならではのフレッシュさ担当、という感じでバンドの個性も全く異なり、後半は、レイジンのララリンと主人公のほわんの価値観の違いが物語の中心として扱われる。

レイジンは全てに拘りを持って自分達でやり切るベテランの売れっ子バンドであり、この世界では実力、人気ともずば抜けている。そのバンドと競う事になっても、ほわんは勝ち負けの概念を持たずに、自分達が楽しく演奏する事を第一とし、レイジンのララリンを怒らせる。しかし、最終回ではララリンも、ほわんの楽しさを貫く姿勢をロックとして認める、という流れ。

ゲームと言う勝ち負けを競うソシャゲ世界の作品なのに、アニメ内では主人公が勝ち負けを度外視し、伸び伸びとした性格を重視する点が面白い。その意味で、根性を持って技巧に走るレイジンや、根性を持ってギャグに走るどこ指の存在もあり、多種多様なバンドの個性が光る。ガールズバンドが多数存在する本ゲームだからこそ、ましゅまいれっしゅの一番の個性として、楽しさ重視という設定付けがなされたのだろう。

一番好きな話はやはり、6話のほわんとマシマヒメコの打ち解け合った話である。ヒメコは過去にバンド仲間が去って一人取り残される経験がトラウマとなり、他人に対して本気でぶつかれなくなっていた。ほわんの事は気になるが、その臆病な性格が邪魔をして逃げてしまう。逆にほわんは1話の演奏で手を差し伸べてくれたヒメコの事を好きで、近づきたいのに素っ気なく対応されて戸惑いを覚える。何故向き合ってくれないの?、私の事は放っておいて!、ときてヒメコはウチの為を想って色々してくれたのに、ウチはヒメコの気持ちになってなかったと謝罪し、ヒメコが好きだからヒメコ一人ぼっちにしない!と言い切る。ヒメコのトラウマの壁が崩れほわんを受け入れる、という流れ。

平たく言えば、心の古傷のかさぶたを引っぺがして仲良くなるというドラマを、丁寧に感動的に描く脚本、演出の力量は見事。

本作は、感動ドラマだけでなく、ノリの軽いルフユのギャグや、デルミンとルフユのコンビの微笑ましさや、どこ指の馬鹿馬鹿しさ溢れるギャグなど、楽しく観れる要素が多くカラフルでバランスよくバンドを紹介する形でドラマを展開しており、肩に力が入る事なく楽しめる良作だったと思う。

ちなみに、ED曲の「きみのラプソディー」は作詞マシマヒメコとなっており本作6話に絶妙にマッチする。OP曲の「ヒロメネス」は作詞ほわんとなっていて、今は居ない心の中の尊敬する人を唄っていると思われるのだが、作中の設定とは合わずミステリアスな雰囲気。どちらも気持ちよく聴ける好きな曲である。

恋する小惑星

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 人と科学と夢、クロスオーバーする全ての繋がりと融合のハートフルな物語
    • きらら系だけど、一切手抜き無しのガチな科学考証(宇宙、地学、地理、気象)
  • cons
    • ちょっと優等生に過ぎたかも

シリーズ構成山田由香、監督平牧大輔、制作動画工房という、「わたてん」で細部まで拘りまくりファンを唸らせた座組の再来を目にして、本作視聴前の期待度はマックスだった。

本作の目玉は、ずばりガチな科学考証である。天文、地学の部活動を描き、その科学にワクワクし夢とする気持ちを大切に表現するためには、そこをなおざり出来ないという拘りである。星空は全話通して年月日時分を正確に再現し、ツアーやキラ星チャレンジで訪れる各機関の施設やスタッフは綿密なロケが行われたに違いないディティールを持って再現された。4話ロケ地のJAXA、地質標本館、地図と測量の科学館は、みらたちの夢と直結している。つまり、みら達はこれらの施設で自分の夢をより強く実感し、さらに他の部員達と共有する。取って付けた協力機関へのサービスではなく、施設も職員も物語として必要不可欠な存在として描かれる。

