たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

かがみの孤城

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

原恵一監督の映画「かがみの孤城」についての感想・考察です。

いじめが題材ということもあり、少々重いところもありますが、しっとりとした丁寧な作風の印象的でした。ラストの怒涛の謎の解き明かしと救いのある終わり方で、SNSでの良い評判も納得の良作です。

感想・考察

職人気質あふれる気をてらわない真面目なアニメーション

本作は題材からして、小中学生やその親世代をターゲットにしているところもあり、脚本的にも演出的にも難解さを排除したシンプルなアニメーションの味付けだったと思う。

序盤の孤城の引きのシーンや、終盤の狼が暴れたり光の階段をこころが駆け上がるダイナミックなシーンもあるが、基本的には閉じた空間における日常芝居に重きを置いた作風である。

いじめで心に傷を持つ女子中学生との対話するシーンが中心なので、そこを誠実に描かなければ全てが台無しになる。だから、作画の芝居も声の芝居も誠実。フリースクールの喜多嶋先生とこころの対話の一挙手一投足に「らしさ」を込める。

また、真田によるいじめの描写も重い。アニメによる記号的解釈ではなく、本当にいじめをしている時の息苦しさとその場の空気を感じさせるものである。いじめで攻撃する側は、ターゲットの心を折って壊れてゆくさまを快楽としている。ゲームで遊ぶように。しかも安全な場所から。先生には反省してますと軽くいなすが、本心であるはずもない。

これらの芝居は実写的な生身の人間寄りのディレクションであるが、これを不足なく分かりやすく描けるのが原恵一監督の凄みであろう。

孤城の役割

孤城やそのインテリアデザインのリアリティも本作のビジュアル面の強みであろう。アンティークな荘厳で重厚感ある空間が見事に描かれる。暖炉や本棚やオーブンや円盤形オルゴールなど、かなり再現度が高い。

孤城のルール自体が、集団セラピーのそれであるという下記の考察を見て、腑に落ちた。

孤城がアンティークな空間なのは、本作のトリック上の必要性もあるのだが、この空間自体がセラピー効果を持つものだったと思う。まず、テレビやスマホなどの外部からの刺激をシャットアウトし、広々とした静かで快適な空間でゆっくりと時間を過ごす事が精神的な治癒効果をもたらす。

だからこそ、孤城という空間の描き方にこれほどまでに拘らなければならない。これらのデザインは、前作「バースデー・ワンダーランド」にも参加していたイリヤ・クブシノブとのことで、今回も良い仕事をしている。

「いじめ」というセンシティブなテーマ

主人公のこころは、真田という女生徒のグループからいじめにあっていた。両親にも言えず、当初共稼ぎの母親はこころのずる休みに対して辛く当たっていた描写がある。しかし、あるタイミングから仕事よりもこころを最優先にし、学校とも毅然とした態度で戦ってくれた。こころの話を聴き、こころに無理強いせず、こころの気持ちに向き合い、こころに決定権を与えた。

いじめられた子供に対してのケアの大切さをドキュメンタリーさながらのリアリティで描く誠実さは前述の通り。あなたの子供がいじめにあったら、こころの母親のように対応できますか、と問いかけてくるような切実さがある。

いじめの加害者の真田は、徹底して悪として描き情状酌量の余地がない。原作小説では加害者の真田にもフェアに、という気遣いがあったとの事だが、本作ではこころの心情にフォーカスしてゆく作りゆえ、この描き方は正解だったと思う。中学生女子とはいえ、いじめの怖さが伝わってくる演出と芝居であった。

なお、孤城に招かれた7人だが、この小さなコミュニティ内でもウレシノに対して嘲笑しいじめの空気ができてしまう。いじめの被害者の集まりにも関わらず、というのがいじめの怖いところである。

ちなみに、召喚された7人の中でもっとも過去の時代から来たスバルは1985年。2023年に生きていれば52,3才である。本作では、いじめは2027年の未来までも続いており、いじめは無くならないという設定である。いじめはガンのように人間と表裏一体にあるため、天然痘ウィルスのように根絶することは難しいのだろう。

問題は、その根絶できない「いじめ」をどう向き合ってゆくか、みたいなドラマがあったように思う。

心の傷を持つ者に対して、相手の言葉に耳を傾け、一緒に戦うこと。そうして救われた人もまた、同じように人を救っゆける。この循環による希望が描かれたように思う。

ラストに向かって畳みかけてくる巧みな推理小説的な脚本

キャラ 年号 備考
スバル 1985年
アキ 1992年
- 1999年 リオン姉病院で死亡
こころ/リオン 2006年
マサムネ 2013年
フウカ 2020年
ウレシノ 2027年

本作は違う時代から雪科第五中学の不登校の者を寄せ集めてきて、孤城での集団セラピーを実施したという構図になっている。

仕掛け人となるリオン姉が亡くなるまでの1999年5月~2000年3月までが軸となる時間であろう。リオン姉もまた、雪科第五中学に通えなかった生徒である。リオンは姉と一緒に雪科第五中学に通いたかったという願いがあった。変則的ではあるが、中学そのものではなく、不登校の生徒を時空を超えて集めることで、もう1つの雪科第五中学を体験することになる。

スバルもそうだが、アキの髪を染める行為やマニキュアなどの化粧は、親や社会への反発を意味する。この辺りは時代を感じさせるモノがある。また、マサムネが熱狂していたゲームが、ウレシノの時代には映画化されて大ヒットしていた経緯など、ミステリーとしての巧みさを感じさせる。各キャラが連れてこられた年号差が7年である事も小中学校を通して面識を持たないための設定であろう。

リオンは、オオカミさま(=リオン姉)に孤城での記憶を失いたくないと懇願し、オオカミさまは、善処すると回答する。おそらく、記憶を残す代償として、リオンは姉がいた記憶を失ってしまう、という流れだったと思う。しかし、各キャラの孤城の記憶は、キャラごとに程度が違うような感覚を受けた。

それは、4月にこころとリオンが再会したときにこころの表情で薄っすらとした記憶に感じたし、逆にアキが喜多嶋先生となってこころやマサムネやフウカをフリースクールでケアしてゆく流れは、鮮明にアキに孤城の記憶が残っていた事を意味すると思う。スバルがマサムネのためにゲームを作るのも明確な記憶なのだろう。もしかしたら、未来に逢う人の事は記憶しているのかもしれない。この辺りの考察は曖昧である。

キャラクター

こころ(安西こころ)

原恵一監督の前作「バースデー・ワンダーランド」でもそうだったのだが、主人公のこころの目線で物語が描かれる。つまり、中学一年生女子のこころの感性に寄り添った映画となっている。

こころは、真田からいじめのターゲットとされてしまい、心の傷と家族にも言えない息苦しさを抱えていた。フリースクールに顔を出してみたものの、翌日以降もお腹が痛くて家から出られない。外出に対して極度のストレスがかかるという症状であった。

おそらく、喜多嶋先生が熱心に母親にアプローチし、心の傷を持つ生徒に対する接し方を的確に教えてくれたのだろう。そのおかげで、母親がこころに無理強いせず、学校側とも毅然とした態度で戦ってくれた事で、こころはかなり救われた。

孤城では、リオンに赤面することもあったが、他のみんなともちょうどいい距離感での関係を築けていた。

女子3人でのティータイムで、アキとフウカに自分がいじめのターゲットになっていた事を告白し、アキがこころを抱きしめた。みんながオープンにするわけではないが、各々が心の傷を持っていることは察していた。

これは、外出できなかったこころにしてみれば、孤城での集団セラピーがかなり効果的に効いていたと言ってもよいだろう。フリースクールも同等の効果なのかもしれないが、先生の指導ではなく、生徒同士が自主的にお互いにケアしあう良い関係の下地ができていた。

こころにとって、萌の存在も大きかった。仲良くなりたかった友達。3月に直接話して、今は真田からいじめのターゲットにされ戦っていたこと。そして、こころを巻き込まないために無視したことを打ち明ける。萌の凛とした態度と芯の強さへの尊敬。しかし、3月に転校してしまうとも。中学になってはじめてできた友達との別れは残念だが、萌はこころを勇気付けた。

オオカミに喰われたアキたちを助けるために、鍵を探し願いを叶えるという行動に出たこころ。おそらく、はじめて他人を助けるための勇気の行動である。願いの部屋で見る6人の心の傷。その痛みを共有し、みんなの力でアキを繋ぎとめた。この7人なら助け合えるかも、が実現した形である。

喜多嶋先生と母親の働きもあって、いじめグループと一緒のクラスにならないような配慮がされたこともあり、雪科第五中学への登校を選択したこころ。2年生になってリオンとの再会というサプライズなのだが、当人の記憶が残っていたのかは個人的にはよくわからなかった。しかしながら、好意的な仲間と一緒であるという明るい余韻を残して本作は〆る。

一度は完全に心を閉ざしてしまったこころ。喜多嶋先生の誠実な対応とたゆまぬ努力、母親が味方になってくれたこと、孤城の友達との心のリハビリ、萌という共感し尊敬できる親友。こうした幾重ものヘルプと自尊心の回復があり、やっと登校できるまでに復帰できた。そして、自らも手を伸ばす側に立てるという事も。

そうした弱者への救いがこの物語には有ったと思うし、本作の鑑賞後の心地よい余韻になっていたと思う。

アキ(井上晶子)/喜多嶋先生

アキが最後に直面した問題は、義父によるレイプ未遂。母親は不在がち、面倒を見てくれていた祖母の死別と不幸な条件が重なった。彼氏も遠ざかった。恐怖から家に帰れず、17時を過ぎても孤城に居残ってしまい、オオカミに喰われた。

孤城に残るということは、現実の世界を捨てることであり、自殺と同義であろう。それを引き留めたのがこころであり、こころはアキの命の恩人である。

こころがいじめのターゲットになり孤独に戦っていたことは、女子3人のティータイムの告白で知っていた。このときアキは、こころを抱きしめている。

だから、アキは現実世界に戻ったとき、未来に出会うこころを救うために、いじめ被害者へのケアについて知識を身に着けて準備した。14年後に喜多嶋先生として、こころを救うために。

知っていたからこそ、根気強くこころの母親を説得してケアの仕方を教えて、学校側とも一緒に戦った。喜多嶋先生の静かだけど誠実なまなざし。全てはこころへの恩返しだったと言える。この時空を超えた救済の循環の物語が良かった。

オオカミさま/リオン姉

病床のリオン姉がリオンのために叶えた願いは、姉と一緒に雪科第五中学に通うというものであり、それを具現化したのがかがみの孤城であったと思う。

孤城でのルール設定は、その願いとは直結していないかもしれないが、これは物語のための設定なのかな、と個人的には割り切っている。鍵探しのヒントになる絵が、萌の家に飾られていた事の因果関係も不明だが、原作小説にはもう少し細かな補足があるのかもしれない。

孤城ではオオカミさまとして、ゲームの進行役となった。なぜ、もっと直接、素顔でリオンと接しなかったのか、そのあたりの心情や設定もまた不明である。

ただ、いつでも孤城にオオカミさまとして現れたことから、ずっと孤城の様子は監視出来ていて、リオンの事もずっと見続けていたのだろう。弟の成長と友達との交流。

リオンは最後にオオカミさま=姉であることを理解し、願いを使ってしまったけどみんなとの記憶は無くさないで欲しいと懇願する。姉からの返事は、善処する、である。明確には書かれていないが、おそらくリオンは記憶を有したまま、現実世界で雪科第五中学に転入してきたものと思われるが、その代償として姉の記憶を失うという切ないオチがついた。

参考

備忘録として、いくつかの原恵一監督のインタビュー記事のリンクを下記に列挙しておく。

おわりに

今回のブログは、いろいろとタイミングもあり難産で時間がかかりました。

原恵一監督の作品の丁寧さと誠実さは、前作「バースデー・ワンダーランド」で理解していましたが、今回は物語然とした脚本の良さもあり、映画のお手本とも言える出来栄えだったと思います。

とにもかくにも、主人公こころの心に寄り添うのが上手い。切なくも救いのあるラストで、鑑賞後もじわじわと暖かさが染みる感じの作品だと思いました。

2022年秋期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2022年秋期のアニメ感想総括です。今期観た作品は、下記5本。

  • ぼっち・ざ・ろっく!
  • Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-
  • アキバ冥途戦争
  • うる星やつら
  • SPI×FAMILY(2クール目)

後追いで観たので、下記を追加

感想・考察

ぼっち・ざ・ろっく!

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 緩い、可愛い、カッコいい、心にしみる、熱い、なんでも有りの幕の内弁当感
    • 実験的、かつ多彩な表現力で楽しませてくれたギャグパート
    • 精密なだけでなく、その上にドラマも乗せてくる圧巻の演奏パート
    • 全体を通して美しさを感じるストーリー構成
  • cons
    • 特になし

本作を一言で表現するなら、きらら×バンド×陰キャコミュ障。コミュ障のぼっちが得意のギターを片手にバンド活動を通して少しづつバンド仲間たちと不器用ながらもコミュニケーションしてゆく、という感じの4コママンガ原作のアニメ。大半はコミュ障がらみのギャグだが、ガチなバンド演奏シーンや、しんみりする良いシーンもあり、色々と見どころが多い作風である。

制作はCloveWorks。プロデューサーは梅原翔太。監督は斎藤圭一郎。キャラクターデザイン・作画総監督はけろりら。シリーズ構成・全話脚本は吉田恵里香

本作の最大の特徴は、ぼっちのコミュ障ゆえの奇行をギャグとして昇華しているところだろう。

ぼっちは陰キャで友達が一人も居ない。ネットではギターヒーローとしての側面もあるが、リアルでその事を知る者は居ない。友達が欲しい、でも小心者で人前では何も言えなくなり、結局流されてしまうという悪循環。そんなぼっちのテンパっている姿やフリーズしている姿がギャグとして拾われてゆく。時には福笑いのように顔面が崩れてしまったり、ときには実写の風船が割れるシーンやダム放流シーンを挿入したり、劇画調のツチノコになったり、着ぐるみの承認欲求モンスターになったり。ゾートロープ(ストップモーションアニメーション)という手間がかかる実写撮影方法はコスパで考えれば割が合わないとさえ思える技法も取り込む。これらの特殊な表現は、ぼっちの内面のパニック状態やストレスがかかり過ぎてフリーズ寸前の非ノーマル状態に応用される。これらの表現は演出的な意図でもあるのだが、その表現の徹底的な多彩ぶりが可笑しいところまで昇華している。

ここで1つポイントなのは、ぼっちを否定するニュアンスを乗せない点だろう。結束バンドやSTARRYの面々もぼっちの奇行にツッコミは入れるが、その事でぼっちを馬鹿にしたり、拒絶したりはしない。その辺りは今風の配慮かと思う。

そして、ぼっちは孤独な現状が良いとは決して思っておらず、バンドで有名になるという夢と同時にバンド仲間を大切に思っている気持ちに気付いてゆく。より繋がりたいし、バンドを続けたいし、結束バンドとして有名になりたい。変わりたいという気持ちがあるから、生じるギャグにさえ若干の切なさも帯びてくる。

本作の2つ目の特徴は、ライブシーン映像の精密さにある。

実際に楽器を演奏してモーションキャプチャーで作っているようだが、演者(=奏者)からキャラの芝居(=動き)を意識しているため、運指からちょっとした仕草に至るまで違和感がない。ここまでは当然と言えば当然なのであるが、本作はその上で演奏内にドラマ要素を盛り込んできている点が凄い。

8話の初ライブシーンでは1曲目の演奏が緊張のためズタボロだったところ、ぼっちが奮起していきなりギターソロを演奏しはじめて空気を切り替えて、2曲目の演奏に突入し観客にもウケたという流れ。これは演奏を聴いても(=見ても)1曲目はダメで2曲目でハマっているというのが分かるという表現力の凄み。

また、12話の文化祭ライブシーンでは、ぼっちの機材トラブルを察して、郁代のギターで間奏を誤魔化し、ぼっちが対応できると踏んだ時点で間奏をもう一周分リズム隊の虹夏とリョウが伸ばして、そこにぼっちのボトルネック奏法が入るという超胸阿熱連携プレイを演奏シーンにドラマとして乗せるのである。

こうしたドラマさえも演奏の映像のみで理解させるというストイックさである。

そして楽曲はプロが結束バンドならこうだろうという曲作りゆえに、高校生らしからぬプロ並みの完成度である。もちろん、昨今のアニソン(挿入歌)の文法にならって歌詞は作品世界とリンクしている。ここまで来れば、神曲なのは当然とも言える。この辺りは、ANIPLEXの作品作りへの執念というか本気度が分かる。

本作の3つ目の特徴として、絶妙なシリーズ構成についても触れておきたい。

前述のとおり、ぼっちは一人ぼっちな孤独な存在ではあるが、他者を求める(=友達を欲する)内面がはっきり描かれており、物語上の問題点とゴールはこの点を注目する事になる。

本作は、この他者を求める気持ちに対して、時間をかけてゆっくりとぼっちの心を開いてゆく過程を描くことになるのだが、その1クールのシリーズ構成の各話の刻み方とゴールの設定が絶妙である。

本作は、前述の通りギャグシーンが多い。それは、8話までで原作マンガ1巻分というペース配分にも大きく起因しているのだが、本編の進みの遅さに対してギャグシーンの尺を伸ばして隙間を埋めるディレクションになっていたと思う。その事もあって、ドラマ部分は各話極薄となるが、それを各話終わり頃にちょっとイイ感じで挿入してくる。

ざっくりした流れで言えば、1話で虹夏がぼっちを無理やり結束バンドの助っ人奏者として引き入れたという形だろう。ギター演奏はボロボロでも敢えて引き留めたのは、虹夏が夢を焦っていた事、ぼっちが流されやすい性格である事を理解してのことだろう。その後、ライブハウスのバイト、ボーカル勧誘、郁代のギター先生、作詞、チケットノルマとぼっちにとっては不慣れなイベントが続くが、この経験を通してぼっちの中での結束バンドの関りは特別なものになってゆく。バンドを続けて4人で有名になりたい、そう願うほどに。

オーディション演奏も初ライブ演奏も、その気持ちを演奏に乗せて結束バンドのピンチを救い、虹夏からも感謝され、郁代からも羨望のまなざしを受けた。12話の文化祭ライブ演奏では逆に郁代、虹夏、リョウのナイスアシストにより、ぼっちがピンチで諦めずに人前で演奏を繋ぐという、ぼっちの成功体験が描かれる。これは、8話と12話のヘルプの逆転になっている。

その後、新しいギターを購入し、一歩踏み出した事によるぼっちにとっての新しい世界の予感が描かれたところで〆る。最後のED曲はアジカンの「転がる岩、君に朝が降る」というのは上出来である。

本作は、ずっとこのラストに向かってゆっくりとシリーズ構成が組まれてきたものであり、やはり12話の脚本は至高だと思う。

シリーズ構成と全話脚本は吉田恵里香だが、実写ドラマで向田邦子賞も受賞しているとのこと。アニメの脚本もやられているようだが失礼ながら存じ上げていなかった。今後の活躍も楽しみな脚本家が増えて嬉しいばかりである。

Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 萌えあざとくないのに可愛い、強度の強いキャラクター
    • 敢えて、電動工具を扱う緊張感を描いた誠意ある作風
  • cons
    • キャラ強度が高すぎて物語が多少弱く感じたこと
    • せるふのキャラ造形に全ての皺寄せが来ていたように感じたこと

ズバリ、女子高生×DIYという組み合わせの本作だが、個人的にはキャラデザが萌え絵ではない点が新しいと感じた。DIYという事で、舞台となる新潟県三条市と工具のメーカーの高儀が協賛しているため、工具の描き方はガチである。

制作はPINE JAM、監督は「かげきしょうじょ!!」の米田和弘、シリーズ構成・全話脚本は筆保一幸という座組。

本作の特徴は、なんと言ってもキャラクターデザインと作画にあると言っても過言ではないだろう。ひと頃は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」に代表される複雑で線の多いキャラデザインが目立っていたように思うが、本作のキャラクターデザインは真逆で線や色が少ない。それゆえ、簡素で作画コストはかからないとは思うのだが、逆に線も色も少ないため、緊張感を持った線で表現しなければチープになってしまう難しさがあると思う。その点、本作はシリーズを通してもう作画に安っぽさは感じず、動きも軽快で心地よいものだったと思う。線が少ないとは書いたが、もう一つの主役である工具やスニーカーなどの靴は細かく描き込まれていて、メリハリをつけている。

テーマについては、DIYという生き方を扱っている。既製品の押し付けではなく、自分の欲しいものを自分で作ったり手に入れたりする。そして、DIY部に集まってきた部員たちは、その集まり、場所自体も心地よいものに改造してゆく。ときには、費用不足や部材破棄などのトラブルもあるが、DIYで作った小物を売ってこづかいを稼ぎ、周囲の協力も得ながら乗り越えてゆく。という感じの流れである。

DIY自体は、スキー板ベンチやDIY部の表札にはじまり、売り物の貝殻アクセサリーやタブレットスタンドを経て、最終的にツリーハウス作りに挑む。ツリーハウスはともかく、女子高生にも工作できるレベルのDIYが描かれるが、DIY監修もあってのリアリティだろう。ツリーハウスという高めの目標を設定してからは、さまざまな試練に遭遇しつつ、くじけそうになっても諦めず誰一人欠ける事なく全員でやりきって目標達成する喜びを描いた。遠い道のりに見えても、諦めずに望みを形にしてゆけば必ず手に入るという肯定の物語である。

文芸面は、ごちうさシリーズも手がける筆保一幸という事もあり、女子の関係性の描き方は見事。無神経なせるふに振り回され拗ねていたぷりん。ジョブ子に共存する明晰な頭脳と幼児性。自分らしさを求めてアウェイで居場所を勝ち取り続けなければならなかった、しー。引っ込み思案なたくみん。面倒見がよく、見た目と裏腹に少女趣味な部長のくれい。物語に負けない強みのあるキャラ作りで、逆に言えばキャラが物語に食われる事無く、自由にキャラを泳がせていたような良い印象を持った。

と、ここまではよくある女子高生部活モノであるが、本作が尖っているのは、なんといっても主人公せるふのキャラ付けだろう。せるふはAHDHと思われる性質を持っており、集中力が低く複数の仕事を並行にこなせない。また、不器用で工具を上手く扱えない。キャラデザインとしていつも半分シャツがスカートから出てる。事あるごとに妄想の世界に入り込む。こんな調子なので、自転車に乗っては電柱にぶつったり、ケガでばんそうこうが絶えない。ただ、せるふは誰にでも躊躇なくぶつかってゆける強さがある。また、せるふが描く絵は独創的で絵画としても魅力的。学年3位で成績優秀。細かな事を言えば、AHDHでも忘れない手順を確立すればシャツくらいしまえる。この性格で成績優秀は無理筋ではないかとも思うが、この設定はせるふを哀れにし過ぎないチューニングなのではないかと勘ぐっている。いずれにせよ、このようなキャラの扱いはセンシティブになるが、本作では主人公というのが攻めている。

これに関連して、せるふが電動工具を使う際に、不器用な者が工具を使う危なっかしさを描く。電動工具があればハッピーでなんでも作れちゃう、みたいなお気楽な描き方ではない点がなかなか渋い。そのせいで、工作シーンはいつもちょっとした緊張感を漂わせていたと思う。最初にせるふの危なっかしさをを見たくれいは、せるふに危険な工具を使わせず、仕上げのネジ閉めをさせたりしていた。主人公の技能が一番低いという作品はなかなか存在しない。

10話でせるふにスポットライトが当たる。結局、小物も売れてない、DIYも完成させられないという負い目。今度こそDIY部員の前で豚小屋を完成させると意気込むも、結局DIY部員たちの協力を得て、なんとか完成という流れ。工作できなくても、イメージ図などで役に立っているとして丸く収める。多様性というか、できない事を否定せず受け入れるという流れなのだが、このあたりは今時のエンタメだなと思う。部長のくれいは12話のツリーハウスの完成のネジ締めをせるふに任せた。せるふの存在あってこそのDIY部であり、達成感の共有である。

本作は、DIY意外にもせるふとぷりんの関係性の物語があった。なにかと出来ないせるふに対して、ぷりんがやや怒り気味に食いついてくるツンデレ設定なのだが、ぷりんはせるふの事をいつも心配しているのに、せるふはいつもの調子で親心子知らず的な対応。そして、この関係性の原因が12話で明かされる。中学入学の際、何でも一人でできるようになりたいからと、せるふがぷりんの世話焼きを拒否した事。しかも、せるふはその事自体も覚えていない。ただ、小学生のときのウィンドチャイムの事は大事だから引き出しにしまっていたと聞き、せるふがぷりんを大切に思っている事がやっとフィードバックされた形。せるふの言葉はいつもその瞬間の本当の気持ちだろうが、忘れてしまうという意味で移ろいやすい。しかし、大切に保管していたという事実は揺るがない証拠なのである。こうして、素直になったぷりんと、いつものせるふは3年3か月のプチ喧嘩期間を経て、もとの親友に戻ったという綺麗な帰結。

他のDIY部員たちも個性派揃いで色々書きたいところもあるが、キリがないのこのへんで。

ここからは少しネガ意見を。

本作は1話で人生をDIYするというテーマを掲げていたが、最終回まで見てそこまで人生を改造していた印象は持たなかった。多分、これが描かれたのはしーの回。しーはアジアのどこかの国のお姫様設定だが、おてんば娘でしきたりなどが肌に合わず日本へ来た。しかし、湯々女高専でも破天荒なしーは浮き気味だったのであろう。しーは、日本に飛び出してきたこと、わざわざ自分の肌に合いそうなDIY部を見つけて仲間になったこと。そういう意味で、レールを逸脱し絶えず人生を改造してきたと言える。個人的に不満なのは、しー意外は別に人生まではDIYしていないと思うし、文芸にそのあたりを期待してしまったのは、筋違いだったのかもしれない。いずれにせよ、本作は物語のために全ての要素がキッチリハマるという作りではなく、強度の強いキャラを適度に泳がせて作っていた感がある。ジョブ子のステイ先がせるふ宅ではなく、ぷりん宅な点もちょっとした変化球に感じる(それもまた本作の魅力ではあるのだが)。そういう意味で思わせぶりな「人生のDIY」テーマを期待してしまったせいか、その部分が弱いという印象を持ってしまった。

それともう1つ。挑戦的ではあるが、色んな意味でせるふのキャラ造形に皺寄せが来てしまった印象を受けた。1話をみたときには、シャツがしまえないキャラデザと工具を扱えない設定でせりふは発達障害か何かだと思った。絵画の才能を発揮するところではサヴァン症候群も連想した。集中力がなく夢想癖である描写も出てきて、AHDHかもしれないとなった。AHDHは知恵遅れではないし、チェックリストなど注意すればシャツくらいしまえる。そうこうしているとせるふが学年3位の成績である事が判明し、うーんとなる。せるふのキャラ造形の根幹は、工具をまともに扱えない人を登場させる事で工具の危険性も同時に描きたかったからではないか、と想像している。そこをベースにぷりんのツンデレの関係性に発展させる。こう考えると、せるふの症状自体はリアリティを持ったものではなく作劇優先なのかな、とも思う。せるふというキャラを追い込むときに、個人的にはその雑味がノイズに感じてしまった。

とはいえオリジナル作品で脚本自体は萌え要素満載だし、しーは語尾に「にゃ」を付けているのに、萌えや媚びのあざとさは感じさせない、気持ちよく可愛さのある今風のテイストに仕上がった点は大いに評価したい。DIY自体の魅力や知識も伝えるというミッションも達成しつつ、バランスの良い仕上がりになった作品だったと思う。

アキバ冥途戦争

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 異色のメイド×任侠モノのとんでも設定とシリアス×ギャグの味の濃い目の演出
    • 人間ドラマの泥臭さや大河ドラマ的な物語感のあるシリーズ構成・脚本
    • コンプラ的に時代に逆行する挑戦的なネタを、リスペクトと熱意を持って令和時代に作り切った
  • cons
    • ギャグがかってはいるがバイオレンスシーンが多めで見る人を選ぶところがある

異色のメイド×任侠モノ(=萌えと暴力)のオリジナルアニメ。制作はCygamesとP.A.WORKS。プロデューサーは「ゾンビランドサガ」の竹中信広で、とんでも企画を匂わせる。監督は青ブタの増井壮一。シリーズ構成の比企能博はアニメの脚本は初との事。

本作のエンタメとしての軸は、昭和の任侠モノの緊張感と切迫感のシリアスさを、ふりふりのメイド服を着たメイドが繰り広げるというコミカルさのギャップにある。お笑いの基本となる緊張と緩和と考えてよいと思うが、ドラマ部分が切実であるほど、メイド接客などが皮肉な笑いに増幅される構造である。この任侠モノをリスペクトする肯定と、ギャグとして消化する否定が同居する絶妙のラインの上に成立している。

1話は、平和ボケした視聴者をふるい落とすところから始まる。なりゆきでライバル系列のメイド喫茶に殴りこんでしまったなごみと嵐子だが、嵐子がピストルを取り出し相手の店長を射殺する。そのまま乱闘になるが嵐子は冷静さを保ったまま、次々とメイドを射殺して二人は自店に戻る。その際に、嵐子はオタ芸のペンライトのごとくピストルを振り回して乱射するという狂気の映像である。これは本作がギャグ作品であることを伝えるための、視聴者への強烈な先制パンチであるが、令和の映像にしてはさすがにジョークがキツイ。令和時代に人が虫けらの様に射殺されてゆくエンタメというのは少ない。正直、個人的には1話を見終えて後頭部を殴打されたようなめまいを覚えた。

しかし、2話を見たときに、この違和感が少しづつ面白さに変わって行く感覚があった。資金繰りに困るとんとことん店長が闇金に手を出し借金返済のためにメイドたちがカジノに訪れる。一人づつ身ぐるみはがされてゆくメイドたちだが、勝負師ゆめちがポーカーのイカサマを見破って啖呵を吐く。一瞬たじろぐディーラーとギャンブル相手。しかし、開いたカードは勝ちに届かず。結局、その場にいた闇金屋を射殺、その場は乱闘、乱射となり、最期はガス爆発でビルを吹っ飛ばしてとんずら。無茶苦茶な展開だが、底辺メイドという理不尽な状況の中で、ストレスの根源となる悪役を射殺してしまうことに、ある種の禁断のエンタメの快楽のようなものを感じた。

時代設定の1999年(23年前)というのも絶妙だと思う。現代劇だとアウトだが、時代劇であると考えるなら、雑魚メイドが次々に射殺される展開も西部劇やチャンバラ的に許容されるギリギリのラインでのディレクションである。この時代劇感がなければ本作は成立しなかっただろう。

本作のもう1つの肝は、メイドたちがアキバという限定した地域に縛られている事である。アキバの理不尽な弱肉強食のルールが辛すぎるなら逃げてもいい、というのが今時のエンタメ感覚なのだろうが、本作がそうではないところも昭和テイストである。実際のところ、古今東西人間社会で多かれ少なかれストレスを受けながらも社会に守られて生きているし、その社会から飛び出す事は難しい。日本が嫌だからといって実際に海外移住できる人は少ない。本作の10話では、嵐子とヒットマンが駆け落ちしてカタギとして暮らすという選択肢が提示されるが、思いがけない御徒町の行動によりそのチャンスは潰されてしまう。途中下車できない呪われたメイド人生の悲哀を演出した回だったと思う。

本作では、アキバのメイド喫茶暴力団組織という対比の中で、個性的なメイドたちの強烈な生き様が紡がれてゆく。各キャラの暴力、仁義、愛、カネのパラメーターを整理してまとめるとこんな感じか。