本作のキーワードは「繋がり」だったと思う。科学の分野を超えた繋がり。過去から未来への繋がり。人と人の繋がり。特に人と人の繋がりは部員同士、部活外の繋がり、先輩後輩の繋がり、先生と生徒の繋がり、学校外の繋がり、と多岐に渡る繋がりが描かれた。

地学部は部員数が少なく地学部と天文部が合併する形で存続したが、部員達は共に活動する事で互いの分野の知識をかじり、全く別だと思っていた分野違いの科学が少しづつオーバーラップしている事を実感していく。横の繋がりである。好奇心を持って知識を得る事は喜びである事を本作では言葉を使わずに伝えてくれるが、その好奇心は様々な分野に横断して持てる事に気が付かせてくれる。この下りはタモリ倶楽部を毎週楽しく観れる人であれば分かるのではないか、と思う。

科学や学問は、先人たちの研究成果をバトンリレーで現代に引き継がれる形で進化してきた。本作のラストで描かれるキラ星チャレンジもまた、現役の研究者から高校生たちに小惑星発見のプロセスを体験させるものであり、みら、あおの小惑星の名づけの親になる夢実現のために、遠藤先生から引き継がれたものでもある。時間を超えた縦の繋がりである。

科学も人も、横の繋がり、縦の繋がり、様々な繋がりを持っているから面白い。本作は、それを唯一無二のキャラクター同士の相関関係で表わしてくる。遠藤先生は、義務感ではなく、その人の好奇心や夢を大切にしてきた。そこを燃料にして欲しい、という願望である。12話のサブタイトルの「つながる宇宙」は、科学に対する、そんな思いをロマンチックに描いた本作にふさわしいまとめの言葉であり、本作のメインテーマだったと思う。

それから、少しキャラクターの話について。いくらでも書けそうなのだが、ここでは敢えて桜先輩に絞って書く。

桜先輩は、優しく思いやりに溢れる人柄なのだが、心の奥底で他人には理解してもらえないという諦めの気持ちを抱えていて、そのバリアのせいで他人から距離を取られてしまう、という性格であった。なので、桜先輩自身はある程度の事は自分で抱えて自分でこなして生きてきたし、そこを桜先輩の強さと感じていた周囲の人間も多かったのだと思う。しかし、桜先輩自身は他の地学部員達と違い、具体的な目標を持っていない事や、文化祭展示でボーリングなんて無理と早々に諦めたりと、少々リアル志向というか、現実主義的な面を持っていた。その意識を崩して行ったのが、周囲の人達であり、そのドラマの描き方が秀逸だった。

その功労賞としては、みらとイブ先輩だったと思う。夏休み中に成り行きでみらが桜先輩とサシでミネラルショーに行くくだり。みらは最初緊張しているが持ち前の賑やかしで桜先輩をリラックスさせてゆく。ケーキ屋で思わず桜先輩が進路で悩んでいて、将来の事を考えているかみらに訊ねてしまうが、分からないと正直に笑顔で返される。別れ際にみらからプレゼントを渡され唖然としてしまい、息抜きに付き合ってくれたお礼を言い忘れる。家に帰ってプレゼントを確認するとトパーズ(進むべき方向を気付かせてくれる石)であり、みらは桜先輩の悩みはお見通しでエールを石で贈っていた。桜先輩は与える事には慣れているが、与えられる事は少なかった。ちなみに、みらについて付け加えるなら、みらは周囲の何人にもエールを与え続ける役割を持っていた。

それから校庭でイノ先輩と二人で難航するボーリング作業中に、運動部男子を応援として連れて来た新聞部のイブ先輩のファインプレイ。桜先輩は他人に頼ったり巻き込んだりする事に不慣れであり、その殻を取り除く手助けをした。結果、あっという間に作業は終わり、文化祭でも手伝ってくれた人たちに地学部の展示を関心を持って見てもらえた。ここでもテーマの「繋がり」が関わってくる。