メイド 暴力 仁義 カネ メモ 最期
美千代 - - - 嵐子の優しさにほだされる 凪の指示で御徒町に射殺される
× × 暴力とカネによる恐怖政治
愛は信用できない
つきちゃん残党メイドに射殺される
御徒町に竹槍を投げつけられる
嵐子 - 愛するものを守るためだけに戦う つきちゃん残党メイドに刺殺される
御徒町 - - - メイド人生を踏み外し
日陰者として生きる
愛美 × - 危険な武闘派として、
メイドリアン代表宇垣に射殺される
ねるら × - 姉妹愛 なごみを庇って裏切ったとして、
愛美に射殺される
なごみ × × - あくまでも非暴力
一度はメイドから逃げ忍者に
-

◎:最重要、〇:重要、×:重要ではない、-:不確定

凪は孤児であり、愛を信じず武力だけを信用した孤独な存在である。部下である系列店から金を貢がせ、従わない者は容赦なく殺す。暴力と恐怖政治でケダモノランドグループを作り、ライバル系列であるメイドリアングループも吸収合併し、弱肉強食のアキバで頂点に立った。美千代の暗殺を指図したのも、11話で嵐子を直属の部下にしようとした事も、大好きな人が思い通りにならなかった凪のひねくれた愛情だったのかもしれない。

嵐子は凪とは逆に暴力を嫌っていたが、1995年に勤め先のメイド喫茶の店長が目の前で射殺された事で、自分が大切なものを守るために暴力が必要な事を思い知る。そして、1999年に嵐子はムショを出てアキバに戻り、メイド喫茶とんとことんのメイドとして再び働きだす。かなりの武闘派ではあるが、嵐子のポリシーは専守防衛。大切なものを守るためだけに戦う。寡黙で不器用な高倉健と言った役どころである。

なごみはメイドに憧れて上京したが、理不尽だらけの暴力まみれの現実のアキバに失望し翻弄されつつも、とんとことんのメイドとしての生き方を模索してゆく。6話で姉妹の契りを交わしたねるらが落とし前をつけて愛美に殺された事をきっかけに、非暴力の生き方を貫こうとする。実際にはきれいごとだけでなく、メイドを辞めようと思ったり、復讐のために暴力を振るったり、さまざまな紆余曲折な経験を経てラストに着地する。

物語的には、アキバ社会の大きな渦に呑まれたメイドたちの大河ドラマ側という側面もあった。愛に対するトラウマからアキバに暴力とカネで君臨してゆく凪。仁義を重んじて凪に戦いを挑むも身内から射殺される愛美。これをキッカケに事実上の独裁者となる凪。しかし凪も嵐子を刺殺したチンピラメイドの射殺されあっけない幕切れとなる。エピローグから察するに、アキバの暴力はその後ゆっくりと消滅していったのだろう。本作は、キャラものの日常系のとは正反対の、諸行無常や栄枯盛衰を感じさせる骨太な物語があったと思う。

これまで書いてきて事と矛盾するように思われるかもしれないが、本作は一見無茶苦茶に見えて、実際には殺した人もまた殺されるというような因果応報があり、個人的には割とすんなり物語や人間模様を受け入れる事ができた。なんというか、狂気の中にある、ある種の切なさや哀愁を感じさせる物語に感じた。この辺りは、この手のストーリーの文法やお約束のようなモノがあり、それに馴染んでるかどうかで感触が変わるのかもしれない。

昔、萩原健一主演の「傷だらけの天使」というTVドラマがあった。かなり泥臭さのある作風だったが、本作のも同様の手触りを感じた。その後登場する松田優作主演の「探偵物語」ともちょっと違う。後者も泥臭さはあるが、時代とともにスタイリッシュなカッコよさが含まれていたのだが、前者は情けないまでにカッコ悪さを含んでいる。本作の制作陣には、そうしたダサくなってしまった泥臭さに対するリスペクトを強く感じる。ただ、今の時代に馬鹿正直に泥臭さい物語を作っても受け入れられはしないのでメイド萌えという要素を入れつつギャグとして見やすいチューニングにしているが、その泥臭さいシリアスな芯の部分をちゃんと残しているところが本作の良さだと思う。

うる星やつら(1/4クール)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • ラムちゃんという唯一無二のキャラクターの可愛さ
    • 新キャストの違和感の無さ
  • cons
    • 昭和を残したリバイバルなためか、どうしても突き抜け感、パンチ力は弱めに感じてしまうところ

原作は、言わずと知れた高橋留美子先生の傑作マンガ。1981年から1986年にTVアニメが放送され人気を博したが、小学館創業100周年記念として、約40年の時を経て令和の現代にリメイクされた。

制作はdavid production。監督は髙橋秀弥、木村泰大の二名体制、シリーズディレクターは亀井隆広。シリーズ構成は安定の柿原優子。キャラクターデザインは「映像県には手を出すな」が印象的だった浅野直之

個人的には、昭和版のうる星やつらもしっかり見てきており、当時からラムちゃんが可愛いとドハマりしていた。古のオタクの中では押井守監督を抜きに語れない作品となっており、劇場版の「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」は名作として認知されている方が多い。半面、原作マンガのテイストから乖離してしまった面もあった。

少し脱線するが、個人的に一番気に入っていたTVアニメのうる星やつらは、スタジオぴえろスタジオディーンに制作が切り替わった最初の回である、第107話「異次元空間 ダーリンはどこだっちゃ!?」。どこか少しづつキャラがブレてる異次元空間に迷い込んだラムちゃんがあたるを見失い、やっと探し当てたあたるが妙に優しすぎて違和感を感じ、このあたるは違うからと元の世界に戻ってくる話。

昭和版ではアニメオリジナル要素で暴走気味のところもあったが、令和版では原作マンガに忠実に寄せてきている。40年の時を経て社会情勢、生活様式コンプライアンスも大幅に変化している。時代設定、ギャグが当時のままでの映像化ゆえに、時代のギャップに違和感が炸裂するかとも身構えたが、個人的にはノスタルジー込みで、昭和時代を描く時代劇と理解して楽しめている。

シリーズ構成的には、あたるとラムの二人の恋愛関係を軸にエピソードを整理した感じが手堅い。この辺りは、シリーズ構成の柿原優子さんの手腕であろう。宇宙タクシーとかテンちゃんとか恋愛以外のバラエティ要素を削り、恋愛物語としてみたときのノイズを軽減している。1クールのあたるの心情は、1話でラムが押しかけ女房として居座り、5話でラムのいじらしさ可愛さに気付き、10話でラムが出てゆき戻らないことを本気で寂しがる、という流れをポイントを押さえて描いている。対してラムは、5話や10話で稀に見せるあたるの優しさを噛みしめながら、あたるの腕を握ってゆくという構図である。

あたるとラムの恋愛を語るときに、どうしても昭和について語る必然性に迫られる。あたるとラムの関係は恋愛結婚ではなく見合い結婚と考えてよいだろう。相手のことを良く知らない者どうしが、ある日いきなり夫婦として暮らす(高校生と宇宙人ゆえにハチャメチャではあるが)。あたるにしてみれば、相手はイイ女が惚れてくれるのは嬉しいが、拘束がキツイ。自由を求める男と、束縛する女という構図である。昭和の女性の歌謡曲の歌詞を聴くと、驚くほど男に置いてけぼりにされたという歌詞が多い。ウーマンリブという言葉もあったが、女は男の後ろに付いて尽くすという時代の名残が昭和後期にも多少あったのだと思う。また、あたるとラムは恋愛の末の結婚ではなく見合い結婚のようなものであろう。結婚→恋愛の順番である。結婚してから可愛さを知る。この辺りの結婚=縛りの概念も昭和テイストを感じずにはいられない。

恐らく、しのぶは典型的な日本人女性であり、ラムはしのぶのカウンターになる女性だったのだろう。スタイル抜群、耐え忍ばない、目尻は上がっていて強気(≒気持ちに正直に行動)。そんな昭和感のない女性が惚れてくれるのだから読者は嬉しいのだが、それではギャグが成立しないので男は逃げる。ただ、ラムの幼馴染の弁天やお雪は恋愛からも解放されているし、ランちゃんや了子のような拗らせキャラもいて、既に昭和のテンプレートから外れたキャラも多数いた。それがその時代に新しかったし、SFでもあったが、今となっては古典である。

これらのキャラの対比で見えてくるのだが、ラムが特殊なのは、見た目の非昭和感の軽快感とは裏腹に、恋愛に一途という可愛さがあるというところにあると思う。つまり、昭和の女性への押し付けの価値観からは解放されているが、恋愛部分だけは男に尽くすという昭和感(=男にとっての都合の良さ)が残っている。変わりゆく時代の中で生まれたキャラには間違いないが、後にも先にもラムのようなタイプのヒロインはおらず、唯一無二のキャラだと思う。それゆえに、令和時代でも古びる事無くラムは輝いて見える。

アニメーション的には、リッチすぎるという事もなく、作画もソツがなく、演出も多少緩めで見やすい感じのディレクションである。10話の「君去りし後」は紅葉を効果的に演出に使っており、時折ハッとさせられるが、基本は緩く楽しむ感じの作品である。まだ残り3クール分残っているので、この先ダレそうな予感もあるが、緩く楽しんでゆきたい。

SPI×FAMILY(2クール目)

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 子供から大人まで幅広い年齢層に受け入れられる間口の広いディレクション
    • リッチで安定感あるアニメーション
  • cons
    • 子供でも理解できる分かりやすさで作られるため、それが少し物足りないと感じてしまうことも

製作に東宝集英社WIT STUDIO、CloverWorksなどが名を連ねる高予算感ある作品。春秋の分割2クールとして放送されたが、2期と劇場版の制作がすでに発表されている。

本作の設定やあらすじの説明の必要もないだろう。シリアスな設定ではあるが、基本はコメディ色が強く、ドラマ部分も悪くない。子供から大人まで幅広い年齢層に受け入れられる作風が持ち味。作画も動くところは良く動き、作画崩壊とも無縁。文芸も人間ドラマよりやギャグよりの脚本の振れ幅はあるものの、どちらもストレスなくバランスよく見られる。全方位に安心感と上質感を漂わせる優等生アニメである。ただ、それゆえに物足りないと感じる部分も正直ある。

1期2クール目は、大型犬のボンドがフォージャー家に加わり、さらに賑やかに。序盤の学生運動の爆弾事件のサスペンスや、新キャラフィオナとロイドのテニス界のハチャメチャながら熱量の高い回がある一方、フランキーの暗号解読などの息抜き回や、ベッキーとアーニャのデーパート回などの緩くもちょっとイイ話など、シリーズ通しての物語のバリエーションの多さが特徴だったと思う。

個人的には、23話、24話のヨルが切なかった。フィオナの登場により、ヨルは妻役、母親役の座を奪われるのではないかという疑念を抱く。そして、殺し屋を続ける事が第一目的だったのに、いつのまにか家族を続けけたい気持ちが勝っていたと自覚してしまう。二人でバーに出かけとき、ロイドはヨルの恋愛感情を察知し、任務としてハニートラップでヨルの心を操作しようとするが泥酔したヨルに蹴とばされ失敗。恋愛感情は誤解だったと再認識する。その後、公園のベンチでロイドがヨルに優しい言葉をかける。作劇上はいいシーンなのだが、ヨルは惚れているのにロイドは惚れていない事実が浮彫になる。勿論、恋愛に現を抜かしていたらスパイ失格なのだが、ロイドが優しければ優しいほどヨルが哀れに思えてしまうので、ロイドがヨルに惚れているところをどこかで描いて欲しいと思った。

物語的には、オペレーション<梟>のターゲットであるデズモンドとロイドのイーデン校での接触で1期を終了する。デズモンドの底知れない悪役感を印象付ける演出は見事。ただ、そこまでのストーリー運びは、この大筋とは関係ない小さな物語で埋められてゆくため、進展は牛歩のごとく遅い。これも、フォージャー家の関係性を大きく変化させず、長寿人気番組を狙う上での戦略なのであろう。

1クールアニメが大量生産されるなか、こうした長期戦略を見越した設計をされたTVアニメーションに挑戦する事の意義は大きいと思う。東宝がスポンサーに入っている事も含めて、劇場版は当初からの戦略であろう。アニメ映画の興行収入として考えたときに、「名探偵コナン」などの小学生向けの作品の方が圧倒的に興行収入成績が良い。本作が、アーニャの面白さを全面に押し出していることも、スパイミッションを子供にも分かりやすく丁寧に描いている事も、観客層を広くとるための戦略であろう。興行収入は作品の良し悪しとは直結しないため関心が薄いが、個人的には本作がどこまでウケるのかは関心を持って見守っている。

ヤマノススメ Next Summit (2023年1月7日 追記)

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 動きが良くて可愛いキャラ作画
    • 人生=登山と思わせる、思ったよりも深くて大人っぽい脚本
  • cons
    • キャストの声質が、ちょっと萌え方向にくどく感じた(物語が大人っぽいので相対的に)

女子高生×登山。あおいとひなたを中心に、楓、ここな、ほのかの5人の交流を通して、彼女たちの登山を美しい風景と共に描く。親しき友人たちとともに一歩一歩踏みしめながら山を歩き、時にはヘトヘトになって、到達点の景色や達成感を味わう。ちょっと登山=人生みたいな哲学も感じさせる作風である。

本作の一番の強みは、可愛らしいキャラデザインと、キャラ作画力の高さにある。キャラデザインのテイストとしては、エロ美少女マンガ雑誌の「LO」をちょっと連想させるものであり、妙な色気というかエロさがある(作風自体は健全です!)。このキャラが時にコミカルに、時に外連味たっぷりに、実に気持ちよく動く。各話の作画監督で若干テイストが違ったりもするが、アニメーターに生き生きと動かしてもらう事を最重要視したディレクションなのだろう。もちろん、この動きの表現力は勾配のキツイ坂道を進むときや、登山中にバテバテになって足を引きずって歩くシーンなどにも効いてくる。その意味で、キャラの動きの芝居は本作の最重要項目である。

そして、本作のもう一つの主役である美しい風景。登山という事で、木々の間を抜けるけものみちや見晴らしの良い山頂。時にガスってたり、雨天だったり、勢いよく流れる雲海の中だったり。紅葉、雪山、新緑。穏やかさ、険しさ、さまざまな表情を見せる自然を美しく切り取り映像に落とし込む。

本作は文芸がなかなか良いと思うが、その前に、本作の構成について少し触れておかなけばならない。本シリーズは短編アニメとして1期~3期まで制作されており、4期であるNext Summitでは1話から4話がその再編集となっている。4期として新規に制作したのは5話以降。1期放送終了から9年半経っているが、映像を繋いでみても違和感が出ないように作られている。

そういった背景から、4話まではあおい⇔ひなたの関係をコンパクトに描くため余裕(=遊び)がなく、面白さに深みが出せていなかった。また、2期3期は脚本にふでやすかずゆきが参加しているが、どうも女子の関係性(あおい⇔ひなた)を分かりやすくテンプレ的に扱ってしまっていたように思う。5話以降の脚本は基本的に監督でもある山本裕介が担当しており、本シリーズの強みを生かした、しっとりした脚本に仕上がっていたと思う。それは、尺に余裕ができた事と、キャッチーな要素なしにあおいという内気な人物の成長物語に軸を絞れた事が大きいと思う。

2話で、あおいは富士登山中に高山病にかかり、山頂のご来光を拝むことなく下山した経験がある。一緒に行ったひなたとここなはご来光を拝めたが、自分は足を引っ張ってしまったという自責の念が残っていた。トラウマというと言い過ぎかもしれないが、近場で登山したときに遠くに見える富士山を見るたびに、リベンジの気持ちを暖めていた。5話以降の物語としては夏秋冬春と駆け抜けて、11話12話で夏休みに再度富士登山に挑む流れである。あおいは今回も軽い高山病の症状が出るが、無理せずいったん小屋で休んで、無事翌朝ご来光をみんなで拝むことができた。このストーリーの流れで努力や根性を持ち出さないところがイイと思った。準備して一歩一歩確実に前進してゆけば目標に到達できる(=成長する)というメッセージに感じた。一言で行ってしまえば、登山=人生なのだが、それほどステレオタイプじゃなくて、もっと深みがある大人っぽい脚本だと思う。