本作では、キャラクターの個性を肯定しつつ、周囲から手助けやエールを送られる事で何かに気付くという、ちょっとした良いドラマに満ちていた。もちろん、桜先輩自体も周囲に与え続けている。キャラクターは誰かからエールをもらい、誰かにエールを送ると言う循環が成立している。そうした、優しさの連鎖が、本作の一番の魅力だったのだと思う。

まごう事なき良作なのを認めたうえで、それでもちょっとだけネガを言うとすると、今回はちょっと上品過ぎというか、優等生過ぎたかな、とも感じてしまった。この辺りは我ながら複雑な心境。

虚構推理

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 推理で事件を解決させるのではなく、虚構で事件を収束させるという、逆転の発想の面白さ
    • 魁夷などのオカルト要素、恋愛コメディ要素、バトル要素、ミステリー要素のごった煮感の面白さ
    • ゆっくり展開ながら、1クールを有効に使い切ったシリーズ構成の上手さ
  • cons
    • 特になし

本作の文芸的な面白さを的確に言葉で表現するのは難しい。

人間はそこに謎が有れば解明を望む。納得したがる。その欲求をエンタメ作品にしたのが推理物である。推理物は基本フィクションなので、謎の答えを導き出すために、要素を配置し、最後は見事にピースがハマる快感を味わう。

本作は、その文法を用いつつ、フィクション内での事実の帳尻合わせは二の次で、登場人物、および視聴者が納得する結末をでっち上げて、最終ピースをハメる快感を味わう、という主旨の作品である。2話3話の主様のエピソードでその趣旨を明確に提示するのはストリー構成上の工夫であり、これから続く鋼人七瀬のストーリーがどこに向かうのか予め示すためである。(余談ながら、私はこれこそアニメの考察屋の楽しみ方と同じではないか?と思ってしまった)

続く、鋼人七瀬編では、都市伝説が実体化し殺人事件を起こすという荒唐無稽な事象に対し、どのようにすればこの惨事の継続を阻止できるのか?という琴子と九朗の活躍を紗季視点で共有する事になる。魁夷だの未来決定能力だのオカルトめいたフィクションの設定の中で、琴子がオカルト設定を肯定しながら、いかに無理ゲーなのかも説明しつつ、あくまでロジカルに対処方法を検討する。この時点では、紗季は最終的な敵の存在を知らないが、徐々に九朗の従妹の六花という因縁の黒幕の存在が明らかになる。

最終的には、琴子の頭脳+九朗の未来決定能力vs六花の未来決定能力の戦いの構図をとりながら、ネット上の掲示板の書き込み合戦で、大衆をより誘導できた方が勝利というゲームのルールが明確になり、掲示板の書き込み+未来決定能力の行使というビジュアルに描くという見せ方。おおよそ、マンガ、アニメ向きでは無い題材のような気もするが、一手一手の優劣が将棋の様に明確に分かる表現に、ビジュアル化も分かりやすく丁寧に行われていたと思う。

最終的には、琴子+九朗の勝利に終わるが、その最後の一手も痛快で、最後のピースをハメるのではなく、ピースのハマらないカオスを作り、大衆の下世話な妄想を暴走させるというオチに唸り、納得する。

色んな意味で例外的というかトリッキーな物語であり、見事にやられた!という感触があった。

ストーリー構成的には、本作は1クールの尺のなかで、鋼人七瀬編を中心に描き、琴子の一眼一足、九朗の不老不死と未来決定能力、虚構推理の意味、鋼人七瀬の事件の背景、六花の設定を、物語の流れのなかで整理しながら適切なタイミングで提供しており、混乱なく楽しめる構成作りが出来ていた。展開がスローすぎると言う意見もSNSで見受けたが、この選択は正解だったと思う。

芝居的には、本作は台詞劇であり、大量の琴子の説明台詞に圧倒される。ただ、琴子に限らず絵としての芝居も無駄なく決まっており、劇伴も適切なため、その辺りの演出は地味ながら丁寧。特に琴子はシリアスとコミカルを行ったり来たりするので、適当だと分かりにくくなると思うが、そのような事はなく、長台詞や芝居もスッと入ってくる。