あおいは、登山中に苦しくなると、なんで私今登山をしているのだろう、と自問自答していた。苦労した後でご褒美の目的地の絶景を見るため、とも言えなくはない。しかし、辛くても前に足を踏み出し続けなければならないのが人生なのだろう。そして、人生は登山が続くから、未来の自分にも今の気持ちをエールとして送ったのだろう。〆としては上出来である。

もちろん、5話~9話の秋冬春の季節を過ごす間に、あおいの成長があるわけだが、そのあたりの脚本も味わいがある。群馬の新しい友人との出会い。失恋したバイト先の女性とのデート。ひなたベッタリだった内弁慶なあおいのひなた意外の級友との交流。そうした一つ一つの経験が、あおいの成長の肥しとなっていた。女子グループの交流なので、ごく微量の百合の匂わせはあるが、その匂いは限りなく薄い。そういう媚びてないところがいい。

最後に少しだけネガ意見。

媚びていないとは書いたが、10年前の作風に寄せている所もあり、キャストの声質はちょっと古いというか萌え方向にクドイ感じもした。物語の大人っぽさからすると、ちょっとリアル寄りでも良かったかな、とも思った。

おわりに

今期は、「ぼっち・ざ・。ろっく!」が一番ハマりました、やっぱり。梅原P作品は信頼できます。1話時点で良い作品になる手応えありましたが、5話、8話のライブシーンは期待通りだったし、12話はそれを超えてたし、ラストに繋がるまでのシリーズ構成も見事でした。

DIY!!とアキバ冥途戦争も、アニオリ作品ならではの安定感とぶっ飛び感の両極端を味わえました。ちょっと、情報量が多かったですね。

THE FIRST SLAM DUNK

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

映画の表現力が凄い、と噂の「THE FIRST SLAM DUNK」の感想です。

ちなみに、私はマンガの「SLAM DUNK」は未読。TVアニメはかなり昔に少し見てた、くらいな感じで湘北スタメン5人くらいは知っているけど、山王とか全く知らないという状態です。もっと言えば、バスケに限らずスポーツ全般疎いです。

そんな私が本作を観ての感想ですが、その迫力に大満足の出来栄えでした。なんかこう、スカッとしたい人にはおススメの映画です。

  • スタッフインタビュー(2023年1月4日追記)

感想・考察

構成は、試合+ドラマパート+etc

今回の主人公はリョータ。試合は湘北vs山王戦の1試合に焦点を絞り、それと並行する形でリョータのバックボーンとなるドラマパートが交互に紡がれてゆく構成である。

スポーツ物の典型とも言えるが、2時間の映画で試合が終わることもあり、間延びする事なく緊張感が続きっぱなしという感じであった。勿論、交互に入るドラマパートで息継ぎをしているわけだが、こちらはこちらで、リョータの行き詰まりの共有によりストレスフルである。

リョータの物語も一本筋の通った気持ちが良いものであったが、やはり3DCGキャラによるバスケットボールの試合の迫力が本作の目玉であろう。

3DCGの圧巻の表現力

いきなり余談になってしまうが、2020年にYouTubeにて「OBSOLETE」という3DCGアニメーションがあった。ゴツい米国海兵隊の軍人と彼らが搭乗する戦術用の小型ロボットが3DCGで描かれていたが、本作のキャラはそのテイストに近い。なお、ドラマパートでは、幼少期だったり、ユニフォーム以外の服装だったりのシーンは2Dアニメで描かれるというハイブリッド構成である。

とにかく、スポーツする人物の描写が緻密さに驚く。全身を汗が滴り、肩で息をする。シューズなどの静的なディテールはもちろんの事、動的な表現もピカイチである。ダンクシュートの瞬間、リング際の敵味方のボールの奪い合い、スリーポイントシュートの静かで美しい軌跡、ゾーンプレスで覆いかぶさる選手の圧力。ボールと身体、そしてユニフォームの動きさえもまったく違和感のない自然な動きで表現しきる。それが、コート内の選手10人分もれなく描かれる点が凄い。カメラに映っている全てのモノがその緊張感と迫力を持っているというのは、絵作りをいかにコントロールしているか、という事に他ならない。

無論、これは3DCGなら誰でもできるというわけではない。3DCGは本来、モデルを作り配置し空間を切り取るカメラを設置し、全てのものを動かして、物理法則を演算(=シミュレート)して、なめらかで違和感の無い映像を作るのが得意という方法である。人物の動きに関してはモーションキャプチャーという実際の人物の動きを3DCGに取り込む手法でリアルな動きを出せるため、本作でもその手法は使われている。

そうだとしても3DCGは、本来物体として存在しない選手の気合や気迫を描く術ではないのだが、本作の映像からはそれを感じさせる映像に仕上がっている点が凄い。それこそが、井上雄彦先生が漫画家として描いてきたノウハウの調合があるのだろう。選手、ボール、床、リングなどを切り取ってレイアウトを決める上流工程から、ダッシュする際に重ねる効果線(正確な名前が分からないけど物体が高速に移動した事を表現するマンガ表現の平行線)などの下流工程まで、さまざまな工夫がみられる。これこそが、漫画原作者でもあり、監督である井上雄彦だからこその仕事なのだと思う。

後でインタビュー記事などをチェックして、全カット井上雄彦先生がレタッチを入れているというのを聞いて本当にびっくりした。キャラが生きた状態までレタッチして確認しないと仕上がらないという。とてつもない手間暇をかけた手作りアニメであった。こんな作り方なら、続編の映画なんて絶対無理だろう。

3DCGのシーンで特に印象に残っているのが、試合に負けた山王の沢北が廊下で悔し泣きするシーン。鼻や口元の震えがリアルな悔しさ。この動きが繊細過ぎて通常の2D作画では動かさないところである。この辺りの演出は、実写的にも感じた。

試合=いかに相手の心を折るかの圧力のかけ合い

本作が、バスケットボールの試合中継映像と違い、映画である事の意味は、試合中の選手たちの丁寧な心理描写にある。

強豪高の山王は、試合前半は拮抗した試合運びをする。そして、後半戦でいきなり点差を付けて湘北の選手たちの心を折りに来るという戦略である。その際の山王の監督の立膝姿(=本気モード)が怖いとまで思わせる。どう頑張っても、ゾーンプレスの壁を抜けない、シュートの際にブロックの壁が立ちふさがる、走ろうと思っても体が重い。やっとの事で点を入れても3倍返しで点を取られる。この絶望感が映像として映画館の観客にも伝わってくる。

ちなみに、山王の選手たちの私の第一印象は禅寺の修行僧である。涼しい顔してるからこそ怖い。

赤木なんかは、試合中に倒れた際、なぜか嫌味な先輩の嫌味な言葉を思い出してメンタルが弱り、このまま動かなければ楽になるかも…的な事を考えたり。今回、赤木(=ゴリ)は強靭なイメージとは裏腹に、普通の人の持つ弱さが強調されていた。

この空気を突破してゆくのが、バスケットボールの常識が通用しない桜木と、その使い方をわきまえている安西先生。そして、あの有名な台詞の「諦めたら、そこで試合終了です」。

桜木の突飛な行動と驚異の身体能力に困惑した山王からポイントを取得するが、これを契機にすぐに試合の流れが変わるほど簡単じゃない。そこからも苦しいのだけど、湘北の選手の心に少しづつ火がついてゆくのが分かる。いつまでたっても心が完全に折れない打たれ強さに、山王の選手もだんだん不安になってくる。もちろん、湘北の新しい戦略に気付いたら、すぐに的確な対処方法で対応してくる。だけど、湘北だけが一方的に玉のような汗をかいていた、という状況から山王も汗の量が同じように増えてきた。そうした、緻密な圧のかけ合い、競り合いみたいな描写が異常に上手い。

試合パートとドラマパートは交互に挿入されるが、2時間の映画で試合シーンはのべ1時間程度であろうか。緩急の緩はドラマパートで補うという事もあるだろうが、試合のシーンの手に汗握る緊張感は全く途切れなかったのが凄いとしか言いようがない。

試合運びは王道とも言えるが、だからこそ緊張感や説得力を持たせるには、かなりのディテールと時間経過のコントロールが必要なわけで、その積み上げの確かさこそが本作の真骨頂であろう。

リョータが男になるまでの物語

リョータの身の上というのは、マンガでも描かれておらず初公開となるが、そこに全く違和感がない(原作者自身が書くのだから、間違いがないのは当然かもしれないけど)。

平たく言えば、本作の物語は、リョータが男になる話である。

沖縄で宮城家の次男として生まれたリョータ。兄のソータと妹の3人兄弟である。父親が早くに亡くなり、ソータが父親代わりとなるが、そのソータも海難事故で亡くなる。ソータは小学校のバスケットボールの選手として活躍しており、ショータも兄に憧れバスケットボールの選手になったが、兄ほどは上手くはプレイできず、出来の良い兄、出来の悪い自分というコンプレックスとともに生きてきた。

グレ気味なこともあって、神奈川に引っ越しても不良に目をつけられたりで、一人で過ごすことが多かった。でも、バスケだけは続けた。高校で三井たち不良グループと喧嘩し、バスケも辞めてしまおうかと自暴自棄に。その後、バイク事故で入院。母親をまた悲しませてしまう。

母親はソータの死別の悲しみをずっと引きずっているとリョータは考えていたが、実はそうではなく、可愛かったリョータがグレた事を悲しんでいた。

誕生日のケーキのところでの妹の台詞。リョータはソータが亡くなった年齢はとっくに超えているとか、ソータの写真を出して飾ろうとか、物語上のポイントとなる台詞である。リョータが母親宛の手紙に書きかけて消した、自分なんかが生きていてごめんなさい、という自己否定が辛い。

この母親とリョータの気まずい距離は、インターハイでから帰ってきて、砂浜で母親の隣に座るときの距離にも現れていた。試合はどうだったと言われ、強かった、怖かったと片言で返事する。母親は近づき、大きくなったね、とリョータの二の腕に手を回し、緊張をほぐすように肩をたたく。お互いに話しにくさを感じていた母息子の久しぶりのぎこちない会話。多分、はじめて母親を喜ばせることができた瞬間だったのだろう。

ソータの夢でもあった山王の試合に勝ったから、ソータを乗り越えたとも言えるが、多分、そういう事じゃない。母親から見て、リョータが立派な男になった事が、この物語のゴールだったのだと思う。

比較的コンパクトな物語ではあるが、母親とリョータの心の距離感や、言葉に出来ない複雑な心情を的確なアイテムとともに配置した感覚。一昔前の質の高い文芸を感じさせる脚本だったと思う。

スタッフインタビュー(2023年1月4日追記)

公式にて、監督をはじめ、スタッフの方々のインタビュー音声があったので、リンクを貼っておく。

今までのアニメの常識を覆す作り方にいろいろ驚かされますが、こんな裏話がタダで聴けるのは非常にありがたい。音声コンテンツなのも個人的にうれしい。

2023年1月4日時点で19本ですが、まだまだ追加されていく模様です。

おわりに

映画による体験がエンタメとしての真骨頂であるというなら、本作の試合のシーンの迫力はまさにエンタメでした。

一つ笑い話ですが、一緒に観ていた奥さんが、桜木のダブルドリブルのシーンで笑っていたんです。あまりに緊張してみていたので、桜木の緊張緩和のギャグのシーンもカチカチになって観ていた自分が可笑しくなって、15秒くらい笑いのツボに入っていました。

逆に言うと、それくらい試合の圧が強かった、という事です。

私は、Dolby-Cinemaで観ました。高くなりますが、音響も良い環境で観る方がおススメです。

新年一発目に鑑賞した映画としては、非常に満足度の高いというか、気分よく映画館を出てこれました。

ちなみに、奥さんも大満足でした。

ぼっち・ざ・ろっく! 1話~8話

はじめに

「ぼっち・ざ・ろっく!」がかなり面白い。

1話から8話まで視聴した時点の感想です。原作漫画は未読です。

8話は原作漫画1巻のラストの話という事で、最終回的な綺麗な〆になっていますので、一旦ここまでで感想・考察ブログを書きなぐりました。

感想・考察

作風

可愛い、カッコいい、緩い、心にしみる、なんでも有りの幕の内弁当

原作がきらら4コマなので緩くて可愛いのは当然なのだが、1話の終盤にイイ感じのシーンが入ってジーンと来たり、演奏シーンが凄くカッコ良かったりと色々と楽しませてくれる要素が多い。

そもそも、重度のコミュ障で今までただの一人も友達が居ないという、主人公ぼっちのキャラ設定のエッジが効きすぎている。そして、誰とも絡まない押入れの中では「ギターヒーロー」として技巧派のギタリストという二面性がなお面白い。この設定により、素人スタートでギター上達してゆくドラマという時間のかかる作劇から決別している。

ぼっちは深層心理では他者を求めているが、他者に傷つけられるかもしれないリスクに怯えてストレスを蓄積し、バリアを張って他者に飛び込めず距離を開けている。そのくせ、他者から優しく声をかけてもらうのを待っているという、小動物的なゆるゆるな可愛さもある。そんなぼっちの心の呟きや叫びのボケやツッコミがイチイチ面白い。コミュ障ゆえにストレスをため、それを笑いに転化する。この緩急が本作の笑いの基本である。視聴者は、小心者のぼっちの弱さを笑いながらも、ぼっちにも寄り添って見てゆくことになる。

基本の劇伴はゆるいモノだったりするので、視聴者にも緩い笑いである事は十分伝わってくる。

そして、バンド演奏シーンは非常に力が入っている。後述するが、バンド曲がカッコいいと思える出来栄えで、なおかつ分りやすくドラマと直結している。ここは、ある意味、ぼっちという小市民がギターヒーローに変身する爽快感がある。

そして、各話の終盤には、ちょっとイイ感じのシーンが入る。8話の虹夏とぼっちの会話は最たるモノである。4話のリョウの「個性を捨てたら死んでるのと同じ」という台詞でありのままのぼっちを肯定するシーンも好きだし、何なら2話の「また明日」の台詞でぼっちが虹夏とリョウと関わり続ける意思を見せた事にもちょっとジーンときてた。

まず、私が本作で気に入っている点を列挙する形となったが、より詳細なポイントを引き続き述べてゆく。

有り余る「余白」に力を込める

本作は、原作漫画の1巻の内容を1話~8話にかけて映像化している。原作漫画の消費速度としては遅い方だと思う。その分、原作を深く解釈し、アニメーションとしてデコレーションを大幅に乗せてゆく作りになっていると思う。

ぼっちという人間のドラマとして書き出すと脚本的にはかなりコンパクトになるだろう。本作は、その分、ギャグを引き延ばしている感じだと思う。そのギャグに使う尺の長さや映像表現の多彩さに力が入りすぎていて、それさえも笑いに転化する。

それは、ぼっちの妄想が暴走するシーンに顕著に現れる。ぼっちのテンパってる時の内面を画風を変えて極端に描いたり、時に実写映像を挿入したり、それもゾートロープと呼ばれる実写アニメーションだったり、人生ゲームを模した盤面を作り駒を動かす実写のシーンをいれたり。とにかく、飽きさせずにあれやこれやの手法をトライしてくる。

5話のオーディション後にぼっちがゲロを吐くが実写のダム放流シーンが映し出される。それも、30秒かけて4基のダムを映す。昨今のツメツメの絵コンテでは考えられない贅沢な尺の使い方である。

普通はこんな多彩な表現を本編中で一瞬だけ使うために実写アニメを作ったりはしないだろう。こうした無駄とも思える余白にも全力投球で投げ込んでくるスタッフには頭が下がるし、笑わせられるだけでなく敬意まで感じてしまう。

バンド演奏とドラマの直結

私自身は、バンドやバンド曲に詳しい訳ではないので、詳細は他の方にお任せするが、本作のバンド演奏シーンがアニメーションとしての出来が良いことは分る。百聞は一見にしかずと思うので、何はともあれ公式で公開されているバンド演奏シーンを貼り付けておく。

個人的には、あまりロックバンドの楽曲を興味を持って聞いてこなかった。ド素人ゆえに演奏テクの凄い凄くないの違いも分らないという感じだった。

しかし、以前ハマった「響け!ユーフォニアム」というアニメ作品で、生楽器の音の聞き分けの楽しさみたいなのを少し覚えて、吹奏楽あるあるなどの話も聞きかじり、少しづつ興味を持てたという事もあった。

結束バンドは、打ち込みとかもない完全に生バンドゆえに、曲で鳴っている音は全て楽器の生演奏である。ギター奏法などの知識はないが、原作側の解説動画などを見ると理解度がUPするので、良ければ合わせて見てもらいたい。

私が凄いなと思ったのは、8話の1曲目のダメダメ感が視覚的な演出だけでなく、音だけでもヒシヒシと伝わってきたところ。そして、2曲目で挽回して、見事に決めるところ。この落差を映像と音響だけで視聴者に信じさせる。その本気度がロックである。

他のアニメ作品だと「響け!ユーフォニアム」の吹奏楽部の演奏の上達具合や、「シャインポスト」のTiNgSのダンス技術の違いが、映像や音響でダイレクトに表現されていた。こうした肝心なところをハッタリでなく、分らせるというところがストイックでカッコいいし、見てて鳥肌が立つ。もう、こうした事が当たり前に描かれているから麻痺しているけれども、楽器演奏やダンスの映像と音楽を合わせつつ、上手下手や緊張感を映像で伝えるというのは、かなり高レベルな表現であり、アニメーションを作る上で難易度がかなり高い。

激しすぎる緩急がもたらす快楽

繰り返しになるが、本作は色んな意味で緩急の落差が激しい作りになっている。

  • 作品の風味
    • ギャグ(この中にも、ゆるいのからハードまでの緩急あり) …体感70%
    • シリアス(ライブの緊張感、カッコ良さ) …体感15%
    • ドラマ(ちょっといい感じのぼっち成長ドラマ) …体感15%
  • ぼっちの側面
    • ギターヒーローのぼっち(動画配信の人気者)
    • 学校のぼっち(極端なコミュ障、郁代の練習相手)
    • 結束バンドのぼっち(極端なコミュ障、初バイト、作詞担当、初ライブのヒーロー)

本作は、とにもかくにも小心者のぼっちが、他者との関わりに極度のストレスを感じて繰り出されるギャグシーンを緩く楽しむ部分がベースである。それが途絶える事無く、作品全体の70%を占めている。なおかつ、それはイイ感じのドラマやシリアスなシーンの後にも挿入され、緊張感を緩和する作りになっている。

そのギャグシーンにもグラデーションがあり、特にぼっちが極端なストレスによりフリーズしてしまう際の描写がハードである。絵柄が変わったり、時には実写になったり、しおれて呪いの因子がぼっちの部屋に充満して遊びに来ていた虹夏と郁代も呪いで倒れる、という暴走気味のギャグシーンがある。こうした突き抜けたギャグシーンは視聴者にもストレスを与えており、ゆるいギャグシーンで緩和される。

また、本作が、ライブシーンやイイ感じのドラマばかりであったら、ここまでウケなかったのではないかと思う。ライブシーンはここぞという所で入るので、メリハリをもって効果的に作劇にスパイスを与える。ベースにあるぼっちの成長ドラマを毎話途切れることなく終盤に薄く的確に入れる事で、ちょっとイイ感じの余韻に浸れる。このあたりのさじ加減が絶妙で心地よい。

筋の通ったストーリー構成と脚本

話数 ぼっちイベント
1話 高校友達ゼロ、虹夏から助っ人ギター依頼、完熟マンゴー演奏(ド下手)
2話 ライブハウスバイト開始、初接客、「また明日」
3話 ぼっち→郁代を勧誘、逃げたギター、ぼっち→郁代を引き留め、ぼっち→郁代ギター練習
4話 ぼっち→郁代ギター練習、アー写、作詞難航、個性捨てたら死んでるのと同じ、歌詞完成、アー写貼りまくり
5話 オーディション、前日気を遣う虹夏、(結束バンドを)ここで終わわせたくない、合格、チケットノルマ5枚
6話 チケットノルマ5枚、きくり登場、路上ライブ、ファン1号2号を見て演奏、客の笑顔、ノルマ達成
7話 虹夏郁代→ぼっち宅訪問、ぼっち思考に慣れる虹夏、ぼっちに歩調を合わせる虹夏
8話 初ライブ台風、1曲目で折れるメンバー、2曲目でぼっちギター炸裂、虹夏→ぼっち感謝、結束バンドで有名になりたい

ぼっちがバンドを始めたかったのは、ギタリストとして有名になるステップであったと思う。しかし、虹夏に無理やり結束バンドに引き込まれ、流されるままにバイト、ボーカル勧誘、ギター先生、作詞、チケットノルマ、と慣れないことをこなしてきて、ぼっちの生活自体は他者との関りを持つ特別なモノに変化していった。もちろん、はじめは無理やりでキツめのイベントが多く感じていたが、次第に結束バンドの一員として、結束バンドとして有名になりたいという夢に変化してゆく。その流れが、毎話わずかながら丁寧にドラマを紡いでいるという点で、本作のシリーズ構成は信頼できる。

また、郁代のギター上達など、時間経過で変化を表す描写も丁寧に入れている。

本作のドラマが、各話の終盤に薄く挿入されている点も狙いであろう。前半のギャグで引き付けて笑わせて、最後に少しだけいい話を持ってくる。視聴者もこのテンプレートに慣れてなじんでくるので、各話見やすい。

シリーズ構成、全話脚本は、吉田恵里香。実写ドラマの脚本家という事だが、私は本作が初めてだが、かなりツボを押さえた脚本だなと感じた。

キャラクター・ワンポイント

後藤ひとり

基本、陰キャでコミュ障なのだが、ぼっちがイイのはネクラじゃないところではないかと思う。

  • 陰キャ → 極度の心配性
  • コミュ障 → 傷つきたくない、褒めてもらいたい。

という表現になっていると思う。このテイストが令和時代というか、念がこもっていなくていい。

虹夏に引っ張りこまれて、はじめて結束バンドに関わってゆくが、無理やり連れてこられた事がぼっちにとって良かったのだろう。そのまま拒否れずに流されるようにバンドとしての様々な体験をしてゆくうちに、結束バンドで有名になりたいという気持ちが芽生えてゆく。

ぼっちにとっては、逆に虹夏が白馬の王子様に見えてのではないかと思う。

伊地知虹夏

無理やりぼっちを結束バンドに引き入れて引き留めた、というのが実情であろう。だから、5話でオーディション前日に辛そうな表情で帰宅するぼっちに気を使って声をかけた。ぼっち自身はバンドをやりたいと言っていたが、結束バンドのスタイルはぼっちの意向に沿ったものなのか?

虹夏は結束バンド作りを焦っている側面があり、それゆえに熱くなり過ぎるときがあると。

虹夏はぼっちの事を測りかねていたところがあったと思う。しかし、7話のぼっち宅訪問でぼっちは裏表なくぼっちである事を理解し受け入れられたのだと思う。だから、ぼっちの気持ちに少し寄り添うことができ、ぼっちに歩調を合わせられるようになった。

ただ、何もかもが新米バンドとしての自分たちを、常にブレイクし一歩前に進めてくれたぼっちを、虹夏のヒーローと感謝した。姉の分まで結束バンドを盛り上げるという夢を支えてくれて、そして演奏もカッコいい。ぼっちの事を頼もしくも嬉しく思ったのだと思う。

山田リョウ

基本マイペースだが、それゆえに個人を尊重し無理強いしない。そこは虹夏とバランスが取れているところである。

リョウは4話の台詞が全てだと思う。個性を捨てたら死んでるのも同じ。バラバラの個性がぶつかり合って結束バンドの色になる。名言だと思う。

喜多郁代

郁代は、ぼっちの対照的な存在で面白い。ぼっちを恐れておらず、悪意無く、ポジティブにどんどん入り込んでくるからぼっちとコミュニケーションが成立しているのだろう。

ポジティブ過ぎてねじが飛んでいるところも見受けられるが、一度結束バンドから逃げたことで自分を責めており、罪滅ぼしではないが、今度こそ諦めずに何か成し遂げたい気持ちが伺える。

そのポジティブさは理解するが、前回バンドから逃げたというのは、かなりのストレスだったのであろう。ただ、ポジティブゆえに自己防衛のために逃げる事ができた点も、ぼっちと対象的である。

おわりに

勢いで書きましたが、2022年秋期アニメで一番ハマっている作品です。

本作の魅力の断面が多すぎて、とっちらかった感じもありますが、好きな気持ちを吐き出す事ができてスッキリしました。

多くの配信サイトで配信されているため、今からでも視聴できる環境は結構あると思いますので、興味があれば是非。

見る人によって、ゆるくも、ピーキーにも見れる、奥行きのある作品だと思います。

ちまたの噂では12話は文化祭ライブまででは、という事ですがもう一山あるのか、このままゆるく行くのか、残り4話も楽しみです。

すずめの戸締まり(その2)

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

本作は紛れもなく震災映画ですが、自分が昨年見た2作品と比べて何が違ったかを整理したいと思い、書き記してみました。基本的には、物語で何を語っているかに興味があります。

それから、本作の福島の描き方について、ちょっと気になって考えていたので、後半はその事について書きました。

過去に書いたブログ記事もありますので、よければこれらもみていただければと思います。

後半、大幅に記事を追記しました。(2022.12.1追記)

「喪失と廃墟と福島原発事故」を追記しました。(2022.12.12追記)

感想・考察

他の震災アニメ映画との比較

「岬のマヨイガ

本作は、「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」という被災地支援の企画の一環として制作されている。平たく言えば、被災地に観光客を呼び込むための復興支援的な趣旨である。原作小説は柏葉幸子、脚本は吉田玲子、監督は川面真也

本作は3.11の岩手の被災現場にいた女子高生ユイと女子小学生ひよりを、妖怪たちと縁のある老婆キワが癒してゆく物語であった。

震災によるPTSDを癒すには、働く食べる寝ること、気持ちよく過ごせる住宅があること、そして家族と呼べる無償の愛があること。こうしたテーマだったと思う。

ユイは父親からの暴力、ひよりは両親との死別という辛いトラウマがある。二人は被災地に暮らしていた訳ではないが偶然トラウマから逃げて被災地に居たという設定である。

被災地では地震によりアガメという妖怪の封印が外れてしまう。アガメは人々の不安を具現化した妖怪であるから、震災により疲労困憊した被災者たちの負の気持ちを吸収して巨大化してゆく。キワが妖怪たちと戦うが太刀打ちできない。そこにユイとひよりが加勢しアガメを倒す、というファンタジー形式の物語になっている。

本作では、被災者の悲しさ辛さを癒してゆく事に注力した脚本であり、そのために辛さと乗り越えを描くという作風である。

「フラ・フラダンス」

こちらも「ずっとおうえんプロジェクト2011+10・・・」の企画。本作はいわき市の「スパリゾートハワイアンズ」を舞台にしたオリジナルアニメで、脚本は同じく吉田玲子、監督は水島精二

震災10年後に「スパリゾートハワイアンズ」に入社した5人のダンサーの1年間の成長を描くお仕事モノという体裁であるが、主人公の1年と、福島の10年を重ねる形で描かれる。

3.11で亡くなった姉の真理。10年後、思いがけず、高校を卒業してダンサーとして就職する妹の日羽。同期入社の5人チームを組むが、何も持たない日羽はゼロスタートで訓練は辛く厳しい。デビュー当日に痛恨のミスがあり動画配信でも嘲笑され、どん底からのスタート。辛さの中でもチームメイトとの暖かい交流、職場の憧れの先輩の励ましが支えになる。少しづつ自尊心を取り戻し、自分らしいフラを踊れるようになってゆく日羽たち。

補足しておくと、動画配信のくだりは、放射能事故の風評被害の暗喩であろう。これは、福島ならではである。

本作では、苦労を耐えて自尊心を取り戻してきた事への敬意を示す作風で、未来への希望で結ぶ

「すずめの戸締まり」

紹介した二作と異なり、こちらは震災復興のスポンサーはない。

すずめは、4歳のときに3.11で母親を失う。常世で彷徨い母親を探すが見つからない。受け入れられない現実は、数ページにわたる黒塗りの絵日記に象徴されていた。そして生きるため、その悲しい現実に鍵をかけた。

すずめは常世に足を半分突っ込んだせいなのか、自分自身の生死に無頓着なところがあった。

道中で千果(大家族)やルミ(母子家庭)とふれあいや援助に感謝する。千果は小学校の廃坑、ルミが神戸育ちであれば28年前の阪神淡路大震災の被災者で、二人は閉じた記憶があってもポジティブに生きている、という見本である。

また、草太と一緒に旅することで草太に惚れてゆく。東京では草太が要石としてミミズを抑え込んで常世に閉じ込められてしまう。その際、草太の無念を知り、できるなら自分が代わりたい、とさえ考える。ここは母親の死別の繰り返しになっている。

しかし、その後のドライブを経て、草太と一緒に生きたい、に変わる。最終的には要石の役割は草太からダイジンに戻され、草太+すずめ+ダイジン+サダイジンの協力でミミズを封じ込める事ができた。

ラストで17歳のすずめは4歳のすずめに再会し、これからの人生を人を好きになったりしながら生きられると励まし、三本足の椅子を手渡す。これにより4歳のすずめは常世から現世に戻った。この言葉は同時に17歳のすずめの未来への励ましでもある。

本作の震災映画としてのメッセージは非常にミニマルである。それは、人生辛いことがあってもそれだけじゃない。素敵な人生を歩める(大切な人たちとの交流いや恋愛がある)んだ、という未来を肯定することにある。

そして、他の2作品と比べて本作が決定的に違う点が1つある。それは、主人公が受けたストレス(悲しさ辛さ悔しさ)でお涙頂戴することなく、被災者のハンデキャップや努力を美化することなく、それらを描かないというディレクション。本当にシンプルに未来の肯定だけをする点にある。これにより、他の2作品と違って説教臭さが全くない。

ここは一般的な映画と比較するとあっさりし過ぎて、もっと攻めた演出を期待する人もいるかもしれない。しかしながら、大ヒットが約束されている大衆娯楽映画として被災者も含めた多くの観客が観る前提で、万人に受け入れられるラインがここまで、というディレクションだったのではないかと想像する。

3.11の描き方

すずめの東日本大震災の体験(2022.12.1追記)

3.11の記憶というのは人それぞれであり、被災者の中でもグラデーションの幅が大きいものだと思う。当時、私の職場は東京で、自宅は神奈川県であった。この時は日本の一大事だと思ったし、ただならぬ不安はあったがどうすることもできず、という感じだった。私には関東東北に親戚はおらず直接的な悲しみや苦痛を味わっていない。正直なところ、この一大事をどこか他人事のように見ていた部分が大きかったと思う。

実際に被災者や被災現場に居た方々の「すずめの戸締まり」の感想を動画配信やブログで拝見していると、思い出して胸が苦しくなったという感じの感想が多い。

震災描写についての解説と、その映像を見たときの感情をつぶさに綴っている良記事があったので下記にリンクを参照していただければと思う。ブログ内に、震災10年後に3.11当時を振り返ったブログ記事へのリンクもあり、非常に読み応えがある。

またこの方は、身近に死別した人は居なかったとの事だが、その日避難する際に吹雪きでメンタルが大幅に削られた事を思い出して、映画に集中できなくなったとの事。

私自身は、その日吹雪いていた事も記憶になかった。これくらい、観客の体験、記憶に依存して心の抉り量が変わる。これは、SNSで感想を漁って、はじめて実感した。

あらかじめ言っておくが、被災者の心をえぐるので震災描写はまだ早いとか言うつもりは毛頭ない。

すずめと芹澤のギャップと福島原発事故

東日本大震災とくれば、必ずセットで語らなければならない福島第一原子力発電所事故。本作では放射能という言葉も使われないし、言及もされないが、画面にはそれ関係のモノは登場する。

芹澤とすずめの「ここってこんなに綺麗だったんだな」「え?ここがきれい??」の会話は被災者以外と被災者のギャップを示す。私も含め多くの観客は芹澤と同じ被災者以外であろう。