キャラクター的には、登場人物を最小限にし、それぞれの役割を的確に描く。琴子は特に物語を進める原動力となるキャラクターだが、見た目の可愛さと、九朗の恋人を主張するも軽くあしらわれるというコミカルさのバランスが絶妙。また、キャラの行動原理もしっかりしており、琴子の秩序を守る、九朗の琴子を守る、六花の運命に抗う、という部分も説明があり明確。ただ、視聴中は六花が寺田刑事を殺してまでやりたかった行動原理が分からなかったのでモヤモヤしていたが、これは最終回で説明された。また、琴子と九朗の関係も、当初片想いで琴子だけが騒いでいるのかと思いきや、最終回ではしっかりカップルになっていた。事件進行中に全てを説明しきるのではなく、キャラの本音は最後の安堵感と共に描くという展開で、物語やドラマにある程度のケリを付けるストーリー構成だったと思う。

本作がアニメ向きではない、というSNSの意見も散見したが、個人的にはアニメで表現しにくい事象も上手くビジュアライズ化されており丁寧な仕事、かつ挑戦的な良作だと感じた。

推しが武道館に行ったら死ぬ

  • rating ★★★★☆
  • pros
    • 地下アイドルオタクに着目し全力で何かをする事の熱意をコミカルに描く
    • 地下アイドル側とオタク側の微妙な距離感の信頼関係のドラマ
    • 地下アイドルChamJamメンバ設定の上手さ
  • cons
    • 特になし

アイドルを描く作品は多く在れど、アイドルオタクを描く作品はこれまで触れてこなかったので、オタクの持つ信仰心というか純粋で力強い気持ちを新鮮に感じた。地下アイドルとアイドルオタクは、もっとアングラでドロドロした世界という噂も耳にしたが、美化されているにしても、エンタメ作品としてキチンと整理されていたと思う。

この作品の本質は、アイドルとファンの関係性とは何か?という根源に立ち返る。アイドルと言うのはお金を稼ぐための職業でありながら、同時にファンの心に灯火を灯す希望の存在でもある。その商売と信仰の両面が存在している事が、特徴的でもある。昭和時代は全国と言うマスで商売をしていたが、平成時代はローカルアイドル、握手会で直接出会える、という身近な距離感に変化するとともに、同じCDを何枚も購入し貢ぐ事で、アイドルに課金し直接応援している実感を得る、という商売に変化した。そうした際に、ただ消費されていくアイドル課金に何の意味があるのか?オタクは何を求めて課金という代償を支払うのか?そうした事が本作のテーマにあったと思う。

勿論、課金自体はソシャゲでも頻繁に話題になっており、ゲーム要素としてドラッグ的にハマってしまい、連続ガチャに大枚を果たす、というビジネス的なテクニックがあるのは百も承知で、それでも物語的な回答を用意するのが本作である。

本作に登場する特徴的なオタクは二人いて、えりぴおとくまさである。

えりぴおの行動原理は、ただ純粋に舞奈が好きで応援する。しかも、舞奈推しが他に誰も居ない状態である事が余計にえりぴおを熱くし、献身的に貢ぎ、その極端な行動をギャグとして昇華する。ただ、舞奈は自己表現が苦手て、えりぴおの応援を嬉しく思うも、その気持ちを素直に伝えられない。その、疑似的な両片想い状態が胸キュンなコメディとして冴える。途中、市電に二人が偶然乗り合わせるシーンがあるが、ステージでも客席でもなんでもない空間では、二人は話す話題もなくそのまま別れてしまうという、近くて遠い関係の切なさも描く。両片想いの件については、舞奈がえりぴおに感謝の気持ちを伝えられる様に努力するシーンが描かれ、ぎこちないながらも双方向の思いが伝わるようになってくる。物語終盤でえりぴおは、偶然二次元オタクになった友人から、相手が実在し信じあえる双方向の関係である事を指摘され、オタクの応援がアイドルの力になり、それがオタクに返ってくる幸せを実感し、武道館という目標を持って、オタクを続けて行く事を誓う。