ドライブ途中に反対車線ですれ違う汚染土壌運搬車両。延々と続く帰還困難区域のフェンス。丘の上から遠巻きに見える福島第一原子力発電所

しかし、これらは作品内では全く説明されず、知らなくても本筋の物語には全く影響しない。

説明すると、福島の汚染土壌や廃棄物は、福島第一原子力発電所の周辺の土地に中間貯蔵施設を作り、そこに貯蔵される。用地は民地の大半は買収契約済だが、一部はまだ交渉中である。福島の各地から黒い袋に詰められた汚染土が、緑色のゼッケンを付けた汚染土壌運搬車両(=トラック)で運ばれてくる。

新海誠監督は、その今の福島の日常風景を切り取り、「すずめの戸締まり」のフィルムに残した。この事が、本作の最大の震災映画としての狙いであり、功績だったのではいか、と想像している。

知らなければ何もひっかからない。知っていればその意味が分る。知らずとも気になった人がいれば、今回の私のように調べて、その事実の一端を知る。ネットで検索すれば偏ったモノも含めて色々な情報が出てくる。いずれにせよ、この施設は日本の負債を象徴するのは間違いない。

そして、本作にはこうした原発事故に対するイデオロギーは存在しない。自然災害ではなく人災とか、事故の責任の所在とか、今回の施設に対してとか、何か主義主張を押し付けることもない。ただ、フィルムに存在を残したい、という意図に思えた。それは、本作がそうしたドキュメンタリー作品ではなく、大衆娯楽作品だからだと思う。

ここから先は、私の妄想だと思ってもらいたい。

しかし、これらのアイテムを描かずに作ることは可能だと思うが、そうはしなかった事に何か無言の主張を感じる。本作のスポンサーは東宝である。妙なイデオロギーが混入すれば、国家検閲こそないが、東宝映画の作品としては、ダメ出しが出るのかもしれない。

本作が「天気の子」のように青臭い若者のギラツキ感やセンチメンタリズムを感じさせない、ある意味優等生的な物語になっている事とも符合する。平たく言えば、本作がアニメーション映画として映像的な気持ちよさに振り切る事とバーターに、震災後の今の福島の風景をフィルムに残した。そう勘ぐれなくもない気がしている。

この福島の風景こそが、本作のロック魂なのかもしれない。

ちなみに、私もこうしたニュースには無関心な方であり、私自身もイデオロギーはなく、どうこう意見があるものではない。エンタメ作品が何かを描く。その意味を考えたい、といつも考えている。

大衆娯楽映画と震災映画(2022.12.1追記)

少し話が脱線するが、最近のエンタメ作品は観客に変なストレスを与えないという潮流にある気がする。

一例をあげると、「その着せ替え人形は恋をする」のラブコメは三角関係や浮気などが全くなく、主人公カップルのエロいが健全な男女交際を描く。「スパイ×ファミリー」は本来、非情なスパイを描きながら、超能力少女のコメディ色を前面に押し出して気軽に楽しめる作風になっている。なんというか、怨念や邪念のようなモノを極力排除する傾向にあると感じている。

新海誠監督の前作「天気の子」では、穂高が世界と陽菜の二択で苦悩し、陽菜を選択する。これも主人公の葛藤であり、エスカレートすれば執念になる。しかし、本作「すずめの戸締まり」では主人公のや迷いや「念」を感じない。端的に言えば、毒が無くて、とても爽やかな。前半の超高速展開、ジブリっぽさ、女性主人公、明確な悪役の不在、そういったものを含めて行儀のよい大衆娯楽作品感がある。動きの良さ、背景美術の暖かさ綺麗さも含めて、映像の快楽で観客をグイっと引き込んでいると思う。

3.11描写に関しては観客の中の記憶に依存して感情が変わるため、私のような非被災者は、それこそ毒が全くない楽しい部分だけが残る。

本作は、震災映画として、3.11の当時に被災現場の雰囲気や、現在の福島の姿フィルムに記録した。そこに、震災で亡くなったひとの無念(負の念)を描かない。乗り越えてきた辛さも描かない。説教臭さはない。ドキュメンタリー映像のようなイデオロギーもない。静かに3.11を風景としてフィルムに落とし込んだ。

思想的なモノを描けば収集のつかない嫌悪感の押収になるだろう。東日本大震災福島第一原子力発電所事故に対しての変なメッセージを織り込まなかった事こそが、大ヒットが約束された大衆娯楽映画作品の本作としてのディレクションだったのではないかと思う。

これをもって、新海誠監督の震災映画が腑抜けているとか言う批評家もいるかもしれないが、私はそうは思わない。フィルムに残り、数年毎にTVでOAされるであろう大衆娯楽映画である本作は、その都度普段映画を観ない人の心にもリーチしていくのだろう。被災経験の有無に関わらず。そして、苦しい事があっても人間に未来は訪れるのだというメッセージを残して。

喪失と廃墟と福島原発事故(2022.12.12)

新海誠監督は「喪失」を描き続けていると言う人は多い。では、本作では「喪失」はどう扱われたのか?

廃墟=人々から忘れられた場所である。そこには建造物などが残骸として残っており、後片付けして更地にできなかった土地であり、言わば神様に返し忘れた土地である。まずはシンプルに廃墟=喪失ではないかと思う。

ただ更地にすれば神様に返却した事になるのか?というのもちょっと違う気はする。人手が入った土地というのは、林業にしろ田畑にしろ、自然に見えて人工的に整備された土地であり、人手がかかっている事で美しく感じるものである。本当に手つかずの土地というのは原生林しかなく、放置する事でそこまで戻るというのも時間がかかるものだと思うが、更地にすればいずれは自然のままに神様に返っては行くという想定であろう。

そのような廃墟に後ろ戸が出現し、そこからミミズが出てきて大地震を起こす。神道的によりストレートに言うなら、神様から借りた土地を好き勝手使って、使えなくなったからゴミ同然に放置していたら、神罰が下って災いとなる、という感じか。しかしながら、それを地震の原因としているところは、ファンタジー要素と言ってもいいのかもしれない。

更に、後ろ戸を閉じる際に、以前そこに生きていた人たちの生活の声が聞こえるという現象を描く。しかし、その声は成仏できなかった地縛霊という事でもなく、念がこもっているわけではない。朽ちてしまったその土地を憂いているわけではなく、その先朽ちる事を考えてもいなかった当時の生きる人の声である。それは、今生きている人の中にある記憶や記録と言い換えてもいいかもしれない。しかし、本作では残された人々の思いが弱くなると、災いの後ろ戸が開くという設定になっており、そこを閉じ師が担っている構造である。

この部分の設定がは非ロジカルだと考えている。当時、そこで生活していた人の声を聞く=記憶・記録が弱くなる→神罰が下る、の部分は神様視点で考えたときに何のメリットもない。ただし、これ自体はクライマックスの3.11乗り越えの作劇上の意味はあり、そのための設定かなと理解している。

ここまでを整理すると、こんな感じか。

SNSの感想で、地震という天災を人間が防げる設定だとすると、その人間のミス(もしくは人間社会のミス)という解釈となり、それは如何なものか、という感想を見かけた。個人的にはこの感想に対しては否定的で、閉じ師の一存で災難を防げるというのは思い上がりもいいところで、閉じ師の力が及ばないほどの巨大ミミズで関東大震災も起きたのだろうし、そこはやはり人間には及ばない、神様の持つ絶対領域というものがあるのだと思う。

ただ、3.11は廃墟がトリガーになっていた訳ではなく、人間が土地を使っている状態で発生した。その意味で、このフローチャートには沿わない。むしろ、3.11から12年後の今、被災地はまだ基礎のみを残して人が住まない土地(≒廃墟)になっている事、そこで生活していた人たちの声を草太とすずめが聞く事(=人間の記憶・記録に残す事)で常世のミミズの封じ込めに成功する。その意味では、ちょっとしたパラドックスになっていて、12年前の東日本大震災の抑え込みはなく、12年後の今のすずめの気持ちを鎮める戦いになっていたように思う。作劇上、ここを勢いで見せている感じがして、ちょっとした引っかかりを覚える。

しかしながら、この流れも、私は明日のすずめ、という台詞の感動を通すための流れなので、アリといえばアリだろう。この絶対的な未来の肯定は、当事者以外の台詞では説得力を持たず、本人だからこそ許されるモノであろう。

改めて、喪失を考えると、(a)存在していたものが消失した、(b)その消失を観測する者がいること、の2点があって初めて観測者に喪失が生じる。

喪失したモノと喪失を感じる者を列挙すると下記になると思う。

  • 廃墟に対する、閉じ師(本来は廃棄した人たち)
  • 3.11被災地に対する、すずめ

ただし、本作では手に入らなかった喪失をセンチメンタリズムたっぷりに感傷的に描くのではなく、喪失のその先に力強く歩みだす事をテーマに描いていたように思う。

と、ここまでは一般的な映画の解釈。しかしながら、個人的に喪失で引っかかっている点が1点残っている。それが、福島第一原子力発電所事故である。

前述の通り、事故現場周辺は、帰還困難区域として人も住めない土地となっている。中間貯蔵施設を作り汚染土壌を集積する。廃墟ではない。しかし、人が住めなくなった土地であり、神様に返却したくても返却できない土地となっている。果たして、この土地で生活していた人の声を聞き、後ろ戸を閉じる閉じ師は居るのだろうか。あくまで個人的な妄想ではあるが、その神様と人間の間のルールをも超えてしまったところに、喪失を込めているような気がしないでもない。この皮肉がフィルムに残る。それが、本作の意義のように思える。

繰り返しになるが、私自身は何のイデオロギーも持たず、この件をどうこう主張するものではない。

参考

参考までに、今回ブログ執筆にあたり、ネットで検索して読んだ情報を下記に示す。

おわりに

ちょっと、偏ったブログになったと思いますが、本作の大衆娯楽映画と3.11震災映画としての両面をみたときに、なんとなくザラついた違和感を感じて、そのことがしばらく引っかかっていて、それをまとめてみました。

書いたことで、なんとなくスッキリしたような気がします。色々と考えさせられる作品だと思いました。

すずめの戸締まり

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

いつもの長文の感想・考察です。

新海誠監督の最新作は、今までと少しテイストが変わってて、若者のギラツキ感が少な目で、多少大人びた雰囲気に感じました。

その意味で、見やすく個人的にも好印象なのですが、人によってはパンチ力不足に感じるかもしれません。

ド直球の震災映画として、他の震災映画(アニメ映画)とも少し対比しながら、メッセージについて考えていました。

また、「震災映画」という観点でもブログを書いてみたので、よければ合わせてご覧ください。

感想・考察

新海誠監督にしては、珍しく非青春映画であること

今回の作品で思ったのは、新海誠監督にしては珍しく主人公が媚びていない女性で、カップルになる異性が大学生の美青年で、なおかつ彼は大半をコミカルな椅子の姿で過ごしていた事。これは、従来の新海誠監督作品の青臭さが残る少年(青年)と美少女ヒロインの構図と逆転している。すずめがJKながらある種の勇ましさでサバサバした感じだったこと、草太が色気感じさせる美青年だった事を考えると、ジェンダーレス感がある。

昨今の映画でジェンダーレスは当たり前の潮流であり、その流れに乗っただけかもしれない。しかも、草太は大半が椅子の姿で行動していたので、恋愛要素としては薄めのディレクションと感じた。そのおかげで本作が震災という大きなテーマに対し性差なく扱いやすくしていたと感じた。

ド直球の震災映画として

本作は、ド直球で東日本大震災をテーマにしている。アニメの震災映画としては『岬のマヨイガ』や『フラ・フラダンス』があったが、これらの作品に比べて本作は被災者の悲しみを全面に押し売りする作風ではない点が違いだと感じた。その意味で説教臭くないし、鑑賞後の雰囲気は本作の方がカラッとしていたと思う。

下記の作品について、以前ブログを書いているので、良ければ読んでいただきたい。

本作の震災映画としての〆方は、死別や喪失のとてつもなく大きな悲しみ痛みがあっても、人は未来に向かって生きてゆく事ができるという事を、震災後12年後のすずめの口から過去形で言わせて、辛すぎて忘却していた12年前の悲しみの自分を受け入れる事が出来た、というもの。被災者に対する辛かったね、頑張ったね、という安全圏からの慰めではなく、当事者が乗り越えた(=乗り越えられるよ)という報告の形を取っている点が良いなと思う。

地震という自然災害をファンタジー的に視覚化したミミズの描写が面白くもエグい。後ろ戸から出てくるミミズ、それを閉じて地震を阻止する閉じ師。ミミズが大空にそびえ立ち地面に落下する前に閉じれればOKというルールが提示される。宮崎では地震が起きてしまったが、愛媛では食い止めた。物語はその後も神戸⇨東京⇨仙台とロードムービーの形をとりながら舞台を移してゆく。

この辺りのファンタージー設定を、短時間で一気に分らせる映像としての密度は高く、アニメーションならではの迫力と説得力がある。

閉じ師の必要性

閉じ師は地震を抑え込むために開いた後ろ戸を閉じて廻っているというが、なぜ、人間がそのような仕事をせねばならないのか。

劇場で配布されていた「新海誠本」によると、土地を使い始める時は地鎮祭があるのに、土地を使い終わる時には神様に依頼しない事を不自然に感じた事が着想にあるような事が記載されていた。

その意味では、土地を使い終わって返却するときのお祭りと言うこともできなくはない。

戸締りする際に聞こえる、昔そこに暮らしていた人々の声が聞こえる。それは、東日本大震災で亡くなられた人たちの事を時折思い出し、忘れずに供養してゆくための演出に思えた。だからこそ、閉じ師は人間でなければならないのだろうと想像している。そうでなければ、震災映画としての物語が成立しない、と思う。

そう思いながら「新海誠本」を読み進めていたら、仙台の常世での震災時の漁船や倒壊した家屋の再現は、最後の方で付け足した演出と記載されていて驚く。私は当然、こちらが先だと思ったので。

まぁ、制作エピソードなんて精密なドキュメンタリーである必要はなく面白おかしく改変してもいいような気もするし、どっちでもいい事ではあるが。

ダイジン=神様=子供

猫の形をしたダイジンは、神様という事だった。悪戯好きで気まぐれで、それでいて特殊な力を持っていて、人間を翻弄する。

当然ながら、人命は大切なものであり、人間社会では人命最優先と教育される。しかし、地震というのは人間の倫理観とは無関係で、人命と人間の営みを一瞬で大量に奪い去ってゆく。神様とは無慈悲な存在。その乖離の大きさゆえに、被災者は大きな悲しみや怒りや無力感で、心がバグる。俗にいうPDSTである。

ダイジンの振る舞いは、神様そのものだったと思う。人間の気持ちに合わせて振る舞うという事はなく、あくまで気まぐれで無慈悲なキャラクターである。猫の姿をしている設定は絶妙である。

最初に猫に実体化した時は、痩せ細った子猫の姿だった。すずめが食事を与えそれを食べた事で普通の太り具合の状態に変化した。その後、草太を要石として椅子に封じ込め、自分は要石としての仕事を放棄し、その場から逃げ出す。すずめの事を気に入っており、東京で草太の代わりにすずめの側に居られるようなりたがったようだが、すずめに突き放され常世の中に潜り込む。

ダイジンの体の太り具合、大きさは、神様に対する信仰心の量に異存するように思えた。神様として忘れ去られた要石が人間に優しくされたという事で、力を取り戻し、すずめに執着したように思えた。

旅の途中で、実は後ろ戸を開けていたのはダイジンではなく、ダイジンはすずめと草太を道案内していたに過ぎない事が分かる。これは、『ごんぎつね』を想像させる。人間もまた、無慈悲なのである。

本来、神様というのは人間の希望を汲み取らない存在だと思うから、ダイジンがすずめを好いてすずめのために行動したというのは、本来の神様とは違う。

しかしながら、日本では神様にお供えをして祈願してきた歴史があるので、人間と神様を繋ぐ存在であったのだと思う。

環とすずめの口喧嘩とサダイジンについて

東北に向かう途中、雨降りのため停車した道の駅で、すずめと叔母の環の口喧嘩がエスカレートするシーン。すずめは叔母の愛が重い!(意訳)と口走ってしまい、売り言葉に買い言葉で環は、あんたのせいで人生めちゃくちゃ!(意訳)と口走ってしまう。ここですずめも環も相当に凹み、環は腰が抜けたように倒れこむ。ここは不思議なシーンで、環の後ろにサダイジンが現れ環を操っていたようにも見えた。

口に出すまいと封じ込めてきた鬱憤のエネルギーが一線を越えて爆発、である。さながら地震が発生したみたいに。作劇としては、雨降って地固まるではないが、お互いに歩み寄りがあり、2人の関係はいい雰囲気に修復されてゆく。

実は、本作には感情が高まって相手を全否定しまうシーンがもう1つある。東京のミミズを草太(=要石)で後ろ戸を閉じるときに、すずめがダイジンの事を、あんたなんて大嫌い!(意訳)と言うシーンである。ダイジンはその後、しょんぼりして常世に入り込んで戸締りされる。

もともと、すずめもダイジンも親の居ないひとりぼっちの子供である。相手の心配をよそに無邪気に行動していた事で、どれだけ迷惑をかけてるのよ!と叱られたという意味で、同じ構図だったと考えることもできる。

ここからは考えすぎかも知れないが私の解釈という事で。

すずめが環にキレられた事で、ダイジンに対してどんな仕打ちをしていたか理解してしまったのではないだろうか。同時に、自分が環に対してしてきた事も。この事があるから、ラストに向かってダイジンに謝罪の気持ちが持てるし、叔母とも和解できる。

では、なぜサダイジンは環の爆発を即したのか? 結果的に環とすずめの関係は修復されるが、サダイジンは神様であり、人間関係にはあまり関心がなさそうに思う。個人的に考えているのは、ダイジンが余りに不憫だったため、すずめに同じ体験をさせて懲らしめたのかもしれない。

思えば、サダイジンは神様の大人で、ダイジンは神様の子供のようにも思える。直接の親子ではないように思うが、その関係は環とすずめのような関係なのかもしれない。

岩戸鈴芽(いわとすずめ)

すずめは4歳の時、東日本大震災で母親を失い宮崎の叔母の環の家で育てられる事になった。当時すでに母子家庭であり、父親の存在については不明。

この時、常世に入り込み、居なくなった母親を探し回るが見つからない。そして、17歳のすずめから椅子を渡され扉を出て現世に戻った。3.11から椅子を貰って現世に戻るまでの間、絵日記は黒塗りのページが続いていた。演出意図としては現実を完全にシャットアウトし拒絶していたという事だろう。母親と死別した意味さえ呑み込めず、生死の際を彷徨った。そして、生きるためにその悲しみの記憶に鍵を掛けた。

叔母との生活は、それほど荒れているようには見えなかった。ただ、互いに気を使い過ぎてぎこちない部分もあったのだろう。すずめも17歳だから高校卒業したら看護師になって自立しようとしていた節があった。自分のために、迷惑かけているという負い目の気持ちもあったのだろう。叔母には自分のために時間を使ってほしい。

すずめは少し変わり者として描かれていたと思う。普通に友達もいるが、登校中に突然回れ右して帰ったり、その後、重役登校したり、それでも友達はいつもの事みたいな感じで見ていたと思う。

ミミズを見て廃墟まで戻り草太の戸締りを手伝う。その危険に対しての躊躇の無さが普通の女子ではないと感じた。この勇敢さと表裏一体にあったのは、すずめが生死に無頓着で死を恐れていなかったから。幼少期に常世で死の淵を彷徨い、もともとあの時半分死んでいた人間だったという無自覚な感覚があったのかもしれない。自分の命に無頓着であるという事は、自分を大切にしてくれた人が死別で受ける悲しみが分らないという事である。もしくは、大勢の人の悲しみを見るくらいなら自分の命なんて粗末にしてもいいと考えているのか。いずれにせよ、それは母親と常世の記憶を封印してきた事と直結しているのだろう。

一方で、一目で草太に惹かれるという描写があり、すずめと草太の男女のロマンスも描く。もっとも、草太がすぐに椅子の姿に化けさせられるため、ビジュアル的には滑稽なやりとりである。それゆえ、恋愛ドラマは重くならない軽めのディレクションだったと思う。なぜ、草太だったのかは結局わからなかった。常世繋がりの縁なのか、たんなる面食いだったのか。

道中で千果やルミに出会い、世話になり、家族のように楽しく過ごす。千夏は大家族、ルミは母親と子供の人間関係を疑似体験する。しかし、その先々でミミズが現れ、草太と協力して後ろ戸を閉じる。東京に向かう新幹線ですずめは田舎者丸出しだった。東京で育った草太とは対照的に、すずめは地方の小さな世界にしか居なかった。旅先で彼女たち家族は、それぞれを生き、それぞれを暮らしていた。旅というのは、基本的に楽しいものである。見たことのない風景。旅先でのもてなし。旅の恥はかき捨て。草太と一緒だったとはいえ、すずめが主導の一人旅のようなものである。結果的には、早く自立したいすずめにとって、良い経験になったのかもしれない。

東京のミミズ退治は、非常に辛い結果に終わる。草太が大学生で人望が熱い事、教員になる夢があったが今年の受験を棒に振った事、まだ生きたいという未練がありながら無念にも要石になってしまった事。皮肉にも、この世に未練のないすずめは生きてしまったというのが辛い。

草太の祖父の助言により、常世に入る方法は幼少期にすずめが常世に迷い込んだ扉を探す。草太の友人の芹澤、叔母の環、すずめ、そしてダイジンの3人と一匹のドライブである。途中、道の駅でサダイジンも合流する。

宮城の住宅跡地の庭で、幼少期の絵日記を掘り起こして見る。3.11以降何ページも真っ黒に塗りつぶされた絵日記だが、めくった先に常世で受け取った椅子と母親らしき女性の絵。辛すぎて忘れていた記憶との再会。あの時、すずめは死にかけて常世を彷徨っていた。すずめは草太に惚れ無念を知るから、常世に行って自分の命に代えても草太をこの世に戻したい。

常世ではミミズが大暴れしておりサダイジンが抑え込む。要石の役割は草太→ダイジンに切り替わり、草太+すずめ+サダイジン+ダイジンでミミズを抑え込む。

この時見た東日本大震災の被害現場と、この時に聞いた被災者の声ですずめの心が引きちぎれそうになる。最後に4歳のすずめに出会い、椅子と励ましの言葉を渡す。どんな事があっても、未来を生きてゆけるよ、と。これは、4歳のすずめを励ますための言葉でもあり、17歳のすずめにとっても励ましになっている。辛い過去があっても生きられた(=生きられる)のだと。

すずめの問題の1つは自分自身を大切にしない事だったと思うが、草太と一緒に生還したことで惚れた男と一緒に生きるという楽しみとともに、自分が必要とされる人を心配かけないように、自分を大切に生きてゆくのだろうと思う。

おわりに

本作は、エンタメとしての楽しさと震災映画というメッセージをド直球で投げ込んできた作風に感じました。主人公が男子ではなく、媚びていない女子だったことも、個人的には見やすい要素だったかもしれません。

本文中では、「岬のマヨイガ」「フラ・フラダンス」に比べて、震災のメッセージが息苦しくないテイストになっている事は、大ヒットが約束されているような大作では、このあたりが落としどころだったのかもしれない、などと勘ぐってしまいました。

個人的には、文句つけるところは特になく、多くの人が楽しめるエンタメ映画だったと思います。

HP ProBook 635 Aero G8 レビュー

はじめに

ノートPCをリプレイスしたので、そのレビュー記事を残す。

正直、HPのビジネス向けのノートPCというのは地味すぎる存在なのですが、それゆえプロの道具感にあふれていて、個人的には好感が持てます。

また、HPは世界規模の大手PCメーカなので、サポート体制やツール類も充実している安心感もありあます。

ただし、HPはクセが強いと言いますか、仕様的に不満な点もいくつかありますので、個人的に気になっている点も列挙します。

本気種の選定の経緯についても書き記しますが、自己満足的な長文なので、レビューの後半に記載します。

本製品の概要

HPのビジネスノートPCの命名規則は下記ではないかと思う。名称でおおよその製品の位置付けが分るようになっている。見てのとおり、ProBook 635 Aero G8は、HPビジネスノートPCのミドルレンジのモバイル機である。

ちなみに、G8はG7のマイナーチェンジモデルである。同一筐体に毎年更新されるAMD Ryzenのアップデートを施したものと思われる。G7が発表されたのが2020年11月末。おそらく、後継機のG9は、2022年の11月末に発表されると思われる。つまり、いい意味で枯れたPCである。

開封

宅急便で送付されてきた箱と同梱品。以前、DELLLenovoのノートPCは海外から直接送付されてきたが、HPは国内生産品でなくても、東京から送付されてくる。簡単なマニュアルなどは日本語で親切ではある。いずれにせよ、シンプルな箱詰めでゴミ出ししやすい点は助かる。

本体左右の端子郡。

本体背面裏側。WindowsのライセンスシールとWWANカードのSNシールが貼ってある。カッコ悪いのでWinの方は剥がすと思う。銀色ボディにWWANの黒シールは目立つ。

液晶天板は180度弱開くので使いやすいが、全開でもやや浮いた感じになる。

ハード

デザイン・質感

  • オール金属筐体
    • きれい
    • 掃除が楽
  • とにかく地味

見た目はHPのビジネスノートPCそのもの。筐体はオール金属性である。天板と底面はマグネシウム、キーボード面はアルミニウムだと思う。

私は過去にノートPCをアルカリ電解水で拭き掃除して、せっかくのThinkPadの梨地塗装をべたべたにしてしまうという大失態を何度か起こしている。その点、本製品は金属筐体なので無水エタノールでガンガン拭ける。5年くらいは使い続けるノートPCなのでお手入れが簡単な事は重要なポイントである。

金属の美しさを生かした筐体のため、見た目の質感は高い。しかし、約1kgの軽量筐体ゆえか、MakBook Airのようなアルミ削り出し筐体のようなガチガチの硬質感はない。天板を強く押せば軽くたわむが、それは耐荷重を考慮した設計なのであろう。

ちょっと面白いのは、天板を閉じてサイドから見たときに天板とキーボード面の間に隙間ができている。それまで使っていたDELLのノートPCやThinkPadはここに隙間ができないようにキッチリ設計されていたが、この辺りは緩めの設計である。もちろん、液晶面とキーボード面の圧着を考慮した隙間なのであろうし、使い勝手には何の影響もない。気にする人は気にするかもしれないが、私は気にならないタイプである。

また、液晶天板のヒンジは、完全に閉じた状態から2cm程度はトルクなしで開閉する。別の言い方をすると、本製品の両端をもって天地を逆さまにすれば、重力で2cm程度開く。これは、片手で液晶天板を開閉できるように考慮したものであろう。実際に片手だけで開閉するのはちょっとコツが必要だが、老舗メーカーの軽量機の使い勝手のノウハウの蓄積によるものだろう。

しかしながら、こうした工業製品としての品質よりも、本製品のデザインで重要な事は、デザインが地味なところにある。

世間では、MacBook Airなどをカフェで広げてドヤ顔するという自慢行為があるようだが、このノートPCは第三者の視線を全く集めない。この気負いなく使える地味さがイイ。多くの人はこの製品の名前を正確に言い当てる事は困難であろう。道具というのは、さりげなく気負いなく使えるものがカッコいい。

重量

  • モバイル機として必要十分な軽さ
    • 本体重量は、1.060g
    • ACアダプターは、234g

個人的には、今までのノートPCが同サイズで1.2kgだったので、約1kgというのはすごく軽く感じた。すぐ軽さに慣れてしまうかもしれないが。

今時、1kg未満のノートPCも珍しくないが、バッテリー持続時間とのトレードオフの関係もあり、バランス良くまとめられていると思う。

キーボード

  • 非常に良い
  • 押し込みが軽くて、軽快に疲れずに打鍵できる
  • PageUp/PageDown/Home/Endは、Fn+矢印キー
  • キーボードバックライトは無し
  • 個人的にちょっと惜しい点…
    • スペースキーがホームポジションの真ん中になっていない(多くの日本語キーボードがそうだが)
    • 電源ボタンがキーボード右上DELETEキー左に入り込んでいる。

キーボードは本製品の美点である。

打鍵する際の押し込みの力が軽い点がいい。以前使っていたDELL Latitudeや、ThinkPadはこの点キーボードの押し込みにある程度の力が必要だった。私はできるだけ軽く入力したいので、HPのノートPCのキーボードは歓迎である。

キーボード上の文字もシールではなくプリントであるため、キートップの見た目もきれい。

ちなみに、本製品はキーボードバックライトが搭載されない。男らしく潔い。私は余計な配線や消費電力になるためキーボードバックライト不要派である。しかしながら、世間一般ではキーボードバックライトは当たり前なので、その点は注意点である。

ちょっと脱線気味の話になるが、キーボードの話をし始めると、最終的には宗教染みた話にならざるを得ない。

あまり沢山のノートPCを触ったわけではないが、個人的にはやはり、Fujitsuのキーボードの打ち心地が王者だと思う。以前、家電量販店でFMV Chromebook 14Fを少し触ってみたが、評判通り、本当に打ち心地がいい。軽く押し込めてストロークが深く底突き感なく、ストレスを感じずに軽やかにタイプできる。

それと比較すると、HPのノートPCのキーボードは、軽さはそのままに、多少ストロークが短い感じである。ただ、前述のとおり、押し込みの力が軽くすむので、疲れにくい。

ちなみに、ThinkPadのキーボードも悪くはないが、HHKBを使っていたら固く感じるようになってしまった。一緒に使っているキーボードなどで印象は変わってくるものである。

あと、ちょっとした残念な事をいくつか。

個人的にはキーボードのホームポジションに指を置いたところが入力系のセンターになって欲しい。以前使っていたDELL Latitudeはスペースキーがちょうど「V」「B」「N」の真下にくるレイアウトで丁度センターに来ていた。付け加えるなら、スライドパッドも筐体中央に位置しているため、ホームポジションからみて右側にずれている。

なぜ、DELLはスペースキーをセンターに配置できるかといえば、右Altキーを廃止しているから。しかし、HP含め多くのメーカーは右Altキーを残しているので、スペースキーがセンターから右にずれる。完全に好みの問題で、左側にずれていたところで不都合はないと思うが、指が慣れてしまったので少々違和感がある。右Altキーとか使ってますか?