くまさの行動原理は、最初にファンになったレオ一筋に応援し続けるスタイル。くまさには、ChamJamのリーダーのれおが前のアイドルグループで端役を努めていた時代かられおを応援し続けてきた経緯がある。れおの誕生日お祝いの際はファンイベントの幹事を務める社交性も持ち、ファンの間でも一目置かれた存在となっている。くまさとれおの間には長年培ってきた、より前に進むために頑張るという信頼関係があり、互いに与え合う関係にある。本作ではこの関係を理想として描き、えりぴおと舞奈や、他のアイドルやオタクも、これを一つの理想として目指してゆく事になる。くまさはオタク界隈の紳士であり、一つの理想として描かれる。

また、地下アイドルのChamJamは、オタクが夢中になる訳だから、視聴者からも好感度を得られなければ説得力を持たない。その意味では、7人の全てのメンバが魅力的に描かれていたと思う。人気の順番に、リーダで下積みの長いれお、ナンバー2で運動が得意な空音、お色気担当でゆめ莉想いの眞姫、表裏無く単刀直入な優佳、自信がなく眞姫想いのゆめ莉、お馬鹿担当で負けず嫌いの文、地味担当の舞奈、という感じで互いに被らない個性的なキャラクター配置である。

ChamJamのメンバ間の人間関係は4話からフィーチャーされ始めたが、当初は一致団結というより、バラバラな雰囲気に感じた。しかし、途中で一部のメンバが一緒に初詣して祈願し合ったり、せとうちアイドルフェスで人気先行するめいぷるどーるのメイに捨て台詞に対して、後列組がリーダーのれおを励まししたり、物語終盤では他のアイドルグループに負けじと、一緒に武道館を目指すという合言葉とともに、徐々に結束が固まってゆく演出だったと思う。

総じて、ドロドロした世界を想像してしまいがちな地下アイドルとオタクという素材を、その本質の部分を見事なまでに品よく、そして楽しく仕上げてくれた、安心して楽しめる作品だと感じた。例えば、1話のステージシーンは、手書き作画であり、舞奈が一番目立たない存在である事も含めて、楽曲作りから作り込まれている愛ある丁寧な作り込みだったと思う。そうしたシーンに代表されるスタッフの愛に満ちた気持ち良い作品だったと思う。

魔法少女まどか☆マギカ外伝 マギアレコード

  • rating ★★★☆☆
  • pros
  • cons
    • 分割2クール前半という前提でも、中途半端なストーリー構成

本作は、外伝であるソシャゲのアニメ化であり、何かと本編との比較で評論されるかと思うが、個人的には外伝アニメ単体での良し悪しを書ければ、と思う。ちなみに、私は本編は視聴済みで外伝ソシャゲは未履修である。

スタッフだが、まず監督が新房昭之から劇団イヌカレーに変更になった。実際、劇中の映像は劇団イヌカレー濃度が高まっている。各エピソードは2~3話で構成されていて、それぞれのエピソードにディレクターが付く形で、ディレクターの持ち味を出せるようになっており、カラフルな印象を受ける。個人的には、2話3話のレナと楓のエピソードは少女達の心の繊細さを描くドラマが好きであり、本作の美点だと思う。絵的には、より濃くなった劇団イヌカレー風味、安定のキャラ作画で、9年間の順当な進化を感じた。また、背景などにも印象的に使われる言葉遊びなどの演出も冴えていた。

外伝のアウトラインだが、本編ではキュウベイのエントロピー回収システムの中で、回し車で走るモルモットだった魔法少女だったが、ソシャゲ向けに女子大生まで年齢の幅を広げた魔法少女達を多数登場させ、魔法少女の運命に抗うという前向きなテーマも込めて、群像劇を紡ぎだす、といったところだろうか。物語としての軸は、いろはの妹うい探しと、新興宗教じみたマギウスと魔法少女たちの生き方のぶつかり合いといったところか。

キャラクターとしては、主人公いろはは強烈な個性を持たず主体性が薄く、仲間を作る必要性も感じずに単独で生きてきた。しかし、やちよたちと行動するようになり、意外と芯の強いところを垣間見せる。また、やちよは根っからの姉御肌でありながら、過去の経験から仲間が死ぬのは自分のせいだと思い込み、最近は仲間づくりを逃げてきた経緯がある。この二人の主人公の絆を確認し、これから反撃というところで、やちよは再びいろはを失う形で前半1クールが終わってしまう。13話は、ド派手なアクションシーンや、マミ、サヤカの登場があり、盛り上げりをみせて次クールに続く、と言いたいところであるが、いろはとやちよのドラマのディティールが薄く、置いてけぼりをくらった感じがした。

全ての演出や作画は、その描く物語、ドラマに心打たれてこそ意味がある、と思いたい。(例外として、物語なき映像の暴力的な作品も存在するにはするが…)その意味で、分割の1クール目の締めとしては大変物足りない、というのが私の率直な感想である。途中途中の話は小粒ながら光っていたと思っているだけに余計にである。

妹探しやマギウスの物語はこれからが本番であろうし、私自身この手の謎説き物語は嫌いじゃないので、とりあえず2クール目を静かに待つ、という感じである。

歌舞伎町シャーロック

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • シャーロック・ホームズをモチーフとした推理物を基本とし、曲者探偵たちを人情で描く奇抜なスタイル
    • 切り裂きジャック、モリアーティなどの連続推理ドラマの楽しさ
    • 基本的に、ブレなくキャラの行動原理を描けていたシリーズ構成
  • cons
    • 推理物ゆえの、視聴者の意識を誘導する演出のあざとさ

最初にネガを言ってしまうと、本作は連続推理物としての側面(特にモリアーティの件)が強く、視聴者の意識誘導するために、ある情報を強調したり、ある情報を隠蔽したりして、いくつかの可能性を視聴者に謎として提供して考えさせるスタイルである。だからキャラの行動がそのトリックの為に強調されたり省略されたりしていたと思う。それはそれで楽しいのを理解した上で、反対にそこに醒めてしまう事もある。私はキャラの繊細な心情を楽しみたい気持ちが強いのでその点をネガに感じてしまった。なお、弁護するわけでは無いが、キャラの行動原理は一貫しており矛盾や破綻が無かったと思う。

本作の基本スタイルは、1話完結の推理物であり、舞台を新宿歌舞伎町と設定し、シャーロック・ホームズをモチーフにしたのある登場人物を多数配置し、曲者探偵たちを人情で描くスタイルである。1話では、ワトソンがシャーロックを車で轢いて世話の為に同居を始めるというブラックな面と、謎解き解説を落語で喋るという洒落た面が強調されていたと思う。推理物としても、シャーロックの現場での観察力、洞察力を持って、人並み外れた推理力を発揮し、事件を解決に導く。

しかし、本作は、本格推理物というよりは、キャラの人情ドラマ寄りの物語に比重を置き、一般の視聴者にも見易い作りにしていたと思う。尺は2クールあり、1クール目は、切り裂きジャック、2クール目はモリアーティという悪役を設定して、連続ドラマとして、次の展開はどうなるのか?を楽しみに視聴していた。

原典でもモリアーティは最大の悪役で有り好敵手なのだが、シャーロックもモリアーティも頭脳明晰過ぎて、人の心が分からない、心が壊れた存在として描かれる。シャーロックは人の心を知るために推理落語を続けたが、モリアーティは人の心を破壊し続ける快楽を途中で知り、刑務所の囚人にマインドコントロールを仕掛けて連続的に事件を起こす。そして、シャーロックも自分の側に来るように誘う。モリアーティにとっては、シャーロックだけが遊び相手だった。

連続殺人犯のようなサイコパスの心の中は、一般人には良く分からない。だから、このような作品を書くときは、サイコパスの心をどのように理解させるか?は重要なポイントであると思う。本作では、モリアーティは幼少の頃から母親をお風呂で感電死させるなど、命に対して何も感じず、破壊を美しいものとして衝動的に行動する人物像として描かれた。しかも、誰もそれを止める事ができなかった。唯一、病床の双子の姉アレクが、痛みを分かる人間になってもらいたいと努力し話しかけたが、結局のところモリアーティには全く通じなかった。