また、電源ボタンがキーボード内に配置されている。コストダウンからかもしれないが、個人的にはキーボード外に専用の電源ボタンが配置されている方が使い勝手がいいと思う。ただし、これで困っているということもない。

タッチパッド

  • 使い勝手はやや使いにくい
    • 独立した左右ボタンは無し(スライドパッドの左下端、右下端を押し込むタイプ)
    • 慣性スクロールの勢いは弱め

正直、タッチパッドはあまり褒めるところはない。

タッチパッドの機能は、

  • (a) マウスポインタの移動
  • (b) 左ボタン(ダブルタップ、もしくはスライドパッド左下物理押し込み)
  • (c) 右ボタン(スライドパッド右下物理押し込み)

である。多くの場合は、(a)のみ、(b)ダブルタップのみで操作できる。しかし、ドラッグ&ドロップや、右ボタンメニューはどうしても、左右の物理押し込み操作が必要になる。

本製品はこのパッドの押し込みのストロークも大きく感触があまり良くない。世間一般的にも、左右ボタンは個別の物理ボタンの方が好まれるところである。

以前仕事で使用していたHP EliteBookも同様のスライドパッドであったが、左下押し込みのメカスイッチが馬鹿になりかけていたので、あまり酷使したくない感じである。電車内とかはともかく、本製品は結局、Bluetoothマウスを使ってポインタ操作する事になると思う。

液晶

  • 色味が悪く、白色が黄色気味に表示される!
  • それ以外は、可もなく不可もなく

通販製品の液晶パネルは賭博みたいなところはあるが、液晶については正直がっかりした。他のノートPCなどと並べると明らかに色味が黄色寄りである。具体的に言うと、デフォルトでナイトモードになっている感覚である。

もともと、アニメ鑑賞がユースケースにあり、色味問題はかなり致命的である。とはいえ、クリエイター仕事をしている訳でもなく、色味が雑でもノートPCを使う事はできる。実際、これ単品でアニメを見ていてもすぐに慣れて気にならなくなってしまうくらい、私は鈍感ではある。せっかく購入した機種なので、ここは泣く泣く我慢しながら使ってゆこうと思う。

例えば、いつも拝見しているこちらのレビューサイトでは、キッチリとこう記載されている。

緑と赤の色がやや強めに発色されていますが、色域は広めで、非光沢で、フリッカーもなく、見やすさはまずまずだと思います。

事前情報として、緑と赤が強い(=黄色が強い)という事も提示されており、色味について無頓着だった事を猛省している。広色域ばかり気にしていたのでこれでOKと思い込んでしまった。次に購入するときには自然な色味というキーワードを最重要視するだろう。

ちなみに、液晶モニタ部品の素性がきになり調べてみたところ、

  • AU Optronics [Unknown Model: AU06B8B]

となっている。AU Optronicsは台湾にあるBenQグループの液晶パネル製造会社とのこと。ちょっと気になっているのは、製造日が2018年38週となっていること。2022年10月に購入したノートPCにしては部品がいささか古い気がいないでもない。16:10画面の液晶パネルなどトレンドに乗った部品であれば、ある程度の部品の新しさは保証されるのだろうから、そういう買い方もあったかも知れない。

ちなみに、この液晶パネルがIPS方式ではなくVA方式という海外のレビュー記事を見つけたような気がしたが真偽は不明。お値打ち感ある製品だけに、何らかの妥協はあってもよいし、個人的にはVA方式であっても、それほど気にしない。

色味が黄色以外については、明るさや視野角や色域などは可もなく不可もなくという雑な感想である。

バッテリー

  • 必要十分な53WHr
  • JEITAで18.7時間(推定実時間は半分の9時間程度?)

ここは、特に文句つけるところなし。

SIM

  • (当然ながら、)IIJ(Docomo) SIM使えてます

やっぱり、モバイル機を外でも使うことを考えると、これは便利だし必須。

拡張性

メモリ

  • SO-DIMMスロット×2枚

購入したのは、16GB×1枚。32GBのメモリを購入して48GBにしてみる予定。

メモリ64GBは男のロマン

SSD

  • M.2スロット×1枚

多くのノートPC同様に、SSDの交換は可能。購入したのは、512GBだが、とりあえず容量はこれで十分なので換装の予定はない。

ソフト

  • myhP
      • HP Programablr Key ……F12キーランチャー設定
        • キー設定は、F12、Shift+F12、Ctrl+F12、Alt+F12の4種類
      • 搭載アプリケーション
        • HP Quick Drop ……スマホなどの各種デバイスとのファイル共有
        • HP Audio Controls ……各種オーディオ設定
  • HP Support Assitant
      • 「デバイスの状態」の確認、「修正と診断」、「サポート」の総合窓口
        • 最新ドライバの更新
        • サポートデスクへのチャット、電話の窓口
    • HPのアカウントを登録する(しなくてもゲストで使える)
  • HP Wolf Security
      • セキュリティ関連のユティリティ

サービス

なんか、調子悪くて、ブラウザ上で製品特定させても、その次の操作でBad Requestになったりして動作不安定。どちらかと言えば、HP Support Assistantアプリの方が安定しているので、Webサイトには頼らなくてもいいかも。

また、マニュアルのURLも探そうとしたが、先のBad Requestでたどり着けてない。別途、安定したころを見計らって、再度記載を見直す。

個人的に気になっている点

他社製USB-C ACアダプターに警告メッセージ

他社製のUSB-C ACアダプターから給電すると、毎回下記の警告メッセージを表示します。毎回なので正直鬱陶しい。

ちなみに、DELLLenovoのPCでは見かけたことはないし、古いHP EliteBookでもこのメッセージは表示されていなかった。

パススルー給電式USB-Cモバイルモニタに対し給電しない

パススルー給電式のUSB-Cモバイルモニタに直接つないでも、モバイルモニタに給電されずモニタを認識できない。DELLLenovoのノートPCでは普通にモニタ識別できていた。この現象はHPのEliteBookでも経験しており、HPノートPC独自仕様なのではないかと思う。

ちなみに、モバイルモニタ側からパススルー給電する際は、普通にモニタを認識する。

本現象を回避するために、毎回下記の手順でモバイルモニタを接続している。なんらかの目的・意図があっての仕様だろうが、使い勝手が悪すぎるため、正直改善して欲しい。

  • (1) モニタにACアダプターで給電

  • (2) ACアダプターを外す(しばらくはデバイス起動している)

  • (3) PCと接続するとモニタ認識し給電をはじめる

トラブル

サスペンド後の挙動がおかしく、BluetoothWiFiが繋がらなくなる

  • 現象
    • スリープ復帰(?)すると、WiFi,Bluetoothが繋がらなくなる
    • スリープ復帰(?)すると、指紋認証ができなくなる

現象については、もう少し挙動を調査中だが、そのうちサービスに再問い合わせ予定。

本件が解決したら、解決法補を追記します。解決方法ご存じの方がいれば、ご教示いただければ幸いです。

総評

  • pros
    • 適度に小型軽量なモバイルPC
    • 良キーボード
    • LTE対応
    • 拡張性(主にSO-DIMMメモリスロット)
    • コスパ
  • cons
    • 液晶の色味が黄色寄り!
    • タッチパッドは独立した左右ボタン無し
    • 受注生産だったため、納品まで2か月かかったこと

購入までの経緯

リプレイスのきっかけ

2017年に購入した、DELL Latiude 7380 のリプレイスのためのノートPCを探していた。リプレイスの理由を下記に示す。

  • DELL Latitude 7380 自体の問題点・不満
    • TMP2.0故障(2年前からBIOSで認識されていない)
    • キーボードの好みが合わなくなった
    • バッテーリー劣化
    • 5年経った
  • 外部要因
    • 2022年は、Intel第12世代Coreプロセッサの著しい性能向上(=買い替え好機)

2022年は、AMD Ryzenプロセッサや、Apple M1プロセッサに遅れ気味だったIntelが、第12世代Coreプロセッサでかなりのテコ入れを施してパフォーマンスの向上と省電力ででIntelが巻き返しを図りかなりのテコ入れがされた。そのため、PCのリプレイスには良いタイミングだと考えた。

ただし、円安ショックにより輸入品が高騰し、魅力的だったM1 MacBook Aiのコスパが、新製品のM2 MacBook Airでリセットされてしまうという事もあった。

TPM2.0の故障は、保証期間3年を経過した直後に発生した。PC起動時にエラーメッセージが表示されF1キーを推すことで起動を継続す。F1キーさえ押せば使えはするが、面倒ではある。

キーボードの好みの問題は複雑である。もともと、キーボードには好印象を持っていた。しかし、2021年2月にHHKB Professional HYBRID Type-S 日本語配列を購入して使い始めると、DELLのキーボードのタイプに違和感を覚えるようになった。HHKBのキーの押し込みが軽くてすむため、DELLのキーの押し込み時に相対的により力をかける必要がある事、また、ストローク感も底づきが浅い事、が原因だと思う。なんとなく、弱い打鍵でゆったりしたストロークを持ってパンチしたい、という風に好みが変わった。この点に関しては、一般的に言われるように富士通のキーボードの打ち心地のレベルは高い(ただし高価)。

5年経ってもブレないニーズ

ノートPCに対するニーズやユースケーズについては、この5年間で変化はない。

  • 電車内や喫茶店でブログ用のテキスト入力や動画再生やTwitterする
  • ストレスなく入力できるキーボード
  • LTE接続
  • バッテリー駆動時間は実時間で8時間以上
    • バッテリーだけで1日使い続けられる
  • 画面はFHD(1920x1080)以上必須、高色域が望ましい
  • サイズは横幅30cm程度(13インチクラス)

逆に不必要なのが、

  • 過度なパフォーマンス

くらいか。

実際のところ、コロナ禍を経て、私自身が在宅勤務中心の生活になったため移動する日はかなり減った。それでも、移動中の電車内で考え事をしながらテキスト入力する時間はある。新しいユースケースはないので、従来通りの使い勝手が確保できればそれで良い。13インチクラスというのが、おおよそ横幅30cm程度となり、キーボードのサイズとしてもストレスなく入力できるサイズ感だと考えている。

ちなみに、私はタブレットを所有していない。外出中はスマホとモバイルノートPCですべて済まるスタイルである。なんとなくペン入力デバイスへの憧れはあるが、そこは諦めている。

2022年はOLEDを採用したノートPCが各社からリリースされた。高色域、高コントラストに憧れるものの、画面焼き付きのリスクや消費電力が液晶に比べ大きいなどの問題もあり、現時点では手を出す気にはならない。また、画面は非光沢が望ましいという事もある。

LTE接続は必須だが、LTE接続はビジネス機のみというメーカーが多く、対応機種はかなり制限される。スマホテザリングでもいいのでは?と思う人も多いと思うが、経験上、スマホのバッテリー切れを発生させているので、やはりノートPC本体にSIMカードを刺せる方が個人的に安心できる。

候補探し

2022年8月にザっと候補を色々物色していたが、ザっとこんな感じか。

この中にはニーズから外れているモノもあるが、物色しているとあれやこれや夢を見る事は、誰にでもあろう。インデントが一段下げているモノは、そのメーカーの中での2番手3番手候補になる。各機種、どこか光るポイントはあるが、詳細説明は省く。

この中では、王道とも言えるThinkPad X13がハードウェア的な先進度、高過ぎない価格、安心感という意味で本命として考えていた。しかし、つまらない事にBTOLTEオプションが選択できないという状況が続いていた。

もともと、私自身はThinkPad大好き人間であった。ただし、5年前にDELLを購入したのは、Lenovoスパイウェア事件があり不買運動を決め込んでいたからである。ちなみに、ThinkPad自体にスパイウェアのプレインストールがあったわけではないが、不買運動とはメーカーの姿勢を問うものであるから、ThinkPadのハードウェア自体の信頼感とは別の話である。

そんな中で、色々とレビュー記事を漁ってゆくうちに、HP ProBook 635がSO-DIMM 2スロットである事が分かる。つまり、メモリ64GBに増設可能な貴重な選択肢である。

ProBookはHPのビジネスノートPCのミドルレンジを担う。高価過ぎず安過ぎず、派手さはなく質実剛健。そんな中での本製品の美点は、良キーボード、バッテリーと質量のバランスの良さ、アルミとマグネシウムで囲まれた筐体のしっかり感。ぶっちゃけ地味だが、それがまた個人的な好みに合っている。

HPのノートPCは、HP EliteBook 830 G5というのを仕事で使っているが、キーボードの感触が独特で、キーの押し込みが軽いのが好印象である。

Ryzenプロセッサなのでメモリはデュアルチャンネルの方がビデオ性能が高まるが、本製品は片方を開きスロットにしている。メモリ増設は許されており、やろうと思えば64GBも出来る。そう考えるとベースモデルを易く購入してメモリ増設したらいいんじゃねぇ、という気持ちになった。気持ちは固まってきたが、とりあえず購入して増設、換装せずに使える、メモリ16GB、SSD512GBモデルをターゲットにする事とした。

現行機との比較調査

製品発表後、4か月経過しているため、レビュー記事も充実しており参考になる。下記にレビュー記事のリンクを列挙する。The比較さんのレビュー記事はいつも充実していて頼もしい。

メモリ8GB、ストレージ256GBにすればLTEモデルでも約10万円で購入できるが、SSDを換装はOSリカバリーなどひと手間かかるため、そのままでも使えるスペックのモデルにした。いずれは、メモリ64GBはやってみたい。

上記の構成詳細と見積価格を下記に示す。

また、現行機と候補機のスペックの比較を下記に示す。

No. 項目 現行機 候補機 備考
1 名称 DELL Latitude 7380 HP Probook 635 Aero G8
2 サイズ 304.8x207.9x17.3mm 307.6x204.5x17.9mm
3 重量 1.17kg 1.05kg HPはレビュー記事
によると1.08kg
4 CPU Intel Core i5 7300U AMD Ryzen 5600U
5 メモリ DDR4-2133
8GB
DDR4-3200
16GB
HPは16GB×1本
(空きスロット×1)
6 ストレージ M.2 PCIe NVMe
SSD 256GB
M.2 PCIe NVMe
SSD 512GB
7 WWAN 4G LTE 4G LTE
8 画面 13,3インチ 非光沢
1920x1080ピクセル
13.3インチ 非光沢
1920x1080ピクセル
DELLはIPS液晶
HPはVA液晶
9 キーボード - - HPのPgUp/PgDown/
Home/EndはFn同時押し
10 タッチパッド - - HPは左右ボタン無し
11 保証 3年 1年
12 価格 140,814 円 124,000円 送料税込み
13 注文日 2017年10月27日 2022年8月26日

こうしてみると、驚くほど似ている。乗り換えても違和感はなさそうに思う。

ノートPCの液晶だが、時代は16:9から16:10に移り変わりつつあるが、候補機は16:9のままである。液晶も縦長でない分、ノートPCの縦も短くて済み、現行機とほぼ同じサイズ感となる。

ちなみに、CPUのTDPも似通っている。

No. 項目 現行機 候補機 備考
1 CPU Intl Core i5 7300U AMD Ryzen 5600U
2 TDP 15W 15W
3 cTDP 7.5W-25W 10-25W コンフィグラブルTDP

気になっているのが、放熱設計。レビュー記事を読むと、フルロードでCPU温度が100°C近くまで上昇している。The比較さんのレビュー記事では、「放熱性能は高くないので、あまり高い負荷はかけないほうがいいと思います。」とある。ググった感じ、一般的にCPUの適正温度は80°C以下。ちなみに、ThinkPad X13では、75°Cくらいに抑えられているとの事。CPU温度が高いと熱暴走のリスクがあるが、かつてMacBook Proを熱暴走させ、基板交換した経験があるので、熱にはトラウマがある。とは言え、今時のノートPCで、VS CodeやFHD動作再生程度で負荷はかからないと思いたい。

この時点で、候補機に対するメリット・デメリットを整理するとこんな感じか。

  • pros
    • 後付けで、メモリ64GB増設可能(のワクワク感)
    • 良キーボードの期待感
    • 今まで通りのサイズ感
    • 地味で目立たない感
    • ボディ表面が非しっとり塗装(使い込んでベタ付かずに済む)
  • cons
    • 高熱がちょっと心配かも(高負荷をかけるつもりはないが…)
    • 液晶画面は、性能低下するかも
    • タッチパッドに専用ボタンが無いのは、若干使いにくいかも

とりあえず、こんな感じで注文を決心する。

注文から納品まで

注文する前から、納品予定日が「欠品のため納品にはお時間をいただいております」となっていたことから覚悟はしていたが、注文が受け付けられても、納期の通知はなかなか来ない。

途中、注文キャンセルしてThinkPadを注文しようと何度考えた事か。

結局、8月26日注文し、10月25日に納期連絡メールを受信し、10月29日納期となった。待ちに待った2ヶ月であるが、注文生産であればこの程度待たされる事は目安として認識しておきたい。

ちなみに、2022年11月3日時点で確認したところ、本製品のWeb販売ページには「完売御礼」となっており注文が終了していた。

なお、本製品の後継機種は、G9(=第9世代)となって2022年11月末に製品発表されるものと予想している。このレビュー記事を公開してから、間もなく発表となるという意味では、全く持ってタイムリーではなくなってしまった。

おわりに

個人的には、液晶モニタの色味が黄色寄りなのが気になりますが、画像や映像をシビアにみる仕事でなければ、想定通りの使いやすいノートPCだと思いました。

何よりも、枯れた技術なのが安心できます。

現時点でトラブルもありますが、悩みに悩んで選択した機種であり、愛着もって使い込んでいこうと思います。