區庁舎の空中庭園でシャーロックと退治した時、シャーロックの心を壊すために、モリアーティは自らの身を投げた。それにより一時はシャーロックも錯乱状態になるが、ワトソンの活躍で正気に戻る。そして、モリアーティが残した最後の謎解きのマンションを訪れ、いくつかの謎解きを解決した後、シャーロックは落語でモリアーティを救えなかった事を泣いて詫び、モリアーティの遺書とも言えるアレクのヘアピンが添えられた書置きを読む。

アレクや家族と一緒に、探偵長屋のみんなと一緒に、普通に楽しく生活する未来もあったかも。俺はシャーロックに憧れていた。さよなら、シャーロック・ホームズ。なーんてね。意訳するとこんな感じである。

モリアーティの行動は、完全に二つの心に分離していて、區庁舎から身を投げる前にこの書置きを残しており、最後はダークサイドに落ちたけど、シャーロックの謎解きのプレゼントにサニーサイドの置手紙を残していた事になる。もっと言うと、「なーんてね」が書かれている時点で、本心をはぐらかすニュアンスも持っているが、視聴者は素直にこちら側を本心と受け取り、良い話だったと結ぶ事ができるだろう。

しかしながら、モリアーティの死体は発見されておらず、まだ生きている可能性も残した作劇になっており、そうした妄想の余地も本作の余韻となる深みを持っている。こうした、色んなトリックや仕掛けを、上手い感じで洒落を効かせて驚かせ決着させるという点において、なかなか上出来の作品だったと思う。

アイカツオンパレード!

  • rating ★★★☆☆
  • pros
    • とにかく明るく元気な姫石らきのキャラクター
    • アイカツシリーズ7年のファンへの恩返し
  • cons
    • 過去作品前提の作品であること

私は、オンパレード!が初めて視聴するアイカツであり、それ以前の作品はアイカツ作品未履修であった。そして、オンパレードを見続けて、思いのほか深い作品だと感じたので、その事を書き残しておきたい。

本作の基本は、過去のアイカツシリーズ作品の学校を行き来して、新人アイドルの姫石らきが、歴代アイドルと共演して、プレミアムレアドレスを作りステージに立つ夢を叶える、というお話である。明らかに、過去のアイカツキャラというリソースを流用して歴代オールスターアイドル総出演のゲームを作ろう、という商業的な企画ネタという第一印象であった。

予備知識なしで1話を初めて見たとき、主人公らきの能天気なキャラクターに気押された。

何より度肝を抜かれたのは、先輩をちゃん付け呼びするクソ度胸と、ハッピー!ラッキー!とか、きゃは!とか、礼儀知らずで、勢い重視で、軽すぎるノリである。しかし、らきには全く悪気が無く、姉の実験が皆に迷惑をかけている事を知ると、らきが姉の代わりに皆に謝ったり、素直な良い子である事が視聴者にも浸透してくる。歴代アイドル達もらきの明るく前向きなパワーを素直に受け止め、らきにアイドルとしての在り方を少しづつ伝授してゆく。時に、らきの軽はずみな行動を叱責する歴代アイドルもいて、らきはその言葉を真摯に受け止めて謝罪し改善する。やるべき時は投げ出さず、責任を持って最後までやり遂げる。

アイカツは女児アニメなので、ある意味、そうした女児の素直で明るく生きて欲しいスタッフの願望から、らきの性格が出来たのではないかと想像している。しかし、それにしても、主人公が能天気すぎる…、というのが初見の印象だった。

そして私は、次にアイカツシリーズ7年の歴史に触れるために、これまでのアイカツ作品の経緯概要を調べた。

アイカツシリーズは、無印の4年(いちご編2年+あかり編2年)、スターズの2年、フレンズの1.5年の合計7.5年の歴史があり、一貫してアイドルになるための努力、根性、友情を描き続けている。当時から視聴している女子やオタクには、それぞれの作品の主人公やサブキャラに思い入れがあり、作品から勇気を受けてきた。だから、各話で少しづつ登場する歴代アイドル達の仕草や言動に触れる度に、それが琴線に触れ、感動がよみがえる。初見の私には何気ない平凡な台詞でも、古くからのファンはその台詞には歴史の重みが加わる。そうした事が理解出来てくると、シリーズ未履修の私でも、何気ないシーンでそのバックボーンを色々想像したり、SNSに流れてくる補完情報で頷いたり、作り手が込めた重さを感じるようになってくる。

ある意味、過去作品に依存する部分が多いので卑怯と言えば卑怯なのだが、オンパレード単体では深みが出せず、過去作品があるからこその作品と言える。しかし、それはアイカツシリーズのファンへの恩返しとも言えるだろう。

また、見続けていると、主人公のらきについても、前述の通り、嫌味が薄れてだんだん好きになってくる。これは飛躍した論理だが、毎回登場するダンスシーンのキャッチーな曲を流し込み、女児の脳みそにアイカツ魂を刷り込むという、ドラッグ的な効能があるのではないかと、冗談半分に考えている。

最終回25話では、今まで頑張ったご褒美として、いちご、あかり、ゆめ、あいね、みおと6人一緒のらきがステージで歌う。らきにもファンが出来て憧れの循環は続く。姉の実験も終わりアイドルたちもそれぞれの世界に戻る。翌朝、一瞬夢かとおもうらきだが、それぞれの記憶はそれぞれが持ち帰りそれぞれのアイカツの道を歩む。

繰り返しになるが、オンパレードはアイカツ7年の集大成であり、フィナーレであったと思う。OP曲「君のEntrance」は、 ファンがアイカツに出会った事で勇気付けられ、アイカツと別れてもこれかれの人生をずっと歩み続ける、というニュアンスを感じる。アイカツファンに対して、アイカツを終了するケジメだったのではないだろうか?

果たして、アイカツは、しばらくWeb配信コンテンツとして、音城ノエルを主人公に配信された後、2020年秋から、アイカツの新シリーズが放送開始されることが発表されている。

これは、私のフィナーレという考え方とは異なる展開のようにも思うが、従来のアイカツを大幅にアップデイトした大改変を意味するかもしれないし、従来のアイカツ精神がどう受け継がれるか?というのは不安に感じる面もある。この辺りは妄想でしかなく、確証は無い。

いずれにせよ、私はオンパレードという作品を非常に稀有で素敵な作品だと感じていて、それは歴代アイカツシリーズが、時代を追って少しづつアップデートし、ファンの間でも無印いちご編が良いだの、スターズが好きだの、ファン通しの間でも観ていた時期によって好き嫌いもあったアイカツシリーズを、分け隔てる事無く全肯定し、スタッフの愛を持って作られた作品だと感じる点である。全てをアイカツアイカツ愛で包み込む作品なのである。

これまでのアイカツは、ライバルも存在し競争もあった。しかし、らきは競争する事もなく、全てのアイドルと仲良くなってゆく。その精神は、言ってしまえば夢物語のようでもあるが、アイカツシリーズの中で唯一無二の存在として輝いているのだと思う。

おわりに

新型コロナウィルス騒動もあり、ここのところ忙しくて時間が割けなかったので、見終えてから1ヵ月以上も経過してしまいました。

振り返ってみると、まあ良作だよね、という感じの作品も大収穫でしたが、映像研のパンチ力の強さに全部持ってかれた感じはあります。なんというか、これが令和時代なのか?という衝撃がありました。

また、今後、TVアニメのOA、配信も途中で止まるコンテンツが増えて来て、このクールがある種のピークになってしまうのではないか?少なくとも、一旦、1クール当たりの作品数は減少するのは間違いないでしょうが、その後の作品数は復活するのか?質はどうなるのか?物語も変化していってしまうのではないか?など、とりとめのない事を漠然と考えています。

私は良い作品を良いと書くしか出来ないので、黙々とそれを続けるとは思いますが、それを続ける事が出来る状況が維持されることを祈っています。(ん、祈りで〆た?)